ソードアート・オンライン《かさなる手、つながる想い》   作:ほしな まつり

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結婚後、明日奈と同じ職場の水嶋や莉々花・リンドグレーンとの
エピを中心としたお話です。
「みっつめの天賜物」をふまえていただくとわかりやすいかも。


慕われ、想われ、伝われ

結城明日奈の職場の後輩、莉々花(りりか)・リンドグレーンは自分の携帯端末のビデオ通話画面に映し出されている光景に内心「なんでデスか?、どうしてデスか?、これが当たり前なんデスか?」という疑問と疑惑とその他諸々の感情を渦巻かせながら、それでも画面の向こうでちょっと心配そうな視線を送ってくる大好きな先輩に安心して貰えるよう精一杯の笑顔で会話を続けた。

 

「それでここが依頼された駅ビルの前の広場なんデスけど……明日奈先輩、見えますか?」

 

自分を映していたカメラを切り替えて、周辺の様子が伝わるよう端末をゆっくりと水平に回す。

画面は地方中枢都市へのアクセスも悪くない比較的大きな駅前を映しているが、その規模の割りには夕刻を過ぎた今、人の往来は多いとは言えず、いまひとつ賑わいに欠けていた。

送られてくる画像を確認した明日奈もまた同様の感想を抱いたらしく「うーん、数年で結構変わっちゃったのね」と残念そうに呟いている。

今回、莉々花に任された仕事は駅に直結してるビル内の商業施設エリアのリニューアルにおけるコンサルティングだ。そこで実際現地に赴き現状把握をしているのだが、なぜその現場を明日奈に報告しているのかと言えば、数年前に行われた駅前の大規模再開発が産休を終えて職場復帰をしたばかりの彼女も参加した一大プロジェクトだったからである。その時はドーナッツ化現象に乗じて比較的若い夫婦層の移住を狙い就業時間後の充実が得られるような企業のテナント誘致を主体に進め成功を収めたかに見えたのだが、その後、更に郊外へと沿線が延びて大型ショッピングセンターやアミューズメント施設、海外資本の量やサイズが日本とは桁違いのスーパーマーケット等が次々と参入してきて、少し車を走らせれば豊かな自然の中、アウトドアも楽しめるということで莉々花の今いる場所はドーナッツの穴部分になりつつあった。

 

「駅前開発と同時進行でインフラ整備もお願いしておいたのに……」

 

そちらは公共事業となる為、残念ながら当時の明日奈も役所の担当者に指示をする立場にはあらず、プロジェクト終了時に念を押すくらいがやっとだったのだ。結局、移住者からはその点で評価を下げられ通勤用電車の改善とリモートワークの浸透も手伝って定住意識を持つには至らず再び住民の数は減少傾向になっている。そこで今回の駅ビル商業エリア全体の改装が決まったわけだが……。

 

「結局この駅の利用者や近隣住民の買い物客データを見ると二十代、三十代が多いって感じじゃないんデスよね」

 

その年齢層をターゲットにしていたテナントが主体の駅ビル内は当然だが撤退する企業が相次ぎ、それが集客数に影響を及ぼすという悪循環に陥っている。

 

「なので割合としては小売業を減らしてデイタイムの利用者を増やすために会員制のヘルスケア関連のスタジオやカルチャー系にシフトチェンジする方向が有力で……」

 

と説明しながらも莉々花の頭の中は日中の打ち合わせ内容を振り返りつつ心の内では明日奈の現状に混乱し続けていた。

明日奈は既に職場から自宅に帰宅した後で彼女の背後には温かみのある小物や家族写真の入ったフォトフレームが見えるから場所はリビングなのだと推察できる。けれどラップトップPCで後輩からの報告を聞いている明日奈の背とソファの間に存在する物体に莉々花の疑問符は止まらなかった。

それは……ソファに座って自分の足の間に彼女を収め、片腕を彼女のウエストに回し、もう片腕で小さな頭を固定している明日奈の夫、桐ヶ谷和人その人だ。

ひょんな偶然から自分の憧れであり自慢の先輩、結城明日奈の結婚相手が名前だけは広く有名で、けれど実体が全く表に出てこない存在すら不確定とされていた都市伝説級の人物、桐ヶ谷和人だと知った莉々花だが、第一印象が「大好きな先輩に突然抱きついた不審者」だった為に、現在、端末画面に映っている状況に正直「やっぱり不審者デス」としか思えていない。

そんな莉々花の思いが伝わったのか、和人は明日奈と莉々花の会話など聞いていない様子だったが、明日奈の頭を数回撫でながら肩口に顔を押し付けて首筋を、すんっ、と嗅ぐと「まだ終わらないのか?」と言いたげな無愛想な一瞥を送ってくる。

その瞬きほどの短い視線の交差で莉々花の中のゴングが鳴った。

この通信は莉々花が我が儘を言って明日奈の時間を奪っているわけではない。

元々は再開発メンバーだった明日奈に今回の改装企画も、と持ち込まれたのだが、今手がけている仕事が手一杯でとても地方まで足を運ぶ余裕がない事と前回より内容の対象範囲が小さかった事から莉々花を担当にして明日奈をオブザーバーに据える体制で受けた依頼だからだ。とは言え莉々花が単身で請け負う内容としてはこれまでで一番複雑で各方面への同時進行が重要となる為、明日奈への相談を兼ねた報告は逐一する取り決めになっている。

昨日は初日と言う事もあって午後から顔合わせを兼ねた簡単な集まりに終わった。企画の意図と方向性、規模に予算、現状と問題点など大まかな全体像を把握するだけだったから本格的な話し合いは今日からで、だからこそ明日奈からも「何時になっても構わないから連絡してね」と言われていたし、莉々花もそのつもりだった。ここ数年、変化が一番大きかった夕方以降の駅前の実状を生で見てもらった方がいいとわざわざ現地まで来て端末を掲げているのは莉々花がこの依頼に全力で取り組んでいるからだ。「やっぱり結城明日奈に担当してもらいたかった」と思わないよう、それにこの仕事が成功すれば確実に自分の自信にも繋がる。

それなのにっ、だ。こっちは朝からミーティングルームに缶詰で昨日顔と名前を覚えたばかりの担当者や関係者達と意見を交わし、時には衝突し、今日だけでは結論が出ずに保留となった問題点も少なくなく気の休まる暇もないまま一日を終えて宿泊しているホテルに戻る前に現地まで足を伸ばしていると言うのにっ、桐ヶ谷和人は自宅のソファで自分の大好きな先輩を囲い込んで見せつけるようにこちらを煽ってくるのである。

加えて邪魔者を見るようなあの目はなんデスかっ、と莉々花はつい端末を持つ手に力が入り、ミシッと鳴ってはいけない音が鳴った。

自分に向けられたほんのわずか一瞬のあの黒……「腹黒の黒デスっ」と目の色を他の身体の色で例えるという器用さで、明日奈を通り越しスウェーデン人の母譲りである瑠璃色の瞳で和人を睨み付ける。

そんな怨念じみた視線に気付いているのかいないのか、和人は相変わらず明日奈の身体を包み込むように密着させて手と額で彼女の頭を挟んでいた。明日奈にコールしてビデオ通話が繋がった時から既にこの状態だったので今更と言えば今更だし、最初に「ごめんね、莉々花ちゃん。気にしないで」と前置きされているから莉々花からは何も言えないのだが、それでもさすがに居たたまれなくなったのか明日奈の笑顔もどこかぎこちない。

いくらスキンシップ過多の夫婦でも仕事の会話中なんデスからもうちょっと遠慮したらどうなんデスかっ、桐ヶ谷和人っ……とハーフである莉々花が過度なスキンシップを咎め、更に純日本人の和人に遠慮を要求して鬼気迫る目力を発揮しているのだが、当の本人はどこ吹く風だ。

先輩だって恥ずかしさで顔が赤くなってるのに、空気読めないんデスかっ、と威嚇じみた目つきになると小柄な体躯も相まって、まるで……「毛を逆立てている猫だな」と和人は明日奈のPC画面から間違いなく自分を標的にしている妻の後輩を視界の端に収めながらぼんやりと思った。

もちろん明日奈が職場で目を掛けている後輩なのは知っている。

もともと面倒見の良い性格だから男でも女でも慣れない環境に戸惑っている相手へ出来る限りのフォローは当たり前だと思っているし、困っているのを見ればアドバイスだったり、適切な判断で手伝いもする……ただそれが莉々花・リンドグレーンにとっては救いの手を差し伸べてくれた女神のようなタイミングだったのがここまで傾倒された理由だ。

和人は十代の頃から知っている華奢で、それでも柔らかく抱き心地抜群の己だけの存在を、よいしょ、と抱え直して「早く終わらせてくれ」と願いながら栗色の髪に指を潜らせ労るように梳き始める。それを見た莉々花の眉がぴくっ、と痙攣した事など全く意に介さずに……。

 

 

 

 

 

莉々花・リンドグレーンが今の職場の新入所員となって半年の研修を受ける際、指導担当になったのは明日奈、ではなく明日奈と同期の水嶋という身長は成人男性の平均値だが細身で小顔、髪も短めで妙に顔立ちがハッキリしているからラフな服を着せれば十代に見える男、だった。ただ外見に反して常に冷静で物腰は非情に柔らかく丁寧、角のないリームリムのメガネの奥はいつも柔和な弓形を描いている……のはクライアントに対してだけで、そんな二面性を持ちながら明日奈とはまた違ったタイプの優秀さでバリバリと仕事をこなしていた彼が指導に就くと聞いて事務所内の人間達は明日奈も含め一抹の不安と疑問を覚えたものだ。あの仕事量、新人が付いていけるのか?、だいたいなんで水嶋?、と。

実は水嶋からの強い要望による人選なのだが……それは本人と所長以外知る者はいない。

ともかく研修が始まってみれば大方の予想通り、莉々花は「多忙」の二文字では言い表せないほど水嶋に振り回された。出勤してから退勤するまで、昼時さえ事務所内の水嶋の向かい席で食事を口に運びながらPCを操作しているので他の所員と交流を持つ暇さえない。

そして研修が始まってもうすぐ三ヶ月を迎えようとしていたある日、事務所には珍しく水嶋と莉々花、それに明日奈の三人しか居らず、それぞれが自分の仕事に没頭していた時だ、携帯端末で会話を終えた水嶋がいつものように莉々花を「莉々」と呼ぶ。

「勝手に省略形で呼ばないでください」と再三訴えているが水嶋は一向に改める気はなさそうで、取り敢えず少しだけ瑠璃色の目を不機嫌にして「はい」と応じると矢継ぎ早に指示が飛んできた。

 

「今やってるやつ、一旦止めろ。それは明日の昼までに仕上げればいい。先週の打ち合わせで決まったプラン、変更になった。そっちのデータ収集優先だ。今、詳細をそっちに送るから十七時までにまとめて。それとこの申請書、ミスがある。お前、俺より先に見たんだよな?、チェックが甘い。一緒に送るから先方に訂正させろ。昨日の戦略策定は理解したか?、それなら……」

 

研修期間中、これまでの莉々花は誰が見ても「優秀」と言っていい働きぶりだった。

帰国子女やハーフといった自分ではどうしようもない形容詞もハンデとはせずに隠すことなく臆することなく、ただひとこと「そうデス」と明るく笑って肯定する強さを持った新人だった。だから明日奈をはじめ同じ事務所の人間達も必死に水嶋に付いていく彼女を視線で応援していたのだが……莉々花がいっぱいいっぱいの状態だったのは水嶋もわかっていた。ただ、その状態をある程度キープする力がこの事務所に籍を置くなら必要で、それをつけさせるのが指導担当の自分の役目だからと毎日彼女を追い詰めるように仕事を振ってきたのだが……「見誤った」と水嶋は一瞬で悟った。

今までの莉々花は怒ったり、笑ったり、疑問で眉を寄せたり、納得して嬉しそうだったり、悔しがったり、喜んだり、どんな表情でも水嶋がこっそりと目を細めてしまうものばかりだったのに、今の彼女は大きな瞳からぽろっ、と一滴、瑠璃色が滲み出たような涙をこぼして、遅れてそれに気付いたのか驚いた顔で固まっている。

 

「莉々っ、落ち着けっ」

 

水嶋が咄嗟に飛ばした声は鋭くもあったが焦りの為か少々上ずっていた。

メガネの奥はいつだって余裕を示す曲線で、仕事の場においてはどんな場面でも紳士然とした態度を崩したことのない男が珍しくも素の顔で慌てている。

落ち着いて一つ一つ処理していけば莉々なら大丈夫だから、と言いたかったのだろうが指導役からの叱責と捉えたのか、莉々花はビクッと身体を震わせた。そうじゃないっ、と言葉を重ねる前に彼女の肩を背後からそっと細い手が撫でる。

 

「莉々花ちゃん、何も考えなくていいから、身体の中の空気も力も全部吐き出して……」

 

嵐が過ぎ去ったように痛い雨も冷たい風もどこかに消えて、明るい光の中で暖かな空気に包まれた感覚を覚える声に莉々花は自分が息を止めていたのだと気付く。両肩を支えられた安心感に任せて息を吐くと同時に全身の力も抜いた。

 

「全部出せたかな?、今度はゆっくり吸い込んでね」

 

肩にあった柔らかい手はそのまま莉々花のふわふわ髪の上から両耳をゆるく塞いで全ての音から彼女を守り、深く呼吸がしやすいように顔を軽く上向ければ溢れた涙が頬を滑り落ちる。

 

「もう一回、大きく深呼吸しようか」

 

スーハー、と息を整えている莉々花を上から見守っていた明日奈は口を開きかけたままこちらを凝視している同僚の水嶋にもまた慈愛のこもった目で笑いかけた。

 

「全部を処理し切れてないのに更に『落ち着け』のタスクを増やしたら、莉々花ちゃん余計に混乱しちゃうから」

 

さっきの場面、莉々花に指示を連打した後キャパオーバーにうまく対処できず、もうひとつ「落ち着く」を追打した事に気づかない水嶋を見て静観していた明日奈が間に入ってしまったが、研修期間中は関与しないのが基本だから「助かった」と感謝する水嶋に明日奈も緩く頭を振る。同僚だし、明日奈が妊娠、出産、育児休暇中は水嶋が殆ど対応してくれたので研修に入る前も新人が女性と知って「何かあれば相談してね」と伝えていたのだ。

取り敢えず場が収まった事に同期の二人が、ほっ、としていると何回か深呼吸を繰り返して落ち着いたかに思えた莉々花がいきなりくるりと椅子を反転させて明日奈の腰元にしがみついた。

 

「明日奈せんぱーいっ、もうっ、無理デスっ。水嶋さんてバカみたいに仕事するんデスよっ、信じられませんっ」

「バ、バカって……莉々の方がおばかだろ」

 

誰の為にいつもなら断る分野の仕事まで受けてると思ってるんだ、と告げそうになった本音をぐぅっ、と意地で引き留める。それに弱音を吐くなら俺に吐け、結城を抱えるな、それに今までは「結城さん」呼びだっただろ、と莉々花を睨んでいると、ちらっ、とこっちを振り返った指導対象者は目が合った途端、すぐに向きを戻し一層悲壮感が増した声で「明日奈せんぱーいっ」と細腰を抱きしめてグイグイと頭を押し付けている。

本気で泣いてはいないが…全身全霊で莉々花に泣きつかれた明日奈は「え?、なんで?」と腰をホールドされたまま戸惑いにはしばみ色の瞳をぱちぱちと見え隠れさせていて……

 

『その時からです。莉々が結城を大好きになったのは』

 

半年間ほぼ毎日面倒見てた指導役の俺よりもですよ、と全く笑っていない眼鏡越しの微笑みがちょっと怖かった……と和人は水嶋と偶然会った時に聞かされた話を頭の隅で思い返した。

ここぞ、という瞬間を逃さずに的確に突く……それは文字通り生死を賭けた戦いにおける作戦指揮官としても、それに挑む集団のサブリーダーとしても、そしてキリトさえ及ばない剣技を習得した細剣使いとしてもアスナである明日奈には当然のことだ。

なにしろ十代で培った経験の量が違う、背負った責任の重さが違うのだから状況の判断力や養われた視野の広さなど同年代と比べる方が間違っている。

その能力を平然と当たり前に発揮するから明日奈の周りには人が集まる。

『アスナってつくづく人たらしよね』と評していたのは和人がキリトとして「ガンゲイル・オンライン」というゲーム世界で知り合ったスナイパーだが、その彼女もまたキリトを通してアスナと知り合いすぐに愛称で呼ばれお泊まりまでする仲になった、要するに言葉は悪いがたぶらかされた一人である。

 

「オレの奥さん、オレなんかよりずっと格好いいからなぁ」

 

小声でもごもごと顔を栗色の髪にくっつけたまま呟いてみたら、流石に明日奈が「ん?」と視線を流してきたのがわかったので、なんでもない、が伝わるように額を押し付けたままグリグリと左右に動かした。釈然としない空気を出したままそれでも今は、と莉々花との会話に意識を戻して二人の通話が再開する。

 

「その駅がある場所、県境が近かったわよね?」

「そうデス。駅の反対側を十分も歩けば隣の県デス」

「覚えてる?、去年、スウェーデン大使館にお邪魔するのに持って行くお花の相談をした事があったでしょ?」

「あ、はい。やっぱり一番はゼラニウムで、でも国旗にちなんで青い花も人気デスって言いましたね」

 

そのアドバイスを受けて明日奈は青紫色よりのゼラニウムに桔梗や青いガーベラを足して、後は白い花で全体をまとめ上げた花束を用意したのだ。莉々花は大使館と聞いて驚いたが、明日奈は友人宅を訪れるような気安い口調だったのですぐに聞かれた花を答えて終わったのだが、後で水嶋に尋ねると「結城は企業依頼より個人依頼の方が多いから。大使館も多分個人だろう」と教えてくれた。

 

『大使館勤務の人なんデスかね』

『莉々はやっぱりおばかだなぁ。それなら大使館に呼ばないだろ。個人的な客を大使館に招ける人間は?』

『え…まさか……』

『十中八九、大使その人だよ』

 

その頃には莉々花も明日奈の仕事ぶりが他の所員と違う事に気づいていたが、この事務所は個々の所員の方針を重視しているので水嶋も別段気にした様子もなかった……と言うより一国の大使がクライアントでも「結城だから」で全て解決している気がする……から、もう「そうなんデスね」と遠い目をして自分を納得させたのだ。

あの時、出来上がった花束は見られなかったが、もうひとつ明日奈が手土産として用意したお菓子は味見と称して事務所にも持って来てくれたので莉々花は懐かしい味を堪能できた。

 

「あの時の『カネルブッレ』、すごく美味しかったデス」

「ありがとう。また機会があれば作るわね」

 

聞き慣れない単語に和人の漏らした「カネル?」という吐息のような疑問の声は内緒話をする距離状態だけに、簡単に明日奈の耳に吸い込まれる。

 

「和人くんも食べたよ。シナモンロール。覚えてない?」

 

完全に身を任せているので動かせる視線だけで明日奈が問いかけると馴染みのある単語に言い換えられたお陰で「ああ、あれか」と記憶が一致した。

それは仕事が休みの昼間だった……リビングで寛いでいたら良い匂いが漂ってきて、しばらくすると明日奈が「食べてみて」と差し出してくれたのが白磁の皿にのったシナモンロール。偶然にもその前の週に遊びに来た直葉が、近くに新しいベーカリーが出来たからとお土産に持って来てくれたパンの中にもシナモンロールはあったのだが、妻の手製のそれは何だか「異国の味」という表現が真っ先に浮かんだので妙に覚えていた。

まぁ、それもそのはずでシナモンロールはスウェーデン発祥と言われているだけあってかの国では「カネルブッレ」の名で親しまれている。それに味や香りをグレードアップさせる為にカルダモンをパウダーではなく、種をすり潰して生地に混ぜ込むのが主流なのだが香辛料が強めの本場のシナモンロールは日本では簡単に手に入らない。

そうなると、ないなら諦めるんじゃなくて自分で作ればいいんだわ、という発想の明日奈だから休日を利用して自らスウェーデン風のシナモンロールを作ったのだ。

そうして持参した花束とカネルブッレは大変好評だったわけだが……

 

「その時にね、今度新しく郊外にキャンパスを増設する大学があって、ちょっと珍しい北欧学科を作るから北欧四カ国の大使館にも協力依頼が来てるってお話を伺ったんだけど、新しいキャンパスの候補地のひとつが莉々花ちゃんが今いる場所のお隣の県で、確か県境あたりなのよね」

「それ…本当デスかっ、明日奈先輩っ」

 

隣県とは言えもしその場所が今回リニューアルする駅ビルからバス一本の距離なら人の流れや駅の利用者、それに学生向けの不動産なども考慮して多方面から企画を考え直さなければならない。

今日一日の疲れと明日奈にぺったりしている和人に対する剣呑さが浮かんでいた瑠璃色の瞳に純粋な力強さが戻って来る。

 

「ここからは莉々花ちゃんに任せるから、確認作業は丁寧にね」

「はい。これからホテルで出来るとこまでやって、結果次第では明日、必要なら直接隣県まで行くよう要請します」

 

いきなり莉々花の仕事量は倍増するだろう。

 

「大変な時は、一旦止まって深呼吸だよ、莉々花ちゃん」

 

明日奈もまた忘れてはいない研修期間中の思い出を持ち出されて、莉々花は恥ずかしそうに、それでも元気良く「はいっ」と頷くと「また明日報告します」と言い画面の向こうで手を振ってビデオ通話は終わった。

 

「…………アスナ?、大丈夫か?」

 

PC画面から後輩の姿が消えた途端、芯をなくしたように明日奈の身体が弛緩したのがわかる。そうは言ってもそれまでずっと支えるように抱きしめていたので負荷がほんの少し増した程度だ。髪を梳いていた手で軽く彼女の前髪をはらい額にぴたりと手の平をくっつけ、もう一度首筋に、すんっ、と鼻を寄せる。

 

「熱、少し上がったな」

「そう、かも……でも、このくらいなら……」

 

問題は無いと少し荒めの息を吐き出す明日奈に自然と和人の唇が不機嫌を表した。額に触れていた手をそのまま下ろしてはしばみ色を隠す。

 

「目眩は?」

「治まってるよ」

「それは気を張ってたからじゃないのか?」

 

仕事先ではそうでもないらしいが、家に戻ってくると明日奈の足取りは途端に覚束なくなるから最近は和人の過保護が急速に悪化している。微熱のせいでいつもより感じる明日奈の匂いと自分の内ですっかり身を委ねているいじらしさに庇護欲も相まって、和人は彼女の視界を覆ったままもう片方の手を下腹部にあてると頬をすり寄せて「オレが守るから」と今までに何度も誓っている言葉を込めた。

 

「まだ全然わらからないでしょ?」

「まあ、そうなんだけど。なんだか無性にアスナに触れたくなるって言うか、抱きしめたくなるんだよなぁ」

 

なに、それ?、と理解出来ない感覚と同時に、ああ、それでなのね、と納得出来た部分もあって明日奈は「ふふっ」と笑いを漏らす。身体は本調子ではないが莉々花からの報告は逐一受け取っておきたいからビデオ通話中和人に傍に居て欲しいと頼んだら、すぐに抱きかかえられて焦りはしたがやはり自宅のせいか途中から体温が上がって身体を支えるのが辛くなったので結果的には会話に集中できて……向こう側の莉々花は違ったようだが……やっぱり一番頼れる存在だと実感して新しい命の宿っているそこに自分も手を重ね、「ありがとう。心配かけてごめんね」とお返しに頬を揺らす。

 

「今のところ和真の時に比べれば平気そうで、そこはホッとしてる」

「うん、今回は大丈夫そう」

「でも油断は禁物だからな。もう仕事は増やさないでくれよ」

「今進行中のお仕事が完了したらお休みに入るってちゃんと所長さんにも言ってあるし……」

 

多分そのまま事務所は辞めて仕事を再開するならフリーでやるつもりなのだが、休暇中でも連絡を取り合う必要があるので「しばらくは籍を残しておくよ」との所長からの申し出でを有り難く受けるつもりだ。

そもそも現在抱えている仕事を終わらせ、受ける予定だった依頼に対応するだけでも結構時間がかかる。明日奈自身はまだまだ普通に動けると思っているようだが和真を妊娠した時はいきなり入院だったので和人が心配性になるのも無理はない。

 

「少し横になるか?」

 

返事を待たずに腰掛けていたソファへゆっくりと明日奈を横たわらせる。

 

「え!?、そろそろ晩ご飯の支度しなきゃ」

「食事の用意はオレと和真も手伝うから」

 

小学生になった和真はすっかり行動範囲も広がって、今日も「ただいまっ、ユイ姉」と言った後、十分間の間に「おやつ、いただきますっ」「美味しかった、ご馳走様でしたっ」「行ってきますっ」を順に言って出ていったとユイから報告があった。だから和真が帰ってくるまであと少しだけこうしていたい、と明日奈がソファから落ちないよう気をつけながら和人も寝そべってゆるくその肢体を引き寄せる。

重心を支える必要がないから抱き込んで圧迫しないよう明日奈の頭に軽く顎を当てて顔にかかっている髪を指で耳裏までそっと導いてやると、再び和人に包まれる事で絶対的な安心感が沸き起こり全身を満たしたのか、薄く開いたままの桜唇から「ふぁっ」と溢れ出た息が首に当たってこそばゆい。

一瞬肩をすくめて「ふはっ」と笑い、これくらいなら大丈夫か?、と妻の耳を弄りながら「さっきの子に休職の話は?」と問いかけると首元でぼんやりとした声が上がってくる。

 

「んー、まだ…所長さんと…水嶋くんにしか言ってない」

「そっか」

 

勤務先のトップはともかく同期の彼にも伝えてあるのか、と小さく引っかかるが、彼がずいぶん前からずっと一人の女性を狙っているのも知っているので栗色の髪に唇を押し当てて気持ちをならす。

 

「だから…莉々花ちゃん…誤解したかも」

「別に構わないさ」

 

明日奈はあくまで身重の身体を心配して和人があんな行動を取ったと思っているだろうが、和人にしてみれば莉々花は自宅で愛する妻と二人でいる空間に割り込んできたお邪魔虫みたいなものだ。誤解されたところで痛くも痒くもないし、何なら明日奈を「自分の大好きな先輩」と公言している彼女には、明日奈は「自分の大好きな奥さん」だとハッキリ言葉と態度で示しておきたいと前々から思っていたところだ。それでも仕事の話だからと何も言わずに我慢したオレを褒めてくれ、と甘える仕草で額同士をくっつければ僅か火照った肌に気持ちがよかったらしく明日奈の方から、そそっ、と触れあいを求めてくる。

 

「タオル、濡らしてこようか?」

「このままが…いい」

 

それなら、とうなじあたりに手を当てて熱を受け取り、じゃれつくように頬や鼻頭同士を点々と合わせていけば、耐えきれずに明日奈がクスクスと笑い出す。最後にその唇を封じてゆっくりと熱を共有し互いの愛しさを感じる戯れのような行為はいつまでも続いたのだった。




お読みいただき、有り難うございました。
そして一日投稿が遅刻しました、ごめんなさい。
さて、妊娠の話がメインではないのですが、まあ既に
オリキャラで娘の「芽衣」を出しているので、お腹の中に
いるのは彼女です。
そしてシナモンロール、私は好きです。
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