GANTZ Repeat'   作:マルハン2

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38.走馬燈

誰かに呼ばれた気がした。静寂が支配する真夜中、裸のままシーツに包まっていたアキラは、ふと目を覚ました。隣には同じく裸の背中が横たわっており、ゆっくりと上下している。それをしばらく見つめていたが、何となく彼の様子が気になって顔を覗き込もうとしたとき、向けられていた背中が寝返りを打ってアキラが見ようとしたものを晒した。

昔と比べ太くなった腕に厚くなった胸板。細くあばら骨が浮き立っていた胴体は、しなやかな筋肉に覆われシーツの上からでも分かるくらい鍛え上げられている。最後に見た時よりよほど逞しくなった肉体に、つい目を奪われそうになってしまい、すぐに視線を逸らすとそこにはタクミのあどけない寝顔があった。

その間抜けそうなツラはちっとも変わらないが、昔と違うのは20代の張りを見せる左の頬から首筋を伝って胸の近くまで大きく横切った一筋の切り傷だ。ヨコスカの戦闘後にガーゼで覆ってた箇所と一致するその傷は、月明かりに反射して少しだが妖しい雰囲気を醸し出し、得も言われぬ色気を錯覚させる。

思わず唾を飲み込み半ば無意識にその痕に指を這わせたが、喉の辺りをなぞったときタクミがピクッと動いたため、すぐさま手を引っ込める。しかし、起きる気配はなかったのでもう一度、少し慎重に喉をなぞってみる。

こうしていると普通の恋人のように感じる自分がいる。一緒の家で暮らし、一緒に起きて、食卓に並び、働き、たまに晩酌、寝る。少し前までは知ろうともしなかった普通の幸せが、フワフワとしたベールを纏ってアキラを包み込む。時折、本来果たすべき目的を忘れそうになるほど、今の暮らしは悪くなかった。

ちょうどこんな風に。胸の端までなぞりきった後、手櫛で髪を撫でたり頬を突いたりして遊んでいたが、その肌の主が何か言いたそうに口をパクパクさせているのに気づいて、そっと耳を澄ませてみる。

ここで私の名前を呼んでくれたらキスでもしてあげるのに。彼と身体を交わすようになって久しいが、キスするのはムードを作るためにするのみであり、まともな意味でしたことは一度も無い。意識のない相手に一方的にするのはポリシーじゃないけど、偶にはいいじゃないかとも思って顔を近づけると

「マザー…」

と呟くのを聞き、今までの暖かな空気が一気に霧散するのを感じた。

「セシル…レイ…ごめんね、ごめんなさい…ぼくのせいで…」

なんで、どうして。今はアンタ以外に興味はない。アンタが隣に居ればそれでいい。そう思ってかつての約束を違えてまで抱かれたのに、どうしてアンタは他の女の名前を呼ぶの。これじゃ私が…

その拍子にこれまで抑えてきた黒いマグマが沸々とこぼれ出し、その脈動に促されながら僅かに日焼けした首に手を掛ける。あくまでもゆっくりと、壊れ物を扱うように。それに連なって眉に皺を寄せるタクミを目にして、新しいマグマが噴き上がる。

そうだ、目的を忘れるな。コイツはお前の愛する男を殺した張本人だ。お前の幸せを滅茶苦茶にした敵だ。情けはいらない。復讐を遂げるのだ。そのためにお前はコイツに身体まで差し出したのではないか。

頭蓋に響き渡る声が告げるままにグッと力を込める。いつの間にかかいた汗が、苦悶の表情を浮かべるタクミの顔に滴り落ちて―

 

ガチャリと施錠される音が聞こえたのを知覚して、アキラは6時間ぶりに目を覚ました。貫頭衣のままで空調が効いてないこの牢屋は少し寒い。ブルリと身震いしたアキラは簡易ベッドから起き上がり、鉄格子を開けて入ってきたターナーを真っ直ぐに見据えた。

「そう怖い顔をしないでくれ。私はイーリーのような真似はしない。」

そこまで知っているのか。隠そうともせず舌打ちし、傍にある椅子を蹴って滑らせターナーを座るよう促した。

「さあどうだろうな。アンタもこんな穴蔵に籠ってちゃ、かなり溜まってんじゃない?」

「その手の訓練も受けている。平気だよ。それより今後のスケジュールを伝えようと思ってね。」

脇に抱えていたパッドを操作し、1つのインデックスページを表示する。

「君のお仲間にGINSを使ってメッセージを送った。じきに救援に来るだろう。」

「何で? そんなことしてアンタらに何のメリットが―」

「君の役目は終わった。だから返すのさ。」

やけにアッサリとした物言いに眉をひそめる。始めは慰めものとなった今の自分を皮肉っていると考えたが、この男の言うことには、1も2も裏があり過ぎる。

「へえ役目ね。あのメガネは満足してくれたってこと?」

「見たところそのようだったが…まあいい。そもそも私が君を連れてきた理由は、君のお父上が呼んだからだ。」

「スロノムスキーが?」

「もう見たと思うが、彼が眠っているあのモノリスはエンリケが造り出したガンツとは全くの別物だ。そのせいかいかなる手段を用いても中枢部に辿り着くことは不可能だった。だが君を得て記憶を読み取ることで、解除条件を絞り込むことが出来た。スロノムスキーが要求したのは、君の全身に張り巡らされた静脈パターンだ。君がVRを体験している間に頭の中をサルベージさせてもらった。」

「それを調べてどうする気だよ。私もあのクソ親父と一緒に彫刻(レリーフ)にでもする?」

売り言葉にターナーが返したのは買い言葉ではなく、膨大な人物名と写真が添付された画面だった。6年以上前から数週間前までの日付が並び、その頭には自分の名前があり次の欄にはタクミが、さらに下に参謀本部の幹部が名を連ねている。

「スロノムスキーが失踪してからのスカイネットが更新したキルリストだ。コガ君は2番目、1番は君だ。これから分かる通り、エンリケにとって君はジャップ・ザ・リッパーよりも危険な脅威なんだよ。だからこそ、彼を君の許に置きもした。」

タクミを私の許に。じゃあ、あの命令は軍じゃなくこの男が―

「通常なら私の部下を配置させるのだが、護衛と言う意味ではコガ君以上に勝る者はいない。それに彼にも心を許せる拠り所が必要だった。あの事件が起こった後の状態では、しっかりと休養を取らなければならない。そこで心理分析官が出した答えがコロラドの共同生活だ。コガ君が君のボディガードを、君が彼のメンタルケアを。ギブアンドテイクさ。事実、君はよくやってくれた。彼に親身に接してくれたお陰で、再び戦えるようになったのだから。」

懐かしいセーフハウスの光景が蘇る。早めに仕事が片付いたアキラは、久しぶりにサプライズでも、と連絡なしに帰った時だった。居間に入ると変な匂いが立ち込めており、ソファにはガラスのパイプを口にしたタクミが虚ろな目で煙を吸っていた。それが何なのか瞬時に悟ったアキラは、パイプを取り上げて二度とするなと土下座して誓わせた。

いくらコロラドが麻薬を合法化していても、タクミが手を出すとは思わなかったのだ。医者から勧められたとは本人の弁だが、今からすればそれほどタクミの心は崩れかかっていたのかもしれない。だとしたらメンタルケアの意義もあったと考えるべきだろうか。

それにこの男のことだ。誤解を招かないよう互いに自覚させることなく立ち回っていたのだろう。自分がタクミに付け入るために女の武器を使ったことも承知済みのはずだ。失意に叩きのめされ、頭を垂れるアキラをよそに会話は続く。

「静脈データを入力した結果、スロノムスキーはエンリケへの対抗策を提示した。僅かだが最善とも言える策だ。実は私が上層部に通告した期限は、エンリケが次の段階(セカンドステージ)に進む時刻なんだ。密かに回収したT-800のデータに収まっていたが、刺激の強い物だったので抵抗軍には渡せなかった。」

「次の段階…ッ! まさかT-800を使って…!」

「主要拠点を制圧し、その支配を強固なものにするはずだ。その際に発生する犠牲は計り知れず、これまでの社会体制も一変する。まさにカタストロフィだ。しかし、まだ希望はある。スロノムスキーが君たちの脳内チップを上書きして、エンリケの目からその存在を隠す。時間稼ぎ程度にしかなるまいが、十分な措置だ。」

脳内にチップ? 何のことかと疑ったアキラだったが、すぐにその明晰な頭脳を稼働させる。物質を情報化させる技術の話は聞いている。しかし、生身の人間を直接データに変換するのは大きなリスクがあるはずだ。それを無効化する媒介があったとしたら。その媒介が身体で最も情報が集積する部位に埋め込まれていたとしたら。

「ガンツを破壊できる唯一の救世主と、因果律すら書き換える最強の兵士。君たちは人類最後の希望なんだよ。それを守るためならどんな犠牲も厭わない。それが私の『役割』だ。ならば君も成すべきことを成せ。」

そう告げたのを最後にターナーは鉄格子の向こうに消えた。再び訪れた冷たい静寂に包まれながら、アキラはベッドに横たわり耳を塞いだ。今はこの静寂すら痛い。何よりコンクリートに囲まれたこの空間が、一層人肌を恋しくさせる。

最初にイーリーに襲われた後、アキラはベッドに突っ伏して一晩中泣き明かした。心の底から死にたいと思った。こんな屈辱を味わうくらいなら、あのポッドの中でターミネーターどもにズタズタにされる方がよっぽどマシだ。

その日からアキラもまた地獄に放り込まれた。目が覚めるとポッドに沈められ、ごっこと言えないほどのリアルな死の感覚を何度も体験し、半ば意図的に黙認されたイーリーに連れ出され、歪んだ欲望の捌け口にされた。

「見ろ! ぼくを見ろ!」

始めは単に殴る蹴るで屈服させるだけだったが、イーリーの性癖はアキラという美しい器を自分のものにしようと、ガラスの向こうでタクミに見られながら犯した。タクミの死んだ魚のような目が、アクリル板に映る自分のそれと同じだったことを覚えている。その後は何となく気持ち悪くなり、ひっきりなしに吐いた。

『ギャアアアァァァァァァァァ!!!!』

『ふむ、前と比べて反応が弱いな。次はBのアンプルを投与しろ。』

特大のペンチで指を捩じ切った観察員が、生々しい肉が潰れる音と悲鳴に顔色一つ変えず1本の注射器を首筋に刺し込む。すでに無数の電極が突き刺さった血だらけの体が、時折反射的にビクッとするものの、体の持ち主に意識があるかは疑わしかった。

『あ、あひっ…え、ええ…あひっ…ひっ…』

4日目にはあのとき助けようともせず、ただ見ていただけのタクミの無表情な顔が、人間がするとは思えないほどの悲鳴と絶望に満ちた顔に変わった。これまでのタクミの記憶を読み取って編集した拷問の映像を、無理矢理見させられたのだ。

その中身は殺人ビデオ(スナッフフィルム)の比ではなく、人間の狂気の全てをぶちまけたかのようで、プロメテウス計画で疑似的とはいえ吐いて捨てるほど殺されたアキラでも、何度も目を背けたくなるような惨状がタクミに降りかかった。

イーリーの凌辱が長引くほど、アキラの心は冷え固まっていった。私は機械だ。今私たちがしている行為は、2つの肉の塊が繋がっているだけだ。そう思うことで少しでも早く地獄が終わるのを待った。そんなとき、心に浮かぶのは今も別の場所に捕らわれている幼馴染の軟弱そうな顔だった。

 

そういえばいつからだっけ、アイツが気になるようになったのは。コロラドの生活では最初は怒りと恨みでいっぱいで、何度も背後から撃ち殺そうとしたか分からない。コイツさえいなければ、と。だが、殺そうと思う度に日本に居た頃の思い出がフラッシュバックし、幼いタクミの困った顔が浮かんでは消え、結局はトリガーを引けずに終わっていた。

そんなある日、残業で夜遅くに帰宅したアキラは灯りが点いているのに気づき、リビングに入ると食卓に突っ伏して寝ているタクミと小さな鍋、布を被せたいくつかの小皿があった。毎日家事と仕事に追われている苦労を知っているため、無理に起こそうとはせず、ひとまず気になる鍋の蓋を開くと、故郷(ロシア)の伝統料理であるボルシチが湯気を立てて美味しそうにシーリングライトに反射していた。

すると間を置かずに天井の照明模様が華やかな噴水に変わり、部屋の四隅からクラッカーがパン!と派手に鳴った。いきなりの部屋の変わり様に呆気に取られた隣で、タクミが目を覚ましいつも通りのボケっとした目で状況を確認するうちに、半眼だった瞼が見る見るうちに全開になるのに比例して、顔は瞬く間に青ざめていき、仕舞いには慌てて立ち上がった拍子に、椅子の脚に引っ掛かって盛大にすっ転んでしまった。

「何ボケてんのアンタ。」

眼下でゴロゴロとのたうつタクミを、ため息をついて引っ張り上げる。バナナの皮を踏んだときの、マンガみたいな転び方をしたせいで、強打した後頭部を撫ですさるタクミ。幸いにもカーペットの上だったので、大事に至ってはいまい。もっとも、こんなことで一々心配するアキラでもないが。

「か、帰ってたんだ。お帰りアキラ。」

「こんな時間まで起きてるなんて珍しいな。それにどうしてこんなの作ってんの?」

「だって今日は君の誕生日じゃないか。」

もう昨日になっちゃったけど、とカレンダーを指した日付は確かに自分の生まれた日だった。すっかり忘れてた。両親が先立ってからこの方、アキラは自己鍛錬に躍起になって、それどころじゃなかったのだ。それは新しい生活に移ったときも変わらなかった。

「だから今晩はロシアの料理に挑戦してみたんだけど…あ、ケーキは余裕なかったから買ってきたんだ。」

布を取ると皿の上にあったのは、ピロシキやビーフストロガノフなどの典型的な郷土料理の数々だった。絵といい料理といい、男のクセに無駄に器用なところが憎たらしい。

「ちょっと驚かそうと思って用意したんだけど、全然帰ってこないからまた残業で泊まり込むんじゃないかと思った。でも良かった。まだお祝いできるよ。」

心底安堵した様子で胸を撫で下ろし、手っ取り早くアキラを着替えさせ、冷めないうちにとテーブルに座らせる。帰ってきたばかりで疲労困憊の身としては濃い目の味付けは鬱陶しいし、ぶっちゃけ今すぐベッドに倒れこみたい。

いつもなら怒鳴って撤回させるアキラだが、今回はその気力もなく仕方なしにドッカリと腰かけた。大体、ここまで豪華な準備をしてもらって、はいそうですかと無視できるほど図太いわけでもないのだ。

「頼んでもないのにマメな奴。」

「年に1回の特別なんだからいいじゃないか。それに今回は少し自信作なんだよ?」

珍しく目をキラキラさせるタクミを一瞥し、渋々よそわれたボルシチを口に運ぶと、アキラは何故か少し固まってゆっくりと顎を動かし、再びスプーンで一杯分すくう。そしてまた無言で口だけ動かして、もう一度スプーンを浸ける。それを数回繰り返すが、何も言う気配はない。それどころか食べる度に手を動かす間が長くなり、段々と顔も俯いてくる。もしかして不味かったのかもしれない、とでも思ったのだろう。タクミが様子を見ようと近寄り、肩に手を掛けてきた。

ああ、もうダメだ。そこが限界だった。食べかけのボルシチの赤い表面にポトリと透明な液体が吸い込まれ、間を置かずに次々と新たな波紋が広がっていく。アキラはいつしか自分が泣いてるのに気づいた。なぜ泣いてるのかは分からない。ただ、どうしようもなく涙が流れた。

いや、理由ならあった。美味しかったのだ。目の前にある赤いスープが信じられないくらいに美味しかった。味自体は大したことはない。よく故郷で食べた本場のボルシチに比べれば、所詮は下手の横好きでしかないが、酸味の中に感じられる仄かなコクに、作った者の丁寧な気遣いがあった。このボルシチはアキラの身体ではなく、心に染み渡っていた。

タクミの料理がこんなに美味しいと思ったことはなかった。これまでの用意されてきた食事は飛び抜けて不味いわけではなかったが、舌が満足するほどでもなかった。けど、これは全く違う。今日という日を祝うために、タクミが懸命になって試行錯誤したものだと料理自体が語っている。その証拠に視界の隅に覗いた彼の指先には、いくつもの絆創膏が巻き付いていた。間違いなくこの料理は、自分のためだけに作られたものだった。

紅色にも見える真っ赤なスープから香る芳香や温かさが、滋養となって体に溶け込んでいく。その拍子にこれまで我慢してきたものが決壊してしまった。

親子の縁を切り捨てた父、その父しか見なかった母。まだ幼くして最も愛情を注ぐはずの存在に裏切られたアキラは世界の全てを憎むことにした。少なくともその間だけは胸のジンジンとした痛みは消え、独りぼっちでいることが苦しくなくなるから。それ以降、アキラに誰かを信じようとする気持ちは起こらなかった。

だからかもしれない。ヨコスカでアイツに再会したとき、懐かしさより先に嫌悪を感じたのは。当時のアキラは死に物狂いでパイロットの座を手にして実戦も経た栄え抜きで、一方のタクミは素人に毛が生えた程度の新兵。その世間知らずのぬるい顔を目にする度に、唾を飛ばしてやりたい気分だった。

けどその経歴から同年代どころか、ほとんど友人のいなかった境遇だったからか、どこかではホッとしていた。最初はどこかぎこちなかった再会が次第に紐解け、昔のように引っ張り引っ張られの関係になるのに時間はかからず、アキラは無意識に久々の温かさをくれたタクミを気にするようになった。

しかし、その関係性や自身の性格から気持ちを素直に伝えられず、気持ち自体を理解できなくて当たり散らしながらも、互いの過去を詳しく告げないまま幼馴染として振る舞っても、アキラはこの曖昧な距離感に満足していた。

また裏切られるくらいなら曖昧なままの方が良いから。

だから、タクミがマリナ・オーグラン(あの女)と一緒に居るのを見たときは、激しく動揺した。理由は分からないがとても嫌だった。彼女の声を聞くのも嫌だった。そして、襲撃後に倉庫で呆然としていたタクミを、心の隅でチャンスと思った自分自身も嫌だった。そこから2人の距離は急速に離れていった。

しかし、意外な形で両者は邂逅した。一方は罪悪感に喰われ、もう一方は復讐心を胸に秘め、互いに盤上の駒として利用されていると知らないまま。

コイツの前だけは、絶対に泣かないって決めてたのに。

そしてこの日の夜、復讐を遂げるはずだったかつての少女は、仇のはずの男に心を開かれてしまった。突然泣き出した同居人に戸惑いを隠せず、右往左往するばかりのタクミ。その胸中でどんな葛藤を繰り広げているかも知らず困り果てていたが、意を決したのか彼女の手を両手でそっと包み込んだ。

それだけだった。涙を拭くわけでも抱き締めるでもなく、ただその手を握るだけ。普通の男女ならこんな状況で取る行為ではないのだが、アキラにはそれで充分だった。思えばまだ幼稚園の頃、容姿の違いからよく苛められてたアキラを相手に、タクミはよく泣き止むまで手を握ってくれていた。そのときと変わらない温もりを感じたアキラは、一層しゃくり上げて思うがままに泣き腫らした。タクミはいつものようにちょっと困った優しい顔を浮かべながら、目の前の女性の涙が止まるまで手を離すことはなかった。朝まで。

次の日から彼は少し変わった。尻に敷かれるのは同じだが、出会ったばかりの死んだ魚のような目に僅かだが光が戻り、前より話をするようになった。アキラも段々と彼の姿を意識するようになったが、その想いを告げるには置かれた立場が悪かった。口で告げられない代わりに行動で気持ちを示そうともした。慣れてないくせに興味もない彼氏を作って―相手に悪いとは思ったが―嫉妬心を煽ったり、我侭を言ってみたり。

しかし、タクミが振り向いてくれることはなかった。散々体も許してきたのに、いつまでたっても同居人のまま。それでも諦めきれず遠回しのアプローチを繰り返す幼馴染に、アイツは決して踏み込もうとはしなかった。

どんなに近づいても必ず一歩退くタクミに、本当なら許されない思慕と幸せを奪われた憎悪で苛立つ日々。互いに秘密と罪を抱えて傷を舐め合う姿は酷く滑稽なことだろう。それでも、アキラはどうしても彼が欲しかった。

そして生き地獄で尊厳を踏みにじられ続けて5日目。銃声と共に惨劇が降ってきた。

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