ソードアート・オンライン《かさなる手、つながる想い》 作:ほしな まつり
放課後、廊下を歩いていると「ちょっと付き合え」と唐突にかけられた低音の声と同時に後ろから制服の襟を掴まれて引っ張り込まれたのはいつも男子生徒が体育の授業で更衣室として使っている一般教室。
「は?!、おいっ、ちょっと待てよ。オレはアスナと帰る約束がっ」
脱走は許すまじ、と和人にとっては知人というより友人に近い関係のクラスメイトのAが肩に手を回し、Bが腕を抱きかかえ、最後のCが胴体にしがみついてくる。
哀しいかな、全員がそれぞれバレー部かバスケ部かラクビー部あたりの所属だと言っても誰も疑わないだろう体躯の持ち主なので和人がいくら、ふんむっ、と全身に力を入れて抵抗してみても全く効果がない。しかも、とどめとばかりに友人Aが威圧的な眼力で迫ってくる。
「桐ヶ谷、お前にとって友情と愛情、どっちが大事だ?」
まるで鉄板中の鉄板『私と仕事、どっちが大事なのっ』と恋人に詰め寄られるドラマのような台詞をこんな耳元で聞くことになるとは……しかもクラスの男子から……と、ちょっとどんよりした気分になった和人はシンプルに脳内で友情と愛情を秤に掛けた。そして天秤が傾く前に別の男子の声が飛んでくる。
「オレらと姫、どっちをとるんだよっ、カズっ」
「アスナだな」
秤は必要なかった。
一瞬の迷いもなく断言した和人の答えを既に予想していたのか、顔を寄せている友人Aは不敵に笑う。
「それでも今はオレ達を優先してもらうからな」
だったらなんで質問したんだ、と目で訴えてみるがそれを受理してくれる人間はここにはいないらしい。どんどんと教室の中心近くまで連れていかれ、捕縛された時速やかにこの教室のドアを開けた友人Dが隅にあったイスを人数分用意してそこに全員が腰を降ろした。膝を突き合わせるように小さな輪になって座らされた和人は改めてメンバーの顔を見る。
和人と同じクラスの佐々井や久里は課外活動も同じ「ネットワーク研究会」に所属しているが、ここにいるメンバーはクラスメイトという関係でしかない。とは言え他の同クラの男子よりは一緒に昼食を摂ったり特別教室では意図して近くに座る程度に気心は知れている仲だ。
それでも明日奈より優先順位が高いか?、と問われれば当然、否である……そもそも彼女より高位の関係性を持つ人間は和人にはいないのだからその彼女と一緒に帰る約束を反故にするわけにはいかない。
さてどうしたものか、と横目で二箇所ある教室の出入り口を探ってみるが《キリト》のステータスが使えない《現実世界》でこの状況を打破するのはかなり難しく、自然と「こんな時、アスナがいてくれたらなぁ」と思ってしまえば、とその願いが通じたかのように携帯端末から涼やかな着信音が流れてきた。この設定音はアスナからだ、と素早く端末を取り出す。
『あ、キリトくん?、今、どこ?』
「悪い、アスナ。ちょっとゴタゴタに巻き込まれてて……」
ゴタゴタと評された友人達の顔が一斉にギッ、とこちらを向く。そして端末の向こうの明日奈は「はぁ」と少しだけ呆れたような息を吐いた。きっと和人の事を「巻き込まれ体質」と診断している里香の言葉でも思い出しているのだろう。
けれど端末越しに漂ってくる「仕方ないなぁ」という気配はすぐに消えて「実は私もね」と言いづらそうな雰囲気の声が流れてきた。
『隣のクラスの女の子が今すぐ相談に乗って欲しいって……だから……』
歯切れの悪さから考えると、優等生の明日奈なら和人を待たせるのは気が引けるので「先に帰って欲しい」と考えそうなものだが、実は「一緒に帰りたいから待っていて欲しい」が本心なのだと察して和人の顔が喜びに転じる。丁度良い事にこちらもすぐには解放されそうにない。
「なら、先に問題が解決した方が連絡するってことで」
『うんっ、わかった』
わかりやすい程に声が明るさを取り戻す。そして和人は自分の方が先に解放された場合は先に帰ることなく明日奈の相談事が終わるまで待つつもりだ。もしも明日奈の方が早かったら……その時点で隙を突いて脱出を試みよう、と方針を固める。
そんなこっちの決意を知るはずのない明日奈はきっと端末の向こうでまだ和人と一緒に帰れる可能性が残ったことにホッとしているだろう笑顔を想像して、こういうところだよなぁ、と笑いを噛み殺すのに苦労しつつ「後でな」と通話を終えた和人は改めて自分を見つめている友人達がさっきよりも更にヘンテコな顔になっている事に気づいて僅かに首を傾けた。
「今の、結城さんから、だよな?」
「ああ」
素直に肯定して、でもちょっとだけ驚いた。この帰還者学校では少なくとも高等部の男子の大半は明日奈の事を「姫」と呼ぶからだ。さすがに中等部で面と向かって彼女を「姫」と呼び捨てにしている男子は少ないが、代わりに女生徒などは「姫先輩」と半ば声援のように黄色く呼びかけてくる集団が実は結構いる。
「結城さんと一緒に帰る予定だったんだろ?……その、怒ったり、してなかったか?」
「そこを気にするならなんでオレを引き留めるんだよ」
「違う、違う。結城さんの反応が気になるって言うか……約束してたのにダメになったら怒ったり、ケンカになったりしないのかな、と」
「アスナの反応?……別に今回はたまたまだけど向こうも急に用事が出来たみたいだから、帰れる状況になったら連絡することになった」
「なるほど」
妙に難しい顔をして黙り込んでしまった友人Bを見て和人の方も態度を改めた。わざわざ椅子で円陣を組んで座っているのだ、何か相談事でもあるのだろう。それにしても和人以外はもろに体育会系の体格なので圧迫感と言うかむさ苦しさが半端ない。
ようやく話を聞く気になったのを見計らったように友人Aが「ほら、話せよ」と口火を切る。催促されたBは「うん」と頷くとこの場にいる男子の顔を順繰りに見てから円の中心に視線を落とした。
「実はさ……彼女を怒らせちゃって……」
「彼女?」
「どこの彼女だよ。不特定になっちゃうだろ、ハッキリ名前を言えって」
ようやく話し出したと思ったのに曖昧な三人称を使われて困惑の空気が流れる中、和人だけがその意味を察して「えっと」と発言の許可を求めて片手を挙げる。
「それは、付き合ってる彼女、ってことか?」
うん、と頷きで肯定すると友人A、C、Dが揃って頭からつま先までを一時停止させた。
「か、か、か…彼女って……そそそそ、そーゆー彼女……」
口が動くようになったCがだ言語機能にバグが発生している。
「なるほど、お前が俺達だけじゃ相談できないって言った理由がやっとわかった」
一番に動作環境が復活したAが鷹揚に頷いた。逆にその理由がわからないらしい和人の顔を見て、ふっ、と微笑む。
「俺は小さい頃から地元の柔道道場に通ってて、やっと全国に行けそうなんだ。はっきり言って恋愛どころじゃない」
「俺はずぅっと彼女欲しいって思ってるぞっ」
「思ってるだけでいないよね?」
「黙れ、片想い中のお前だって『彼女がいない』という立場は俺と同じじゃないかっ」
三人の会話を聞いて納得した和人に相談者の友人Bが「そうなんだ」と話し始めた。
「こいつらに彼女とケンカした話をしてもさ……」
「って言うかお前に彼女がいるって俺達知らなかったんだけど」
和人の捕獲まで手伝ってくれた友達だ、その友情が薄っぺらな物ではないと信じたい思いが不満げな口調に表れている。
「……ゴメン。でもなんか言い出しづらくて。それに、そういう関係になったのもつい最近だし」
そこで和人はほんの少しだけBの気持ちがわかった気がした。自分も《旧SAO》に囚われていた時、周囲にアスナとの結婚を伝えたのは二十二層の家に落ち着き数日経ってからだ。《現実世界》に伴侶が居るエギルはマリッジシステムなんて興味はなかったようだが、クラインは事あるごとに彼女が欲しいと呟いていたからどう切り出していいのかわからなかったし、自分ですら《仮想世界》で恋愛はもちろん結婚をする日が来るとは思っていなかったから、なんとなく先延ばしにしてしまった自覚がある。
ただエギルに関しては店の二階にキリトが居候していた時、訪ねてくるアスナと向かい入れるキリトの雰囲気でそうなる可能性には至っていたらしい。
「まぁ、俺も息するみたいに『彼女欲しい』って言ってたもんな。報告しづらい空気にしてて悪かったよ」
「ならお互い反省したみたいだし、彼女持ちの桐ヶ谷もいるんだからこれで相談できるだろ?」
友人Aが取り成すように友人Bと友人Cのギクシャクした空気を和らげると、もともと恋愛に興味のあるCとDは少し揶揄うようにBへ顔を寄せてきた。
「最近付き合い始めたって、この学校の子?」
「どんなきっかけで知り合ったんだよ」
相談にのってもらうならいきなりケンカの話をするより、もともと仲の良い三人にはちゃんと話すべきだろう、とBは「この学校の、一つ下の学年」と答えた。
それなら彼女も《旧SAO》の囚人だったプレイヤーというわけだ。
「たまたまだけど同じギルドだったんだ。でもいちをギルド内恋愛は禁止だったし、俺もベルもあっちの世界では同じギルドの仲間って認識しかなかったんだけど……」
「ベルってゆーんだ」
「それでこの学校で感動の再会かぁ」
「最初は校内で見た時にびっくりして『戻れてよかったな』って笑い合って、後は校内で偶然会えば『他のギルメンはどこにいるんだろう』なんて挨拶程度の軽い話題ばかりだったんだけど、段々顔を見ないと落ち着かなくなってきて、ベルを探すようになって……自分の気持ちに気付いたというか」
「お前さっきからずっとキャラネームで言うから俺達その子の名前わかんないんだけど」
「あ、ごめん。本名は佐藤さん。佐藤すずさんて言うんだ」
「お前、リアルネームでは何て呼んでんの?」
一呼吸分の間を開けてBが言いづらそうに素早く口を動かした。
「……佐藤さん」
「呼び方にすごい差があるね」
『ベル』から一気にザ、日本人という感じになる。
「仕方ないだろ。最初はキャラネームだったからいいけどこっちに戻ってきて本名知ったら、なんか呼び捨てってハードル高いんだよ」
「そういうもんか?、桐ヶ谷」
いきなり問われて和人は、うんうん、と頭を上下に振った。
もしもアスナが《現実世界》で全く違う名前だったら、と思うときっと自分も最初は「結城さん」と呼ぶだろうし、そもそもアスナの名前が「アスナ」じゃないなんて違和感が強すぎてそれまで通りに接する事が出来るか自信がなくなってくる。改めてアスナが「明日奈」で本当に良かったとしみじみ感じていると「ちがう、ちがう」と手をひらひらされた。
「俺が言いたいのは、なんで名字で呼ぶんだ?、って話」
「そっちか」
「すずちゃん、でよくない?」
「『すず』だからキャラネームが『ベル』なんだな」
「その話題は終わりにしてくれよ。俺だっていつまでも名字で呼ぶ気はないから……近々名前呼びにレベルアップする予定だから」
「頑張れ」
この中でダントツの頼りがいを見せている友人Aが目を細ませる。
「とりあえず今は呼び慣れてるから『ベル』って言うけど……付き合って初めてベルを怒らせたって言うか。とにかくどうしたらいいかわかんないんだ」
「怒らせたって事はお前が何かやらかしたんだろ?。とっとと謝れよ」
「それで解決しないの?」
「俺としては、こっちが謝るのは違う、って思ってて……だから桐ヶ谷に結城さんが怒る時を聞きたいんだ」
「アスナが怒る時?」
怖いほど真剣な友人Bとは逆に和人は「うーん」と軽く唸りながら記憶を巻き戻して様々な場面を思い出し、答えた。
「俺がちょっとでも痩せると『ちゃんとご飯食べてるのっ?』って眉間に皺を寄せたり、他には『お洗濯物、ためちゃダメだよ!』って頬を膨らませたり……」
和人としては「ごもっとも」な案件ばかりなので、いつも「ごめん、ちゃんとするよ」とすぐに非を認めるのだが、友人Bは真剣を通り越して剣呑なオーラを背後に湧き上がらせ低く呻くように「桐ヶ谷ぁ」とお化け屋敷さながらの声を出す。そこを、まあまあと片手で制した友人Dはもう一方の手を和人の肩に置いた。
「うん、言い方が悪かったのかなぁ。桐ヶ谷が結城さんに怒られる時、じゃなくて、桐ヶ谷とケンカして結城さんが怒る時、が聞きたいんだと思うよ」
「オレとアスナが……ケンカ?」
それはどこか遠い異国でしか栽培されていない野菜か果物の名前か?、と未知との遭遇をしたかのような和人の顔つきにさすがのDも微妙な笑顔になっている。
「もしかして僕の日本語がこの国で通じなくなってるの?」
「大丈夫だ。ちゃんと通じてる。通じてないのは桐ヶ谷だけだ」
「おいおい、この相談事の適任者のはずだろ。しっかりしてくれ」
「そうだぞ。彼女すらいない俺達じゃ、存在しない人間とのケンカ経験なんてストレージの一番奥を探しても出てこないんだからな」
そこでこの場に和人の同席を願った友人Bがある推測に辿り着く。
「もしかして…結城さんとケンカしたことないのか?……デートでミスった時とか、どっちのせいかって揉めたり……」
「そうか、わかったぞっ。彼女を怒らせたって、ケンカの原因は彼女とのデート中の失敗なんだなっ」
自爆に近い形で言い当てられたBが開き直って投げ捨てるように「そうだよっ」と少しだけ顔を赤くした。
「ベルが気になっていた店に行ってみたら定休日で、気を取り直して移動した次の目的地は建物自体が改装中で他の場所に移転して営業してるって張り紙してあって、それでベルが怒りだしたんだ。なんで事前に調べておかないのって。でも両方ともベルが行きたいって言った所なんだぜ。下調べならベルがやるべきだろ?、そう思わないか?」
「うん、確かに俺達だけじゃまったく手に負えない相談事だな、とは思った」
「それでどうなんだ桐ヶ谷。そういう経験はあるのか?」
頼みの綱とばかりに視線が和人に集中する。けれど和人は気負いもせずに「あるよ」と返してから平然と自分と明日奈の場合を口にした。
「オレ達も《現実世界》に戻れたら色んな所に行こう、って言ってたし、実際、ちょくちょく出掛けてるしな。だからそういう場面は何回かある。けどアスナだったら興味のある店が休みの時は『今度また来ようね』って言うし、場所が変わっていれば『行きたい場所が増えたね』って笑うな」
「へぇ、ちょっと意外だ……結城さんってかっちりしてるイメージだから予定が狂うのは嫌がるかと思ってた」
「確かに俺に比べればずっと真面目だけど、どう考えても変えられない状況ならすぐに切り替えて次を考える柔軟さも持ってるさ」
そうでなければ、あのデスゲームの最前線で司令塔を務められるわけがない。
だいたい和人と明日奈の《現実世界》でのデートは事前に決めておく目的地は一つくらいで、あとはその場所に行くまでやその周辺を行き当たりばったりで楽しむパターンが多いから偶然見つけた店が定休日でもあまり落胆はないのだ。とりあえず目的地にしてる場所の情報さえ押さえておけばそれ以外はオマケでしかなく、何より二人でいられる事が一番嬉しいのだから。
「でもあらかじめ行こうって決めてた場所の定休日くらいは調べておくけどな」
そこはちゃんと伝えておかねば、と和人は釘を刺した。
「うーん、場所まではちゃんとチェックしておいたんだけどなぁ」
「そりゃあそうでしょ。じゃなきゃ待ち合わせとかどうするの」
「俺達が遊ぶ時は……ああ、だいたいコイツが下調べしておいてくれるんだよな」
三人の目が和人の予想通り友人Aを見る。見た目に違わず面倒見の良い気質らしい。
どうやら友人Bが自分の落ち度を認める流れに落ち着くかと思いきや「けどさ」と更なるエピソードを追加したきた。
「全然関係ない《旧SAO》時代の話まで持ち出してきて怒るんだぜ」
「《旧SAO》の事?」
「ギルメンの女の子と二人で出掛けた時はちゃんと下調べしてたくせに、ってさ」
「……したのか?」
「そりゃあするだろ。素材探しが目的だったんだから」
「そこじゃなくて、女の子と二人で出掛けたのか?」
「プレイスタイルが似てたんだよ。だから武器のレベル上げに同じ素材が必要だっただけで、普通に探しに行って取って帰ってきただけなのに」
「それでも二人きりだったんでしょ」
「ちょっと待てって。だいたいまだベルと付き合う前の話だし」
「逆じゃないかな。付き合う前なのにお前の行動を見て覚えてるなんて、その頃からお前の事が気になってたんだよ。僕だって片想いの子が他の男と二人で笑いながら学校の廊下を歩いてれば、ごおぉっ、てなるから」
「ごおぉっ、って……なるのか」
腕を組んで「俺の試合前のような感じか?」と小さく独り言をこぼしている友人AにすかさずDが頷く。
「なるなる」
「それでどうするんだ?」
「二人の間に割り込みたいとこだけど、それはハードルが高いからとりあえず隣に並んで話に割り込むっ。だって短時間でもその子の視界に僕以外の男がずっと映ってるなんて面白くない」
「……じゃあベルもあの時、面白くなかったんだ」
実はデスゲームの虜囚だった頃から彼女は自分の事を意識していてくれたのだと知った友人Bの雰囲気が一気に甘酸っぱくなる。「そっか、《あの世界》にいた時から実はお互い……」と照れ笑いをしている反対側には顔を蒼白にしている和人が唇を震わせていた。
「あ…あの……異性と二人で素材集めって……ダメ、なのか?」
「どうした?、桐ヶ谷。別にお前と結城さんが二人で行くのはダメじゃないだろ」
「いや……その……アスナと、じゃなくて……」
「え!?、他の子と?」
「だってオレが頼んだ素材だったし、かなり危険な場所だったから……」
「そうだなぁ。頭じゃ理解できるだろうけど感情的には微妙だから……姫にはバレてないんだろ?」
「手に入れて戻って来た所で鉢合わせした」
「わぁ。それって絵に描いたような修羅場だね。彼女すらいない僕にはハイレベルすぎてどう対処していいのかわかんないよ」
「だってもともとその子はアスナの友達だし」
「おいおい、桐ヶ谷。男女関係ドロドロ設定のドラマじゃないんだから。お前ら理想の相思相愛カップルかと思ってたけど、まさか桐ヶ谷が目移りしやすいタイプだったとは」
「はっ?!、なに言って……オレはそんな気ないしっ。アスナ一筋だからなっ」
「それさぁ、もし逆の立場でも納得できる?」
逆、と言われて頭の中で想像する……例えばアスナが自分の友人……を想定しようとしても身近に同年代で親友と呼べる顔は出てこないので架空の人物を設定して彼女の隣に立たせてみる。そしてあの時のようにモンスターの巣となっていた洞窟で一晩野宿を強いられる光景が見えてきた所で「ダメだっ」と叫んで自らその想像を打ち砕いた。
「絶対にダメだ」
「そん時は姫に怒られなかったのか?」
「オレ達もまだ付き合ってなかったし……」
言い訳のようになってしまうのは、だったら二十二層の森の家で新婚生活を送る前ならアスナが同じ事をしても気にしないか?、と自問すると、やはり平然としていられる自信が無いからだ。誤解はされていないと思うが例え話でも拒否反応を起こしてしまう自分と比べればやはり明日奈の器の大きさに甘えていた部分があると認識した和人が「はぁぁっ」と深い溜め息をついている頃、その明日奈もまた女子の打ち明け話に耳を傾けていた。
「もうっ、頭にきゃって。それでビィ君置いて一人で帰ってきたんです」
「……うちの妹に彼氏くんがいるだけでもお姉ちゃんビックリなのに、デート先で相手を放置って……これ、どうすればいいの?、結城ちゃん」
「うーん、そうねぇ……」
明日奈が和人と下校する為に教室を出ようとした所で呼び止めた隣のクラスの女子がほとほと困った顔で明日奈と妹を交互に見ている。
《旧SAO》がそうであったようにこの帰還者学校でも男女比にはかなりの偏りがあるためクラスに関係なく女子生徒の顔はほぼ全員把握している明日奈だ。クラスが隣なら体育などの合同授業で一緒の時間も多く「ちゃん」付けで呼ばれる仲である。
「それにしても妹さんもこの学校に通ってたんだね」
顔に見覚えはあるがさすがに姉妹関係とは知らなかった明日奈が自分より小柄な下級生に笑いかけると、途端に顔を真っ赤にした少女は両手で両頬を押さえて「やったぁっ」と叫んだ。
「こんなに近くで姫先輩を拝めるなんて、ダメもとでお姉ちゃんに頼んでよかったー」
「ダメもとだったの?……なんかゴメンね。私じゃ恋愛相談なんて無理だし、妹が結城ちゃんに相談したいっ、て大騒ぎして」
「だって姫先輩なら恋愛経験豊富そうだもんっ」
「ふぇっ?!……べっ、別にっ…そんなに豊富じゃないけど……」
期待に満ちた目を向けられた明日奈はオロオロと手を振って否定するが、謙遜と取られたのか妹の方はムフフと笑う。
「だって昼休みの中庭はもちろん、校内のあっちこっちでも目撃されますよ、姫先輩と桐ヶ谷先輩が仲良くしてるところ。言い争ったりしないんですか?」
「そうそう、本題はそれだから。わざわざ引き留めたんだし、ちゃんと相談して」
「はーい。ごめんなさい姫先輩。改めて私、ビィ君ていう彼氏がいて……彼氏になったばっかですけど」
「ビィ君は……えっと、あだ名か何か?、あっ、外国の人?」
「いえいえ《旧SAO》で同じギルドだった人ですっ」
「あっ、キャラネームなのね」
未だに「キリト」呼びが普通の明日奈は実感を持って頷いた。
「本当は『B.B.B』ってBが三つなんですけど、皆面倒くさがって『ビィ』って呼んで……私は『ビィ君』って呼んでたんです。その人とこの学校で偶然再会して……まぁ、今は付き合ってます」
「えっ、この学校なの?、それすらお姉ちゃん聞いてないよ」
ちょっとのんびりした感じの姉が泣きそうな顔になっている。
「だってそうなったの最近だもん。そのうち言おうと思ってたよ」
どうもこの姉妹はおっとり系の姉にちゃきちゃき系の妹という組み合わせらしい。それでも仲の良さを感じさせる様子を微笑ましく思いながら「それで何があったの?」と明日奈は話の続きを促した。
「聞いてくださいっ。この前のデートで行った先がお休みだったんですっ。定休日ですよっ、定休日。お店の前で二人並んでまっ暗な店内を見つめて唖然としちゃいました。それでもまぁ気を取り直して次のお店に行ったら今度はビルごと改装工事中で目当てのお店は他の場所に移ってたんです。さすがにもう我慢出来なくってビィ君に怒ってそのままケンカ別れって言うのかな?……そんな感じになっちゃったんですけど……どうしたらいいと思います?、姫先輩」
「とりあえず折角のデートでそれは残念だったね」
「でしょでしょっ。私、ネットで見てすっごく行きたかったお店だったのにっ」
その時のやるせなさが蘇ってきたのか妹は興奮気味に鼻息を荒くして明日奈に迫ってくる。けれど事情を聞いた姉は拍子抜けしたように「どうして?」とのんびり声と表情で妹を見た。
「なんでそんなに怒るの?、なら今度、私と一緒に行く?」
妹を思いやる気持ちは純粋に真っ直ぐで、だからこそ妹は「うぐっ」と声を詰まらせて勢いをなくし、助けを請うように明日奈に視線を移す。その反応だけで全てを察した明日奈がニコニコと笑顔のまま「楽しみにしてたんでしょう?」と慰めの言葉を書ければ、妹は素直に一回だけ頭を上下させた。しかし姉の方はいつもそうしているのだろう、妹の願いを叶えようと言葉を続ける。
「どこにあるお店?、今度の週末ならお姉ちゃん空いてるけど」
「そうじゃないのよ。妹さんは、彼氏さんの『ビィ君』と一緒に行きたかったの……だよね?」
「うん。定休日だったお店も移転してたお店も、どっちもビィ君と行けるって数日前から楽しみにしてたの。それに両方とも前に私が『行ってみたい』って言ったの覚えててくれて、誘われた時、すごく嬉しかったのに、私が行きたいお店なんだからそういう情報は私が調べておくべきだって言われて、なんかもう……」
「いっぱいいっぱいになっちゃったのかな」
「ついイライラして《旧SAO》の時の事まで文句言っちゃった……どうしよう、姫先輩」
見つめ合う二人の間で鳩が豆鉄砲を食ったように、きょとんとした姉はゆっくりと首を傾けて「え?」と言った。
「なに?、どういうこと?……ケンカしたんじゃなかったの?」
「大丈夫よ、佐藤さん。妹さんが今の気持ちを全部ビィ君に伝えればわかってくれると思うから」
ふわふわと優しく、それでも確信を持った明日奈の笑顔に勇気を貰ったのか相談者の佐藤すずも徐々に元気を取り戻していく。
「一緒に行けるの、すっごく楽しみにしてたの、って言ったら、仲直りしてくれるかな」
「頑張って」
力強く頷く明日奈の隣で姉もならば、と両手をグーにして同意を示していた。
「それでも何かブーブー言うなら、お姉ちゃんが叱ってあげるっ」
「もうっ、お姉ちゃんたら。そういうのはやめてって」
「今度から目的地のお店の情報とか、二人で一緒にチェックしたらどうかな?。それとは別に事前に何も決めないで行ってみるのも楽しいよ」
「へえぇ…姫先輩と桐ヶ谷先輩のデートってそんな感じなんだぁ」
「あっ…別にっ、そういうつもりじゃ……うん、でも脇道とか見つけるの得意な人だから……」
ふふっ、と何かを思い出して笑う明日奈はとても綺麗で、思わず見惚れていた佐藤姉妹だったが、ハッと我に返ったのは妹だ。
「私、ビィ君に電話してみる。もしかしたらまだ学校にいるかもっ」
いつもの陽気な妹に戻ったのを見て姉も「ありがとう、結城ちゃん」とほっとした様子になった。
「私だったら、定休日調べる人決めておけば?、なんて言ってたよ」
「それだって間違ってないと思うよ。でもまた他の事で言い合いになると思うの……きっと、まだ二人だけで過ごす時間に慣れてなくて、それで色々頑張っちゃうし、思っていたのと違うと二人とも慌てちゃうのね」
「なるほどねぇ。結城ちゃんと桐ヶ谷君は二人でいる時、いつも自然体だもんね」
「そ、そう、かな?」
互いに隣に居るのが当たり前の存在だから、逆にふとした瞬間、近くにパートナーがいないと自分の一部が欠損しているような気持ちになる。
「ビィ君いましたっ。一緒に帰れるって。お姉ちゃんも来て。紹介するから」
携帯端末を鞄にしまいながらの弾んだ声と笑顔から、今の通話だけでも二人の関係が修復に向かおうとしているのは間違いなかった。そんな妹をちょっと嬉しそうに見つつ姉はわざと「えぇー」とやる気のない声で応える。
「それって、完全に私、邪魔者ー」
「そんなことないから平気平気。それにビィ君がブーブー言ったら一緒にぶん殴ってくれるんでしょ?」
「……ぶん殴る、は言ってないよ」
「姫先輩っ、ありがとうございました。あのデートの時自分がなんであんなに腹が立ったのか、姫先輩のお陰でちゃんとわかってよかった。あっ、今度姫先輩にもビィ君紹介しますね。桐ヶ谷先輩と同じクラスなんですよ」
「えっ?、そうなの?」
和人のクラスには何回か訪れた事があるから男子生徒も顔だけなら覚えている。さすがにキャラネームまではわからないが、和人は知っているかもしれない。
もう一度「ありがとうございました」と言う彼女に向けて明日奈が「気にしないで」と自分の経験を口にする。
「好きな人に対してだと怒りたくないのに怒っちゃったり、怒りたいのに怒れなかったり、自分でも戸惑う感情は当たり前だから」
「うわぁ、やっぱり姫先輩って経験豊富っ」
なにやら盛大に感動したままの妹は「それじゃ私達は失礼しますっ。ほらっ、お姉ちゃんっ、昇降口でビィ君待ってるって」と気乗りのしていない姉の手をグイグイと引っ張り、その姉は仕方なさそうにしながらも明日奈に向けては「ありがとねぇ」と笑顔を送り、二人は去って行った。
自分も《あの世界》でキリトと行動を共にするようになった最初の頃は恥ずかしさの裏返しで随分プンプンした態度を取っていたと振り返った明日奈は、無性に和人に会いたくなって素早く端末を操作したのだった。
友人Bの話は既に相談事ではなく《旧SAO》時代からいかにベルが可愛かったか、というのろけ話になっていて、それを真面目に聞いているのは友人Aだけになっている。
「隣にいるだけでフワァってテンション上がってドキドキして落ち着かないんだけど全然嫌じゃなくて、同時にワクワクするって言うか気合いが入るみたいな感じでさ」
「大会会場にいる時みたいなんだな」
「思ってる事ははっきりポンポン言ってくるんだけど、時々迷ったり困ったりした時に相談してくる口調がいきなり年下感が出て俺がなんとかしてやらなきゃって思うんだよなぁ」
「ツンデレってやつだね」
「女子の必殺技だな」
「そんなに凄い技なのか?」
「見ればわかるだろ。完全に佐藤すずちゃんの技が決まった状態が今のコイツだ」
「よくわからないが、習得は難しいんだろうな」
「お前が『ツンデレ男子』目指すとは思わなかった。けど諦めろ。これは元来の性格みたいなもんだから」
噛み合っていないようで絶妙に噛み合っているらしい三人の会話の外で和人がそろそろ明日奈の方の相談事は終わっただろうか?、と時間を確認する。
結局友人Bが聞きたいのは仲直りの方法なのか、ケンカをしない秘策なのか、自分の正当性を認めさせる説得話術なのか、と思い悩んだ和人だったが、どれに対しても自分は答えを持っていないし、そもそも彼の様子から察するに既に問題は解決しているようだ。
「…あのさ、もうオレ……」
抜けてもいいか?、と尋ねようとしたタイミングでBの端末から着信メロディーが流れ始め、弾かれたように「ベルからだっ」と喜色をあらわにする。
嬉しそうに会話をしている横では友人A、C、Dが恋愛について語り合っていた。
「僕みたいに気になる子がいるとか、こいつみたいにとにかく彼女が欲しいってゆうのは?」
「ないな。今は全国に行きたい、それだけだ」
「そんなら無理に恋愛しなきゃ、って思う必要ないだろ。したい、と思って出来るもんでもないしな」
「あ、いいこと言うね」
「だろ?、あんまり悩まない方がいいぜ。しちゃダメだ、って思ってても、する時はするし」
「そうなのか……おっと、俺も稽古の時間が……まずいっ、遅刻だ」
時計を見た友人Aが勢いよく立ち上がる。
ほぼ同時に通話を終えたBがにやけ顔で「ベルと一緒に帰る事になったから、お前ら今日はありがとなー」と続いて立ち上がった。
はっ?!、と一瞬呆けた和人にも顔だけ振り返ったBが「桐ヶ谷も引き留めて悪かったな。結城さんによろしく」と手を振る。
結局なんだったんだ、と眉間に皺を作った和人だったが、自分の端末から明日奈の着信音が聞こえてくれば機嫌はあっと言う間に平常値に戻った。すぐに通話を開始すると、どうやら品行方正な彼女にしては珍しく移動しながら話しているらしい。用件が済んだので和人のいる場所を教えて欲しいと伝えながらも歩みに合わせて少しだけ声が跳ねている。
何をそんなに急いでるんだ?、オレに会うため?、と思えばそれだけで口元が緩んで、視界の端で友人Aが先に教室を出る申し訳なさに縦にした手の形で表している謝罪さえ余裕の笑みで片手を上げて応えられる。
こっちもすぐに帰れる旨と今居る教室を告げた和人だったが、早く合流したくて明日奈の到着を待たずに残っている二人に「オレも帰るよ」と鞄を手に取れば、にこやかに「お疲れっ」「片付けはやっとくから、姫を大事にしろよ」と大きなお世話をほざかれた。
急いで教室を出た和人だったが、さっきまで頭の中をグルグルと回っていた考えがもうすぐ明日奈に会えると思うと再びループを始める。
あのデスゲームから生還できた後、アスナには今度こそ《仮想世界》の純粋な楽しさを味わって欲しいと思っていたのに、自分が次から次へと関わりを持っていくのは殆どが女性で、それなのに明日奈が笑顔で受け入れてくれるから、今《仮想世界》で遊んでいるメンバーはリズ以外、キリトがきっかけで知り合った友達ばかりだ。もしも自分の周りに同世代の男子が複数人いるとして、彼らが全員アスナを介して出会ったとしたら果たして自分は友人と呼べる関係性を築けるだろうか?、と自問する前に、アスナから男性を紹介されるという時点で「無理だな」と結論が出る。
今更自分の身勝手さに少々ヘコんでいると、気付けば足が重くなっていたのか、急ぎ足はいつの間にか普通の足取りになっていた。
しかし廊下の角の向こうから「きゃっ」と澄んだ驚きの声と一緒に「おっと」という低い声が同時に耳に飛び込んでくれば、歩速は一気に最高速へと切り替わる。
角まで全速力で走り、急制動。上履きの底と廊下が擦り合って耳障りな高音が鳴き声のように響く。
そして目に飛び込んできた光景は、下階から階段を駆け上がってきたらしく呼吸と同期して肩が揺れている明日奈を正面から両手で受けとめている友人Aの姿だった。
雷に打たれたような衝撃、とは正にこのことだろう。
全身が痛いくらい痺れて指先を動かすどころか瞬きすら出来ず、目の前の二人の姿には頭が理解を拒絶して、これが他の人間なら容易に何が起きているのか推測できるのに完全なる思考停止の結果まるで現実感がない。それでも耳が捉えてしまった友人Aの無意識にこぼれ落ちたと思われる小さな呟きが和人を瞬時に覚醒させた。
「軽い…細いし…けどやわらかい、それに……」
「えっ?」
ぶつかってしまった時に咄嗟に両腕を支えてくれた大柄な男子生徒のボソボソ声に、顔を上げて聞き返そうとした明日奈だったが、いきなり違う腕が伸びてきて攫うように抱きしめられ視界を遮られてしまったので、ほんの一瞬見えたのは、和人と同じクラスの男子生徒の呆然とした真っ赤な顔だけだった。
為す術もなく頭まですっぽり包み込まれてしまったが、それでもすぐそばから少し硬い和人の声が聞こえる。
「助かった。お前とアスナがぶつかったら、確実にアスナの方が力負けするし」
「う゛、ごめんなさいっ、よく見ずに突進しちゃって」
どう考えても悪いのは自分だと和人の胸に顔を押し付けられたまま、くぐもった声で謝る明日奈に友人Aも視線を彼女に固定したまま、ついさっきまでその腕を掴んでいた両手の開閉を繰り返していた。
「いや、俺も、電話をして、それで話し終わって、携帯をしまった直後で、だから、前方不注意だった、んで、その……な、なんで……まともに、喋れない、んだ?」
自覚させたくなくて和人がうそぶく。
「急いでるからだろ?、早く行った方がいいんじゃないか?」
「そうかっ……そうだな。遅れる連絡はしたが……じゃあ桐ヶ谷、また明日。結城さんもケガがなくてよかった」
「あのっ、ありがとうっ」
無理矢理首を捻ってお礼を告げた明日奈が見たのは手を振りながら階段を軽快に下りていくAの後ろ姿だった。
「どうしたの?、キリトくん。いきなり……」
ぶつかってしまったのを助けてくれたのに、ちょっと失礼な態度ではなかっただろうか?、と怪しむ明日奈に和人は平然と「条件反射だった」と全く理由には聞こえない返事をする。
和人だって親しい級友に対する態度ではなかったと思うが、あの時は本当に何も考えられず本能のままに行動した結果なのだから仕方ない。
「今の人、同じクラスのお友達よね?…名前は知らないけど」
「エーだよ」
「エー?」
「ああ、友人Aって認識で十分。アスナが名前を覚える必要はないから」
「ビィ…じゃなくて?…《SAO》でのキャラネームから『B』って呼ばれてる人じゃない?」
「キャラネームまでは知らないなぁ」
「そーなんだ。じゃあ違う人なのかな」
自分の腕の中にいるのに明日奈が他の男の事を考えているだけで胸の中がモヤモヤして、彼女の腰をホールドしている両手に力が籠もる。
「キリトくん?」
「アスナ…オレがオレらしくいられるのはアスナがいてくれるからだ。でも、アスナが一方的に我慢するのは違うのもわかってる……」
「なんの話?」
「だからさ、オレ達、ケンカらしいケンカってしてないだろ?」
「えっ!?、キリトくんもケンカの話なの?」
なんだか今日はケンカで悩んでいる人が多い日なのかしら?、とキリトに抱きしめられながらちょっとだけ首を傾げたアスナだったが、確かにキリトとは些細なことで言い合ってもだいたいすぐにどちらかが根負けするか意見を譲るかして解決してしまうので記憶に残るほどの大喧嘩は思い当たらない。
「だからアスナはイライラしたりモヤモヤしても我慢してくれてるのかなって思ったんだ」
その言葉で何を指しての事なのかがだいたいわかった明日奈の笑顔に微量の苦味が混ざる。
「でも困ってる女の子を助けてあげないキリトくんはキリトくんじゃないと思うし」
困るのは助けてあげた子のほとんどがキリトに好意を抱いてしまう事と、明日奈自身もその子に好意を持ってしまう事だ。
「なにより私もキリトくんに助けてもらった一人だしね」
もし他の誰かが自分よりも先にキリトに助けられていたら二人の関係は今とは違っていて、キリトの隣にいるのも自分ではなかったかもしれない、と想像すると、血の気が引いて氷像にでもなったように体が冷たくなる。けれどそれはすぐさま和人の「アスナは違うよ」という否定で温度を取り戻した。
「アスナは困ってなんかいなかっただろ。どっちかって言うと声を掛けたオレを邪魔者みたいに睨み付けたじゃないか」
けれど結局救われたのだ。そしてキリトに恋をした。他の女の子達と同じように……。
「多分アスナじゃなかったらオレはそのまま気付かれないようにあの場を去ったと思う。必要もないのに自ら初対面のプレイヤーに声を掛けるなんて初めてだったんだ。だからアスナは他のプレイヤーとは違うよ」
「キリトくん……」
「それにオレがアスナを守るのはもちろんだけど、守ってもらうなら他の誰でもない……アスナがいい」
嬉しさが言葉ではなく、和人の背中に回された細い腕から伝わってくる。
和人にとって目指す自分とは明日奈を守れる力を持つ男であり、明日奈に守られる価値のある男である、という事だ。まだまだ理想にはほど遠い自分だが、それだって明日奈が一緒にいてくれれば一歩ずつ近づいていける気がする。
それに今日は友人A、B、C、Dのお陰で気付いた事があったんだ、と思い出した和人が彼女の耳元に唇を寄せた。
「だから《現実世界》でも《仮想世界》でもオレにとって唯一の名前が《アスナ》なんだ」
対人スキルは底辺だと自負している和人だ、《旧SAO》でアスナと約束したとおり生還した彼女と再会を果たした時、リアルネームが全く違っていたら気持ちは本物でもどこかに戸惑いや遠慮が出ただろう意図が隠れているとは露ほども思っていない明日奈がゆっくりと瞼を閉じる。《あの世界》で結ばれてからどの世界にいても同じ名を呼び触れてきた和人がそっと静かにその唇を塞いだ。
お読みいただき、有り難うございました。
裏テーマは「芽生えそうになった友人Aの恋心を和人が
なかったことにする(笑)」です。