ソードアート・オンライン《かさなる手、つながる想い》 作:ほしな まつり
「中庭の君」……この学校に通うようになってから、そう呼ばれている一人の女生徒がいる。
ただし非公認だ。
しかも呼んでいるのは僕だけ、それも心の中の小さな声で。
当人に向かって「中庭の君ーっ」と呼びかけるほど僕だって周りが見えていないわけじゃない。
本当に胸の内だけだし……それだけだってイタイ自覚はある……イタイよりアブナイって?
……ほっといて欲しい。
でも彼女に限っては似た感じの呼び名があって、そっちは校内で広く認知されているし、口にするのもあまり抵抗がないからあの呼び名を考えた奴、結構センスいいな、と思う……得意科目、現代文かな?
話がそれたね……「中庭の君」は僕よりいっこ上のクラスの生徒だ。
そして今通っている、いわゆる公立高等学校に類似したこの学校に入学した当初、僕はあまりの男女の人数比の偏りに目眩を覚えた。
予想はしていたさ、それまでいた場所でも圧倒的に男が多かったから、きっとここでも女子は少ないんたろうな、って。
けど、これはない……男子校にうっかり女子が入学してしまったレベルの稀少さで……うっかり、でそんな状況はあり得ないだろうけど、要するにそれ位あり得ない状況に僕は入学式当日、何度も自分の目を擦った。
だけど目を擦ったくらいでは女子は増えなかった。
僕だってわかってる……男女比に文句を言える立場じゃない事を。
政府の監視付きとは言え公の教育機関に無試験で通学できる事に感謝しなくちゃいけない事を。
ただ悲しいかな、男子という生き物の多くは自分のモチベーションの一つに異性という存在が大きく関わっているんだ。
あ、それは女子も同じか……。
だからそんな僕が入学して五日後の昼休み、偶然学校の中庭で彼女を見つけてテンションが爆上がりしたのは当然の結果だよね。
だから「中庭の君」ってなった……ちなみに苦手科目は現代文。
そして僕は今日も中庭のデカイ石の裏に潜みこっそりと彼女を眺めている。
クラスメイト達は同じ境遇にいた者同士のせいか、わりとすぐに気の合いそうな男子数人と仲良くなれて、そいつらからは「不毛だ」とか「アブナイやっちゃなー」とか言われたけど、この世の中には意外と不毛でアブナイやっちゃが多いんだ。
現に今もほら、僕の他にもあっちの柱の陰や校舎の壁の向こうから「中庭の君」を眺めている男子達がいる……あ、違った、壁の向こうにいるのは中等部の女子達だ。それに二階の教室の窓からも、カフェテリアからも視線が降ってきている。
別に隙を覗って襲おう、とか物騒な事を考えているわけじゃない。
声を掛ける勇気もない。
週に二、三回、昼休みの中庭に佇んでいる「中庭の君」を昼食時間を削ってでも見られれば、なんとなく「良いことあった」って気になれるんだ。大げさに言えば人生のちょっとしたお楽しみってやつだ。
憧れの有名人、大好きな芸能人、会いに行けるアイドル……「中庭の君」はそんな存在で、だったらもっと大勢の生徒達が注目しても不思議じゃなって?……確かに学校生活が始まった四月当初はかなりの人数が遠巻きに集まっていた。けれど「中庭の君」を盗み見る生徒達は日を追う毎に少なくなっていったんだ。
理由は明白、僕も自覚してるくらい不毛だから。
だってこの時間はほんの数分間しか続かない。
その数分間の為に授業が終わるやいなや教室を飛び出し、狙っていた場所を確保して空腹を堪えながら「中庭の君」がやって来るのを待つんだ。
「中庭の君」がやって来る日が確実に分かっているわけでもなく、来るはずの日でも、しばらく待ってみてすごすご教室に戻る日もあって、かなり空しい気分になるし、僕がいつもより早く戻ると教室にいる奴らに何とも言えない目で見られる。
それでもこうやって中庭の端っこにやって来てしまう自分が、僕は案外嫌いじゃない。そして同じようにキラキラと輝く視線を「中庭の君」に送っている他の同士達も、なんとなくだけど親近感さえわいてくるのだ。
けど、まぁ、褒められた行為じゃないから、間違っても「ご一緒しませんか?」なんて交流は生まれない。そこは暗黙の了解と言うか、各々極力気配は消してただ静かに彼女を見守る事を第一とするのが信念だ。
少なくとも僕は他者にかかずらってほんの一時しか与えられない至福の時間を削られるなら一匹オオカミの道を選ぶだろう。
だから僕は今日も指定席となりつつある大きな庭石の後ろから、一人でそっと彼女の横顔を窺う。
……よかった、先週は雨続きで中庭が利用出来なかったから実に十日ぶりに見る「中庭の君」だ。
彼女も同じ思いを抱いてくれているのか、細い足を真っ直ぐに伸ばして踵だけを地面に着け、ネコが伸びをするように、うんっ、と背筋も伸ばして中庭からの空を嬉しそうに見上げている。
白い首筋から突き出した顎までの華奢なラインは彼女の清らかさ示し、さらり、と背中に流れ落ちた長い栗色の髪は真上にある太陽からの光を浴びて輝き、神々しささえ感じられるほどだ。
「綺麗だなぁ」
思わず心の声が口の端から涎みたいに、たらり、と垂れる。
けど漏らす気もなかった独り言に、ふいに後ろから「そうだな」と同意の声がした。
驚きはしない……これまでにも数回、同じように「中庭の君」をこっそり盗眺している同士からこうやって声を掛けられたことがあるからだ。
だがあえてもう一度だけ言おう、僕は一匹オオカミの道を選ぶ者として他者と生ぬるい関わりを持つ気はない。同好の士を求めるのであればファンクラブに入ればいいんだから。
いつもならそんな声に振り返ることなく自分の存在も相手の存在もなかったことにしてしまうんだけど、なぜか「そうだな」って聞こえた声が上っ面だけじゃない、本当に心の底から同意してるんだって言うのが伝わってきて、僕は視線は固定したまま、つい自分が感じた「中庭の君」について声に出して言葉を紡いでいた。
「全体の印象は綺麗だけど、ふっくらとした頬や大きな瞳はどっちかって言うと可愛い、って感じなんだ」
「よく観てるな」
最高の褒め言葉だね。
だって彼女が一人でいるところなんて滅多にお目にかかれない。この時間だって多分あと数分しかないだろう。
なぜなら彼女がこの場所にいる理由が待ち合わせだから。
彼女はいつも先にこの中庭にやって来て二人分の昼食がはいっているトートバッグを膝の上に乗せたまま、足を交互に動かしたり、近くの花壇を眺めたり、そわそわと指を絡めながら考え事をしたり、のんびりと欠伸を噛み殺した後、しまったっと言うように急いで周囲を見回したり、人待ち顔でさえその日によって表情の違う彼女はとても魅力的でこの時間がずっと続けばいいと願ってしまう。
ハッキリ言ってこんな素敵な「中庭の君」を毎回待たせるなんてどういう事なんだろう?、と苛立ちを感じないわけじゃないけど、そのお陰で僕は彼女を眺める事が出来るんだから複雑と言えば複雑で、でも僕が知っている限り、待ちぼうけになった日はないから……うん、大事にされてるんだろうな。
そんなの「中庭の君」の待ち人が来た時に見せる特別な笑顔たけでもわかりきってて、なのに当たり前ながらそれを正面から見られる待ち合わせの相手には毎回八つ当たり気味に「いつまで待たせるんだよっ」と、やっぱり心の中で文句を言う。
そして待ち人が到着してしまえば、僕はそっと静かにこの場から離れ、自分の教室へ戻って「お勤めご苦労さん」とか「時間ないぞー、早く食えー」と友達に言われながら昼食を口に詰め込むんだ。間違ってもこの場に留まったりはしない。
そんな事をしたら昼食を食べる気力はもちろん、午後の授業を受ける気力まで全て根こそぎ持って行かれるからね。
「入学当初に比べれば身体の動きとか滑らかになったし、どんな表情もぎこちなさが取れたから良かった」
彼女はリハビリが完了してないのに入学したから、最初は体育の授業も見学だったんだ。そんなもどかしさや己のふがいなさのせいか足元を見つめる瞳には硬質の色があった。それでも待ち人の姿を見つけた時は今と変わらず花が咲いたような笑顔になっていたけど……。
「やっぱりあの笑顔…最高」
「ああ」
妙に実感の籠もった声。
一度でもあの笑顔を正面で見られたらこんな不毛な行為を終わりにできるのに、そんな奇跡は絶対に起きないとわかっているから今日もこうして庭石にへばりついて盗み見をしているわけなんだよね。もしあの特別な笑顔を……
「僕に向けてくれたらなぁ。思い残すことはないんだけどなぁ」
「んな大げさな……でも、もしその願いが叶ったら?」
「心の記憶媒体に永久保存して……それから、それからぁ……」
「こんなふうに物陰から覗くの、やめられるか?」
「……うん、そっか……」
もう一度あのデスゲームに閉じ込められる確率以上にそんな奇跡はありえないってわかっているから、僕は冗談を言うみたいに弱々しく笑った
「そうだね、こんな馬鹿な真似は卒業するのになぁ」
「その言葉、忘れるなよ」
どういう意味?、と振り返る間もなく背後の男子生徒が僕の両肩を掴んで立ち上がらせる。
ちょっと待ってっ、確かにひょっこり顔を出せば「中庭の君」はこっちを見るかもしれないけどさ、僕が見たいのは彼女の笑顔なんだよっ、これじゃあ不審者を見る目で見られるじゃないかっ……僕が不審者認定されるっ
自分の行為を棚に上げてなんとか拘束から逃れようと身体を捩ろうとした時、うっかり見てしまった彼女の顔は……
最上級の笑顔だった。
うそ、え?……うほぉぉぉっっっ!!!
疑問と戸惑いなんて心の奥底から湧き上がってきた噴火みたいなテンションで一瞬にして遙か彼方へ吹きとはされる。
でも僕に顔を向けている彼女はそんなドストレートな感情表現が失態だったとでも言いたげに、ハッと我に返ると唇を尖らせてぷいっと横を向く。今のは違うんだからっ、ってちょっと不機嫌さを装っているのに頬がピンク色なの、なにあれ、僕の心臓を止める気なのかな?
ドキドキとグルグルとバクバクで収拾が付かなくなって大変なのに、いつの間にか自由になっていた僕の後ろから「じゃ、そういう事で」と少し浮かれた声がして、ポンッと肩を叩かれる。横を通り過ぎるそいつを見て僕は目を瞠った。
……桐ヶ谷和人
僕の隣のクラスで僕が勝手に一番苦手といている相手……そして「中庭の君」が待ちわびていた相手、桐ヶ谷和人。
細めの骨格にどちらかと言えば薄い肌の色。決して筋肉自慢が出来るような体型じゃないのに僕を拘束していた握力、腕力は頼れる男のもので、前髪に隠れているから分かりづらいけど実は顔の造作も悪くない。
昼休みにコイツがここに登場してしまうと「中庭の君」は中庭にいる事すら忘れてるんじゃない?、と疑うくらいコイツしか見なくなっちゃうから、僕はすぐに退散するのに、なんで僕に声なんかかけてきたんだよっ、と恨みがましい目で見ていたら、僕を置いてさっさと「中庭の君」の元へ歩き出した桐ヶ谷が、ひょいと振り返った。
「これで思い残すこと、ないんだよな?」
ニヤリと笑う顔すら憎たらしい。
ああ、そういう事ね。
こんな庭石の影から覗いている臆病な視線すら彼女に届くのは我慢出来ないんだ。彼女の視界にはお前しか映ってないのに。
どうもはめられた気はするけど「中庭の君」の特別な笑顔を正面に受けられたら盗み見をやめると言い出したのは僕だし。
僕はしてやられた悔しさに唇を噛み両手を強く握りしめる。
「中庭の君」の視線は桐ヶ谷が移動したからすっかり僕から外れていて、僕はそれをちらりと確かめてからイーッと歯をむき出してヤツを睨み付け脱兎の如く校内に猛ダッシュしたから、ポカンとしたまま僕の後ろ姿を見送っている桐ヶ谷がその後「中庭の君」とどんな会話をしたのかを知ることはなかった。
「また君はそうやって……こっそり見ないでよう」
中庭で明日奈と一緒に彼女の手作り弁当を食べるようになってから何度言われたかわからないお小言と言うほどのものでもない言葉を和人は今日も苦笑いで「わるい」と受け流す。
「虫が気になったから追い払ってたんだ」
「虫?、うん、暖かくなってきたもんね」
「いや、春の入学時期から比べると随分減ったんだけどな。まだしつこいのが少し残っているから」
「……一体どんな虫なの?」
「まあまあ…アスナだって言ってただろ?、夏場に刺されると赤くなってなかなか痕が消えないって」
「そうだけど……」
「あ、ほら、ここ、赤くなってるぞ」
「こっ…ここはキリトくんがっ……わかってて言ってるでしょっ」
そんな二人の甘い会話が聞こえる範囲にはもう誰もいなくて、心置きなく明日奈の手に触れたり軽口を言い合える環境に和人が満足げな笑みを浮かべてから約一ヶ月後…………
僕は保健室のベッドの上で横になったまま額に手の甲を当てて「はぁっ」と溜め息をついた。
完全に《現実世界》を、日本の梅雨をナメてた、って言うか忘れてた……なにこの湿気、蒸し風呂と変わんない。
《仮想世界》に意識を閉じ込められていた間、思い出としては風が強い日も雨の降る日も、ついでに雪が舞う日もあったけど、気象状況が体調に影響を与える事がなかったせいで二年ぶりの高温多湿に心と身体はいとも簡単に白旗を揚げた。
更にこんな日に「天気良いから自然観察すっぞー」とか言って校舎から連れ出す教師の教育理念もどうかしてる。僕達が光合成をするとでも思ってんのかな?
炎天下で見事にぶっ倒れた僕はクラスの男子二人に両脇を抱えられ、地球人に捕まった宇宙人みたいに否応なく保健室に運び込まれた。
養護教諭のおばさん先生は僕の症状を診て「立派な熱中症ね」と言ってベッドに座らせた後、付いて来てくれた生徒を授業に戻してからスポドリやら保冷枕を持って来てくれて「眠れるようなら昼まで休んでいきなさい」とカーテンを閉めた。それから割とスグに寝入ってしまったんだろう。
昨晩、ちょっと夜更かししちゃったし、それで寝坊して朝は牛乳しか飲んでこなかった。おまけに身体はこの気候に慣れてない。熱中症になる要因は十分だ。
夜更かしした分の睡眠を取り戻し、ついでに体調も持ち直した気がする。保健室内は何の物音もしないから、保健医も留守にしているっぽい。時間を確認したらちょうど昼休みに入った頃だから、僕を置いてきぼりにしてお昼ご飯食べに行ったとか?
目も覚めたし、気分もすっきりしたし、ちょうどお腹も空いてきたからカフェテリア行きたいんだよね……勝手に保健室からいなくなったらダメかな?、と起き上がろうか、どうしようか思案していた時、いきなりバンッ、と開いた保健室のドアの勢いに思わず身を縮込ませる。
「っ……なんで誰もいないんだっ」
ベッドを仕切っているカーテンの向こうから響いためちゃくちゃ苛立ってる低い声……あれ?、聞き覚えがある……気がする。
でもやっぱり今の保健室、誰もいないんだ……正確にはここに僕がいるけど多分居て欲しかったのは養護教諭のおばさん先生だろうし、なんか殺気立ってて「僕がいるよー」なんてカーテンごしに声を飛ばせる雰囲気じゃない。
病人かな?、ケガ人かな?、どっちにしても僕が出て行ったところで役に立つとは思えないけど……それでもすっかり復調しているのに息を潜めているのは躊躇われて、なにか手伝える事があるか確認して、ついでに自分の存在を知らせようと決意した時、保健室に入ってきた男子生徒が口にした名前で僕は固まった。
「とりあえずそこのベッドに座って、アスナ」
「中庭の君」ーっ!
中庭での覗き見をやめて一ヶ月近く経つけど、未だに僕の中で彼女の呼び名は「中庭の君」のままだ。それと同時にわかった男子生徒の正体……またお前か、桐ヶ谷和人。
どうやら無意識にアイツの声は忘れようとしていたみたいで、だからすぐには気付かなかったけど、わかってしまうともう絶対アイツだと確信できる。
保健室に並んでいる三台のベッドのうち、僕が使っているのは一番窓際のベッド。多分「中庭の君」は一番廊下側のベッドに腰掛けたんだろう、出入り口のドアからも一番近いしね。微かに「ふぅっ」と息を吐くのがわかる。
その吐息だけで拾った僕の耳は熱を持った。
でもその余韻を打ち消すように、いきなり近くから聞こえるアイツの声。
「『用事があれば内線119へ』って……養護教諭の端末ナンバーか」
おばさん先生の机に留守の際のメッセージボードが置いてあるんだろう。ここに勤務している大人達は全員端末を支給されてて、学校の敷地内なら教室にある固定端末や各々が携帯してる端末へ自由に連絡が付く。さすが養護教諭の持つ携帯端末の番号は119に設定されてるのかぁ、とちょっと感心してるところに小さな声が聞こえた。
「……キリト、くん」
すぐにアイツが駆け寄る足音にかき消されてしまいそうなか細い声が浮遊してくる。
「ここで、休ませて、もらえれば、大丈夫、だから……」
途切れ途切れの声から息苦しさと一緒におばちゃん先生への気遣いも伝わってきて、耳だけじゃなく胸の奥もジーンと熱くなった。
「でも、ただ座ってるだけじゃ……あ、冷蔵庫あるな。何か入ってるかも……」
パタパタと忙しなく保健室内を歩き回る桐ヶ谷は隅に設置されている冷蔵庫を勝手に開けたらしく「あった、あった……お、いいモンみっけ」とゴソゴソ音を立てて何やら取り出し、再び「中庭の君」の元へと戻っていった。
「ほら、アスナ、飲めるか?」
あ…多分、僕がもらったのと同じスポーツドリンクを冷蔵庫から出してきたんだな。と言うことは「中庭の君」も熱中症か……とここまで当たりを付けた僕は自分が完全にベッドから出て行くタイミングを逃した事に気づいた。
「力入らないんだろ……いいから、口開けて」
拒絶の声がしない……一体二人はどういう体勢になってるんだろう。今、現場を目撃しても、僕、色々大丈夫かな?
何かがポッキリ折れちゃったり、その場で崩れ落ちて砂になっちゃったりしないだろうか?、とうんうん考えている間に「中庭の君」は補水を終えたらしい。
「ついでに保冷枕もあった」
冷蔵庫だけじゃなくて冷凍庫まで漁ったのか……図々しさにちょっと呆れるけど、裏を返せばそれだけ「中庭の君」の為に必死だったって事で……そう思えば昼休みの中庭から追い出された件もちょっとだけ許してやってもいいか、って思えてくる。でも本当にちょっとだけ。だってこっちは学校に通う楽しみを一つ減らされたんだしっ。
「ゆっくり横になって……首元冷やした方がいいから……こんな感じか?」
完全に横たわったらしいがそれでも「中庭の君」の浅く短い息が何回も僕の所まで伝わってくる。
「まだ呼吸荒いな……はずすぞ」
は?、はずすって何を!?……あっ、リボンタイ?、リボンタイだよねっ……それだって当たり前にはずさないでほしいけど。
「あれ?、珍しいな。フロントホック……」
リボンタイだけじゃなかったーっ
「ありがと……楽になった……」
ひーんっ、「中庭の君」が色々はずした桐ヶ谷に怒るどころか感謝してるー。それでもって桐ヶ谷が「中庭の君」の下着事情に詳しいってどういう事なのっ……多感な高校生男子の僕は精神の安定を最優先にそれ以上の推測を放棄する。
「午前中ね、プールだったの」
「それでか」
その短い会話だけで「中庭の君」の下着のタイプがいつもと違う理由を理解した桐ヶ谷の声が少し真剣味を帯びた。
「水着、だけどさ……」
「うん、ちゃんとこの前、一緒に選んでもらった、方にしたよ」
なぜかホッとしたような気配の後、ここに入った着た時とはまた違う苛ついた声。
「いや、待てよ。だから午前中、渡り廊下の方がザワついてたのか。あそこ、更衣室からプールまでの移動通路、見えるからな」
「みんな、バスタオル、羽織ってたけど……」
「それだって足とかは見えるだろ」
思い出した……確かに休み時間、どっかから「足首っ」とか「三つ編みっ」「首筋っ」って単語が大声でたくさん飛び交ってた。多分、プールに入るから「中庭の君」が長い髪の毛を三つ編みにしてたんだろうなぁ……僕も見たかった。
「そう言えば隣のクラスで、興奮してぶっ倒れたヤツが出たって」
え!?……それって……まさか……もしかして……僕?
違うっ、違うっ、違うっ、なんか色々、すごく色々間違ってるっ
「中庭の君」の水着…の上にバスタオルを羽織った姿さえ見てないのに、そんな理不尽で不名誉な噂、どこまで広がっちゃってるんだっ
「でも、ボーダー柄のも、気に入ってる、んだけどな…」
「ああ、あれな。この前見せてくれたビキニタイプの……あれも似合ってたけど、ほらっ、学校の授業で着用するのは、ちょっと……」
「うーん、ダメかなぁ……でも、キリトくんが、選んでくれたのも、気に入ってるよ」
「あれって《旧SAO》でアスナが着てたヤツに似てただろ」
「そうだね。だから?」
「あの時のアスナさんも…すごく綺麗でしたし……」
なんでこいつ今更照れ声になってんの?
わかりすくテレを誤魔化すような丁寧語でぎこちない話し方の桐ヶ谷の羞恥ポイントが僕には理解出来ないよっ。それ以上にここで二人の会話を盗み聞きしてる状況になっちゃった僕のメンタルもかなりヤバイ。保健室のおばちゃん先生、お願いっ、戻ってきてっ。
思念波で内線119鳴らせないかな、って意識を集中させている僕にまたもや桐ヶ谷の声が邪魔をする。
「いくらプールでもこの陽気に外だもんな。体力持ってかれて調子だって崩すよ。カフェテリアで合流する前に廊下で会えてよかった……まぁ、オレを見た途端、崩れ落ちたのは驚いたけど」
「ごめんね、なんか、キリトくんの顔、見たら安心しちゃって……」
「いいよ……少し落ち着いた?」
「あ、キリトくんの手、冷たくて気持ちいい」
「ん?、そうか?…いつもはアスナの方が体温低いのに……そうだ、熱中症には脇の下とか足の付け根冷やすといいから……」
「ダっ、ダメだってばっ、手、入れないでっ」
ドッ、ドッ、ドッ、ドコにっ!?、と叫ぶ僕の疑問と心臓のドッ、ドッ、ドッ、という早鐘が同期して、僕は自分の限界を感じた。
もうダメだ、僕の心臓、そろそろヒビが入ると思う。熱中症の時よりドクドクするしクラクラするしゼエゼエする。「中庭の君」の笑顔を見た時は心臓が止まりそうって思ったけど、桐ヶ谷との会話を聞かされてると心臓が爆発しそうだ。
僕は自分の生存本能に従って生き残る道を模索した結果、石になる事に決めた。
何も聞こえない、何も聞こえない、僕は石なんだから……
「息苦しさ、おさまったみたいだな。顔も火照ってたけど……アスナ、前髪あげるぞ」
「…キリトくんも前髪あげないと、触っても分からないでしょ」
「あ、そうか……うん、熱はないな。あと唇も震えてたけど……」
「ンっ!」
「……大丈夫そうだし」
なんで聞こえちゃうんだっ……そうだっ、枕だっ、枕を使えばっ
僕は頭の下にある枕の両端を手で掴んで体勢をくるりと横回転させてうつ伏せになり、そのまま後頭部と両耳を枕ですっぽり覆った。
よしっ、これで何も聞こえないっ
ただ自分の事で手一杯だった僕はその時に立ててしまった物音にあの二人が気付かないわけがないなんて考える余裕は全くなかった。
「あれっ?……キリトくん、今、なんか、音……したよね?」
「したな。もしかしたら一番奥のベッド、誰かいるのかも」
「えーっ、それじゃあ今までの私達の会話、全部聞こえてたんじゃ……」
保健室に入ってきた時の記憶はおぼろげだが、音や声だけとは言え二人きりだと思い込んで気をつけていなかったから恥ずかしいやり取りがあったかもしれない。
「寝てるんじゃないのか?、起きてればオレ達に声かけてくるだろ」
「そう、かな?……うるさくしちゃったけど」
「養護教諭がほったらかしにしてるんだから重症ってわけじゃないだろうし」
要は気にする必要は無い相手だと、隣の更に隣に寝ているだろう人物の方に向いている明日奈の意識と視線を取り戻す為、彼女の頬に手をあてた和人が自分の方へと引き寄せる。
「オレ達は昼休みいっぱいここで休憩して……」
「待って。キリトくんは今からでもカフェテリアでお昼食べて午後の授業にちゃんと出て」
自分が原因で授業をサボらせるわけにはいかない、と明日奈が真面目な顔で諭した。多分、養護教諭もそろそろ戻ってくるだろう。体調もかなり回復したからあとは一人でも大丈夫だと自分の頬に添えられている和人の手を剥がそうとすれば、逆にその手を握りしめられた。
「アスナを置き去りになんてしないよ」
保健室の担当教諭がいるならまだしも、存在のよくわからない、もしかしたらアブナイ人間と彼女が二人きりになってしまう。
「それに、もし立場が逆だったらアスナはオレをここに寝かせて教室に戻るのか?」
はなから答えはわかっていると言わんばかりの少し意地悪な笑顔で問われて、明日奈は唇をすぼめて「うぅっ」と唸った。
「じゃあ…午後の授業、どうするの?」
「幸い午後イチは一緒の選択科目だから誰かに授業内容のコピー頼めば問題ないし。養護教諭が不在だったから付き添ってた、って言えばオレの分まで保健室の利用証明貰えるだろ?」
不在対策として内線番号を記したメッセージボードが置いてあったのだろうが、それを見なかったことにして明日奈の傍に居ると譲らない和人に熱中症の症状とはまた違った諦めの息を「ふぅっ」と零す。
「それじゃあ少しだけ眠っていい?」
「ああ、おやすみ、アスナ」
その頃の僕は、と言えば何も見えず聞こえず、ついでにうつ伏せで段々息苦しさまで感じ始めた中、具合が悪いわけじゃない桐ヶ谷は保健室からとっとと出て行ってくれないかなぁ、そうしたら僕も出て行けるんだけどなぁ、と桐ヶ谷の退室を待ちながら、保健室にいるのに呼吸がままならないとか、かなり本気で空腹が辛いとか、またもや生死の境を彷徨い始めてる自分に涙が止まらなかった。
お読みいただき、有り難うございました。
あの二人に免疫のない生徒だと「石」になるしかないんです。
ドキドキして、バクバクして、グルグルして、ドクドクして、クラクラして、
ゼエゼエしちゃうので……。