翔は逃げるように走っていた。大好きだった兄と慕っていた一夏にこの体の傷痕を見られたこと。こんな身体をしているボクは嫌われるに違いない、と勝手に思い込んでいた。
だが、それでも一夏お兄ちゃんには嫌われてほしくないと翔は考えていたが、翔にとってこの身体を見られたら一夏だけでなく、クラス全員に嫌われてしまうと、そう思い込んでいたため、再び一夏と仲良くなれることを諦めていた。
この身体の傷痕を知っているのは、この学園の中だと明と美香のみ。翔は自然と明と美香の部屋、1089号室前に来ていた。ドアを弱々しくノックをして、中に明か美香がいるかどうかを確かめる。
「はいはいはーい、どなたですかー?」
明の独特な明るく、そして能天気で聞きなれた声が翔の心を安心させる。
「ん? か、翔くん! どうしたの!? 誰かに虐められたの!?」
涙目の翔を見て、血相と態度を変える明。普段はふざけている彼女にとっても、翔が泣いているときは常に真面目になっていた。
「あ、明お姉ちゃん…!」
いつもの変わらない、翔にとっての唯一無二の姉である野々原明。翔にとって姉と呼べる存在はたくさんいるが、明という姉の存在はただ一人だけだった。
自身の身体のことも知っていて、この事について相談しても態度を変えない人物。翔は明に安心感を覚えて、さっきまで泣くのを耐えていたが、それは今ここで決壊した。
「うっ……うわぁぁぁぁぁぁぁぁん!」
翔は明に抱きついて、大声で泣き始めた。明は何も言わずに、その場で翔を優しく抱きしめる。
そのまま翔を抱きかかえ、ベッドへ運んでいって落ち着くまで抱きしめていた。翔はしばらく大声で泣き叫んだ後、明の身体をぎゅうっと強く抱きしめた。明は翔を優しく抱きしめて、頭を撫で続ける。
そのまま抱きしめ、撫で続けていると翔は落ち着きを取り戻し、明の顔を覗き込んだ。真っ赤に晴れ上がった目、目尻にはまだ涙が溜まっており、頬には涙の跡が残っていた。
「翔くん、落ち着いた?」
「……」
翔は何も言わなかったが、首を上下に動かして明の言葉を肯定した。
「言いたくないことだったら、無理に言わなくていいからね……」
明はそのまま優しく翔の頭を撫で続ける。翔はこのまま明の胸で眠りたい衝動に駆られるが、そうだと自身の不安は解決しない。
「その、ね……ボク、一夏お兄ちゃんに嫌われちゃうかもしれないの……」
今にも消えそうな小さな声で明に言った。だが、明はなぜ一夏が翔のことを嫌ってしまうのか理解できなかった。
「どうして織斑くんに嫌われちゃうと思ったの?」
明はそっと、優しく翔に問いかける。翔はさきほど何があったのかを明に小声で伝えた。
「あのね……一夏お兄ちゃんにね…ボクの、身体を見られちゃったの…こんなの普通じゃないよね? 気持ち悪いよね? もう会いたくないよね…?」
少しだけ涙を流しながら翔は明に告げる。明はそれを聞き、ショックを受けたけれども平常心を持ち、翔に優しく言い聞かせた。
「私は翔くんの身体のことを知ってるけれども、それでも私は翔くんの事が大好きだよ。会いたくないだなんて思わないし、むしろ毎日会いたいよ。だからさ、織斑くんも翔くんのことを嫌ってないよ……」
翔は明の言葉を黙って聞いていた。胸元で涙目な上に上目遣いをしている翔は普通の明ならば暴走するレベルであったが、今は状況が状況であるために、明の理性はかなり自制していた。
「ね? 今日はもう遅いから、織斑くんに会ったときに聞いてみよっか」
「うん……」
真っ赤な目を細めて、明を抱きしめる力が一層強くなった。明はそんな翔を愛おしそうに抱きしめて、再び頭を優しく撫で始めた。
そうしていると、スースーと翔の小さな寝息が聞こえてくる。さっきまで大声で泣きながら明日に一夏と会うことに不安を持っていた翔だが、寝てしまえば大人しくなるもので、誰もが見ても可愛らしい寝顔をして眠っていた。
「ただいまー……あら、翔くん来てたの?」
この部屋の同居人である美香が部屋に戻ってくる。美香は翔が明に抱きついて眠っている姿を見て、微笑ましく感じていた。
「あぁ、うん。ちょっと訳ありで泣いてちゃっててね……相談に乗ってたんだ。それでさ、ちょっと翔くんのことを見ててくれない?」
明は抱きついていた翔を美香に手渡すように差し出した。美香もスッと翔を抱きしめて、背中を軽くぽんぽんと赤子をあやす様に軽く叩いた。翔は明に抱きついていたのにいきなり離されて、泣きそうになるが、新たに美香に抱きついたことで、再び落ち着きを取り戻していた。
「えぇ、分かったわ。……理由はどうであれ、無茶はしないでね」
「分かってるよ、美香。そんじゃ、行ってくる」
明は玄関の扉を開けて、走るように出て行った。
◇
織斑一夏は必死になって走っていた。先ほど不可抗力とは言えども、翔の傷痕を見てしまった。翔はそれにショックを受け、一夏を突き飛ばして走り去っていった。そのことを謝りたくて、そして翔のことを聞きたくて探し回っていた。部屋には行ったが戻っておらず、寮の辺りを我武者羅に探しているだけだった。
「……ねぇ、織斑くんよ」
必死で探している、後ろから明が一夏を呼び止めた。
「あ…えっと、野々原さん、翔が……」
「知ってるよ。翔くんは美香の部屋でぐっすり寝てる」
「それじゃあ…」
「いや、翔くんが落ち着かないと会わせる訳にはいかないね。不安定な状態で会わせても同じことの繰り返しだよ。大丈夫だよ、明日になったら落ち着いて、織斑くんを見ても逃げたりしない。このまま休ませておこう。…その間に話したい事もあるしね」
明は一夏の言葉を遮り、翔の今の状態を説明した。明日になれば大丈夫だと聞いて安心する。
「場所を変えようか。ここじゃあゆっくり話せないからね。織斑くんの部屋に行っていい?」
「あぁ」
本人の了承もきちんと得て一夏の部屋へ向かう途中。
「あら、一夏さんに…明さん?」
道中、二人はセシリアとであった。二人は普段の雰囲気と違い、困惑する。
「お二人とも、どうかなさいましたか?」
普段なら一夏と明が一緒にいることに嫉妬して一夏の部屋まで無理矢理にでも付き添ったりするのだが、真面目な雰囲気を察してか今感じている疑問を二人に聞いた。
「…あぁ、ちょっと翔くん絡みの話でさ…もしよかったらセシリアも聞いてくれない? 少しでも味方は多いほうがいいからさ」
「…わかりましたわ。わたくしも同席させていただきます」
明が言った翔絡みの話。そして二人の雰囲気から察して真面目なことなのだろうとセシリア考えた。彼女にとって翔は弟のような存在であり、とても大事に想っている。翔の力になれるのならと思い、明の話を聞くことにした。
廊下を歩いていると、一夏の部屋の前に鈴が立っていた。何かブツブツと小声で何かを言っているが、距離があるので何を言っているのかわからない。
一夏は自身の部屋の前でブツブツ言ってる鈴に何も思わず声をかける。
「何やってんだ? 人の部屋の前で」
「ひゃっ!? い、一夏!?」
話しかけられるとは思わなかったのか、不意に突然話しかけられて鈴はビクッと体を跳ねた。そして話しかけた一夏の姿を見て顔を赤らめるが、後ろにいたセシリアと明の存在が彼女の顔をムスッとさせる。
表情の変化とその意味を察した明はこのままでは面倒なことになると思い、会話に割り込んだ。
「ちょっと翔くんの事で問題があってね。あまり誰かに聞かれてもまずいって事で織斑くんの部屋で話をしようって事になったんだ。よかったら鈴も話を聞いてくれない?」
「…へ? 翔に問題?」
鈴は明の話を聞いてきょとんとした。なぜなら翔が何か問題のある行動を起こしてしまい、それでこれからの教育方針を話し合うようなものだと考えていた。だが、翔はあまり悪いことをする性格ではないと理解しているので、明の言葉と自身の考えが矛盾していた。
「あれ、さっき味方は多いほうがいいって言ってなかったか?」
一夏は先ほどの明の言動の矛盾を指摘する。
「誰かに聞かれたらマズいのは本当。二人が大丈夫なのは翔くんが『姉』と呼んでるからかな。翔くんは好意を持つ人にはそういう風に呼ぶから」
「そうなのか。なら早く部屋に入ろうぜ。噂好きの人に聞かれたらあっと言う間に広がっちゃうしな」
一夏は早く部屋に入るように催促した。部屋の主である一夏がドアを開け、部屋の中に次々と入っていった。四人は自然と輪になる形で床に座り込み、明が最初に口を開く。
「まず織斑くんに聞くんだけど、翔くんの身体の傷…見みちゃったんだね?」
「…あぁ」
「傷…ですか?」
「それってどういうことよ?」
事情を知らない鈴とセシリアはまず翔の身体の傷について質問する。
「翔くんは私と一緒の孤児院なのは知ってるよね? …翔くんは私のように事故で両親を亡くしたワケじゃないんだ」
「それって…つまり、翔は……」
一夏が声に出して自身の考えを言おうとした途端、明の声に遮られる。
「アンタ達が考えてることで合ってる。翔くんは両親に虐待されて孤児院(ウチ)に来たんだ」
「なによ、それ…!」
鈴は拳を握り締め、怒りを露にしている。だが、明はそれを無視して話を続ける。
「最初にウチに来たときは挙動不審で人間不信。目の下に隈が出来て痩せこけててさ、何かあったら即座に『ごめんなさい』って言ってた。感情なんて恐怖と悲しみしか知らなくて泣いてばっかりだったね」
「…ッ! ふざけんじゃないわよ! どうして翔がそんな風になるまで酷い目に遭わなきゃならないの!?」
怒りで興奮した鈴が立ち上がり、今にも誰かに襲い掛かりそうな形相で明に問いかける。
「落ち着いて、鈴」
それに対して明は冷静そのものであった。その対応が鈴の怒りに油を注ぐことになった。
「落ち着けるわけないでしょ! 大体なんでアンタはそんな冷静に話せるのよ!?」
「翔くんがウチに来たのは二年前くらいの話だし、本人もほとんど忘れかけてる。…それに元凶である『本当』の両親ならもうこの世にいない」
「…え」
その言葉を聞いて鈴は先ほどの怒りは無くなり、明と同じように冷静になる。
「元凶に対して全く怒りが無いわけじゃない。けれども今、翔くんが今を楽しんで笑っていられるならそれでいいな、って思ってさ」
「そうね。…ゴメン、怒鳴っちゃって」
「大丈夫、気にしてないから」
怒りで興奮して立ち上がっていた鈴はその場に座り、感情に身を任せて怒りを表したことを明に謝罪した。明はそれを気にしないと言って許す。
「でも、どうしてその事実を隠していたのですか? 教えてくれたのでしたら、もっと翔さんの身体の傷を見ないように気をつけられたものの…」
「それなんだけれども、まず順を追って話さなきゃね。実は翔くんってウチに来るまで孤児院を二回くらい移動してるんだ。その理由が『身体の傷を見られらから』なんだよね」
「…その、どうして身体の傷を見られたからという理由で移動したんですの?」
理由がわからず、セシリアは明に質問する。この質問にも明はただ淡々と答えた。
「身体の傷が気持ち悪いって虐められてたらしい。だからトラウマがあるんだろうね。『身体の傷を見られると嫌われる』って具合に」
「そう、だったんですの…」
事実を知り、再びセシリアは黙り込む。
「勿論、私たちはそんな事気にしないで受け入れたよ。けれども一人『同情』で翔くんに接した人がいるんだけど、翔くんがその人に懐くまでかなり時間がかかったんだ」
「ですから、今まで黙っていたのですね…」
「そんな環境だったからなのか、翔くんは善悪を見極めるのが得意なんだと」
「ねぇ、結局翔は大丈夫なの?」
「大丈夫。今の状態は一時的なショックというか、トラウマというか…翔くんが落ち着いたらちゃんと織斑くんが嫌いじゃないって言ってくれれば……織斑くん?」
先ほどから一言も喋らず、それに疑問を抱いた明は一夏を見る。一夏は手を握り締め、顔を俯かせながら言った。
「……関係無い」
「え?」
そして伏せてた顔を上げ、明と目を合わせた。
「傷があるとか無いとかそんなの関係無い。翔がどうであれ、俺は絶対に翔を守る。…今までも、そしてこれからもこの気持ちは変わらない」
一夏は真剣な眼差しで明の顔を見つめた。守ると宣言した彼の言葉に昔の自分を重ねた。
明にも昔は誰かを守りたい気持ちがあって―――
「――ッ! と、とにかくっ…翔くんの事は大丈夫だから、じゃあねっ!」
即座に立ち上がり、部屋から逃げるように出て行った。突然の明の行動にぽかんとする三人は、どうして明が突如去っていったのかは解らなかった。