智葉が京太郎を呼び出したのは、三橋大学近くの喫茶店だった。人目に付きにくい奥の席で、智葉はまだかまだかと彼を待つ。
ウェイトレスに通されて現れた彼の姿を認めた瞬間、口元が綻びそうになる。だが、智葉は強い意志でそれを抑え付けた。余計な隙を見せる必要はない。
「こ、こんにちは」
「ああ。今日はいきなり呼びつけてすまなかったな。まあ座れ」
「失礼、します」
当然と言うべきか、彼の表情は緊張で強張っている。申し訳ないという気持ちはあったが、それだけでは衝動を止められなかった。
「奢りだ、好きなものを注文してくれ」
「け、結構です」
「遠慮するな。足代と思ってくれれば良い」
しかし固辞されてしまう。む、と智葉は僅かに顔を歪めた。
「何か勘違いしているようだが、私は別にお前を責めるために呼び出したわけじゃない」
その言葉でも、京太郎は臨戦態勢を解かない。ここではいそうですかと頷かないのは評価できるが、事実、例の件で智葉に彼を咎めるつもりなどなかった。
そう――麻雀仮面の件で、だ。
「麻雀仮面の正体が園城寺怜、だとしてもだ」
「……なんのことだか――」
「今更しらばっくれる必要はないし、意味もない」
京太郎の退路を、智葉は一刀両断にする。
「疑惑の目で見れば気付く者は出てくる。四月はかなり暴れ回ったらしいからな。事実、直接対局していない私でも牌譜だけで察しが付いた。勘付く者が現れれば、追求する者も出てこよう。そうなったとき、果たして庇いきれるかな」
ただの辻試合で収めるには、麻雀仮面は活躍しすぎた。下手をすれば、逆恨みを買っている可能性すらある。そこまで考慮していなかったのだろうが、いずれにせよ立場の弱い東帝大学は僅かな瑕疵も許したくないはずだ。
智葉の煽り立てるような言葉に、しかし京太郎は居住まいを正し、真っ直ぐ智葉の瞳を射貫いて言った。それまでの軟弱な物腰が嘘のように、毅然とした態度だった。
「脅迫には屈しません」
目に宿る強く真剣な輝きは、大変智葉の好みだった。
「見下げるな。そんなつもりはない」
「……では、どういうつもりですか」
「麻雀仮面を探ろうとする動きは、私が潰してやる」
この流れから出てきた一言は、完全に予想外だったのだろう。京太郎は目を見開いた。
「ほ、本当ですか」
「ああ。私の力が及ぶ範囲でなら、な。うちの麻雀部も麻雀仮面に手酷くやられて追いかけている連中がいる。他の大学とも連携をとっているらしいが、まずはそのあたりから口利きしていこう。お前には一つ借りがあるからな」
自慢ではないが、麻雀のことに関わらず東京という地での智葉の影響力は強い。完全に根絶できるかまでは保証できかねるが、今の活動を抑え込むには充分だ。
一転、京太郎が頭をがばりと下げる。
「ありがとうございますっ、良かった、安心しました」
「そんな安い脅迫をする人間に見えたか?」
「誰にも言わずに来いって言われたら身構えもします」
「ちょっとした冗談だよ」
コーヒーを一口含み、一拍の間を置いてから、智葉は言った。
「――ただ、な」
「なんですか?」
「私も今、ちょっとした困り事を抱えているんだ。一人では中々解決できない問題でな」
誘うような物言いに。
京太郎は、智葉が頼むよりも早く笑顔で答えていた。
「俺で良ければ力になりますよ! お世話になるのはこっちも同じですから、何でも言って下さい!」
安心によって一度解けた警戒心は、反転してそのまま大きな信頼となっていた。その隙を、智葉が見逃すわけがなかった。
「そうか、そう言って貰えると助かる」
「で、困り事って何ですか? 俺、何をやれば?」
「やるというより、なってくれ、だな」
「は?」
智葉は、京太郎の手をがっしり掴む。京太郎の困惑が、手からそのまま伝わってくるようだった。しかし彼女は構わず告げた。
「今日からお前は私の恋人だ」
辻垣内智葉、生まれて初めての愛の告白は、相手に一切の口答えを許さなかった。
◇
望まぬ婚約を回避するための、恋人役。一度祖父に会って誤魔化すだけで良い。ただし、やるからには本気で、偽物ではなく「本物の恋人として」振る舞うこと。そうでなければ目聡い祖父には見抜かれてしまう。
背景に麻雀仮面の件をちらつかせながら、智葉は京太郎にその約束を取り付けた。彼に選択の余地はなかった。
「良い部屋じゃないか」
その日の夕方、智葉が押しかけたのは京太郎の部屋。男子の部屋はもっと雑然としているものと思っていたが、存外整理が行き届いていた。
「綺麗好きなのか」
「ま、まぁお客さんがよく来ますから」
堂々とリビングのテーブル傍に腰掛ける智葉とは対照的に、家主のほうがそわそわしていた。自分でいれたお茶にも手を付けず、たびたび時計を気にしていた。
「隣の園城寺が気になるのか? 今は出かけているんだろう?」
「でも、いつ戻ってくるかも知れませんし……」
「まるで浮気がばれるのを恐れている亭主みたいだな」
智葉はからかうように笑う。
「私のほうが正妻のはずだが」
「せ、正妻って何言ってるんですか」
「今、恋人はいない。そう言ったのはお前だろう」
下から覗き込むように、智葉は京太郎の顔を見上げる。気まずそうに、京太郎は顔を背けた。
「で、今日は何の用なんですか」
「恋人の家を訪ねるのに理由が必要なのか」
「必要です!」
半ばやけっぱちのように京太郎は叫ぶ。
「あんまりからかわないでくださいっ。あくまで智葉さんの婚約を回避するための恋人役でしょうっ?」
「つれないことを言うな。そうは言っても、恋人は恋人だ。……とは言っても、もちろん用事はあるがな」
智葉は鞄からクリアファイルを取り出す。中に入っていたのは、一組のレジュメ。怪訝に眉を潜める京太郎の胸元に、それを突き付けた。
「……なんですか、これ?」
「私の趣味嗜好をまとめたものだ。覚えておけ」
「ええー」
「ええー、じゃない。恋人なんだ、このくらいは知っておいて貰わねば困る。祖父に会ったときにぼろが出るぞ」
「ああもう、分かりました、分かりましたよ」
有無を言わさない智葉の態度に、京太郎は半ば投げ槍に受け入れる。若干不満は残ったが、ひとまず智葉は満足する。――自分のことを、彼に知って貰う。中々に心地よい響きだった。
「さて、次はお前の話だな」
「俺の話って、何ですか」
「私もお前のことをまだまだよく知らない。聞かせてくれ」
「質問が曖昧すぎます」
「そうだな。じゃあ、なぜ東帝に進学した?」
京太郎は、すぐには答えなかった。問うた智葉も、自分で気付かない内に声色が真剣なものになっていた。ぴりっと、室内に緊張が走る。
「……その、なんだ。うちの大学からも推薦が来ていたんだろう。麻雀をやるなら、うちの環境のほうが良いと思うんだが」
誤魔化すように、智葉は重ねて訊ねる。すぐに後悔した。こんな、東帝大学を貶めるような発言をするつもりはなかった。
京太郎は一度目を伏せてから、言った。
「自分のためです」
「しかし――」
「俺にとっては、東帝が最高の環境なんです」
自然に笑う京太郎に、智葉はそれ以上言い募れなかった。その一言に込められた想いは、問い詰めるまでもなく重かった。簡単には立ち入ってはいけない何かがあった。
「智葉さん、晩ご飯の予定はありますか」
その質問は唐突であったが、微妙になった空気を入れ換えるには丁度良かった。
「あ、ああ、いや、特には。家に帰って適当に食べるつもりだった」
「どうせです、うちで食べてって下さい。いつも怜さんがいるから二人分用意しているのが癖になってるんで」
「分かった。頼む」
ここは自分が作ると言ったほうが良いのではないか、と自問する声もあったが、言い出せなかった。
――なるほど。
以前戯れで読んだ少女漫画に書いていた、「胸がときめく」という表現がこれか。一人納得しながら、智葉は京太郎の料理をわくわくと心待ちにする。
昨今は料理上手な男子が増えていると智葉は聞いていたが、京太郎もその例に漏れなかった。聞けば高校時代、友人の執事に色々教えて貰ったという。
「すっかりご馳走になってしまったな」
二人で食器を洗いながら、満足気に智葉は言った。二人でシンクの前に立つと手狭でどうしても肩が触れ合ってしまうが、気にしなかった。少なくとも、智葉は。
「いえ、食べて貰うのは好きなんで」
「なら、またお邪魔しても良いか」
「……怜さんがいないときで、お願いします」
「本当に浮気みたいな会話だな」
「う……い、いや、怜さんとも友達ですし……じゃなくて、そういう問題でもなく」
罪悪感を覚えているのか、京太郎はしどろもどろになる。そんな彼に向かって、智葉は直球で訊ねた。
「好いた女が他にいるのか」
「い、いません。……たぶん」
「どうして自信がないんだ」
「最近は、あんまりそういうこと気にせず突っ走ってきましたから」
「ふぅん。まあ良い」
蛇口を閉めて、智葉は手ぬぐいで手から水気を落とす。手ぬぐいを受け取ろうとする京太郎だったが、智葉はそのまま彼の手を抱き包むようにして拭いてやった。
「明日はどこに行こうか」
「え、明日ですかっ? 俺、練習があるんですけどっ」
「少しくらいなら時間を作れるだろう。映画でも見に行くか。まさか付き合い始めたばかりの恋人を蔑ろにする男ではないよな」
「ああもう、分かりましたよ」
「ふふ」
智葉は微笑む。この調子なら、しばらくこの戦術は通じそうだ。
「駅まで送っていきましょうか」
「そこまでやれば園城寺とばったり、という可能性もあるだろう。気にしなくても良い」
玄関先で靴を履き終え、智葉はくるりと京太郎に向かって振り返る。
「しかし、あれだな」
「なんですか」
「若い男女が部屋で二人きりなんだから、押し倒されるくらいは覚悟していたんだが」
「やりませんよっ! あんまりからかわないでもらえますか!」
「卓上ではあれだけ勇ましいのに、しょうがない奴だな」
やれやれ、と肩をすくめてから。
智葉は身を乗り出して、京太郎の口元に口付けた。
「ッ? さ、さささ智葉さんっ? ちょ、ええええっ」
「お前から言わせれば偽りだろうが、何事も本気でやらなければ人は騙せん。これもその一環だ。心に留めておけ」
なおも戸惑い続ける京太郎を玄関に残して、智葉はさっさと部屋を出て行った。階段を降りて、マンションの外に出る。
自然と、早足になっていた。
衝動に任せるまま、やってしまった。
電車に乗り込み、智葉はぼうっとする。後悔はしていない。していないが、普段の冷静さがいつの間にかどこかに消えていた。高校時代のチームメイトに見られたら、間違いなく驚かれてしまう有様だ。
しかしながら。
窓に映る自分の顔はほんのり赤く、それもまた悪くないと智葉は思っていた。
◇
二人のデートは、それからしっかり重ねられていった。僅かな期間で、逢瀬は幾度となく繰り返された。
集合地点で揃えば、まず智葉が手を出す。京太郎が、その手に自らの手を重ねる。特に取り決めたわけでもないが、そうするルールになっていた。
これまで自覚はなかったが、智葉は触れ合うのが好きだと気付かされた。高校でもチームメイトのネリーが何かとくっついてきたが、そのときも悪い気はしなかった。京太郎の腕を絡め取るのに、全くの抵抗がないわけではなかったが、多幸感を前にすれば些末な問題だった。
智葉の祖父の前で恋人らしく振る舞うために、練習する。
この名目は、かなり有効だった。初めは智葉の手をとることに躊躇いを覚えていた京太郎だったが、今ではすぐさま応じてくれるようになった。智葉に対しての遠慮や距離感も徐々に失せているのも明白で、
「智葉さん、次あそこの水族館行きませんか?」
「ああ、それも良いな。動物園はこの間行ったしな」
目的地の提案までしてくれるようになった。その後に、「はっ」と自分の言動に気付いて後悔しているようだったが、智葉はさして気にしなかった。
園城寺怜や他の部員がいない時間を見計らって、彼の部屋にも度々遊びに行った。隙を見つけては、唇を重ねようとした。彼としては智葉が来た後はその痕跡を消すのが大変だったようだが、智葉は攻め続けた。
確かな手応えは感じていたのだ。
しかし、この状況があまり長く続くとまずいと考えたのだろう、ある日京太郎は智葉に進言してきた。
「そろそろお祖父さんに挨拶して、一区切りつけたいんですが」
「む」
やはり東帝の麻雀部を裏切れないという気持ちが強いのか。
急きすぎたか、と智葉はやや悔やんだ。この楽しい時間が終わるのは、好ましくない。だが、強く断る理由もなかった。それに上手く行けば、逆に退路を断てる好機でもある。
実際、祖父はいたく京太郎を気に入った。
そこまでは良かった。智葉の目論見通りであったと言って良い。
けれども、そこで介入してきた人物が二人。結局のところ、智葉は彼女たち二人に勝てなかった。全くもって、侮れない連中だった。
ただ、最後に一言だけ、大事な言葉はかけておいた。冗談まじりでからかったことも多々あるが、それだけは智葉の偽らざる気持ちであった。彼がどのように受け取るかは知らないし、本当に自分が正しいのかなんて保証はどこにもなかったが、言わずにはいられなかった。
「ただいま」
ひとまず最後のデート――最後にするつもりはなかったが――を終え、智葉は帰宅する。このところ京太郎の家や大学で晩ご飯を食べることが多かったため、久しぶりに家族で食卓についた。
「智葉、貴女、お義父さんに恋人を紹介したんですって?」
母親からの質問に、智葉は眉一つ動かさずに答えた。
「耳が早い」
「もしかして、婚約のことを気にして無理矢理恋人を作ったんじゃないでしょうね」
「まさか、そんなわけがないだろう」
智葉はとぼける。もっとも、ふられてしまった後ではあるのだが。
母親は盛大に溜息を吐いてから、言った。
「お義父さんの言う婚約者なんて、毎度毎度適当に言ってるだけじゃない。実際に連れてきて紹介した試しなんてないんだから。貴女だってそのことくらい分かってるでしょう?」
「そうだったのか。いやいや、全く分からなかった」
智葉は笑みを零しながら、口元を拭う。
お腹一杯にはなったが。
もう一度、彼の料理を食べたい気分だった。
◇
その日、一本のニュースが麻雀界を駆け巡った。
当然この業界に身を置く者として、智葉もそのニュースに触れることとなった。
「全く、須賀くんは……」
隣でパソコンの画面を見つめながら、和が盛大に溜息を吐く。
「何をやってるんだか、心配になります」
「そうか?」
スマートフォンで同じ内容を確認しながら、智葉は口角を釣り上げた。
「そんなところも愛らしい奴だと思うが」
「……辻垣内先輩と須賀くんって、お知り合いでしたっけ?」
「言っていなかったか」
「聞いていません。どんな関係なんですか?」
「そうだな」
智葉は指を一本立て、悪戯っぽく答えた。そう、以前読んだ少女漫画に則って答えるなら、こうだ。
「元カノだ」