突如部室に現れた狐面のミニスカメイドを前にして、宥は困惑を隠せなかった。――彼女が、恭子たちが戦ったという麻雀仮面なのだろうか。浮かび上がった疑惑を視線で京太郎にぶつけてみると、彼はしっかり頷いてくれた。
この猫耳ミニスカメイドが、麻雀仮面。
何かの間違いであって欲しいと宥は思ったが、現実は変えられない。なぜか得意気な顔つきの玄の隣に、麻雀仮面は並び立っている。
「ええっと」
恐る恐る、宥は訊ねてみた。
「なんで玄ちゃんが麻雀仮面さんと一緒にいるの?」
「実は――」
人差し指を立てて説明しようとする玄の口を、
「はひゃぁっ」
「余計なことは言わないように」
麻雀仮面がその手で塞いだ。
表情の窺い知れぬ彼女は、抑揚のない声で宥へと語りかけた。
「私のことを教えて欲しいなら、麻雀で勝ってみせて」
「一昨日恭子ちゃんが勝ったんじゃ……?」
真っ当な宥の突っ込みに、部室内に沈黙が落ちる。麻雀仮面はあちこちに視線を彷徨わせてから、言った。
「それは、普通の麻雀仮面。今は、麻雀仮面N。だからノーカウント」
「はぁ」
宥は曖昧に頷くしかない。京太郎や尭深からも追求はなかった。
「さぁ、おねーちゃん、須賀くん、勝負なのです!」
「あ、コンビ役俺なんだ……」
「当然! 須賀くんは当事者なんだよ!」
玄の強弁に京太郎は突っ込む気力がないのか、「はい」と素直に頷く。それを受けて、玄は満足気に微笑んだ。やる気たっぷりである。そのまま麻雀仮面を伴って、卓の傍まで歩み寄った。
一方の麻雀部員三人は、部屋の隅に集まってひそひそ声で話し合う。
「ごめんね、京太郎くん。変なことに巻き込んじゃって」
「いえ、打つ分には構わないんですが……」
「松実先輩の帰省がかかるとなると、責任重大だね。連休が明けたらすぐにリーグが始まるから合宿に参加してもらいたいし」
「プレッシャーかけないで下さいよ、渋谷先輩。……末原先輩がいたら良かったんですが」
「電話しても繋がらないね」
はぁ、と宥と京太郎は一緒に溜息を吐いて。
「やろっか」
「はい。あ、その前にあの麻雀仮面対策なんですけど――」
宥の耳元で、京太郎が囁く。くすぐったくて、彼の息が首元にかかり、宥はどきどきした。ちゃんと彼の話を聞けているか不安になる。
「じゃあ、行きましょう」
「う、うん」
宥と玄が対面に、それぞれの相方がその下家に座る。
両手を強く握りしめ、玄が気合を入れる。麻雀仮面は特に動きはないが、向かいの京太郎をじっと見つめているようだった。その京太郎は、ばつが悪そうに麻雀仮面から目を背けていた。
「ルールは、半荘二回で合計点数が多いチームの勝ち。途中で誰かがハコになったら、そのチームの負け。後は大学リーグルールに準拠。で、良いよね」
「うん、大丈夫」
宥は一息深呼吸してから、僅かに目を細める。
何はともあれ、麻雀での勝負だ。
例え最愛の妹が相手だとしても、手を抜くわけにも、やすやすと負けるわけにもいかない。関東三部リーグの小規模麻雀部とは言え、目標は一部リーグ、引いてはインカレだ。この部の副部長として、譲れない矜持がある。
卓の外では些細なことでも狼狽える宥ではあるが、中では違う。内心どれだけ動揺したところで、表情一つ変えずに自らの役割をこなす実行力が彼女にはある。それもまた、彼女の強みの一つであった。
起家は玄。
妹の戦い方は、よく知っている。
――まだ、未完成だけど。
彼女が相手なら、やれる。宥は確信をもって、弦を引き絞る。照準は、当然玄。
「ロン」
「っ、……はい」
七巡目、玄の手から溢れ出た牌を宥は狙い撃つ。
弘世菫直伝、シャープシュート。菫との交流は、ただの飲み友達で終わっていない。お互い吸収できるものがあると判断した結果、麻雀技術を積極的に伝え合っている。もっとも所属するリーグに格差があっての話であろうが、ともかくとして、宥の麻雀の幅がぐっと広くなっていた。
親は流れて、麻雀仮面。素性が知れない彼女は、何をしでかしてくるか分からない怖さがある。できるなら、何もさせたくない。
ちら、と京太郎に視線を送る。京太郎は僅かに目配せで応えてくれた。
「ポン」
京太郎の捨ててくれる牌を、
「もいっこ、ポン」
食い取る。宥が欲しい「あったかい牌」を、彼は的確に寄越してくれていた。
――凄い。
思わず宥は感嘆の息を漏らしそうになる。まだ、まともに話すようになって一ヶ月足らず。だというのに、京太郎は宥の癖や打ち方をきちんと把握していた。まるで、隣に恭子が座っているかのような安心感がそこにある。ただ赤い牌を捨てれば良いというものでもない。場の流れや宥の捨て牌を、全て読み切った結果だ。
こればっかりは、天性の感覚を持つ者たちにもその才能だけでは真似できない。純然たる、技術の粋だ。インターハイ男子個人の決勝卓まで残っただけはある。努力の結果と言えば簡単だが、魑魅魍魎が跳梁跋扈する現代麻雀において、高みに辿り着くまで努力を続けること自体困難を極める。
だからこそ、頼りになる。努力に裏打ちされた技術は、爆発力はなくとも簡単には崩れない安定性があるのだ。
「ツモ」
染め手を作り上げ、麻雀仮面の親を蹴る。点差においても、まずは宥チームが先攻した形となった。
宥は、ちらりと対面の玄を見遣る。彼女は真剣な表情で配牌を覗き込んでいた。
松実玄と言えば、高校時代には既に全国で名が売れた「阿知賀のドラゴンロード」である。彼女が卓についている限り、ドラが手に入ってくる希望は捨てなければならない。宥の能力と引っ張り合いになっても、ドラに限っては玄の支配から逃れられないのだ。
先の二局も、宥は上がったがドラは一つも乗っていない。自分だけ高火力になるという玄の力は、しかし同時に弱点でもある。
姉は知っている。妹がドラを切ること即ち、己の力を切り捨てることに他ならないと。結果的に彼女の手を窮屈にする結果となっていた。
流れてきた、宥の親。彼女はサイコロを回しながら密かに決意する。
――ここは、攻める。
流れに乗って、一気呵成にカタをつける。
宥の気持ちに牌は応えるかのように、四巡目でテンパイ。京太郎のおかげか、調子に乗れていた。
「リーチ」
その宣言に、ぴりりと場全体に緊張が走る。あったかい牌が来ることを望みながら、宥は千点棒を置く。
京太郎の牌は、差し込みをする状況でもなく当然スルー。できるなら、玄の手を狙い撃ちたい。集中攻撃でハコにすればその時点でゲームセットだ。
しかし。
ここにきて、玄は想定外の手を打ってくる。
「リーチ!」
「えっ」
滅多にリーチをかけない玄が、おっかけリーチ――それも、ただのリーチではない。
「ドラ切り……」
観戦していた尭深が、ぽつりと呟いた。
何よりもドラを大切にする玄が、ドラを捨てた。しかも、こんな序盤に。玄が何を考えているのか、宥には読めなかった。
それから二巡。
掴まされた牌に、宥は微かな吐息をついた。
「ロン! 12000!」
玄への振り込み。一枚ドラを切ったところで、相変わらずのドラ爆体質である。これで一気に逆転されてしまった。
だが、大局的に見れば有利なのはこちらだ。玄は、自らの最大の武器を捨てたのだ。半荘二回では、復活まで辿り着けまい。
次局、当然のように宥の手には大量のドラが入ってくる。
――できるなら、射かけたいけど。
どうしても手は重くなり、思うように狙えない。ここで麻雀仮面に上がられるのが最悪のパターンだが、彼女に動きはなく、ひとまずは一息つけた。
京太郎の親は流局と相なり、スムーズに南入する。
その、南一局。
宥はすぐに、事態の変化に、そして深刻さに気付いた。
――まさか……!
配牌にドラが、一枚もない。
顔を上げ、玄を見据える。彼女が浮かべる表情は、強気な笑顔。状況は明白だ。
たった一局。その一局で、玄の竜は復活していた。私の知っている玄ちゃんじゃない、と宥は歯噛みする。ここで疑ってかかれるほど、宥は軽率ではなかった。
そこからペースを掴んだのは、やはり玄と麻雀仮面だった。麻雀仮面のサポートを受けつつ、玄は自前のドラを使った高火力で攻め立ててくる。
玄に振り込めば一気に危うくなる現状、宥の手は縮こまってしまう。――強い。玄もそうだが、麻雀仮面もまた非常に厄介だ。決して出張っては来ないものの、その分玄を見事に補助している。噂は伊達ではなかった、ということだろう。
何とか食い付いているが、開いた点差は埋められない。
迎えたオーラス、玄はリーチこそかけてこないがテンパイ気配は濃厚だ。おそらくかなり高い。宥も安手をテンパイするものの、リーチをかけるべきか悩ましい。ここでの振り込みは敗北に直結する。
果たして結果は、
「ろ、ロン!」
「はい」
京太郎から宥への差し込みであった。最初の半荘が、決着する。
安堵の息を吐く間もなく、宥は席を立ち、京太郎と共に部室の隅へと移動する
。
「……やられちゃった。まさか、玄ちゃんのドラ支配があんなに早く復活するなんて。これじゃあ隙がないよ」
がっくりと肩を落とす宥。しかし京太郎は、
「いえ、たぶんもう玄さんはドラを切れません」
と、言い切った。
「ど、どうして?」
「最初にドラ切りリーチして以降、玄さんは何度も同じ攻め方をできたはずです。他にも色々選択肢はあったでしょう。でも、やらなかった」
はっと、宥は気付く。
「早い復活は一度きり、ということ?」
「おそらくは。玄さんの性質をよく知っている俺たち相手なら、早々に見せつけておくだけで強力なブラフになる――そう踏んだんでしょうね。実際、警戒しすぎて俺たちの手は遅くなってしまった」
「……希望的観測も、混じってるよね」
「もちろんです。でも、そう割り切って戦わないと勝てない。高校時代の玄さんよりも、ずっと強くなってます。研究する暇のない短期決戦で躊躇う時間はありません」
京太郎の言葉に、宥は頷くほかない。胸にちくりと突き刺さる痛みがあった。ふるふると宥は頭を振って、決意を改める。
「次の半荘は、負けないから」
「はい。逆転しましょう」
四人が、同じ席に着く。今度の起家は再び玄。回るサイコロを見つめながら、宥は神経を研ぎ澄ます。
――集中するんだ。
五感全てを全開にして、宥は卓上の136枚の牌へ意識を集中させる。
「リーチ」
早い巡目で、宥は仕掛ける。いける、という確信が彼女にはあった。
そして。
「一発ツモ!」
予測した通りの牌が、手に入った。
いきなりの跳満親被りを玄にお見舞いする。止める余地のない早上がりに、玄は驚く。これまでとの姉とは違う何かに、彼女も勘付いた。
――あったかい牌を引き寄せるだけでなく、どこにあるのか感じ取る。牌ごとに異なるぬくもりを、ツモる前に把握する。上手く嵌まれば、攻防どちらにも使える。
自らの性質を応用した新しい技術。これもまた未完成ではあるが、今の玄に対抗するにはあらゆる手段を用いなければならない。
さらに、
「ロン」
「……、はい」
隙を見つければ、宥は妹を狙い撃つ。相手に合わせた柔軟な変化は、高校時代の監督に教えられているのだ。
配牌にも助けられ、前半戦の点差はすぐにひっくり返った。
迎えるは最後のオーラス、ここを宥か京太郎のどちらかでも上がってしまえば、あるいは流局でもそこで勝ちが決まる。だが、リードは僅か。気を緩めることはできない。
部室内に、牌が落ちる音だけが響き渡る。決着の時は近く、緊張はピークへと達する。見守る尭深も、湯飲みを握る手に力が入った。
「リーチ」
動いたのは、ここまでサポートに徹していた麻雀仮面だった。まさかここで、とは思わない。想定済みである。彼女の対策は、既に京太郎から聞かされていた。
再び宥は神経を研ぎ澄ませる。そのぬくもりから、京太郎の手牌を察する。
――これだ。
宥の切った牌を、
「チー」
京太郎が鳴く。
よし、上手くいった――宥と京太郎がほっと安心するのと同時、
「残念」
麻雀仮面は、口を開いた。
「そこまでやられるのも、想定済みや」
「――っ」
「ツモっ」
宥と京太郎が息を飲むのと同時、ツモを宣言したのは玄だった。晒された手はドラばかりで、逆転に足るには充分すぎる。
静かな、決着だった。
負けた宥は嘆かずそっと目を閉じ。
勝った玄も、ただただ俯くだけ。
震えを押し殺した声で、京太郎が言った。
「……すみません、宥先輩。俺の読みが甘かったです」
「ううん、京太郎くんは悪くないよ。私たちが負けたのは――」
京太郎の言葉を否定し、宥は玄に優しげな視線を送る。
「私が、玄ちゃんをずっと見てこなかったから」
「おねーちゃ……」
「ごめんね、玄ちゃん。こんなに強くなってたんだね。自分のことばかりで、玄ちゃんから目を逸らしてた。ほんとうにごめんね」
ううん、と玄は首を横に振る。
「勝てたのは、麻雀仮面さんのおかげだよ。おねーちゃん、私よりずっと強くなってた。ちゃんと部活やってるのか、なんて酷いこと言ってごめんなさい」
「玄ちゃん……」
いてもたってもいられず、宥は立ち上がって玄を抱き締める。ぎゅう、と宥は思いきり力を込めた。懐かしい、妹のぬくもりだった。
玄に心配をかけないですむ、強い姉になりたかった。震えるばかりの自分を変えたくて、単身東京までやってきた。その選択は、今でも悔いたりなんかしていない。けれども、結果妹を泣かせていてはどうしようもない。
「悪いおねーちゃんでごめんね」
「我が儘な妹でごめんなさい」
二人は謝り合い――それから、玄からそっと離れた。
「おねーちゃん、暑い……」
「ご、ごめんっ」
慌てて宥も距離をとる。そう言えば、あの夏も同じやり取りをした。玄も思い返していたようで、二人はくすりと微笑み合う。
「須賀くんも、色々ごめんね」
「いえ、俺は気にしてないですから」
かくして姉妹喧嘩はここに決着し、京太郎と尭深もほっと胸を撫で下ろす。
一方で。
宥の視界の端で、麻雀仮面が立ち上がる。何も言わずに彼女はすたすたと歩き出し、部室を去ろうとしていた。
「ま――」
宥の制止の声が音になる直前。
「ちょっと、待ちぃや」
外から、部室の扉が開かれた。
現れたのは――
「恭子ちゃんっ?」
東帝大学麻雀部部長、末原恭子であった。ここまで姿を現してこなかった彼女の急な登場に、宥は驚いてしまう。
恭子は唯一の出入り口の前に立ちはだかり、麻雀仮面の足を止める。ぎろりと麻雀仮面を睨み付ける眼光は、どこまでも鋭かった。
「今日は逃がさへんで、狐メイド。こないだの負けの負債はちゃんと払って貰うで」
「今の私は麻雀仮面N――」
「いやそういうんはほんまええから」
厳しく突っ込みを入れてから、恭子は小さな溜息を吐く。
「まぁ、どのみちあんたは詰んどるけどな。――頼むわ」
恭子に名前を呼ばれ、壁の影から一人の学生が姿を現す。
「あ、煌ちゃん」
「みなさんおそろいのようですね。すばらです!」
出てきたのは、東帝大学麻雀部最後の部員、二年の花田煌であった。どんなときでも絶えない笑顔と明るい性格の、麻雀部のムードメイカーである。
「真打ちは後から登場するって!」
親指で自らを指差し、煌は部室内に足を踏み入れ、麻雀仮面と真っ向から対峙する。
「恭子先輩から指示が下りましてね。今年の東帝の一年を片っ端から調べさせて貰いました。結果としては、恭子先輩の出した条件に当てはまりそうなのが一人いました。ええ、本当に驚きましたよ。まさか貴女がここに入学しているなんて」
煌は不敵に、そして嬉しそうに笑う。
「そこまでするなら教えたのに……」
「須賀は黙っとき」
「は、はいっ」
恭子の鋭い声に、京太郎は竦み上がる。宥はついていけないが、何やら恭子は怒っているように見える。
煌が一歩前に歩み出て、言った。
「逃げてくれても結構ですが、あまり意味はありません。貴女の所属や学籍番号、住所と電話番号も手に入れています。何なら今日の昼食も当てて上げますよ」
「き、煌ちゃん、うちそこまで頼んでないで……?」
「やるからには徹底的にです!」
恭子のささやな突っ込みは意に介さず、きらん、と煌の瞳が輝く。
「何にせよ、その仮面脱いで貰いますよ!」
びしりと煌に指差され。
麻雀仮面は、微かに肩を竦めた。
そして――その手の指が、狐面にかかる。
あっ、と宥は短い悲鳴を上げた。仮面の下から現れたのは、宥も知った顔だった。ただ、記憶にあるより髪は伸び、肌の血色も良い。だが、見間違えようもない。あの夏、直接ではないにしろ矛を交えた相手なのだから。
うっすらと、しかしどこか挑発的な微笑を湛え、
「麻雀部入部希望、東帝大学経済学部経済学科
ゆっくりと、その涼しげな声で彼女は名乗りを上げた。
「園城寺怜です」
それから彼女は素早い動きで卓の傍まで戻ってくると、京太郎の腕をとり自らの胸元に引き寄せた。突然の行為を宥は咎められず、その光景に苦みだけが胸の中に残った。
「ちょ、怜さんっ」
「同じ一年のきょーちゃん共々よろしくお願いします、先輩方」
狼狽する京太郎をよそに、メイド衣装の園城寺怜は淡々と言ってのける。
頬を引き攣らせる恭子と、平気な顔をしている怜が睨み合う。そんな二人を交互に見て、宥は思った。
――嵐の予感がする、と。
Ep.2 松実家シスターズウォー おわり
次回:Ep.3 明日望む者のレミニセンス
3-1 背中と太股