あの奮闘の日々から、数年の時が流れた。
◇ ◇ ◇
「もしもし、花田です」
高い天井、行き交う旅行者、繰り返し反響するアナウンス。窓の外に目をやれば、旅客機がずらりと並んでいる。
「お久しぶりです。ええ、はい。おかげさまで元気でやらせてもらってますよ」
携帯電話で話す相手は、大学の後輩だった。大学を卒業し働き出してからは連絡する頻度も随分減ったが、それでも定期的にやりとりしている。何だかんだと、長い付き合いになりそうだ。
「ええ、今は福岡です。これから沖縄に移動ですが。――まあ、これも仕事ですからね。仕方ありません」
多忙を承知で就いた仕事だ。最近はろくに自宅にも帰っていないが、文句ばかりも言っていられない。
「それで――はい。例の件ですね。ふふふ、私の地獄耳を舐めてもらっては困りますよ。このくらいでなくては記者としてやっていられません」
予想された話を持ち出され、煌は冗談めかして笑った。電話口の向こうからも、笑い声が聞こえてきた。
しかし、すぐに煌はかすかな溜息を吐いた。眉尻が下がり、その表情は切なげなものに変化する。去来する想いは、寂寥感。時間の流れは不可逆で、どうしようもないのは分かっている。分かっているが、そう簡単には割り切れる話でもなかった。
「……はい? ああ、そうですね、次に東京に帰るのは来週頭になりそうですが。それがなにか?」
煌のメランコリックな気持ちを感じ取ったのか、はたまた初めからそのつもりだったのか、通話相手は一つの提案を持ちかけてきた。
「――すばらです。乗りました」
煌は、その案に即応した。迷う余地など、どこにもなかった。
「スケジューリングなどは、すみません、お任せしました。しました。いえいえ、本当にありがとうございます。はい。はい。――では、そろそろ搭乗時間ですので。はい。ではまた、後ほど」
通話が切れ、待ち受け画面に表示されたのは一枚の写真。それに視線を落とした煌は、少しだけ嬉しそうに目を細めた。
「さてと。行きますか」
いつまでもそうしてはいられず、煌は座席から立ち上がった。
脳裏を過ぎるのは、あの小さな小さな部室で卓を囲んだ日々。黄金色に染められた、幸福な記憶。みんなではしゃぎ、みんなで議論し、みんなで喧嘩し、みんなで笑い合った。なにもかもが、かけがえのない宝物たち――あそこには、それら全部が詰め込まれていた。
おんぼろで、隙間風が通って、落書きだらけの部室棟。
空路で味わうまどろみの中、煌はもう一度あの場所に向かう夢を見ていた。
◇ ◇ ◇
「乾杯」
「乾杯。お疲れ様です、先輩」
喧噪に包まれた居酒屋の一角で、尭深は高校時代の先輩・弘世菫と顔を突き合わせていた。大学から進路は別れたというのに、彼女との付き合いももう随分と長くなる。菫相手だけでなく、チーム虎姫の面々との付き合いは切っても切れないものになっていた。
「――とは言うがな」
初めからハイペースでビールを呷る菫は、尭深に文句をつける。
「私としては不本意なんだぞ。亦野は良いとして、どうして未だ照と淡の手綱を引く役が私なんだ。チームも違うのに」
「二人とも、それだけ先輩を信頼してるんですよ」
「ものは言いようだな。淡なんか私を後輩扱いしてくるんだぞ。こんなことなら大学に行くんじゃなかったとさえ思えてくるぞ……」
今日はまた一段と重症のようだった。しかし尭深は慣れたもので、おつまみを注文しながら菫の愚痴に相槌を打つ。
「お前もなー、尭深」
「はい?」
「お前もプロになってくれていれば、私ももっと楽ができたかも知れないのに。そうだ、今からでもその気はないか。プロテストの推薦くらいくれてやるぞ」
「申し訳ないですけど、お断りさせて頂きます」
半分は冗談だったのだろう、菫は「そうだよな」とあっさり引いた。しかしこの手の誘いの頻度が最近増えているのも、確かだった。苦労性の菫は随分追い詰められているらしい。だからこそ、こうしてできる限り飲み会だけでも付き合っているのだが。
「尭深のほうは、仕事は順調なのか。またそろそろ海外じゃないのか」
「その予定だったんですが、少し事情が変わりまして。延期にしてもらいました」
「どうしたんだ。相当熱心に取り込んでいた仕事だろう」
「今度、みんなで集まることになったんです。日程がどうしても合わなくて」
なるほど、と菫は納得した。ここで言う「みんな」が、白糸台の面々ではなく、「彼ら」であることは明白だった。
「それにしても、時期外れじゃないのか? 年末ならもっと集まりやすいんじゃないのか」
「……それじゃ、間に合わないんです」
そのときばかりは、微笑みながらも、尭深は悲しげに目を伏せた。
失われるもの。消えゆくもの。絶対など、どこにもない。――分かっていたつもりで、何も分かっていなかったことを思い知らされる。
――けれども。
思い返すのは、あのときあの場所で撮った一枚の写真。
いつか失われるときが来ようとも、その最後の瞬間まで守っていたい。格好悪くとも、みっともなくとも――素直にそう願う思い出が、彼女の胸の中にあった。
◇ ◇ ◇
久方ぶりに会った妹は、ぷりぷりと怒っていた。
「おねーちゃんはいつになったら阿知賀に帰ってくるの!」
「ごめんねぇ……」
宥としては、謝る他ない。
大学を卒業しても、宥は帰郷しなかった。そのまま東京にあるホテルに就職を決めてしまったのだ。外で経験を積んで、いつか松実館の経営に尽力したいというのが宥の希望だったが、妹の玄はあまり納得していないようだった。
そう言えば大学のときも同じようなやり取りをしたな――と夢想していると、
「聞いてるの、おねーちゃんっ?」
「き、聞いてるよぉっ」
怒られてしまった。
こうして玄が宥の自宅を訪れるのも、何度目だろうか。宥としてはそれで満足してしまって、どうしても実家から足が遠のいてしまっている。その事実に玄が気付くのは、もう少し後になってからだった。
「お盆もシルバーウィークも繁忙期だからって帰ってこなかったのに。次のまとまった休みはいつなの?」
「次は、えっと、来週末に、三連休が」
「なんで先に言わないの! さあ、帰ってくるのです!」
また怒られてしまった。びくりと宥は体を震わせるが、ここは反抗しなくてはならないところだ。――こればっかりは、妹にも譲れない。
「ごめんね、玄ちゃん。先約があるの」
「先約?」
玄が小首を傾げる。宥は、無意識の内に視線を箪笥の上に向けていた。そこに置かれていたのは、木工作りの写真立て。玄は宥の視線を追い――なるほど、と理解を示してくれた。
「そっちで用事があるんだ」
「うん。まずは、尭深ちゃんと煌ちゃんと、怜ちゃんの応援に行くの」
それから――と続きを口にしようとして、しかし宥はできなかった。胸がぎゅっと締め付けられ、切ない息が零れてしまう。何度思い出しても、その度に悲哀が浮かび上がるのだ。
しかしながら。
「それから、彼とデートでもするの?」
「で……っ!」
にやにや笑う玄に揶揄されて、全て吹っ飛び、宥の顔は一気に真っ赤になる。両手をぶんぶん振って、マフラーを振り乱し否定する。
「違うからっ、全然っ、違うからっ! だったら良いなとか思ってないからっ」
「怪しいよ、おねーちゃん! さあさあ、吐くのです!」
妹の追求の手は緩むことなく、一晩中続いた。いくら冤罪と訴えても、通じなかった。
◇ ◇ ◇
心臓が高鳴る。体を包むのは、高揚感。あるいは不安。あるいは別の感情。あるいは、それら全て。
園城寺怜は、一度深く息を吸い込んだ。それからゆっくり息を吐き出し、目の前の扉と対峙する。――ついに、このときが来た。
重厚な鉄扉を、ゆっくりと押し開ける。扉の隙間から差し込む照明の光に、一瞬視界を奪われるが、怜は構わず前に進んだ。
だだっ広い対局室の中央、せり上がったステージに置かれるのは、たった一つの麻雀卓。用意された四つの席は、選ばれた者のみしか座れない。
今――その内の一つに、怜に背中を向けて座す者がいた。赤毛のショートカット、冷ややかな空気、右手に広げるのは一冊の文庫本。
いつの日かも、こうしてステージを見上げたのを怜は思い出していた。蘇る記憶。暗澹たる結果。一矢報いたかも、定かではない。
――あかん。
臆してはならない。怯えてはならない。逃げ出すなど、もってのほか。分かっているはずなのに、体が動かなくなる。
どうすれば良い、どうすれば――縋るように、左手が動いていた。触れたのは、胸ポケット。そこに入れられたのは、一枚の写真だった。見なくても鮮明に思い出せる、記憶に焼き付いたあの日の記憶。
それが、怜に勇気を与えてくれる。気が付けば、自然と歩みを進めていた。
「久しぶり」
怜が声をかけ、
「お久しぶり」
ぱたん、と文庫本を閉じた王者が立ち上がる。
――宮永照が、立ち上がる。
目と目が合う。変わらない。彼女はちっとも変わっていなかった。あのときも、そして今日という日も、「最強」の二字を以て自分の前に立ちはだかっていた。
「やっと、ここまで来たわ」
「思ってたよりも、ずっと早かったけど」
「それなりに苦労したもん。宮永さん、遠く行きすぎや」
「今は、すぐ近くにいる」
どこかずれた回答に、一度怜は目を瞬かせ、それから喉を押し殺して笑った。照が首を傾げても、しばらく怜は笑っていた。
「今日は」
やっと笑いを鎮めると、改めて怜は照と向かい合う。
「今日は、負けへんで」
「私も、負けない」
「ん。よろしく、お願いします」
ステージへと、怜は登ってゆく。
楽しみな明日を、想いを寄せながら。
◇ ◇ ◇
「末原コーチー」
「おー」
生徒に呼ばれ、恭子は卓に駆け寄る。どうやら「何切る?」問題で議論が白熱しているようだった。自分も学生時代ようやったな――なんて思い出しながらも、恭子は理路整然と生徒たちに解説していく。途中から、部室にいた全員が耳を傾けていた。
「――っちゅうわけや。うちやったら、ここは五萬やな」
「流石末原先生や! ありがとー」
「部室ではコーチ呼べ言うたやろ」
「はあい」
くすくす笑う女子生徒たちを前にして、少し恭子は溜息を吐きたくなった。最近、舐められている気がする。今日日スパルタなど流行らないが、それでも威厳を保つくらいの態度を見せたほうが良いのではないか。
などと思索していると、
「末原ちゃーん」
甘ったるい声で、呼びかけてくる者が一人。恭子は悩ましげにこめかみを押さえて、
「なんですか、赤阪監督」
と、つっけんどんに訊ねた。
姫松高校麻雀部監督・赤阪郁乃は、細い目をさらに細めて、
「どうしたん~、末原ちゃんが冷たいわ~」
「いつも通りです。というか生徒の前でちゃん付け止めてもらえません?」
「私にとっては~、末原ちゃんはいつまで経っても末原ちゃんやから~」
「ああもう、この人は……!」
相も変わらず妙なところで苛立たせてくれる人だ。周囲の生徒たちからは、くすくす笑う声が聞こえてくる。イマイチ生徒たちに示しがつかない最大の理由は、この監督にあると恭子は確信していた。
「何なんですか、さっさと用件言うて下さい」
「明日から末原ちゃんお休みやろ~? 練習メニューの相談しときたいいんやけど~」
「それならもう用意しときましたから。後で確認しといて下さい」
しっし、と恭子は郁乃を追い払おうとするが、生徒たちに食い付かれる。
「末原先生お休みとか珍しいやん」
「どっか行くんですかー?」
「はいはい。うちのことはええから練習に集中せぇ」
ざわつく生徒を、恭子は宥めようとする。しかし背後から撃ってきたのは、郁乃だった。
「末原ちゃんは~、同窓会らしいで~」
「ちょっと監督、余計なこと言わんといてください」
郁乃に苦情を入れるも、後の祭りだった。
「同窓会?」「愛宕プロや真瀬先輩と?」「愛宕プロは今海外遠征中やん」
「じゃあ大学やろ」「大学って言うたら」「東帝」
「末原先生の机に置いとる写真の?」「それや」「あれ男もおったよな」
「おったおった!」「まさか同窓会って」「そういうこと?」
ざわめきは、収拾が付かないところまで発展していく。人知れず恭子は逃げ出そうとするが、腕を郁乃に絡め取られていた。
「どこ行くん~? ちゃんと指導せなあかんで~、末原コーチ~?」
「こっの人は……!」
群がる生徒たちに、恭子の一喝が下されるのは間もなくのことだった。
◇
そのくたびれた旧部室棟を前にするのは、本当に久しぶりだった。大学時代の仲間たちと集まるのにも、他の場所を選んでいた。いつまでもOGが出入りしているのでは、現役世代に迷惑がかかる。――今はその判断を、恭子は少しだけ後悔していた。
実際のところ、このぼろぼろになった旧部室棟は、今や各部の倉庫と化しているらしい。それは麻雀部も例外ではなかった。恭子たちの活躍によって、後輩たちは好待遇を得られたのだ。あのみすぼらしい部室に拘る理由はなく、恵まれた環境で練習に耽っているという。
ひがむつもりはこれっぽっちもないが、もの寂しさはあった。
そして、結果として存在意義がほとんど失われてしまったこの部室棟は、取り壊されることになった。
元々耐震性も疑問視されていたし、この際正式な倉庫としてリニューアルするという判断に、文句をつけることはできなかった。
「しゃあないもんな」
胸に宿るのは、あくまで個人的な感傷だ。
だからせめて最後に、と当時の部員全員で集まることになったのだ。時期外れの同窓会に文句を言う人間はいなかった。
変わらない階段を登り、変わらない落書きだらけの壁を眺めながら、在学当時毎日通った部室の前に辿り着く。何気なくノブを捻ると、意外にもすんなり回った。鍵が、空いていた。
不用心な、と思いながらも恭子は部室に入る。
そこで待っていたのは――
「あ、恭子先輩」
「京太郎」
末原恭子、人生でたった一人の男子の後輩。
須賀京太郎、その人であった。
「どうしたん、早いやん」
「前科がありますから、慎重にもなりますよ」
「そう言えばそうやったな」
二人で笑い合ってから、恭子は部室を見回す。自分たちが使っていた頃よりも多くの物品が転がり、倉庫扱いされているというのも納得だった。
ただ、あちこちに見覚えのあるものもあった。
宥が持ち込んだヒーター。
尭深の残したポット。
怜が並べた麻雀雑誌。
煌の整理した牌譜の山。
そして、恭子が自腹を切って買ったホワイトボード。
「これも残ってますよ」
戸棚を指差す京太郎の傍へと、恭子は歩み寄る。
恭子と京太郎が、並び立つ。手の甲が触れるか触れないか、そのくらいすぐ近くに。近すぎるくらいで、けれども二人とも、何も言わなかった。それが、二人の距離だった。
戸棚の壁に、マグネットで留められたのは一枚の写真。
いつも見ている、けれどもそれよりも、少しだけ色褪せた写真だった。ここで撮った、ここに残された、大切な思い出だった。
「なあ、京太郎」
「なんですか、恭子先輩」
「この写真、撮ったときのこと、覚えてる?」
何気ない問いかけに、京太郎はしかと頷く。
「はい。覚えてます。ずっと、覚えてます」
「せやったら――大丈夫やな」
「……はい。きっと、大丈夫です」
扉の外から、人の気配が感じられた。――宥たちが、来たのだろう。少しだけ物足りなさを感じながらも、恭子は、
「行こか」
と、隣の京太郎に微笑みかけた。京太郎も、微笑みを返してくれた。
――彼女たちは、進み続ける。
果てなき航路、その果てを追い求めて。
何もかもが失われても。形あるものが、崩れ去っても。
ここに映る笑顔たちが、繋がれた縁を守ってくれる。
そう、信じて。
愛縁航路 おわり
これにて愛縁航路、全編完結です。
途中長期に渡ってお休みを頂いたり、かなりの長編になってしまったりと申し訳なかったのですが、完結までこぎつけられて嬉しいです。
連載中は沢山のブックマーク、500件を超える感想、高評価を頂き本当にありがとうございました。大変励みになりました。
少しでも本作をお楽しみ頂けたのなら、大変幸甚と存じます。
今後は新作などの予定はないのですが、前々作Summer/Shrine/Sweetsについて、今年の冬コミ(C91)で文庫本として頒布しようと計画中です(頒価未定)。
内容としては、
・本文リファイン
・フルカラーカバー+モノクロ挿絵付き
・書き下ろし短編「愛縁なくとも」
を予定しています(※あくまで予定で、予告なく内容が変わる場合があります)
そもそも冬コミに受かるのか問題もありますが、続報はTwitter(@ttp1515)で報告していきたいと思います。
長々と失礼しました。
それではまたどこか別の機会にお目にかかれることを、
そして咲SSがもっと増えることを祈って。
2016/08/11
文:TTP
絵:おらんだ15