Fate/Zero【人間賛歌の魔王】 作:Red_stone
その廊下は深い荘厳さに包まれていた。
磨き上げられた白からなる大理石には染み一つなく、中央に敷かれた緋色の絨毯が視覚効果によってこの空間の広大さを強調している。
いや、実際にただただ空間が広がっている。伽藍と言っていい。
横幅だけを見ても一般の民家であれば丸ごと入ってしまうだろうし、敷かれた紅い絨毯は淫魔の燃えるような舌めいて、壁に施された宝石細工を絢爛ながらも華美に走らず煌めかせている。
このような意匠の建築、計算された神聖さを醸し出す物が何であるかは理解に易い。
貴族──それも並ではない。連綿と紡がれた魔道の血は伝説に達し、はるか神代の域まで届こうと言う旧き血筋の居城だった。
「さんたまりあ うらうらのーべす
さんただーじん みちびし うらうらのーべす」
その聖性──何者にも絶対不可侵である魔道の城を黒い放射能が蹂躙している。堕とし、汚すことが全てだと誇る様に、億の
その信仰は貴婦人をエスコートするように紳士的な静けさで、しかしどんな強姦魔をも上回る無恥と暴食の権化だった。
絨毯が腐った。宝石細工が溶け崩れた。それがただ歩くだけで床と壁面に亀裂が走り、そこから汚わしい黄ばんだ粘液がじくじくと滲み出ていく。
そうして塗り替えられた新たな意匠は、一言でいえば便所だった。民衆を照覧すべき御稜威として貴き威光を演出されていた空間が、一瞬にして糞尿のこびりついた便器のごとく穢れていくのだ。冒涜もここまでくれば神業的と言うしかない。
事実、その男は伴天連の僧衣に身を包んでいた。聖像画を逆さにすることでパロディ化するだまし絵のような不遜さがあるものの、己は敬虔な信徒であると主張していることは間違いない。
曰く
「まいてろきりすて うらうらのーべす
まいてろいにめがらっさ うらうらのーべす」
わんわんと羽音のようにこだまする祈祷の奔流。それは明らかにキリスト教の聖歌ながら、異形にゆがめられている。
その意味を即座に見透ける者は一定数いるだろうが、何もわからぬ方が明らかに幸せだろう。不快な思いを大部分せずにすむ。
特に、日本人であるならば。
そぞろ歩く神野の足は無人の野を行くがごとし。
事実として彼がこの館を訪れてから、このときまで迎撃の類は皆無だった。
軍団規模の使い魔を楽に収容できるだろう邸宅でありながら、衛兵どころか使用人の一人すら見当たらない。
かといって罠が設置されていたかと言えばそれもなく、門番は施錠すらされてなかった。防備の面で見れば明らかに論外であり、恐れをなした家人たちが総出で逃げ出したのかと嘲笑されても仕方ない。
だが、違うのだ。敵の本拠において雑兵が現れないという状況には、もう一つの可能性がある。
すなわり、そこに立ち塞がる半端ではない者。絶対の強者が待ち受けているという展開である。
「……ん?」
それを証明するかのように、神野の足が歩みを止めた。いや正確に言うと先だって止められたものがあるから悪魔の進行は止まったのだ。
停止させられたのは他でもない、この館を蹂躙していた穢れそのもの。壁も床も装飾も、腐り果てていくのが止められたのみならず──
一瞬にして、再度神聖な荘厳さに満ちた空間へと塗り替えられた。
「へえ……」
無論、ただそれだけで神野の力が敗退したと言うわけではない。穢れはこの男が常態で垂れ流しているものにすぎず、いわば無意識の現象なのだからこめられた力も程度が知れよう。
だがそれだけに、裏を返せば呼吸を止められたに等しい圧迫を神野に与えたのは間違いなかった。普段当たり前にやっていることを反転させられると言う事実には、そのくらいの意味がある。
「こりゃ驚いた。まさか君が出てくるとは思わなかったよ」
今、再び絢爛さを取り戻した廊下の中央、燕尾服に身を包んだ青年が玲瓏と立っている。
「自慢のサーヴァントはどうしたんだい? てっきり僕は、お出迎えがあるならそっちだろうと思っていたんだけど」
「ああ、つまりこういうことかな? 家を守るのは家督の仕事。いや光栄だよ時臣くん。始まりの御三家──―遠坂家5代目継承者」
そして瞬間、音もなく火蓋は切られた。
閉じられた青年の目が開いて行く。その眼差しは烈火のごとく。人が有して然るべき一部を欠損させた者特有の、かつ獣では絶対にありえない陶酔という熱を帯びている。それこそが正統なる魔術師の目だった。
彼は全てを捧げているのだ。身を焦がれるほど求めてやまぬ根源へ到達すること以外、己が血族に価値を認めていないかのように。
その総身は美しく、高性能で、芸術的魔導器械へと流れるように組み変わる。立ち塞がる冷厳なる魔術師を前にして、汚矮と醜悪の無貌である悪魔は嗤った。
「怖いねえ、流石は魔術師殿──」
自身に向けられる瞳の向こう、青年を全てを犠牲にする道へと駆り立てているモノへと、呪うような声で告げる。
「まったく、狂っているよ。なにがどうして、あんなものを代々求めようとするのだか──」
「うふ、ふははは、あはははははははははは──!」
爆発する哄笑は、毒蜘蛛の大群となって空間を覆い尽くした。再再度の塗り替えを塗り替えを起こすべく、穢れの奔流が青年へと襲い掛かる。
だが、炎があらゆる不浄を焼き尽くす。紅き炎が去った後には、何一つ変わらない廊下が存在している。
「これで攻撃しているつもりか? キャスターの使い魔風情が遠坂の城に特攻するなど、馬鹿げているにもほどがある。その様で一体何ができると言うのだ? 『常に優雅たれ』というのが家訓でね──貴様の汚らわしい姿にも眉ひとつ動かさんよ」
彼は自信家である。しかし、その自信は努力に裏打ちされたものであり、高い克己心と努力によって結果を出し続け当主の名に恥じることない評価を勝ち取った。ゆえに、今の神野などものの敵ではない。
「ふふ。うふふふ」
だが、神野は嗤う。嗤わずにはいられない性質なのだ。こういう、真面目な努力家こそ神野が大嫌いな人物で、そして愛してやまない獲物であるのだから。
「──どうしたのかね? 恐怖で震えているのかね? もし、そうだとしたら君の主に賛辞を贈ろう。使い魔に感情を抱かせるなど、そうそうできることではない。さすがはキャスターのクラスに選ばれたサーヴァントと言ったところか」
だからこそ、嗤い続ける。ああ、なんだコイツは──傷がないようで、それはただ単に風雨に晒されたことがないだけ。努力に裏打ちされた自信を持とうが、結局は初心な処女とかわらない──
「時臣くんはオタク。ムスメに一方的に趣味を説教するのが好き」
折り重なって輪唱する蛾の羽音がそう言っている。ように聞こえるのだ。
「お前はムスメと腹を割って話すこともできないこしぬけ。かっこいいのは見た目だけで、中身は歪んだ自尊心しか詰まってない」
卑劣な揶揄であり、見え見えの挑発だ。子供の口喧嘩にも劣る稚拙で下卑た雑言は、しかしそれだけに対象の精神を否応なく掻き毟る。殺し合いの最中に飛ばすものとしては、ある意味で非常に有効と言えるだろう。
もっとも、当の神野に心理戦などしているつもりはおそらく微塵も存在しない。
ただ、好きなのだ。趣味なのだ。人間ならば誰もが持っているだろう触れたくない聖域に、土足で踏み込み糞を擦り付けると言う背徳が。
そして、だからこそ、悪魔の囁きは過剰に下劣な今鷲をとっていても、本質から的外れと言うことだけは決してない。
「くさい。くさい。お前は臭い。葵、凛、ああご先祖様。魔術の話以外では恥ずかしくて口もきけなくてごめんなさい。うふふふふ、ひっひっひっひ──きひははははははははは!」
血に毒蜘蛛。宙に毒蛾。鱗粉の勿論のこと、触れただけで火ぶくれを発生させる。もし僅かでも吸い込めば、肺がぐずぐずに解け崩れよう。
「──下らん! サーヴァントのいない隙を突いてきたかと思えば……しょせんは霧か雲の類だ──効きはせん! お前は何をやりたい? まさか、その汚らわしいものを見せびらかしに来たと言うわけではあるまい!」
そして、遠坂時臣は人として当然の選択をした。見たくないものがあるなら、蓋をすればいい。その手段として挙げられるものは数あれど、魔術師遠坂時臣にとっては一つしかない。
自らの属性である火でもって、嫌なものを目を覆いたくなるほどの不浄を焼き尽くす。
もちろん、誰にでもできることではない。いや、魔力が大量にあれば誰にでもできることだろう。だがそれは無理な相談だ。遠坂時臣は凡才でしかないのだから。しかし、彼以上に“うまく”やれる人間はそうそういない。
重要なのは魔力だ。それが切れれば即ち死を意味するのが聖杯戦争。ゆえ、彼は最小の魔力でもって最大限の効果を上げる。努力し続けたからこそできる魔道の業であった。
だが、神野の不死性はその効率的な破壊をものともしない。
「消えろ。この世は貴様が出てきていいような地獄ではない。貴様の故郷──地の底の果てに還れ!」
叫ぶ。その姿は毅然としていて、恥ずべきところなど何一つないように見える。
「コミュ障。子供を売った商売人。うふふ。あははははははははは──!」
この場では正しい。──ああ、この場では。けれど、娘の前だろうが妻の前だろうがこれなのだからしょうもないとしか言えない。
繰り返すが遠坂時臣は凡才。これは優秀たらんと被った仮面であり、下の素顔を隠している。誰からも素顔を隠し、魔術師として正しいことしか口にしない彼の意志を誰が知るというのだろう?
「……黙らんか!」
そして、かずかに何かが焼ける音がした。
「──お見事」
毒蜘蛛も毒蛾も鱗粉も、すべては夢幻。趣味の悪い投影でしかなかった。けれど、時臣の魔術は一瞬、それもわずかにかすった程度と言えど神野に当てることができた。
「許してもらいたい、時臣くん。少し試す必要があったんでね。どうやら無駄だったうえに僕が恥を晒しただけみたいだ。お手上げだよ、許してくれたまえ」
頬にわずかに火傷の跡が残っている。消えないそれは時臣が一撃当てたと言うことの確かな証明だ。
「そこでお願いがあるんだよ。どうか聞いてはくれないかな?」
「笑わせる。さっさと言って出ていけ。──この私が敵の願い事を聞くと思っているわけでもなかろうがな。これ以上は徒労だ。貴様をここで殺すよりも、後で本体のサーヴァントの方を狩ることにしよう」
椅子に座りワインをたしなみ、本格的に無視する体勢に移行したの彼へ神野はささやく──
fate/zeroは凛が大天才でなければ遠坂の歴史は5次に至る前に終わっていた気がします。