ソードアート・オンライン《かさなる手、つながる想い》   作:ほしな まつり

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大変お待たせいたしましたっ
そして今年もよろしくお願い申し上げますっ

結婚後、一人息子の和真と過ごしていた時、息子からの要望に
頑張って応えようとしている明日奈さんですが、それは和人の目には……。


誘い、誘われ?

「『……を前に勇者は怯えることなく指をパチンッと鳴らしました。すると炎の魔法が発動し、真っ赤な龍の姿となって……』」

 

明日奈の声は抑揚もなく、単純にただ文字を追うばかりに聞こえるが絵本の絵に集中している和真の耳に自然と吸い込まれ紙に描かれた場面に音や熱を感じざせてくれる。今、物語は魔王城に辿り着いた勇者が城の主、魔王を倒すべく戦いが始まったところで、これからが一番のワクワクシーンだ。

 

「『……魔王が大きな手を振り下ろすと幾つもの真っ黒な矢が現れ勇者に向かって飛んできます。光の剣でいくらはじいても魔王が生み出した魔力の矢は雨のように降り注ぎました。それでも勇者は……』」

 

既にもう何回も読んでいる絵本なのだが、緊迫した展開に和真はゴクリと唾を飲み込む。

 

「『……ピューッ、と勇者の吹いた口笛が聞こえたのでしょう。遠くの空から真っ白な大鷲が飛んでくると翼で風を起こして矢を次々と叩き落としていきます』」

 

絶え間なく矢が飛んできている状況で口笛吹けるか?、とか、それなら最初から大鷲も勇者と一緒にいればよかったんじゃ……、などと身も蓋もないことを言う父親と違い母親の明日奈は読み手に徹してくれるので、和真は思う存分物語に入り込み勇者の危機を救った大鷲の登場に安堵の息を吐いた。

 

「『……こうして世界は平和になったのでした』…………おしまい」

 

明日奈が絵本を閉じると今まで魔王城にいた和真の意識が自宅のリビングという一番安全な場所に戻ってくる。それでも未だ興奮で頬を赤くしながらキラキラと瞳を輝かせ、和真は握りしめていた両手をゆっくり広げると「お母さんっ」と顔をあげて明日奈を見た。

 

「ぱちんってできる?」

「パチンッ?……あ、勇者が鳴らした指のこと?」

「そうっ、どうやったらできるの?、僕もやりたいっ」

「えーっと……」

 

珍しく明日奈の眉が困窮を示す。

パチンッ、と指が鳴るのは知識として知っているが実際に自分でやったことがないからだ。今まで鳴らしてみたいとも思った事も、強制されたり必要だった事もない。なんとなくだがアルゴかクラインが鳴らしているのを見た、というか聞いたような気がするけれど、はっきりと覚えてはいなかった。

イメージとしてはこんな感じかな?、と明日奈は絵本をテーブルの上に置いて右手を構え、難しそうな顔で中指の腹を親指の腹で思い切り擦ってみるが、ぺふんっ、と情けない摩擦音がするだけだ。

 

「……ちっちゃくてへんな音だね」

 

年齢の割にはしっかりしている息子だが時には歳相応に無邪気な感想を正面から容赦なく突きつけてくる。

紛れもない事実に、ううっ、と少しヘコんだ明日奈だったがここは母として息子に諦めない姿勢を見せるべきよね、と気を取り直して背筋を伸ばし、えいっ、と勢いよく指同士を滑らせてみるが、やっぱり、ぺしんっ、と残念な音にしかならない。まだまだもう一度、と指を睨み付けたとろで和真の無慈悲な声が「ユイ姉ー」と明日奈の横を通り過ぎた。

 

「はい、和真くん。指の鳴らし方ですね」

 

しゅわんっ、とホログラム映像で現れたユイはどうやら今までの様子をモニターで見ていたらしい。笑顔で現れると「ママのやり方、惜しいです」と言って助言をくれた。

 

「薬指を親指の付け根にくっつけてからやってみて下さい」

「こ、こうかな?」

 

ぺちんっ……うんっ、なんだか少しだけど音らしきものが鳴ったっ、と表情を明るくする明日奈の隣で、パチンッ、と勢いよく弾けた音がする。

 

「ユイ姉っ、できたーっ」

「上手ですっ、和真くんっ」

 

きゃっ、きゃっ、と喜ぶ姉弟を前に明日奈が微妙な笑顔でいると、はた、と気付いた二人がバツの悪そうな顔になり……和真が母親の隣にちょこんっ、と座り直した。

 

「口笛っ、お母さん、口笛は吹ける?」

 

微妙な笑顔のまま口元がぴくっ、と跳ねる。

和真は絵本の勇者の仕草を真似したいのだろうが指を鳴らす行為に続き口笛も明日奈にとっては未経験の領域だ。それでもさっきのパチンッ、よりは音も仕草も記憶にはある。

隣から息子の期待の視線を、正面から気遣うような娘の視線を受けて明日奈は桜色の唇をすぼめゆっくりと息を吐き出してみた。

 

「……深呼吸してるの?、お母さん」

 

息子のあまりにも的確な表現力に泣きそうになる。

どうやら和真は口笛を吹く前の準備運動か何かと思ったらしい。これからいよいよ母親の唇から、あの勇者のように格好いい「ピューッ」という音が出てくるのだと信じて更に瞳を輝かせているが、明日奈の方は過度に寄せられた期待による緊張も重なって、もう絶対音なんか出ないっ、という確信に唇が震えている。お手本を見せたい、口笛を聞かせたいという親心とは反対に「そんなに見ないでっ、耳をすませないでっ」という本心に挟まれて下がった眉尻に押されたのか、じわりとはしばみ色の瞳に涙が滲み出てきそうになった時、明日奈の心情を察したユイが「和真くん、和真くん」と弟の名を呼んだ。

 

「見ててくださいね」

 

そう言うとユイは口をすぼめてピーッ、と澄んだ高音を出してみせる。

 

「すごーいっ!……あれ?……ユイ姉、それってちょっとズルっ子さんだよっ」

 

一瞬満面の笑みになった和真が、すぐに、めっ、とユイを叱るように睨んだのでユイはもちろん明日奈も目を丸くした。

 

「ホログラムじゃユイ姉のお口、息してないもんっ。今の違うでしょ」

「えへへ。バレちゃいましたか。指をパチンッと鳴らすコツはすぐ検索出来たんですけど、口笛はとにかく練習するしかないみたいですよ」

 

ユイを姉として認識しているもののホログラム映像である事も理解しているから実際に口笛を吹いたわけではないと気付いてズルっ子さんと評したらしいが、息子の理解力に明日奈は驚きを隠せなかった。確かにユイは口笛を吹く唇を形作って音声データから口笛の音を再生したのだが、そういったからくりまではわからずとも直感で「違う」と思えるほどホログラムのなんたるかがわかっているということだ。

そういうところは和人くん似かなぁ、と思う明日奈だったが、見方によってはあかたも口笛を吹いたように自分を欺したユイに憤るでもなく姉なりの優しさだとわかって「ちょっとズルっ子」だと巫山戯た怒り顔で応える和真のコミュニケーション力の高さは和人なら絶対に明日奈似だと言うだろう。

それからお手本となる音と形を知ったせいか和真は明日奈の口笛を待たずにユイに言われた通り練習を始めたようで「ユイ姉、見て、これでいいの?」と唇のチェックを頼んでいる。ユイもネットからピックアップした検索画像と見比べる為、視覚倍率を上げて正面から弟の口元をジッと見つめ「もうちょっと唇を突き出して」など色々とアドバイスをしていた。

二人の真剣なやり取りを微笑ましく見ていた明日奈だったが、ほんの少しの疎外感におずおずと申し出る。

 

「ねぇユイちゃん、私にも教えてくれない?」

「お母さんも僕と一緒に練習するのっ?」

 

ユイの「はいっ、もちろんですっ」と答える声よりも数倍大きな和真の声が飛んできた。そこには当然驚きが含まれていたが、それ以上に嬉しさに溢れている。

和真が抱いている母、明日奈の印象は何でも出来るお母さん、だからだ。自分と同じに母が「出来ない」のが新鮮で和真は真面目な顔で明日奈の脇にぴったりくっつくと「頑張ろうね」と励ましてから正面にいるユイに向かって「もう一回、見てて」と練習を再開したのであった。

 

 

 

 

 

職場から帰宅した和人が自宅玄関の扉を開けてちょっと驚いたのは「ぴぅ〜」とこの家では今まで聞いたことのないか細い音がリビングから漏れ聞こえてきたからだ。その音は風に乗って空中を漂っている蜘蛛の糸みたいに頼りなくすぐに途切れてしまったが、和人がリビングに辿り着く前に再び「ぴぅ〜」と漂い始めている。

口笛…?、と疑問符が付いてしまうくらいヨロヨロとした音を気遣って、出来るだけ雑音を混ぜないようゆっくりとドアを開け中を覗けば、ソファに最愛の妻と自分と同じ黒髪の息子が軽く向き合うように座っていて、その前でユイが見守る笑みで二人を見つめている。

明日奈の背に隠れて見えないもののさっきから聞こえている口笛の音源は和真のようだと見当をつけて、それを確かめるために身体を動かすと気配に気付いた明日奈がパッ、と振り返った。

当たり前に「ただいま」と言おうとした和人の口が「た」を発する前に固まる。

なぜなら愛しい妻の唇がいつも出勤時や帰宅時、玄関で自分のと重ね合わされる魅惑の形となっていたからだ。だから「た」を言うはずだった口から「あ?」が漏れる。けれどそんな驚きに気付かない明日奈は途端に焦り顔になって「わわっ」と言うなり立ち上がり和人の元へ走り寄ってきた。

 

「ごめんね、気付かなくて。おかえりない。お疲れ様」

「あ、うん。ただいま」

「今ね、和真くんと口笛の練習をしてて」

 

それでか、と納得しても、つい明日奈の唇に目がいってしまう。

 

「ユイちゃんに手伝ってもらって一緒に頑張ってたんだけど、和真くんの方が先に上達してね」

 

親として子供の成長を喜ぶ声と、元来の負けず嫌いが少しだけ顔を出して悔しげな目元のちくはぐさに思わず、くすっ、と和人の口の中で笑いが弾んだ。

 

「お父さんっ、聞いててっ」

 

妻の後方から息子の自慢げな声がするやいなやサッ、と首だけを向けた明日奈が「先に『お帰りなさい』でしょ。和真くんもユイちゃんも」と母の顔で窘める。

 

「……ごめんなさい。おかえりなさい、お父さん」

「そうでした。おかえりなさい、パパ」

 

揃って情けない表情になった娘と息子に「ただいま、和真、ユイ」と穏やかな声で返してから「それで和真の口笛はどんな感じなんだ?」と練習の成果を望めばすぐに和真の母そっくりなはしばみ色の瞳が輝いた。

 

「ちゃんと音でるようになったんだっ」

 

言うなり小さな唇をひょっとこみたいに前に突き出して真剣な目で慎重に息を吐き出す。姉と両親の視線を一身に受けて力みすぎたのが最初はスューッと空気音だけだったのが次第にピ〜と高音が混じるようになった。息を吸い直してもう一度挑戦すれば今度は最初から口笛……と呼べなくもない音が墜落寸前の紙飛行機みたいな低空飛行で危なっかしく流れてくる。それでも吹き終わった和真の嬉しそうな笑顔を見れば流石の和人も「まだまだだな」とは口が裂けても言えなかった。

 

「確かに、口笛…かもな」

「はいっ。和真くん、とっても練習頑張りましたからっ」

 

和人の微妙な感想には触れず自分の事のように喜んでいるユイを見ながら同意を示す為に頷いていた明日奈がいきなり「きゃあっ」と言って三人を置き去りにし、キッチンに駆け込んでいく。

 

「ご飯っ、晩ご飯の支度しなきゃっ」

 

どうやら今になって和人が帰宅しているという事実がのんびり口笛の練習をしている場合ではないと気付いたらしく、バタバタと鍋の中身を温め始めたりサラダの仕上げにドレッシングの材料をボウルに手早く投入していく様は高速で無駄がない。けれどそれを見た和人が慌てて声をかけた。

 

「大丈夫だよ、アスナ。オレ、今日はいつもより早く帰ってこれたんだ」

「え?、そうなの?」

 

和人が帰ってきた、というだけで時間を確認してなかった明日奈が改めて時計を見て、ふぅっ、と焦りの色を薄くしたのを見て漆黒の目が可笑しそうに細められる。

 

「だからそんなに急がなくていいって」

「よかったぁ」

「何か手伝おうか?」

 

有り難い申し出に、どうしようかな?、と逡巡した隙を突いて和真が「お父さんっ」と和人の腕を引っ張った。

 

「お父さんは口笛吹ける?」

「オレ?!」

 

息子からの突然の問いかけに驚いたものの、そういえば口笛なんて随分吹いてないなぁ、と困惑する。

 

「どうかな……吹いたことはあるけど……」

「やってみてっ」

 

勢いのあるお願いに気圧されそうになるが「ちょっと待てって」と息子を落ち着かせようとしていると「こっちは大丈夫だから和真くんのお相手してあげて」とキッチンから明日奈の笑い声がすればお許しが出たと和真の期待が一層膨らんだ。

 

「唇はね、ストロー使う時みたいに尖らせるんだよ」

「いや、オレ吹いたことあるって言ったよな?」

「ゆっくり息を吹き出すんだって。ユイ姉が教えてくれた」

「だから知ってる」

 

いいから黙って見てろ、と言いたげな和人の前で今までユイから教えてもらったアドバイスが言いたくてたまらない和真の口は止まらない。

 

「ちゅっ、てするみたいにちょっと力を入れてね」

「…おい、和真。お前誰にちゅっ、ってしてるんだ」

「お母さんに決まってるよっ。お父さんがお母さんにしてるの僕いつも見てるもん」

 

どこか得意気な和真の発言にキッチンの明日奈が「ひぇっ!?」と二度目の悲鳴を上げた。

 

「なっ、なっ、和真くんっ、いつも?、いつもって?……いつも見て?…いやぁっ」

 

おたまが床に落ちて派手な音を立てる。

明日奈は知らなかったようだが和人は慌てることなく首を伸ばして「大丈夫かぁ?」と言っているのでとっくに気付いていたのだろう。行ってらっしゃいやお帰りなさいの時のほんの僅かな触れ合いなど息子に見られたところで何とも思っていなかったのだ。

ところが明日奈の方は玄関先で二人きりだと思っていた時のキスをしっかり息子に見られていた恥ずかしさで、わたわたとおたまを拾い上げたものの今度はシンクの蛇口にペンッとぶつけている。

とりあえず大事には至らなかったようだと判断して和真に向き直った和人は真剣な声で「それで……」と続けた。

 

「お前、まさか、ちゅっ、て、アスナの…」

「ほっぺただよ。ユイ姉がね、お母さんの唇にしていいのはお父さんだけだって」

 

それを聞いて「よくやった」と言うようにユイと目を合わせて和人が大きく頷く。

ユイもまた、えっへん、としたり顔で笑った。

 

「じゃ、口笛だったな」

 

話を戻して久々の口笛に緊張しているのか唇を舌で湿らせてから和真が言っていた通り唇をすぼめた所で、至近距離から浴びている息子や娘の視線とは別方向からのどこか異質な感情が混じった視線に気付いて動きを止める。

視界の端に見えている明日奈が未だにおたまを持ったまま心配と期待が入り交じったような表情で和人を見つめているのだ。その視線が意味するところを息子に示すべき父親としての姿だと理解した和人が、ここはひとつ頑張らないと、と一層真剣に口笛を吹くべく気合いを入れる。そして……

 

「ピゥーーーッ」

 

お手本のようなしっかりとした高音がリビングからキッチンまで響き渡った。

 

「すごーいっ。お父さんっ、勇者みたいな口笛っ」

「さすがですっ、パパ」

 

もっと、もっと、と満開の笑顔で喜ぶ和真とユイに気を取られてしまった和人は複雑な笑顔で肩を落とした明日奈に気づけず、そのまま夕食が出来上がるまで息子の口笛練習に付き合うことになったのである。

 

 

 

 

 

夕食を済ませて口笛への関心が薄れたのか、食後のルーティンでリビングのテレビを見ていた和真はそこに映っている犬の様子に「えらいねぇ」と感想を漏らした。画面では飼い主に「待て」を指示された大型犬がエサを目の前にしながらジッと姿勢を崩さずに座っている。

 

「僕、お母さんのご飯だったら我慢できないよ」

「オレもそうだなぁ」

 

和真と並んでソファに座っていた和人もこれまでの経験から明日奈の料理に対する己の忍耐力の無さを認めた後、ふと思いついた質問を口にした。

 

「和真は犬とか欲しくないのか?、ちゃんと面倒を見るなら今度の家で飼ってもいいぞ」

 

今住んでいるマンションだと大きな鳴き声のペットは禁止なのだが和真の小学校入学に合わせて一軒家に引っ越す予定なので、そこなら犬でも猫でも飼うことができる。

明日奈も犬を飼うのが夢だと言っていたし加えて和真も望むなら考えてみるのもアリかと思って聞いた和人の予想に反して息子は違う願いを口にした。

 

「僕は今度のお家でもユイ姉と一緒にお風呂はいりたい」

「それはシステムを移行させるだけだから簡単だな」

「あとね、自分の部屋でユイ姉と普通にお喋りしたいんだ」

「お前が持ってる端末でできるだろ?」

「それだとユイ姉とお喋りしてる時に端末使えないもん」

「あー、なるほど。なら置き型のやつを作ってやるよ」

 

いや、いっそ自分達の寝室やトイレ以外の部屋は全てユイが自由に行き来しているような感覚になるのがいいか?、とプログラムの初期構想に没入しそうになったところで明日奈の声がそれを引き留める。

 

「私は近くにいい感じの公園があると嬉しいな」

 

そうすればお休みの日とかお弁当を持って行けるでしょ?、と言われれば一も二もなく和人と和真がウンウンと頷き物件探しの要望に追加された。実際、諸々の条件を把握して最初に動くのはユイなので「パパの希望は何ですか?」と情報収集に励む。

 

「そうだなぁ。オレは……」

 

少し上を向いて考えていた和人が口にしたのはちょっと意外な内容だった。

 

「やっぱり最寄り駅とか最寄りのバス停から安全に往復できる場所にある家、かな」

「パパ、このマンションを探す時も同じこと言ってましたね」

「そうなの?」

 

結婚して住み始めた我が家だが、明日奈は知らなかったようだ。確か明日奈の方は自分と和人の職場へのアクセスがしやすい事を一番に挙げた記憶がある。

 

「当たり前だろ。家の防犯ならいくらでも対策できるけど路上で変なヤツにアスナが狙われたらどうするんだ」

「大げさだよ和人くん」

「大げさなもんか。昔から待ち合わせで先に到着してると必ず知らないヤツから声かけられてたくせに」

「そうだよお母さん。僕が小学生になったらお仕事に行く時も帰って来る時も一緒じゃないんだから、知らない人に付いてったらダメなんだからね」

 

夫と息子からの真剣な顔に挟まれて困り顔の明日奈は縮こまりながら小さく「はい」と返事をしたのだった。

それから和真と一緒にお風呂を済ませた和人はリビングで今手がけているプロジェクトの参考資料をチェックし終えてから照明を消して寝室へと移動した。ドアを開ければその隙間から切れ切れの高音が混じった空気の吹き出している音が聞こえる。

何の音だ?、と不思議に思いつつそのまま扉を開けて中を覗けば既に和真を寝かしつけ終わった明日奈がベッドに腰掛けて必死の形相で唇を尖らせていた。

ぴしゅーっ、と息を吐き出し切ると眉根を寄せたままもう一度大きく息を吸い込み再び、ぴしゅーっ、を繰り返す姿はもの凄く真剣にゆっくり深呼吸をしている妻……と見えなくもない。

 

「アスナ?」

「ぴゃっ……あ、和人くん」

 

見られていたのが恥ずかしかったのか、直ぐにうっすらと頬が染まり気まずそうに目が泳ぐ。

そんな反応は今まで数え切れないほど見てきたはずなのに、それでも和人はゴクッと唾を飲み込んだ。

そう言えばテレビを見終わった後、風呂場で湯船に浸かりながら和真が思い出したようにずっと口笛を練習していて、湿気が良かったのか随分しっかりした音が出せるようになった上に浴室故の反響効果でキッチンで片付けをしていた明日奈の耳までよく届いていたのだろう。それで我慢出来なくなって一人寝室で口笛の練習をしていた……とか?、と今の状況を分析する。

 

「うぅ…だって、口笛、私だけちゃんと吹けないんだもん」

 

口笛だよな?、とは思っていたが自ら打ち明けてくれたお陰で和人は、やっぱり、と半信半疑だった自分の考えに確信を持つと同時に「なんで深呼吸してるんだ?」って聞かなくてよかった、と胸をなで下ろした。

今の明日奈を知る人間には、出来ない事を猛練習する彼女、なんてなかなか想像がつかないかもしれないが十代半ばに《遊びではないゲーム世界》の中、生き抜く術を懸命に身につけていく姿をすぐ傍で見ていた和人としてはどこか懐かしい気分にさせられる。とは言ってもあの頃と違い既にやり方はユイにレクチャーを受けているし、それで和真は習得しているのだから今更自分が口を出す必要はないだろう、と隣に腰を降ろし無言で練習の続きを促した。

いまだ顔に照れは残っているものの帰宅早々に見事な口笛を披露した和人の存在が心強いのか明日奈は意を決したように頷くと薄桃色の唇の上下を、んー、と強めに押し付け合ってから軽く舌で湿らせて徐に和人の方へ突き出した。

 

……ふぅ〜

 

まるで熱々のコーヒーを飲むため、表面に息を吹きかけて冷ましているそれである。

しかも「ぷっ」と目の前から和人が吹き出した声まで聞こえて明日奈の羞恥は一気に爆上がりだ。

 

「わわっ、笑わないでよぅ」

「…悪い」

「もうっ。さっきはちょっと音が出てたのに」

 

こんな感じだったかなぁ、と顔の熱も引かないままムズムズ動いている唇に引き付けられている和人の目は面白がるような色の中にゆっくりと本能の色が混ざり始めている。

 

「ユイちゃんに教えてもらった通りにやってるつもりなんだけど……和人くん、ちょっと見ててくれる?」

 

行儀良く両手を膝の上に揃えて置き、顔だけを和人の方へ向けた明日奈は何より唇に意識を集中させて細く細く空気を吐いた。すると微かだが吐く息に混じって北風のような音が紡ぎ出される。

 

「あっ、なんとなくわかったかも」

 

コツを掴みかけたのか和人の反応には気が回らず、とにかく今の感じを忘れないうちに、ともう一度唇をすぼめた時だ「アスナ、もうさ、そろそろ……」と少し掠れ気味の声に遮られて、はたと我に返った。気付いてみれば既に深夜と呼べる時刻である。

 

「あ、…そうよね。ごめんなさい。口笛って夜に吹くものじゃ…っ」

 

ないし、と続くはずの声は一瞬にして距離を詰められた和人の唇に塞がれて発せられることはなかった。

驚きであげてしまった「んんっ」という短い声が抗議の意味も含んでいると伝わったのか、すぐに解放してくれたものの吐息が触れ合う程の近さのまま夜空色の瞳はジッと明日奈を見つめておりその奥に浮かぶ熱から少しでも目を逸らしたら最後、ひと思いに食べられてしまいそうな予感がする。

 

「…そろそろ、限界」

 

言ってぺろり、と舌でふっくらとした桜色の唇を味見すれば更に飢えが増したのか黒瞳に欲の灯が揺らめき始めた。

ついさっきまで口笛が吹けるよう自分で湿らせてた舌もそんな風に和人に舐められると全身が期待と戸惑いで落ち着きをなくし明日奈の思考力を鈍らせる。

 

「えっと…和人くん?」

「唇を見てろって?、誘ってるようにしか見えない」

「誘って!?」

「それとも強請られてるのか?……どっちでもいいけど」

「ッン!」

 

今度は隙間なく押し付けられ、そのままクリームを溶かすみたいに執拗に舌が這う。腰から攻め上がってくる急激な痺れに堪らず明日奈が声を上げようとすると、それすらも漏らさず和人に飲み込まれ「んぅ〜っ」と甘く耳の奥で反響するばかりだ。

 

「口笛が吹けるようになってもオレの前だけにして」

 

練習段階でこうやって唇を塞がれてしまうのに習得しても和人くんの前で吹けばやっぱり同じ結果になっちゃうんじゃ?、の考えから「え〜!?」と発してしまえば、自分の願いに反発されたと勘違いしたのかいきなり、くわっ、と大きく口が開き噛みつくように唇全体を含まれてくまなく舌でねぶられる。生温かな感触の気持ちよさに酔ったらしく、力が緩く抜けたのを見計らって、とんっ、と上体をベッドの上に倒された。

 

「ちっ、ちがうのっ。口笛、吹けるようになったらユイちゃんと和真くんに…」

 

ああ、さっきの「え〜!?」はそういう意味だったのか、と和人が理性を取り戻したのは一時で、眼下にある息の上がった唇は己の所行で艶めかしい水気をまとい、熟れた頬に不規則な呼吸で浮かび上がった涙を湛える瞳、全身から立ちのぼる明日奈の香りは和人の欲を際限なく刺激してくる。

 

「どっちにしても練習はもう終わりだ」

 

だからと言ってこの夜が終わるわけじゃないけど、と言いたげに今度は耳をかぷり、とやれば「ふぁっン」と蕩けた高音が散々いじられた唇から熱い息と共に吐き出された。続けて耳から鎖骨へ小刻みにキスを落とすと震える小さな声に「ま、待っ、て…」と懇願されるが彼女の肌に唇を押し付けたまま和人は「無理」と即答した。ほんの少し頭を上げて潤んだはしばみ色に言い聞かせる。

 

「知ってるだろ、アスナに関して犬より我慢がきかないのは料理だけじゃないって」

 

従順に「待て」を聞き入れるような躾の出来たペットじゃないんだ、と牙を覗かせそうに笑った。

すぐに首筋に吸い付き所有の赤を付けると同時に素早く侵入させた手で彼女の柔らかいところを優しく刺激すれば涙声の嬌声が綺麗にあがる。

 

「そうだ、今度の家、オレ達の寝室の防音はしっかりしなきゃだな」

 

この状況で新居の希望を思いつく和人に反応しかけたのか明日奈は物言いたげに眉根を寄せてから「キ、キリトくん」とこちらも理性の薄れた呼び名を口にした。こんな時に何を言うのよっ、とお叱りの言葉を待ち受けていた和人の耳にたっぷりの愛欲に包まれた声が忍び込む。

 

「キス、もっとちゃんとして」

 

一瞬、意表を突かれた顔になった和人の瞳にすぐにぶわり、と仄暗い炎が燃え上がった。




お読みいただき、有り難うございました。
まだ目の調子が完全復活っ、ではないので少しずつ、ゆっくり……って
いつもそんな感じなので亀更新が大亀更新になってしまいました。
すみませんっ。
それなのに「え!?、キスまでならR−15だよねっ」な内容を
今年一発目からいいのだろうか。
体力ならぬ目力が底を突つきかけているので「ウラ話」はお休みさせて
いただきます。
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