Fate/Zero【人間賛歌の魔王】 作:Red_stone
「…………」
切嗣は階段を見つめている。
「………………あ」
歩かなければ、と思い当たった。疲労は限界に来ている。体の感覚などとうになくなっている。意識が断続的に切れたりついたりする。歩き出せば倒れそうだが──
「聖杯を……!」
上には聖杯がある。7騎のサーヴァントが倒れ、6人のマスターが敗れ去った。その果てに戦争に勝利したのは衛宮切嗣である。
「アイリ──」
甘粕の話が正しければ彼女は上に居る。会いに行かなければ。そう思って。
「──へ?」
視界が回った。天井が見える。訳が分からない。
「いや、転んだ……?」
一歩を踏み出そうとして転けただけだ。それでも……自分の状態がマズイということさえ自覚できない。それほどまでに疲労は彼の体を蝕んでいる。
「……仕方ないね。別に這いずっていっても」
立てないなら立たない。それだけのことだ。合理を優先する彼だから、優雅など気にもかけない。だが、この場合はそれがまずかったのかもしれない。
まあ、それでも彼の疲労を思えばどうだったところで無駄だったのだろうけど。それでも、心の準備くらいはできたはずだ。
上から降ってきた泥に対する心構えくらいは。
「あ──ッ!」
切嗣は上から床を溶かして降ってきた泥に一瞬にして飲み込まれた。
「なんだ……ここは……?」
攻撃、もしくは呪いかと思った。外様の魔術師がとんびの油揚げをさらおうとしたのかと──ならば、呪術系の魔術師がここに居てもおかしくはない。魔法はすべからく魔術師の存在理由であり、それを得るためならどのような非道でも行うのだから。
「だが、たかが呪いごときに──ここまでの怨嗟を込められるのか?」
そういう系統の呪術師には会ったことがあるし、命を狙われたこともある。偶然車に轢かれる、偶然上から降ってきたものが頭を直撃する、偶然流れ弾が当たる──厄介ではあったが、ここまでのものではなかったはずだ。大体、あれは因果逆転などでなく不運を演出するだけのものだ。絶対の確率で死を与えるなど、それは魔法の領域だろう。
「──だが、ここは。なんという……怨嗟、そして憎悪か。ここは、呪いが生み出した世界だと言うのか?」
それでは固有結界だ。魔術師の大秘奥──そんなものを使えるのは死徒27祖くらいのもの。だが、違和感は残る。
「傭兵とはいえ、僕は御三家の一画としてアインツベルンの支援を受けて出場している。この冬木にそれだけの力を持つ魔術師が侵入してきて気付かないなどありえないはず。なぜなら、彼らは世界規模で監視を受けている。いなくなったのなら、それだけで厳重に警戒するほどに」
だから、それは違う──はずだ。それだけはない。固有結界を使用できる術者が冬木に侵入した可能性はない。そうでなければならない。そういえば、この泥は上から降ってきた。……上?
「アイリ。いや、聖杯……? 聖杯があるところから降ってきた、と? あるいは──間桐か」
聖杯にナニカしたのなら、そこだろうと当たりをつけて。
「……いいえ。違うわ、切嗣。これはアインツベルンの仕業。第3次のときにアンリ・マユを呼び出してしまったのよ。聖杯とはいえ人の手で作られたもの──悪神そのものを呼び出せるはずがなかった。呼び出されたのはその名を押し付けられて殺されただけのただの人間だったけれど。そして、案の定倒されてしまった」
アイリスフィールが階段を下りてきた。──姿は普段と変わりなく見える。だが、雰囲気が様変わりしている。
ここは偽物を疑うべきなのかもしれないけど、ずっと一緒にいた切嗣だからわかる。“これ”がアイリスフィールなのだ。漆黒の雰囲気を携え、邪神のように重苦しい気配を放つ彼女が。
だが、この息をしているだけで押しつぶされそうになる圧迫感を疑問に思う。なにが彼女をここまで変えた? これは何の力だ?
「アイリ。よかった、生きていたんだね」
それでも──妻なのだ。今も切嗣は彼女を愛している。
彼女を犠牲にしてまで聖杯を掴もうとした理由は……実は想像力の欠如だったりする。実の父を殺害し、幾多の敵を殺して来ても妻が死ぬということはわからなかった。
その実感がわき始めていた時は、もう──彼女の死は秒読みを迫っていた。一方で、彼女は切嗣の気持ちを知っているのかいないのか……滔々と語りだす。
「その彼自身は問題ではなかった。問題となったのは彼の属性。悪を望まれるという特性は思った以上に聖杯と相性が良かったの。良すぎたの。これはただの純粋魔力の塊だから──染まってしまったのよ。それでも、根源に穴を開けるためなら大量の魔力をぶつけるだけでいいから、属性なんて問題ではないのだけど」
真相は聖杯が教えてくれた。もっとも、アンリ・マユと名付けられた青年のことを少しばかり知っただけだが。しかし、そんなものに彼女は頓着しない。
そういうことが起こるのがこの世界で、それを変えようとしているのが切嗣なのだから。怨嗟に引きづられることはない。
「──悪の属性に染まった純粋魔力? それでは……」
確かにアイリスフィールのまとう雰囲気は悪としか呼べず、そして周囲に満ちる泥もまた悪だ。これが聖杯の中身とするならば、確かに汚染されている。
そして、実はアインツベルンと切嗣の目的は一致していない。……最後に裏切り、勝手に使ってしまうつもりだった。
「世界平和。それはきっと、人類を殺し尽した末に得られるものでしょうね」
そう、世界平和を願おうと思っていた。……根源に穴を開けて魔法を得るためなどではない。個人的な願いのためにここまで来た。
来たと言うのに、下手な冗談のようだった。こんなものを掴むためにここまで来たのではない。このような──泥の塊を得るためなんて。
「……馬鹿な」
こんな──汚染された聖杯など。とてもではないが、こんなものに願おうとは思えない。これは世界を腐乱させる毒の類だ。……薬とはなりえない。
「ええ、馬鹿な話。ねえ、切嗣──あなたはどうしたかったの? どんな世界が欲しかったのか、教えてくれないかしら」
そんなもののために生贄となった彼女は微笑んでいる。悟ったのではない。“そんなものはどうでもいい”と断じている。毒に侵され、毒そのものの気配となった彼女は切嗣を見つめ続ける。
「僕は……僕はただ──」
あえぐ。……どうしてこんなことになったのだろう? 努力してきた。聖杯を得るために妻さえ捨てたというのに──行きついた果てには怨嗟の世界が待っていた。
「聞いたことがなかった。私はただあなたについていくだけで、それがどんなものかも知らずに協力していた」
地獄の窯の底で妻がほほ笑む。あっけらかんとした笑顔は、いつも見ていた笑顔と同じで。
──ああ、なんて綺麗なのだろう。失ったと思っていた。だが、今はもう──二度もこれを失うことに耐えられそうもない。
「……アイリ?」
これもいいか。そう思った。こんな世界でも、愛する妻と居られるなら──それはそれで。
「そんな顔をしないで。あなたを恨んでいるわけじゃない。いいえ、愛しているわ切嗣。だから教えてほしいと言っているの。あなたのことをもっと理解したいのよ」
もう──いい。夢はきっと……叶わないから夢なのだ。あとはもう、アイリの好きにさせよう。
「ああ、ならその話は後だ。ここは泥に埋まっている。脱け出さないと。それに泥を早急に処理しなければ冬木の住人も危ない」
とはいえ、出られるなら出るべきだ。こんなもの、きっとアイリの体に障るだろう。そもそも彼女は死ぬはずだった。それを甘粕が“何とか”した。何をしたのかは知らないが、精密検査は絶対に必要だ。
「ああ、それなら大丈夫よ。外に出してはいないもの。だから、ねえ──私を見て切嗣。私はこれからあなたにきちんと向き直ろうと言うのだから──あなたが私のことを見てくれなきゃ悲しいわ」
だが、アイリスフィールは変わらずおっとりとした笑みを浮かべている。体調には不安はなさそうだが──こういうのは見た目で判断すると後で致命的な結果になることもあると切嗣は戦場で見て学んだ。
「何を言っているんだい、アイリ。そんなことより、早く──」
やはり心配なのだ。生きててくれたのだから、二度と失いたくない。
そんなことを思っている切嗣の目の前で、アイリスフィールは胸から黒い剣を取り出した。何をしたのか、しようとしているのかわからない。頭が理解を拒んでいる。
「え……?」
おもむろに切りつけてくる──
「──アイリ!」
よけた。
だが、おかしい。アイリスフィールのホムンクルスとしての性能は知っている。だから、これはありえない。戦闘経験がないのは知っている通り。素人じみた、適当に振りかぶって上から下に“殴りつける”と言うお粗末な使い方も、アイリならばそうなる。
だが、”サーヴァントにも届きうる身体能力”など決してありえないはずと瞠目する。
「さあ、私と戦いなさい切嗣。……語り合いましょう!」
切嗣は慌てて距離を取って──アイリが一歩でその距離を埋めた。大きく剣を水平に掲げて横殴りに叩きつける。さすがに刃は横方向を向いているが、刃筋が立っていない。これでは斬撃などとは呼べやしない。
「……それは、セイバーの」
魔力放出か、とは言えなかった。頭を傾かせてかわすのが精いっぱいで、もし追撃されたらかわすことはできない。
「……?」
だが、アイリは追撃しなかった。悲しそうに目を伏せている。
「ねえ、切嗣。私、あなたとちゃんと話したことがなかった。そんなこともわからなかったのよ」
踏み込んでくる。
「ち──
アイリスフィールの攻撃は大振り過ぎて、振りかぶったところを見ればどこを攻撃するつもりかわかる。大体、殺気が乗っていない。素人だからとかそんなことではなく、そもそも急所を外している。急所が分からないから、胴体の端っこや腕を狙ってくる。
「やめるんだ、アイリ! 君と僕が戦う必要なんてどこにもないじゃないか」
かわす。3倍速を使っても相手の方が速い。だが、戦い方が下手だ。ただ振りかぶって振り下ろす、そんな攻撃なんて切嗣に当たるはずがない。
「なんでかわすの? ぶつかり合わなくちゃ何もわからない。ただすれ違うだけじゃ、今までの私たちと何も変わらない」
それでも、一回ごとにうまくなっている。下手になりようもないほどにド下手だから、後は上がるしかない。やったことがないのなら、一回やってみるごとにうまくなる。
「ぐ──」
切嗣はかわし続ける。攻撃しようとは思えない。妻なのだ──手を上げられるものか。
けれど……それでも天秤が傾けば愛する者だろうと手にかけるのが衛宮切嗣という人間性。人を救うために人を殺す。一人でも多くの命を生かすために少数を切り捨てる。そういう人間だった。
けれど、天秤は傾かない。
そこに乗せられるものがあるとすれば、アイリスフィールと切嗣の命である。命に貴賤などなく、ただ数にのみ重さを見出す彼は──この場合、判断がつかない。1対1で、それは等価だ。
いや、そもそも。天秤には何も乗せられていない。アイリスフィールは切嗣の命を狙っていない。切嗣はアイリスフィールに手を上げたくない。だから、そこには重さなど何もない。真剣に殺そうと言う殺意は何処にもない。
何もできない。だから、逃げ続ける──
最後の敵は最愛の相手。これも王道でしょうか?