2-1 襲来、ドラゴンロード
松実宥は、東帝大学でも指折りの有名人の一人である。知らぬ者と言えばまだ夏を迎えていない新入生くらい。そんな彼らでも、先輩たちから宥の話だけは聞かされる。「マフラーの姫」という二つ名と共に。
広いキャンパス内でも彼女が目立つのは、ひとえにその服装によるもの。春先や冬はともかくとして、その過剰なまでの厚着は常識外れである。真夏でもマフラーは当然、手袋にコート、冬場では顔をすっぽり覆うマスクに耳当て。道行く人全てが驚く格好である。
それだけなら変わった人だという認識で終わったかも知れないが、マスクを脱いだ顔立ちは可憐であり男子学生からの人気は非常に高かった。一部からは「病弱っぽいのがまた良い」という根強い支持がある。
女子校育ちの宥としては、男性相手は興味よりも苦手意識が先立ってしまう。入学して二年経った現在でも方々からのアプローチは絶えないが、部活やアルバイトを言い訳に――実際そちらに集中したいのだが――全てお断りしていた。
そんな身持ちの堅い宥ではあるが、この春は少し状況が変化した。――彼女が所属する零細麻雀部に、男子の後輩が入って来たのだ。
講義の合間のお昼休み、宥は友人たちと別れ部室棟へ移動する。立派な新館をちょっと羨ましく見上げながら、入るのは古ぼけた旧館。外よりも一段と冷えるこの棟が、はっきり言って宥は苦手だった。冬は特に隙間風が酷い。どうにか建て直しを要求したいところだが、在学中に実行される見込みは薄いだろう。
階段を昇っていると、視界の端で長い丈のスカートが翻った。見上げた先にいたのは、数少ない後輩の一人だった。
「あ、尭深ちゃん」
「松実先輩……こんにちは」
感情の薄いのっぺりとした顔に添えられるのは、フレームレスの眼鏡。ぺこりと下げられる頭と共に、ショートカットの髪が少し揺れた。どちらかというと図書室に佇む文学少女といった雰囲気の持ち主で、お人形さんのように可愛い、と宥は彼女を見るたびにそう思う。
「こんにちは。今日も部室でお昼御飯?」
「はい。松実先輩も、ですね」
「うん。最近の楽しみになっちゃった」
微笑みながら、宥は尭深の隣に並ぶ。かつてインターハイではライバルチームとして鎬を削った仲である二人は、しかしお互い穏やかな性格ということも手伝って、大学で再会した当初からわだかまりはなかった。
部室の鍵は、開いていた。ここからなら大講義室のある棟が最も近い。今日も彼が一番乗りだ。
宥が扉を開いてすぐ目に飛び込んでくるのは、いつもホワイトボードに書かれた「目指せ! 関東一部リーグ!」の赤字。それからそのすぐ傍の長机に座る、後輩の姿。この麻雀部唯一人の男子部員にして、現在のところ唯一人の新入部員である須賀京太郎だ。
「あ、どうもです、松実先輩、渋谷先輩」
「こんにちは、京太郎くん」
「こんにちは、須賀くん」
尭深と声を合わせて挨拶をする。彼の向かいが宥、その右隣が尭深というのが最近の定位置だ。三人は揃ってお弁当箱の包みを取り出す。
「お茶いれますね」
「ありがとうございます、ポットのお湯湧かしておきましたよ」
「うん、ありがとう」
この部活において、お茶をいれるのは尭深の仕事である。京太郎が入部してなお、彼女はこの役割を頑として譲らなかった。お茶研究会なるものにも所属している尭深にとっては、譲れない何かがあるのだろう。尭深のいれたお茶はあったかく、とても宥の好みである。
月曜日、木曜日、金曜日はこの三人が揃って昼前まで講義のある日だった。全員が弁当持参派であり、宥の提案で部室に集まって食べる決まりとなっていた。
目的は京太郎の大学生活の相談や、軽いミーティングである。だが、すぐにもう一つの主旨が加わった。
「俺の今日の弁当はサバの味噌煮です」
京太郎が大きめのお弁当箱を開き、
「私のメインは豆腐ハンバーグです……」
尭深が小さなお弁当箱を開き、
「いつもと趣向を変えてサンドイッチ作ってみたの。卵と野菜とハムの」
宥がタッパーを開く。
「おお、良いですねー」
「それでは」
「いただきまーす」
それぞれ箸と指を向けるのは、自分のお弁当ではなく、他者が作ってきたものだ。はっきり言って、一人分のお弁当を作るのは非常に手間だ。昨日が日曜日で、夜に時間が余ったので宥もサンドイッチを用意できたものの、普段は残り物であったり冷凍物が中心であったりするのが当たり前だ。そうなるとどうしてもメニューが単調になりがちで、彩りも悪くなる。
故に、こうしてお弁当を分け合える仲ができたのは僥倖であった。少ない準備で、多くの味が楽しめる。しかも三人ともかなりの技術を持っており、切磋琢磨できるのだ。宥のレパートリーと挑戦したい料理は、この半月でぐっと増えた。
「京太郎くん、もう大学には慣れた?」
宥の質問に、
「はい、先輩たちのおかげで。いやー、でも楽しい反面忙しいですね。講義も本格的に始まりましたし」
京太郎は笑って答えた。
「教養科目ならノート回せるから、いつでも頼ってね」
「あ、ありがとうございます。松実先輩の字って綺麗で読みやすいですよね」
「ほ、ほんとう? ありがとう」
ほっと、宥は安心する。男子が苦手と言って逃げ回っていたが、後輩相手にはそうはいかない。上手く先輩として立ち回れるか不安であったが、思いの外上手く行っているようだ。京太郎の作ったサバの味噌煮は舌の上で溶けるように美味しく、二重の意味で有は頬を緩める。
「ところで」
有のサンドイッチを小さな口で食みながら、切り出したのは尭深だった。眼鏡の奥の瞳が、京太郎に向けられる。
「昨日は、どうだったの?」
「あっ」
その一言で、今更ながら宥は思い出す。――そうだ。昨日の件と言えば、一つしかない。
「麻雀仮面さん。恭子ちゃんと一緒に会いに行ったんだよね」
「あー……」
京太郎は苦笑いを浮かべ、豆腐ハンバーグを口に運ぶ。やや言い辛そうに、彼は答えた。
「はい、会いました」
「どんな人だったの?」
「…………まぁ、ちょっと奇抜な格好してる人でしたよ」
「ふぅん。奇抜、なんだ」
奇抜な格好とは、どんなものだろうか。宥は考え込むが、隣の尭深が先を促す。本筋ではないのだから、当然だ。
「それで?」
「戦いましたよ、ちゃんと」
「それでそれで?」
「勝ちました。末原先輩が」
おお、と宥と尭深の口から感嘆の声が漏れる。噂される麻雀仮面の強さは、生半可なものではない。恭子から聞いた話では、一部リーグの学生を寄せ付けないというのだ。下手をすればプロクラスの実力者なのかも知れない。
その麻雀仮面を打ち破ったのだから、流石我らが部長と言わざるを得ない。常日頃から選手としての自己評価が低い恭子であるが、宥はちっともそうは思っていなかった。不利な状況、自分よりも強い敵を相手にしてなお、最後まで諦めない姿勢は中々真似できない、と宥は考えている。
「じゃあ、須賀くんは見たの? 麻雀仮面の正体」
「それが、勝ったのに逃げられちゃいまして。結局見てないんですよ」
「ええっ」
「すみません、ほんとに」
「残念……」
湯飲みを置きながら、尭深が呟くように言った。
「私はてっきり淡ちゃんかと思っていたけど」
「あ、淡? どうして?」
「昨日も電話貰って。『たかみ先輩だけキョータローと一緒とかずっこい!』って延々と言われたの。それで須賀くんに構って貰いたくて麻雀仮面なんて真似をやり始めたのかと」
さもありなん、と宥は思った。尭深の高校時代の後輩である大星淡――現女子麻雀プロ――は、京太郎にとても懐いている。一度だけ彼女が京太郎にじゃれついている光景を宥は見たことがあるが、とても微笑ましかった。
「いや、それはないです」
しかし、京太郎はやけにはっきりと否定した。仮面の下を見ていないというのに、確信しているかのような物言いだった。宥は首を傾げたが、問いかけた尭深が「そう」とあっさり引き下がったため何も言えなくなる。
代わりに、別の質問をぶつけてみた。
「恭子ちゃんとは、どうだったの? 一緒に遊びに行ったんでしょう?」
「ああ、とてもお世話になりました。末原先輩ってやっぱり凄く博識なんですね。美術館に連れてってもらったんですけど、すらすらーって説明してくれて。俺、芸術家の名前なんてピカソとミケランジェロくらいしか覚えてないですよ」
「……そ、そうなんだぁ……」
確か、絵のことなんかよく分からない、と恭子は発言していた。予習したんだなぁ、と宥は彼女の努力を察したが、黙っておくことにした。
「他にも色々教えて貰ったし、良い休日でしたよ」
「ごめんね、私たちは都合がつかなくて」
「今度は煌ちゃんも誘って、五人みんなで行きましょう」
尭深の提案に、宥は笑顔で頷く。京太郎も同じくであった。
しかし、このまま五人というのもまずい。とてもまずい。
二年前、一度廃部扱いとなった東帝大学麻雀部は、未だに黒い噂が飛び交っている。事実無根の中傷だとしても、未だに拭い切れていないのは事実であった。学生の伝聞というものは恐ろしく、先輩が「あそこは危険だから近づくな」と言えば、詳しい理由を知らなくとも後輩は従ってしまう。この春も、同じようなやりとりが繰り返されたのだろう。新入生は麻雀部という名前を出すだけで二の足を踏み、他のサークルに流れていった。
部活連や大学側にも目をつけられており――宥や恭子には全く非はないと言うのに――入学式での勧誘も許されなかった。方々でこの麻雀部は理不尽な目に合っている。
そんな中でも、入学式のその日に入部してくれた京太郎はとても有り難い存在だった。希望の象徴である。
だが、今年はその後が続かなかった。あるいは続かせることができなかった。京太郎の入部は本当に嬉しいが、彼は男子である。女子にはなれない。リーグ戦には最低五人の選手を登録が必要だ。最後の手段として友人に助っ人を頼む手もあるが、できることなら避けたい。
本気で麻雀に打ち込み、共に戦ってくれる仲間が欲しい。腕は二の次だ。それに、もう自分たちの大学生活は折り返し地点を過ぎている。部員確保もままならない状況を、後輩たちに託すのは到底許されることではなかった。
――よし、と宥は意を決する。
「……さっき、噂の恭子ちゃんから連絡があったんだけどね」
全て食べ終えて、タッパーを片付けながら彼女は提案する。
「今日は部活連の会合やら何やらで、練習に顔が出せなさそうなんだって」
「あちゃー。昨日の感想戦もしたかったのに」
「珍しいですね。末原先輩、どれだけ忙しくても練習には出てくるのに」
「それで、何だか煌ちゃんにも色々頼み事をしているらしいの」
「花田先輩に?」
京太郎の疑問符に、宥は頷く。
「だから煌ちゃんも部活に出てこられないかも知れないって」
「それじゃあ、三人だけですか」
「うん。三麻か、みんなで雀荘に行って練習でもしようかと思ってたんだけど……折角だから今日の練習時間は、勧誘に充てようかな、と思ったの。部活連に登録していたら、この時期中央広場での勧誘は無条件でできるんだって」
この辺のノウハウも伝わっていなかったというのが、宥自身溜息が出る。自分たちはどうせ許可が下りないから、と勝手に諦めていたのも悪いが、一度全てが途絶えたハンデは思いの外大きい。もう見逃しがないように、と校則やらルールやらを宥は必死で読み込んだ。
「それで……こういうの、作ってみたの」
鞄から取り出したのは、入部勧誘のチラシだった。フリー素材と自前の絵を組み合わせ、実に半月もの時間がかかったが、宥が一人でレイアウトから作り上げたものだ。自分が作ったものを、人に見て貰う――ここに来るまでは大したことではないと思っていたはずが、実際にはとても勇気が必要だった。
果たして後輩二人の反応は、
「おおー、牌の絵かっこいい!」
「分かりやすいです」
上々であった。宥は一安心する。
「今日はこれを使って勧誘してみようかな、って。ど、どうかな」
「やりましょうやりましょう!」
「流石副部長です」
「恭子ちゃんにばかり負担はかけられないから」
ぐっと、宥は握り拳を作る。京太郎と尭深はしっかりと頷いた。二人はチラシを相当気に入ったようで、あれこれ感想を言い合う。その様子を見ているだけで、宥の胸の中はあったかくなった。
◇
宥はその日の講義を終えると、部室で京太郎と尭深の二人と合流し、チラシを分け合いキャンパスの中央広場に移動した。
一番勧誘が隆盛する時期はとうに過ぎたが、それでもまばらに勧誘の声が聞こえる。みんな元気で明るく、何より笑顔だ。接客と勧誘は似ている、と宥は思う。要は、悪い気分にさせてしまえば負けなのだ。
そのためには、やはり朗らかな態度。やり過ぎでも駄目だが、勧誘する側が緊張していては話にならない。ましてやメインターゲットは入学したての新入生なのだから。
ようし、と気合を入れて広場を通り過ぎる人たちに宥は声をかけようとし、
「麻雀部でーす! 麻雀部は熱意ある雀士を求めていまーす!」
「ひゃうっ」
京太郎の大声で怯んでしまった。
彼は道行く人に何の躊躇いもなく近づいていき、チラシを渡す。通りの良い声と、その巧みな人との距離の詰め方を使って、麻雀に興味なさそうな人にもチラシを受け取って貰っていた。とても目立ち、あちこちから無遠慮な視線が京太郎に飛んでいるが、彼に気にしている様子は全くない。それどころかもっと俺を見ろと言わんばかりに声を張る。結果、彼に自分から近づいてくる新入生さえいた。
ふと尭深を見れば、こちらも順調にチラシがはけていた。京太郎のように目立つことはないが、立ち止まった新入生一人一人に丁寧に部について説明している。質問されたことにはなんでもすらすらと答え、実に堂々とした立ち居振る舞いであった。どちらかというと自分と同じタイプだと宥は思っていたが、その実全く違った。
決意したはずが、最初の一言が出てこない。指先が震え、連動してチラシも揺れ動く。かぼそい声が通行人に届くはずはなく、足を止めてくれない。
――そうこうしている内に、あっという間に三十分が経った。
一度、京太郎と尭深が宥の傍に帰ってくる。
「中々部室まで来ようって奴はいないですね」
「こちらも同じく」
と言いながら、二人のチラシはかなり減っている。宥はまだ、片手で数えるほどしか渡していない。がっくりと肩を落とし、
「ごめんね、足を引っ張っちゃって」
「何言ってるんですか、松実先輩が作ってきてくれたチラシがあるからこそですよ」
「須賀くんの言うとおりです。ここから頑張りましょう」
二人の励ましに、宥は少しだけ元気を取り戻す。――そうだ、まだ弱音を吐くには早い。新入部員を見つけて、恭子を安心させるのだ。
「うん、頑張る」
「その意気です、先輩」
ジュースで喉を潤し、もう一度三人は散り散りになる。相変わらず京太郎の大きな声は耳に入ってくるが、負けられない。
「ま、麻雀部です……」
か細い声と共に、とにかくチラシを渡そうと、腕を伸ばす。一人でも受け取って貰えれば、そんな想いで声を張り上げようとする。人と目を合わせられず、どうしても俯き加減になってしまう。それでも宥は、チラシを掲げ続けた。
――やがて。
かさりと、向こう側からチラシを掴む手応えを宥は感じた。
はっと、彼女は顔を上げる。興味を持ってくれた人がいた。逃してはならない。必死で次の言葉を繰ろうとし、
「えっ」
出てきたのは、戸惑い。
目の前で、チラシに指をかけていたのは――ここにいるはずのない、少女。目を引く艶やかな黒髪は腰まで届き、いかにもお嬢様という容姿。ずっと毎日見ていた、けれどもここ数年顔を合わせる機会自体が減った彼女は、笑っていなかった。笑顔を浮かべれば見る者全てを魅了するのに、今は眉を吊り上げ憤怒を体現している。
彼女は、ぶっきらぼうに宥へと声をかけた。
「久しぶり、おねーちゃん」
「玄……ちゃん……どうして……」
遠くで暮らしているはずの妹を前にして、宥の体は縮こまる。
阿知賀のドラゴンロードは、今にも火を吹きそうだった。
次回:2-2 参上、麻雀仮面N