ソードアート・オンライン《かさなる手、つながる想い》   作:ほしな まつり

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キリトとアスナがそれぞれ代表剣士と副代表剣士になって間もない頃の
お話です。


〈UW〉天の岩屋戸

キリトの執務室として割り当てられた《セントラル・カセドラル》の一室で部屋の主は椅子に腰掛け、腕組みをしたまま執務机の影になって見えない所で足を小刻みに揺らしてイラつきを放出している。

それとは対照的に部屋の出入り口と執務机のちょうど中間あたりでは華美な着衣の中年男性が揉み手でもしそうに両手を合わせ愛想笑いを崩さないまま厚めの唇を意味も無く震わせていた。

なんでオレが相手をしなくちゃいけないんだよ、と不機嫌さを隠しもせずキリトは男に冷たい声で彼が入室してきた時と同じ問いをもう一度投げかける。

 

「至急の陳情、なのか?」

「ええ、ですから申し上げた通り、代表剣士サマにお仕えする者達は早急に手配せねばいけませんので」

 

他の者に先を越される前に自分がやって来たのだと言いたいのだろう、上級貴族の男にとっては急を要する重要案件なのだ。

少し前に決まった自分の役職である「代表剣士」に付いた「様」が、どうにも下卑た物言いに聞こえてしまったキリトが盛大に眉をしかめる。

 

「オレに仕える、って……」

「そうですともっ、今や人界統一会議はこの世界の秩序。その頂点に立っておられる代表剣士サマのお側に仕える者は厳選せねばなりません」

 

ついでに言うと自分が厳選してきました、ってわけか……と相手の真意を悟りますますげんなりした気分に陥ったキリトは全く興味を覚えていない声で「それで?」と先を促した。

 

「常にお側に侍り、お世話をし、心身を癒やし日々を健やかにお過ごしいただく為、本日、私めが選んだ娘達を何人か連れてきております」

「娘?…女性ばかり?」

「もちろんですともっ。こういった事は若い娘でないとっ」

 

男の眉、目尻、口元が得意気にぐにゃり、と歪んだ。

途端にキリトの漆黒の瞳が氷点下まで熱を下げる。

 

「心身を癒やしてくれる存在というなら、オレには副代表剣士がいる」

「存じております。ですがお側に置いていただければ各々がその妙技で代表剣士サマに誠心誠意尽くすと私がお約束いたします。副代表剣士様も神の降臨と言われているお方。何かとお忙しい身でございましょう。さすれば常に代表剣士サマと共に在られる事は難しいかと」

 

アスナが傍にいられない時に他の娘達をあてがい、そのうちの一人でもキリトが気に入ればと目論んでいるのか、もしかしたら、あわよくば一度でもいいからそれ以上の関係をもぎ取り、後は相手を問わず妊娠させ代表剣士の子として自らの駒にしようと画策しているのか……。

この人界の上位貴族という階級に属している者が持つ特有の思考の一部をキリトが受け入れられないのは常だが、今回はそれがアスナを軽んじる発言であり同時にキリトが持つアスナへの愛情を侮辱する発言でもあった為、当初、陳情はとりあえず聞いておいて後は他の誰かに押し付けよう、と考えていたキリトの考えを一転させた。

 

「なるほど……けど、それは陳情と言うのか?」

「私は危惧しているのです。最高司祭様が休眠状態の今、この世界を統べ導いてくださる方に何かあったらと。ですから万全を期す為に代表剣士サマのお側にはその御身を気遣う多くの者がすぐに必要であると参った次第でして」

 

好意的に、この世界の行く末を案ずる心情を急ぎ述べに来た、と解釈すれば陳情と言えなくもないが、実際は「急ぎの陳情」と申し出れば、人界統一会議が無視できないと踏んでの所行だろう。いつもなら一般の陳情はまず神聖術士かカセドラルの情報局員が窓口となっているが、相手が上級貴族という事で対応に苦慮したらしく、頼みの整合騎士が今日に限って皆出払っている為キリトの元へと直接面会がかなってしまったらしい。

だが、整合騎士達が不在の日というのは滅多になく、だからこそキリトは白亜の塔から出るわけにはいかずともアスナとのんびり過ごそうと考えていた矢先の訪問者に別の意味で溜め息を零したくなる。

これは《セントラル・カセドラル》の内部に陳情者の思惑を知った上で、キリトと直接話が出来る日時を伝えた者がいると考えて間違いない。案外身近な所にも貴族と妙な繋がりを持っている人間がいるとわかったのは収穫だが、色々とやらなくてはならない案件が増えたのも事実だ。キリトにしてみれば、オレの身を気遣ってくれるなら「陳情」とは名ばかりの自分の要求を強引に押し付けにくるな、と言いたいし、ずっとカセドラルの中庭に待たせているアスナの事も気にかかる。

どうやら他にまともな要請がないと判断したキリトが話を切り上げるべく「悪いが……」と口を開いた所で、それを遮って男が畳みかけるように口を動かした。

 

「まあまあ、まずはお目通しください。なに、私とて代表剣士サマのお好みは心得ております。副代表剣士様は色々と秀でたお方と聞き及んでおりますので連れてきた娘達もかのお方に近い程度には料理を得意とする者、剣が扱える者、面差しが似ている者、頭脳明晰な者と取りそろえております」

 

まるで防具か剣を選ぶみたいに特性を並べ立てられ気分を害したキリトが口元を押さえると、その仕草を黙考ととったのか男は更に目を細めて分厚い唇を下品な形にうねらせる。

 

「お望みとあれば副代表剣士様とよく似た声で啼く娘もご用意できますが」

 

直後、ピシピシピシッ、と一瞬で床や壁、天井にまで蜘蛛の巣のようなひび割れが走った。

 

「ひぃッ」

 

突然のあり得ない現象に思考を吹き飛ばして男がすくみ上がる。

一方、我慢の限界にきたキリトはゆっくりと立ち上がり震えている男の目を真っ直ぐに射貫いた。

 

「なら、その娘達全員を束ねても副代表剣士一人には及ばないわけだな」

「そっ、それは……」

「折角の申し出だが側仕えは必要ない。それに、もし登用する場合でもそういった人選はオレと彼女の二人で決めることにしている」

 

ようやくキリトの憤りに気付いたのか、男がまるで見えない手で肩を押されたように、ふらり、と後ろによろめく。だが代表剣士と直接対面できる機会などそうそうないと思い直して両足に力を入れなおした時、背後の扉が無遠慮にもバタンッ、と大きな音を立てて開いた。

 

「失礼いたします。代表剣士さま、至急庭園にお越し下さいっ」

 

人界統一会議が行われる時、カセドラル情報局長であるシャオ・シュカスの後方にいつも控えている男性局員が飛び込んでくる。

「キリト」という名に対して「さま」を付ける事を禁止したのは呼び捨てで構わないという意図だったのだが、その思惑は見事に外れてカセドラルにいる職員の殆どがキリトの呼称を「代表剣士さま」と、更に上位剣士や術士になると「剣士殿」と呼ぶ者も出ていた。

肩で息をしながらそれでも代表剣士の執務室という事で背すじをピンと伸ばそうと必死な男とは言葉を交わした事はなかったが、人界統一会議中の際はずっと直立不動の姿勢を崩さず、会議後にはすぐに局長の元へ参じてやりとりを交わしている姿は実直そのものでキリトは密かに好感を持っていた。その局員の珍しくも慌てた様子とアスナを待たせている場所を告げてきた事でキリトはすぐさま目の前の貴族を意識の外に追いやる。

 

「庭園で何かあったのか?」

「副代表さまが……」

 

その単語だけでキリトが執務室を飛び出す理由は十分だった。

すぐさまキリトに追いついた先程の局員が歩速を合わせて「執務室の客人は?」と後ろから戸惑いを滲ませ問いかけてくる。

スピードを落とさずに質問の意味を考えたキリトはこの男が今回の陳情に関わっていないと判じて目元を緩め、ついでに片方の口角を上げていつもの自分らしい表情を取り戻した。

 

「置き去りにしてきた事なら問題ない。既に話は終えている。悪いけどあの男が連れて来た娘達がどっかにいるはずだから、全員まとめて帰ってもらってくれないか?」

 

するとキリトの言葉に何かを納得したような仕草で局員が「ああ…それで……」と呟くと、それに反応してわずかに振り向いた角度から黒い瞳が疑問を投げてくる。それに応えるように男は歩速と同じくらい早く唇を動かした。

 

「庭園にいた衛兵達の話によりますと最初は人待ち顔だった副代表さまがしばらくした後塔内に入り、すぐにお戻りになったので、どうしたのだろう?、と不思議に思っていたそうなのですが……申し訳ございませんが、その後の成り行きと現状は代表さまが実際にご確認下さい。多分、副代表さまはどこかでその娘達と遭遇してしまったのだと思います」

 

複数の娘達がここに連れて来られた意味さえも推測済みの男の有能さに関心すると同時にアスナの心情を察して一刻も早く彼女の元へと気がはやる。あとはひたすらアスナがいる庭園へ急ぐだけのキリトの背後で、それまで付いて来ていた局員はピタリと足を止めて一礼した。

 

「では、私は客人とそのお連れ様の対応をいたします」

 

代表剣士への説明も終わったので次の自分の役割は招かれざる客達の速やかなる白亜の塔からの退去だと認識した男に信頼の笑みを添えて短く「頼む」と声を飛ばした後、キリトは更に歩速を上げて庭園を目指したのだった。

 

 

 

 

 

人界の中枢《セントラル・カセドラル》の名に恥じない広さを誇る庭園のほぼ中心に幾重もの人垣ができている。

皆一様に同じ方角に向けて声飛ばし身振り手振りで何かを一生懸命訴えていた。その声の中に共通している単語がひとつ……「副代表剣士さま」である。

もはやこの騒動の中心にアスナがいるのは間違いなく、だからこそキリトは少々強引にその人垣に頭を突っ込み、身体をねじ込み、カセドラルの職員達を掻き分けてなんとか一番前に到達したところで「ぷはっ」と息を吐き出し、続けて目の前に見えた物体に驚愕した。

そこにあったのは庭園を形作っていたと思われる垣根や物体周辺の地面を抉って積み重ねたと思われる歪な箱状の塊だ。人一人が優に入れる程の大きさで、一際巨大に切り取られた大地が扉の役目を果たし、誰の侵入も許さんとばかりに出入り口を完全に封鎖している。それでも庭園を彩っている植木や草花に全く損傷を与えていないのはこの塊を造り上げた人物の気遣い故だろう。

理解しがたい塊を前にして唖然としているとキリトの周囲では変わらずに衛士や術士、下位の騎士達が声を飛ばしていた。

 

「副代表さま、どうかお顔をお見せ下さいっ」

「何がお気に召さなかったのでしょうかっ!?」

「理由を教えて頂ければいかようにも対応をっ」

「そうですっ、せめて副代表剣士さまのお声をお聞かせ願えないでしょうかっ」

「副代表剣士さまっ」

「只今、『ホニス菓子店』の新作タルトを買いに行かせておりますからっ」

「何卒、ご機嫌を直していただきたくっ」

 

職種や性別、年齢も関係なく声を上げたり隣同士真剣な顔つきで相談しあっている者たちは天変地異に見舞われたような焦燥や困惑を漂わせている。

 

「他に副代表さまがお好きなものは……」

「歌や踊りはどうでしょうか?」

「我々がこの場で歌うのか?」

「踊りなど、したこともないが……」

「では、どうしたら……」

「ここにいる下位クラスの騎士や術者では外からあの扉を動かす事は絶対に不可能ですよ」

「整合騎士さまや術士団長さまとて難しいのでは」

「やはりこちら側へ副代表さまのお気持ちを向けていただき内側から動かしていただくしか……」

 

なんだか聞いていると古代神話の『天の岩屋戸』みたいなことになってるなぁ、とキリトは顔を引き攣らせた。取り敢えず手近な所で唸っている若い騎士に声を掛ける。

 

「どういう状況なんだ?」

 

声の主が人界統一会議の代表剣士だと気付いた騎士は一瞬ギョッとした表情になった後、思うように身動きが取れないおしくらまんじゅう状態の中、精一杯身体を真っ直ぐに固めた。

 

「申し上げますっ」

「あー、そういうのはいいよ。普通に話してくれ……あの中にアスナ…副代表剣士がいるんだよな?」

 

ちらり、と横目で例の塊に視線を移すと、つられたように青年騎士もそれを見てから「普通に」と言われた言葉に甘え、口調を崩して喧噪の中声が届きやすいように少しばかり背を丸めてキリトに顔を近づける。

 

「はい、我々が見ている前であっと言う間に大地からあのような塊を造り上げられた後、『しばらく一人にしてくださいっ』とおっしゃって中におこもりになってしまい、慌てた我々がずっとお声かけしている次第です」

「なるほどなぁ」

 

妙に納得した声でキリトは頷いた。

このアンダーワールドという世界に閉じ込められて日の浅いアスナは毎日が忙しくてプライベートと呼べる時間も場所もない。忙しいのはキリトも同じだがこの世界で暮らしている経験値の差と言うか、元来のサボり癖のお陰か、その辺は適当に白亜の塔を抜け出して央都で買い食いをしたり、カセドラルの裏手にある工廠をのぞきに行ったりと気分転換をしている。

だがアスナはこの世界でも優等生気質を遺憾なく発揮しており、常に何かしら予定が入っていて、更に突発的に起こる問題の対処も頼られれば断ることもせずに笑顔で応じているのだ。

彼女の持つ柔らかな雰囲気が整合騎士達や上位の神聖術士達よりも話しかけやすいのだろう。更に創世神ステイシアの生まれ変わりと信じられている彼女に話しかけてみたい、というカセドラル職員の欲求がそれを後押ししているようだ。だから文字通り朝から晩まで意見交換をしたり、提言や助言をしたり、神聖術の講義を受けたりと目まぐるしいスケジュールをこなし、全てが終わるのは一日が終わる時で、そこでようやく三十階の私室に戻ってくるのである。しかしその部屋もキリトと共有なので本当の意味で「一人になれる」空間とは呼べない。

特に今回アスナが感情を乱した原因は代表剣士に仕えよ、と連れて来られた娘達の存在だ。キリトの意志でもないのに彼を相手に感情をむき出しにするわけにもいかないと苦渋の決断で《無制限地形操作》により一人になれる空間を作って立てこもったと思われる。

下位騎士が説明している間もアスナへの呼びかけは途絶えることなく、果ては誰かが速攻で買いに行ったらしい新作タルトを餌になんとかしてアスナの気を引こうと扉の前で「タルトが届きましたっ」と叫んでいる職員までいる始末だ。それでも大地を切り取って作られた扉は沈黙を続けている。

 

「こっちの声が聞こえてないとか?」

「いえ、一回だけ副代表さまが中から『放っておいてくださいっ』とお叫びに……」

「…そっかぁ」

 

それだけ叫べるのなら《無制限地形操作》で体調を崩している可能性はなさそうだ、とキリトはそっと息を吐いた。

異界戦争の時にアスナを襲った酷い痛みは大規模な地形操作を短時間で連発したせいらしく、その後はたまに不可避の場合のみその固有能力を使っているが特に不調を窺わせる様子はない。

アスナもわかっているのだ。

《貴族裁決権》……この世界の高等貴族にのみ与えられている権利は時に卑劣で、これを行使すると言われれば私領地の平民は首を横に振る事はできない。キリトの前へ独自解釈の「陳情」に現れた貴族が連れて来た娘達は言わば被害者で、すすんで《カセドラル》に足を踏み入れた者はいないだろう。

だから色々な憤りが混ざって、発露の場所も見つけられず、逆に自ら閉じこもることで冷静さを取り戻そうとしているのた。

貴族制度の改革を急がないとな……キリトは心の内で改めて決意を誓うと足を一歩前へと踏み出した。

するとようやくその場にいた者達がキリトの存在に気付き次々と視線が集まってくる。その視線には一様に安堵と期待が込められていた。

異界戦争が終結した後、人界統一会議発足にあたり長である代表剣士にキリトが、副代表剣士にはアスナが就任したが、実はそれほどすんなり決定したわけではなく、創世神ステイシアの御業を使える彼女をサブに据えるのは不敬ではないのか?、という声があったり、当のキリトがトップという役職に戸惑いを示したりと色々あったらしい事は《カセドラル》の職員なら皆知っていた。結局二人が承諾した理由はアスナが「キリトくんが代表になるなら」と言い、キリトは「アスナが副代表をやってくれるなら」という要望が実現したからだ。

結果としては二代目の騎士団長を務めている整合騎士ファナティオ・シンセシス・ツーの思惑通りとなったわけだが、要するにこの場で…いや、この世界でアスナの事を一番理解しているのはキリトだというのが人界での共通の認識になっている。だからこそ、この場を収束できるのはもう代表剣士さましかいないという結論に至り、次に一体どんな方法で副代表さまをあそこから連れ出してくれるのかと少し興奮した目で興味を注いでいた。

しかしキリトはそんなプレッシャーなど感じる様子もなく、ゆっくりとした足取りでアスナが作り出した垣根と大地の塊の前に立つ。目前にすると厚みがあるせいか、その塊はキリトの背よりもはるかに高く、両手を広げても余りあるサイズ感だ、

中庭にあるオブジェ……と呼べるほどの芸術性も整然性もなく、急ごしらえの造形がアスナの心の乱れを表れている。

いくつかの感慨を込めて「おおぉ…」と呟いてから全体を眺め、それから最後にアスナが封をした土塊の扉にそっと手の平を押しあてる。この場にいるごく一部の者は直接見たことがあるだろうキリトの《心意の腕(かいな)》が発動されると予感して固唾を呑み、それ以外の者達は何か起こるのかと一瞬でも見逃さぬよう開いている目に力を込めた。

場に静寂に包まれる。

けれどそれはすぐにキリトの気の抜けた声でほろほろと崩れ落ちた。

 

「アスナぁ……そろそろお腹空いたよ。夕飯は煮込みハンバーグを作ってくれるんだろ?、朝から楽しみにしてたんだ」

 

いつの間にか午後の陽射しは人々や建物の影をかなり長くしている。

なるほど、そろそろ今夜の食事を気にする時刻になっていたか……と思う者など一人もいるはずなく、キリトの声を耳にした者達は全員見事に固まった。

なぜアスナがこんなことをしたのか理由を尋ねる言葉でも、解決を探る言葉でも、ましてや彼女の気を逸らしたり引いたりする言葉でもない。何事もなかったかのように普通に今の自分の思いを強請るような声で発したキリトの背中にはありえない物を見るような視線がいくつも突き刺さる。

しかし僅かな間を開けて聞こえてきたゴゴゴッという音に皆の視線はキリトが触れている扉に移り、自然と口は半開きになった。

ここにいる全員があれだけ頑張ったにもかかわらず、びくともしなかった分厚く巨大な岩戸がキリトの声に応じて動き、中から女神が顔を出したからだ。それでもまだそこから出てくる気にはなれないのか、少し傾けた顔が岩の隙間から上目遣いでキリトを見上げている。

 

「……ごめん、アスナ。散歩する時間、なくなっちゃったな」

 

申し訳なさげに微笑むキリトにアスナは薄紅色の唇を、むぅ、とすぼめた。

今日の午後はキリトが執務室で所用を片付けている間アスナも大図書室で調べ物をして、おやつの時間頃までに終わる予定だったので、その後一緒に散歩をしようと中庭を待ち合わせに選んでいたのだ。

アスナのことだから、きっとおやつの用意もしていたに違いない。

上位貴族の自分勝手な陳情のせいで時間を潰されたばかりかアスナとののんびりも流れてしまったが、お互いその事は口にせず、まるでかくれんぼ遊びを終わらせるようにキリトは手を差し出した。

 

「ほら、もう出てこいよ。部屋に戻ろう」

 

怒りなのか、悲しみなのか、恥ずかしさなのか、頬に赤みを残したまま細くてしなやかな手が重なると同時にキリトは「捕まえた」と言わんばかりの素早さで握りしめる。今更逃げるつもりもないアスナがその行為を微苦笑で受け入れると岩戸に触れていたキリトの手に力が籠もり、先程と同じくゴゴゴッという音がして彼女が通り抜けられる幅まで空間が広がった。

キリトなら最初から《心意力》で扉を動かす事が可能だったのだ。

けれど一人になりたいというアスナの気持ちを優先させたのである。

握られた手をぐいっ、と引かれてアスナはキリトの胸に手を突き漆黒の瞳を見つめてようやく唇を動かす。

 

「……ハンバーグソースは、デミグラスにする?、それとも和風?」

 

少し掠れた声で聞かれてキリトが笑顔になった。

 

「今日は和風ソースがいいな」

 

こくり、と承諾の意を小さな頷きで示したアスナだったが自分が閉じこもってしまったせいで大勢に心配と迷惑をかけた後悔がいつもの明るさを陰らせる。それを察したキリトが彼女の耳元に囁いた。

 

「たまにはいいんじゃないか?…ほら、アスナはオレと違っていつも真面目だからさ」

「それ、なんか懐かしいね」

 

やっと力の抜けた柔らかな笑みを見られたのはキリトだけで、ようやくお出ましになられた女神さまを気遣う周囲は、ぽふり、と代表剣士の腕の中に収まってしまった彼女にいつまでももどかしい気持ちで拝顔の機会を待ち続けたのであった。




お読みいただき、有り難うございました。
そしてすみませんっ、投稿日を一日遅刻しましたっ
アスナが作った岩屋戸はその後、ちゃんと元に戻したと思われます。
で、ついでにキリトの執務室のヒビも……
「これ、副代表剣士さまになんとかしていただけないかなぁ」と職員が
ぼやいたとか(苦笑)
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