大学に進学し、一人暮らしを始めてから既に一年以上経つ。毎朝一人で起きるのにも、とっくの昔に慣れていた。
けれども姉の匂いに包まれたベッドで目を覚ましたとき、玄はかつてない寂しさを覚えた。大阪で初めて夜を過ごしたあの日よりも、姉が東京に行った次の日よりも、ずっと寂しかった。
時刻は朝八時。
昨晩、宥はこの部屋を飛び出して行ってしまった。原因は、間違いなく自らの軽率な行動だと玄は自覚していた。
けれども。
――どうして。
今思い返しても、どうしてあんなことをしでかしてしまったのか、玄は理解できなかった。心の赴くまま、衝動に流されるままに体が動いていた。まるで、掴み頃のおもちを前にしたときと同じ気持ちが玄の胸を支配していた。お酒の力で歯止めは利かなかったのは確かだが――それにしたって、いささかやりすぎた。
その真因の答えは、いくら考えても出なかった。全くもって、謎である。
歯を磨きながら、ぼんやりと玄は考える。
姉の京太郎に対する気持ちは、ほとんど確かであろう。問題は、飛び出す直前の捨て台詞からして、本人が未だ無自覚らしきところにある。
あの姉ならそのくらい鈍くてもおかしくはない、と玄は思う。貶めているのではなく、むしろ美点であると。ただ、そこは自分が支えてあげなければならない、この話は私のほうがしっかりしているだろう――というのが玄の自己評価であった。
寝間着から着替え直したところで、チャイムが鳴った。
「は、はーい」
「須賀です、おはようございます」
慌てて玄関に駆け寄ると、ほっと安心する声が聞こえてきた。玄はすぐに扉の鍵を開けた。
「朝早くからすみません」
「ううん、平気だよ。入って……って、おねーちゃんの部屋だけど」
「はい、お邪魔します」
玄は苦笑いしながら京太郎を招き入れる。
昨夜、宥からの連絡は一度だけしかなかった。それも、玄と京太郎が必死で電話をかけ、捜索した結果である。
友達の家に泊まる――宥は、電話口の向こうで確かにそう言った。しかし、どこの友達の家かまでは語ってくれなかった。お互い頭を冷やすには必要だと、玄は甘んじてそれを受け入れたが、心配なことには変わりはない。
まさかあの姉に限って嘘を吐くなど、でもいつもの姉ではなかったし――思考は堂々巡りし、昨夜はろくに眠れる気がしなかった。
けれど、京太郎がいてくれたおかげで、玄はいくらか落ち着けた。
先陣切って捜索に乗り出してくれたし、心当たりのあるところは全部当たってくれた。実際のところ、彼に責任はほぼないと言って良いのに、だ。
なにより、ずっと励ましてくれた。玄が眠気を覚えるまで、傍にいてくれた。数時間ぶりに顔を合わせて、一息つけたのも当然だろう。
「とりあえず、朝ご飯にしましょうか」
「あっ、えっと、おねーちゃんの冷蔵庫の中身、勝手に使っても良いかな……?」
「あ、俺作ってきたんで。口に合うかは分からないですけど」
京太郎が差し出してきたパックの中には、ぎっしりサンドイッチが敷き詰められていた。用意の良さに玄は舌を巻き、お礼を言うしかない。
「あ、ありがとう須賀くん……何から何まで」
「いえ、正直あんまり寝られなくて、手慰みに作っちゃっただけですから」
彼の作ったサンドイッチは、形も綺麗で大変美味だった。前回の合宿や、高校時代でも思ったが、彼は存外器用で料理が得意である。麻雀もかなり打てるし、かなり貴重なスキル持ちだ。
玄が感心している内に、京太郎はおずおずと切り出してきた。
「さっき、うちの麻雀部の先輩たち全員に確認してきました。宥先輩、どこにも来てないそうです」
「そっか……」
「となると、部外の友達の家に泊まったんだと思うんですけど」
「須賀くんは心当たり、あるの?」
東京での姉の交友関係全てを、玄は把握していない。わらにも縋る想いで京太郎に訊ねてみたが、
「すみません。学部の友達とかになると、全員は……」
「そうだよね……」
がっくりと玄は肩を落とす。京太郎はそんな玄に向けて、重ねて謝った。
「本当にすみません、なんだか変なことになっちゃって」
「う、ううん。悪いのは私なのです」
昨夜、何度もしたやりとり。玄は京太郎が謝る筋合いではないと信じているが、当の彼はそうは考えていないようだ。むしろ、強く責任を感じているようだった。
「いえ、なんだか俺が関わっちゃうとお二人ともぎくしゃくしちゃうみたいで……俺、二人のそばにいないほうが良いんじゃないかって」
「た、たまたまなのです! それに四月のときも悪いのは私なのです!」
「でも」
「でもじゃないのです!」
机を叩く勢いで、玄は京太郎に詰め寄る。影が差す彼の表情を、放っては置けなかった。
「須賀くんが悪いなんてことは、絶対にないのです!」
ぎゅっと、力強く彼の手を握りしめる。衝動的に、そうしていた。
「玄さんっ?」
「あんまり自分を責めると怒るから! 絶対に私たちと距離を置くなんて言わないで!」
「は、はいっ」
玄の剣幕に気圧されて、京太郎はこくりと頷く。それから玄は、引き寄せた彼の手か自分の胸に触れていることに気付き、慌てて離した。
気まずい沈黙が、部屋に降りる。
玄の胸は、昨夜のように強く脈打っていた。どうしてしまったのか、彼女自身もよく分からない。分からないが、次に紡ぐべき言葉を見つけられなかった。
だから、今度も切り出してきたのは京太郎のほうからだった。
「とりあえず、俺が分かる範囲で宥先輩の行きそうなところを探してみます」
「じゃあ、私も」
「玄さんはここで待ってて下さい。宥先輩が帰ってくるかも知れませんし」
正論ではあった。一瞬、玄も頷きかけた。
けれども結局、口を衝いて出てきた言葉は、
「須賀くん一人には行かせられないよ」
だった。
「私も一緒に――ね?」
玄は小首を傾げ微笑み、京太郎の瞳を覗き込む。
彼女に自覚はなかったが、高校時代から僅かながらも年齢を重ね、少女から大人へと変わりつつあった。姉にも通じる妖艶さを手に入れようとしているのだ。
「……はい」
それに呑み込まれ、京太郎は首肯する。させられていた。
◇
本来なら、今日は姉と一緒に東京の街を散策する予定であった。
それが今は、隣を歩いているのは姉ではなく、年下の男の子になっている。不思議なものだ。異なる歩幅を、彼はゆったり歩くことで合わせてくれる。意外と――というのは失礼だろうか――手慣れている気がして、玄は一抹の寂しさを覚えた。今はそんな場合ではないというのに。
ともかく、京太郎の案内でいの一番に向かったのは、東帝大学だった。おおよそ三ヶ月ぶりである。
立ち並ぶ建屋はいずれも立派で、何度来ても流石は有名校だと溜息を吐かされる。麻雀推薦で進学した自分を貶めるつもりはないが、受験を乗り越えた姉に、玄は賞賛を送りたくなる。確固たる目標を、宥も持っている。
ふと、玄は思った。
――では、隣の彼はどうなのだろう。
何か大きな目的や目標があって、この偏差値の高い大学を選んだのだろうか。
「須賀くんは、何か夢とかあるの?」
「夢、ですか?」
予想外の質問だったらしく、京太郎は首を傾げる。
「そう。大学を卒業してから、やりたいこととかあるのかな?」
「うーん。今のところは、具体的にはありませんけど」
僅かに逡巡する素振りを見せてから、彼は答えた。
「どんな形でも、麻雀に関わり続けたいとは思いますね。なんだかんだではまっちゃってますから」
「それじゃ、プロとかは?」
「まさか」
京太郎は、すぐさま一笑に付した。
「俺にはそれだけの器はありませんよ」
「でも、インハイじゃ良い成績だったよね」
「あれは出来すぎなんですよ。咲や先輩たちと打ってたら毎回自信潰されてますし」
「……そっか」
玄は一つ頷いてから、横目に京太郎の表情を窺う。――どこまで本気で言っているのだろうか。先日の勝負や合宿で、玄も何度か彼と打った。
はっきりと、玄は覚えている。
実力云々はさておき、卓上で彼から感じ取ったのは並々ならぬ熱意だった。それこそプロを目指す人間と同じか、それ以上かと思わせるくらいには。感じる認識の差異に玄は戸惑うが、元々付き合い自体さほど深くない。当然と言えば当然だろう。
――でも、須賀くんがそう言うのなら。
思いついたアイディアは、玄は胸の内にしまい込む。簡単に口にできるものではなかった。
そうこうしている間に、京太郎に連れられて、玄は部活棟やサークルボックスを歩き回った。京太郎が知る限りの、宥の友人と会うためである。夏休み中なので、所属する部活などに顔を出していないか期待したが、残念ながらほとんど空振りであった。たまたま出会えたとしても、宥の行方を知る者はいなかった。
一旦カフェテリアに腰を落ち着け、二人は話し合う。
「どうしましょう。一度家に戻ってみますか?」
「うん……そのほうが良いかな」
「こうなったら四の五の言わず、先輩たちにもちゃんと説明して協力してもらいます」
「そ、そうなるとやっぱり須賀くんの立場が悪くならないかな?」
昨夜恭子たちに連絡をとったときは、玄の判断で事情を濁して説明した。身内の恥を晒したくないというのもあったが、何かよろしくない事態に発展すると予感したのだ。
「俺が頭下げて済むなら、それが一番良いですから」
京太郎がスマートフォンを取り出す。玄が止める暇もなく彼の指が画面に触れようとし、
「あっ」
「わっ」
寸前、スマートフォンが震えた。誰からの着信か――玄が問いかける前に、京太郎は答えていた。
「宥先輩ですっ!」
「ええっ」
そのまま彼は電話を取る。玄は固唾を飲んで見守るしかない。
「はい、須賀です。……はい。あの、……は、はい。はい」
京太郎は、頷くばかり。有無を言わさない気配が、電話口の向こう側から伝わってくる。彼のスマートフォンを引っ掴みたい衝動を抑え、玄はその場に待機する。
電話自体、一分もかかっていなかっただろう。だが、玄には永遠の時間にも感じられた。
スマートフォンを耳から離した京太郎に、玄はすぐさま食い付く。
「おねーちゃん、なんてっ?」
「……部室に来いって、呼び出されました」
「部室って」
「うちのです」
京太郎が椅子から立ち上がる。
「行きましょう」
「うん!」
大学に来ていて良かった。しかし、姉の目的は一体何なのか。分からない。玄の頭の中は混迷を極めるが、ともかく旧部室棟へ走った。流れ落ちる汗を気にする暇はなかった。
歴史を感じさせる古めかしい建物に、足を踏み入れる。夏の熱気とは裏腹に、中はひんやりとした空気に包まれていた。階段を昇り、奥へ奥へと進む。
京太郎が、先に部室の扉の前に辿り着く。一度玄と顔を見合わせた後、彼はドアノブを捻った。鍵は、開いていた。
「おねーちゃん!」
玄の視界に飛び込んできたのは、卓の前に佇む姉の姿。それ以外は何も見えない。
宥から、一瞥をくれられる。だが、彼女が呼んだ名前は玄のものではなかった。
「京太郎くん」
「は、はいっ」
上擦った声で、京太郎が返答する。宥から感じられるのは、かつてない威圧感だ。実妹である玄さえも、知らない姿。
「麻雀で、勝負しよう」
「しょ、勝負?」
「うん。私が勝ったら、玄ちゃんを返して」
「え、ええー?」
玄と京太郎の困惑の声が重なる。
「な、何言ってるのおねーちゃんっ?」
「玄ちゃんをたぶらかすなんて、だ、だめ!」
「たぶらかされてなんかないよっ?」
「玄ちゃんは口を出さないで!」
明らかにおかしい姉の様子に、ますます玄は混乱する。こんなことを言い出す人ではない。しかし、表情は真剣そのもの。
「勝負を受けないなら、玄ちゃんは二度と東京に来ちゃだめ!」
「そ、そんなぁ」
逆らえる状況ではなかった。
「分かりました」
頷いたのは、京太郎。
「す、須賀くんっ?」
「落ち着いて下さい、玄さん」
京太郎に耳打ちされ、どきりとする。構わず彼は小声で続けた。
「宥さんは玄さんを取り戻したいって思ってるんですから、負ければ良いんです。それで全て丸く収まります」
「あ、そ、そっか」
そんな簡単なことに気付かないなんて、本当に混乱していたようだ。前回のときとは違って、京太郎たちが背負う敗北時のリスクはない。
そう思えば気が楽になったが――なんとなく、玄は面白くなかった。
京太郎は、別に自分に拘りはない。穿った見方ではあるが、そう言われたのも同然ではないのか。
そもそも、姉のこの行動は何だ。一見筋が通っているようで、全く通っていない。宥は、自分自身に嘘を吐いている。
様々な要因が絡み合い、玄の中でふつふつと正体不明の怒りが湧き上がる。
「おねーちゃんが負けたら」
「え?」
その、言い表しようのない感情を受け。
玄の口は、勝手に動いていた。
「おねーちゃんが負けたら、何かあるの?」
「えっ?」
「おねーちゃんが拘っているのは、本当に私?」
重ねられた二つの質問に、部室が緊張に包まれる。「玄さんっ?」と、京太郎が呼びかけてくるが、玄は無視した。
「えっと、えっと」
先ほどまでの強い眼差しはどこに行ったのか、一転宥はあたふたと動揺し始める。構わず玄は続けて言った。おそらく、核心的な一言を。
「須賀くんが勝ったら、私は須賀くんのもの。そういうことで、いいよね?」
ここにきて自分の気持ちを誤魔化そうとする姉を、玄は許せなかった。姉に対して、こんな感情を抱くことは初めてだった。中途半端な態度を取ると言うのなら――容赦はしない。
宥の返事を待たず、玄は京太郎の腕を取った。あっ、と宥から短い悲鳴が上がる。
「私は、須賀くんにつくから」
「く……玄さん? 分かってますよね?」
「分かってるよ。うん。作戦はちゃんと分かってる」
「は、はい」
にっこりと笑い、玄は京太郎を黙らせる。本当に分かっているのだろうか、という心配が京太郎の表情に浮かんでいるのは気付いたが、玄は無視した。
「でも、どうやって戦うの? このままだと二対一だよ、おねーちゃん」
「……大丈夫。元々、京太郎くんと玄ちゃん、二人と戦うつもりで来たから」
その回答は、予想外で。
同時に、玄は強いデジャヴを感じた。
「お願いします」
宥の呼びかけに、ホワイトボードの影から一人の女性が姿を現す。
「えぇっ?」
姉の姿にばかり気を取られ、全く玄は気付いていなかった。それは京太郎も同じだったらしく、突然現れた第三者に呆気にとられていた。
だが、それよりも驚いたのは、その格好。
フルレングスの黒いワンピースに、純白のエプロン。それはまるで「本物」と同じメイド服で。いつか見た、ミニスカートのそれとは違い胡散臭さは感じられない。
ただ一点、その姿に奇妙な部分があるとすれば――
顔をすっぽり覆い隠した、狸のお面。
その奥の顔を、うかがい知ることはできない。あのときの彼女と同じ、全てを覆い隠す仮面。
けれども、玄は直感する。
園城寺怜ではない。彼女ではない。
今目の前に居る人間は、全く異なる別人だ。
「こんにちは」
仮面の女は、抑揚のない声でその名を名乗る。
「麻雀仮面ver.Tanuki」
小走やえが、愛宕絹恵が大阪で語っていたその名前。
「麻雀仮面Tです」
――感じ取るのは、圧倒的なプレッシャー。
ああ、と玄は理解した。
いずれにせよ、手を抜いて戦うなんて有り得ない、と。
次回:8-4 参上、麻雀仮面T