愛縁航路   作:TTP

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8-2 ピレッジ

 阿知賀に居た頃は、毎日のように姉の部屋に入り浸っていた。しかし今は玄自身も宥も実家を離れ、一人暮らしの身。距離の壁によって、東京の姉の家に足を踏み入れた回数は片手で足りる。マンションの形も扉の色も何もかも、馴染みがないのは当然だ。

 

 それでもリビングに入ってすぐに目に付く炬燵にはほっと安心させられる。暦は八月、季節は夏。明らかに時期外れではあるが、玄の姉にとっては当たり前のこと。流石に設定温度は低めではあるようだが。

 

「晩ご飯、どうしよっか。折角だからどこかに食べに行く?」

 

 荷物を部屋の隅に置きながら、宥が訊ねる。うーん、と玄は一度首を傾げてから、

 

「おねーちゃんのオススメのお店とかあるの?」

「……あ、あんまり」

 

 目を逸らされてしまった。出不精の姉らしい、と玄は苦笑する。それを敏感に察したのか、宥は取り繕うように言った。

 

「さ、最近は部活の打ち上げとかで色んなお店行ってるから。ちょっとくらいなら」

「じゃあ、夜はおねーちゃん行きつけのお店で!」

「うん。この間煌ちゃんが教えてくれたところなんだけどね」

 

 その名前は、玄の心に深く刻まれている。初めてのインターハイ、準決勝で矛を交え、共に強敵に立ち向かった仲だ。先日の合宿でも飽きるほど麻雀について語り合った。

 

「花田さんともインカレの間にまた会えるかな」

「私たちは大きな大会もないから玄ちゃんの予定次第になりそうだけど……あ、でも煌ちゃん、インカレの間に高校の同窓会するんだって。会うなら今のうちに都合訊いておかないと」

「へぇー。白水プロや鶴田プロも東京に来るの?」

「二人はそれぞれインハイとミドルの解説があるんだって」

「おおー」

 

 思わず玄は感嘆の声を漏らす。両プロの昨年の活躍は目覚ましく、解説で呼ばれても不思議ではないが、いざ同世代があの席に座るとなると感慨深い。

 緑茶とお煎餅を載せたお盆を運びながら、宥はさらに付け加える。

 

「恭子ちゃんの姫松も集まるそうだし、尭深ちゃんの白糸台もそうだね。……はい、お茶とお菓子どうぞ」

「ありがとう、おねーちゃん。……んー、そう言えば竜華さんもこっちで怜さんやセーラさんに会うって言ってたよ」

「千里山もかぁ。良いなぁ」

「私たちも同窓会したいね」

「灼ちゃんと憧ちゃんはインカレでこっち来るけど……」

「穏乃ちゃんがねー。忙しいみたいだね」

「嬉しいけど、寂しいね」

 

 宥の零す微笑みには、どこか痛みが混じっていた。

 阿知賀女子学院麻雀部に宥が在籍していた時期の五人――松実姉妹、新子憧、鷺森灼。そして最後の一人が、三年間団体戦の大将を務めた高鴨穏乃である。

 

 彼女は今年度、プロデビューを果たした。阿知賀のレジェンド、赤土晴絵に続く阿知賀出身のプロ雀士である。現在は拠点を名古屋とし、慌ただしい日々を送っているようだ。彼女だけメールの返信が遅いことが、その生活を如実に物語っている。今から仕事もないのに東京に来てくれ、と言うのも酷な話だ。

 仕方ないと言えばそれまでだが、やっぱり寂しいものは寂しい。

 

「穏乃ちゃんや赤土さんも一緒に、お盆には阿知賀で集まれたら良いね」

「そうだね……。その前にインカレ頑張らないとっ」

「頑張って、玄ちゃん」

「うんっ」

 

 お煎餅をかじりながら、玄は力強く拳を作る。お盆を片付けようと宥が立ち上がろうとしたそのとき、彼女のスマートフォンが震えた。

 

「あ……怜ちゃんから返信来たよ」

 

 その一言に、玄は身構える。

 

「な、なんて?」

「……やっぱり、先月は大阪には帰っていないみたい」

 

 宥は首を横に振って、そう言った。対する玄は、眉を潜める。半ば予想していた答えとは言え、既に手詰まりだ。

 

 大阪の地に舞い降りたという、麻雀仮面。

 目撃情報からすると、七月第三週の土日に複数の雀荘でその姿を見せたらしい。麻雀仮面と名乗った仮面の女性雀士は、その二日間でかなりの数の大学生雀士を相手にし、ことごとくを打ち破った。その中には、玄の先輩である小走やえや、友人にしてライバルの愛宕絹恵も含まれている。噂や何かの間違いではなく、麻雀仮面という存在は確かにあるのだ。

 

 四月、東京で麻雀仮面を名乗って活動していたのは、園城寺怜その人である。彼女が大阪でも同様の活動をしていれば分かりやすかったのだが、どうやらその線は薄そうだ。

 

「園城寺さんが嘘吐いてる……」

「というわけでもなさそうだし、嘘を吐く意味もないような。それに怜ちゃん、『もう麻雀仮面からはきっぱり足を洗う』って言ってたから」

「え、どうして?」

「色々トラブルがあってね。こりごりだって。私としても、そっちのほうが良いかなって思ってるの」

 

 姉の苦笑から滲み出るのは、苦労の跡。「色々」には本当に多くのことが含まれているようだ。彼女が他人に苦言を呈する場面自体も珍しく、玄は「そうなんだ」と短く答えるに留まった。

 

「大阪の麻雀仮面のこと、もちろん怜ちゃんは知らない……よね」

「竜華さんはあんまり興味なさそうだったし、言ってないと思うよ」

 

 怜の親友・清水谷竜華にも、麻雀仮面の話は通っていなかったはずだ。あくまで東帝大学麻雀部と自分だけの秘密だと、玄は認識している。

 宥は少し悩む素振りを見せてから、玄に言った。

 

「これまで通り、怜ちゃんが麻雀仮面だったことは秘密にしておいてくれるかな。またトラブルが起きそうで……」

「了解ですのだ! ……でも、園城寺さんじゃないとなると、一体誰なんだろう。困ったね」

「うん……」

 

 物憂げに、宥が頷く。それも当然だろう。もしも悪意をもって麻雀仮面の名を騙っているのなら、由々しき事態だ。今のところ実害はないが、下手をすれば東帝大学に火の粉が飛びかねない。

 

「恭子ちゃんにも相談してみるね。愛宕さんたちが麻雀仮面に会ったなら、その内恭子ちゃんの耳に入ると思うし」

「うん。それが良いよ」

 

 ひとまず麻雀仮面の話題は打ち切りとなり、姉妹の会話はとりとめのないものに移っていく。不安を忘れるように選ばれる話題は明るいものばかりで、玄の胸が多幸感に満ちる。――この大切な一瞬を、噛み締めよう。この東京で、できるかぎりずっと姉と一緒にいよう。

 

 そう、玄は思っていた。

 

 

 ◇

 

 

 それから時刻は夕方に差し掛かり、二人は夕食のため外出する。向かった先は、新宿。

 

 そこで宥が紹介してくれたメキシコ料理店は東京らしいお洒落な雰囲気で、味も確かだった。わざわざ新宿まで出向いた甲斐があったというもの。玄はご満悦で店を出た。

 

「ご馳走様、おねーちゃん!」

「良かった、気に入ってくれて」

「タコスがとっても美味しかったよ。これなら優希ちゃんも満足だろうね!」

「優希ちゃん……あ、清澄の先鋒の」

「そっか。おねーちゃんはあんまり馴染みないんだね」

 

 高校で被ったのはたったの一年、その後阿知賀と清澄は交流を深めるも宥はその頃には受験モードに切り替わっていた。すぐにぴんと来なかったのも当然だろう。

 

 もっとも玄のほうは、団体戦で同じポジションということもあり卓の内外を問わず親交が深い。彼女の趣味嗜好も大方把握している。練習試合を重ね、大会で顔を会わせる度に仲良くなった。彼女たちは今、東京の大学に通っている。当然、麻雀部員だ。

 今回のインカレは、今一度彼女たちと会える絶好の機会ではあるものの――浮かれてばかりはいられない。

 

「優希ちゃんも和ちゃんも、レギュラー入りしたみたいなのです」

「三橋はリーグ戦でも一位だったし、最大のライバルだね。頑張ってね、玄ちゃん」

「うんっ」

 

 力強く玄は頷いて、それから付け足す。

 

「でも、来年はおねーちゃんたちにとってもライバルになってるかも」

 

 宥たち東帝大学麻雀部は、どん底の状態からついに二部リーグまで上り詰めた。来季のリーグ戦、入れ替え戦を勝ち抜けばとうとう三橋が所属する一部リーグだ。

ただ、現実味は帯びてきたといってもあくまで未来の話。確証などどこにもなく、どちらかと言えば気弱な姉は謙遜の言葉を返すと玄は思っていた。

 

 けれども宥は、

 

 

「勝つよ」

 

 

 そうはっきりと、宣言した。

 

「来季の二部リーグも勝ち抜いて、一部リーグでも上位を取って、来年は私たちもインカレに出るよ。そうしたら私たちもライバルだね」

「……うん」

 

 玄は、恐る恐る頷く。

 やっぱり姉は変わった、と思う。言葉の端々、纏う雰囲気から伝わってくるものはあたたかいままでありながら、内には一本芯が入っている。いや――昔からそうであったか。ただそれが、以前よりも強くなった気がするのだ。

 

 東京で、何が彼女を変えたのだろう。気になるが、玄は訊けなかった。敗北感にも似た感情が、問いかけを妨げているのだ。

 

「負けないよ、おねーちゃん」

 

 今は、そう返すので精一杯だった。

 

「私も」

 

 姉は、優雅に微笑んでみせる。――去年一年間で、玄はさらに雀力を高めた自信がある。あらゆる面で強くなったという自負がある。だが果たして、今真剣勝負をしたところで姉に勝てるのだろうか。本当に来年、ライバル同士になったとき彼女を打ち負かせるのだろうか。

 

 様々な――本当に様々な不安が、玄の中に湧き上がる。全てを振り払うのは、困難だった。駅へと向かう足取りが重い。

 

 顔が自然と俯き、宥の一歩後ろを歩く。馴染みのない街、歩きづらい人混みの中ということも手伝って、徐々に姉との距離が離れてしまう。

 はっと、気付いたときには遅かった。

 

「わわっ」

 

 向かいから来た歩行者の肩にぶつかり、玄はよろめく。せめて二次被害は抑えようと無理に踏ん張りを利かせようとしたのがいけなかった。背中から別の誰かがぶつかってきて、完全にバランスを崩す。

 

 景色が、スローモーションで流れていく。眼前に迫るはアスファルト。予期する痛みに堪えようと玄が目を瞑ったその瞬間、

 

「うぉっと」

「きゃっ」

 

 誰かの腕に、抱き止められた。胸の形が歪む。けれどもしっかりと支えられ、それ以上玄の体が傾くことはなかった。

 

「あ、ありがとうございます」

 

 あたふたしながら、相手が誰かも確認しない内から玄はお礼を口にする。

 

「大丈夫ですか……って」

 

 労る声が、途中で途切れる。――聞き覚えのある声に、玄ははっと面を上げた。

 

「須賀くんっ」

「京太郎くんっ?」

 

 駆け寄ってきた姉と共に、驚愕の声を重ねる。

 

「玄さんに――宥先輩?」

 

 彼――須賀京太郎も、びっくりしていて。

 三人は、しばらく道の端で顔を見合わせていた。

 

 

 

 ――どうにかこうにか全員が我を取り戻すのに一分。挨拶を交わして、しかしこのままさようなら、なんて流れには当然ならなかった。

 

 場所を改めようという話になり、三人は宥の部屋に移動した。

 部屋に戻ってきてすぐ、玄は改めてお礼を言った。

 

「本当にありがとう須賀くん、助けられちゃった」

「いえいえ、インカレ前に大事なくて良かったです。玄さんが先に東京入りするって話は宥先輩から聞いてましたけど、まさかこんなところで会えるとは」

「それはこちらの台詞なのです!」

 

 やや興奮気味に、玄は食い付く。そのまま彼の腕を取りかねない勢いだった。

 

「京太郎くんはどうして新宿に来てたの?」

 

 飲み物とお菓子を机上に運び、玄たちの向かいに座りながら宥が訊ねる。

 

「和と優希と会ってたんですよ。宥先輩と同じで、インカレの激励会みたいなもの開いてたんです。優希の思いつきで、突発的だったんですけどね」

「それは是非参加したかったのです……!」

 

 非常に羨ましい面子だ。しかし、インカレ参加校の学生同士で大会直前に会うのは避けたほうが良いと釘を刺されている。談合や過度な馴れ合いをするつもりはなくとも、世間はそうは思ってくれないだろう。

 

「お楽しみはインカレが終わってからだね」

「俺はインカレ自体も楽しみですけど」

「今年は私たち、観戦だけだもんね」

 

 くすくすと、京太郎と宥が微笑み合う。仲睦まじげな様子は、やはりただの先輩と後輩の域を超えている――気もする。実際のところはどうなっているのだろうか。もっと言えば――京太郎は、姉のことをどう思っているのだろうか。玄は、彼女たちを観察しながらじっくり考え込む。

 

 少なくとも、悪感情は持っていないはずだ。何せ彼は自らと同じ趣味の持ち主。姉のおもちには大層興味があるはずだ。それに、さっきも自分の胸に腕が触れて、京太郎が照れていたのを玄は見逃していなかった。ちょっと、にやけてしまう。

 

 これは大きなアドバンテージになろう、と玄は自らの胸を見下ろす。――先ほどは緊急事態だったので何とも思わなかったが、男子に触られたのは初めてだ。しかも、結構思いっきり掴まれた。

 

 ――あ。

 

 一度意識してしまうと、もう駄目だった。普段自分から誰かのおもちを触りに行くので、触られる側に回っても大した抵抗はないつもりだったが――やはり、異性となると話は違う。赤面するのを玄は自覚する。

 

 あれは事故だと言い聞かせ、羞恥心と戦いながら、姉と京太郎のやり取りを引き続き観察する。いつのまにか宥の手には果実酒があって、頬を紅潮させていた。気分はとても良さそうで、時折京太郎を上目遣いに見つめては笑顔を零していた。――判断は、まだ保留状態にしておく。

 

「あ、お菓子切れちゃった」

 

 ぽつりと宥は呟き、それからすっくと立ち上がる。

 

「買い足してくるね。後飲み物も」

「あ、それなら俺が。宥先輩飲んでるし」

「下のコンビニに行くだけだから、大丈夫。京太郎くんと玄ちゃんはお客様なんだから、ゆっくり休んでて」

 

 玄たちの言葉も待たず、宥はマフラーだけ首に巻いてさっさと部屋を出て行ってしまった。確かにこのマンションの一階にはコンビニエンスストアが入っているので危険はないだろうが、不安に思ってしまうのは昔からの性か。

 

 ともかくとして、玄は京太郎と二人部屋に残されてしまった。テーブルを挟んだ向かいの席は誰もいなくなり、彼と肩を並べて座る形である。

 

 意味も分からず、どきどきする。だが、同時にチャンスだとも思った。

 玄は姉が飲んでいた果実酒に手を伸ばす。自分のコップに、なみなみ注いだ。

 

「須賀くんもどう?」

「うちの部活、未成年は絶対駄目ですから。玄さん、結構飲むんですか?」

「こっちはなんだかんだで体育会系なところがありまして。嗜むくらいには飲むのです」

 

 ちょっと見栄を張った。確かに先輩からの勧めで飲まされたりはするが、自分からはあまり飲もうとしない。果実の甘みと、アルコールの味が玄の気分を高揚させる。

 

「ねぇ、須賀くん」

「ど、どうしました?」

 

 彼の顔を覗き込み、名前を呼ぶ。その声は、自分が発したものとは思えないほど甘ったるさを含んでいた。

 

「おねーちゃんのこと、どう思ってるの?」

「ゆ、宥さんのことですか?」

「そう。なんだかおねーちゃんと須賀くん、仲良さそうだなって。とっても楽しそうに話しているのです」

 

 迂遠な物言いではあるが、その意図を察せぬほど愚かではないはずだ。彼が戸惑っている間に肩と肩が触れ合いそうになるくらい距離を詰め、逃がさない体勢を作り上げる。

 

「仲は良いですけど、ほら、小さい部活ですし。別に普通なんじゃないでしょうか」

「ふぅーん。普通。でも、おねーちゃんのおもちは普通じゃないよね」

「そりゃもう大変すばらで……って何言わせるんですか!」

 

 やはりそこは魅力的らしい。

 

「おねーちゃんともっと仲良くなりたいとか、思ったりしないのかな?」

「……いや、その。部活の仲間ですし、あんまりそういうのは」

「じゃあ、どうとも思ってないの?」

「そ、そんなことないですよ」

 

 そっぽを向いて、京太郎はあたふたと言い訳をする。身動ぎの気配を感じた玄は、とっさに彼の左手首を右手で押さえつけた。

 

「えっ、ちょっ」

「じゃあ、どう思ってるの?」

 

 戸惑いは完全に無視し、なおも玄は攻める。京太郎は「ああ」だとか「うう」だとか、何度か呻き声を上げてから、

 

「……すごく可愛いって思ってます」

 

 と、蚊の鳴くような声で答えた。飾らない言葉が、正直な気持ちだと教えてくれる。玄としては、満足できるとまではいかないものの、それなりに有益な回答であった。同時に彼女の胸に去来したのは、一抹の寂寥感であった。

 

 ともかく答えてくれたお礼を伝えようとし、しかしその前に京太郎が口を開いた。

 おそらくそれは、意趣返しのつもりだったのだろう。

 

「でも」

 

 玄の意図は掴めなくても、京太郎はからかわれていると判断したのだ。

 

「玄さんも、同じくらい可愛いですよ」

「な、ななななっ?」

 

 一瞬で、玄の頭がのぼせ上がる。本当に彼がそう思っているかはともかくとして――玄の感情をかき乱すには十分だった。

 

 よくよく考えれば、男子とこんなに距離が近いのも初めてだ。アルコールのせいで、胸の内から妙な気持ちが湧いてくる。

 

 ――な、なんで?

 

 姉の想い人――かも知れない相手。姉の傍に在り続ける――かも知れない相手。本来であれば、自分は役者ではない。姉の恋の行方を見守り、応援する立場のはずだ。妹として、それはかなぐり捨ててはいけないものはずだ。

 

 だと言うのに今は、玄の頭から大事なことが抜け落ちていく。味わうのは喪失感、同時に罪悪感。けれどもその感情がまた、玄を深い沼へと誘う。決して立ち入ってはいけないはずの、黒い沼に。

 

「――、もうっ!」

 

 耐えきれなくなって、玄はその場に立ち上がった。ひとまず京太郎から距離をとらねば。肌が触れ合っている現状は、危険である。

 

 しかし立ち上がった瞬間、くらりと玄はよろめいた。酒量は僅かであるが、様々な条件が重なって玄は半ば酩酊していた。

 

「あ――」

「っと、玄さん、大丈夫ですか」

 

 新宿の街に引き続いて、京太郎に抱き止められる。

 だが、今回は玄が身を捩ってしまった。触れられるのが嫌というわけではなく、けれども反射的に逃れようとしていた。

 

「わっ」

「あうっ」

 

 しかし腕と腕、脚と脚が絡み合って、二人はバランスを崩してしまう。最早持ち直すには不可能な状態で、京太郎が玄の腕を引きベッドの上に倒れ込んだ。

 

 結果。

 

 玄が京太郎を、ベッドの上に押し倒した形となった。

 

儚い吐息が、玄の口から漏れる。一度高まった鼓動は、収まる気配がない。視線と視線が、ぶつかり合う。

 

 彼と見詰め合い、名前を呼び合い、玄の体が傾いて。

 

 

 ――丁度そのとき、彼女は帰ってきた。帰ってきて、しまった。

 

 

 




次回:8-3 決戦、松実姉妹 2nd


※お酒は二十歳になってから

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