履き慣れないスカートを履き、緊張に身を強張らせながら、恭子は京太郎と向かい合っていた。呼び出したのは恭子だったが、京太郎も話したいことがあったらしい。その内容を、わざわざ確認するまでもなかった。
――突如持ち上がった、京太郎の留学。
その報に東帝大学麻雀部の部員たちは少なからず動揺し、恭子もまた例外ではなかった。それを表に出すような真似はしなかったが、恭子は悩み続けていた。
恭子が選んだのは、いつか二人で話した喫茶店だった。きっと、ここ以上に相応しい場所はない。
「末原先輩」
切り出したのは、京太郎だった。
「俺――」
「まさか行かへん、とか言わんよな」
しかし察した恭子は、それを押し止める。京太郎は一瞬目を丸くするが、すぐに襟を正した。
「そのまさかです」
「……分かっとるやろ。こんな美味しい話、もうないで」
「分かってます。分かってるつもりです。そりゃ、未だに信じられないくらいですから。どうして俺なんかにって思うくらいです」
でも、と京太郎は真剣な眼差しを恭子に注ぐ。どきりとして、恭子は目を逸らしたくなった。体が火照ったかのように熱い。けれども、逃げてはいけなかった。
「俺が東帝を選んだのは、末原先輩がいたからです」
少しだけ、恥ずかしそうにはにかみながら彼は言った。以前もかけてくれた言葉。一瞬でのぼせ上がりそうになるが、恭子は冷静であろうと努める。
「末原先輩がいる東帝が一番成長できる場所なんです。留学に行って帰ってきたら、もう末原先輩は引退してるかも知れないじゃないですか。だったらやっぱり、残りたい。残って、ここで勉強したい。……末原先輩は、迷惑かも知れませんけど」
「あほ」
そんなわけない。迷惑なんて、一度たりとも思ったことはない。むしろ逆だ。ずっと、助けられてきたのだ。
「気持ちは、……その、嬉しいわ。でも、あんたは行くべきや。あっちでしか経験できんことのほうもあるんやから」
喋りながら、違う、と恭子は思った。これは、自分の言葉ではない。竹井久の主張を繰り返しているだけだ。これで彼が納得しているなら、既に納得している。
「そういうのも含めて、考えました。その上で、残るって決めたんです」
ああ、と恭子は熱い息を漏らした。――だったら、もう良いではないか。突き放す理由が、どこにある。そんな権利が、どこにある。
夢を繋いでくれた彼と共にあれば、自分はもっと強くなれる自信があった。残ってくれるというのなら、残ってもらえば良いではないか。
「そんなら……」
甘い誘いに、恭子は乗ろうとした。そのとき、確かに傾いた。
けれども、彼女は踏み止まった。
それは間違っている。夢を繋いでくれた彼を、犠牲にするのなんて間違っている。自分の本当の気持ちを気付かせてくれた彼が、自身の気持ちを殺すなんて許されるわけがない。
何よりも。
京太郎は、大きな勘違いをしている。恭子にとって、絶対に許せない勘違いをしているのだ。
「あんな、須賀」
「なんです――ってぇ!」
彼の頭に、手刀を落とす。
「あほなこと、言わんといて」
「あ、あほなことって、なんですかっ」
「あんたが留学から帰ってきた頃には、うちが引退してるかも知れへんって? だからどうしたんや」
末原先輩、と京太郎は呆けたように名前を呼ぶ。
「うちが部活引退しても。大学卒業しても。何も変わらへんわ。卒業したくらいで今までのことが何もなしになるわけないやろ」
今更、その程度で離れるものか。離れてたまるものか。
だから、と恭子は笑って言った。
「行ってこい。また帰ってきたら、なんぼでも麻雀教えたる」
その笑顔が、決め手だった。
元々京太郎とて、留学に心引かれていたに違いない。引っかかっていたのは、東帝に来たそもそもの動機。その引っかかりに触れられるのは、恭子をおいて他にいなかった。
――最大の理由を取り除かれ、京太郎は留学を決意した。
「一つ、約束や」
「約束……ですか」
「どうせ行くなら、向こうでてっぺんとって来い。うちらも、てっぺんとってみせるから」
「……わかりました!」
それからその日は、二人でずっと喋っていた。麻雀のこと。大学のこと。留学のこと。インカレのこと。話題はいつまでも、尽きなかった。
ようやく帰る頃には、陽もどっぷり沈んでいた。
「それじゃ、俺はここで」
別れ際、京太郎は少し名残惜しげにそう言った。自分よりも遙かに大きな体の彼が、酷く小さく見えた。
自然と、手が伸びそうになっていた。慌てて恭子はその手を引っ込める。――今自分は、何をしようとしていたのか。恥ずかしくなって、それ以上考えないことにした。
「また、明日の部活で」
「うん。またな……京太郎」
「!」
名前で呼んでいたのも、意図したものではなかった。恭子自身、驚いていた。京太郎も一度びっくりしたように口を開けたが、やがて、
「はい、恭子先輩」
と、呼んでくれた。
彼の姿が視界から消えても、恭子はその場に立ち尽くしていた。ようやく我を取り戻した彼女は、自宅には帰らず、東帝の部室を訪れていた。そこが、恭子にとって東京で一番落ち着く場所だったからかも知れない。あるいは、思い出に浸るためだったのかも知れない。
翌朝、尭深が入ってくるまで恭子は部室に残っていた。ずっと、彼を想っていた。
――いやいやいや!
恭子は頭を振って、散漫していた集中を取り戻す。今は、「こんなこと」を思い出している場合ではない。
彼女は今、インカレ団体戦準決勝、大将戦の場に身を置いているのだ。
正直言って、大勢はついている。下位二校が大きく沈み、上位二校はほとんど横並び状態なのだ。二位までが決勝戦に進出できるので、オーラスを迎えた現在、この準決勝はほぼ決着が着いたと言って良かった。
その上位の内の一校は、東帝大学である。同大学の決勝戦への進出は、不祥事発覚以前から含めても、久方ぶりであった。
しかし恭子は、ただ決勝進出するだけでは満足できなかった。
ちら、と上家に視線を送る。
そこに座るのは、信央大学の大将・竹井久であった。僅か1000点差で、現在トップを走るのは彼女である。実に楽しそうに、久は牌と戯れていた。
このまま何もしなくとも決勝進出は確定的だが、しかし、恭子は無理をしてでも逆転するつもりだった。ここで、東帝は信央にも勝る、と格付けしておきたかった。自信をつけて、決勝に乗り込みたかったのだ。
しかし敵もさることながら、ことごとく恭子の猛追をかわしてくる。四年前、インハイで愛宕洋榎と戦っていたときとはスケールが違う。インカレ前に立てた対策をも、上回ってくる。
――知らん内に、縋ってたんやろか。
漏れ出そうになる溜息を押し殺し、恭子は再度対局に集中しようとする。
彼はいない。
彼は、来ない。
いつまでも、どうしようもないことを考えても仕方ない。仕方ないのに、どうしてもその顔がちらついてしまう。
「――ツモ!」
「なっ」
その隙をつかれたのか、はたまたこれこそが彼女の実力か。両面待ちを捨ててのツモ和了を決め、竹井久は牌を卓に叩き付ける。注意する暇もなかった。
「お疲れ様」
「……!」
どこか挑発染みた笑みを向けられ、恭子はぐっと唇を噛む。
――ここに、準決勝は決着した。
全日本大学女子麻雀選手権、団体戦決勝進出校。
聖白女学院大学(関東リーグ二位)。
信央大学(中部リーグ一位)。
西阪大学(関西リーグ一位)。
東帝大学(関東リーグ六位)。
◇
決勝戦までには日本に帰ってくるはずの京太郎は、しかしヒースローで足止めを喰らっていると言う。悪天候により、多くの便が欠航しているのだ。
残念という他なかったが、彼に構ってばかりはいられない。明日は決勝戦。ライバルは全て格上の大学、全員強敵揃いだ。
「西阪は大将に竜華かー。ここはやっぱ不動やなあ」
「竹井さんも強敵ですしね。リーグ戦から準決勝まで全部プラス収支です」
「菫先輩はどんどん調子上げてますね。高校のときみたいなクセは全く見えてきませんし」
「大将は公式戦であまり務めていないはずだけど、流石菫ちゃんだね。シャープシュートからどう逃れるかが鍵だけど」
最終ミーティングにも、熱が籠もる。誰しもが積極的に発言していた。
恭子を、除いては。
「恭子ちゃん?」
「あっ、う、うん。菫の話な」
宥に顔を覗き込まれ、恭子は慌てて首を振る。何でもない風を装うが、しかし、心配そうな視線が各方面から向けられるのを恭子は感じ取った。
「……ごめん。うちがもっとしっかりしてたら、準決も一位抜けできたのに」
つい、謝ってしまう。部長としてはもっと毅然としていなければならないと言うのに。
「確かに常に一位を狙っていく姿勢は大事やけど、今は後悔するより明日一位とるほうが重要と違う?」
真っ先に正論を述べてきたのは、怜だった。反論の余地などなく、恭子は無言で頷いた。これ以上、みんなに心労をかけるわけにはいかなかった。
――みんなだって、彼が帰ってくるのを心待ちにしている。
ぎりぎりの帰国になっても、それが翻されても、文句一つ言わずに待ち続けている。彼が帰ってきたとき、情けない姿を晒さないために。笑顔で再会するために。そうすべきと、みんなは正しく理解していた。
部長である自分が、ここで緊張の糸を切らすわけにはいかない。気を引き締め直し、恭子はミーティングに臨んだ。
それも一通り終わると、明日の決勝に備えて早めの解散となる。ただ眠るにはまだ早く、恭子は客人をホテルに迎え入れることとなった。
その相手は、高校時代の恩師。
「久しぶりやな~、末原ちゃん~」
「お久しぶりです」
現姫松高校麻雀部の監督、赤阪郁乃であった。ゆったりと喋り方も、若々しい容姿も何一つ変わっていない。
「元気やった~?」
「監督こそ。ていうか、ええんですか。姫松もインハイで大変でしょうに」
「心配せんでもええで~。善野さんも手伝ってくれとるし~。あ、末原ちゃん的には善野さんと会いたかった~?」
「大会終わったら挨拶行く言うてますんで、大丈夫ですよ」
ホテル併設のレストランに席を移し、恭子は郁乃に質問する。
「で、今日は何の用なんですか?」
「大したことあらへんのやけど~」
郁乃は細めていた目を、少しだけ開いた。
「私な~、末原ちゃんに一回謝らなあかんと思ってたんよ~」
「……急にどうしたんですか」
郁乃に謝られるなど、恭子にとってむずがゆい話だ。心当たりもない。眉を潜め、真意を探ろうとする。
「ほら~、末原ちゃんの進学に相談乗ったん私やん~」
「ああ、そう言えばそうでしたね」
「そんで、末原ちゃんは東帝行ったやん~。そしたら、背負わなくてええ苦労まで背負わなあかんかったんと違う~?」
郁乃の言いたいことは、よく理解出来た。心の底から、彼女が心配してくれていたのも分かった。もしかしたら、ずっと気にかけてくれていたのかも知れない。
「監督の言うとおり、苦労したかも知れません」
確かに、辛い経験を味わった。
確かに、投げ出したいと思ったこともあった。
けれども、それ以上の幸福が「ここ」にはあったのだ。
「でも、うちは監督に心から感謝しとるんです」
「――……末原ちゃん」
「あのとき、背中を押してくれてありがとうございました」
恭子がぺこりと頭を下げると、郁乃は優しげな吐息を吐いた。それ以上、とやかく言うのは無粋であった。
「末原ちゃんは~」
「なんです?」
「東京で恋でもしたん~?」
「は、は、はあああっ?」
突然の話題転換に、恭子は盛大に狼狽した。にっこりと郁乃は笑う。
「お、当たり~?」
「何言うとるんですか! 急に!」
「良かった理由って、そんくらいかと思て~」
「もっとあるでしょうが! ほんまこの人は……!」
「いけずやなあ、末原ちゃん~。そんなんやったら振られるで~」
それが恭子の限界点だった。しばらくはやいのやいのと、激しいやり取りが繰り広げられた。
なのに最後には、
「決勝戦、頑張ってな、末原ちゃん」
と、真摯な声で言ってくるのだから卑怯だ。
「……っ、ああもう! 監督こそインハイ頑張って下さいね!」
◇
全国頂点まで、後一つ。
ここまで上り詰めた四大学は、どこも負けず劣らずの実力を有していた。
同世代のトップは高卒後プロになるため、インカレのレベルはインハイに比べて見劣りする――という言説は、既に過去のもの。元々素養のある大学生たちは、その実力を円熟させてこの場に辿り着いていた。
始まった決勝戦、各校エース級が配置される先鋒は、ハイレベルな攻防となった。派手な和了こそないものの、繰り広げられる駆け引きはトッププロの対局と比較しても遜色なかった。ここで頭一つ抜けたのは、園城寺怜。彼女はインカレの活躍により、間違いなく最注目選手に躍り出た。
次鋒からは残り三校の巻き返しもあり、点数では横一線の状況が続く。副将の松実姉妹直接対決では激しい殴り合いになったものの、前半戦・後半戦トータルで見るとほぼイーブンの結果に終わった。
故に。
場が平らなまま、勝負の行方は大将戦に委ねられた。
「頑張って!」
「お願いしますよ、恭子先輩!」
「決めてきて下さい!」
「頼んだで、恭子!」
「ん」
四人に背中を押され、恭子は対局室に向かった。
既に対戦相手の三人が、対局室中央、ステージの上で待ち構えていた。
聖白女――弘世菫。
西阪――清水谷竜華。
信央――竹井久。
ごくり、と生唾を飲む。今更、凡人だからと自分を卑下するつもりはない。しかし相対する彼女たちは、間違いなく才覚ある人間に分類される。気を抜けば、すぐに敗北の奈落に突き落とされるだろう。
幾度となく酒を飲み交わし、多くの相談にも乗ってくれた菫から送られるのは、獲物を狙い定める鋭い眼光。
遠方ながら繰り返し練習試合を組み、切磋琢磨しあった竜華も、冷気さえ感じる空気を撒き散らしている。迂闊に近づくことさえできない。
そして竹井久は、相も変わらず余裕たっぷりな笑みを浮かべている。いつか部室に乱入してきたときと瓜二つ。縛ったおさげが、ゆったりと揺れた。
「待ってたわよ、末原さん」
「……みたい、やな」
場決めの牌を、ゆっくりとめくる。
半荘二回の大将戦が、始まった。
「ツモ!」
――まず勢いよく飛び出たのは、連覇を狙う信央だった。久の悪待ちは、そう簡単に止められない。テンパイスピードが速すぎる。
「それだ、竹井」
しかし、弘世菫のシャープシュートが待ったをかける。決して素直とは言えない久の打ち筋だが、それも研究してチューンナップしてきたのだろう。
「……ツモ。1100・2100」
調子づくと思われた菫だったが、さらに彼女を阻むのは西阪の清水谷竜華。まるで和了形が分かっているような超速攻を見せ、流れを自分のもとへ引き寄せようとする。
――まずい……!
恭子は焦り、歯噛みする。一人だけ、まるで蚊帳の外であった。割って入る余地が、見当たらない。三人が三人とも、隙らしい隙がない。
これが、四年間大学麻雀のトップで戦い続けた者たちの実力。
これが、大将を任せられた最高の打ち手たち。
底辺を這いずり回っていた自分とは、やはり格が違うのか――なんて弱気が、顔を覗かせてしまう。そんなものは無理矢理押し込んで対局に集中するが、ずるずると点差は開いていく一方だった。
気付けば、前半戦終わって一人沈みの状態。
ここまで点を繋いでくれた四人に、申し訳なかった。
「……くっそ」
対局室を出て、一人悪態を吐く。控え室に戻る気力はなかった。窓の外を見れば、東京の夜景が広がっている。長い、団体戦の一日が終わろうとしていた。
実力は、充分発揮できている。
確かにリーグ戦までは、多忙もあいまって不調であった。しかし宥たちはそれを見事に支えてくれた。卓の中でも外でも、恭子の負担を減らすべく奔走してくれた。
だからこの結果に言い訳しない。今彼女たちに負けているのは、ひとえに自分の実力不足である。それを認めた上で、ひっくり返す「何か」が必要だった。
――何かって、何やねん。
実力以上のものを引き出すためには。
彼女たちから勝利を掴み取るためには。
何が必要なのだろう。どうすれば良いのだろう。ここで諦めるなど有り得ず、恭子は必死で頭を回す。
考え、考え、考え続け。
はっと、脳裏を過ぎったのは彼の顔。
――今、彼がここにいてくれたら。
「あほか、うちは」
自分の頭を拳で叩き、妄想を断ち切る。――ああそうだ。彼がここにいてくれたら、どれだけ心強いだろう。どれだけの力になってくれるだろう。
でも、彼はいない。来ない。来られない。もう、タイムアップだ。
諦めろ。
嘆いていても、仕方ない。
さあ、戦いの場に行くのだ。
自分に言い聞かせ、歩こうとする。けれども、脚は言うことを利かなかった。
「京太郎……」
ぽつり、とその名が口から漏れる。
「きょうたろう……」
声の中に、涙の色が混じる。喉が震える。ずっと張り詰めていたものが、途切れそうになる。
――どうしてここで。ここまでずっと、我慢していたのに。
恭子はそう嘆くが、この場面だったからこそ、であった。もう一歩で、四年間の全てが決まってしまうこの場面なのだ。当然だった。
――堪えていたものが、こぼれ落ちそうになる。
そのときだった。
「恭子先輩!」
自分の名前を呼ぶ人が、いた。
反射的に、恭子は振り返る。
そこにいたのは、
◇ ◇ ◇
時は、しばし遡る。
急激な天候の変化により多数の遅延・欠航便が発生したヒースローに、須賀京太郎は留まっていた。他の航空会社や最寄りの空港も当たり、あらゆる手を尽くしたがどこも全滅。結局、振替便の順番を待つしかなかった。しかし、予定していた便より先発の便も欠航となっており、インカレ決勝に間に合う便に搭乗できるかは全くの不透明だった。
いや、キャンセルが多数でない限り無理であろう。半ば絶望的な気持ちで、京太郎は待合室のシートに腰を降ろしていた。
「もっと俺が強かったら……」
頭を抱えながら、京太郎は悔しさに身悶えする。
――留学先でてっぺんをとってから、帰国する。
恭子との約束をようやく守れるようになったときには、もうギリギリだった。インカレの応援をするという尭深との約束もあったのだ。
もちろん、留学先のレベルは生半可ではなかった。最初の一ヶ月は散々な結果だった。同世代だけでなく、中学生にもこてんぱんにされる始末。「てっぺん」という約束は、それこそインカレ優勝と変わらない難易度だったかも知れない。
それでも彼は、一歩一歩前に進んだ。留学を勧めてくれた明華や照が時折姿を見せては、アドバイスをくれたのも大きい。つい先日も、二人揃って挨拶に来てくれた。彼女たちの他にも、助けてくれた人たちは多くいた。そして、誰もが認める場で一位を勝ち取ったのだ。
ただ、最終的な結果がこれでは締まらない。遅れて帰って、どの面を下げて恭子たちと会えば良いのか。
「まだか……まだなのか……」
「――タロウくん」
「こんなになるんだったら、怒られてでも早く帰るんだった……」
「キョウタロウくん」
「みんな、頑張ってるのに……!」
「キョウタロウくんっ!」
「は、はいっ?」
頭上から降り注いだ大声に、京太郎は顔を上げた。そこにいたのは、自分をこの地に導いたプロ雀士・雀明華だった。屋内なのに傘を掲げる姿はいつも通りで、最早京太郎は見慣れていた。
「やっと気付いてくれましたね」
「みょ、明華さん? どうしてここへっ?」
「飛行機が飛ばず困っていると聞きまして。助け船を出しに来ました」
「助け船……?」
「はい。どうぞ」
そう言って明華が差し出したのは、一枚のチケット。
――成田行きの、航空券だった。
「途中からになるでしょうが、インカレ決勝当日には間に合うはずです。使って下さい」
「え、でも、これ、どうやって……?」
京太郎の疑問に、明華は僅かな逡巡を見せた。しかしやがて溜息を吐くと、
「本人からは口止めをお願いされていましたが、伝えておくのが筋ですね。それは、テルのチケットです。彼女が貴方より先に日本に向けて発ったのは知っているでしょう? 同じように欠航になってしまったんですが」
「あ……そう言えば」
「この振替便に乗ってテルも帰る予定でしたが、それをキョウタロウくんに譲ると言って、私に押し付けてきたんですよ」
受け取ったチケットを半ば呆然と見つめ、京太郎は「だけど」と言い募ろうとした。けれども明華は、笑顔を浮かべて首を横に振った。
「私たちも、貴方を留学に誘った責任を感じていますから。貴方に後悔してもらいたくありません」
「……、ありがとうございます! 本当に、ありがとうございますっ! 照さんにもお礼伝えて下さい! この恩は必ず返します!」
「水臭いこと言わないで下さい、私たちと貴方の仲じゃないですか」
ぎゅっと、明華が京太郎の手を握る。どきりと京太郎は動揺したが、明華は平気な顔して口を開いた。
「行ってらっしゃい、キョウタロウくん」
「……はいっ!」
「まだ間に合うと決まったわけじゃありませんから、急いで準備してくださいね」
感謝以外の言葉が、出てこない。今一度頭を下げると、京太郎は素早く荷物をまとめ、搭乗口に駆け込んでいった。
彼の懸命な姿を遠巻きに眺めながら、明華は苦笑いと共に小さく溜息を吐いた。
「全く、難儀な立場です」
――飛行機は、今度こそ順調に飛び立った。空路の中、京太郎はあまり寝付けなかった。きっと、東帝のみんなは勝ってくれている。そう信じているが、どうしても不安は残る。この一年の状況を、電話越しでしか話を聞いていないのだ。
長い旅路を終え、成田に降り立ったのはインカレ決勝当日。
陽は、既に傾いていた。決勝は、今中堅から副将戦あたりだろうか。確認する時間も惜しく、京太郎はキャリーケースを転がす。荷物が邪魔で、このまま捨て置きたいくらいだった。
「もう荷物はコインロッカーに預けて、後で取りに来るか……? これ電車で間に合うのか……? タクシーはどうなんだ……? いや金ないよな……」
ぶつぶつと呟きながら京太郎は出口に向けて歩みを進める。焦りと不安によって、彼の視界は狭くなっていた。
「っとぉっ?」
故に、不注意にも人とぶつかってしまった。
「わっぷ」
「あ、す、すみません――?」
慌てて謝ろうとして、しかし京太郎は、声を詰まらせた。
そこで赤くなった鼻を抑えていたのは――京太郎の幼馴染。中学からの長い付き合い。おっとりとしていて、どこか抜けていて、そして何度も度肝を抜かされた雀士。
宮永咲、その人であった。
「さ、咲ぃっ?」
「あ、京ちゃん。久しぶり。もう、痛いよ」
「わ、わりぃ……じゃなくて、なんでお前がここにいるんだよっ?」
湧き上がる、当然の疑問。それに答えたのは、咲ではなかった。
「出迎えがいないと寂しいのではないかと思って」
「来てやったんだじぇ!」
脇から現れたのは、原村和と片岡優希。
今は東帝のライバル三橋大学に所属しているが、かつては清澄高校で共に卓を囲った仲間。
そうだ――京太郎にとって、始まりとも言える三人だった。彼女たちの圧倒的な実力に憧れた。彼女達の華麗な打ち回しに憧れた。幾度となく心を折られ、それでも一緒に戦いたいと臨んだ仲間たち。世間では咲、和、優希で清澄高校のトリオとして認識されているが、当事者たちにとってカルテットであったことは間違いない。
「お前ら……」
「相当打ち込んだみたいだな! 今度は私が相手をしてやるじぇ!」
「残念ながらゆーき、その時間は、今はないみたいです」
全て見透かしたように和が微笑み、優希はつまらなさそうに舌打ちを打つ。だが、彼女も理解しているようだった。三橋は東帝に負けたというのに、わだかまりなどどこにもなかった。
咲が、京太郎のキャリーケースに手をかける。
「京ちゃん。荷物、邪魔でしょ? お財布以外預かっておくから」
「お、おう。良いのか、頼んじまって」
「うん。後で届けるから。――応援、行かなきゃいけないんでしょ?」
問いかけられ、少し恥ずかしそうに京太郎は頷く。
「遅刻野郎の応援がどこまで役に立つか分からないけどな」
「そんなことない」
咲にしては、きっぱりとした口調だった。
「高校のときから、京ちゃんの応援には助けられてたんだよ。京ちゃんはなんでもない、みたいなことを言っていたけど――みんな、ずっと感謝してたんだから」
和が優しく微笑みながら首肯し、優希はそっぽを向きながらも「うん」と言った。
――それだけで、胸が一杯になった。あの日々の熱が、体の中に戻ってくるようだった。
「だから――届けてあげて。京ちゃんの
もしかしたら、と諦めかけていた心は霧散する。ここで応えなくて、いつ応えるというのか。キャリーケースから手を離し、京太郎は、
「ありがとな、みんな」
「どういたしまして」
三人と、笑い合った。
残念なことに、いつまでもそうしてはいられなかった。
「じゃあ、行ってくる!」
後ろ髪を引かれぬよう一気に駆けだした彼の背中に、
「須賀くん!」
和が声をかけた。
「第二ゲートに迎えが来てますから! 行けば分かります!」
「分かった、サンキュー和!」
身軽になった京太郎はぶんぶんと手を振って、今度こそ三人と別れた。
指定された第二ゲートは、車の乗降場となっていた。迎えとは一体誰か――と、京太郎はきょろきょろと辺りを見回す。
「あ」
「お」
一瞬で、誰か分かった。和の言うとおりだった。
高校時代から美少女であることは承知していたが、大学ではさらにその美貌に磨きがかかっているようだ。少し背も伸びただろうか。強気そうな眼だけは、最後に会ったときから変わっていない。
「新子っ」
「ん、久しぶり、京太郎」
阿知賀女子出身、新子憧だった。
「迎えって、お前かよ。いやほんと久しぶりだな」
「ああ、正確には違うんだけどね。留学どうだった――とか、悠長に話してる暇はないわよね」
憧は挑発染みた笑みを浮かべると、京太郎の肩をぽんと叩いた。
「東帝、頑張ってるわよ。うちは二回戦で負けちゃったから羨ましい限り」
「……なんだか悪いな。なのに俺の出迎えだなんて」
「いーのいーの。こっちとしてもありがたい話だったし」
「どういう意味だよ」
「それはもう、あんたを送り届ける子に聞いて。――ほら、来たわよ」
憧が指差した先にあったのは、赤いスポーツカーだった。一目で相当な高級車だと分かる。本当にあれなのか、と訊ねるよりも速く背中を押されていた。
「お、おい憧」
「良いから黙って速く乗る。時間、ないわよ」
助手席の扉が開かれ、半ば無理矢理京太郎は車内に押し込まれた。最後の僅かな間、憧と目が合う。
「どういう出会い方をしても、あんたとどうにかなるとは思えないけどね」
彼女は肩を竦めて、いつか聞かされたのと同じ言葉を投げかけてくる。
「どういう出会い方をしても、きっとあんたを助けたい、とは思うわよ」
「憧――」
「ほら、行った行った」
ばたん、と扉が閉められる。車が動き出し、手を振る彼女が小さくなっていく。京太郎は黙って、頭を下げた。
「シートベルト」
「えっ?」
「シートベルト、締めて」
「あ、わ、悪いっ」
運転席から飛んできた指示に、京太郎は慌てて応じる。かちんとロックして、それから彼は気付いた。
「……高鴨さん?」
「ひ、ひ、ひひひひ、久しぶり」
なんと、運転手は憧と同じ阿知賀出身、現役麻雀プロの高鴨穏乃だった。彼女とは、丁度一年前のインカレの時期に顔を合わせて以来だった。ただあのときもばたばたしていて、結局ろくに話もできなかった。
「こ、この車、高鴨さんのっ?」
「う、うん。安全運転で、目一杯飛ばすから安心して」
顔を真っ赤にして、穏乃は視線を真っ直ぐ前に向けている。こちらに一瞥をくれようともしない。運転中なのだから当然だったが、妙に硬質的な態度だった。そう言えば、高校時代の途中から、いつも彼女はこんな調子だった。嫌われているのか、と京太郎が不安になったのは一度や二度ではない。もしそうなら、自分を送り届けるために相当無理をさせてしまっているのではないか。
「ごめん高鴨さん、俺なんかのために。嫌なら、降ろしてくれても――」
「い、嫌じゃないよ!」
京太郎の言葉を大声で遮って、穏乃はようやく顔をこちらに向ける。目が合って、一層彼女は顔を赤くした。
「嫌じゃないから、京太郎はじっとしてて!」
「りょ、了解」
凄い剣幕で怒鳴られては、従うしかない。
穏乃の車は、ぐんぐん速度を上げて進んで行く。これなら大将戦には間に合うかも知れない。湧き立つ京太郎の心とは裏腹に、車内は沈黙に包まれていた。気まずいが、何と声をかけて良いのかさっぱり分からなかった。
「……ご、ごめんね、京太郎」
「え、なんで高鴨さんが謝るんだよ」
「私、京太郎と上手く話せないから……よく分かんないけど、京太郎と会うとわあぁぁってなって、こう、アレだから」
穏乃はごにょごにょと声を濁しながら、それでも懸命に言葉を繰ろうとしていた。何となくむずがゆい空気が流れ、京太郎は穏乃から視線を引き剥がす。
「……ありがとな、高鴨さん」
ただ、お礼を言うのだけは忘れなかった。
「助かったよ、マジで。まさかこんな車で迎えに来て貰えるなんて、思いもしなかったぜ」
「先に助けられたのは、私だから」
穏乃が、呟くように言った。
「助けられたって……俺、高鴨さんを助けたこと、あったっけ?」
「……覚えてないなら、良いよ」
逆に気になる言い方をされて、京太郎は今一度穏乃の横顔を窺おうとする。
しかしそこで見つけたのは、横顔ではなかった。真正面からの、穏乃の笑顔だった。
「私はずっと、覚えてるから良い」
「――……」
「……」
再び二人の間に沈黙が落ち。
穏乃はまたもや顔を真っ赤にさせて運転に集中し、恥ずかしくなった京太郎もそっぽを向いてしまう。自分の記憶力のなさに悲しくなった。
二人を乗せた車はしばらく順調に進んだ。
しかし、徐々に雲行きが怪しくなっていく。視界に入る車の数が、増え始めたのだ。まさか、と思ったときには、渋滞に巻き込まれていた。
「ど、どうしようっ!」
「いっそここから走るか……?」
「でも、会場まではまだまだ距離あるよっ?」
現実的ではない。しかしこのままでは無為に時間を過ごすだけ。どんどん夕陽は海に向かって落ちて行く。
万事休すか、と思われたときだった。
こんこん、と助手席の窓をノックする音が聞こえた。京太郎と穏乃は揃ってそちらを振り向く。そこにいたのは、フルフェイスのヘルメットを被ったライダーだった。
「誰――」
穏乃が疑問を口にするより速く、ヘルメットのシールドが上がる。あっ、と京太郎たちは驚きに口を丸くした。
「辻垣内さん!」
「智葉と呼べと、言っただろう」
三橋大学のエース、辻垣内智葉だった。京太郎とは、少なからず縁がある相手。もとい、元カノに当たる相手だった。
彼女はヘルメットをもう一つ取り出すと、
「ここで余計な問答をするつもりはない。後ろに乗れ、須賀」
「はっ? え、で、でもっ」
「時間はないだろう。ほら、車が動き出す前に来い」
京太郎は、穏乃へと振り返る。彼女は黙って、頷いてくれた。
「――ありがとう、高鴨さん!」
「ううん! 気をつけてね!」
お礼を言ってばかりの日だった。智葉からヘルメットを受け取ると、京太郎はリアシートにまたがる。
「しっかり掴まっていろよ!」
「はい!」
車の隙間を縫って、智葉はバイクを走らせる。あっという間に渋滞地域を抜けると、さらにアクセルを回した。
「どうして! 智葉さん、来てくれたんですか!」
「うちの後輩たちには会っただろう! あいつらからは話は聞いたからな! 保険で着いてきてやったんだ!」
違う、そういうことではない。風切り音に負けないよう、京太郎は声を張り上げる。
「東帝と! 三橋は! ライバルじゃないですか!」
既に決着が着いた後とは言え――否、だからこそ因縁は深まったと言えるだろう。和や優希は高校の縁あってだが、本来なら助ける義務などないはずだ。団体戦は終わっても、まだ個人戦がある。本来なら、その対策のために今この時間を使うべきではないのか。
しばらく、智葉からの返答はなかった。答えたくないのか。けれども、助けて貰っている立場の京太郎としては、理由くらい知っておきたかった。
赤信号に引っかかり、一度バイクが止まる。唸るようなエンジン音が体を震わせ、密着した智葉の体からは彼女の体温が伝わってくる。
「確かに、私たちは敵同士だ」
智葉は、いつもの凛とした声で言った。
「園城寺にもしてやられた。全く、腹立たしいにもほどがある」
「なら――」
「大学など関係ない」
信号が、青に変わる。
「惚れた男のために動いてるんだ、私は」
「――」
京太郎がとやかく言う前に、バイクは急発進した。
市街地を突き進み、山道を越える。
「見えたぞ!」
インカレ会場となっているビルが、眼下にあった。智葉の腰に回した腕に、自然と力が入る。もう、辺りは夕闇に包まれようとしていた。
つづら折りの坂を下っていく。――もうすぐ、もうすぐだ。
大将戦――末原恭子の戦いには、きっと間に合う。
「っ?」
その希望を抱いた瞬間、バイクが急制動する。
「ど、どうしたんですか!」
「まさか……これは……」
智葉が言い淀む事態。京太郎は彼女の肩越しに、前方を確認した。
「……マジかよ」
事故現場、であった。大型車同士が衝突したらしい。既に警察が到着しているため危険はなかろうが、問題は完全に道が封鎖されていることにある。
「仕方ない、遠回りになるが別の道を――」
「良いです、智葉さん! もう会場は見えてるんです、ここから走って行ったほうが速い!」
「ここからって、お前」
制止しようとする智葉にヘルメットを返し、京太郎はしかと頷いた。
――つづら折りの道路は無視して、道なき斜面を駆け下りる。この程度の勾配なら問題ない、と京太郎は判断した。
僅かの間、京太郎は智葉と見詰め合う。
最後には智葉が観念したように溜息を吐き、京太郎の背中を叩いた。
「行ってこい」
「はいっ、本当にありがとうございました!」
迷いはなかった。整備などされるはずない道に、京太郎は迷いなく飛び込んだ。彼の背中を見送りながら、
「走れ、京太郎」
智葉は小さな声援を送った。
中学時代と比べて体力が落ちたのを自覚しながら、京太郎は走った。ぜいぜい息を吐きながら、それでも走った。脚が重い。すぐに首が上がらなくなる。それらも全て無視して、走った。
歩きづらい山道を乗り越え、照明で光り輝くビルの傍まで辿り着く。いつの間にか、完全に太陽は沈んでいた。――まだ、間に合うのだろうか。そんな思考も、邪魔だった。
「須賀ー!」
苦しい中、自分の名前を呼ぶ声があった。無意識に、そちらを振り向く。
見知った顔が、並んでいた。
「まだ間に合うでー!」
江口セーラ。
「根性見せんかい、ガースー!」
愛宕洋榎。
「すぐそこばい!」
白水哩。
「頑張ってー!」
鶴田姫子。
昨年の夏、自分と打ってくれた人たち。自分の可能性を見出してくれた、感謝しても仕切れない先輩たちだった。
声を返す余裕はなかった。だが、確かに力を受けとった京太郎は頷きだけ返し、走った。非礼など彼女たちは気にせず、笑顔で彼の背中を見送った。
――必死で駆ける、京太郎の姿を見つめる視線はもう一つ。
インカレ会場のビル、その上層階から彼を見下ろす影があった。西阪大学大将、清水谷竜華。彼女は少しだけ寂しそうに、けれどもこみ上げる嬉しさは隠しきれないように、呟いていた。
――走れ、と。
咳き込みながら、京太郎はついにビルの入口に足を踏み入れる。
ぴたりと、京太郎は立ち止まった。
仁王立ちして、待ち構えていたのは他でもない彼女。喧嘩して、仲直りして、ずっと自分を見てくれていた少女――もう、年齢は大人だけれども。
困らされた回数のほうがきっと多い。意見が衝突するのだって、珍しくない。我が儘を言われるのも、日常茶飯事だ。
けれども、彼女の輝きは損なわれない。どうあっても、嫌いになんてなれなかった。なぜなら、間違いなく彼女も、自分をここまで引き上げてくれた原動力なのだから。
記憶に焼き付く眩いままの姿で。
大星淡が、そこにいた。
「――淡」
「京太郎」
大切な、隣人がそこにいた。
「悪い」
しかし不義理と知りながら、京太郎は淡に構わず通り抜けようとした。今は、一番に優先しなければならないことがある。
「まってまって、ストップストーップ!」
そこへ淡が待ったをかける。何を、と京太郎が文句をつけるよりも速く、淡は一枚のカードを差し出していた。
「東帝のみんなから預かってきたよ。これ、キョータローのために用意したIDカード。これ持たないまま会場に行ったって、つまみ出されるだけなんだからっ」
「……悪い、ほんと、マジで。助かった」
「分かればよろしい」
胸を張る淡だったが、やがてくすりと笑って、
「ほら、行った行った」
と京太郎の背中を叩いた。少しの間、京太郎は戸惑いを見せたが、頷き駆け出す。
彼を見送りながら、淡はぎゅっと拳を握った。本当なら、言いたいことややりたいことは沢山あった。彼と、もっと傍にいたかった。
けれども今は、彼の帰る場所は別にある。そこに帰って、話はそれから。全てはそれからなのだ。
――だから。
今は、「大好き」の代わりに贈る言葉がある。
「キョォォォータロォォォォーッ!」
目一杯の笑顔と、共に。
「走れぇぇぇぇえええーッ!」
多くの人に支えられながら、多くの人に助けて貰いながら、京太郎は走った。紡ぎ繋いだ縁に、救われながらここまで来た。
「はあっ、はあっ、はあっ」
汗だくになって、息を切らして、京太郎は彼女の影を見つける。
「……こ、んぱぃ」
すぐに、声が出なかった。喉が上手く働いてくれない。だが、弱音など吐けない。吐かない。目の前にあるのは、今にも崩れ落ちてしまいそうな彼女の背中。
「ぅこ、せんぱぃっ」
それを今支えずして、いつ支えると言うのか。
京太郎は、吠えた。
「恭子先輩!」
ゆっくりと、彼女が振り返る。ずっと憧れていた人が、こちらを振り向く。きらりと、水滴が光を反射して煌めいた。
何も、言わなかった。何も、言えなかった。
京太郎は、もう一歩たりとも動けなかった。
だから、近づいてきたのは恭子だった。俯き加減で、彼女の表情は読めない。分からない。怒られるだろうか。そうだ。大遅刻にも程がある。ビンタの一発や二発は覚悟しないと。それとも怒鳴られるか。
ぐるぐると、京太郎の思考は渦巻く。気付けば目の前に恭子が立っていて、その手が伸ばされつつあった。
覚悟を持って、京太郎は目を瞑る。
しかし、想像していた衝撃はこなかった。
柔らかい感触に、体を包まれる。あ、と京太郎の口から間抜けな声が漏れ、彼は目を開く。
末原恭子がしっかりと、自分の体を抱き締めていた。もう、逃がさないと言わんばかりに。どこまでも暖かな、抱擁だった。
12-5 繋ぐ言葉はラン・ラン・ラン /
12-6 末原恭子のインブレイス
「汚いですよ」
「かまへん」
「汗臭いでしょ」
「かまへん」
「熱くないですか」
「こんくらいが、丁度ええ」
ぶっきらぼうに答えながら、恭子は京太郎の胸に顔を埋める。彼だ。間違いなく、疑いようなく彼だった。
「来てくれるって、信じとった」
「待ってくれていて、嬉しいです」
残された時間は、僅かだった。もう、対局室に行かなければならない。ゆっくりと、名残惜しそうに恭子は京太郎から離れる。
「――勝って、ください」
「うん。勝って、くる」
恭子は頷き、踵を返す。最後の決着を着けるために、彼女は往く。
彼女の肩には今までにない力が漲っていた。
◇
前半戦と同じように、三人の対戦相手は恭子を待ち構えていた。しかし、全てが前半戦と同じようにとはいかなかった。
恭子の表情を認めた瞬間、菫が小さな溜息を零す。たまらない、と言った表情で、彼女は傍らのライバルに声をかけた。
「おい、竹井」
「何かしら」
「清澄の後輩をけしかけて、彼に迎えを寄越していたようだが――余計な真似だったんじゃないのか」
「あら、心外ね」
久は軽く肩を竦めると、菫の言葉を否定する。
「私はけしかけてなんかいないわよ。むしろ止めるくらいのつもりだったけど、あの子たちその前に出発してたわ」
でも、と久は笑みを深める。
「結果オーライね。と言うか、止めるなんてバカなこと考えてたわ」
「そらまたなんで?」
竜華が訊ねると、久は期待に満ちた表情を浮かべる。
「どうせなら、全力最強最高潮の相手と打って、麻雀を楽しみたいじゃない?」
彼女の回答に、二人は目を瞬かせ――そして、しばらくの間声を押し殺して笑った。実に、楽しげだった。
「そうだな」
なおも笑みを湛えながら、菫は言った。
「コクマを除けば、大学最後の麻雀だ。派手に楽しもうじゃないか」
「うちも乗ったわ。楽しませてもらうで」
竜華も、菫たちに同調する。――ああ、そうだ。そうでなくては、面白くなかった。
――末原恭子が、ステージに上がる。四人の雀士が、揃う。
彼女たちは全員譲れないものを賭けて、最後の戦いに挑む。
この麻雀を、楽しみながら。
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