年の瀬も迫る十二月、末原恭子はすっかり馴染みになったスーパーマーケットを訪れていた。大抵は一人で食材を吟味するところであるが、今日はお供を伴っている。
東帝大学麻雀部の後輩、花田煌と渋谷尭深の二人だ。
彼女たちはカートを押しながら、恭子の三歩先を歩いて行く。今夜は麻雀部の忘年会で、鍋パーティの予定である。
ああでもないこうでもないと議論する煌たちの背中を見つめながら、恭子は微笑みを浮かべた。特に心配していた尭深の様子も、すっかり以前と同じに戻っている。もっともそれは煌の活躍があってのことだろうが――とにかくとして、一安心だ。
今月から始まった関東女子二部リーグは、既に前半戦を終えている。現在の東帝のランキングは三位。入れ替え戦を狙える位置にあり、ハイレベルと言える二部リーグでそれなりの成績と言えよう。
――逆に言えば、「それなり」止まりやった。
恭子は胸の内で、独りごちた。
今の東帝の戦力ならば、ダントツとまではいかなくとも前半戦一位は充分に狙えただろう。それが恭子の見立てであった。だが、現実はそううまくいかなかった。
部員各々が、十全に力を発揮できなかったのだ。
原因は――はっきりしている。少なくとも、恭子の中では。そっと目を閉じれば、彼の影がちらついた。
「恭子先輩」
突然声をかけられ、恭子ははっと顔を上げる。煌が不思議そうにこちらを覗き込んでいた。思わず後退ってしまう。
「ど、どうしたん?」
「お酒はどうします? 怜さんの好みは一番恭子先輩が詳しいですよね」
「あ、あー、うん。チューハイでも買ってったらええやろ。ビール苦手言うてたし」
「了解しました!」
敬礼してから、煌は俊敏に酒類コーナーへ駆けて行く。――彼女がいてくれて良かった。心の底から恭子はそう思う。僅かに溜息が漏れそうになり、しかし慌てて恭子はそれを飲み込んだ。今度は尭深が、じっと恭子を見つめていた。
「どうしたん、尭深ちゃん」
「いえ……」
一度尭深は頭を振って、煌の後を追う素振りを見せた。けれどもその足はすぐに止まった。彼女は視線をあちこちに彷徨わせてから、再び恭子と向かい合う。
「あの」
そうしてようやく、おずおずと言った様子で切り出してきた。
「大丈夫、ですか?」
「え? な、なんのことや」
「私が偉そうに言えた話でもないですけど……末原先輩、ここのところずっと気を張っていましたから」
「――……」
一瞬、上手く言葉が出てこなかった。嬉しさ半分、恥ずかしさ半分と言ったところか。いや、後輩に心配されているようではまだまだだろう――恭子は片目を伏せ、小さく息を吐いた。
「心配あらへん。うちはいつものとおりや」
「そう……ですか?」
「そうや。それでも心配っちゅうなら、リーグ後半戦もっと頑張ってもらわなあかんな。うちを安心させて、尭深ちゃん」
じっと、恭子は眼鏡の奥の瞳を覗き込む。そこには、小さくとも確かに点る火があった。
「――はい」
尭深は力強く頷いて、今度こそ煌の後を追っていく。恭子はしばらくその場に留まって、二人の姿を遠巻きに眺めていた。
◇
買い出しに出かけた三人の帰りを待ちながら、宥は忘年会の準備を進めていた。と言っても食材がなければどうすることもできず、調理器具を取り出した後は折り紙で輪飾りを作り続けていた。
「なぁなぁ、宥さん」
「どうしたの?」
もう一人のお留守番組である園城寺怜に声をかけられ、宥は手を止める。その手を愛用のこたつの中に入れたい衝動に駆られたが、それをしたら最後二度と抜け出せなくなるのは分かっていた。
「宥さんは、いつまでサンタクロースの存在信じとった?」
「サンタさん?」
「そ。もうクリスマスも過ぎてしもて、古い話題やけどな」
クリスマスというワードを自分で出しておきながら、怜は不服げな様子だ。そんな彼女に苦笑を浮かべながら、宥はおっとりと答える。
「えっと、小学校の三年生くらいだったかな。それまでは正体がお父さんだって、全然気付かなかったなあ。でも、それがどうかしたの?」
「ん……別に大した話やないんやけど」
自嘲を含んだ笑みを浮かべ、怜はゆっくりと口を開いた。
「私って子供の頃から病弱やったから、欲しいもんねだったら親はすぐに買い与えてくれたんや。クリスマスプレゼントとか関係なしに。だから、うちにはそもそもサンタクロースっちゅう概念がなかったんや。もちろん不自由せんようにしてくれた親には感謝しとる」
そやけど、と怜は一つ間を置いた。宥は、しっかりと耳を傾けていた。
「みんなが目を輝かせて話すサンタクロースにちょっと憧れとった。欲しいものを届けてくれる、夢のような存在に。そういうん、信じたかったなって。酷いないものねだりなんは分かっとるけど」
――それでも、信じたかった。
怜は、小さく呟き。
宥は、優しく笑ってこくりと頷く。
「信じたかった、だけじゃないよね」
「え?」
「怜ちゃんは、今、サンタさんを信じたいんだね」
一瞬の沈黙。帰ってきたのは、肯定だった。
「……夢って、分かっとるのにな。バカみたいや」
「そうかも」
宥が同意したのが意外だったのか、はっと怜は手元に落としていた視線を宥に向ける。その目を受けて、宥は一層微笑みを深くした。
「でも、私も同じ気持ちかな」
「……そっか。それなら宥さんも、おバカさんの仲間入りやな」
「うん、そう。私たち、仲間だよ」
二人はくすくすと笑い合う。買い出し組が帰ってきても、仕事は止まったままだった。
◇
騒ぎに騒いで、飲みに飲み、鍋の中身を空にして。
こたつと一体化し、宥はすうすうと寝息を立てていた。風邪を引きますよ、と肩を揺すっても起きる気配は一向にない。諦めるほかなく、煌もまたこたつのなかに冷えた手足を突っ込んだ。包む熱気が心地よい。
家主はこの通り撃沈状態、恭子と怜は夜風に当たると言って下のコンビニに出かけてしまった。実質的に、煌は同期の尭深と二人きりの状況だ。その尭深も、未だアルコールをちびちびと飲み続けている。目の焦点が微妙に合っておらず、こちらも酔っ払い同然であった。
「ううん……」
傍で、宥が僅かに身動ぎする。こたつ布団をかけ直そうと煌は手を伸ばし、
「きょうたろうくん……」
宥の口から漏れた一言と、目端に浮かぶ水滴に動きを止めた。
「……す……き……」
続いた言葉の意味を、煌は敢えて深く考えなかった。ただ、尭深のほうを振り返った。今のを聞かれていたら、不味い気がしたのだ。
無情にも、尭深はしっかりと宥の寝顔を見つめていた。
「た、尭深? これはその、えっと、あの……」
なぜ自分が言い訳しなくてはならないのか、理不尽に思いながらも煌は言葉を紡ごうとする。しかし尭深はぷっと吹き出した。珍しい――本当に珍しい姿だった。
「そんなに慌てなくても平気だよ、煌ちゃん」
悪戯っぽく笑う尭深は、これまた珍しい。随分と酔いが回っているようだ。
「松実先輩がそうだっていうのは、ずっと前から知ってたから」
「……尭深」
「だから、平気」
全てが全て、平気なわけではない。すぐに煌は悟った。もう、彼女との付き合いも一年半にも及ぶのだ。そのくらいは分かって当然だった。
けれども一つ、確認しておきたかった。
まだはっきりとは、聞いていなかった。
「尭深」
「なに?」
「須賀くんのこと、好きなんですか?」
ストレートすぎたためか、一度尭深は目を見開く。しかしすぐにいつもの穏やかな所作を取り戻すと、しっかりと頷いた。
「うん」
これ以上なく、しっかりと。
頬が朱に染まっているのは、アルコールのせいだけではないだろう。煌は満足気に笑い、言った。
「それじゃあ私は、尭深を応援します」
「えっ……い、良いの?」
「もちろん。ライバルは多そうですからね。尭深はいつも遠慮しがちですし、背中を押す人が一人くらいいても良いでしょう」
「でも――」
「あんまり言わせないで下さい、同期のよしみってやつです」
なおも尭深は何か言い募ろうとし、しかし最後には目を伏せた。代わりに残っていたお酒を、煌のグラスに注いだ。
「煌ちゃん」
「うん?」
「ありがとう」
「いいってことですよ」
かつん、と二つのグラスが優しくぶつかり合った。
◇
コンビニの軒先で、怜は恭子と肩を並べていた。手の内に収めた肉まんをカイロ代わりに、冬の夜の寒さを堪え忍ぶ。
「東京って、ほんま寒いな」
「大阪もこんなもんとちゃうか」
「いやいや、絶対こっちのほうが寒いわ。恭子さんすっかり東京人になったんとちゃうか。三年も住んでると変わるんやな」
「なんや東京人って。うちは今でも心は大阪に置いとるから」
はぁ、とこれみよがしに恭子が溜息を吐く。同郷同士、同い年同士ということも手伝って、学年の差異はあれど普段二人の間に遠慮はない。
ただ、今日は少し怜のほうに躊躇いがあった。妙に茶化そうとするのがその証拠であり、恭子も敏感に感じ取っているようであった。
「で、わざわざ二人きりになってまで何の用なんや」
「む」
機先を制され、怜は一度言葉を詰まらせる。ここで誤魔化すのも手ではあったが、それは逃げだ。恭子から逃げ出すことを、怜は良しとしなかった。
「……こないだまでのリーグ戦、活躍できんかったから」
「誰にだって調子の波くらいあるわ。気にせんでもええ」
まるで準備していたかのような恭子の答えに、怜は羞恥心を覚えた。あるいは敗北感が胸を焦がす。――これはいけない。これではいけない。彼女とは、対等でいたい。対等でならなければ、いけない。
「調子の波とか、そんなんとちゃう」
だから怜は、矜持も何もかもかなぐり捨てて、口を開く。
「試合中、きょーちゃんのこと考えてた。余計なもんを、卓に持ち込んでた。だから、あかんかったんや。いくら謝っても、みんなに謝りきれん。私は、エースやのに」
「……だったら、どうするんや」
「決まっとる」
怜は、毅然とした態度で答える。夜空に浮かぶ月を見つめながら、決意を新たにする。
「次は、勝つ」
至極単純な回答に、恭子は笑った――ように、見えた。彼女はすぐにいつものように唇を真一文字に引き結び、歩き出した。
「宥さんの部屋、戻るで」
「うちはもうちょっとここにおるわ」
「……そうか」
頷き、未練の欠片もなく恭子は去って行く。その愛想のなさが、今の怜には心地よかった。
「もう二度と、言い訳には使わへん」
再び月を見上げながら、怜は一人呟く。
「きょーちゃんも、きっと頑張っとるもんな」
その笑顔は美しく、しかし一番見せたい相手は傍にいないのが彼女の不運であったろう。
◇
階段を登り切ることができず、恭子はその場に腰を降ろした。出てくるのは、溜息ばかり。
「ばーか」
罵倒は誰に向けられたものか。チームメイトか、自分自身か――それとも彼にだろうか。恭子自身にも、分からなかった。
リーグ後半戦は、きっと巻き返せる。その手応えは確かにある。
けれども。
――けれども、その先は? その後は?
この、軋んだ心の行く末は?
答える者は、いるはずもなく。
「はよ帰って来ぉへんと、泣いてまうで」
既に瞳から落ちる雫にも気付かず、末原恭子は彼の名前を呼ぶ。
「――京太郎」
東帝大学麻雀部忘年会・三年目 終わり