愛縁航路   作:TTP

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 夏期休暇中ではあるが、夕刻の学食はそれなりに人で混み合っていた。半分以上は自分たちと同じような部活やサークル活動に勤しむ学生のようだ、と尭深は察する。どのグループも活気に溢れていて、楽しそうだった。羨ましい、と僻みにも似た感情を芽生えるのを自覚する尭深だったが、自覚したところで止められるわけでもなかった。

 

「それで」

 

 カレーライスの載ったトレイが、目の前の席に置かれる。

 

「話というのは」

「あ……うん」

 

 対面に座ったのは、煌。思索に耽っていた尭深は現実に引き戻され、煌と向かい合う。

 相談がある、呼び出したのは尭深のほうだった。しかし尭深は俯き、話を切り出せない。見かねた煌は苦笑交じりに、訊ねかけた。

 

「須賀くんのことですか」

「……うん」

 

 言い当てられ、もはや取り繕うこともせず、尭深はこっくりと頷く。

 

「煌ちゃんは、須賀くんの留学に……反対?」

「卑怯な言い方かも知れませんが、どちらでもないですね」

 

 それは、またしても尭深の望む答えではなかった。じわり、と汗が滲む。

 

「どうして?」

 

 自然と、詰問する口調になってしまう。部室での竹井久との一件に続き、ここまで尭深が感情を露わにするのは珍しく、煌は一瞬面食らったようだった。しかしすぐに穏やかな笑みを浮かべて、

 

「私には、ここで『必ず行くべきだ』と言えるほどの経験と自信がありません。でも、『絶対に行って欲しくない』なんて言って、彼の選択肢を縛れるほどの立場だとは思っていません」

 

 その言葉は、ぐさりと尭深の胸に突き刺さった。

 

「何にせよ、須賀くんが一番に相談すべき相手はご家族でしょうし。だから私は、私が彼の選択に口を挟むべきではないと思っています。もちろん、相談を受けたら最善の一手を一緒に考えるつもりですけど」

 

 今のところ受けていませんけどね、と煌は冗談めかして言った。しかし尭深は笑えなかった。そう、確かに自分と彼は同じ部活の先輩と後輩だ。大切な仲間だ。けれどもそれが、彼の人生に影響を与える免罪符にはなり得ない。

 

 あるいは竹井久のように、確固たる信念を持つ人間ならば在り方も違うのだろうが――尭深は、彼女ではない。どちらが正しいというわけではなく、考え方の相違なのだ。

 

「尭深は、どうなんですか」

「どう、って」

「須賀くんの留学。賛成なんですか、反対なんですか」

 

 この質問は、宥にもされた。人に訊ねておいて、しかし、

 

「……分からない」

 

 自分の答えは、出ていない。分からなかった。膝の上に置いた手が、自然と握り拳になっていた。

 

 ――分からない。

 

 尭深は何も、答えられなかった。

 

 

 ◇

 

 

「私もめっちゃ考えたけどな」

 

 翌日、たまたま部室で怜と二人きりになったとき、尭深は彼女にも同じ質問をぶつけた。怜は、はっきりと京太郎に好意を寄せている。そのくらいは尭深でも分かるし、公言さえしていた。だからきっと、部で一番に反対するのは彼女だろうと尭深は思っていた。

 

「行って欲しい、って思っとる」

「え……」

「引き留めると思た?」

 

 雀牌の汚れを拭き取りながら、怜は自嘲に塗れた笑顔を作る。図星を突かれた形になる尭深は、言葉を詰まらせた。

 

「尭深さんが言いたいことは分かる。けど、私の結論は、行って欲しい。消極的な賛成と違うで? きょーちゃんが行かないなんて言い出したら、背中蹴り飛ばそう思っとる」

「どうして……ですか」

 

 声が震える。煌にしたように、問い詰める口調にはならなかった。それよりも、動揺のほうが激しかった。

 

 怜は、そんな尭深を慮るように、落ち着いた声で語りかけてくる。

 

「きょーちゃんがいなくなるかも、って考えたときな。正直、めっちゃ怖なった。東京で生活するんも、麻雀を打ち続けるんも、何もかも。それで、ああ、甘えてたんやなって気付かされた。そんなつもりはなかったけど、そうならないようにしてたつもりやったけど、いつの間にかずるずるもたれかかってた」

 

 でもな、と怜は言葉を翻す。

 

「私が目指してる場所は、一人でも立てなあかんところやから。もちろん、一人だけの力で辿り着けるところやない。けど、最後の最後、きっと一人で踏ん張らんとあかんときがくる。そのとき、後悔したくないんや」

「後悔……ですか」

「うん。今私が目指しとるもんは、私一人だけやったら、とっくの昔に諦めてたやろうから。支えてくれた人たちがいて、初めて私は前に進めたんや。その人たちを、裏切るような真似はしとうないから。――ま、ぐだぐだ言うたけど、これも一つの試練と思て頑張るだけや」

 

 からっと笑う怜からは、強がりにも似た感情が見え隠れするのを尭深は感じ取った。しかし怜は、ここで「強がる」ことを選んだのだ。きっと、この先本物の強さを手に入れるために。今を逃げずに、未来で戦うために。

 

 多分それは、自分にも必要な強さなのだと尭深は思う。けれども、怜の意見にすぐに乗りかかる気にもなれなかった。――納得できない。反発心と言っても良い。おそらく怜に対して、初めて尭深が抱いた感情だった。

 

「理解できへん?」

 

 心の中を見透かしたかのような怜の質問に、尭深は思わずかっとなった。さりとて反論できるわけでもなく、俯くばかり。苦笑混じりの溜息が、怜の口から漏れ出たのを感じた。

 

「できへんくてもええよ。私と尭深さんは違うやろ?」

「それは――」

「せやから、教えて」

 

 どこか挑戦的な態度で――そう感じるのは穿ち過ぎであろうか――怜は、再び問いかけてくる。言葉が紡がれるよりも早く、尭深は耳を塞ぎたくなった。

 

「尭深さんは、どうしたいん?」

 

 答えなど皆目見当つかない、質問だと分かっていたから。

 

 

 ◇

 

 

 その日の夜、尭深は高校時代の先輩である菫の邸宅を訪れていた。元々企画されていた、チーム虎姫の軽い同窓会兼聖白女のインカレ慰労会である。中核メンバーであった宮永照は国外遠征に出ているため生憎の不在であったが、他の四人は久しぶりに揃うことになった。

 

「竹井め、来年は絶対に叩きのめしてやる……!」

 

 ささやかな女子会は、信央に惜敗した菫の愚痴から始まった。ごくごくとビールを呷る彼女を、誠子が「まあまあ、その辺にして」と宥める。普段であれば誠子に協力する尭深だったが、今日はそんな気力も湧かなかった。

 

 それに、腑に落ちない点がある。

 

 淡だった。

 

 彼女は京太郎への好意を隠そうとしていないし、事実一度スキャンダル騒動にまで発展した。そして今、京太郎には留学の話が持ち上がっている。今日の女子会でも、すぐにその話題が飛び出すかと思いきや、淡はにこにこと笑いながら菫をからかうばかりだ。まるで気にも留めていないような態度に、尭深は苛立ちにも似た感情を抱いていた。

 

「そう言えば」

 

 酔いも充分回ってきたところで、菫が思い出したかのように切り出した。

 

「尭深」

「なんですか」

「須賀くんに留学の話が来ているそうじゃないか。照が言っていたぞ」

 

 湯飲みを握る尭深の手に、力が込められる。伝わってくる熱など、気にする余裕はなかった。

 

「相当良い条件なんだろう?」

「……はい」

「となると――淡」

「ん?」

 

 菫に呼ばれ、クッキーを頬張る淡が首を傾げる。実際に彼の留学が話題になっても、彼女は表情一つ変えなかった。

 

「お前は良いのか」

「良いのかって、何が?」

「須賀くんがしばらく遠くに行ってしまうかも知れないんだぞ。お前、よく平然としていられるな。それとも心変わりでもしたのか」

 

 尭深の言いたいことを、菫はずばりと言ってのけた。しかしそれでも淡は、全く気にする素振りを見せなかった。

 

「心変わりなんかするわけないじゃん。キョータローは今でも大好きだよ?」

「じゃあどうしてそう気楽に構えてるんだ」

「もう引き留めたのか? あるいは、こっちに残ると思ってるのか?」

 

 菫と誠子が、若干責めるように言葉をたたみ掛ける。それでようやく、淡は咀嚼を止めた。ただ、纏う空気は一変もしなかった。

 

「きっとキョータローには、私みたいな麻雀の才能はないんだ」

 

 最初に出てきた失礼ともとれる返答に、菫が眉根を寄せる。しかし構わず淡は言葉を紡ぐ。

 

「でも、キョータローはずっと頑張り続けた。私に笑われて、絶対凄く悔しかったのに、私が想像もできないくらい悔しかったのに、頑張ってた。それはたぶん、才能ある人間が麻雀を頑張り続けることよりも難しいことだと思う。そうやって積み重ね続けて、手に入れたチャンスなんだよ」

 

 淡の視線が菫から誠子へ、誠子から尭深へと移ろう。目と目が合った瞬間、尭深はどきりとして俯いてしまった。淡はやや苦みを滲ませた声で、続けた。

 

「キョータローの頑張りを一度でも笑った私が、そのチャンスに口を出しちゃいけないんだと思う。自分勝手な想いをキョータローにぶつけて、悩ませちゃいけないって思うんだ」

 

 だから、と淡は微笑んだ。

 

「私はキョータローの選択を、全力で応援する。今更ジタバタしない。それだけ」

 

 言葉足らずで、おそらく淡自身にしか理解しえない、しかし誰にも否定できないであろう結論だった。

 

 いつまでも子供っぽさが抜けきらない、と誰かが淡を評したことを、尭深は思い出していた。けれども今の彼女はどうだ。そのような評価は、全く当てはまらないだろう。

 

「そんなものか」

「そんなものなの」

 

 菫が理解できないと言った様子で頭を振るのに対し、淡は屈託なく笑う。そこに、嘘偽りはないと断言できた。だからこそ、尭深の心を酷くざわめかせるのだ。

 

「淡はそれで良いとしてさ」

 

 ペットボトルのジュースをグラスに注ぎながら、誠子は尭深に目を遣った。

 

「尭深のところはどうなんだ?」

「え?」

「え? じゃないよ。須賀くんは東帝の部員だろ? やっぱり彼が留学となると色々と問題になってるんじゃないか?」

「それは……」

 

 尭深は返答に窮する。

 

「お前はどうなんだ」

 

 菫もまた、誠子に追従した。

 

「尭深自身は、須賀くんの留学に賛成なのか、反対なのか――どっちなんだ?」

 そして、答えの分からない質問を投げかけてくる。迷いばかりが膨れ上がる、質問を。

 

 

 ◇

 

 

 翌日朝。

 

 深酒をしたにも関わらず、尭深は早朝から大学の部室棟を訪れていた。一睡もできなかった、というのが実情だ。

 

 何故なら今日、京太郎が進退を決める日なのだから。おそらく練習前のミーティングで、彼の口から発表されるはずだ。

 蝉の声がうるさく、流れ落ちる汗が煩わしい。足取りは重く、部室棟の階段を上がるのにも一苦労だった。

 

「あれ?」

 

 流石に自分が一番乗りかと思いきや、部室のノブはあっさりと回ってしまった。ドアを押し開くと、そこにいたのは、

 

「末原先輩」

「あ……尭深ちゃん。早いな。おはよ」

 

 深く椅子に腰掛けた、部長の末原恭子だった。いつもは履かないようなスカート姿で、おめかしをしている。これからどこかに出かけるのか、と一瞬尭深は考えたが、恭子は部活動の練習を放棄して遊びに行くような人間ではない。そもそもサボる意図があろうものなら、わざわざ部室棟に近づかないだろう。尭深に見つかって焦る、と言った様子もない。

 つまり、既に出かけた後ということだ。

 尭深は湧いた疑念を恭子にぶつける。

 

「もしかして、ずっと部室にいたんですか?」

「あ、うん、昨日から。家に帰る気ならんくて。ああ、練習始まる前にお風呂入りに帰らなあかんな」

 

 尭深は眉根を寄せた。帰宅もせず、部室で一夜を過ごすなど尋常ならざる状況ではないか。どうしたのかと訊ねようとし、しかし尭深はできなかった。

 明らかに、目元に泣き腫らした跡があったのだ。

 

「すぐ戻ってくるから、留守番お願いな」

「ちょ……ちょっと待って下さい!」

 

 尭深は珍しく声を荒げ、部室を出て行こうとする恭子を呼び止める。

 

「どないしたん?」

 

 笑って振り返る恭子に、何と声をかければ良いのか分からない。恭子の事情をこの一瞬で全て看破するほどの洞察力を、尭深は持ち合わせていない。しかし彼女は、本能的に答えを導き出していた。

 

「須賀くんと」

「え?」

「須賀くんと、何かあったんですか」

 

 尭深の質問に、恭子は目を逸らした。――ああ、なるほど。一人尭深は得心する。しかしそれ以上重ねる言葉も見つからず、部室はしばしの間沈黙に包まれた。

 

「……うん」

 

 やがて恭子は、真っ直ぐに尭深を見つめ、頷いた。

 

「たぶん、うちにしかできへんこと、やった」

「末原先輩にしか、できないことって、なんですか」

「そんな複雑な話と違うよ」

 

 恭子は深い苦笑を浮かべ、言った。

 

「ただ、京太郎の背中を押しただけや」

「――……」

 

 尭深は言葉を失い、呆然と立ち尽くすだけだった。そうしている間に、恭子は「ほな、また後で」と言い残し去って行く。

 

 尭深は恭子が座っていた椅子に腰を降ろし、一人、部室で呆けていた。

 何も考えず、あるいうは考えられず、彼女はずっとそうしていた。

 

 最初に部室にやってきたのは、宥だった。次いで煌、怜が続く。彼女たちから話しかけられても、尭深はろくな反応を見せなかった。

 

 何食わぬ顔で戻ってきた恭子との間にも、会話はなかった。まるで初めから、何もなかったかのように。少なくとも尭深は、恭子に対して何も言わなかった。

 

 意地悪くそのような態度をとったわけではない。

 これから告げられる未来を想像するだけで、体に力が入らないのだ。

 

「おはようございます」

 

 最後に部室に入ってきた彼の声を聞いた瞬間、尭深はびくりと肩を震わせた。部室の空気も、一変する。

 

「あー」

 

 それを肌で感じたのだろう。京太郎は後頭部をかいて、困ったように笑った。宥が京太郎に詰め寄ろうとし、しかしそれは押し出された大きな手で制された。

 

「京太郎くん」

「はい。分かっています」

 

 ――言わないで。

 

「俺、決めました」

 

 ――言わないで。

 

「行きます」

 

 ――言わないで。

 

「イギリスに、行ってきます」

 

 あちこちから、「頑張って」、「応援してる」、「行ってらっしゃい」、と励ます声が溢れ出す。しかし尭深は何も言わなかった。言えなかった。喉元から飛び出そうになる叫び声を抑え付けるのに、必死だったから。

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 時は瞬く間に過ぎ去った。夏休み中にも関わらず、留学の準備で京太郎は部室に顔を出す頻度を下げ、皆もそれが当然と受け入れていた。

 

 そして九月の半ば。

 

 夏期合宿として、尭深たち東帝大学麻雀部は五月に続き、松実館を訪れていた。シルバーウィークの手前、客足が遠のく隙間を狙って、早くから準備してきたのだ。

 

「きょーちゃんきょーちゃん、後で一緒に温泉入りに行こ」

「ここ混浴じゃないでしょ……」

「いけずやなあ、私と一緒に温泉入りたくないん?」

「そういう訊き方は止めて下さい」

 

 練習の準備をしながら、いつものように怜が京太郎にじゃれている。いや、いつも以上に見えるのは穿ち過ぎだろうか。

 

「京太郎くん、今日の晩ご飯当番は私と京太郎くんで良いよね」

「了解です、今回は前回以上に美味しいもの作って見せますよー!」

 

 宥もまた、妙に積極的だ――というのも、偏見なのだろうか。彼との距離が、近しく感じる。

 

 それも無理ないことかも知れない。今回は六人で来られたが、次に六人揃って合宿できる日はいつになるのだろうか。もしかしたら、二度と来ないかも知れない。充分考えられる可能性だった。

 

「尭深」

 

 背後から肩に手を置かれ、尭深は振り返った。そこにいたのは煌だった。

 

「大丈夫ですか?」

「大丈夫って、何が?」

「色々ですよ」

「……色々」

「そう、色々」

 

 曖昧な言葉の中にある煌の意図を、分からないほど愚かではない。尭深はこっくり頷いて、

 

「大丈夫だよ」

 

 と、しっかり返答した。

 

「心配するようなことなんて、何もない。大丈夫」

「……本当ですか、尭深」

「本当だよ、煌ちゃん」

 

 そう、本当だ。ここまで一ヶ月もあったのだ。自分を納得させるには、充分な時間だった。

 

 出発前の、思い出作り。

 

 その要素が多く含まれるこの合宿を、堪能しなければならない。憂いでいては、それもままならないだろう。練習して、はしゃいで、彼と話して――笑顔で彼を、送り出さなくてはならない。

 

「私も須賀くんを、応援してるんだから」

「尭深……」

 

 煌の手を振り切って、尭深は麻雀卓に向かう。追い縋るような視線を背中に受け止めつつ、だが尭深は無視した。

 

「ホラ園城寺、いつまでもふざけとらんで練習始めるで」

「私はいつでも真面目やで」

「そういうところがふざけてるって言うてんねん」

「二人とも止めて下さいよ」

 

 恭子と怜の喧嘩に割って入る京太郎。その傍で、宥が困ったように笑っている。いつもの麻雀部の光景だった。もうすぐ失われる、光景だった。

 

「おー、それそれ! ロンです!」

「ええーっ、やられたー!」

「油断大敵だね」

 

 旅先でテンションが上がっているのか、あるいは何かを忘れたいのか、わいわい騒ぎながらの練習となった。集中力に欠ける、と恭子が一喝しそうなものだが、彼女は何も言わなかった。ともすれば恭子も、その輪に加わっていた。

 

 尭深は自覚していた。自分一人だけ、そこから一歩下がっていることに。

 しかしそんな悩みとは裏腹に、時間だけが過ぎていく。

 

 夜になると、五月と同様ゲストを迎えることになった。

 

「須賀くん須賀くん須賀くーん!」

「し、清水谷さんっ?」

 

 練習場に飛び込んできたかと思うと、京太郎に抱きついたのは西阪大学の清水谷竜華だった。尭深がむっとするよりも前に、

 

「りゅーか、ちょっと離れよか……?」

 

 怜が竜華を引き剥がしにかかるも、

 

「怜も久しぶりーっ! 元気そうやん!」

「もがっ!」

 

 竜華に抱き締められて黙らされてしまう。そのまま竜華は京太郎と怜の二人を抱きかかえて、満足そうに頬ずりする。まるでお気に入りのぬいぐるみを与えられた女児のようだった。

 

「竜華先輩早すぎなのです……」

「玄ちゃん」

「久しぶりなのです、おねーちゃん」

 

 自宅だと言うのに、遅れてやってきたのは宥の妹の玄だった。二人の西阪大学生の来訪もまた、五月の焼き直しだった。もっとも、京太郎に対する竜華の態度はこれまで以上に親密なものになっていたが。

 

「し、清水谷さん、離して、離してくださいっ」

「ええやんええやん、一ヶ月振りなんやし」

「それ理由になります?」

「なるなるっ!」

「そこまでにしとき」

「痛っ」

 

 恭子が竜華にデコピンして、京太郎と怜を救出する。もう、と竜華は涙目になりながら恭子へ抗議する。

 

「折角練習に付き合うてあげるのに、酷い仕打ちやな」

「オーケー出す前から押しかけてきたんはそっちやろ」

「細かいことは気にせんでええやん。なー、怜、須賀くんっ」

 

 はあ、と恭子は溜息を吐きながらも、竜華を追い払うことはしなかった。麻雀部の部長としては当然の選択だったが、同時に苦渋の選択でもあったろう。怜も喜んでいいのやら怒っていいのやら、と言った様子だ。宥の場合、竜華が京太郎に触れる度動揺するばかり。煌は居心地悪そうにしている玄に気を遣って、積極的に話しかけていた。

 

 いつもなら自分もそこに混じっているはずだ。しかし尭深は、外側から彼女たちの姿を眺めていた。

 竜華と玄の登場を機に、一行は一旦夕食休憩を挟むことになった。

 狭いテーブルに並べられた手料理に箸を伸ばしながら、一番上機嫌な竜華が京太郎に話しかける。

 

「須賀くん須賀くん須賀くん」

「な、なんですか、清水谷さん」

「もー、もっと親しみ込めて呼んで欲しいわ。うちらキ――」

「わー! わー! わー!」

「竜華これめっちゃ美味しいでほら早く食べななくなるからほら」

 

 竜華が何か口走ろうとした瞬間、京太郎と怜が騒ぎ立てる。訝しげに恭子たちが視線を送るが、それらは全て無視された。

 

「で、なんなんですか」

 

 改めて京太郎が訊ね、竜華はけろりと答える。

 

「ほら、留学の話。行くんやろ? いつからやっけ?」

「今月末にはもう発ちますよ。やっと準備が終わりそうです」

「そっかー。今まで以上に簡単には会えんくなるけど、頑張ってな!」

「応援してるのです!」

 

 元々距離があるからだろうか。あるいは部外者だからだろうか。竜華と玄は、あっさりと、そして嘘偽りなく彼を応援していた。

 

「ありがとうございます、清水谷さん。玄さんも。どこまで通じるか分かりませんけど、全力でやってきますよ」

「でも本当に凄いのです。こんな話、中々女子でも聞かないよね」

「そうそう、東帝麻雀部としても鼻高々と違うん?」

 

 竜華の言葉に、

 

「それはまあ、そうですね」

 

 と、煌が曖昧に頷いた。

 

「きょーちゃんができる男やってのは、元々知ってたわ」

 

 ややつまらなさそうに、しかし誇るように怜が言う。

 

「うん。京太郎くんならどこでだってやれるよ」

 

 宥が微笑み、京太郎は少し赤面して顔を俯かせる。尭深もどきりとさせられそうになる、優しげな大人の女性の顔だった。

 

「ま、体壊さんように頑張ってな」

「……はい」

 

 ぶっきらぼうに言ったのは、恭子。けれども京太郎は、それだけで嬉しそうに頷いた。

 

「何や何や。もう壮行会みたいな空気やん」

 

 まだ出発まで半月あるんやろ、と竜華は茶化しながら笑う。そのままの乗りで――矛先は、尭深に向いた。

 

「それじゃあ渋谷さんからも一言貰わな」

「え……」

「え、やなくて。ほら」

 

 竜華に促されるも、尭深は声を発せない。東帝の部員たちにも、戸惑いの空気が流れる。

 

「んん。何か今日元気ないけど。……渋谷さん? どないしたん?」

「は……はい。大丈夫です」

 

 竜華に訊ねられ、心配かけまいと尭深は笑おうとした。だが、できなかった。どうしても、できなかった。

 

「ほら」

 

 促され、尭深は京太郎と向き合う。だが、すぐに俯いてしまった。京太郎も少しバツが悪そうに頭をかく。ここ一ヶ月、ぎこちない会話しか交わしていない。尭深が彼と距離をとっていたのは、彼も、恭子たちも重々承知だったろう。

 

 ――だけど。

 

 それもここで終わりにしなくてはならない。

 彼は行くと決めたのだ。もう既に、決めたのだ。

 

 ――行くべきだと、思ってる。

 ――卑怯な言い方かも知れませんが、どちらでもないですね。

 ――行って欲しい、って思っとる。

 ――自分勝手な想いをキョータローにぶつけて、悩ませちゃいけないって思うんだ。

 ――ただ、京太郎の背中を押しただけや。

 

 誰も、彼を引き留めなかった。引き留めようとはしなかった。それが正しいこと。皆が選んだ、彼のための選択。

 

「すが……くん」

 

 だから、自分も彼を応援しなくてはならない。皆と一緒になって、一丸になって。彼を、困らせてはいけないのだから。零れそうになる声をかき集め、「頑張って」の一言を伝えようとする。

 

 けれども。

 

 ――尭深さんは、どうしたいん?

 

 自分が本当にしたいこと。ずっと、心にひっかかったままのこと。そんなことは分かっている。分かっていた。初めから、全部分かっていた。ただ、もう何もかもが遅すぎる。

 

 それに――その答えを口にする理由は、どこにもないのだから。

 

「が……」

 

 ――ううん。

 寸でのところで、尭深は口を塞いだ。もう一瞬遅れれば、言い切っていたことだろう。

 

「渋谷先輩?」

 

 心配そうに訊ねてくる彼と、真正面から向き合って。

 彼に教えて貰った大事なことを、思い出していた。

 

 

 ――ただ好きだってだけで……良かったんだね。

 

 

 思い出されるのは、あの夕焼けの一時。気付かされた、それ以上にない、全ての物事を突き動かす理由。

 

「須賀くん!」

「は、はいっ」

 

 そう。

 

 ――私は、彼が好きなのだから。

 

 言うのだ。他の誰かの意見なんて、どうでもいい。自分の想いを、はっきりと告げるのだ。

 

 

「――行かないで!」

 

 

 独りよがりでも、自分勝手でも。

 それが、渋谷尭深だけの答えだった。




次回:11-3 フェアウェルティーパーティー

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