ソードアート・オンライン《かさなる手、つながる想い》   作:ほしな まつり

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アンダーワールドからキリト、アスナが戻って来た後のお話です。


いつだって

アンダーワールドからやってきたアリスは、金属の骨格をシリコンの皮膚で覆ったボディで過ごすよりも頭にケモ耳が生えようがアルヴヘイムでの方が居心地が良いらしく、今日はアスナを始めリズやシノン、リーファにシリカ、もちろんユイも…といわゆる女の子集団と一緒にやれ買い物だの観光だのを楽しみ、その合間に軽く腕試しと称して討伐系のクエストに挑戦した後、満足した表情で二十二層のログハウスに帰還した。

 

「とても充実した時間を過ごせました」

 

声にはまだ興奮が残っているからよほど楽しかったのだろう。そこまで喜んで貰えれば誘った側としても嬉しい限りだとアリスと行動を共にした女子達も一様に笑顔で頷き合っている。

 

「よかったな」

 

「こっちはこっちで色々と、まぁ、それなりに楽しくやってたぞ」と言うには多少無理があるような苦笑いのキリトに続き、向かいに座っていたエギルが一言「おうっ」と同意なのか挨拶なのか判別しづらい一言で済ませている間にアスナが急いでキッチンからカップやポットをトレイにのせてやって来た。

「キリトくんたらお茶もださずに……すみません、エギルさん。ミントティーでいいですか?」と言ってまずはエギルの為にカップのふちをタップする。

途端に適温を示す薄白い湯気が立ち、爽やかな香りが漂ってきた。《タップするだけで九十九種類の味のお茶がランダムに湧き出す》魔法のマグカップだ。

ランダムとは言えそこは料理スキルをコンプリしたアスナだから今ではカップの癖を熟知したのか、ほぼ確実にどんなお茶が湧き出すかを言い当てることが出来てしまう。

 

「オレだってお茶くらい出そうと思ったんだけど、エギルがいらない、って」

「お前がタップしたら何を飲まされるかわからないからな」

「キリトくんはコヒル茶にする?」

 

わかりやすくキリトの顔が輝く。それを可笑しそうに見ながらポットの中身をキリト専用のマグカップに注ぎ終わると、アスナは「アリスもどう?」と驚きで青い瞳をまん丸くしている金髪の少女に声を掛けた。

 

「コヒル茶……アスナっ、コヒル茶が飲めるのですか!?」

「まぁ、かなり近い味にはなってると思うけど」

「オレとしてはもう完全にコヒル茶だけどなぁ」

「ふふっ、ありがとう、キリトくん。頑張って再現した甲斐があるよ」

 

アンダーワールドで慣れ親しんだ味として真っ先に浮かんだのがコヒル茶だったアスナはずっと試行錯誤を繰り返していて、最近やっと納得できる風味に仕上がったばかりだ。多分、最初にダイブしたラースのスタッフがアンダーワールドでもコーヒーを飲みたくて作り出した飲み物だと思うのだが三百年をかけてその味はリアルワールドのそれとは微妙に違う進化を遂げていた。

旧SAOで醤油味の再現を果たしたアスナは《現実世界》に戻ると今度は逆にSAOでの味が懐かしかったりするので、アンダーワールド特有のお茶もキリトとの共通の思い出の味のひとつだから絶対に再現しようと頑張ったのである。それに異界戦争終結後の記憶が一ヶ月ほどしか残っていないキリトにとってよく一緒にコヒル茶を飲んだ相手と言えば、それはアスナではなく亜麻色の髪の少年で、それが分かっているからこそ親友を懐かしむ時間を作ってあげたかったのも再現理由のひとつだ。

そしてもうひとつの理由が……。

 

「アリスもALOでなら食べたり飲んだりできるでしょう?、だったらコヒル茶が飲めれば少しは《懐郷症(かいきょうしょう)》も和らぐかなって……」

 

そこまで言ってアスナは周囲からの視線に気付き声を途切らせた。それから遅れて自分でも「あれ?」と僅かに小首をかしげる。

《懐郷症》……確かに今、自分は何の迷いもなくその言葉を口にしたけれど改めて考えるとそんな単語は自分の知識に存在しない。それなのに不思議とその意味がホームシックを指すのだと理解している。

アスナの頭の中の途方もなく遠い所から少し緊張しつつも意を決して発したような思い切りの良い声が僅かに浮かび上がってきた。

 

『あの、《懐郷症》だと思います!』

 

この声は……ロニエさんね、と判じてちょっとだけアスナも懐かしさに微笑む。どんな状況だったかは覚えていないがホームシックを説明するのに困った場面であの少女が助け船を出してくれたのだろう。こうして無事リアルワールドに戻ってきても、ふとした瞬間にアンダーワールドでの知識や思い出をほんの一欠片すくい取れる時がある。それをきっかけに記憶が蘇ったりはしないからキリトにも話していないが、今の《懐郷症》という単語はアリスさえも知らない言葉だったらしく全員が揃って不思議そうな顔でアスナを見ていた。

 

「アスナ、かいき…ナントカって、なに?」

 

代表して声を上げたのは親友であるリズだ。その疑問に「ごめんね、ホームシックって言うつもりだったの」とさらりと流せば今度はアリスが「ホームシックとは何ですか?」と質問してくる。

すぐにユイが模範解答を示し、続いてもっと理解しやすいよう噛み砕いた言い方や例えを皆で出し合ううちに納得したアリスが大きく頷いた。

 

「なるほど。確かにアンダーワールドを懐かしむ気持ちは常にあります。けれどリアルワールドでキリト達と過ごす時間もまた私にとっては大切な物です。ただ大勢のリアルワールド人に囲まれるパーティーはあまり好きになれませんが」

 

アリスの存在に否定的、または懐疑的な団体や個人は数多く、それらの動向を警戒しながらもほぼ毎日のようにレセプションだのパーティーだのに駆り出されている彼女の立場を思いやればアスナが何かしてあげたいと思うのは当然だった。

 

「さあどうぞ、飲んでみて。みんなも飲んでみる?」

 

アリスへとコヒル茶の入ったカップを差し出したアスナが他のメンバーを誘えば、ユイを除く女子達は揃って好奇心一杯の笑顔を縦に振ったのだった。

 

 

 

 

 

結局、最後にはエギルもコヒル茶を味わって「なるほど。確かにコーヒーに近いが別物だな」と感想を述べているとアリスが何かに気付いたのか「すみません」と少々焦った声をだした。

 

「そろそろ戻らないと。凛子博士と約束した時間なのです」

 

アリスは先日自らを宅配荷物にしてラース六本木支部から失踪した前科がある。その暴挙に対して一言の叱責もせず、むしろ自分達が至らなかった、と何度も謝罪の言葉を重ねてくれた神代凛子という女性に今ではかなり心を許していて、こうしてプライベートで行動する時も何時頃戻るかを伝えているのだそうだ。

「キリトくん達と一緒なら心配はしないから」と言われているがその他に関しては少し過保護では?、とくすぐったく思うくらいの接し方で今まで以上にメンタル面のケアが手厚くなっており今日のように頼めばまとまった時間も確保してくれるのだから帰還時間を設定するくらいは当然の礼儀だと認識している。

改めてコヒル茶の礼をアスナに告げてログアウトしたアリスに続き、シノンやシリカ、リーファもほどなくしてログハウスから姿を消した。ユイもデータ処理という眠りにつき最後にリズが「また明日、学校でね」と光の粒子になるとアスナは、ふぅっ、と息を吐いてから静かになった室内に残っている二人に向け「お茶のお代わり持って来るね」と告げてキッチンに移動する。

すぐにリビングに戻って来たアスナはエギルとキリトのカップにコヒル茶を継ぎ足してからポットをテーブルに置いて自分はいつもキリトが愛用している揺り椅子に腰掛けた。

 

「もう少しここにいていい?」

 

珍しく話し込んでいる様子のキリトとエギルの反応を伺う。遠慮がちな態度にエギルが、ふっ、と頼もしい笑顔で返した。

 

「いいも何もここはお前達の家だろう。逆に居座って悪いな、アスナ」

「そんなっ。私達だってエギルさんのお店に営業時間外だってお邪魔してるんだから」

「そーそー。だからアスナが気にする事ないぞ」

「キリト、お前は少し気にしろ」

 

エギルの視線がキリトに移るなりその顔が呆れ一色になる。この黒髪の少年はアスナを伴って来たり、アスナとの待ち合わせに利用する時はまだ良いとして、アスナに構ってもらえない時まで分かりやすく仏頂面で準備中の店にやって来るのだから始末に負えない。

エギルの気遣いにホッと表情を緩ませたアスナは「どうぞごゆっくり」と言ってウインドウを複数展開させ学校の課題に取り組みだした。集中力を高め、又キリト達の会話を拾わないようセパレートタイプのイヤフォンを装着している。

新しいお茶を一口すすって、ちらっとアスナの様子を確認したエギルはそれでも前屈みになってキリトに顔を近づけると少しだけ声を潜めた。

 

「今の所《ザ・シード》に対して何らかの規制がかかる可能性は低いだろうな」

「ああ、すでに全世界規模で拡散してるからアンダーワールドにのみ干渉するのはまず無理だし、そもそも開発元が完全シークレットなんだから」

 

キリトは自分が最初に《世界の種子》を持ち込んだ目の前の相手、エギルに頷く。そして自分の判断が間違っていなかったことに内心でもう一回頷いた。なんだかんだと文句は言ってくるがこの男はいつだって面倒見が良く頼りがいのあるアニキなのだ。だからこそユイに頼んで《ザ・シード》の拡散元は辿れないよういかなる足跡も入念に消し去ってもらっている。

ただアンダーワールドだけに限って言えば制作に《ザ・シード》を使っているとは言えそれは初期の基礎部分で、ユイであってもプログラムへの侵入は不可能だから安心は出来ない。

《現実世界》でのアリスの身辺に関しては一介の高校生でしかないキリト達が何を出来るわけもなく、今日のように精神面での気分転換を提案するくらいしか気遣えないのだからアンダーワールドの存続云々に関してはもはや無力と言っていい。そう考えればアリスの存在を秘匿するのではなく大々的に公表したのは正解だったのだろう。ただトップアイドル並みの知名度となってしまった彼女の負担は増えるばかりで、呑気に学校に通っているキリトとしては少々心苦しさも感じていたからアリスからの要望は可能な限り叶えてやりたいと考えていた。

ただそれ以上にアスナを始めとした女子達があれやこれやと気を回しているのでキリトはそれを眺めているだけの方が多いのだが……。

 

「ところで…お前の調子はどうなんだ?」

 

ふいに話題が自分に向いて反応が遅れたキリトだったがエギルの口調からして刺された傷の具合だけではないと気付き眉が情けなさそうにハの字を描いた。

 

「ああ…まぁ、思い出せば辛くなる事もあるけど……アスナがいてくれるから」

 

そのアスナに視線を移すと、いつの間にかウインドウは全て消えており、キリトの大好きなはしばみ色の瞳も瞼によって隠されている。

イヤフォンは装着したままなので課題の途中で眠ってしまったのだろうか……二人が黙ると小さな寝息が聞こえてきた。

 

「久しぶりに大人数で行動したから疲れたのかもな。ちゃんとログアウトして寝ればいいのに」

 

「仕方ないなぁ」と軽く笑って立ち上がったキリトは彼女の耳から静かにイヤフォンを外すと部屋の隅に置いてあったブランケットを持って来てそっと掛ける。《仮想世界》での行動が原因で風邪を引くことはないのだが「このお家にいる時はキリトくんいつもシャツ一枚だし」とアスナが裁縫スキルを駆使して仕上げた手製のブランケットだ。「これを掛けてうたた寝をするとすっごく気持ち良く眠れるっ」とキリトが太鼓判を押すほど高い安眠効果が付与されているようなアイテムである。

再びエギルの前に戻ってきたキリトは静かに腰掛けてからもう一度アスナの寝顔を見て穏やかに微笑んだ。

 

「何かの拍子にアンダーワールドの記憶は蘇るけどアスナが傍にいてくれると不思議と落ち着いて懐かしめるようにはなったよ。アスナにもそれがバレてるみたいで、最近はなにかとオレの近くにいてくれるし」

「そうか」

「本当に……アスナがいない世界でもう一度二年間を過ごせって言われたら絶対無理だろうな」

 

逆を言えばこの二人は互いがいれば二百年という時間さえも乗り越えられると証明してしまうのだから余計なお世話かもしれないと思いつつもエギルは懸念している事柄の発端を切り出す。

 

「ところでキリト、アリスの会見映像は見たか?」

「ああ、オレとアスナがこっちに戻って来る直前にやってたってやつだろ」

 

アンダーワールドから帰還してすぐは治療を継続しつつ精密検査やカウンセリング、その後はリハビリもあってずっと入院生活だったからキリトがその映像アーカイブを見たのは桐ヶ谷の家に戻ってからだった。

 

「アスナはオレよりもっと前にチェックしたらしいけど」

 

退院時期がずれていたし旧SAOから解放された時もそうだったのだが、アスナは自分が《現実世界》から離れていた間の出来事を新聞やネットニュースでチェックする事を面倒と思う性格でもないのでキリトの入院中に把握し終わったらしく「今回はあんまり長期間じゃなくて助かったよ」と、ほわんっ、とした笑みで告げられた時は「へ、へぇ」と口元が引き攣るのを我慢出来なかったキリトだ。

すると念を押すようにエギルは素早くアスナの眠りを確認してから更に前屈みになって心配げな目で問いかけてくる。

 

「で……その、アスナの様子は…大丈夫だったか?」

「大丈夫って?」

「いや、ま、その…なんだ……ほら、う゛ーむ…」

 

珍しく何と言っていいのか言葉を探しているエギルは綺麗に剃り上げた頭を片手で撫で回しながら最後には「あぁっ」と苛立ちを混ぜて大きく息を吐き出した。

 

「分かっていると思うがアリスを責めてやるなよ、あの言葉でその場の流れが変わったんだからな……まあ、ちょっとばかり大胆発言だった、とは俺も思うが」

 

いきなりアリスの発言に話が飛んで余計に理解が追いつかないキリトは困惑の声で「大胆?」と眉間に皺を寄せる。

 

「だから…メディアを前にして堂々と宣言しただろ……リアルワールド人のひとりを愛してる、って」

「ああぁ……あれか」

「あれか、じゃない」

 

キリトの軽い反応にエギルは渋面を作った。

確かあの時《ダイシー・カフェ》の扉に貸し切り札を下げて店内で生中継を一緒に観ていたALOや元SAOプレイヤー達も多少の驚きはあったもののすぐに「ああ、この子もなのか」といった苦笑いに近い表情に転じていたのを思い出す。

なんでコイツは新しい世界に行く度にこういう面倒事を持って帰ってくるんだ?、とそろそろ本気で一回膝を突き合わせる必要があると思い始めていたエギルが深刻そうな顔を近づけてくるので、ちょっとばかり仰け反りながらキリトは自分の頬をぽりッと掻いて目をうろろッ、と彷徨わせた。

 

「オレもアスナとアリスのそういうのはもう終わったと思ってたんだ」

「……そう思った理由を聞いてもいいか?」

「だって人界守備軍の野営地で明け方近くまで色々話してたし……」

 

その「色々」が全て自分との関係性を主張する為の懐かしいと言うより恥ずかしいが大部分の思い出話であった事は故意に伏せて、キリトは「うーん」と唸った。あの夜の暴露大会で納得したと思い込んでいたのだが、その認識は全くの見当違いだったらしい。

 

「結局その話し合いで決着はついてなかったってことだな」

「いや、決着もなにも……」

 

そこで困り顔になったキリトを見てエギルは真っ直ぐに問いかけた。

 

「キリト、お前にとってアリスはどんな存在だ?」

「それは……アリスにも聞かれたけど」

 

そう前置きをするとキリトもまた居住まいを正してエギルを見返す。

 

「希望だ。オレだけじゃない、アンダーワールドにとっても…もしかしたらリアルワールドを含めた全ての未来への希望になるかもしれない存在だ」

 

随分とスケールの大きな話だったがエギルはキリトの言葉でさっきまで懐かしそうにコヒル茶の味に頬を緩ませていた一人の少女が実は奇跡に近い存在なのだと思い出して大きく同意を示した。そして念の為に続けて問いかける。

 

「ならアスナは?」

「アスナは……オレの」

 

そこから少しの沈黙が落ちて、いつまで経っても続く先の言葉が出てこないキリトにエギルは辛抱できず「オレの?」と促した。するとキリトは一瞬不可思議に真っ黒な瞳をまん丸くして「何を言ってるんだ?」という顔からすぐに自分の意図が伝わっていなかったと理解し、バツが悪そうに口元を片手で覆って弱気な声を紡ぐ。

 

「えーと、だからさ…改めて聞かれても、アスナはオレのだ、って言うのが一番しっくりくるって言うか……」

 

途端に話は世界にキリトとアスナの二人だけという小さなスケールになり、キリトの心の狭さも垣間見えるが「そうきたか」と小声でもらしたエギルが険しい顔で口を開き「お前なぁ」と心底呆れた声を吐き出した途端、それを押し返さんとばかりにキリトはぐいっ、と手の平を突き出した。

 

「わかってるっ、わかってるから。アスナは物じゃないし、アスナにだって自分で進みたいと思う道があるってことは」

 

わかってての発言か……と逆に始末に負えない可哀想な子を見るような目に変わる。

 

「でも…アスナはどこへだってオレと一緒にいてくれるって……」

 

上げたままの手の平はエギルの発言を遮る意味から、自分の頬を赤く染める羞恥エフェクトを見られない為のものに変わっていて、こちらを見ようとしないキリトへ聞こえるようわざと大きな溜め息を落としたエギルは、それでも内心は、それだけの執着が持てれば大丈夫か、と安心の笑みに変わっていた。

鋼鉄の城に囚われたばかりのキリトはとにかくアスナの為で動いていた少年だと知っているのはエギルの他に思いつくのは「にゃはは」と笑う情報屋くらいだろうか。アスナにとって自分が不必要だったり余計な危険を招く存在となったらすぐに傍を離れる覚悟を持っていた程に主体は彼女だった。それが今は自らの意志で彼女の隣に立ち、自分の傍に彼女を引き寄せ離そうとしないのだから大した変化である。

 

「アスナがいれば、お前はどんな世界にいてもちゃんと俺達が知ってる黒の剣士でいてくれそうだな」

 

目元には幾分赤みが残っているもののエギルの言葉の真意を測りかねているのか平常を取り戻した純黒な瞳は、何を今更当たり前のことを……と言いたげに、きょとんと見開かれていた。そんな未だ少年らしさが残る面立ちを可笑しそうに眺めていたエギルだったが、ふぅっ、と軽く息を吐きもう一度アスナの寝顔を確かめてから口を開く。

 

「まぁ、お前がブレてないのはいいんだがな。会見でのあの発言を聞いた世の中の一般人という括りのその他大勢はアリスの気持ちを応援しようって空気になってるのは……気付いてるか?」

「は?、なんでだ?、その他大勢は関係ないだろ?」

 

当事者のキリトとしては余計なお世話である。

軽く肩をすくめたエギルは皮肉な口調で「関係がないからさ」と言うと、突然「『人魚姫』って話は知ってるだろ?」とアンデルセン童話を持ち出した。

 

「詳しいわけじゃないけど、人魚の姫が人間の王子に恋をする話だよな?」

 

恋をした人魚姫は自分の声と引き換えに人間の足を手に入れる。そして王子と再会し一緒にお城で暮らすものの結局王子とは両想いになれず最後は海の泡となってしまう……そんな感じじゃなかったか?、となんとか思い出せる部分を引っ張り出したキリトにエギルは「ああ、大筋は間違ってない」と肯定する。

 

「『姫』が付く海外の童話で王子とめでたしめでたしにならない話って珍しいから覚えてたんだ」

「問題はそこだ。人魚姫を中心に描かれてるから読んでるこっちとしては好きな人に会いたい一心で海から陸へとやって来た人魚姫には王子と幸せになって欲しいって思うだろ」

「普通はそうだろうな」

「だけど王子は人魚姫より他の女を選ぶ。人間の姿になった人魚姫に優しく接して共に楽しい時間を過ごしても王子は人魚姫を愛さないんだ。読み手としては益々人魚姫が可哀想になる。異種族や身分違いがテーマの物語は最終的に互いの間に友情や愛情が成立して完結するとこっちも読後感がいいからな。だけど王子にしてみればその他大勢は黙っててくれって話だ。別に人魚姫に好きだと告白されたわけでもない、まぁ、そこは人魚姫が喋れないからな。それに王子が結婚した相手は元々王子が気になっていた女性だから王子を中心に物語を見れば偶然出会った女性を忘れられずにいたら、なんと結婚相手がその女性だったっていう運命的な物語になるわけだ。ただその途中で声の出せない他の女性を助けたってエピソードが入る程度の、な」

 

そこまで聞かされればキリトもエギルの言いたい事がわかってきた。

アンダーワールドという異世界からたった一人でやってきた美しい少女が世界の垣根を越えてリアルワールド人に好意を抱いている……そんな物語のような出来事が現実に起きていると知ればその恋が成就する方が盛り上がるに決まっている。たとえその相手に恋人がいようと関係ない、当事者達の気持ちなどお構いなしでよりロマンチックな展開を期待するのはその他大勢が無関係という立場だからだ。

 

「アスナもその他大勢が相手じゃどうしようもないだろうしな。ましてやアリスの発言がこんな事態を狙っての事でないのも理解できてるし、お前に何か言うのも違うとわかってる。それに自分の気持ちを抜きにして合理的に考えればアンダーワールドとリアルワールドの架け橋となるにはぴったりだろ、お前ら」

 

そういう所まで感情を制御して考えが及ぶんだから、頭が良いのも考え物だ……と気難しげに眉根を寄せているエギルの耳に歳相応にふて腐れた少年の声が、とんっ、と落とされる。

 

「それじゃあオレの気持ちはどうなるんだよ」

 

必死の思いで海から陸へやって来た人魚姫なんだから、王子は好きにならなきゃいけないのか?、本当に好きな人を諦めても?、そんなのは違うと童話でも語られてるのに……たいそう不機嫌顔になってしまったキリトにエギルは一言「そうじゃない」と険しい表情を解き柔らかく諭した。

 

「お前の気持ちを信じてるから何も言わないんだろうが。それでも何かいつもと違う所とか、気付いてないか?」

 

聡明と言っても十代の少女だ、不安にならないはずはない。キリトは既に終わった物として認識していたようだからそれが答えなのだが、アリスのまっすぐさを知っているだけに完全に切り替えはできないだろう。一方、キリトも最近のアスナの様子を振り返って「もしかして…」と何かに思い至る。

 

『キ、…和人くんっ。ごめんね、教室まで来たりして。午前の授業、早く終わったから……お昼食べに行こ』

『今日は雨だから電車でしょ?。帰り、駅まで一緒していい?』

『キリトくん、コヒル茶を再現してみたの。味見してくれる?』

『今度ね、ALOで限定クエストに付き合って欲しいんだけど……』

『おやすみなさい、キリトくん。今夜はもう遅いんだからログインしないでちゃんと寝てね』

 

確かにアンダーワールドから戻って来てこれまで以上にアスナが寄り添ってくれている自覚はあったが、それがあまりにも心地よくて、あの世界での出来事を思い出したキリトが再び自分のフラクトライトを傷つけないよう「大丈夫だよ」と手を引いてくれている感覚だったのだが、それだけではなかったのかも、と確かめるようにキリトは振り向いた。ブランケットに包まれたアスナの寝顔はキリトの傍にいるせいか、穏やかそうに見えるが心からの安堵はない。

 

「助かった、エギル。話してくれて」

 

カタッ、といきなり椅子から立ち上がったキリトはもうエギルを見ていなかった。アスナの元へ足早に近づくと、その勢いを殺してゆっくりと屈み込みそっと彼女をブランケットごと横抱きに持ち上げる。小さな顔を自分の肩口に寄りかからせて安定を得ると、僅かな震動が届いたのかウンディーネ特有の耳がぴくんっ、と震えた。

 

「寝室に移動する……もう少ししたら起こしてログアウトさせようと思ってたけど、オレも今夜はこっちで寝るよ。なんだか《現実世界》のベッドで寝るよりよく眠れるんだ。きっと向こうで二百年間、いつもアスナと一緒に寝てたからかな」

 

覚えていないくせになぜか自信を持って言い切るキリトの姿にエギルは「ああ、そうしろ」と言うしかない。そうやって何度でもキリトが感情のままに手を伸ばすのはアスナなんだと伝えればいい。

少しあどけない寝顔を守るように慎重に運んでいたキリトだったが、制し切れていない揺れ故かさっきよりもぴこぴことアスナの両耳が反応し始めた。程よい弾力のある柔らかな耳の感触とそこを甘噛みした時のアスナの反応が否応なしに思い出されて、キリトは「あ、やばい」と足を止める。

 

「んぅ…ふうぅ……キリトくん?」

 

予感したとおり長い睫毛が数回軽く瞬いた後、ゆっくりと瞼が持ち上がって澄んだ湖水のように潤んだ瞳が現れた。今の状況を把握しきっていないものの、目の前にいるのがキリトなら自然と笑顔になるのがアスナだ。そんな花が綻ぶような笑みを向けられてキリトもまた素直に目を細める。

 

「寝室に運んでる途中なんだ。そのまま寝てていいよ」

 

「んー」と甘える声と一緒にブランケットの端から細い両腕が伸びてきてキリトの首に巻き付いた。

顔を接近させてまるでマーキングでもするように頬をすり寄せてくる彼女に対し「アスナ」と名を呼ぶキリトの声には存分に愛しさが含まれている。

 

「今日は疲れてるだろ。オレもこっちで寝るから」

「もう、眠くない……」

 

いまだ頭が回っていないぼんやりとした表情のまま何を舌っ足らずで言っているのか、と笑えばアスナはキリトに回している腕にきゅぅっと力を込めた。

 

「今日はキリトくんと一緒にいられなかったし……だからもう少し……」

 

女子集団がログハウスに帰って来てからリズ達と共にキリトとアスナも居たのだが……アスナの中では二人きりに意味があるらしく、そんな可愛らしいおねだりも普段なら口にしなのがわかっているから、キリトはこっそりと「ますます、やばい」と呻く。

「よっ」とアスナを抱え直して更に密着度を高め、息を吹き込むように耳元で囁いた。

 

「オレはいいんだけどさ……アスナ、まだそこにエギルいるぞ」

「え!?」

 

一瞬にして覚醒したらしいアスナの顔は完全に固まったまま色味だけが鮮やかな赤色に染まって、最後に頭頂部からぽわんっ、と湯気が立つ。

あ、そのエフェクト残ってたんだ、と懐かしく思っていると、声も出せずキリトの肩に穴をあける勢いでグリグリとおでこをこすりつけてくるアスナにエギルが「気にするな、アスナ。そうやって素直に甘えてればいいんだ」と朗らかに言葉を掛けた。気にするな、が何を指しているのか、アスナがすぐに理解したかどうかは分からないが今の状況がキリトに甘えているのははっきり自覚してグリグリが高速になる。

すっかり目も覚めたようだし、本人も「もう、眠くない」と言っていたから二人きりにさせてやるにはエギルがログアウトすればいいだけの話なのだが、アスナを寝室へ運び込もうとしているキリトは背中だけでも上機嫌なのが分かって、エギルはやれやれ、と鼻から息を吐いた。アンダーワールドでPoHによる残虐な戦闘行為が繰り返されている中、目覚めたキリトが彼を慕う大勢の仲間達を背にして最初に声に出したのは「ありがとう」という感謝でも「ごめん」という謝罪でもない……「ただいま、アスナ」というたった一人に向けての言葉だった事を思い出して、エギルは笑いながら「じゃあな」とウインドウのログアウトボタンをタップしたのだった。




お読みいただき、有り難うございました。
ホームシックをアンダーワールドでは懐郷症と言うくだりは
原作の「ムーン・クレイドル」編からです。
ゲームにはなってるんですよね、アニメ化して欲しいなぁ。
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