ソードアート・オンライン《かさなる手、つながる想い》   作:ほしな まつり

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直葉から見た和人と明日奈のお話です。
明日奈の体調がすぐれない話が多いので、今回は珍しく逆にしてみました。


癒やしのぬくもり

昨日から静かに降り続ける雨の音が心地よかった。

気を止める程の音量でもなく、かといって心もとなげの不規則なリズムでもない。

いつの間にか耳に入り込んで微かな日常の雑音だけを隠し、心を落ち着かせてくれる、

そんな雨音だった。

こんな雨は嫌いじゃない。

《ALO》だと天候設定が雨の日は羽を広げる気がしないので、あまり好きでは

ないけど……でも、そんな時は兄のプレイホームで美味しいお茶とお菓子をいただいて

お喋りに花を咲かせるのが恒例となっていた。

もちろんウチの兄はペチカの前の定位置となっている揺り椅子に沈み込んで、私達の相手

なんかしてくれない。

お茶とお菓子の準備をして私達をもてなし、その合間に兄の面倒を甲斐甲斐しくみるのは

プレイホームの清楚で美しい女主人……兄の恋人だ。

しかし、ここは《現実世界》……兄の世話を焼くのは妹である私の役目。

まあ、この役目もあと一ヶ月もせずにお役御免となってしまうけど。

その期限を前にして、なんと、うちの兄は……風邪を引いたのだった。

 

「嗚呼……洗濯物が乾かない……」

 

窓からぼんやりと長雨を見つめながら私、「桐ヶ谷直葉」は今日何度目かのため息をついた。

雨は嫌いではないけど、洗濯物の乾き具合とはまた次元の違う話だ。

風邪で寝込んでいる兄の衣類やタオルの乾きは早ければ早いほど助かる。

その兄である「桐ヶ谷和人」はこの梅雨があける頃には、アメリカのカリフォルニア州にある

サンタクララの大学へ進学することが決まっていた。

しかも《ALO》でもリアルでも恋人である、あの人と一緒に。

サンタクララとの時差は17時間……渡米する頃はサマータイムの16時間だろうか。

もう《ALO》で雨が降っても、あの22層の森の家にお邪魔する事は出来ないかも

しれない。

少しずつ自分も、自分を取り巻く環境も変わっていく。

わかってはいるけれど、兄と二人、《ALO》で冒険の旅をして、新たに実装された浮遊城へ

あの人に手を引かれて足を踏み入れ、たくさんの人達と出会い、色んな思い出を共有することが

できたこの二年ほどが、あまりに楽しくて、ついこの時間がずっと続けばいいのに、と

願ってしまう。

それでもタイムリミットが近づくにつれ、兄とあの人は留学の為に、時には一緒に、時には別々に

渡米をして準備を進めているので、既に森の家で二人と一緒に過ごすことは難しくなっていた。

 

「あとは乾燥機でなんとかなるかな……」

 

多少生乾きでも、タオルなどは仕上げに少し乾燥機をかけた方がふっくらと仕上がる。

熱をだした兄の為に新しいタオルを持っていった方がいいだろうか?、と思いながら窓辺を離れ、

二階の階段へ向かおうとしたその時、玄関のチャイムが鳴った。

 

「はーい」

 

単身赴任で日本に不在の父、仕事で忙しく不規則に家に戻ってくる母、頼りの兄が二年ほど

入院していて家に居なかった時、防犯を考えてドアチャイムとドアを新しくした。

「近頃物騒だから、ちゃんとインターフォンのモニターを確認してからドアを開けてね」と母から

再三言われていたが、今はそのまま玄関に向かう。

玄関扉の格子の間から磨りガラスごしにもわかる程見慣れたスッと姿勢の良い立ち姿に

兄と同じ配色の制服、栗色のロングヘアが確認できたからだ。

ダメ押しに「ごめんください」と鈴のような声が聞こえる。

ガチャッと鍵を解除し、ドアを開けると、花の蕾がほころぶような笑顔で兄の彼女が立っていた。

 

「こんにちは、直葉ちゃん」

「こっ、こんにちは、明日奈さん……どうしたんですか?」

 

普段でも到底太刀打ちできる気がしない自分の笑顔が、今は鏡で見なくてもわかるほど

引きつっている……絶対。

それにしても何の前触れもなく、突然一人で我が家を訪れるのは、礼儀正しい彼女にしては

珍しい振る舞いだ。

それとも兄と約束があって、それを兄が忘れていただけだろうか。

もちろん、そんな事は些細なことで、普段なら気にも止めないのだが……。

今日は……今日に限っては兄から絶対厳守の指令を帯びている。

私の表情から怪訝な色を感じ取ったのだろう、彼女は視線を落とし、両手で持つカバンの

取っ手を身体の前でギュッと持ち直すと、微笑みに戸惑いを混ぜながら再び鈴を転がした。

 

「……あの……キリトくんが、体調を崩したって……聞いたから……」

「え?……ええっ!?……なんで、それを……」

 

兄からは、絶対明日奈さんには知らせないよう、きつく言われていたのに。

まあ、ここまできたら嘘を突き通すのも追い返すのも無理に違いない。

だいたい、そういうの得意じゃないし。

だって元気な姿を見せようにも、当の本人がベッドから起き上がれないのだ。

ごめん、お兄ちゃん……心の中で手を合わせ、あっさりと(まず間違いなく)未来の

兄嫁を家に招き入れた。

 

「とにかく、上がって下さい。雨の中、すみません……タオル使いますか?」

「うん、ありがとう……でも、先にキリトくんの様子を……部屋に行ってもいい?」

 

よく見れば、少し息が上がっている。

多分駅から全速力とはいかないまでも、一生懸命来てくれたのだろう。

兄の部屋の場所は既にご存知なので、そのまま彼女だけを二階に促した。

 

「はい、とりあえず熱だけみたいで、薬飲んで寝てますから、先に行っててください。

私、タオルと飲み物、持っていきますね」

 

彼女は再び「ありがとう」とだけ言うと、タンタンタンと急ぎ足で二階に上がっていった。

 

 

 

 

 

トレイにタオルと飲み物を乗せて兄の部屋をノックする。

兄は寝たままなのか、明日奈さんの「はい」という小さな声が聞こえた。

音を立てないようゆっくりとノブを動かし部屋に足を踏み入れると、熱のせいで赤い顔を

して寝ている兄のベッドのすぐ横にキチンと正座をした明日奈さんがこちらを振り向いている。

すぐそばのローテープルにトレイを置き、両手でタオルを手渡した。

声は出さずに口の動きで「ありがとう」と伝えてくれる。

しっとりと濡れた毛先にタオルをそっと押し当てる所作を繰り返していると、明日奈さんの

髪が匂い立ち部屋に満ちた。

その香りが届いたのだろうか、兄が身じろぎ、瞼をうっすらと開け、掠れた声を出す。

 

「ん……あれ?、明日奈?」

 

すぐにタオルを手放し、兄の元に身を寄せる明日奈さんの後ろから、私もしゃがみ込むように

して兄をのぞき込んだ。

熱は今朝計った時より多少は下がったが、まだ苦しそうな息づかいは続いており、声も

枯れているので、兄の発する言葉は聞いていてかなり痛々しい。

本人も声を出すのは辛いのだろう、明日奈さんを見て、一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに

眉を寄せ「どうして?」とだけ聞いて、視線を私に移してくる。

私が連絡をしたのか、と疑っているのだろう、慌てて首と手をブンブンと振って

「私じゃないよ」とアピールすると、明日奈さんがふんわり微笑んで兄の額に手を当てた。

 

「学校でね、偶然、佐々井くんに聞いて」

 

そう言いながら、額を中心に兄の髪を手で梳いている。

兄は一瞬げんなりとした顔になったが、すぐに明日奈さんの手の感触が気持ち良いのか、目を

閉じて僅かに笑みを浮かべ、ほぅっ、と軽く息を吐き出すと、再びすがるような眼差しを彼女に

向けた。

 

「ごめん、……明日奈だって……忙しく……してるのに」

 

通える日は学校に行き、同時進行で留学の手続きや渡航準備を進めている兄のスケジュールは

ハードだった。しかも一度海の向こうを往復すれば時差があるので帰国後は体力的にも

キツい日が続く。それを明日奈さんも同じようにこなしているのだから兄にしてみれば、

学校に行った日はそのまま家に帰って休んで欲しいに違いない。

 

「大丈夫だよ」

 

明日奈さんは手の動きを止めることなく再び瞳を閉じた兄に問いかけた。

 

「キリトくん……頭、痛い?」

「……ああ、少し」

 

気づかなかった。

今朝、なかなか起きてこない兄にしびれを切らし、部屋に起こしに行った時は既に

赤い顔をし、苦しそうな息づかいでベッドに倒れていたのだ。

すぐに熱を測り、病院に行くことを勧めたが「薬を飲んで家で寝ていれば

治るから」と「それと明日奈には絶対知らせるな」しか私には言ってくれなかった。

 

「あの、明日奈さん、なんでわかったんですか?」

 

思わず聞いてしまった……まさかこれも愛のなせるわざ、というやつなの

だろうか?

明日奈さんは兄の額に手を当てたまま、私に振り返り、ニッコリと微笑む。

 

「こうやって、こめかみのあたりを触ると和人くんの表情が緩んだから……頭痛の時って

ここを押すと、ちょっと気持ち良いでしょう?」

 

明日奈さんは空いているほうの手の人差し指で自分のこめかみを指した。

 

「それに、熱のある時って頭痛も併発することが多いし」

 

兄の表情が緩む……?

ダメだ、さっぱりわからない。

普段から明日奈さんが一緒の時の兄は顔が緩んでいる、とは思う……思うが、今、熱に

浮かされた表情の中でその変化に気づくのは……はっきり言って自分には無理。

しかも、そんな風に兄のおデコとか髪の毛とか……明日奈さんみたいに優しくさわれないし。

私自身、熱をだすことがほとんどない健康優良児なので、頭痛を伴うなんて経験ゼロに

等しい……やっぱりかなわないな、と思うと同時に、この人が一緒なら、の安心感も生まれる。

 

「キリトくん、他に痛いところ、ある?」

「……ん……喉が……かなり……」

 

言ってよ!、お兄ちゃん!!

なんで、そう、明日奈さん相手だとポロポロでてくるのっ。

学校休んでまで朝から看病してる私の立場はどうなるのよっ、と病人相手に半ば本気で怒りを

覚えてしまった。

まぁ、学校を休んだのは私の自己判断なんだけど。

私の両手の拳がプルプルと震えているのに気づいた明日菜さんが、困り笑いを浮かべて

いつものように、ほわんっと言葉をかけてくれる。

 

「きっと、直葉ちゃんに心配かけたくなかったんだよ」

 

はぁ〜っ、なんだか一気に力が抜ける気がした。

 

「ハチミツとショウガ入りのアイスティー作ってきたけど、飲む?」

「うん」

「白桃のジュレもあるけど……」

「うん」

 

即答だし……私には「何も食べたくない」ってスポーツドリンクと薬を飲んだだけのくせに。

……「私には」と思うのは、やっぱりまだどこかで明日奈さんをライバル視しちゃう気持ちが

あるのかな……それとも、家に居る時の兄は私が一番わかってるって思いたいのかな……。

頭の中がグルグル回りだしたところで「あれ?」と気がついた。

 

「明日奈さん、一旦自宅に戻ってから来てくれたんですか?」

「うん、だからちょっと遅くなっちゃったんだけど。少しでも口に出来れば、と思って

作ってきたの。でも直葉ちゃんの看病のお陰で、ちゃんと食欲もあるんだね」

 

食べ物を口にする意欲を聞いて、少し安心したように明日奈さんが声をかけてくれるが……

その労いの言葉がなんだか素直に喜べない……いいえ、私から受け取ったのはスポドリ

だけなんです、なんて……言えないよう。

喉が痛いって言ってくれれば、私だって…………のど飴くらい持ってきたのに。

そう言えば、小学生の時。やっぱり兄が熱をだして学校を休んだことがあった。

母はその時も忙しくて、でも同じ小学生の私が学校を休んで看病が出来るばすもなく、

家で一人で寝ている兄が心配で、学校が終わった途端、全力で走って帰ったっけ。

寝ている兄に「大丈夫?」と聞くと「大丈夫だよ」って、全然大丈夫そうじゃないのに答えて

くれた。それから少しして玄関からダダダッと足音がしたと思ったら、母が勢いよくドアを

開け、笑顔で「和人、桃の缶詰食べる?」と片手にスーパーの袋を持ち、息を切らしながら

部屋に飛び込んできた光景を思い出した。

 

「明日奈さん、桃のジュレって……」

「うん、今日は急いでたから缶詰の桃で、喉にいいっていう羅漢果のお砂糖と一緒に

軽く煮て、潰してから冷やし固めてきたんだけど……」

 

やっぱり熱の時は桃なのかぁ……しかも明日奈さんは一手間掛けて……私なら母と同じで

缶詰のままかも。

短時間で仕上げてきたので、出来上がりに自信がないのだと言う。

明日奈さん的に及第点なら、間違いなく美味しいに決まってるのに。

 

「なら、私、ストローとスプーン、持ってきます……あ、あと、そろそろアイスピローを

取り替えようかと……」

 

私の言葉を聞いて、すぐに明日奈さんは兄の頭に敷いてあるアイスピローの温度を手で

確かめると、「そうだね……」と言ってから膝立ちになり、兄にかがみ込みこんだ。

兄は変わらず目を瞑ったまま、少し早い呼吸を続けている。

 

「ちょっと、ゴメンね」

 

その細い手をそっと頭の下に差し入れ、まるで自分の胸元に抱くようにわずかばかり兄の

頭を持ち上げると、素早くピローを引き抜き、静かに元の状態に戻す。

見ているこっちが赤面しそうだった。

朝から既に二回ほど取り替えているが、私の場合は「アイスピロー取り替えるよ」と言えば

兄が自主的に頭からはずし、私に寄越していたのだ。

明日奈さんに抱かれた時の兄の安らいだ表情といったら……。

そんな兄の表情を真上から見つめる明日奈さんもまた慈愛に満ちた笑みを浮かべている。

兄の頭に触れた手はそのままゆっくりと乱れた髪を整えるように全体を梳かし、最後に

首に張り付いた短いそれをはらうと、すっと兄の肌から離れた。

そのまま兄の上から去ろうとした明日奈さんがなぜかピタリと動きを止める。

 

「???」

 

明日奈さんの栗色の髪の毛をいつの間にかうっすらと目を開けた兄が細い束で握っていた。

 

「お兄ちゃん!?」

 

それを自分の鼻先までもっていくと、再び目を瞑って深く息を吸い込む。

 

「外、雨?」

 

低く小さい声で、短く単語だけを呟く。

 

「……うん、急いで来たから、ちょっと濡れちゃって……」

 

そう言えば、明日奈さんの髪の毛……タオルドライの途中だった。

 

「明日奈の髪の……生乾きの匂い……シャワーの後と同じだな」

 

 

 

「………………キ、キ、キ、キ、キリトくん!!!!!」

「………………お、お、お、お、お兄ちゃん!、なっ、なっ……何言っちゃってんの!!!」

 

病人の部屋だということを一瞬忘れ、私も明日奈さんも大声を上げてパニック状態に陥る。

兄の方を向いている明日奈さんは耳しか見えないけど、それさえ真っ赤に色づき、全身を

硬直させていた。私の顔も負けず劣らずの朱に染まっているはずだ。

そんな二人の顔色など兄の閉じた瞳には映っていない。

 

「肌の匂いと、一緒に嗅ぐと、すごく……」

「わぁーーーーーっ!!!!!」

 

これはもう、兄の言葉が耳に入るのを自分の叫び声で遮断するしか思いつかない。

と同時に明日奈さんは両手で兄の口を塞いでいた。

それほど力は込めていないようで、手の中で兄の口がモゴモゴと動いているのがわかる。

次にゆっくりと私に振り返った明日奈さんはトマトように真っ赤な顔で、瞳にうっすらと涙を

浮かべ、半泣き声で言葉を絞り出してきた。

 

「……直葉ちゃん……聞かなかったことに……して」

「……はい」

 

かつての《あの城》では夫婦だったんだし、《現実世界》に生還した後もラブラブなのは

知ってたし、今度は海外で一緒に生活をするんだし、そういう関係である事は承知していた

つもりだったけど、実際、兄の口からあんな言葉を聞かされると……ずっしりと実感してしまう。

なんだかオトナの関係と言うか……年齢的にはそれ程変わらないはずなのに、二人は随分先を

一緒に歩いてるんだと感じると……その距離が少し羨ましいような淋しいような。

甥っ子か姪っ子の顔が見られる日も、そう遠くないのかもしれない。

二人の子供だったら、どちらにしてもキレイな顔の子だろうな。

まだ見ぬ赤ん坊の顔を想像していると、未だ恥ずかしさが収まっていない明日奈さんが話題を

変えたいのだろう、少し早口で話しかけてきた。

 

「そ、それと、直葉ちゃん、小さい保冷剤ってある?」

「この前いただいたケーキのやつが、確か冷凍庫に……」

「うん、それで大丈夫。熱を下げるのに首の後ろ冷やすのもいいんだよ」

 

説明しながら兄の手に触れ、何気なくを装って自分の髪の毛をそっと引き抜いている。

 

「なら、それも持ってきますね」

「直葉ちゃんひとりじゃ大変だから、私も……」

 

明日奈さんの手が兄のそばから離れようとした瞬間、兄の両腕が伸びて、彼女の細い手首を

捕らえ、グッと自分に引き寄せた。

 

「きゃっ」

「明日奈は……ここに……いて」

 

明日奈さんがまたもやフリーズ状態に陥る。

兄の薄く開いた目はまるで捨てられてしまう仔ネコのような眼差しで、このまま

会えなくなる事を予感するように、眉毛はハの字に曲がっていた。

 

あの、兄が……甘えてる

 

熱のせいだとしても、決して、私には示してくれない表情と言葉だ。

《SAO》から生還して、明日奈さんを取り戻して、確かに兄は変わった……変わったという

より、昔に戻ったかのようだった。

私にも話しかけてくれるようになったし、笑いかけてくれるようにもなった。

時には頼りにもしてくれた……でも、こんな風に甘えてくれることは一度もなかった。

そりゃあ、私は年下だし、兄は男で、私は女で……でも、きっとそんな事は関係ないのだ。

兄には甘えられるぬくもりが既に、すぐ傍にいつもあるのだから。

「私には」なんて考えるだけ無駄だった。「明日奈さんだから」兄は全てを委ねられるのだろう。

いつか私にも「私だから特別」と思ってくれる人が、「私にとって特別」と思える人が

現れるだろうか。

 

「お兄ちゃんの傍にいてください。私、一人で大丈夫ですから」

 

そう言ってそそくさと部屋を出ようとする時、後ろから「困った人ね」と明日奈さんの

小さいけれど嬉しそうな声が聞こえた。

 

 

 

 

 

その夜、時計の針が十時を回ろうかという時、玄関で鍵の開く音がしてから「ただいまー」

という聞き慣れた声がした。

すぐに私がいるリビングに母が顔をだす。

 

「おかえり、お母さん」

 

こんなまともな時間に家に帰ってくるなんて珍しい。

 

「ただいま、直葉、今朝は連絡ありがとう。それで和人の具合はどう?、熱は?」

「午後に少し下がって、夕方またちょっと上がったけど、さっき計ったら今日一番

下がってたよ」

「なら大丈夫そうね……食欲は?」

 

そう言いながらキッチンに行き、手に提げていた荷物を置いて食器戸棚からコップを

取り出し、冷蔵庫に向かう。

 

「朝はスポーツドリンクだけ。でも午後は蜂蜜入りのジンジャーティー飲んで、桃の

ジュレ食べた」

 

母は冷蔵庫をのぞき込んだまま会話を続けてくる。

 

「桃のジュレって……あっ、これ?、やだ、美味しそう。私もいただいちゃおうかしら」

 

冷蔵庫を開けたまま、振り返って「食べていいの?」と聞いてくる。

 

「うーん……食べたら、お兄ちゃんが、拗ねる……かも」

 

振り返ったままの姿勢で母が一瞬キョトンとしたが、すぐに、ははーん、という表情に

変わった。

 

「明日奈さんの手作りかぁ……いいわよ、まだあと四つもあるんだから。急いで帰って

きたから小腹空いちゃって。直葉も食べるでしょ?」

「……食べる!」

 

実は明日奈さんが帰る時、兄の部屋で「よかったら残りは直葉ちゃんと翠さんで

食べてね」と言われたのだが……妙に兄からの視線が痛かったのだ。

「あの子ったら四つ全部食べる気なのかしら」とブツブツ言いながら、母がお茶の入った

コップにジュレとスプーン二組をトレイに乗せ私のもとに運んでくれる。

二人で「いただきます」と手を合わせてから、プルンプルンの桃ジュレをすくって口に

運んだ。

 

「幸せ〜」

「美味しいわぁ……なんか甘みがスッとしてるわね」

「なんて言ってたかな、ら、らかん……」

「羅漢果?」

「多分そう。それ使ったって言ってた」

「こんな美味しいもの、和人ったら独り占めするつもりだったのね。意外と独占欲が強いの

かしら?、普段の様子だとそんな感じでもないのに……ああ、でも」

 

そう言いかけて、母が「クスリ」と笑う。

 

「和人が小学生の時、熱を出したの覚えてる?」

 

偶然にも私が昼間思い出した記憶だった。

 

「うん」

「あの時、私が仕事から帰ってきた後、眠るまで手を離してくれなくてね、普段はそんなに

べったりくっついてくる子じゃなかったから、ちょっと驚いたわ」

「……それ、今日、明日奈さんにやってたよ」

 

思い出してちょっとドキドキしてしまった。

 

「あらまあ……それは明日奈さんも困ったでしょう」

「うん、嬉しそうに困ってた」

 

お互い、やれやれと言った風に笑い合った。

そんな会話を楽しみながら、あっという間にジュレを食べ終わってしまう。

私の分も一緒に容器とスプーンをキッチンに運んでくれる母の後ろ姿を見ていたら、

私もなんとなく、その後をついて行ってしまった。

洗い物をする手元を眺めながら、自分に問うように母へ言葉を投げかける。

 

「お母さん……淋しい?」

 

色んな意味を含んだ言葉だったが、母には伝わったようだ。

 

「そうねぇ……これから離れて暮らすこととか、もう病気になっても私の手は必要ないこと

とか、意外と寂しがり屋で甘えん坊な一面を明日奈さんにばかりみせてることとか、

淋しいなって思うことを考えれば色々出てくるけど……この桃缶も出番ないみたいだしね」

 

母が持って帰ってきた荷物の中には桃の缶詰が入っていた。

 

「でも逆に娘がもう一人増えると思えば、淋しいより嬉しいわね」

 

母がニッコリと私に微笑む。

そうか……。

女子力も学力も高く眉目秀麗で気立ての良い姉……実姉だったら小さい頃から比べられて

コンプレックスの塊になってしまいそうだけど、これから姉になってくれるのなら……

 

「そうだっ」

 

突然、母が思いついたように声を上げた。

 

「今度、明日奈さんと一緒に女同士で買い物に行きましょうよ。新生活のスタートをお祝いして

何か贈りたいし。……確か和人が寝室のサイドテープルに置けるライトが欲しいって

言ってたから、明日奈さんに選んでもらって。どうせ和人は明日奈さん任せなんでしょ」

「そんな事言って、お母さん、休み取れるの?」

「なんとかなるわよ……いいえ、なんとかしてみせます」

 

母は早くも楽しそうだ。

「今日のお礼も言いたいし、明日にでも明日奈さんにメールしてみるわ」と言っている。

兄を蚊帳の外で話を進めるのは……面白いかもしれない。

どうせサンタクララに行ってしまったら、兄が明日奈さんを独占してしまうのだ。

今のうちに一回くらい私達が独占しても文句は言わせない。

 

「それじゃあ和人の様子、見てくるわね」

 

そう言って、母はリビングを出て階段を上がっていった。

 




お読みいただき、有り難うございました。
「彼女」にベタ惚れの兄を持つ妹は苦労しますね。
将来、どんな男性に恋をするのか、はたまたレコン君とどうにかなるのか、
大いに気になるところです。
続きもの風で約一週間後のお話も書いてみました。
よろしければ続けてお読みください。

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