習慣や癖というやつは慣れない場所ほど顕著になりやすい。
現にぼくは、出撃当日の起床のようにベッドから出る前に体の状態を足の小指に至るまで点検したが、シーツの感触がいつもと違うことに気づき、慌てて飛び起きた拍子にスッ転げてしまった。
強かに打ちつけた鼻を抑え周囲を見渡すと、そこにはいつもの殺風景なコンクリートの壁はなく、空と海が織り成す鮮やかなオーシャンビューが朝日を受けて輝いていた。
「おはよう。朝から騒々しい奴だな。」
マザーの声が明るい空間に響く。振り向くと彼女は部屋の中心に置かれた椅子に腰かけ、テーブルのラジオをいじりながらタバコを吹かしていた。半袖のシャツからのぞく腕はいくつもの戦いを生き延びた証のように無数の傷跡が刻まれていたけど、日の光に包まれたその表情は聖女のように穏やかだった。
思い出した。あの後夜遅くまで話し合ったせいで兵舎に戻るのを忘れてしまっていたらしい。今頃曹長は大事な決戦を前に姿を消した新兵を血眼になって探し回っているだろう。
幸いにもマザーが特権で貸し切っているこのスカイラウンジは士官でないと入ることはできない。戦う前にボコボコになる事態は避けられそうだ。
思わず胸を撫で下ろすと、ラジオから何かの曲が流れるのが聞こえた。ちょうど一番盛り上がる箇所だったからすぐにベートーベンの第九だと分かった。朝から聞くには少しテンションが高いチョイスと思えないこともないが。
「お、おはよう。やっぱりここっていい眺めだね。一度も使ったことなかったけど。」
「ああ、お陰で管理担当の連中をなだめるのには苦労した。」
紫煙を吐き出しながらマザーが呟く。このときばかりは流石にリラックスしておきたいのだろうか、戦場で見せた灼けるような威圧感は感じられなかった。
「好きなの、この曲?」
「まあな。特に理由はないが気に入ってるんだ。」
ゆっくりと浮かぶ煙にぼくは思わず咳き込んでしまった。
「何だ、葉巻は苦手か?」
「というより、吸ったことないよ。一応未成年だし。」
「折角だから吸ってみるといい。何事も経験だ。」
「いや、今未成年って言ったよね。」
そんなツッコミも華麗にスルーされながらも、ぼくは生まれて初めて葉巻を手に取った。
「一気に吸い込むな。喉の辺りで止めればいいんだ。」
吸い口から出る煙と同じものを言われたとおりに吸う。慣れないこともあってやっぱり咳き込んでしまったけど、わずかに芳醇なコクと香りが口の中に広がった。何となく世の大人たちがハマる理由が分かる気がする。
「確かに味わい深いのは分かるけど、やっぱり好きにはなれそうにないや。」
拳骨を受ける。
「贅沢言うな、
むしり取った葉巻を丹念に味わう様子はどことなく年齢を感じさせる仕草だった。目元を注視すると若干だが皺が寄ってるのが見て取れる。それでも敢えて化粧をしないのが彼女らしかった。
「この戦いでお互い生き残れたらとっておきの作品をプレゼントするよ。」
「プレゼント?」
「前のアンタと約束したんだ。」
「お互い生き残れたら…か。」
マザーは窓にどこか遠くを見るような顔を写し出していた。ぼくは何故かそれにぞくりとしたものを感じ、慌ててセリフを付け足した。
「大丈夫だよ。アンタがいるんだったらきっと人類は勝てる。力不足かもしれないけどぼくも手伝うから。」
「何を言う。お前は私が鍛えた奴らの中で一番優秀な兵士だ。REXを任せられるのは恐らくお前だけだろう。」
会話のほとんどが罵声やダメ出しだったマザーがこれほど手放しで褒めてくれたのは初めてだった。急に照れくさくなったぼくはそれをごまかすように葉巻を手にする。
その瞬間くぐもった音と同時に葉巻の先に火が付いた。ライターは使ってない。状況を飲み込むより早く床に伏せたぼくとマザーの頭上を1秒後には無数の銃声が押し包んだ。辛うじてガラスは爆撃を想定して強化してあるからひび割れはしたものの、粉々になることはなかった。続けて飽和した聴覚にサイレンが流れ込む。
「て、敵襲!? そんな…基地に直接襲撃なんて今まで一度も無かったのに…」
「タクミ、落ち着け。いくら考えても現に我々は襲われている。それはもうどうしようもない。」
「だ、だけどさ!」
「元々ループの根幹は向こうが持ってるんだ。これまでのデータからこの方法が最も確率が高いと判断したんだろう。ケガはないか?」
マザーの手の平がぼくの頬に触れる。それだけでぼくの恐怖心は魔法のように静まり返ってしまった。
「うん、何とか。」
「ならば急ごう。奴らはすぐに上陸するぞ。」
ガンツスーツの保管場所にたどり着くまで、あちこちからXガンの発射音が聞こえる。恐らくは見張りの部隊が応戦しているのだろうが、それ以上に鳴り響く爆発からするともって数分だろう。
でもそれだけあればぼくらには十分だ。先に装備を済ませたマザーの先導でぼくはハンガーに到着する。
「表は私が見張る。早く準備しろ。」
「2分で終わらせる。」
中に入るといつもの湿った空気に混じってわずかに血の匂いがした。どうやらハンガーに先客がいるようだった。
不規則に点滅する照明の奥で鎮座するガンツの前でぼんやりと青い光が浮かび、1つの影が黙々と何かの作業をしているのが見える。
「誰か!」
手近に転がってたXガンを拾い構えると、ビクッと強張った背中が恐る恐るぼくに向いた。
「…タクミか?」
「先輩?」
聞き覚えのある声の主は額から血を流してるナイジェル・ケイブスだった。コンピュータをガンツに接続して何かのコマンドを入力していたようだ。
「何してるんですか?早く前線に行かないと。」
「ハア? バカかお前は。こんなところにいたらお陀仏になるだけだ。さっさと逃げるに決まってんだろ。」
「けど、敵はすぐそこまで迫ってますよ。」
相変わらずナイジェルはキーボードを叩くのを止める様子はない。
「実はオレ、兵隊になる前はソフトウェアで生計を立ててたんだ。ちょっとしたハッキングもできる。もう少しすれば…よし。コイツの転送機能を利用してナガノ辺りに座標を設定した。タクミ、逃げるぞ…って何やってんだ!?」
話の中盤でぼくはすでにスーツの装着に移っていた。
「決まってるでしょう。戦うんですよ。」
「バカが! 頭イカレてんのか!? もうここはおしまいだ。わざわざ死にに行くことねえだろう?」
「別に自棄になった訳じゃありません。ただ、そうしなければいけないんです。」
「お前…マトモじゃねえぞ。」
「心配してくれてありがとうございます。先輩は早く脱出してください。」
手首のポインターをはめてスーツの状態を確認する。問題ない。
「…忠告はしたからな。どうなっても知らねえぞ!」
よく聞く捨て台詞を残してナイジェルはガンツのスキャンレーザーに包まれて消えた。敵前逃亡は重罪だけど、さっきのハッキングの腕を使えば何とかなるだろう。ハンガーを出ると基地の周辺は赤々とした炎が立ち上っていた。
「挨拶は済んだか?」
マザーが前を見据えたまま尋ねる。
「うん。あの人なら多分大丈夫だから。」
「見ての通りだがこっち側は劣勢のようだ。まずは西棟に向かう。」
2人ともホルスターから柄を取り出すと、赤と黒の鋭い刀身が鈍い起動音と共に虚空から顕現した。