いつもここに来るとあの時のことが脳裏に浮かぶ。彼女の息遣い、自分の胸の鼓動、肉を斬った感触に浴びた血の熱さ。もう長いこと経つのに未だに色褪せることのない記憶は、しっかりとぼくの中に焼き付いている。
コートに身を包んでも誤魔化せない冷たさを感じていると、後ろの黒い球体からメッセージを告げる着信音とアイコンが第一級の特命が来たと知らせてきた。ぼくは玉に近づき網膜スキャンで映像通知のロックを解除する。
内容はチリ南部における支援と敵拠点の破壊工作任務。これまでのと似たり寄ったりなことに嘆息しながら資料に目を通す。
読み終わると背後の一つの石碑に向けてただ一言呟いた。
「また来るね。」
開戦の狼煙となった最初の一撃はわずかにぼくが押し負けた。無意識に半歩下がったのを見逃さず、マザーは矢継ぎ早に刃を叩き付ける。ぼくはそれらを必死に防いだけど、雪に埋もれた足がバランスを崩し無様に傾斜を転がった。顔を覆う雪の粉を拭い落とす。
「どうした。何故向かってこない。」
マザーが鉄面皮のまま問うてくる。
「できない。できないよ、こんなこと。」
ほとんど泣き言だったけど、構うもんか。彼女を失うなんて世界が滅びてもあってはならないのだから。
「私に情でも抱いたか? 甘えるな。まだ同じことを口走る気なら次は舌を切り落とすぞ。」
訓練でも聞いたことのないドスを放ちながら、なおも彼女は襲い掛かってくる。マシンガンの弾丸くらい速いんじゃないかと思わせるほどのスピードで繰り出される連撃は、1発1発が骨の髄に染みるほどの威力で彼女の目は完全に敵を倒すときのそれだった。
ここがお前の死に場所だ、と彼女は告げた。事あるごとに口から出るそれを最初は軽いジョークだと思っていた。コントの付け合わせにもならない、それこそ
そしてぼくは大きな思い違いをしていたことに気付く。マザーはぼくを試しているのでも、恐れを感じているのでもない。自分と同格の1人の戦士として認めた上で、純粋に勝負を挑んでいるのだと。事実、訓練の時はこれほどの強さと殺気を解放したことは一度だってない。
ならば、ぼくも真剣に立ち会うべきなのかもしれない。唯一ぼくを心の底から認め、育ててくれた人への恩返しとして。今のぼくができるたった一つの冴えたやり方で。
マザーが刀を大上段から振り下ろそうとした直前、ぼくは全身のバネを使ってバク転した。間一髪逃れた一撃は地面の雪をよろけるほどの風圧で吹き飛ばし、モクモクと白い霧を発生する。その間にぼくは坂を駆け上り、建物の中に避難した。
仮にぼくとマザーの戦闘能力が同等だとしても、経験値は圧倒的に劣っているだろう。雪上という不安定な足場にも関わらず、マザーは完璧な体重移動をやってのけている。だったら、少しでもリスクの少ない環境で戦った方がまだマシというものだ。
入るときにわざと空けておいた扉からもちろん来るはずがない。神経を張り巡らせ相手の出方を窺う。結果、ぼくは天井に反応した。真上から赤い刃が天井を突き破って侵入してくる。ぼくは避けるのに精一杯で、不十分な体勢で攻撃を受け止めたので、ガンツソードを落としてしまった。
続いて背後の窓を割って入ったマザーが、息継ぎもさせてくれないほど手際よく武器を振り回す。ぼくは避け、剣の動きを読み、交互に重心をずらして回避に徹する。その都度食器や家具の壊れる音が部屋中に鳴り響く。その中から手当たり次第に物を投げ、蹴飛ばした机が弾かれた隙を狙って彼女の胸に蹴りを叩きこむ。
不意打ちを食らいマザーが壁にめり込んだ間に、武器を手元に戻す。さっきの蹴りはかなりのリスクを伴う決断だった。少しでもタイミングがズレたら今頃カカシになってただろう。
意識が回復したマザーが額から血をしたたるのにも構わず第二撃をお見舞いする。が、寸前で不意に伸びた手が顔を覆い、反射的に引き剥がそうと手首を掴んだ。その後にしまったと思う。僅かに重心の崩れを許してしまい、離そうとする前にマザーが僅かに腕を揺らすと簡単に宙を舞っていた。
叩き付けられた壁が崩れ再び白銀の世界が飛び込んでくる。右手の迂回を装って死角からの奇襲。視界が明滅する中でマザーが発する思惟がズンと額に突き刺さり、反射的に跳躍し先手を仕掛けようとするが、それを予期していた通常の数倍も伸びた刃が宙空で身動きが取れないぼくを狙ってくる。掛かった。チャンスを確信した指が鍔元のスイッチを押し、武器の全長を自身のそれの何倍も長くする。浮遊物の重量がいきなり増加したことに驚いた重力は律儀に放物線を急直下させ、着地に備えて膨張したスーツが足元からガスを噴射する。
辛うじて攻撃をかわされて大きく体勢を崩したマザーに向かって、回避用に伸ばしたリーチの長い重厚な刃をそのまま叩き付ける。遠心力の影響で長柄物を振り回すと当然モーションが大きくなり、次の動作に移るまでの隙が広がってしまう。ガンツソードの特性を利用した攻撃だったが、その手に関してはマザーの方が上手だ。こちらの意図を瞬時に読み取り、延長した剣を収納して寸でのところで真半身で避け切った。丁寧に地面にめり込んだ刀身を踏みつける。
「いつか夢見たことがあった。私と同じ存在が現れる日を。何日も何年も待ち続けた…」
「その結果に殺し合おうっていうのか!?」
「呪われているのだろうな私たちは。それほどまでに
「神がどうだっていうんだ! そんなものはぼくが空から引きずりおろしてやる…!」
「だったら先に私を倒してみせろ!」
容赦ない斬撃がぼくを吹っ飛ばした。すぐに立ち直りダメージの確認をしたとき、ぼくはようやく状況の変化に気づいた。辺りは吹雪に包まれていた。
「やっと覚悟ができたようだな。それでいい。」
姿の見えないマザーが嬉しそうに叫ぶ。10m先も満足に見えない猛吹雪に叩かれながら、ぼくは聴覚を頼りに彼女の位置の把握に努める。すると、さっき声のした死角からいきなり赤い閃光が伸び、反射的にかわしたぼくを連続で狙ってきた。それも一回ごとに別方向から攻撃するという徹底ぶりだ。さながらぼくはサーカスの踊り子のように、あちこち飛び回る羽目にあった。
腕が痺れ切る前にその場から跳躍し、着地して刀を握り直す。そのとき、ぼくは手に違和感を覚えて一瞥したら、左手の小指と腕の一部の肉が無くなっていた。どうやらアドレナリンのせいで切られたことに気付かなかったようだ。
舌打ちもそこそこに全身への影響を確かめる。問題ない。武器を握るのが少しきついけど。
1秒後にはマザーが突っ込み、刀を合わせる。握るのが不完全なら力勝負は諦め、手数で稼ぐしかない。ぼくは無心に刀を最適化した軌道で振るい、攻勢に転じる。でも、やっぱり左手の影響で力が上手く伝わらない。
そこで瞬時の判断で剣先を雪に潜らせ、斬り上げと同時に雪を飛ばす。目くらましにもならないが、1mmでも意識を外せれば十分だ。雪をかぶったマザーの顔に上段の攻撃。血にまみれた右耳が落ちた。
「その程度で…」
低く唸ったマザーが黒い刀身を斬り払う。ここでぼくは彼女の恐ろしさをもう一度体感することになる。マザーの比類なき戦闘の才能はぼくの動きを先読みするようになったのだ。ただでさえ鋭い剣筋がますます鋭利になる。
もう何分たったのだろう。あれほど激しかった吹雪も止み、曇った空にも光が射し込んでいる。兵士には物足りないぼくの肉体は最早精神力で辛うじて動いていた。
あのまま斬りあい続け、ぼくもマザーも互いの肉を何度も切り裂き、至る所から流血していた。彼女の腱からは筋繊維が何本か飛び出て、左目も潰れている。一方のぼくは右手のうち3本の指先が切断され、折れた肋骨の一つが肺に刺さっていた。
とめどなく口からこぼれる血を唾と一緒に吐き出す。おまけに極寒の雪原にいたせいで体温が低下し、体中がガタガタと震える。
何となく次で最後だな、と感じた。向こうも同じ考えなのか、ぼくの動きに合わせてゆっくりと赤いガンツソードを腰だめに構える。
怖くはなかった。もう何度も死んでるし、彼女には何度も命を救われた。そう思えば彼女の手に掛かるなら、寧ろ本望だ。
しかし、マザーは許してはくれないだろう。なぜならこの戦いはぼくらにとっては絆だから。ぼくらだけが共有するコミュニケーションだから。
限りない殺意をぶつけ合う中で、ぼくは幸福を味わっていた。剣を通じてマザーに触れるたびに、あれほど悲しみに満ちた心が軽くなっていくのを感じた。彼女と出会えたことを天に感謝した。ぼくは歓喜に満たされていた。
でも、輝かしい時間ももうすぐ終わろうとしている。互いに相手を見て時計回りに移動する。大気に放散する練り上げた気が最も充実した瞬間、どちらともなく駆け出した。
マザーが抜刀の要領で下から斬り上げ、ぼくはそれを迎え討つ。一瞬の火花が散った後、二つの影が重なり、最後に瑞々しい鮮血が雪を飾った。
ループに巻き込まれてから彼女に近づくための数え切れない死が、ぼくを鍛え上げた。容赦ない攻撃から逃れるために、必死に彼女の技術を目に焼き付けてきた。だからぼくは、マザーが腰から斬りつけるときには、必ず屈伸した勢いで上体を起こし、一瞬だけ胸に隙ができるのが分かってしまっていた。奇跡が起きたのはその瞬間だった。
次に目を開けるとそこは知らない空間だった。光り輝いているが風景はなくそれに伴う外界からの感覚も伝わらない。いや、それどころか地面すらない。無重力というのだろうか。方角どころか上下の区別もつかないどこまでも続く澄明な空間に包まれていた。不思議と驚きはしなかった。隣にはあの人もいたから。
後悔はない、と彼女の意識が伝わった。全ては自明の理であり、その責任の所在も自分の内にあるものだ、と。そうかもしれない、と応じる。結局のところ他人はどこまでも他人であって、本当の意味で理解し合えることは有り得ない。こうして思惟が融け合っているぼくらでも「我」を保っていることがそれを証明している。
どのみちこうなる運命だったのだろう。仮にぼくがループに巻き込まれなくても、代わりの誰かが同じ目に遭っていたはずだ。これからぼくはどうなるのだろう。誰にも理解されることのない孤独な闘い。世界を捻じ曲げるだけの力と有象無象の期待と恨みを携えて、果てのない地獄の淵へと進んでいく。
戦士の道と言えば聞こえは良いのかもしれない。信じられるのは己のみ。骸の丘の頂に立ち、硝煙に酔う。それも良いだろう。ただ、アナタがいないことがどうしようもなく寂しい。
悲観的な奴だ、と彼女は哂った。抱き締められたわけでもないのに、その温もりは生身のそれと変わらない。だったらお前が終わらせればいい。世界は広い。血や臓物、銃なんてほんの一部に過ぎない。そんなものより素晴らしいものがこの世には満ち満ちている。この光の先にもきっと―
だからお前の死に場所はお前が決めろ。
その想いにぼくはただ頷いた。光が強くなり閃光の原がぼくらを焼き尽くす。最後にどこか寂しそうに、すまない、と声が聞こえた気がした。
胸から左の頬にかけて一筋の熱が迸った。一拍遅れて赤い液体がぼくの首筋を濡らす。衝突したマザーの体から鉄臭い血に混じって柔らかな匂いが届く。どうやら彼女の斬撃はぼくを掠めただけみたいだ。代わりにぼくの刀は深々とマザーの胸に突き立っていた。
「…私の負けだな。」
吐血したマザーが絞り出すように喉を震わせる。漆黒の刀身は寸分の狂いもなく彼女の心臓を貫いていた。素人でも致命傷と分かるような傷だ。
「本当に強くなったな、タクミ。」
「もういい。喋らないで。」
溢れそうになる激情を懸命に抑え込む。とても胸が熱い一方で頭の片隅は妙に冷静で、取りあえず彼女を楽な姿勢にするために横たえようとした。
「待て。右に岩があるのが見えるか? そこまで運んでくれ。」
言われるままぼくはマザーをおぶって歩く。意外と軽いんだな、と思うのが精々だった。岩に近づくと彼女を座らせ、顔を覗き込む。唇は紫に変色し、顔も血の気が引いているのが見て取れた。
放っておけば20分もしないうちに死ぬだろう。どうすればいいのか分からずオロオロするぼくに、マザーは薄く微笑み、しかし衰えない眼光を湛えて震える手で赤い剣を差し出した。
「やる。お前の物だ。」
簡単だけど有無を言わせないセリフに、震える腕を律してしっかりとそれを握りしめる。鈍く光る紅の刃は一体どれほどの血を吸い上げてきたのだろう。
「タクミ、私の誇り。みんなを頼む。」
マザーは全てを教えてくれた。心の底から彼女を愛していた。この人のためなら死んでもいいとさえ思った。
でも、現実は残酷だ。仲間の命と残された彼女との時間を天秤にかけるようなことはしない。そんなことはマザーも望んではいない。
改めてぼくはマザーを見つめる。そこには鮮やかな赤い花に囲まれた儚げな女性が存在した。この世の何よりも美しいと思えるほどだった。壊したくなかった。けど、やらなければならなかった。
ぼくは立ち上がり、深呼吸する。時間が止まったように静かな空間はただ成り行きを見守っている。
「死ぬのは久々だが…この死は私を裏切らない。」
マザーが目を閉じる。ぼくは刀を空に掲げた。