長野旅行の顛末を、最後まで竜華は怜に伝えられなかった。伝えられるはずがない。あの二日間の、あの夜の記憶は固く封じられた。彼、須賀京太郎とのやり取りなど、もっての外。二度と顔を見たくなかった。――少なくとも、当時は。
実際は、次に彼と再会するまで間もなかった。
怜の手術の前日、京太郎は大阪に現れた。もちろん、怜のお見舞いのために。しかしそれを察知した竜華は、彼を門前払いにしようとした。
「納得いきません」
京太郎の抗議は、至極当然のものだった。いくら親友と言えど、彼と怜の関係性に本来口を出す権利などあるはずがない。僅かな後ろめたさを覚えた竜華は、一つの提案をした。
「あんたも雀士なら――麻雀で勝負や。うちに、麻雀で勝てたら会わせたる」
京太郎はそれに応じ、そして竜華は彼を叩きのめした。高校ではトップクラス、大学に入学してすぐ一軍入りした竜華と無名の男子では話にならなかった。
心が痛まないと言えば、嘘だった。一度は彼に対して抱いた淡い想いを、全て飲み込めるほど大人ではなかった。だが、対局を終えた頃には竜華はすっきりしていた。この程度か、と彼に対する失望による見切りもあった。
――しかしながら。
怜の手術が終わった後、彼はもう一度竜華の前に現れた。
「俺と、もう一度勝負して下さい」
最初に竜華が勝負をふっかけたときと、明らかに雰囲気が違った。――覚悟。その重みは、竜華を圧倒させた。
「そんなに、怜に会いたいん?」
「それもあります。でも」
雨の中、ぼろぼろになった姿で、彼は言った。
「――――」
◇
インカレ二日目、竜華はホテルの自室でベッドに寝転がっていた。
竜華属する西阪大学女子麻雀部は、団体戦初日の一回戦を危なげなく突破していた。大将を務めた竜華の出番が回ってくる頃には、大差がついてほぼ終戦状態。二回の半荘を竜華は守り通した。
しかし、「きっちりと」とはいかなかった。
不用意な振り込みや、防げたはずの他家の和了を止められなかった。誰かに指摘されるまでもなく、精彩を欠いていたのを竜華は自覚していた。
ごろり、とベッドの上で竜華は寝返りを打つ。溜息が出た。
次の試合まで中二日、今日は全体ミーティングのみという軽いスケジュール設定だった。
「調子の悪い日くらいありますよー」
「玄ちゃーん」
同室の後輩、松実玄に慰められて竜華は彼女の太股に縋り付く。玄はよしよし、と竜華の頭を撫でた。先輩と後輩の関係性としては逆転しているが、二人にとっては特段珍しい姿ではない。怜を甘やかしてきた反動なのか、ここのところ竜華は彼女に依存していた。一方の玄も、竜華を実姉代わりに見ている。
「でも、流石に次の試合までにはなんとかせなあかんよなぁ」
「何かきっかけでもあったんですか?」
「きっかけ……かぁ」
問われ、竜華は天井を見上げる。
本当のところを言えば、分かっている。――思い出してしまったのだ。ここのところはずっと、忘れていたのに。もう、振り返ることはないと思っていたのに。
ほんの少し、目を離した隙に変わっていた親友を目の当たりにして。
彼女と共に歩み続ける京太郎と話して。
二人と大きな距離が生まれてしまった、と感じるのだ。
怜から言わせれば、先を進んでいるのは自分のほうなのだろう。傍目に見てもそうなのだろう。だが、真に足踏みをしているのはどちらなのか――竜華にとっては、答えは明白だった。
「竜華さん竜華さん」
「どうしたん?」
「私、お昼からおねーちゃんとお散歩に行く予定なんですけど、竜華さんはどうしますか? ご一緒します?」
「むー……」
竜華は僅かな間逡巡してから、
「玄ちゃんところのデートを邪魔するんもあれやし、うちはネト麻で調整するわ」
「園城寺さんとは会わないんですか?」
「……それも考えたんやけど、不甲斐ないまま遊ぶのもどうかと思て」
「そんなに深刻に考えなくても良いと思いますけど」
竜華の髪を撫でながら、玄は「それに」と付け足す。
「気分転換は大事ですよ」
「……ん」
玄の太股から頭を上げ、竜華はぱん、と自らの頬を叩いた。
「うち、今から怜と会ってくるわ」
「分かりました!」
敬礼する玄を尻目に、竜華は出立の準備を始める。それから携帯で怜にメッセージを飛ばしておく。荷物の関係上、あまり私服を持ち込めていないのが恨めしい。
「それにしても」
ふと、このホテルから既に出て行った部員たちのことを竜華は思い出す。
「やえたちは麻雀仮面とやらにご執心みたいやな」
巷で噂の麻雀仮面。大阪で猛威を振るい、多くの大学生雀士を屠ったという。
その麻雀仮面が初めて現れたというこの東京の地、さらには全国の大学生雀士が集まるインカレの時期――ここにきて、何かしらの動きがあると言う噂がまことしやかに流れているのだ。やえたちはその噂を信じ、今日も朝から雀荘へ繰り出していた。
もっとも麻雀仮面と直接顔を合わせていない竜華は、さして興味もなかった。相当の打ち手、という評判には惹かれるが。
「うちはちょっと胡散臭すぎて近寄る気せぇへんわ」
「そう――ですね」
玄の相槌は、どこか曖昧なものだった。はて、と竜華は首を傾げる。大阪に麻雀仮面が現れたという一報が入ったとき、詳しく話を聞いていた部員の一人が玄である。竜華は彼女が麻雀仮面に強い興味を抱いていると思っていたが、この反応を見る限りそうでもないようだった。思えば麻雀仮面に拘るのであれば、やえたちに追随していただろう。
「ほんとは玄ちゃんも麻雀仮面、探したかったん? もしかしてうちのせいで――」
「いえいえいえ!」
ぶんぶんと勢いよく、玄は横に振った。
「全然! 麻雀仮面さんなんてどうでもいいのです! さっきも言った通りおねーちゃんとゆっくりするので!」
「そ、そう……」
玄にも、何かしら含むところはあるのだろう。竜華の目は誤魔化せない。しかしここまで力強く否定されると、流石に追求できなかった。
「それじゃ、行ってくるわー」
「お気をつけて!」
玄に見送られて、竜華はホテルを出発する。丁度そのタイミングで怜からの返信があった。丁度近くの駅に来ているから、そこで合流しようという提案だった。
高校時代からこちら、東京を訪れる機会は多い。その大半は麻雀絡みなのだが、いずれにせよ竜華はそれなりの土地勘を持っている。集合場所までは難なく向かえたが、夏の暑さと人混みにはうんざりさせられた。
それでも怜の姿を見つければ、元気になる――そう彼女は思っていた。
しかし。
指定された駅前の広場で待ち受けていたのは、怜と、それから――京太郎だった。駆け寄ろうとした竜華の足が、ぴたりと止まる。
別に、あの二人が一緒にいても不思議ではない。同じ大学の麻雀部、お隣同士、少し特別な関係。二人が出会ってからまだ二年未満。それなのに談笑する姿は自然体で、もう何年も連れ添った仲に見えた。それこそ、自分よりも深い付き合いがあるように。
「あ、竜華っ!」
声をかけるよりも早く、怜に気付かれてしまった。昔よりもずっと明るく、大きな声で呼びかけられる。元気に駆け寄ってくる姿も、ほとんど見覚えがなかった。
そして、そんな彼女の傍に京太郎は控えている。いつでも何が起こっても、対応できるように。自分の役割が引き継がれたことに、わだかまりはもうない。ただ一抹の寂しさを覚えるのは、どうしようもなかった。
それよりも、今は。
あの長野の出来事を思い出したせいか、彼の顔を直視できなかった。捨て去ったはずの、終わらせたはずの過去。
「竜華? どうしたん、ぼーっとして」
「わっ」
いつの間にか、怜に顔を覗き込まれていた。竜華は思わず後退ってしまう。
「び、びっくりさせんといて」
「声かけたやん。ほんまどうしたん?」
「どうしたって言われても……」
「一回戦の疲れが残ってるんですか?」
割り込んで訊ねてきたのは、京太郎だった。うっと竜華は声を詰まらせ、視線を足元に落とす。しかし心配してくれる彼に申し訳なく、次の瞬間には笑顔を作っていた。雑誌の撮影での経験が生きた。
「疲れなんて全然! でも心配してくれてありがとなー、須賀くん」
「ああいえ、だったら良いんですけど……」
完全には納得していない様子であるが、それで京太郎は引き下がる。ほっと一息つく竜華であったが――親友の目は誤魔化せなかった。
「りゅーか」
「な、なんなん真面目な顔して」
「何を悩んどるんか知らんけど、そんなんで勝てるほどインカレは甘いん?」
「――……」
怜の指摘が、容赦なく竜華の胸に突き刺さる。反論はいくつも思い浮かぶが、すぐに泡となって消えていった。
結局出てきたのは溜息と、苦笑い。
「怜には敵わんな」
「で、ほんまどうしたん? 来年はライバルさんなんやから、相談乗れるんは今の内だけやで」
「相談……って言うよりも、お願いがあるんや」
「お願い? ……竜華?」
疑問符を浮かべる怜をよそに、竜華は京太郎に向き直る。彼は怪訝そうに眉を潜めていた。
胸に渦巻く靄の正体。本当は、ずっと前から気付いていた。知っていた。あのときの忘れ物を、取り戻さなくてはならない。
「須賀くん」
「――、はい」
竜華の眼差しに、気圧される様子を京太郎は見せた。だが、それも僅かな間であった。竜華の真剣な態度は、彼の姿勢を正させる。怜は二人の顔を見比べるが、ただならぬ様子に口を挟むまでには至らなかった。
「どうしても君に、頼みたいことがあるんや」
「俺に、ですか?」
「そう、君に」
熱っぽい竜華の視線に、怜は動揺する。だが、今更止められる気配はなかった。竜華が、京太郎の手を取っても。
「し、清水谷さんっ?」
「うちと、うちと――」
ぎゅっと両手で彼の手を包み込み、
「うちと、麻雀打ってくれへんっ?」
「え?」
「は?」
望みを口にしたのだった。
◇
唐突な竜華のお願いに、しかも竜華が動機を語る前に、京太郎は即応してくれた。怜も賛同の意を示し、三人は雀荘に向かうことにした。
「ここからですと、うちの大学行くより近場で広いところありますからね」
「場所代はうちが持つから」
「そんなん気にせんでええのに」
「この中やったらうちが一番先輩やん」
くすりと竜華は笑い、怜の頭を撫でる。
「怜が後輩って言うんも最近慣れてきた気がするわ」
「どっちかと言うとこれ子供扱いやん」
「前からそんな感じやったやろ」
軽口を叩きつつ、竜華は雀荘に続く階段を昇る。
前を行く京太郎が、先に扉を押し開く。そのまま彼は雀荘の中へと一歩足を踏み入れて――ぴたりと止まった。
「きょーちゃん?」
「須賀くん?」
竜華と怜は揃って首を傾げ、彼の背中から雀荘を覗き込む。
――その光景に、竜華は目を疑った。
椅子に座ったまま項垂れる多数の人間たち。皆一様に表情は暗く、覇気がない。死屍累々、そんな単語が竜華の脳裏に過ぎった。雀荘の店員たちも、その顔を歪ませている。彼らの視線の先、そこに立つのは一人の女性。
彼女は、明らかに場違いな格好をしていた。
薄紅色の和装の上に、白いエプロン。腰では大きな帯が存在を主張している。まるで大正時代の給仕服のよう。室内であるのに、彼女の手には和傘の柄が握られていた。
何よりも、おかしいのは――
顔をすっぽり覆い隠した、ひょっとこのお面。一方で、長く白銀に輝く髪は隠し切れていない。何とも珍妙な姿、としか評せなかった。
だが、この場を支配しているのは間違いなく彼女。圧倒的な存在感のプレッシャー。思わず竜華は身構えて、
「っ?」
風が、吹き荒んだ。
一歩、京太郎が前に出て竜華と怜を庇う。大きな背中に視線を遮られるが、すぐに風は止んでくれた。
「……なんなん?」
ひょこりと顔を出し、竜華は改めてひょっとこ面と向かい合う。幻覚でも何でもなかった。給仕服の謎の女は、確かにここにいる。
「なぁ、怜? ……怜?」
竜華は親友に呼びかけるが、返事はなかった。思わず隣を振り向く。
怜は、思い切り顔をしかめてひょっとこ面を睨み付けていた。京太郎も困惑気味の視線を送っている。彼は、重々しく口を開いた。
「麻雀仮面……っ?」
その名前に、竜華ははっとした。やえたちが騒いでいた、麻雀仮面。――まさか、この女性が。しかし、明らかにこの雀荘の状況を作り上げたのは彼女だ。これだけの数の雀士を打ちのめしたのだ。
「はい」
ひょっとこ面はたやすく頷き、まず京太郎、怜、そして最後に竜華へと面を向けた。
「麻雀仮面は、私です」
強い。竜華の雀士としての直感が、告げている。
「丁度今、お相手してくれる人を探していたんです。――こちらの皆様方は、既にお疲れのようで」
麻雀仮面は雀荘内を見回してから、竜華たちに語りかける。再び風が、渦巻いた。握りしめた手には、既に汗が滲んでいた。
「一局――いかがですか?」
興味はなかった。やえや大阪の皆がどれだけ騒ぎ立てても、竜華は重い腰を上げようとしなかった。彼女の中で、麻雀仮面の比重は小さかった。
しかし、それらは全て一撃でひっくり返された。
まず一歩、前に出たのは怜。
「ええ度胸や」
無感動な表情に、強い意志を秘めつつ彼女は応じた。
「相手させてもらうわ」
次に動いたのは、京太郎だった。彼はちらりと竜華を見遣り、竜華は首肯で答える。――それで別に、構わなかった。
「俺も――お願いします」
低い声には、確かな熱が点っていた。
「ここで引きたく、ありません」
そして、二人に引っ張られるように、竜華もまた麻雀仮面へと歩み寄った。
「邪魔せんといてって言うところやけど、面子足りてなかったんも確かやからな」
吹き荒ぶ風の中で、火花が散った。
「勝負や」
――各地で勃発している大学生雀士対麻雀仮面。
その一幕が、上がろうとしていた。
次回:9-4 明日望む者の告白