7-1 謝罪行脚
スクープ!
麻雀界のスーパールーキー大星淡プロに恋人発覚! 結婚まで秒読みか
池袋ムーンライツ所属大星淡プロ(18)に交際相手の存在が発覚し、大きな話題を呼んでいる。お相手は一般人男性で、高校時代からの付き合いだという。
五月末日都内にて、大星プロは交際相手と熱い抱擁を交わし、公開プロポーズに踏み切った。一連の様子は多数の目撃者に確認されており、写真も公開されている(プライバシー保護のため、本誌ではお相手の男性の写真には加工処理をしています。ご了承下さい)。
大星プロはこの春から麻雀プロとして活動を開始し、同期の高鴨穏乃プロ、宮永咲プロの二人とスーパールーキーと並び称される活躍を見せている。まさに飛ぶ鳥を落とす勢いの中でもたらされたニュースに、各界は動揺を隠せていない模様である。
本誌インタビューに、大星プロは「とても優しい人です。ずっと傍にいるって言ってくれたんです」と熱いコメントをくれた。二人の今後を見守っていきたい。
「――だ、そうだ」
ばたん、と荒々しく雑誌が閉じられ、淡はびくりと肩を震わせた。
正座である。丸テーブルの前に、正座。広々とした部屋だというのに、肩身が狭い。取り囲まれ、遠慮なく注がれる視線のためだ。
テーブルを挟んで淡の真正面に座るのは、家主の弘世菫だ。淡よりも二つ年上の、高校の先輩である。友人や仲間に対しては温和な顔を見せる彼女だが、基本的に相対する者には容赦はしない。怜悧な瞳で相手を捉え、確実に射貫いていく。
その相手が、今は淡であった。先輩に対しても平気で生意気な口を叩く彼女であるが――流石に今の菫を相手に、そうする度胸はなかった。
「この雑誌はまだ良い。好意的に書いてくれている。このお相手の彼が誰かも分からないようになっている。もっとも、無加工の写真がネット上に出回った後だがな」
「も、もー、ほんと困っちゃうよねー」
「は?」
「ご、ごめんなさい……」
菫に怒られた経験は幾度となくあるが、ここまで強いプレッシャーをかけられるのは久方ぶりだった。白糸台を卒業した後も何かと気に懸けてくれる良い先輩だと淡自身理解しているが、同時に口うるさい小姑じみた存在だった。
「今私を小姑だとか考えなかったか」
「滅相もない!」
ぶるぶると淡は首を振る。この状況で菫に逆らってはならない。淡はよく理解していた。
「大体お前ノリノリでインタビューに答えておいて、困るとは何だ困るとは!」
「ほんとのことなんだもん!」
「嘘をつけ嘘を!」
菫の手が伸び、淡の両頬をもにっと引っ張る。
「雑誌によってはあることないこと書き立てる! マスコミは須賀君に取材しようと取り囲む! お前は何でもかんでも認めてしまう! 東帝の麻雀部はしばらくまともに活動できなかったんだぞ! どう責任をとるつもりなんだ!」
「それはもちろん結婚して!」
「バカなのか!」
「痛い痛い痛いー!」
「ま、まあまあその辺にしましょう」
割って入ったのは、菫と淡と同じく白糸台出身の、亦野誠子だった。現在も菫と同じ大学に通っている彼女もまた、この場に参集していた。主に、菫のストッパーとしての役割を果たすため。
「ひとまず事態は沈静化したんですし」
「させたのは私の家だ。……まあ良い。私も熱くなりすぎた」
「ううう……」
菫の手がようやく離れ、淡は赤くなった自分の頬をさする。――週末は写真撮影もあるというのに。菫に文句を言いたかったが、頭が上がらないのも事実。
多大なる弘世家の権力をもって、異例の速度で報道合戦はひとまずの収束を見せた。当然それだけでは済まないほど波紋が広がっているが、人の口には戸を立てられない。噂が沈静化するまで相当な時間がかかるだろう。淡としても京太郎に迷惑をかけるのは本意ではない。
「ほら、淡。恭子たちにも謝れ」
菫に促され、淡は自分を取り囲む面々を仰ぎ見る。
東帝大学麻雀部。淡の将来の旦那様――当人の認識としては――である京太郎が現在所属するコミュニティである。
いずれも、かつてインハイで顔を見たことのある人間ばかりだ。
阿知賀女子、松実宥。既に蒸し暑くなってきた時期だというのに、一人格好が暑苦しい。
新道寺女子、花田煌。心なしかどこか疲れているように見える。
淡の高校の先輩でもある、渋谷尭深。穏やかでいつも優しく、菫が鞭なら彼女は飴だ。
そして姫松の末原恭子。ほとんど交流のない相手ではあるが――彼女を見ていると、淡の心はとてもざわめく。苛立たしい、と言い換えても良い。
マスコミの取材の手は、彼女たちにまで及んだらしい。彼女たち自身が麻雀界隈ではちょっとした有名人であることも手伝って、随分と悪目立ちしたという。先ほどからずっと黙っているが、かなり手を煩わせたことは間違いない。
「……ご迷惑をおかけしましたゴメンナサイ」
たびたび自由奔放と目される淡ではあるが、きちんと責任感は持ち合わせている。この春からは社会人にもなったのだ。いつまでも子供ではいられない。しっかりと頭を下げる態度に、煌や尭深は嘆息する。宥などは逆に恐縮するばかり。
「わ、私は大丈夫だったからっ。あったかい部屋に引きこもっていたからっ」
「そうです、大した被害もありませんでしたし」
「気にしないで、淡ちゃん」
「みんな……!」
ぱあっと淡の顔が輝く。
――たびたび自由奔放と目される淡ではあるが、きちんと責任感は持ち合わせている。触れた優しさに報いるのは当然であった。
故に。
「私とキョータローの結婚式には絶対呼ぶから!」
一切の悪意なく、彼女は言った。
「え?」
「え?」
「は?」
「えっ」
一転して冷ややかな声色に切り替わり、淡は狼狽えた。おかしい、今のは和解する流れだったのに――彼女の疑問に答える者はいない。誠子と煌が苦笑いを浮かべ、菫はそれはもう深い溜息を吐いた。
「た、たかみ先輩……?」
縋るように淡が視線を送ったのは、斜向かいに座る尭深。彼女は京太郎との仲も、積極的にではないにしろ応援してくれていた。
しかし、ふいっと尭深は目を逸らした。これには淡もショックだった。尭深にこんな態度をとられるのは初めてだった。一体何があったというのか。まさか、大人しくて奥手な彼女が京太郎とどうこうなるとは思えず、淡は首を傾げるしかなかった。
正に四面楚歌。卓上では誰にも負けるつもりはないが、この状況、間違いなく不利だ。
何よりも。
一人、部屋の奥に座る末原恭子から注がれる視線が、一番痛い。単純に睨み付けるわけでもなく、多くの言葉を投げかけてくるわけでもなく、しかし静かな気迫を感じる。麻雀で強敵と相見えたときに似ていた。
「……さっきから、なに?」
元々我慢強いほうではない。殊勝な態度を脱ぎ捨てて、淡は恭子に問いかける。
「結婚式に呼ばれたくないの?」
「呼ばれても行かへんし、須賀はあんたと結婚する気ない言うてたで」
「それは聞いてる!」
あっけらかんと淡は言い放つ。まさかの返答に、宥が鸚鵡返しに訊ねていた。
「え、き、聞いているの?」
「これ九十一回目の告白だったんだけど、また断られちゃった」
「ええー……」
戸惑う声を上げたのは、煌。笑顔のまま表情を凍り付かせていた。白糸台の面々は聞き慣れているためか、大した表情に変化はない。ただ湯飲みを握る手に力が入っているのを、淡は見逃さなかった。
「あ、諦めないの?」
「なんで諦めないといけないの?」
宥がおそるおそる訊ねるが、その疑問こそが分からない、と言わんばかりに淡は首を傾げた。煌が今一度確認するように訊ねる。
「振られたん、ですよね?」
「でも明日には気が変わってるかも知れないじゃん!」
「は、はぁ?」
「ううん、気を変えるの!」
力強く、淡は言った。
「確かにキョータローは今私のことを好きじゃないかも知れないけど。でも、配牌で一喜一憂してるようじゃ雀士じゃないでしょ。たぐり寄せなきゃ」
部屋の中が、一瞬静まり返る。
淡は全員の顔を見渡して、宣言した。
「何より、私の点箱はまだ空っぽになってないから。――諦めるわけないじゃん」
「バカなのか」
「うひゃっ」
再び菫に頬をもにっと引っ張られ、淡は短い悲鳴を上げた。
「お前が諦めないのは勝手だが、それで須賀君に迷惑をかけてどうするんだ」
「……ごめんなひゃい」
「私はもう謝ってもらった。次はちゃんと須賀君に謝ってこい。落ち着いた今なら会いに行けるだろう。ただし、恭子たちに随伴してもらうこと」
「ひゃーい」
右手を上げて、淡は威勢良く返事をする。菫はもう幾度目か分からない溜息を吐くしかなかった。彼女は恭子たちに向かって、
「うちの車を出させるから、今日はそれで帰ってくれ」
「すまんな、助かるわ」
「いや、元はと言えばうちの後輩の不始末だ。わざわざ来て貰ってすまない」
「次はまたどこかで飲もか」
「そうだな」
「会話がおじさんみたい」
ぼそっと淡が呟き、彼女の頭に菫の拳骨が降り注いだ。
◇
聖白女も巻き込んだ長い会議と説教が終わると、既に日が暮れていた。淡たちを乗せた車が、夜の街を走る。
結局、京太郎の家に向かう淡に連れ添うのは恭子だけとなった。恭子がいれば滅多なことにならないだろう、という判断の下である。それに、今彼の傍には園城寺怜もいる。宥たちは麻雀部の活動再開に向け準備をする運びとなった。
運転手を除けば、車中は二人のみ。後部座席の中央は緩衝地帯となり、淡は進行方向に向かって右側、その逆側に恭子が座っていた。
淡は自分が他者からどう評価されているかよく知っている。高校の頃から麻雀雑誌で何かにつけて記事を書かれてきた。――自信家、ビッグマウス、対戦相手のことなど気にも留めない。
それらの評価が全て間違っているとは言わない。だが、全て正しいとも言えない。
自信過剰で他の人間が眼中にもない、なんてことはない。敬愛すべき先輩たち、同学年最大のライバルである高鴨穏乃と宮永咲、他にも挙げだしたら切りがない。気になる人間には、とことん拘る節もあるくらいなのだ。
だから――この隣に座る末原恭子に対しても、無関心というわけではない。
もしかしたら、普通に会っていれば路傍の石のような扱いになっていたかも知れない。しかし今は、そうもいかなかった。
何故なら、向こうがそれを許してくれないから。
強烈に意識されてしまっている。好意的ではないことくらいは、分かる。迷惑をかけた自覚は当然ある。だが、それだけでは済まされない何かを淡は感じ取っていた。
「ねぇ」
見つめるのは、窓の外。かすかに窓に映る恭子の姿も背中を向けられており、同じように顔を逸らしているのが分かった。
「なんや」
「あんた、キョータローの何なの?」
投げかけた質問に、回答はすぐに返ってこなかった。
「ねぇってば」
再び、淡は促そうとする。思い通りに事が進まないと苛立つ性格を自覚していたが、ここ数年でそれも改善したと彼女は自負していた。それでも、この場で無視されるのはとても癪に障った。
「部活の先輩や」
「そういうことを聞きたいんじゃないんだけど」
「そんなら何が聞きたいんや」
「……なんだろ」
「質問しといて何やそれ」
「ふん」
淡は鼻を鳴らす。ちょっと強がりだった。彼女からは、菫に似た空気を感じられる。
同時に、危険な匂いもした。
「好きになっちゃだめだからね」
「は、はぁ? 何をや」
「キョータローに決まってるじゃん」
淡は振り向く。恭子もまた、こちらに振り返っていた。
「キョータローは、私と結婚するんだから」
そこだけは、しっかりと釘を刺しておかなければ。特に彼女には。
同時に、車が目的地に到着する。
淡は踊るように階段を駆け上がる。部屋の場所は、既に調べ上げていた。
「ちょ、待て!」
「待たないっ!」
後ろから追いかけてくる恭子は無視。
辿り着いた部屋の前で、深呼吸を一つ。チャイムを鳴らす。
しかし、京太郎は出てこない。玄関先に人がいる気配もない。家にいるはずなのに、どうして。
「須賀は、そっちにはおらへん」
息を切らしながら追い縋ってきたのは、恭子。
「こっち」
彼女がチャイムを鳴らしたのは、隣の部屋だった。淡が呆けている間に、控え目に扉が開かれた。
出てきたのは、確かに京太郎だった。
慌てて淡は部屋番号を確認する。何度見ても、間違ってない。
「園城寺の様子はどうや」
「ゆっくり眠ってます。熱は下がりましたから、もう心配はないかと」
「ま、しょうがないな。五月からずっと忙しかったし、疲れ溜まってたんやろ」
「そうですね。エースとしてずっと気を張って、ここに来て色々ありましたから」
「大体あんたが原因やけどな」
「それを言われると辛い……」
今すぐにでも京太郎の胸元に飛び込んでしまいたいが、さりげなく恭子が経路を塞いでいる。加えてかなり真面目な話をしている感じだったので、流石に淡は自重した。
しかし、今回は京太郎から気付いてくれた。
「淡」
「キョータロー!」
途端に淡の表情が緩む。恭子を押し退けてでも駆け寄りたかったが、
「夜だし、今は静かにしてくれよ?」
「……はい」
京太郎に注意されて、両手で口を塞ぐ。
「俺の部屋に行きましょう」
「せやな」
「はぁい」
隣の部屋の鍵を閉め、京太郎は初めに淡が入ろうとした部屋の鍵を開ける。やはり間違っていなかったと安心しながら、淡は訊ねる。
「あっちは誰が住んでるの? 知り合い?」
「同じ麻雀部員だよ。ちょっと体調崩してるから、今日は紹介できないけどな」
「……もしかして、女の子?」
「そうだよ」
「キョータローが看病してたりとか?」
「そりゃするっての。こういうときのために隣に住んでるんだから」
むむ、と淡はふくれっ面になる。とても面白くない。こんな近くに女の子が住んでいるなんて話は聞いていなかった。
何はともあれ、京太郎の部屋に入るというビッグイベントだ。淡のテンションは上がりっぱなしである。さり気なく腕をとってみる。
「おいこら、何してんだっ」
「別に良いじゃん! 結婚するんだし!」
「だから結婚なんてしない!」
「ええー」
あっさりと振り払われてしまった。
整然とした部屋に通され、淡はきょろきょろと辺りを見回す。
「長野の実家と似てるねっ」
「似るように配置したからな。……おい淡、あんまりいじるなよ。お前には本棚ぐちゃぐちゃにした前科があるんだからな」
「もうやらないよ、いつまでも子供じゃないから!」
「ったく。大人ならもうちょっと落ち着いてくれよ」
こうしてゆっくり話すのも久しぶりだ。この春からお互い新生活で忙しくなり、折角京太郎が東京に来たというのに、淡自身あまり会いに行けていない。前回街中で会ったときも、野次馬のせいですぐにその場を離れなくてはならなかった。
あしらわれようとも、淡はさして気にしない。京太郎のことはよく分かっている。本気で嫌がっているかどうかの境目を見極めるなんて、簡単だ。折角部屋に入ったのだし、もっとくっつきたかったが――
ごほん、と背後から咳払いが聞こえた。
今日は菫に代わるお目付役がいる。この状況では、あまり思い切ったことはできない。
「末原先輩も淡もご飯まだですよね」
「え、そうやけど……」
「うんっ」
「来るって聞いてたから一応準備しといたんです。折角ですし食べてって下さい」
「ありがとーキョータロー!」
「だからくっつくなって!」
狭い食卓にずらりと並べられた料理に淡は目を輝かせる。京太郎の隣に座るのが恭子というのには納得いかなかったが、これまた久しぶりの京太郎の料理だ。
ハンバーグを口に運び、淡は舌鼓を打つ。
「やっぱりキョータローは私のお婿さんになるべき!」
「ならない」
「それよりあんた何か言うことあるんとちゃうか」
恭子に箸で指差され、淡はむすっとする。彼女に指摘されるのは気に入らなかったが、目的を忘れてはならない。
「……キョータロー」
「ん、どうした」
「迷惑かけて、ゴメンナサイ」
京太郎は微かに溜息を吐いて、
「良いよ別にもう。済んだことだし、先輩たちにも謝ったんだろ?」
「ゆ、許してくれる……?」
「二度としないって誓うならな」
「キョータロー……!」
淡は笑顔を取り戻して、彼にすり寄った。
「結婚しよ!」
「あんた今の話聞いとったんか!」
鋭い恭子の突っ込みも、淡は全く気にしない。挑発的な笑みさえ浮かべて、恭子に宣う。
「人前じゃだめってことでしょ? うん、私も自分の立場をちゃんと理解してなかったから反省してるよォー。でーもー、迷惑さえかけなきゃ大丈夫だよね! ねっ?」
「この小娘は……!」
「末原先輩、こういう奴だから諦めたほうが良いです」
最早慣れきっているのだろう。京太郎から漂う諦観に、恭子も拳を引っ込める。
だが、次の一言はそんな京太郎でさえも聞き逃せなかった。
「ねーねー、キョータロー」
「今度は何だよ」
「私、今日からここに住むね! そうしたら人の目も気にせずくっつけるし!」
淡はあっけらかんと言い放つ。これには淡に慣れていたはずの京太郎も、お茶を吹き出しかけた。
「滅茶苦茶人の目気にしなくちゃならなくなるわ!」
「えー、そうかな?」
「そうだよ!」
京太郎の熱弁にも、淡はまったく堪えない。恭子はもう呆れてものが言えなくなっている。
「隣に女の子が住んでるんでしょ? その子だけずるい」
「いやだから事情があるし、ずるいとかそんな問題じゃないし、そもそも同棲なんてできるわけがないだろっ」
「私はキョータローとならいつでもオールオッケーだよ」
「オッケーなわけがあるか!」
「どうして?」
「どうしてってそりゃ――」
「私はいつでも良いのに」
上目遣いに京太郎の顔を覗き込む。う、と彼は言葉を詰まらせた。長年の研究により、京太郎がこの仕草に弱いのは知っている。押せ押せでいけば何かしらのハプニングを期待できる、と思っていたら、
「いい加減にしとき」
「あいたっ」
我に返った恭子に頭をはたかれた。これが関西の突っ込みなのか、痛みは少ないが一瞬で雰囲気を壊されてしまった。
「さっさと食べな。そろそろ出発するで。菫んとこの運転手さん、わざわざ迎えに来てくれるそうやから」
「一人で帰れば良いじゃん」
「ああ?」
「……はい、なんでもありません」
やはり、この女は厄介だ。淡ははっきりと意識する。せっつかれたせいで京太郎の料理を味わう暇もなかった。けれども凄まれると怖いので逆らえない。とても後輩慣れしている様子だった。
「――それじゃ、須賀。明日からは部活再開やから」
「はい」
「キョータロー、また来るね!」
「そのときは絶対に連絡入れろよ」
「分かってるって!」
名残惜しいが、ひとまず京太郎とお別れだ。
ちらり、と淡は恭子の様子を窺う。彼女が靴を履き替えている今がチャンスだ。京太郎に飛びつこうとして、
「むぎゅ」
「おい、何しようとしてた」
京太郎に頭を抑え付けられてしまった。
「お別れのちゅー。まさか捕まるとは……」
「最近不意打ちには慣らされたからな」
「? どゆこと?」
「……なんでもない」
気まずそうに顔を逸らす京太郎に、淡は首を傾げる。そんな彼女を、今度こそ恭子が引き摺って部屋から引っ張り出した。
部屋を出た瞬間、恭子が深い息を吐いているのが淡にも分かった。まるで、緊張から解放されたかのような姿だった。淡はますますもって、疑念の目を彼女に向けなければならなかった。
しかし、帰りの車内で淡はご機嫌だった。京太郎とゆっくり喋れた上、手料理まで食べられた。明日のプロリーグ戦はきっと絶好調だ。
――これで、邪魔者さえいなければ最高だったのに。
「なぁ、大星」
淡の内心を読み取ったかのようなタイミングで、今度は恭子から話しかけてきた。流石に応えないわけにもいかない。
「なに?」
「あんた、なんであんなに須賀のこと気に入ってるん?」
その質問は、淡にとっては鼻で笑ってしまいそうなものだった。
「びびっと来たから」
「なんやそれ、一目惚れってやつか」
「一目惚れじゃなかったけど――でも、人を好きになるのなんて、そんなものじゃないの?」
「……知らんわ」
ぽつりと恭子が呟く。納得したのかしていないのか、淡には判別できなかった。
「ねぇねぇ」
「なんや」
「気になるなら教えてあげるよ、私とキョータローのことっ」
純然たる善意で、淡はそんなことを言い出した。人の惚気話など聞きたくもない、と言った様子で恭子は一度顔を歪めるものの――
「そんなら、聞かせてもらおか」
「うんっ」
何かが彼女の興味をそそったのか、食い付いてきた。淡は心底嬉しそうに、笑顔で頷いた。
彼女は語り始める。
京太郎の存在を、初めて認識したその日のことから。
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