ソードアート・オンライン《かさなる手、つながる想い》 作:ほしな まつり
和人と明日奈が《現実世界》でも夫婦となってから17年ほどが経った頃のお話です。
既に二人の間には息子と娘がひとりずつ産まれております。
学校から帰ってくると、玄関に見覚えのない女物の靴を見て、和真(かずま)は首をかしげた。
いつもより勢いを殺して、伺うように「ただいま」と言いながらリビングに足を踏み入れると
オープンキッチンから母である明日奈の「お帰りなさい、和真くん」という優しい声と
かぶるように、リビングのソファに座っていた女性が片手を勢いよく挙げて「よっ、お帰り」と
迎えてくれる。
「ああ、リズさんだったんだ……お久しぶりです」
ペコリと頭を下げれば「んっ、お邪魔してまーす」と言って、にかっと笑い返してくる。
ここ一年ほどまともに顔も見ていなかった母の親友の元気そうな姿に、和真の中のよそよそしさも
急速に溶けて明日奈とよく似た、ふわりとした笑顔になった。
そして本人とは会っていないが、数ヶ月前に母親から聞いた彼女に関するおめでたい報告を
思いだし、気遣うように首をかしげる。
「出歩いて大丈夫なの?」
その言葉でリズは無意識に下を向き、自分の少し膨らんだお腹に手をあてた。
「うん、もう安定期に入ったしね。もともとつわりもそれ程ひどくなかったし。お医者さんにも
動くように言われてるのよ。まっ、ここなら何かあっても明日奈がいるし」
安心しきったように母を見るリズに、和真はやれやれと息を吐き出す。
「リズさん……いくらうちの母さんでも妊婦さんをどうこう出来ないよ。あまり母さんを頼り
すぎないでね。それでなくてもこのヒトは頼られたり任されたりすると無理をしがち
なんだから」
言われたリズはうんざりした表情でポソリ、と言葉を投げた。
「カズマ……アンタ、言うことがキリトにそっくりだわ」
それからお返しとばかり和真を上から下までしげしげと眺めてから、何が可笑しいのか、フンッと
軽く鼻で笑う。
「それにしても、相変わらずキレイな顔してるわよね。髪と肌の色は明日奈譲りで薄いのに、
瞳の色の濃さはキリトだからオリエンタルって言うか……」
そんな視線には慣れっこだと言わんばかりに、和真は余裕の笑みで肩をすくめた。
「まあ、正真正銘、両親なんだから仕方ないよ」
リズはニヤニヤと笑いつつ、目を細めてからかうように聞いてくる。
「高校で女の子に言い寄られたりしてるんでしょ」
親友の息子の焦り顔を見たいがゆえの発言なのだろうが、そんな問いかけに対して
やれやれといった微苦笑を織り交ぜた和真はとってきおきのネタを口にした。
「……言い寄られるって言うか、入学して一ヶ月もしてないのに、上級生の男子生徒から
『お姉さんを紹介してくれっ』とは言われたよ」
はっ?、という顔のリズが座るソファの横へ茶器を乗せたトレイを手にやって来た明日奈は、
困ったように笑いながら「もうっ、その話は」と和真にやんわり口止めをする。
「何?、何なに?、教えなさいよっ」
リズが意気込めば、和真としては是非とも披露したい内容なので、母からの制止も気づかぬふりで
表情をお得意の外面スマイルに変えて話を続けた。
「だから新学期で初めての授業参観に母さんが来たんだ。それを上級生がオレの姉だと勘違いして
交際を希望してきたという……」
はぁぁっ?、と悲鳴ともため息ともつかない息を吐き出したリズは、目の前のテーブルにお茶の
支度を始めた明日奈をジロジロと眺めて今度は嫌々ながらも納得したように頷いた。
「高校生の息子がいるってのに、この見た目じゃあね……それってキリトも知ってるの?」
「うん、夕食の時に話してたら、偶然、そこに父さんが帰ってきて」
「どうなった?」
いつの間にやらニヤニヤ顔に戻っている。
「一瞬固まって、すぐにガバッと母さんを後ろから抱きしめて、オレの事、もの凄い目つきで
睨み付けてきた。ついでに芽衣(めい)も『お母さんはもうお兄ちゃんの学校に行っちゃ
ダメっ』って大騒ぎさ。モニター越しにユイ姉が『大人げないですっ』って父さんを叱って、
母さんは芽衣をなだめ……うん、あれは結構おもしろかった」
普段の和真は穏やかなイメージが強いが、近しい人間は彼が父親の悪戯好きな部分をふんだんに
隠し持っていることを知っていた。母への交際申し込み話をしたのも、実は父親が帰宅したことに
気づいていたのでは、と勘ぐりたくなるところだ。
まだ小学校低学年の和真の妹「芽衣」は訳もわからぬ状態で巻き込まれていると思うと少々
可哀想な気もしてくる。
そんな騒ぎを面白がるところはさすがキリトの息子ね、とリズは苦笑いを浮かべた。
「相変わらず明日奈は溺愛されてるわね、キリトに……って言うか家族全員に、か」
「そうだな、父さんなんてオレがまだ幼稚園の時に『将来はお母さんをお嫁さんにする』って
言ったら、切り刻んでやろうか?、な視線でオレにトラウマを植え付けたくらいだし。あれで
完全に母さんを諦めたよ。でも妻としては父さんのモノだけど、母としては子供のモンだろ?」
「……って言うか、そこ、競い合うことなの?」
「バカな話はそれ位にして……」
優雅な所作でテーブルの上に茶器を並べ終えた明日奈がリズに紅茶を注ぎながら二人を
たしなめる。
「リズ、シフォンケーキは生クリーム、やめておく?」
「そうね、明日奈の手作りならクリームなしでも美味しいだろうし」
そのやりとりを聞いて首をかしげる和真に明日奈は微笑んでから説明を足した。
「つわりの時って乳製品ダメな人、多いのよ。リズはもうおさまってるみたいだけど
出先では用心した方がいいでしょう……和真も一緒に食べる?」
納得したように頷いてから、和真は「もちろん」と答えてから「部屋にカバン置いてくる」と
言ってリビングから退出した。
二階の自室で私服に着替え、洗面所で身ぎれいにしてから再びリビングに降りていくと、
リズは和真を待っていてくれたようで、目の前のシフォンケーキには手をつけず紅茶をすすって
いた。
「お待たせしました」と言いながら、リズの向かいのソファに腰を下ろすと、テーブルに
リズと自分の分しかカップが用意されていないことに気づく。
「母さん?」
キッチンにいるのかと声をかけてみれば、パタパタと廊下から足音が聞こえ、上着を羽織った
明日奈が慌てたように部屋に入ってきた。
「ごめん、和真くん、リズのお相手しててもらえる?」
「何かあったの?」
「うん、直葉ちゃんがりっちゃんのお迎えに間に合いそうにないって、今、連絡があって……」
ああ、またか……と和真は頭を垂れた。
父(和人)の妹、正確には従兄妹である直葉には幼稚園に通う娘がいる。
なぜか旦那や自分の実家より和人の住まいに近い場所に新居を構え、何かあると兄夫婦を頼りに
してくるのだ。兄妹なのだからそれは構わないと思うが……いや、思っていたが……
「直葉ちゃんもうちの母さん、頼りすぎ……」
下を向いたまま低く呟く声は目を閉じていたら和人と間違えそうなくらい似ている。
兄夫婦に長男が誕生した時、まだ二十代前半だった直葉から「『おばちゃん』って言われるのは
絶対にイヤっ」と懇請され、和真は小さい頃から叔母を『直葉ちゃん』と呼んでいた。
叔母の人なつこい笑顔を思い出しながら和真は腰を浮かせつつ母親に声をかける。
「いいよ、幼稚園のお迎えにはオレが行くから。母さんはゆっくりお喋りしてなって」
初めてではないこの展開は幼稚園側も了承している。伯母である明日奈が行っても、従兄弟
である和真が言っても園児の引き渡しに応じてもらえることは実証済みだ。
「ありがとう、でも、今、あの子、男の人がダメな時期らしくて。きっと大泣きすると思う
から……ちょっと行ってくる。三十分くらいで戻るから。ごめんね、リズ」
「いいって、いいって。私はのんびりさせてもらうから、ゆっくり行ってらっしゃい」
リズはひらひらと手を振って明日奈を送り出すと、玄関の閉まる音を聞いてから腰を下ろした
和真に向け、当然のように空になったティーカップを差しだした。
はいはい、と笑いながら母が用意していったポットからお代わりを注ぎ、続けて自分のカップにも
琥珀色の液体を満たす。ほどよい温度のそれをゴクリと飲み下してからほうっ、と息を吐き
出した。
「なんか明日奈も大変ねー。アメリカから帰ってきてキリトと結婚したと思ったら、すぐに
アンタを身籠もって……そうそう妊娠中も大変だったのよ」
「かなり長く入院してたってのは知ってるけど」
「うん、はじめは私達、明日奈が入院してる事も知らなくてね」
そう言ってリズは遠くの懐かしい何かを見るような表情で十六年以上も前の出来事を話し始めた。
ほんの数秒前まで和人を映していたはしばみ色の瞳が急速に輝きを失いカタカタと震え始める。
それに気づいた和人が病室のベッドで仰向けに横たわったまま無表情となった明日奈の顔に
ふわりと手のひらを近づけ、瞳に注がれる全ての光を遮断しながら、小さく「もう、目を
閉じて」と声をかけた。
こうなってしまうとすぐに意識も朦朧とし、眠りに落ちてしまうのだ。
最初の頃は虚ろな瞳のまま「大丈夫」と返していた明日奈だったが、そのまま目を開けていると
視界に映るものはぐにゃりと歪み、瞳の痙攣は全身にまで広がってしまうことを学習したせいか、
今ではこの症状がでると素直に瞼をおろす。
意識が落ちようとする寸前で、和人から「じゃあ、行ってくる」と告げられ、なんとか「うん」と
返事をしたつもりだったが、ちゃんと声が出ていたのか自信はない。頭の中では、その後に
「私も行きたかったな」と続いていたが、その頃にはすでに深い眠りについていた。
自分の体内に宿ったもうひとつの命の鼓動は医療機器を通さないと聞こえないくらい小さいが、
明日奈の心臓と共にとくん、とくんと同じリズムを刻みながら深く深く沈んでいくようだ。
明日奈が完全に眠ったのを確認すると、和人は立ち上がり、点滴のチューブに気をつけながら
腰をかがめて閉じられた瞳の上へといつものように唇を落としてから静かに病室を後にした。
和人と明日奈の結婚式から約四ヶ月後、御徒町の『ダイシーカフェ』には久々にいつもの
メンバーが集まっていた。《仮想世界》でもなかなか全員が顔を合わせる事は難しくなって
きていたが、今日はリズの呼びかけで半強制的な招集となっている。
社会人の集まりという事で時間もかなり遅めに設定した為、場所を提供したエギルは
かき入れ時とも言える営業時間帯をこの日ばかりは早めに切り上げ、貸し切り状態に
してくれていた。
既にリズを筆頭にシリカ、シノン、クラインは飲み物を片手に談笑を始めており、今回の
主役とも言うべきキリトの到着を待つばかりとなっている。
約束の時間まであと数分になっても現れないキリトに、時計を睨み付けながらイライラとして
いたリズの後ろで店の入り口扉の開閉を知らせるベルの音が鳴り響いた。
「キリト!、おっそーい!!」
聞き覚えのあるフレーズに出迎えられ、苦笑いとなる和人だが、こちらも「時間ちょうど
だろ」と言い返す。和人の後ろから直葉も、ひょこりと顔を出しいつもの明るい笑顔で
「こんばんはー」と挨拶をしながら入ってきた。
和人は「これでも仕事終えて、色々やってから、スグと合流して急いで来たんだぜ」と不明瞭な
説明をしつつカウンターのエギルに飲み物を注文すると、すぐさまクラインに後ろから
肩を組まれ「うげっ」とのけぞる。
一通り全員が近況などを報告し終わった頃、リズがゴホンッとわざとらしい咳払いをして
場を静めた。
「それじゃあ、今日の本題に入るわ……ズバリ聞くけど、キリト!、なんで私達、明日奈と
連絡が取れないの?!」
ビシッと人差し指を突き出され、思わずその指の進撃を押し返すように両手を並べた和人の
顔が引きつる。
「なんでって……まあ……」
「日本にはいるのよね?」
「……います」
「《現実世界》には……」
「います、います」
シャレにならない想像をすぐさま丁寧語で否定する。
その歯切れの悪い態度にイライラを再び募らせたリズは突き出した指を回収して、自らを
落ち着かせるように両手を固く握り締めた。
「確かに一ヶ月ほど前、明日奈から、しばらく連絡が取れないかもってメールは貰ったわよ」
その発言にシリカとシノンが同意を示すように頷いた。既に一ヶ月前からこうなる可能性も
考えていたのかと、改めて妻の手際の良さに和人は感服する思いだ。
「今までだって仕事で半月くらい連絡が取れないことはあったけど、今回はなんか違う気が
するのよ」
真剣な表情のリズを見て、さすがは親友と呼び合う仲だな、と感心すると同時に、自分の
大事な人にとってのその存在が頼もしくもなる。
そんな感慨にひたっていると、横にいた直葉が和人の脇をチョンチョン、とつついた。
「もう言っちゃいなよ」という催促だろう。確かに今日、この集まりに足を運んだのはみんなに
報告をするためなのだが……。いざ、となるとなかなか言い出しづらい内容であることが和人の
口を普段以上に重くしていた。しかしリズの表情を見れば、自分が躊躇などしている場合で
ないのは痛いほどに伝わってくる。
「心配かけてすまない。実は……」
そこまで言うと、その後は仲間の顔を直視しては言えない、とばかりに下を向いて言葉を続けた。
「明日奈の…………だ」
肝心の部分が全く聞き取れず、全員が怪訝な顔を突き出す。
「悪りぃな、キリト。よく聞こえなかったんだが……」
クラインが言えば、キリトは「だから」と言って繰り返した。
「明日奈の…………るんだ」
またも全員が首をかしげる。
次にシノンが苛立ったように冷ややかな声を投げつけた。
「もっとちゃんと言いなさいよ」
全員が今度こそ聞き漏らすまいと全神経を耳に集中させる。
「……だーかーらっ、明日奈のお腹ん中にユイの弟か妹がいるんだよっ」
「その時のキリトの顔、アンタにも見せてあげたかったわ」
思い出したように笑うリズの笑顔はとても素直で嬉しそうだった。元来照れ屋な和人のことだ、
妻の妊娠発表というのは、かなりの羞恥プレイだったろうと容易に想像がつく。
「それは、まあ、見たかった気もするけど……無理だよね」
「そうよね〜、アンタ、まだ明日奈のお腹ん中だったもんねぇ」
一変してケタケタと笑うリズは大きめに切り崩したシフォンケーキにぐさり、とフォークを
突き立てて一口で頬張る。リスのようにモグモグと咀嚼をした後、ごくんっと胃に収めれば
満足げに頷いた。その食べっぷりを見て和真も僅かに目を細める。
しかし紅茶を一口含んだ後のリズは表情を引き締めて続きを語った。
明日奈の妊娠……その報告は一瞬にしてその場を狂喜させた。
しかしその喧噪が収まってみれば、皆が一様に訝しげな表情となる。
代表として今回の発起人であるリズがその疑問を口にした。
「明日奈の妊娠と連絡がとれない事って、どういう関係があるの?……つわりが
ひどくて一日中横になってる、とか?」
「……まあ、当たらずとも遠からずってトコだな」
「そこまで言ったんだからじらさずにさっさと教えなさい」
スパッと射貫くような視線をキリトに向けたシノンの顔には明らかに不機嫌な色がのっている。
シノンにとってもアスナはかけがえのない友達なのだ。口にはださずとも随分と心配をして
いたに違いない。
「ああ……それが……うん……ええっと……」
「明日奈さん、入院してるんですよ」
見ていられない、といった風に直葉が横から口を挟んだ。予想外の告白に桐ヶ谷兄妹以外の
メンバーが一瞬言葉を失う。その間に病室のベッドで横たわっている明日奈の姿を思い
浮かべたのか、キリトが沈痛な面持ちで説明を始めた。
「明日奈が入院したのは半月ほど前だ。SAO時代に世話になった所沢の病院にいるから、
今はオレも実家から仕事に行ったり病院に寄ったりしてる。半月前に突然、家のリビングで
倒れて……今思えばその場にオレがいて本当に運が良かった。その少し前から明日奈は妊娠に
気づいていたようなんだけど、まだちゃんと産院で確認してなかったからオレにも教えてくれて
なくて。けど倒れる前から体調は良くなかったんだろうな。だからリズ達に連絡が取れなくなる
かもって知らせたんだと思う。来週には妊娠三ヶ月に入るところなんだけど……」
「ちょっと待って」
シノンが変わらず固い表情のままキリトの話を止めた。
「個人差もあるだろうけど、やっぱり入院の原因って……」
「いや」
最後まで言わさずに今度はキリトが言葉を重ねる。
「入院するほど体調が優れないのはつわりじゃなくて、とにかく貧血がひどいんだ。今は
ベッドから起き上がることも医者から止められてて……いや止められてなくても無理だな。
意識がハッキリしてる時間も短い。横になっていても頻繁に目眩のような痙攣を起こすんだ。
まともに食事も摂れないから随分と細くなってしまったよ」
ここに来る前に握っていた明日奈の手の存在を再現するように自らの手を見つめて、何回も
空を掴むように動かしている。
「そんなになっても気にするのはオレとお腹の子のことばかりで……ほんと、明日奈らしいよな。
そんな状態だから、しばらく連絡は取れないと思う」
細く震える声でシリカが尋ねた。
「お見舞い、行っちゃダメですか?」
その言葉に僅かに和人が微笑む。
「有り難う。でも本当にほとんど眠ってるんだ。それに……」
「私達が行ったら、明日奈、疲れちゃうわよね」
言いたかったけれど、言い出せずにいた言葉をリズが引き受けてくれた。
「すまない、もし産み月までこのままだと体力的に普通の出産は無理らしくて。まあ
安定期に入って落ち着けば退院できる可能性もあるから、そうしたら会いに来てやって
くれ」
そう力なく笑うキリトに、その場の全員がやるせない気持ちを抱いたが、そんな空気を
クラインの陽気な声が勢いよく吹き飛ばした。
「でもよう、とにかく楽しみだよな。男か女か……それにキリトが父親になるんだぜ」
こういう時のクラインの無理矢理の明るさはみんなを和ませる。
それに続いてリズも笑顔を振りまいた。
「そうよね、おめでたいことなんだから」
そして、後は全員でワイワイとキリトを囲んで育児談義に花が咲いたのだった。
「……母さんの状態、そんなにひどかったんだね」
「そうね……結局貧血はだいぶ良くなったんだけど、引き替えるように今度はつわりがひどく
なって、妊娠期間中、半分は病院のベッドにいたことになるわ。退院しても無理をしないよう
病院に近いキリトの実家に世話になってたし。いつ会いにいっても顔色が悪くてね、私達も
随分心配したものよ。とどめは出産の時」
「まだ何かあるの?」
「そう。出産自体は明日奈の強い希望もあって、なんとか普通分娩だったんだけど、その時の
出血がひどかったらしくてアンタを産み落としてそのまま気を失ったの。
キリトがそりゃあもう見ていられないほど辛そうな顔で明日奈の傍から離れなくてね。私達が
交代するって言っても、目覚めた時に傍にいたいからって……結局目覚めたのは丸一日経って
から。それもキリトとほんの少し言葉を交わして、また眠っちゃって。でも気を失っている
わけじゃないからキリトも安心したのね、私達が駆けつけた時は二人して手を繋いだまま
寝てたわよ」
その時の情景を思い出したように軽く笑うリズの向かいでは対照的に和真が俯き加減で表情を
固くしていた。
「父さんてさ……たまに母さんが体調崩して寝てると、ずっと手を握ってるんだよね」
「……私も詳しく知らないけど、多分ふたりの絆なんだと思う」
「……だからなのかな、オレと芽衣の歳が離れてるのは。そんな妊娠や出産だったら、すぐに
二人目が欲しいとは……思わないよね」
自嘲気味に口元を歪ませた和真にリズは正面から向き合ってその瞳を見つめる。
「まあキリトは明日奈の身体の心配もあっただろうけど、ふたりの一番の心配はアンタよ」
「オレ?」
「そう、二人目を妊娠したとして、また同じような状況になったら、まだちいさいアンタは
何ヶ月も母親と離れて暮らさなきゃいけない。キリトの負担も考えたでしょうけど、何より
明日奈はそれが嫌だったの。だから二人目はある程度アンタが大きくなってから、って
思ったのよ」
「そっか……」
和真がホッとしたように柔らかく微笑んだ。
(寒い……一体ここはアインクラッドの何層なんだろう)
周囲も薄暗くて、周りの状態が全くわからない
そうだ、とストレージにランタンがあったことを思い出す
それを取りだそうとした時、ふと左手の指にある指輪が目に入った
(《燭光》の指輪があったんだわ)
それに息をふきかけようとして、顔の近くまで持ってくる
(あ……違う……この指輪は……なんの指輪だっけ)
思い出そうとして動きが止まってしまった
(いけない……ちゃんと登らなくちゃ……
登る?……そうだ、しっかり登らないと、寒いけど、ここを登れば、きっと次は
温かいフィールドにでるはず)
既に何回も登っている螺旋階段
時々誰かと一緒に登っていた気がする
黒いコートを着て、背中に長い剣を携えて……その背中をいつも追いかけていた……
いつも私の前をいく背中が歩みを止めて振り返る
手が差し出される
その手の薬指には私と同じ指輪があって、私は嬉しくなってその手をとった……
「……キリ……ト……くん……」
「明日奈っ」
目が覚めるとそこは病院のベッドの上だった。
私が伸ばしたはずの手は、すでにそれ以上の温かさで包まれている。
すぐそばから涙声がそっと耳に触れてきた。
「……明日奈」
「手……握って……て……くれた……?」
「ああ……いつだって、そうだっただろ」
「うん……そう……だね」
なんとか笑おうとしたけれど、全然力が入らない。
声も思うように出なかった。
握っていると思っていた自分の手も、かろうじて彼の手に指をからめているだけだ。
そして彼の顔は疲れ切っていた。
「心配……かけて……ごめん……ね……あ……赤ちゃんは?」
「元気だよ。ちゃんと新生児室で寝てる」
「よかった……早く……会いたい……な……」
そう言って私は眠りに落ちた。
「ただいまー」
玄関から明日奈の声が聞こえた途端、和真は立ち上がってリビングのドアに向かった。
和真が手を伸ばすより先にドアが静かにスライドし、少し息の上がった明日奈が駆け込むように
入ってくる。
「ごめんね、リズ、っと、ありがとう、和真く……えっ?、なになに?、どうしたの?、
和真くん?」
リビングに入ってくるやいなや、目の前に現れた和真が明日奈に抱きついたのだ。
既に明日奈より高い身長は父親の和人と変わらず、教わったわけでもないだろうに、その
触れ合い方は和人と間違えそうになるくらいよく似ている。
しょっちゅう見てるから、目で覚えちゃったのかしら?
記憶をたどれば和真に抱きつかれた事など、彼が小学生の時以来だ。
和人とよく似た触れ方と久しぶりの息子からの抱擁にしばし身を委ねてしまう。
すると頭の上からこれまた和人そっくりの小さな声がする。
「りっちゃんは?」
「うん、ちょうど途中で直葉ちゃんに会えたから……」
「なら、もうちょっとこのままで大丈夫だよね」
「え?……っと、それがね……ちょうど帰ってきた時、家の前で……」
途端に気まずい声を出した明日奈の後ろから足音が近づいてきて
「リズ、来てるんだっ……て……え?…………和真!!」
ノーネクタイではあるがスーツ姿の和人がリビングの入り口を塞いでいる二人の状態に
仰天の声をあげた。
母親より少し遅れてやってきた父親に、和真は視線だけを向ける。
「あ、お帰り、父さん」
「お、お、お前っ、明日奈から離れろっ、抱きついていいのは十歳までって言ってあった
だろっ」
それを聞いた明日奈が驚いて目を丸くした。
「和真くん、そんな事、お父さんから言われてたの?」
「ん、まあね。知らなかった?」
「知りませんでした」
抑揚なく言いながら横目で和人を睨み付ける。
「うっ……だってそうだろ。十歳なんてもう男だぞ。半分大人なんだから。オレ以外のヤツが
抱きついていいわけ……」
次第に声に勢いがなくなっていく。
リズはあきれた口調で久々の再会の第一声を放った。
「そんな事を十歳の息子に言ってる方がよっぽど子供よ、キリト」
そしてあきれ顔のまま挨拶を続ける。
「久しぶり、お邪魔してるわ……で、アンタはなんでこんな早く帰宅したわけ?」
「あ?……ああ、オレは資料を取りに帰っただけで……また戻るんだけど……一体なんで
こういう状態になってるんだ?」
不機嫌さを隠そうともせずに問うと、明日奈はしがみつかれた状態のままなんとか首を
ふるふると横に振った。明日奈は偶然和人と家の前で鉢合わせをしたので、それは当然と
判断し、視線をリズへと移動させる。
リズは一口紅茶を飲むと、しばし明日奈に抱きついている和真を眺めてからその奥に立ち
尽くしている和人へと苦笑いを浮かべた。
「んー、明日奈が出かけてる間に和真が生まれた時の話をしててね……」
「ああ……」
納得したように和人が右手でおでこを押さえた。
「だから聞かせたくなかったんだ」
明日奈が僅かに首を傾け不思議そうな表情をすれば
「だって、あの時の事を知れば、絶対、コイツ、今以上に明日奈に入れ込むだろっ」
吐き捨てるように断言する和人に、ますますわからない、といった風で明日奈が更に疑問の
眼差しを向ける。
「そこは……オレの息子だから」
途端、合点がいったのか明日奈の目元と口元が苦笑いを作った。要は自分と同じ反応を取る
だろう、と言いたいのだ。今の状態がまさにそれを証明している。
明日奈は目の前の息子に、ふっ、と力を抜いた息を吐き出してから優しい笑みを浮かべ、
ゆっくりと言葉をかけた。
「和真くん、母親なら当たり前だよ」
明日奈の耳元で小さく、しかし熱のこもった声が彼女の存在そのものに語りかける。
「それでも……ありがとう、母さん」
その様子を見ていた和人が、隠すようにひとつ息を漏らしてから、殊更大きな声で宣言した。
「おい、和真、オレが部屋から戻ってくるまでだからな」
それまでは明日奈に抱きついているのを許可してやる、と言外に告げているのだ。
きっとダッシュで資料を取りに行くに違いない和人からタイムリミットを設定され、
和真はこれみよがしに明日奈を抱きしめた両手に力を込め、父親に対してニヤリと笑って
了解の意を示した。
それを見た途端、チッと舌打ちをして足早に自室へと向かう和人だ。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……」
息切れを隠すそぶりさえ見せずに自室を往復した和人の姿に、再び明日奈は苦笑いをし、
和真とリズはげんなりとした顔を向けた。
和真から解放された明日奈は、そのまま「お父さんのお見送り、してくるわね」と言い、
二人で玄関へと向かう後ろ姿を見送った和真はリズの向かいのソファへと戻ってくる。
一応「俺も」と父親の見送りに同行すべく、リビングを出ようとしたのだが、和人から
「お前はそこでリズとバカ話でもしてろっ」と言われたので、素直に従うことにしたのだ。
バカ話相手に選ばれたリズは愉快そうな顔で和真に話しかける。
「かなり拗ねてたわね……見送り、本当に行かなくていいの?」
「いいんだ。多分すぐには出かけないよ。今頃、玄関横のシュークローゼットにでも
母さん引っ張り込んで、きっとさっきオレが抱きついた分、時間かける気だろうしね」
なるほど、父親の行動パターンなど、DNAを受け継いだ息子にはお見通しというわけだ。
その逆も然りだったように。
「そうだ、リズさん。今度、乳製品が完全に大丈夫になったらカフェラテいれてあげるよ。
オレ、カフェ・アートできるんだ」
「……なんでそんなスキル持ってんの?」
「んー、文化祭で出せたらウケるかなって思ってやってみたら意外とハマってさ。女子は
好きだろ、ああゆうの。お陰で千客万来だった」
「……アンタって子は……キリトは消極的で無自覚だけど、アンタは積極的な無自覚ね」
和真の周囲の女子の苦悩をかつての自分にダブらせるように察したリズは、これもDNAって
わけか、とため息をつく。
「いやいや、これは無自覚を装った計画的なスキル構築だから」
何を目的としたレベリングなのか?、を問おうと口を開きかけた瞬間、リズはあの城で白を
基調とした騎士装の親友がその装いにいささか不似合いなバスケットを持ってウロウロと
していた光景を思い出す。
「だから、わざわざ偶然ばったり、なんて図ってないで、普通に渡してきなさいっ」と自分の
工房から背中を押して追い出した時のアスナもこんな顔をしていた気がしたからだ。
彼女が最強ギルドの副団長という激務をこなしながらも料理スキルという攻略には一欠片も必要と
しないスキルをコンプリートした理由のひとつは……要するに今の和真と同じく、何か目的が
あって、ではなくて誰か標的となる人物がいるのだ。
この子がカフェ・アートを披露して気を引きたい相手かぁ……
アプローチの仕方はアスナ寄りだが、手中に収めた途端の執着ぶりがキリト寄りだったら、と
思うと、それはそれで相手のご愁傷様ぶりが気の毒になる。
キリトとアスナの場合、多分お互い惹かれ合っていたのだろうが、自分の気持ちを行動に移した
のはアスナからだ。だが両者共に認め合ってからのキリトが見せたアスナへの固執は周囲が
戸惑うほどだった。
まあ、なかなか周りに気取られないようにしていたようだが、同じくらいの気持ちを明日奈も
抱いているのはリズを始めとしたいつものメンバーにはバレている。
あの城での二年間を少年少女と評される年齢で常にトッププレーヤーとして存在し続けた二人
だからこその依存度かもしれない。
《現実世界》で生活しつづける常人には理解されない狂気にも近い想いだが、わかってやって
欲しい、とは言わない、そんな二人を許してやって欲しい。
そして、そんなキリトなら幼い息子に言った言葉も明日奈に関しては冗談ではないのだ。
「それにしてもキリトったら、母親に抱きつくな、なんて普通、息子に言うかっつーの」
歳を重ねてもその変わらぬ執着心に呆れるやら、和真の気持ちを考えると腹立たしいやらだ。
自分を思いやってくれていると感じられる物言いに和真が答える。
「確かに父さんからは、母さんに抱きついていいのは十歳まで、って言われてたけど、それだけ
じゃないんだ。十歳すぎたら今度は大好きな人を守れるようになれ、って」
和人は十五歳の時にキリトとして命をかけて守りたい人と出会った。それをふまえての言葉
だったのだろう。なるほどね、と理解しつつ後半部分を明日奈にわざと告げていないだろう
和真は、和人の執着心を本能で感じながらも、納得はしていないのかもしれないと危惧する。
どのみち母親が息子のモノになるなんてことはないのだから、さっさと自分のモノになってくれる
相手を探した方が健全だろう。
親友の彼氏が自分の彼氏になってくれる気配すら思い出にないリズは、和真に問いかけた。
「で?……今現在、和真には守りたい人っているの?」
「うーん……父さんに言われた時は母さんだって思ってたけど……まあ、ほら、母さんには
父さんがいるしね。だから今のオレが守りたい人は……ナイショ、かな」
ちゃんとわかってるんじゃない。
カフェ・アートの標的だろうと直感するが、そこは大人の余裕で含み笑いだけを浮かべた。
「ふーん……まあ、それ以上は聞かないでおいてあげるわ」
和真の予想通り「急がなくていいの?」と問いかける明日奈をシュークローゼットへと半ば
強引に引き込んだ和人は、相変わらずの細腰に両手を回し、ぴっちりと身体を密着させていた。
毎朝の「いってきます」のキスはアメリカで生活していた頃から欠かしたことはないが、今は
朝でもないし、まだすぐに「行く」気もないので、思うままのキスが当然とばかり、抱きしめた
途端、明日奈の唇を塞いでいる。
さすがにそれ以上の行為はマズい自覚があるので、お互い自身と相手を煽らないよう自制しつつ、
ギリギリの線で濃厚な口づけを終えると、和人が先ほどの和真のより熟練された抱擁で
明日奈に触れた。和真とは断然に経験値が違うのだ。明日奈のラインも知り尽くしている。
どこに、どの角度で触れればより密着できるかは、お互いの身体が覚えていた。
そうやって、互いの触れ合いに充足度を実感していると、明日奈の耳元へと少し震えて
いるような声が落とされた。
「……産んでくれた事を感謝できる相手がいるってのは……いいよな」
「なら……今度のお休み、一緒にお墓参りに行きましょう」
「命日でも彼岸でもないのに?」
「そんなの関係ないわ。会いたいな、って思ったら行くべきよ」
「……そうだな」
お互いがお互いをギュッと抱きしめた。
お読みいただき、有り難うございました。
『SAOP』第4巻で出てきたアイテムを登場させた(と言ってもほぼ一瞬!)、
という単純理由で投稿作品に選びましたが、イレギュラー投稿にしては随分な内容量
ですね……私にしては……。正直、数日後のレギュラー投稿作品の方が短い……かも、
です……多分……すみません。
将来、ご自分、もしくは大切な人が妊婦さんになられる方へ……
明日奈の妊娠〜出産の状態は私が知っている症状の全てを三割ほど大げさにして
背負わせてしまったものなので、実際はここまで大変にはならないと思います。
おどかしてすみません。
年齢的にリズも二人目の妊娠でしょうか?……三人目かな??
正式な名前すら設定しなかった直葉の娘の「りっちゃん」も一人目ではないでしょう。
ちなみに「リーファ」の「リ」の字をいただいて「りっちゃん」です。
だらだらと長い後書きを書いていて気づきました。
今回の登場人物、最多です!(セリフない人含む)
では、次回(数日後)は予告通り二本立てです。