その男は臆するのでもなく、常軌を逸しているのでもなく、ただ自然のままに佇んでいた。
「わざわざこんな僻地にご足労をかけたね。会いたかったよ君に。」
レスラー張りの巨体に似つかわしくない穏やかな笑みを湛えたまま、グラハム・ターナーは言い放った。さっきまで座っていたデスクには小型のコンポが置いてあり、ウィルヘルミのG線上のアリアが物悲しく切ない旋律を醸し出している。
何だコイツは? なぜこんなに落ち着いている。見たところ武器は持ってないし、服の下にスーツを装着しているわけでもない。つまりコイツの命のスイッチはぼくが握っていて、その気になればすぐにでも殺せる。けどなぜかぼくはそうする気になれなかった。
「どうした? 掛けたまえ。」
デスク上のコーヒーメーカーにカップを置いて茶色の液体を注ぎながら、ターナーが思ったより気さくな声を発しまとまりかけた思考が霧散した。向けられた銃口を眼中にないとでも言うようにターナーはカップを差し出すが、ぼくがそれを受け取る気がないと分かると少し肩をすくめて引っ込めた。
「そう警戒するな。ここには私と君以外誰もいない。」
湯気が立ったコーヒーを一口飲んだターナーは、椅子にどっかりと尻を下ろした。とても自分が置かれている状況を理解して起こした行動とは思えない。どうにも面白くなかった。このままだったら相手のペースで話が進んでしまうかもしれない。
「グラハム・ターナーだな。情報漏洩の嫌疑でお前を連行する。」
妙な動きを見せれば即座に射殺できるように、心臓に狙いを定めたまま話を断ち切る。しばらく睨みあって場の緊張が高まったように思えたが、ターナーはフッと口元を緩めおどけて見せた。
「テイラーが捕まった時に立ち会ってた連中の差し金か。いいだろう。こちらとしても要件は早く済ませたいのでね。」
そう言ってまた立ち上がったターナーがおもむろにシャツを開くと、その下には2つの箱型の物体が貼り付けてあり、片手にはボタンが握られていた。
「このスイッチを押すと私の体にあるプラスチック爆弾だけでなく、基地中に仕掛けていた導火線に火がつき、ものの数分で木っ端微塵になる。巻き込まれたくなかったら大人しく話を聞いてもらおう。」
唖然に取られたままぼくの腕は自然にFN SCARを降ろしていた。その反応に満足したのかターナーは、すっかり脱力した様子でデスクに腰かけた。
「まず最初に私はグラハム・ターナーではない。」
今日の天気は晴れです。そんな気楽さであっさりと告げられた。ぼくの方はと言えばいきなりのカミングアウトに一瞬頭の中が真っ白くなってしまった。どれくらい真っ白かというと、1つも足跡がない雪原にさらに白いペンキをぶちまけた感じだ。
「影武者というやつだ。珍しくはないだろう。」
「だったらなおさら不可解だ。何でこのタイミングでバラす必要がある?」
再びコーヒーを注ぎにポッドに触れる目の前の男を銃で威嚇する。しかし、相変わらず影武者の男は気にも留めてない。
「言っただろう。君に会いたかったと。こうでもしないと2人で語り合える時間は作れなかったからね。」
「話?」
「私は彼に伝言を頼まれていた。だが、その前に
ギン!
「奪ったデータはどこにある。お前たちのボスは何が目的だ。プロメテウス計画とは何だ。」
足元に7.62mm弾を撃って警告する。しかし、影武者はやれやれと言った様子で首を左右に振り、手の中のスイッチを弄りながら天を仰いだ。
「そう捲し立てるな。折角時間を取ったんだ、もうちょっと
聞き分けのない子供をなだめるように男は手を振った。コイツは気でも触れてるんじゃないかと思った。自分が死ぬことは確定済み―下手をすれば
いや、コイツはあの男と同じ匂いだ。テイラーという人間爆弾のように端から
「そうだな、まずはデータについてだ。無論、私が持ってないことは分かるだろう。アレは君たちが扱うには少々荷が重い代物でね。ちゃんと本物のターナーが手元に置いている。」
「奴はどこにいる!?」
「まあ落ち着け。物事には
ここではないどこかを思っているのだろうか。男は瞼を閉じて黙考しているように感じたが、再び瞳を見開いたときは別人のような鋭い光が宿っていた。
「最後に伝言だ。うちのボスは最近の逃避行で少し気が滅入っているらしい。どこかでパーティーでも開いてくれればとボヤいていた。それとヴァローナ2に気を許すな。父親に似て強情だからな。」
瞬間、男の指がスイッチに伸びるのを確認したぼくはすかさず眉間に引き金を絞ったが、1コンマの差でボタンは押されてしまった。瞬きする暇もなく男の腹から光が迸り、激しい閃光がぼくの網膜を灼き、凄まじい衝撃が脳と体を揺さぶり、世界が爆発してぼくは気絶した。
「…がせ! まだいるはずだ!」
何かの膜で覆われてでもいるのだろうか。どこか遠く響く誰かの声に目を覚ましたぼくは、首に掛かる体重から体が逆さまになって壁に叩き付けられたままということを認識した。眼前のディスプレイはひび割れており、大半が黒く塗りつぶされてしまっている。
全身の状態を確認して手足が千切れてないと分かったぼくは、多少の痛みを無視してバイザーを脱ぎ捨てると、その表面には自爆で飛び散った男の鼻と上唇、申し訳程度に数本の歯がくっついた顔の一部がへばりついていた。すぐに剥がしたものの、爆風でひっくり返ったデスクや椅子と同じように血糊がべったりと付着していると分かり、使い物にならないと判断して投げ捨てた。
「シェリー、聞こえるか?」
事前に支援要員として先行させていたシェリーから普段通りながらも切羽詰まった声が返った。
『どうしたのローガン。さっきすごい地震が起こって崖から煙が上がってるけど。何かあったの?』
「説明は後だ。対象の確保には失敗した。どうやらこの基地はもうすぐ崩壊する。撤退ルートをFに変更するから援護を頼む。」
『了解。死なないでね。』
死なないでね。彼女もぼくの秘密を知らないとはいえ少し悪い気がした。残念だけどシェリー、ぼくは死なないんだ。死んでもぼくはすぐに目覚め、また同じ1日を繰り返し、死ぬべきだった未来を上書きする。テレビゲームでセーブデータを上書きするくらい簡単に。そうやって何度もぼくは時間の神様を欺いてきた。君がそれなりの願いを込めた一言も、ぼくが自分の頭を撃ち抜いたらリピートして全く味気ないものになってしまうんだよ。
次第に大きくなる足音を耳に挟みながら、ぼくは滅茶苦茶な管制室の中で
舌打ちして片手でガンツソードを握り、片手でサイドアームの
聴覚に集中するとさっきまで騒がしかった足音が止んでいた。壁際に身を寄せ壊れたバイザーを壁から覗かせると、1秒も待たずに蜂の巣にされた。敵はすっかり布陣を整えたようだ。気配を辿るだけでもこの階で10人以上は待ち構えていた。恐らく下の階にはさらに多くの警衛が舌なめずりして獲物を待ち伏せしているころだろう。
久々にハードな仕事になる予感を押し殺し、ぼくは脱出の手筈を思案した。多少無理があるけど、贅沢は言ってられない。昂った感覚を場の音や空気に同調させて、隙を計算してポーチから発煙筒を取り出しピンを抜いて投げる。敵の戸惑った声を合図にぼくは一息に飛び出した。
ドオン、とまた新しい爆発が岩を砕き炎と煙を吐き出した。それは周囲の深緑だけでなく上空で待機しているアキラの機体も赤々と照らしている。
「遅えなアイツ…」
湧き出る焦燥を抑えてマーキングした出入り口や通風孔を監視するが、タクミが出てくる気配はない。対象の捕獲に失敗した以上、コソコソせずに脱出を最優先に動くというルートFは、事態が最悪の場合に備えて建てた作戦だ。ということはこちらとしてもあまり長居はできない。
「南500mから敵機接近。数は多数。」
後方のリアシートに回収したシェリーが暗視スコープとサプレッサーを装着したM24を構えている。今回の偵察で静粛性と精密性を重視してボルトアクション式を選んだのが裏目に出た。これでは刻々と変化する戦況に対応しにくくなってしまう。そんな八方塞がりの状況に拍車をかけるように、また爆炎が噴き出した。
『シェリー。応答しろ…リー。』
ノイズにまみれながらも落ち着いた声がスピーカーを通して鼓膜を震わせる。タクミからの通信だ。そう分かって安堵しながらも、アキラは胸がチクリと痛むのを感じ思わず開きかけた口をつぐんだ。そうでもしないとこれまで抑え込んでいた感情に火が点きそうだったから。
「ローガン大丈夫? 今どこ?」
迫りくるターミネーターを牽制しながら安否を尋ねるシェリー。平気だよ、と告げ現在の位置を報告するタクミとの会話を聞き流しながらアキラは半ば思考の海に溺れかけていた。
私は何をしてるんだろう。あの夜、燻っていた想いを一方的に拒絶されたあの夜から私たちの関係は終わったと思っていた。勿論ちゃんと告白できなかった自分にも落ち度はあるし、ああもキッパリと断られたからもういいとも感じていた。単なる幼馴染からさらに遠い上司と部下というシンプルな構図に再構築された関係にも慣れさえすればいいと考えていた。でも何で私はこんなにも寂しさを感じているのだろうか…?
「ナルミヤ大尉、崖の直上に機体を寄せてほしいと隊長が要請しています。」
「…ああ、分かった。」
ふと戻った意識にシェリーが呼びかけ、アキラは言われた通りにレバーを傾けた。ローターが唸りを上げて旋回する中、シェリーが巧妙に隠された対空機関砲を潰していく。いくら射程圏内でも激しく機動するエアバイクの上から目標を探し出し、機関部を正確に破壊する腕前はいつ見ても惚れ惚れするほどだ。
「…いた!」
立ち並ぶ木々の隙間を縫う5つの人影。そのうち先頭の影が妙に赤く光って見えるのは恐らくタクミが持っている悪目立ちする刀だ。後方のマズルフラッシュに反撃しながら崖の先目掛けて疾走するタクミを捉えて高度を下げ、崖の先端から30mほど離れた空中で制止する。
その意図を瞬時に悟ったのか、タクミは背後に2、3発撃った後で腰に携帯していた
そのままタックルに近い形で激突したタクミをシェリーがしっかりと抱き止めたせいで、大きくバランスを崩した機体を苦心して立て直したアキラはエンジンを全開にしてその場を離脱する。一拍遅れて発した爆音に生々しい悲鳴を混じっていたのを聞きながら。
「まったく、無茶苦茶ねアンタは。」
午前8時23分。ビール空軍基地に到着した一同は着陸後にエアバイクをREXの整備班に預け、休息のために待機室で骨を休めていた。
「すみません…」
しきりに後頭部を掻きながらペコペコ頭を下げるタクミの横で、シェリーはいつも通りの無表情を貫いている。疲労の様子を全然見せないこの少女の心臓は本当に自分たちと同じなんだろうかという疑問を頭から追い出してアキラは手元のコーヒーを啜る。
「今回は運が良かったけど、私はもう御免だからね。アンタのタクシー代わりなんて。」
「タクシーってそんな…」
「事実だろ。どっかの血塗れ男が猛烈なタックルかましてくれるもんだから、軽くトラウマものよ。」
返す言葉もないとばかりに身を縮ませたタクミに嘆息しつつ、朝食代わりのハンバーガーを胃に流し込む。予想通りの不味さに一層憂鬱になったが、ここでコイツに八つ当たりしても仕方ない。さっさと仮眠も取りたいし。
「まあいいよ。任務対象が実は影武者で死んでしまい、愛機に傷をつけられてもタクミの落ち度じゃないからね。アンタも早くERに行って来たら? まだ報告も済ませてないでしょ。」
付け合わせのポテトを数本頬張って、トレーを返すために席を立つ。すると、タクミは妙に間の抜けた顔で告げた。
「もう報告なら終わりましたよ。それにこの血は返り血ですから。」
「…返り血?」
「はい。いや、大変でしたよ。あの研究所やたら複雑で出口に行くまで一苦労で。敵の数も中々のもんだから20人ほどぶった切ってしまいました。」
タクミはぞっとするほど健やかな笑みで、さらりととんでもない事実を口にした。あ、そうそう、と付け加えて
「撤退の途中でいくつかサンプルも入手したんです。自爆した影武者の目玉と指を回収できましてね。さっき解析班に回してきました。」
さて、と立ち上がったタクミはそろそろ休みます、と敬礼して待機室を出ようとした。自然とシェリーもその後ろに着いていくのを視界の隅に留めながら、アキラはポツリと呟いた。
「人を殺したのか?」
どうやら聞こえたらしくタクミは足を止めたが、こちらを向こうとはせず話した。
「ぼくはイラクで100人斬りました。」
誰に告げるでもなくこぼした一言は、アキラの思考を数秒間麻痺させ、タクミらが出て行ったのを気づくのにしばらくしたときだった。