ソードアート・オンライン《かさなる手、つながる想い》   作:ほしな まつり

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《現実世界》でのバレンタインのお話です。
以前「バレンタイン・ギフト」を投稿しましたが、それとは全く関係ありません。


バレンタイン・イヴ

2月13日月曜日……放課後にもかかわらず帰還者学校の調理室からは賑やかな女子達の声と熱気、それに甘い香りが廊下まで漂っていた。窓の外は既に薄暗く気温も下がってきているのにこの一角だけ別世界のようである。

そこに引き寄せられるように足音を忍ばせ、見つからないよう背中を丸めて、まるで泥棒かスパイのようにコソコソと廊下の壁際を移動してくる男子生徒の影複数。彼らは目的地である調理室の扉前に到着すると、先頭が手の平で空気を下に押す仕草に頷いて座り込んだ。

 

「確かに情報は間違ってなかったようだな」

「中等部の女子まで参加してるんだろ?」

「そうらしい。バレンタインってスゴイな」

「講師が姫だからってのもあると思う」

 

その意見に全員が「なるほど」と頷いた。

初めはバレンタインに向けてクラスメイトの女子数名が明日奈に手作りチョコの相談をしただけだった。

短時間で簡単にできる物、逆にちょっと手間のかかった物、トッピングや用意する材料などそれぞれの希望を親身に聞いてアドバイスをしているうちに、ひとりが言った「みんなで一緒に作れないかな?」と。

バレンタイン前日、放課後に明日奈を確保出来るとわかった彼女達の行動は早かった。

場所は学校の調理室……なぜなら帰還者学校にはかなり遠方から通学している生徒も少なくないからだ。誰かの家に集まる方が一苦労なのである。明日奈は調理室の使用許可が下りるかどうかを心配していたようだが、この話を教諭達は逆に喜んだ。

二年間も「自分で料理を作る」という行為から離れていたのがほとんどの生徒達が自発的に動いたのだ。

旧SAOでは衣食住のうち一番頭を悩ませる必要がないのが「食」で、贅沢さえ言わなければ圏内でも手に入る食材アイテムはあるし、ある程度手持ちのコルがあれば食事処に困ることはない。それどころか階層が上がれば上がるほど料理の種類や飲食店の数は多くなるという仕様だったから料理スキルを習得するなんてプレイヤーは自分の店を持ちたい者が殆どで、それでさえスキルのコンプリは至難の業。アスナのように戦闘職であるにも関わらず裁縫や料理まで職人レベルに達しているは異例中の異例だ。

だから教職員達は更なるサポートとしてある程度の量が必要な製菓材料の業者購入を提案した。

渡りに舟とはこの事だろう。この時点でどこから漏れたのかバレンタイン前日に学校の調理室で明日奈と一緒にお菓子が作れるという話は女生徒達の間で瞬く間に拡散されていて希望者が殺到していたからだ。

グラニュー糖にバター、卵、小麦粉、ココア、主役のチョコレートは明日奈の希望で数種類用意してもらえることになった。

作るチョコレート菓子は三種類。

お菓子作り初心者向けで比較的失敗が少ない溶かして固めるだけのトッピングチョコや生チョコを作るAグループ。クッキーやブラウニーといったオーブンを使うBグループ。あとは同じくオーブンが必須で一番作業工程が多いバターケーキの類いのCグループだ。最初に明日奈に相談した女子達を含めて各グループ五〜六人程度と決め合計二十人弱。

通常の授業で取り組む調理実習のほぼ半数に設定した理由は作業を分担して作製できないから。

やっぱりバレンタインに渡すチョコレート菓子は最初から最後まで自分で作った物を渡したいだろう。

そしてバレンタイン前日、調理室は幸運にも明日奈のバレンタインお菓子教室の参加権を得た女子達が気合い十分に和気あいあいとお喋りをしながらチョコを溶かしたり卵を撹拌しており、温めている複数のオーブンの熱も手伝って暖かくキラキラしい空気に満ちている。

逆に壁一枚隔てた向こう側では廊下の寒さに身を寄せ合いながら声を潜ませた男子達が中の様子を覗こうと苦心していた。

 

「みっ、見えんっ」

「匂いと声だけで楽しそうなのは十分伝わってくるけどなっ」

「ってか廊下寒すぎっ」

 

その中で「なんでオレが」と言いたげな冷めた目の男子がひとり…桐ヶ谷和人である。

お菓子作りの話は既に明日奈から聞いて知っていたから今日はどこにも寄らずひとりで自宅に帰ろうと思っていたのに、鞄を持って教室を出ようとしたところで男子達から両腕を拘束されたのだ。

 

『気になるだろ、カズ』

『気になるよなっ、カズ』

『よしっ、見に行こう。俺達が付いて行ってやるから』

 

頼むからオレにも発言させてくれ、と訴える暇もなかった。

 

『女子達が二十人近く集まってキャッ、キャッ、ウフフしてるんだぞ』

『それに全員エプロン装着だ』

『姫のエプロン姿見たいよな、さぁ、行こう』

 

いや、別にアスナのエプロン姿なら森の家でも見てるし、なんなら《現実世界》のオレの家へだって料理しに来てくれてるし、と言いかけて高速で口を閉じる。言ったら余計うるさい事になるのは確定だ。

 

『俺達は見るぞ、姫のエプロン姿。絶対この目に焼き付けてやる』

 

そこまで正々堂々と宣言されると自分が下校した後で明日奈のエプロン姿を他の男子達がデレデレと見るのに平静ではいられず、半ば引きずられるまま調理室前の廊下まで到着してしまったのだが、途中、腕を掴んでいる男子が「よし、これで姫にバレた時の言い訳が立つ」と呟いていたので自分は明日奈達に見つかった時のタンク要員かと察したけれどここまで来てしまっては抜け出すのも不可能だ。他の男子生徒は中の様子を伺いつつ女子達に気付かれないよう、けれど自分達はしっかりと明日奈のエプロン姿を拝もうと必死だが和人は「はぁっ」と小さく息を吐いて壁に背を預け、半分振り返るように頭もくっつける。そうすると意外にも中の音が明確に聞こえてきた。

 

「やっぱりアスナの声、よく通るな……」

 

ちょうど廊下側に近い場所で調理している女子達と話しているせいもあるだろう。相手は初対面の中等部のようで、しかもあまりお菓子作りの経験がないらしい。自信なさげな声に対して「大丈夫、もし分離してもちゃんと出来るから焦らないでね」と安心させるフォローはさすが元血盟騎士団のサブリーダーといったところだ。

今回の参加者の中には意中の相手に渡す為ではなく友人達や家族にあげたくて作っている生徒もいるので、そういう女子はいわゆる本命チョコでない分緊張は少なく、反して口数は随分多くなっている。

 

「要は味だからっ、見た目や形はこの際気にしない方向でっ」

「うーん、でも大きさや厚みはある程度同じにしないと焼き上がり具合が変わっちゃうのよね」

「そっかぁ。それじゃ、これとこれはもう少し手で潰そう」

「えっ?!、ちょっ、ちょっと待ってっ!…あっ!!……」

「平気、平気っ。かえってこっちの方が食べやすいかもっ」

 

とんだポジティブマインドの猛者もいるようで二人のやりとりから明日奈の焦り顔を想像した和人はふっ、と口元を緩ませた。

 

「ここまで付き合わせて言うのも今更だけどさ、結城さんは自分の分作らなくていいの?」

「そうだよ。彼氏……桐ヶ谷君だっけ。甘い物は苦手?」

「…そんな事ないけど」

「あっ、もしかして、もう作ってあるとか?」

「そうじゃなくて……」

 

ほんの一瞬、あれほど楽しげな音や声に溢れていた調理室が静まりかえる。

 

「あれ?…もしかして…聞いちゃいけないヤツ……だった?」

 

自問の声が明らかに強張り、それを合図のように明日奈以外の女子が少人数ずつにパッと集まった。

 

「え、なになに、どーゆーこと?」

「ついに、そーゆーこと?」

「うっそーっ、マジで?」

 

「まさかまさかの展開!」

「ちょっと待って、もしかして、これって大チャンスなんじゃ……」

「ねぇ…勇気、振り絞っちゃう?」

「はいっ、はいっ、絞るしかないでしょっ」

 

自分を置いてきぼりにして各所で一様に盛り上がり始めた女子達に明日奈はキョトキョトと周囲を見回して「えぇぇ…」と笑顔のまま困惑に眉尻を落とす。

 

「私、ゲームに閉じ込められていた時から密かに憧れてたんだよね」

「強いしっ、攻略組だしっ」

「そうそう。なんか一見こわい人なのかなぁ、って思ってたんだけど」

「こっちで同じ学校に通えるようになってさ、あの時とは違う一面が見えたって言うか」

「わかるーっ」

 

いつだってキリトくんは強くて優しくてカッコイイのに…と思いつつあの世界ではビーターと呼ばれて敬遠されていた彼が多くの人から慕われるのは喜ばしい事だが、そこにバレンタインが絡んでくると話は別だ。けれど特にテンションが上がっているのは中等部の女子達で、明日奈もキリトと出会う前は恋愛をするなら年上の人か少なくとも同い年の人とだろう、と漠然と思っていたから「そうよね」と小さく頷く。もし自分が共学に通っていて、上の学年にキリトのような先輩がいたら淡い恋心を抱いていたに違いない。

憧れを持ったり恋する気持ちを止めることは誰にもできないから、と自身を納得させる一方で、でもキリトくんは私のものだもんっ、と心の中で強く反論もして明日奈は「さっ、あとちょっとで完成だからみんながんばろっ」と作業の続きを促したのだった。

 

そして三十分以上かけて気力と忍耐と邪な気持ちに全力を注ぎ調理室のドアを中の女子達に気付かれることなく数センチ動かす事に成功した男子達はたった今耳が拾った会話に驚きで唖然とした後、一斉に和人を見た。

 

「カズ…お前……」

「だから姫のエプロン姿、見たくなかったのか」

「俺達、知らなかったとはいえ、なんてむごい事をお前にっ」

 

中の様子に興味を示さなかった態度もこれで理解出来る、と言いたげな憐れみの視線に和人は、おいおい、とつっこんだ。

誰もアスナのエプロン姿を見たくないなんて言ってないぞ。

そもそも昨日の日曜日だって二人で買い物に出掛けているし、明日は明日奈が和人の家を訪れる予定だ。

バレンタイン前日になっても明日奈が和人へのバレンタインチョコを用意していない理由は、当日、放課後に桐ヶ谷家まで行って作るからである。手作りするのはフォンダン・オ・ショコラと言うフランスの菓子で、焼きたてを食べるのが一番美味しいチョコレートケーキだから昨日一緒に買った材料はそのまま和人が家まで持って帰っていた。

ただそこまで詳しく説明する気も起きないし、バレンタイン当日に明日奈が自分の家に来るというのも秘めておきたい。バレたら無意味に携帯端末が鳴り止まない気がする。

和人としては家でゆっくり明日奈と二人でケーキを食べて、更に言えば明日奈も美味しく味わいたい。嫌がらせとしか思えない邪魔が入るのは絶対に嫌だ。

ただ誤解されたままと言うのも後々面倒な事になりそうだと、さて何と説明すればいいかを考えていた時、ちょっとずつちょっとずつ音も立てず気配も消して苦心の末にようやく隙間を生じさせた調理室のドアが無造作にガラッと内側から動いた……それはもう無慈悲に、簡単に。

両肩を跳ねかせて驚き固まったのは廊下にいた男共だ。

すっかり和人に視線と意識が集中していたので室内からドアに近づいて来る生徒の存在に全く気付けなかったのである。

ただ、開いたドアから人影が出てくる気配はなく……そもそも人が出入り出来るほどの幅も開いておらず、もしかして空気の入れ換えかな?、と楽観的かつ自分達に都合の良い希望を浮かべそうになったが、それは調理室内から流れ出てくる暖気や甘い匂いと共に、ひょいっ、と覗かせた顔によって霧散した。

 

!!!!!?????!!??!?!?ッ

 

人間、心底驚くと声すら出ないものらしい。

ただ、調理室から顔だけを出して廊下の男子生徒を確認するはしばみ色の瞳に驚きは全く存在せず、それどころか一番最初に見た和人にだけちょっと微笑むとすぐに視線を外し、頭を上下に軽く振ってその場の人数を把握した後、何も言わないまま引っ込んでしまったのである。

 

「……え、なに?」

「なんだろう?」

「ゆめ?」

 

廊下の寒さに加えて驚きで頭がほぼ回らなくなった男子達の困惑と混乱は自分の視力を疑う方向に全振りされた。つまりあまりにエプロン姿の明日奈を見たいという欲望が見せた幻覚だったのではないか?……と言うか、それなら全身ちゃんと見せてくれ、顔しか見られなかったじゃないか、などなど……。

願わくばもう一度だけ姫のエプロン姿を、ちゃんとしたやつを、という切なる思いが届いたのか、今さっき動いたドアが再び開いた。しかも今度はかなり広めに。そして鈴を転がすような声付きで。

 

「なにしてるの?」

 

ほんものだーっ、という心の声が一斉に聞こえた…気がした。

少々呆れ顔の明日奈が両手でトレイを持って立っている。

 

「こんな寒い所にいたら風邪ひくでしょ……はい、これどうぞ」

 

憤慨のお小言や侮蔑の視線をくれてやるでもなく中の女子達にはその存在を伝えずに、感激の涙と寒さからの鼻水を垂れ流しそうになっている男子生徒ひとりひとりにしゃがんでコーヒーカップを渡す明日奈はわざと最後にしたらしい和人の前まで来て「ふぅぅむ」とちょっと難しい顔で黒髪に視線を落としていた。

タンクのお役目を全うすべくオレが代表で怒られるのか?、と身構えた後ろでは湯気の立つカップを大事そうに持つ男子達が夢見心地でその明日奈を見上げていて口々に零れ出た感想に和人もまた「むむっ」と眉間に皺を寄せる。

 

「新妻?」

「若奥さん?」

「新婚さん?」

 

念願の明日奈のエプロン姿(全体像)だ、授業の調理実習でも着用しているがその時は他の生徒も当然授業中なので拝めるチャンスがないのは当たり前で、だから当然の反応と言えばそうなのだが……これはオレも見た記憶がないんだけど、とちょっと理不尽に機嫌を降下させた和人は彼らの目から隠すように立ち上がった。

 

「あっ」

「あぁっ」

「見えないっ」

「…お前らはソレ、飲んでろ」

 

普段のどこか無気力を纏っている和人の口から出たとは思えない圧の強い口調に全員が途端に「はい」とよい子で頷く。

なんだかよくわからないけど、取り敢えずザワつきは収まったと判断した明日奈が戸惑いと呆れの混ざった声を出した。

 

「廊下の窓にキ…和人くんの髪がちらっ、と見えたから、まさかとは思ったけど……」

 

ちらっ、と見えた髪だけでわかるのか……とカップに口をつけようとした全員が様々な感情を渦巻かせながら声には出さずに呟く。

 

「こんなに居るとは思わなかったよ」

 

ああ、それでわざわざ人数確認で顔を覗かせたんだ、とわかってほろり、と涙が浮かびそうになる。和人だけでなく全員分を用意してくれた明日奈の気遣いにじんわり温まっていた心がカップの中身を一口飲み込んだことで身も温まった。

 

「あったか甘いな」

「うん。美味い…けど、これって、ココアか?」

「なんか僕の知ってるココアより香ばしい」

 

和人という障壁の向こうから顔を出した明日奈が「それね」と微笑む。

 

「普通はお湯でココアを溶かすけど、黒豆茶で溶かしてあるの」

「黒豆……」

「ココアって原料はカカオ豆でしょ。豆同士で相性も悪くないし、さっきからずっとここで甘い香りを嗅ぎ続けてたら甘ったるいココアは飲みたくないだろうと思って」

 

それに余ったココアも使い切れるしね、としっかり者の一面も覗かせた明日奈に再び視線が集まった。

 

「出来た嫁だ」

「賢妻すぎる」

 

再燃する賛美に和人が「お前達の嫁じゃない」と言いたいのを我慢していると「はい」とトレイを差し出される。

 

「こんな寒い場所に一時間近くいて熱でも出したら明日は私、お菓子作りどころじゃなくなっちゃうよ」

「そしたらアスナが額を冷やして看病してくれるんだろ?」

「それで私に風邪がうつったら今度はキリトくんが氷を取ってきてくれるのよね」

 

二人にしか分からない密やかな会話を交わして同時に「クスッ」と笑えば幾分ほぐれたのか和人は少しだけ視線をスライドさせて「団子」と素直にちょっと拗ねた声を漏らした。

 

「え?、お団子食べたいの?」

「そうじゃなくて……」

 

もう彼女だとか、恋人だとか、なんなら嫁という肩書きですら足りなくて自分という存在の一部にアスナが含まれているほどなのに、後ろにいるその他の男子達に抱く稚拙な感情を吐露していいのかどうかを悩んでいると、察しの良い彼女のほうが「あ、これ?」と視線を後ろに流しつつ顔を傾げる。

今の明日奈の髪は象徴的な栗色をクルクルとひとつにまとめた所謂お団子状になっているのだ。

束ねたり緩い三つ編みにしてあるのは見たことがあるが、今回は複数の調理台を巡ってアドバイスをする役目だからだろう、間違っても髪の毛が落ちてはいけないと普段はしない髪型にしたようで、それがエプロンと相まって新妻の雰囲気を存分に醸し出している。

自分が居ない場所で彼女のエプロン姿を他の男子達が覗くのが嫌で大人しく付いて来たわけだが、逃げ切ったとして後日髪型の話を聞いたら後悔するところだったと、半強制的に連行された事を初めて少しだけ感謝したわけだが……これはこれでどこから見ても吸い付きたくなるようなほっそりとした白い首筋が見放題状態だ。

最後のひとつ、和人に渡す為のカップが乗ったトレイを持ったままの明日奈が「冷めちゃうよ」と受け取りを催促するが、その言葉を耳に入れつつも最優先事項として真っ直ぐ両腕を伸ばし彼女のうなじを包み込む。

 

「もう戻してもいいんだろ?」

 

調理室内の会話の内容はいつの間にか出来上がったチョコレート菓子の感想やラッピングの相談になっていて、明日奈もお役御免になったからこそ和人達の元へと差し入れをしに来たのだし、いつものようにおろした髪型にして欲しいと言われた事に気づいた彼女は両手が使えないまま取り敢えず承諾をした。

 

「え?、あ、うん。いいけど……」

 

なんだかこの体勢は…と至近距離にある真っ直ぐな漆黒の瞳に見つめられ、後頭部に触れている手はあまつさえ引き寄せるような動きで、二人だけの時間を過ごす時の空気に似たものを感じて否応なく頬が染まる。カップを受け取ってくれれば自分でやるのに、と思うものの和人の手が優しげでそれでいて性急に求めてくる仕草にその感触を拾うだけでいっぱいいっぱいになり、つい目を瞑ってしまった。

和人の方もそんな表情を目の前に晒されては、ゴクリと喉が鳴りそうになるが、後方に座り込んでいるはずの連中が妙に息を潜めている理由が……その角度だと…まぁ、そう見えなくもないんだろうな、と推測して、これで妙な誤解は解けたはず、と明日奈の髪をほどく事に集中しようとするが、今度は開け放たれたドアの中から女子達の会話が流れてきて、そちらに耳が反応する。

 

「いつもは遠くに見えるだけの先輩だったから」

「私だってそうだよ」

 

どうやら未だに興奮が収まらない中等部の女生徒の声のようだ。

 

「こんな近くで会話できて、もうそれだけで十分って思ってたけどさ…」

「そうそう。このチョコも思い出として大事に自分で食べようって決めてたけど…」

「姫先輩がフリーなら、これ渡してもいいよねっ」

「うんっ、みんなの姫先輩だもんっ」

 

明日奈の髪を弄る和人の手が止まった。

……何て言った?、姫先輩…ってアスナのことだよな?、アスナにバレンタインのチョコを渡すって意味なのか?、とフリーズしかけたところに「キリトくん、まだ?」と幾分震えた声がかかる。

くすぐったいのか、それ以外の感情に支配されそうになっているのか、それはもう見事に頬を色づかせて、きつく閉じられていたはずの瞼が伺うようにほんの少し持ち上げられ和人的には完全に色々とよろしくない状況だ。

 

「あっ、ああ、ごめんっ」

 

急いで、けれど丁寧に髪からゴムを抜き取り、いつものように時間を掛け手で梳いて乱れを直す。気持ち良さげに再び瞳を細くした明日奈は髪が整うに従って気持ちも落ち着いたのか和人の手が離れる頃にはすっかりいつもの調子に戻っていた。

 

「あのね、キリトくん。やっぱりバレンタインのチョコって特別な気持ちが込もってるから、ちゃんと受け取ってあげなきゃダメだと思うの」

「え!?」

 

明日奈としては女の子達が一大決心をして和人にチョコを渡すのなら、それを自分が「受け取らないで欲しい」と願うのは余りにも傲慢だと思ったのだ。

 

「そりゃあちょっと複雑な気持ちにはなるけど……」

 

パートナーのいる人にチョコを渡してはいけないという決まりはないにしろ、なかなか割り切れるものでもない。

だがその言葉に和人は「複雑、なんだ……」と幾分安堵の息を吐いた。

明日奈は女子校出身だし旧SAOでも男性プレイヤーはもちろん女性プレイヤーからも憧れの目で見られていたのを知っている身としては彼女がバレンタインで女子から気持ちを贈られるという行為を当たり前に受け止めそうだと考えたので、そうではなさそうだとホッとする。

 

「そりゃそうだよ。だって……」

 

ここで明日奈は恥ずかしそうに、けれど幸せそうに声を潜めて微笑んだ。

 

「和人くんは私のものだし、私は和人くんのものでしょ」

 

一瞬、虚を突かれたのか無言になった和人はナチュラルに「オレのなら持って帰ってもいいんだよな」と本能に従う判断を下す。

 

「アスナ、チョコ作りは終わったんだからもう帰れるだろ?」

「作るのは終わったけど、まだ後片付けが完了してないの」

 

調理室の使用許可を取ったのは級友達だが自分だけ先に帰るわけにはいかない。最後の戸締まりまで残るつもりでいた明日奈の責任感の強さを感じる瞳を見て和人は、ふむ、と考えた。

ずっと自分と明日奈の間にあったカップを持ち上げて、程よく冷めたココアを一気に飲み干す。「あ、ほんとだ。美味い。今度ウチでも作ってくれよ」と彼女だけに聞こえる声で言うと空のカップを戻してトレイごと引き受け、くるり、と振り返った。

 

「片付けなら人数いた方が早く終わるし……こいつら手伝ってくれるってさ」

 

とっくに飲み終わっていたカップを大事に持っていた面々は全員が「えっ?」と思ったが、声を上げる前に明日奈から「本当に?、ありがとう」と笑顔で言われてしまってはココアもご馳走になったことだし、真の理由を告げられるわけもなく、首を縦に振るしかない。

こうして女子生徒有志による調理室でのバレンタイン用チョコレート菓子作りは終盤になって加わった男子生徒達と共に片付けや清掃までをきっちりとこなし、お菓子作り途中で囁かれた結城明日奈のフリー説はその複数の男子の中に桐ヶ谷和人が入っていたことで全くの誤解であることが判明。それでも未練が残っていた一部の下級生女子達は万が一の可能性として勝手に桐ヶ谷和人が参加しただけ説を打ち立てていたものの、戸締まりの済んだ調理室を出た時からずっと彼女の隣で彼女の手を握り彼女に笑いかける姿を見せられては推論を打ち消すしかなく、手作りチョコレートは各々の口の中で溶けていった。

ちなみにチョコレート菓子作りに参加した中等部の女子は断念したがそれはほんの一部であり、翌十四日の本番には登校時から下校時まで様々なタイミングでチョコを渡された明日奈が放課後に約束通り桐ヶ谷家を訪れた時、菓子の量は大きな紙袋いっぱいになっており、その約一ヶ月後のホワイトデーでしっかり全員に手作りのお菓子をお返しとして渡すのだが、それはまた別の話である。




お読みいただき、有り難うございました。
そこら辺に転がってる男子生徒より明日奈の方が
よほど男前さんかと(笑)
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