ソードアート・オンライン《かさなる手、つながる想い》 作:ほしな まつり
玄関口から和真の「ただいま」という声に続いて「おじゃましまーす」と少し間延びした声がいくつか響いてくる。今日は放課後の活動も全て禁止で生徒全員一斉下校なので普段なかなか揃って一緒に帰れない友人達とこのままファストフードかカラオケか、という流れになったのだが、うち一人が「和真んとこのお姉様に会いたい」と言い出して断り切れず、短時間なら、という条件付きで渋々連れて来たというわけだ。
ちなみに「和真のお姉様」というのは母の明日奈のことである。
少し前、高校に入学して初めての授業参観日、学校にやって来た明日奈を上級生が姉だと思い込み交際を申し込もうとしたエピソードを知って以来和真と親しい間柄の男子生徒達は巫山戯て「お姉様」という呼び名を使っていた。和真としては「俺、ちゃんと姉さんがいるんだけど」と小さく呟いたのだが、その声を拾った友人は「そこは普通に『和真のお姉さん』って呼ぶさ」と親指を立てたのでいちを呼び分け問題はクリアしたようだ。
そして明日奈や和真が持つ共通の雰囲気から、どうも『和真のかーちゃん』『和真のねーちゃん』のイメージではなかったようでその呼び名に異議を唱える者はいなかった。
最寄り駅から歩くこと十数分の場所に桐ヶ谷家はある。
だいたい同じくらいの、決して広大とは言えない敷地面積を有している戸建て住宅が建ち並んでいて小ぶりの門構えや塀の上から覗く庭木など、街路を歩くだけで住人の好みが伺える。かく言う桐ヶ谷家も和真の小学校入学を機に越してきたのだが、理由の一つは明日奈が「そろそろ地植えにしてあげたいの」と訴えた木があったからだ。
十代の頃に和人から誕生日プレゼントとして明日奈に贈られた楓の一種で、それまで住んでいたマンションでは大きめの鉢植えにしてリビングで存在感を放っていた。ただ街路樹にも使われる樹種なので和人は小声で「これ、地植えにしたらもの凄くおっきくなるんだけど……」と笑顔を固めていたが愛する妻のお願いには逆らえなかったらしい。だから今では玄関横の一番陽当たりの良い場所にその木はあっていつでもこの家とその住人を見守ってくれている。
だからその楓の木にしてみれば今日は珍しく和真一人ではなく数名の高校生を伴っての帰宅に驚いたことだろう。
もちろん母には下校途中で連絡を入れているし、ご機嫌な声で「うんっ、いいよ」と快諾を得ているから玄関を開ける音がすればパタパタと小走りに長い髪を揺らしながら笑顔で出迎えに来ると思っていた和真は、自分の予想に反して何の物音もしてこない現実に「はて?」と内心小首をかしげる。
とりあえず来客用のスリッパを出し友人達を家に上げて廊下を先導した後、階段を指して「先に上がってて」と二階へ誘導した。
「上がってすぐ右のドアが俺の部屋だから」
向かいの部屋は父である和人の書斎だが、万が一間違えたとしてもあの部屋のドアは父親が不在の時は母親しか反応しないセキュリティになっている。けれど友人達は途中で買ってきた飲み物やお菓子の袋を持ったまま戸惑いの視線を和真に集中させた。
「え…いきなり勝手に入っていいの?」
「色々急いで隠さなきゃいけないブツはないのか?」
「むしろ隠さないで一緒に鑑賞する方向か?」
「それはそれでいいけどな」
どんなブツが部屋に置いてあると思っているのか、なんとなく想像がついて和真の目が半眼になる。
「そーゆーのないから。別にいつ誰が入っても俺の部屋は問題ないし」
「ある意味、和真らしいっちゃ、らしーなー」
「爽やか系好青年キャラは地だったのかー」
「むしろこれから闇落ちルートだったりして」
「それはそれでいいけどな」
「残念ながら俺は闇落ちする予定は全くないから。ほら、上がって上がって」
妙なフラグを立てないで欲しい、と和真は友人達を追い立てた。そんな物に落ちたら好奇心の塊のような妹が嬉々として後追いしてくるし、妹が暴走する気配を見せれば頼れる姉もナビ役で同行するだろうし更に後方支援で母が来て、その母を猛烈な勢いで父が追ってくる。要するに桐ヶ谷家は家族全員仲良しで、そして未知の物が大好物なのだ。闇だろうが何だろうが絶対ワクワクしながら落ちると和真は断言できる。そしてワクワクしつつも母を巻き込んだ自分が父から大目玉を食らうのも間違いない。
誰がそんな闇落ちより悲惨な暗黒世界に引きずり込まれたいと思うものか、と和真はぶるり、と肩を震わせた。
とにかく、とりあえず早く二階に上がって欲しいと友人達を睨めば階段に一番近い男子が「でもさ」とまだ反抗の意思を見せる。
「俺達まずは『和真のお姉様』を見て目と心に潤いを与えたいんだけどな」
「そうそう。だからわざわざ途中で確認してもらったんだし」
「家にいるんじゃなかったのか?」
そうなのだ。帰る途中で家に連絡したのは友人を連れ帰っていいか、という確認もあったが、何より母の明日奈が在宅しているかの確認が最大のポイントだったのだ。
「あー……いるはずなんだけどな。クッキー焼いてくれたみたいだし」
さっき玄関のドアを開けた瞬間、微かに嗅覚を刺激した甘い香りは妹の芽衣が強請るお手製クッキーの匂いだ。用意周到の明日奈らしく、いつ「食べたいっ」と言い出しても対応できるように、あとは切って焼くだけ状態のクッキー生地が常に冷凍庫にストックされているから和真の友人達の為にそれを作ってくれたのだろう。どうしても手が離せない状態なのか、何があったにせよユイに聞けばわかることである。ただこの場で携帯端末を取り出して会話をするのも不自然だし、友人達と一緒にリビングに入ってしまうとホログラムユイを呼ぶことが出来ない。
「もうっ、いいから、先に部屋に行けっ、て。母さんに会わせないぞ」
「おおっ、珍しく和真がグズった」
「しょーがねーな。『お姉様』には会いたいから、言う事きくか」
「だな」
なんだろう、家にいるせいか「学校の和真」とは少し雰囲気が違う様子に友人達は面白がりながら階段を上り始める。最初に上り切った先頭の「右のドアなー」と和真に聞こえるように発せられた声と同時にドアの開く音を聞いて和真は「よし」と頷き自分はリビングのドアを開けたのだった。
結論から言うと明日奈はどこにも居なかった。
「今日はずっとお家にいるよ」って連絡した時言ってなかったっけ……、という脱力感から眉毛と両肩が情けない角度になり、口も締まりがなくなって小さな楕円を形作っている。和真の心情を正確に読み取ったユイが苦笑いをしてから慰めの言葉をかけた。
「和真くんがお友達を連れて来るって知って、ママ、とっても嬉しそうでしたよ」
「でも……今、いないんだよね?」
「オーブンでクッキーを焼いている途中に連絡が入ったので……」
「直葉ちゃんから?、それとも叔父さん?」
「……今日は叔父さんからです」
「あーもーっ、なんであそこの夫婦はっ……いや、俺だって直葉ちゃんも叔父さんも従兄弟のりっちゃんも大好きだけどさ、それにしたって……」
「落ち着いてください和真くん、オーブンの温度調節はママに頼まれましたから、クッキーの焼き色には自信がありますっ、味だって絶対美味しく出来てますよっ」
「……うん、ありがとう、ユイ姉」
どうやら和真が友人と一緒だと告げた後、おもてなしのクッキーを焼いている最中に明日奈の義理の妹、直葉の夫から頼み事をされて仕方なくオーブンをユイに任せ家を出てしまったらしいのだ。小さな頃から叔母のことを名前で呼んでいる和真は恨みがましい声で小さく「直葉ちゃん……」と呟く。
「えっと、通話記録がありますから抜粋して再生しますね……『ほ、本当にすみませんっ、アスナさんっ。き、今日はリーファちゃんが幼稚園のお迎えに行くはずだったんですけど、いつもより早いのを忘れててっ、それでっ、えっと……』『落ち着いて。それでお迎えの時間は何時?』『二時なんですぅ』『うん、すぐに出れば間に合うわね』『ほ、ほ、本当に、いつも、すみませんぅっ、アスナさん』『直葉ちゃんも向かってるんでしょう?』『はいぃ』『なら帰る途中で会えると思うし。大丈夫、りっちゃんはちゃんと引き取ってくるから心配しないで』『よ、よろしくお願いしますぅぅっ』……こういう会話でした」
文字通り、和真は頭を両手で抱えた。叔母夫婦は既に何回か同じような感じで自分達の娘のお迎えを明日奈に任せているのだ。幼稚園側も明日奈が親族であるという認識が浸透していて何の疑問もなく姪にあたる直葉の娘を託してしまう。
わざわざ母親の在宅を確認して友を連れて来たのに帰ってみたら肝心の当人がいないという、なんだかキツネかタヌキに化かされたような気分のままこの情けない状況を階上の友人達にどう説明しようか、と思いあぐねていると背後から随分と浮かれた声が飛び込んで来た。
「へぇぇ、『和真のお姉様』、明日奈さん、って言うのかぁ」
不意にリビングの入り口から聞こえてきた声に和真はもちろんユイさえも肩を跳ねかせる。バッ、と振り返るとにんまり笑顔の友人が一人、ゆるりと立っていた。
「こ……小太郎、お前、いつからそこに……」
「えへっ、お前が『あー、もーっ』ってモダモダしてるあたりからかな」
えへっ、などと可愛らしいセリフを吐いて両肩をすくめてみせても所詮はごく普通の一般の男子高校生だ、和真の気分が浮上するはずもなく、逆に膝から崩れ落ちてぺしゃりと座り込む。
「かっ、和真くんっ、大丈夫ですかっ!?」
つられるようにしてユイもまたリビングに両膝をついた。へなへなと力が抜けてしまった弟に手を貸してやりたいのに触れられないもどかしさからユイは胸の前で手をギュッと重ねて心配そうに見つめている。
そんな姉を安心させようと和真は片手を持ち上げて「大丈夫だから」とだけ告げると自身を落ち着かせるため、すぅっっ、はぁっっ、と深い呼吸を一往復させた。しかしその間にトコトコトコと軽い足取りで和真の隣にやって来た小太郎は同じようにストンと腰を落とす。
「で、こっちが和真のお姉さんなんだな。おじゃましてますっ、俺、和真のクラスメイトの柴杜小太郎(しばもりこたろう)って言います」
予想もしていなかった丁寧な挨拶にぴっ、とユイの背筋が伸びる。
「は、はじめして。ユイ、です……あの、ちゃんと私の姿、見えてますか?」
「見えてますけど?」
答えたものの質問の意図がわからずに妙な感じの語調になっているが、そこはスルーした和真が戸惑いと困惑を混ぜた声で「小太郎……」とすぐ真横にいる友の顔を見た。
正面からはポカンとしたユイに、横からは少し緊張気味の和真から見つめられて小太郎は「あれれ?」と動揺するが、すぐに何かを悟った顔になって和真に向けて声を潜める。
「正直者にしか見えないお姉さんとか?」
「だったら小太郎には見えないだろ」
妙に真剣な顔に拍子抜けして、呆れと冗談を半分ずつ混ぜて返せば小太郎はすぐに「そうだな」と納得する。ある意味とても正直者だ。けれどユイだけは少しの恐れを抱いたままゆっくりと両腕を左右に広げた。
「…柴杜くん」
「あ、小太郎でいいです」
「じゃあ、小太郎くん。私のこの姿、ホログラム映像で……」
「ですよね。でもこんなに鮮明な映像見たことないな。どこのメーカーだろ?」
「これはうちの父さんの自作なんだ」
「へぇっ、すごいなっ」
「そっち方面の仕事してるからね」
うっかり和人の話題に移ってしまいそうになるのをユイが慌てて引き留める。
「それでっ、あのっ、私……この姿、遠隔操作しているわけじゃなくて……」
「はい」
様々な事情で生身の姿ではなくホログラム映像で家族とコミュニケーションをとる事例は珍しくはあるが皆無ではない。しかしユイは自分がその事例ではないのだと打ち明けて、俯き加減だった顔を上げ怯えるような目で小太郎の反応を伺うが、目の前の男子高校生は静かにユイの次の言葉を待っていた。
「A…I、なんです」
「そうなんですかぁ」
一拍の間も置かず、なんだか「実は今日のサラダ、サニーレタスじゃなくてプリーツレタスなんです」みたいな告白を聞いたように手応えのない応答に今度は和真が友の顔を覗きこむ。
「お前わかってる?、ユイ姉がAIだって言ってるんだけど?」
「うん。それでも和真のお姉さんなんだろ?」
疑問符は付けているが当たり前のように笑う小太郎から瞬時にしてその陽気さが取り払われた。
「もしかして、幼くして他界した姉の代わりに、とかいう少々センシティブな事情があったり?!」
「そーゆーのは全然無い」
その答えに途端に肩の力を抜き情けない声が漏れ出てくる。
「なんだよぉ、脅かすなよぉ」
「別に脅かしてないだろ」
「だって二人ともなんか不思議な物を見る目で見つめてくるからさぁ。うちの弟達だったら絶対また俺が考えなしな発言してんなぁ、って二人だけでわかっちゃってるパターンだし」
「小太郎って弟いるんだ」
「うん。聡二郎と誠二郎。双子だから聡二郎と誠二郎」
「あ、もしかして双生児にかけてるとか?」
「アタリ。ちなみに兄貴はシンプルに柴杜太郎。んーで弟の俺が小太郎。太郎の次だから小太郎。ネーミングセンスの感想はいらない。ちっさい頃からずっとストレートに面白がられるか、気ぃ遣ってもらった感想しか聞いたことないし。以上、柴杜家の四人兄弟、男ばっかり。だから俺は和真ン家がスゴく、スゴく、ものスゴーく羨ましい」
「そうなんだ……」
「あったりまえだろぉ。明日奈さんめっちゃ美人だし。んーでもってお姉さんも可愛くて優しいし。妹までいるって、ここは楽園か?」
「母さんとユイ姉の延長線上に妹の芽衣がいると思わないで欲しい。それから母さんを名前で呼ぶな」
「えー、なんで?、俺は名前で呼びたいっ」
「それは……その……」
小太郎がはねのけると思っていなかったのか和真の勢いが急速に萎んでいく。これはもう自分が保育園の頃から母の名前を他の男に教えないよう父から言われていたと打ち明けるべきか悩んでいると、ユイがおずおずと小太郎に話しかけた。
「小太郎くんってすごいですね」
「褒められたっ。お姉さん、俺って褒められて伸びるタイプなんで、もっと遠慮無くどんどん褒めてくださいっ」
「小太郎、ユイ姉のことを『お姉さん』って呼ぶな」
咄嗟に思ったのは「ユイ姉は俺の姉さんだから」という子供のような感情で、これまで家族と両親の親しい人達しかユイが和真の姉であるという認識がなかったせいでいきなり友人の口から出た呼称に自分でも驚くほど反応してしまい、それが自分の父が妻の名を他の男に呼ばれたくないという今まで理解不能だった感情に類似しているのだと気付いた和真は少々自己嫌悪に陥る。
けれど小太郎の方はすんなりと「そうだな」と同意して、からりと笑った。
「明日奈さんが『明日奈さん』なんだから、お姉さんは『ユイさん』って呼ぶべきだよな」
小太郎がどんどん桐ヶ谷家に侵食している気はするが母親の名前がバレたのは直葉の夫に『お義姉さん』呼びを禁止した和人のせいなので、和真は渋々ながらに了承する。
「それで、どうしてお前だけこっちに下りてきたんだよ。俺の部屋にいろって言っただろ」
「それなんだけどさ、お前の部屋すごいな。なんか『未来部屋』って感じで」
その単語にユイが、ぴゅっ、と吹き出した。
『未来部屋』…それはかつて結城家の二階にあった明日奈の私室を指す言葉だ。今の和真の部屋は当時の明日奈の部屋よりも更に進化した状態になっている。
「部屋入ったら勝手に電気もエアコンもつくし、クラシックまで流れ始めたからポルターガイストかと思ったわ」
しかしその驚きが納まったところで和真の友人達は持参したお菓子やら飲み物を並べ、はた、と気付いたのだ。
「コップがなくてさー」
「あーっ」
合点がいって和真が立ち上がる。
買って来た飲み物は全てファミリーサイズばかり。さすがに一人一本直飲み、というわけにはいかないだろう。
「オマケにほら、新発売の限定モノがあっただろ。それを早く飲んでみたくて、そんで俺がコップ借りにきたんだ。あっ、よかったらユイさんも一緒に……って、ダメか」
和真がキッチンへコップを取りにいっている間、ユイと小太郎はそのまま向かい合わせに座っていた。
「はい、ホログラム映像はここでしか展開できませんし、私は飲食の必要がないから……」
「そういう些細な問題じゃなくて、男子高校生の羽目を外しまくった話はちょっとお耳汚しになっちゃうかと」
「些細な問題…………大丈夫ですっ、和真くんの端末でなら会話も可能ですし、どんな内容でも情報として興味がありますっ」
姿が見えない事も、一緒に食事が摂れない事も「些細な問題」と言ってくれた小太郎に向けユイが和人とよく似た色の瞳を輝かせているとコップを用意してきた和真が笑顔を強張らせている。
「ええっ……ユイ姉…………それは、ちょっと……」
「うん、それは和真には拷問になっちゃうな」
年頃の男友達とのボーイズトークに自分の姉が混ざるのはかなり色々とよろしくない。
「それに、俺達の会話をユイ姉に聞かせたなんて父さんと母さんにバレたら……」
「そうだっ、それで明日奈さんはどこ行っちゃったんだよ、和真」
本来の目的を思い出した小太郎が唇を思いっきり突き出したのだった。
ほどなくして帰宅した明日奈が和真の部屋にいる友人達に挨拶に行けば後ずさりしたくなる程お祭り騒ぎな歓迎を受け、クッキーもリスかハムスターみたいに頬張ってくれたので、つい「いつでも遊びに来てね」などと言ってしまえば「じゃあ次は定期考査終わりに来ますっ」「ご褒美だと思ってテスト頑張れそうです」「『和真のお姉様』は御利益ありそうなんでちょっと拝んでいいですか?』と手を合わせる男子までいて和真をげんなりさせた。それでも夕方の早い時間に友人達を追い返したのは今日、父親が海外出張から帰って来る予定だからだ。
長旅を終えて家に戻って来ても妻が来客の接待で構ってくれなければ和人の機嫌が急降下するし、その来客が息子のクラスメイトとなれば明日奈の気付かないところで呼び出しをくらうのは間違いない。だからもともと今日は短い時間しか家に呼べない前提にしておいたので友人達は名残惜しそうではあったがすんなりと帰ってくれた。それなのに当の和人が予定していた飛行機のエンジントラブルで帰国が叶わなくなってしまったというのだ。
明日奈はちょっと寂しそうな笑顔で和人の帰宅に合わせて作った「いろいろたくさんシチュー」を夕食のお皿によそいながら「でも安全に帰ってきてくれる方がいいものね」と言い聞かせるように呟いていた。
食事を済ませ風呂を済ませ、大晦日にしか夜更かしの出来ない体質の芽衣が寝て、和真も今日は初めて友人を家に連れて来て疲れたのかいつもより早く眠気が訪れたのでラップトップPCを閉じると、そのタイミングでユイが話しかけてくる。それは今夜中に和人が帰って来るという驚きの知らせだった。
「え?!、どうやって?」
「直行便は無理だったので北回り航路を使ってアンカレッジで乗り継ぎをしたみたいです」
すごい気転だね……と思えれば良かったのだろうが残念ながら産まれた時から両親を見てきた和真は「すごい執念だね」と半笑いをしてから、それでも帰宅は何時になるかわからないし、俺はもう眠いし、邪魔すると怒られるし、と既にぼんやりしている頭で考えてユイに「でももう寝る、おやすみユイ姉」と告げて布団を被ったのである。
それからどれくらい時間が経っただろうか……いつもより早くベッドに入ったせいか、ふと夜中に目が覚めた和真は喉の渇きを覚えて階下に下りた。するとリビングに明かりがついていて姉の楽しそうな声が漏れ聞こえてくる。
「それで小太郎くんがちょっとだけ高校での和真くんの様子を教えてくれたんですっ」
「へぇ」
「よかったね、ユイちゃん」
「はいっ。それから……」
どうやらユイは昼間家に来た小太郎の話を和人と明日奈にしているらしい。そっと扉を開けるとそれすら気付かないくらい興奮気味に二人の前でお喋りを続けている。その様子をソファに並んで腰掛け、笑顔で聞いている和人と明日奈……だったが、和真は一瞬で、残っていた眠気のせいではなく瞼が半分ほど落ちた。
なぜならソファの前にあるローテーブルの陰でユイから見えないのをいいことに素足の和人が明日奈の足にちょっかいを出しているからだ。帰宅して風呂かシャワーを使ったのだろう、既にパジャマに着替えている和人と同じく明日奈も寝衣姿だからスリッパを履いているとはいえ白くて細い足首より上は少々むき出しになっている。そこに和人の足が悪戯を仕掛けているのだ。
寝ぼけた目でもわかるくらい時折明日奈の両肩がぴくっ、と揺れているのはピタリと隙間なく並んで座っている二人だから、これまたいつものように妻の腰に回している手が足と同様にけしからん動きをしているものと思われる。
だから和人の笑顔も明日奈の笑顔もユイの話をちゃんと聞いているのに純粋な笑顔になっていない。
しかし嫌いな海外出張をやり終え、本来ならもう一日延びてしまうはずだった帰国を体力面も金銭面も気にせず強引に戻って来た父親だ、これ以上は……「爆発する」と確信のある和真は申し訳ないと思いつつも「ユイ姉」と呼びかけながらリビングに入った。
「父さんも色々限界だろうから、話の続きは明日にしたら?」
「和真くん!?」と驚きの声をユイと明日奈が同時に発する。どうやら和人は気付いていたらしい。
「そうですね、パパは疲れているのに、ごめんなさい」
「気にしなくていいよ、ユイ。それだけ嬉しかったんだろ?、また明日聞かせてくれ」
「はい、パパ。それにママも……あれ?、ママの顔すごく赤くなってます。大丈夫ですか?」
「う、うんっ、大丈夫。気にしないで、ユイちゃんっ。明日から和人くんは有休でゆっくり出来るから、またお話しようね」
「はいっ、ではパパ、ママ、和真くん、おやすみなさい」
完全にユイのホログラム映像が消えるのを見届けた和人が明日奈の身体を支えるように腰に手を回したまま立ち上がる。真っ赤になった頬のまま明日奈が上目遣いで「もうっ」と睨めば、和人は何も無かったかのようにすました顔で「じゃ、オレ達も上に行こう」と妻を促した。
ダイニングテーブルには和人が使ったらしいシチュー皿が置きっ放しになっていたので、キッチンに向かいながら和真は「お疲れ様、父さん」と労いの言葉をかけ「喉渇いちゃってさ。洗い物はついでにやっとくから」と皿洗いを引き受ける。
「ごめんね、和真くん。ありがとう」
「悪いな和真。じゃ、オレ達はゆっくりさせてもらうから。明日の芽衣の面倒はまかせた」
「はいはい、まかされました」
どこかで聞いたような覚えのある台詞を聞いて明日奈が「えぇっ!?」と驚きを表す。
「いくら土曜日だからってそんなにお寝坊しないよ?」
「大丈夫だよ、母さん。芽衣ものんびり寝てるだろうし」
「そうそう、だいたい明日奈がユイに言ったんだろ?…ゆっくり出来るって」
「それは和人くんの事ですっ」
「いや、多分…と言うか絶対明日奈も起き上がれないと思うから、ここはもう和真に任せてゆっくりしよう」
「ユイ姉もいるから心配しないでいいよ。じゃあおやすみ、父さん、母さん」
「え?、ちょっと…和真くんも何言って……」
少々強引にリビングから連れ出されていく母を気にすることなく、和真はユイに引き留められて寝室に行けずにいた父親の笑顔を思い出して「爆発寸前の秒読み段階だったなぁ」と独りごちながら食器戸棚からコップを取り出したのだった。
お読みいただき、有り難うございました。
この少し後の話になるのが「【いつもの二人】歳の差編」でしょう。
和真の友人達、最初は和真の部屋の未来感に期待して
「コップでてこーいっ」とか叫んでみたらしいです。