平日練習の後、恭子は宥の手を引いて彼女を支度へと招き入れた。決戦の日曜日まで時間はあまり残されておらず、恭子は切羽詰まっていた。
小さなテーブルを挟んで向かいに座る宥に向かって、恭子は深く頭を下げる。
「せやから、お願い宥ちゃん」
「お願いと言われても……」
室内でもマフラーを外さず、顔の半分は見えていないが、宥は明らかに困惑していた。
「京太郎くんに東京案内するだけ、だよね。昨日は自信あるように見えたけど」
「売り言葉に買い言葉っちゅうか、勢いでつい。正直、後輩を楽しませるような案内できるか不安なんやって。去年は宥ちゃんが全部仕切ってくれたやろ?」
「菫ちゃんに頼るっていう手もあるような」
「それはあかん」
ばっさりと恭子は否定する。どうして? と宥は素直に疑問を口にした。何かと頼りにしている相手だし、彼女もまた嫌とは言わないだろう。恭子もそこは理解できる。
しかし、
「後輩一人の面倒も見れへん奴と思われたくない」
「今更なような気も……」
「そうは言うてもこんな細かい話まで相談できへんわ」
大体、と恭子は恨みがましく宥を睨め付ける。
「そもそもの言い出しっぺは宥ちゃんなんやし、責任とってもらわんと。大見得切った以上、後輩二人には頼めんし」
恭子の必死な様子に、宥はやや怯えながら頷く。
「わ、分かったよぅ。でも、観光地とか無難なところを案内すれば良いんじゃないかな? スカイツリーとか雷門とか、東京タワーとか」
「そういう有名所は高校のインハイで観光したって言ってたわ」
「それじゃあお台場は? 去年、行ったよね」
「そこはこないだ行った言うてたな」
「……東京駅の周りはどうかな」
「あかん、そこは今度別の友達と遊びに行く言うてたわ」
宥の言葉が、途切れる。そのことに恭子は一拍遅れて気付き、戸惑い気味に彼女の顔を覗き込む。
「ど、どうしたん、宥ちゃん?」
「恭子ちゃん、京太郎くんとよくお話してるんだねぇ」
微笑ましい視線を向けられ、恭子は自分の顔が急激に熱くなるのを感じた。いや、だとか、その、だとか、舌が回らず上手く言葉が続かない。深呼吸を繰り返し、何とか落ち着きを取り戻してから恭子は言った。もとい、照れ隠しの言い訳をした。
「ほらうち、部長やん。須賀も男子一人で心細いやろ思て、色々話相手になってるんよ。うん」
「そっかぁ。やっぱり偉いなあ、恭子ちゃんは」
「そ、そんなことあらへんて」
純粋に感心する宥を前に、恭子は一安心する。――そうだ、妙な勘違いをされても困る。二つも下の男子を意識しているなんて思われるのは、釈然としない。
ともかくとして、恭子は話の軌道修正を図る。
「で、宥ちゃんなんか他に案ある? 否定してばっかで申し訳ないんやけど」
「うーん。だったらもう、恭子ちゃんが勉強に使ってる喫茶店とか図書館とかを案内してあげれば良いんじゃないかなぁ。恭子ちゃん、そういう穴場なところよく知ってるでしょう? 大学生活に関わってくるんだし。男の子と女の子の違いもあんまり気にしなくて良いよね」
「それや!」
ぱちん、と恭子は指を鳴らした。まさしく名案である。
「先輩っぽい! ナイスや宥ちゃん!」
「良かったぁ」
なお、京太郎との遭遇率が高まり恭子を悩ませる結果となるのは別のお話である。
「あ、そうだ」
宥は何か思い出したのか、自らの鞄に手を入れる。
「どうしたん?」
「えっとぉ。この間バイト先で貰ったものがあって」
鞄から出てきたのは、二枚のチケット。上野の美術館で開催されている、絵画の展覧会のものだった。
「良かったら使って」
「ええん? 貰っちゃって」
「私は絵のことはよく分からないから……」
「うちもや。須賀もそうやろたぶん。でも、たまにはええか。ありがとな、宥ちゃん」
「いえいえ」
それじゃあそろそろ、と宥は帰ろうと立ち上がる。
が、その腕を恭子は掴み取った。逃さないと言わんばかりに指先へと力を込める。
「ど、どうしたの?」
「まだ、もう一つ、相談が……」
目線を逸らしつつ、恭子は懇願する。
「着てく服、見繕ってくれん?」
「え、ええっ」
「ほら、あいつ大学デビューか何か知らんけど、割と洒落た格好で大学来てるし。部室の中はともかく、外でいつもの色気ない格好言うのも流石に悪いような気がして」
気にしすぎ、と言われてしまえばそれまでだが、不安は拭えない。そもそも男と二人きりで出歩くなんて、親を除けば初めてなのだ。末原恭子、麻雀はデータ重視の打ち筋である。事前にできる限りの情報を集め作戦を練りたいと思うのは最早性であった。
「私、厚着専門なんだけど……」
「でも宥ちゃんセンスええやん。一度レクチャー受けたかったんや」
「上下の色の組み合わせくらいしか考えてないよぉ」
それから恭子の箪笥の中をひっくり返して、二人はああでもないこうでもないと言い合った。もっと時間があれば買い物にも行けただろうが、残念ながら宥とはタイミングが合わず。一人で乗り切る自信は恭子になかった。
こういう悩みを抱える羽目になるとは、恭子はつい一ヶ月前まで思いもしなかった。麻雀と、麻雀部のことだけに集中していた。友達からの誘いもほとんど断って、大学生らしい遊びへの参加は数えるほど。高校時代から変わらず、半ば自分には麻雀しかないのではないか、みたいな考えもあった。
けれども。
――こういうのも、悪くない。
そんなことを三年にもなって思う自分に、恭子は内心苦笑いを浮かべた。
そうこうしている内に時間はあっという間に潰れ、今度こそ宥は帰宅の準備を始める。玄関先で靴を履きながら、宥は首だけ振り返って、
「すっかり忘れてたけど」
恭子に訊ねた。
「麻雀仮面さんは、どうするの? 日曜日、戦うんでしょう?」
今朝は恭子もさらりと流したが、割と重要なことだ。落ちぶれたとは言え、東帝大学麻雀部の名前を背負って戦うのだから。
「んー。宥ちゃんが来てくれたならもっと話は簡単やったと思うけど」
「ご、ごめんなさい」
「ま、そこはなんとかするわ。強いんは強いんやろうけど、どこぞの馬の骨とも知れん奴やしなぁ」
にやりと、恭子は力強く笑った。
「インカレ出場するまで、そんな奴に負けられへんやろ」
「――うん。頑張って、部長」
宥の湛える微笑みに宿るぬくもりは、恭子の心に安寧をもたらす。今日だけでなく、何だかんだと二年間、お世話になりっぱなしだ。
「気ィ付けて帰ってな」
「徒歩一分だから大丈夫」
さらりと宥は扉をくぐって出て行った。ひらひらと手を振って彼女の背中を見送って、恭子は小さな溜息を吐いた。まずは、おもちゃ箱をひっくり返した有様の部屋を片付けなければならない。
だというのに、足は軽い。心が躍る、とはこのことか。麻雀以外で楽しみに「その日」を待つのは、初めてだった。
◇
スカートを履くのはいつぶりだろうか。高校時代はできるかぎり避けていたものだ。
可愛らしいという修飾語は、高校時代から自分には相応しくないと恭子は考えている。無愛想な態度は割と表に出てしまう――高校時代の監督相手だと特に――し、周囲にはずっと可愛い女の子ばかりで溢れていた。そこに引け目じみたものを感じていたと認めるのは、それなりに時間がかかった。認めたからと言って、どうこうするわけでもなかったが。
ついに訪れた日曜日。たまたま部活も休みにしてしまったこの休日を、よく麻雀仮面は指定してくれたものだ。おかげで半日以上も京太郎と共に過ごさなければならない。まだ見ぬ敵を、恨みがましく呪った。
そろそろ出かけようか、という段階になって、恭子は余計なものを見つけてしまった。
かつてつけていた、赤いリボン。
二十歳を超えた身でつけるのは、かなり勇気がいる。評判は良かったものの、正直みんなお世辞で言っているのではないか、と高校のときから疑っていた。ただ、今日は普段と違う気分になりたい。そういうときは見かけから――と教えてくれたのは、例の監督だったか。勇気を出して、恭子はまとめていた髪の一部を下ろし、リボンを手に取った。
「……よし」
気合を入れて、待ち合わせ場所の大学の最寄り駅に向かう。集合時間は午前十時と取り決めたが、到着は十五分前。少し早く着きすぎたかと思ったら、彼は既に改札の前に佇んでいた。長身と金髪のおかげですぐに分かった。あ、と恭子が短く声を漏らすのと同時、彼もこちらに気付いて駆け寄ってくる。須賀は犬タイプと思った。
「おはようございます、末原先輩」
低い声で挨拶され、恭子は彼を見上げる。京太郎は普段と対して変わらない様子で、にこにこと笑っていた。
「お、おはよう須賀。ごめん、待たせてしもた?」
「いえ、今来たところですから」
「そ、そか」
――あかん。これはあかん。
恭子は愕然となる。この型にはまった会話は、漫画でよく読んだシチュエーションと同じだ。意識しないように努めていたのに、のっけから引きずり込まれそうだ。
「末原先輩、今日はまた可愛い格好ですねー。すごく似合ってます」
「――、まぁ、たまにはな」
相手の服装を褒めるのも、大昔予習した内容と同じであった。狼狽える恭子はまともに京太郎と向き合えなくなり、そっぽ向いたまま歩き始めた。
「ほら、行くで」
「はい」
この場合京太郎の服装も褒めなければならないのかも知れないが、恭子にその余裕はなかった。一歩分の距離を先行しつつ、早歩きになってしまう。やはりどうも、他の後輩相手と同じようには振る舞えない。
事前に検討しておいた通りに、恭子は自分がよく巡るコースを紹介した。女子向きな場所は除いて、書店、喫茶店、図書館、それから雀荘。京太郎の受けもよく、ひとまず恭子は胸を撫で下ろした。
すぐに昼を迎え、昼食は大学からやや離れた洋麺屋でとることとなった。一応、恭子行きつけの店である。一番行くのはお好み焼き屋だが、東京案内でそれもどうかと思い避けた。
この時間帯になってようやくはあるが、恭子はある程度落ち着きを取り戻していた。今のところ共通の話題は麻雀のみであるが、その麻雀が潤滑油となって恭子のぎこちなさを取り払ってくれた。一緒にパスタを食べながら、麻雀談義に花を咲かせる。
「宮永プロ、早速活躍してんなぁ。良かったやん。プロでの姉妹対決もこの分やとすぐとちゃうんか」
「だと良いですけど、あいつ、麻雀以外は抜けたところありますから不安なんですよね。……友達作れてるのかどうか」
「あんたらの同期って後は原村と片岡やろ? また厄介なことにこっちなんよな」
「そうですね、和も優希もこっちで咲だけ関西です」
そうかぁ、と恭子は一度頷いてから、
「まぁ、関西人は何だかんだ言うて面倒見ええから、大丈夫やよきっと」
「末原先輩もそうですもんね」
「褒めても何も出ぇへんで」
軽口を叩く余裕も生まれた。パスタの味も、しっかり分かる。緊張もすっかり解れ、普通にお喋りするだけで楽しかった。
「――なぁ、須賀」
「なんですか?」
「あー、いや……その」
ただ、やはり京太郎に例の質問をすることはできなかった。
――どうして、うちの麻雀部に入って来たのか。
たったその一言を、中々紡げない。
「麻雀仮面って、どんな奴やと思う?」
結局、誤魔化しついでに無難な質問をぶつけてしまった。京太郎はフォークを置いて、少し考える素振りを見せてから、答えた。
「……悪い人じゃないと思います」
「なんで? 美人って噂やから?」
「ち、違いますよ。ほら、強い人を倒してもそれを喧伝することもないし。果たし状じゃなくて挑戦状ってところがまた、純粋に腕試ししてるみたいな感じがして」
「ふぅん」
恭子は曖昧に頷いた。一理ある意見だった。だが、どうにも釈然としない。
――なんか、引っかかる。
恭子はぶるぶる首を横に振った。今は目の前の彼に集中するのが筋というものだろう。がたりと音を立て立ち上がり、
「次、行こか」
「はい」
京太郎を促した。
麻雀仮面との約束まで、まだしばらくある。他のおすすめスポットを巡っても良かったが、そろそろネタ切れしそうだった。そこで、例の手札を切ることとした。
「須賀は、美術館とか興味ある? 宥ちゃんに展覧会のチケット貰ってるんやけど」
「あんまり行ったことないですねー。でも、折角だから行ってみたいです。長野には美術館自体少なかったし」
「それじゃあそうしよか。宥ちゃんにお礼言っといてな」
京太郎の同意もとれ、電車で上野に移動する。若干迷いながら、目当ての美術館の門を二人はくぐった。
「新印象派展、ですか」
受付で受け取ったパンフレットの題目を、京太郎が読み上げる。
「新印象派って、どういう意味ですか?」
「モネは分かる? 印象派って呼ばれる絵描いてた人なんやけど。そこからスーラやシニャックって人たちが発展させたのが新印象派」
「へぇー。流石末原先輩、博識ですね」
「こ、こんなん大したことあらへんよ」
昨日の内に予習を済ませておいて良かった。恭子は心底そう思った。入口の掲示板にも書いているような付け焼き刃の知識ではあるが、何も答えられないよりはマシだった。
展覧会の室内は薄暗い。客入りはまばらだが、カップルらしき男女が目立つ。自分たちもそう見られているのだろうか、と恭子は若干どぎまぎしつつ、順路に従い歩みを進めた。
初めて来るような催し事ではあるが、大きな音を立てるのがマナー違反だということはすぐに理解した。他の客たちは声を潜めて喋っているし、足音も小さい。自然と、恭子と京太郎の間に会話は減っていった。
古い時代から新しい時代に繋がるように順路は設定されており、素人目にもタッチの変遷は見て取れた。隣の京太郎の様子をそっとうかがってみれば、意外にも彼は目の前の絵画に集中していた。真剣な表情に、恭子はどきりとする。まるで麻雀を打っているときと同じみたいだった。
たっぷり一時間かけて、およそ100点の絵を見終える。
出口に設えてあったベンチに二人は腰掛け、ひとまずの休憩をとっていた。
「須賀、結構気に入ったみたいやね」
「え? ああ、そうですね。とても面白かったです。何て言うか、どこの世界も同じなんだなって思って」
「どういうことや?」
京太郎の言わんとすることが掴めず、恭子は首を傾げる。
「んー。俺、絵ってセンスある人が凡人には理解できないようなやり方で描いてるものだって思ってたんですよね。でも、解説にあったじゃないですか。新印象派は色彩理論だとか、光学だとかに基づいて絵を描いてるって。そしてさらにそれを発展させてすげー絵を描いてましたよね。――そういうのって麻雀も同じと思いません? 確かにとんでもない打ち手はいます。けど、ちゃんと歴史の古くから伝えられてる技術ってのもあるじゃないですか」
恭子は、黙って京太郎の話に耳を傾ける。
「正直、俺は咲の打ち筋とか全く理解できない凡人ですけど。でも、凡人でも理論とか技術は分かります。そういうのを積み重ねて、発展させていけばちゃんと勝てるじゃないかって。凡人でも、すげー絵も描けるんじゃないかなって。……すみません、なんだかとりとめのない話しちゃって」
「……ううん」
恭子は――強く、彼に共感した。きっと、彼の言いたいこと全てを飲み込めたわけではないだろう。けれども――ちゃんと、心に伝わってきた。何よりも、自分と彼が同じタイプであるということがとても嬉しかった。
凡人、と恭子は自らを揶揄してきたが。
それがとても誇らしく思えた。
「……そろそろ、出発しよか。合流する相手もおるし」
「分かりました」
疲れていたはずの足取りは軽く。いつの間にか、恭子は京太郎の隣を歩いていた。背中だけを見せていたときよりも、よっぽどしっくりきた。
再び電車で移動した先は、麻雀仮面に指定された池袋。
駅前の通りで待つこと五分、
「恭子」
「菫」
姿を現れたのは、弘世菫。約束通り、麻雀仮面の件は彼女に連絡しておいた。菫にとって厳しい日時指定だったようだが、何とか時間を作ったようだ。
「今日はすまないな」
「ええってええって。ことのついでやし、菫がいてくれたほうが心強いわ」
「須賀君は……いつ振りだ? ああ、大学入学おめでとう。祝辞が遅れてしまってすまない」
「いえいえ、ありがとうございます弘世さん。直接会うのはもう一年ぶりくらいですかね」
握手を交わした後、菫は京太郎にそっと訊ねる。
「淡は、迷惑をかけていないだろうか」
「あー……まぁ、最近は対局で忙しいみたいですよ」
「そうか。何かあったら私にすぐに言ってくれ」
「いえ、別に迷惑だなんて思ってませんし、弘世さんが気に病むことでも」
「君には苦労をかけたからな。そうもいかない」
「はい、そこまでや」
放っておけばいつまでも続けそうだったので、恭子は二人の間に割って入る。男子に対して堅物かと思いきや、意外と菫は京太郎に好意的だった。二人の握手を切ったのには、決して他意などない――つもりである。
「会いに行こか、麻雀仮面とやらに」
「そうだな」
「はい」
指定された雀荘は、駅から歩いて十分ほど。
人気の少ない路地に入り、縦に長いビルの階段を登る。古ぼけた、客など一人も入っていないような雀荘だった。
入口の扉を開く。煙草の匂いが漂ってきた。
しかしやはり客はいないのか、牌を打つ音は聞こえない。受付にはお爺さんが一人座っているだけで、他に店員は見当たらない。
だが、狭い店内の中央、そこに一人の女が佇んでいた。
すぐに、分かった。名乗らなくとも、分かった。
――こいつが、麻雀仮面……!
名前の通り、女の顔は狐面に覆い隠されていたのだ。狐の目元には、ハートマークのシールが貼られているが、可愛らしさは感じ取れない。
背後で菫が固まるのが、分かった。本音を言えば、恭子も思考が真っ白になりそうだった。
だが、末原恭子は関西人である。由緒正しき、大阪生まれ大阪育ちである。そのプライドがあるのだ。
故に。
突っ込むべきと思ったら、
「ってなんでメイド服やねん!」
すぐさま突っ込まなくてはならない。
――驚愕すべき事実。
麻雀仮面は、ミニスカメイドだった。
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