ソードアート・オンライン《かさなる手、つながる想い》   作:ほしな まつり

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アスナが《現実世界》に復帰して半月ほどが経った頃のお話です。
未だ入院生活を送っているアスナのもとにキリトと一緒に懐かしい二人が
お見舞いに訪れます。


再会

二月も半ば、今季何度目かの雪が散らつく中、篠崎里香は埼玉県の所沢にある総合病院に

向かって歩を進めていた。後にデスゲームと称された《ソード・アート・オンライン》という

MMORPGの《仮想世界》で知り合った大切な親友が入院をしてるのだ。

それを教えてくれたのも、やはり同じゲームの世界で唯一の二刀使いとして剣を振るっていた

ソロプレーヤーの剣士である。

閉じ込められた《仮想世界》から《現実世界》へ生還して三ヶ月が過ぎようとした頃、

どうやって自分の情報を仕入れたのか、かの二刀剣士である「キリト」は突然里香に連絡を

よこしてきたのだ。今はなきあの世界で鍛冶職人でありマスターメイサーでもあった

「リズベット」としては、キリトへの想いがかなうことはなかったが、《現実世界》に

戻ったらもう一度自分の気持ちに正直に行動しようと決めていた彼女にとって、キリトからの

連絡は予想外の驚きと同時に大きな期待を感じさせた。しかしコンタクトの内容はリズベットの

親友である「アスナ」が未だ入院中でリズにとても会いたがっている、というものだった。

予想とは違った内容だったが「アスナ」という名前を聞いたら、そんな感情も一瞬で吹き飛んで

しまい二つ返事で依頼を快諾し、すぐさま日程を合わせ、今日という日を迎えるに至ったのだ。

 

「ここ……よね?」

 

教えられた病院名を確認して、病院の敷地内に足を踏み入れる前にその建物を仰ぎ見た。

病院と聞いてイメージする四角いデザインとはかなり違っている。

万人の誰もが診察を受け、入院が出来るとは思えない格式の高さを感じ、踏み出す一歩を

戸惑わせた。ぎこちなさを自覚しつつなんとか病院の正面へと続く歩道を歩き出すと、すぐ

傍の警備員の視線が気になり、軽く緊張が走る。

何を聞かれても困ることはないはずなのに、自分が見舞客であるなんて信じてもらえないのでは、

とのプレッシャーが自然と生まれる。

そんな懸念も取り越し苦労で、咎められることもなく段々と病院の正面玄関に近づくと、院内の

豪華さが窓ガラス越しにも見て取れた。

病院らしからぬ外観にも目をみはったが、その外装に恥じぬ内装となっているらしい。

 

「一人じゃなくて、よかった」

 

十代の女の子が初めて足を踏み入れる場としては、かなり気後れしてしまう雰囲気だ。

ふと見ると、同行者のひとりが既に入口に立っている。

 

「エーギル!」

 

緊張をほぐすように元気良く手をふりながら、これまた《SAO》時代の友人のキャラネームを

呼んだ。

 

「……リズか?」

 

黒い肌に長身でガタイがよく、一見カタコト日本語を喋るかと思われる風貌の「エギル」こと

アンドリュー・ギルバート・ミルズはリズをいぶかしそうに見つめた。

半信半疑のような口ぶりだが《現実世界》では初対面なのだ、戸惑うのも無理はない。

 

「他にこの時間にこの場所でアンタに声をかける女の子がいるっての?」

 

顔を合わせるのは数ヶ月ぶり……現実世界では初めまして、の間柄だが《あの世界》と

変わらぬ口調が自然と口から飛び出したのはアバターの顔が《現実世界》のプレイヤーと

同じせいかもしれない。お陰でどうしようもなかった緊張感がすっかりほぐれている。

 

「髪の毛が茶色だとヘンな感じだな」

「あのね、《現実世界》でベイビーピンク色の髪の方がよっぽどヘンでしょ。それにしても

エギルはまんまね。一瞬アバターかと思った」

「ほっとけ」

 

病院の入口で軽口の応酬をしていた二人の後ろから、突然あきれたような声がした。

 

「随分盛り上がってるな」

「よう、キリト」

「えっ?」

 

リズが急いで声のした方を振り返ると、ジーンズに黒のダウンジャケットを羽織った

少年が「よっ」と片手をあげている。

 

「キ……リト?」

「ああ、今日は有り難うエギル、と……リズ、だよな?」

 

こちらは《SAO》時代のアバター姿を彷彿させるのは、ジャケットの色くらいで、髪の毛も

随分と短くなっている。

 

「なんか髪が茶色だと……イテッ!」

 

しげしげと髪の毛を見られた後、またもやの感想を最後まで言わせるものか、とリズはキリトの

足を問答無用で思いっきり踏みつけた。エギルは苦笑いを浮かべるだけだ。

キリトは顔をしかめつつ軽く足をさすりながら、早速話を本題へうつすのが賢明と判断し、

二人を院内へと促した。

 

「とりあえず中に入ろうぜ。アスナも待ってる」

 

キリトが先頭にたち病院の自動ドアをくぐる。

一歩中に踏み入れると、暖房の効いた建物内は病院特有というより、アロマのような

控えめな香りが漂い、中央に設置されているいくつかのソファもゆったりとした大きさで

高級感があふれていた。

ホテルのロビーを思わせる受付に進むと、既にキリトとは顔見知りになっているようで、

デザイン性の高い制服を着た事務の女性が「今日はお友達とご一緒?」と微笑みながら

通行パスを渡してくれる。

「ええ、まあ」と曖昧な答え方をしながらパスを受け取ると、キリトは人差し指を

クイ、クイ、と動かしてエレベーターホールを指した。

待つことなく乗り込んだエレベーターは一気に最上階まで上がっていく。

三人の貸し切り状態なので、リズは先刻から思っていた疑問をキリトに告げてみることに

した。

 

「ねぇ、キリト。アスナってもしかしていいトコのお嬢様?」

 

他に誰もいないのだが、なぜかひそひそ話のように声の音量を絞ってしまうのは

エレベーター内部でさえ高級感をビシビシと感じるせいか……。

 

「ん〜、まあ、その辺は本人に聞けよ」

「そっか……」

 

それは聞いていいんだ。

 

リズが少し安心したような表情になった。

と言うのも、今回、なぜアスナが未だに入院生活を送っているのかと彼女が聞いた時、

キリトは「『ALO事件』に特殊な形で関与していたから」としか教えてくれなかったからだ。

詳しく聞こうにも、キリトは「その話はアスナ本人にも触れないで欲しい」と言うだけで、

それ以上は完全に口を閉ざしてしまったのである。

《あの世界》にいた時でさえ、どんな出来事も前向きに受け入れようとしていたアスナに

一体何があったのか、聞けばアスナはちゃんと答えてくれるのではないか、とも思ったが

彼女の最愛のパートナーであるキリトにそう言われてしまっては、事情を知らない自分が勝手な

判断で口にしていいものでもないと承知せざるを得なかった。

ほどなくしてエレベーターは目的の十八階に到着する。

先程と同様にキリトの後ろに着いて長い廊下を歩きながら、リズは隣のエギルに尋ねた。

 

「エギルもお見舞い、初めてなの?」

「ああ。この前キリトからお前が見舞いに来るって聞いてな。ちょうど今日は店が

定休なんだ。前からオレも来たいと思ってたし」

「ふーん、リアルでもお店やってるんだ」

 

あの世界では鍛冶屋として店主を務めていたリズは、エギルを見る目に自然と尊敬の念が込もる。

 

「それはそうと、キリト。お見舞いは花がいいって言うから、そうしたけど、ホントに

良かったの?」

「アスナのリクエストなんだ……食べ物はまだ無理だし……リズからも、なんとか食事を

とるよう言ってやってくれよ」

 

前を歩いているキリトが振り向きながら笑顔で言うが、その表情は怒りや悲しみ、困惑が

混じり合っているようで、それを見たリズの心臓がとくんっと跳ねた。

 

「もしかして、まだ流動食なの?……アレってホント不味いもんねぇ。でも、胃を慣らさなきゃ

いけないとかで、私も無理矢理口に入れられたわ」

 

その時の味を思い出したのか、眉間にしわを寄せ口はへの字に曲がっているリズを見て、

キリトは更に困惑の色を濃くした。そんなキリトの変化に気づかないリズはそのまま自分の

体験談を語り続けている。最後に「アスナはアインクラッドで自分の美味しい手料理食べてた

から、余計に食べられないかも…」と推測したところでキリトの足が止まった。

目の前のドア横のプレートには『結城明日奈 様』と書かれている。

 

「ユウキ、アスナ……あの子、本名、キャラネームにしてたの?」

 

驚いているリズの隣で、エギルも無言ではあるが同様の表情となっていた。当然の反応なので、

キリトも今度は完全に苦笑いだ。

受付で渡されたパスを使い、ドアを開ける。

室内から、わずかだがひんやりとした空気と共に花の香りが漂ってきた。

ここまでの道案内を終えたキリトが先頭を譲るように、正面から身体をずらし、手と表情でリズを

促す。カーテンで仕切られている、その向こうにいるであろう親友の姿を想像しつつ、リズの足が

歩き出した。

カーテンに手をかけ、おそるおそる声をかける。

 

「アスナ?」

 

思ったより小さな声になってしまった。

カーテンをそっと開けると、窓辺に車イスがひとつ。

リズの声には気づかなかったのか、そこに一人の少女が外の景色を眺めるように座っていた。

あの世界で見ていた色と同じ栗色の長い髪が、数センチほど開いている窓からかすかな風に

乗って吹き込んでくる雪と共に揺れている。

顔がよく見えないせいで車イスに座っているのは親友と同じ髪の色をした人形なのかも、と

疑念が生まれるくらい生命力を感じない姿に、リズは不安になってそれ以上足を踏み込めずに

いた。

何かを感じ取ったらしいキリトが素早くリズの横をすり抜け、足早に窓辺へと駆け寄ると、

車イスの人物の顔を覗き込むように顔を近づける。

それから優しく諭すような声を静かに落とした。

 

「何やってるんだ、アスナ。外は雪が舞ってるんだぞ」

 

同時に手は急いで窓を閉め、鍵を掛けている。

外を向いていたアスナの顔がゆっくりとキリトを見上げた。

突然目の前に現れたキリトに驚いたのだろうか、目を見張ってはいるものの俊敏な動きには

つながらない。しかしすぐさま愛しい存在に向けた驚きは消え、目を細めて弱々しく微笑んだ。

 

「……キリトくん」

 

少し乾燥気味の薄い唇は、かつて桜色だったと思わせる色がほんのりのっているだけで、

肌も陶器のような白と言うより、血色の悪さを感じさせる色だ。

キリトを安心させようと、ゆっくりとか細い声を紡ぎ出す。

 

「ごめんね。さっきまでリハビリしてたの。急いで病室に戻ってきたから、外からの風が

気持ち良くて……ちょっと、ぼうっとしちゃった」

 

そう言って口元を緩めるアスナだったが、それに対するキリトは彼女の言葉と表情では安心

できないのか、何かを確かめるように額や頬、首元をそっと手で触れ始めた。

アスナはされるがまま、キリトの手の感触を気持ちよさそうに目をつぶって受け入れている。

程なくしてキリトも納得したのだろう、軽く息を吐き出してから告げる口調に戸惑いは消えて

いた。

 

「具合が悪いのかと思ったよ……ほら、リズとエギルが来てくれたぞ」

「……リズ?」

 

アスナが首を巡らせた。

カーテンの傍で立ち尽くしているリズと目が合う。

タイミングを合わせるように、キリトがアスナの後ろに移動し、車イスの向きを

ふたりへと変えた。

 

「アスナ」

 

今度こそ親友の姿を確かに認め、リズがアスナの元に急ぐ。

 

「リズ」

 

アスナが膝の上に重ねていた細く白い手を震えながらリズへと伸ばした。

あの世界で何回も繰り返してきた懐かしい仕草で、両手の指を絡ませ再会を喜ぶ。

二人の姿をキリトもエギルも嬉しそうに見つめていた。

 

「今日は来てくれて有り難う、リズ……と、エギルさん」

 

リズの背後を横からのぞき込むように、アスナが上体を傾けてエギルにも笑顔を向ける。

その言葉に応じて、片手を挙げたエギルが何か言おうとする前に、キリトが車イスの

後ろから腰をかがめてアスナに顔を近づけ、ニヤリとした表情をした。

 

「な、言ったとおりだろ」

「うん」

 

笑いを堪えるように片手で口を隠しながらアスナが微笑んだ。

そのやりとりを見ていたリズは、合点がいったように、やはりニヤリ顔になる。

 

「ははーん、キリト。さては、あんたエギルが、まんまだってアスナに言ってたんでしょ」

 

エギルはぎょっとした表情になるが、すぐに諦めたようにポリポリとスキンヘッドの

後頭部を手でかいた。アスナは肯定も否定もせず、ただ微笑んでいるだけだ。

キリトとリズはクスクスと笑いが止まらない。

ひととおり空気が和んだところで、リズがエギルに持っていてもらった花束をアスナに向けた。

 

「アスナ、これ……キリトから花がいいって聞いたから」

 

そう言いながらも病室内に飾ってあるたくさんの花を見回して、少し気恥ずかしそうに

している。無理もないだろう。既に花瓶に生けられている豪華な花たちと比べると、今、

自分が手にしている花束が見劣りするのは否めない。

 

「有り難う、リズ、嬉しい……お花持ってきてくれた友達はリズが初めてなの……ここに

あるお花はいつも父が持ってきてくれてる物だから……ああ、でも前にキリトくんの妹の

直葉ちゃんからも、お花いただいたんだよね。ちゃんとお礼伝えてくれた?。今度改めて

紹介してね」

「ちゃんと言ったし、また連れてくるよ」

 

アスナの後ろに立っているキリトが、彼女の頭をそっとなでながら言葉に応じる。

そんな二人のやりとりを見ていれられなくなったのか、エギルが割って入った。

 

「オレは花ってガラじゃないから……」

 

持っていた紙袋から小ぶりのスープポットを取り出す。

 

「アスナがなかなか食べられないってキリトが言ってたからな。店でだしてる

クラムチャウダーなんだが、牛乳やクリームを入れる前のベースを薄味に調整して、

飲み込みやすいよう、軽くとろみをつけてみた」

 

フタをキュッキュッと回して開け、スプーンを添えてアスナに差し出す。

ところがアスナが手を伸ばす前に、当たり前のようにそれをキリトが受け取った。

「ん?」と訝しむエギルとほぼ同時にアスナが小さく憤慨気味の声をあげる。

 

「キリトくんっ、自分で出来るから」

 

その言葉を受けたキリトはすでにスープをひとすくい自分の口に流し込み、味と

温度を確かめている。

 

「今は無理だろ」

「そんなこと……」

 

言いつつスープポットに伸ばした手が小刻みに震えているのが自分の目にも映ったのだろう。

ぺたんっ、と膝に手を落とし、その手を見つめるように彼女自身も俯いてしまう。

自らの手で飲もうとすれば、スプーンの中身は盛大にこぼれてしまう事がわかっただけに

作ってきてくれたエギルの前でそんな失態は出来ないと自分の感情を抑え込んだ。

そんなアスナの葛藤を気づかぬふりでエギルが説明を加える。

 

「具は除いてある……無理はしなくていいが、ほんの少しでも口にしてみてくれ」

「有り難う、エギルさん」

 

キリトが膝をついて目線を合わせ、アスナの口元にスープを運んだ。

薄く開いた唇に少量の液体をゆっくりと流し込む。

キリトが不安そうに見守る前でこくんっ、とスープが喉を通った。

 

「大丈夫か?、アスナ」

 

飲み込んだのを確認してからキリトが声をかける。

 

「……うん、美味しい。有難うエギルさん」

 

安心させるように、キリトに向かって頷いてからエギルに笑顔を見せた。

しかし二口目を強請らないアスナにキリトの表情が曇る。その視線を受け止めて

からアスナはエギルに詫びた。

 

「ごめんなさい、まだ量が食べられなくて……」

「気にするな。一口でも飲んでもらえてよかったよ。なあ、キリト」

「……ああ、そうだな」

「……花瓶借りるね、アスナ」

 

ワケ知り風の会話についていけないリズが、持参した花を生けようと、備え付けの洗面所に

置いてある空の花瓶を指さした。花瓶に水を注ぎながら、花束のラッピングをほどいている間も、

キリトとエギルの会話が聞こえてくる。

 

「なんでクラムチャウダーなんだ?」

「クラムチャウダーの本場はボストンなんだぜ」

「ああ、奥さんの出身地か」

「そういう事だ」

 

花を生けた花瓶をアスナの枕元近くに置くとリズはキリトに声をかけた。

 

「なんか喉かわいちゃった。エレベーターホールの傍に自販機あったわよね。キリト、

付き合いなさいよ」

「はっ?」

「エギルも何か、コーヒーでも買ってこようか?」

「おう、ブラックで頼む」

 

キリトが口を挟む間もなく話が進んでいく。

リズはキリトの腕をつかむと、半ば強制的に病室から連れ出した。

アスナはひらひらと手を振り微笑みながら二人を見送った後、

ドアの開閉音を聞き終わってからエギルに向き直った。

 

「エギルさん、キリトくんから聞きました。《ALO》で私のスクリーンショットを

知らせてくれたって。有り難うございました。エギルさんからの情報がなかったら、きっと

私は今もあの世界に……」

「オレはたまたま入手した情報をヤツに見せただけさ。頑張ったのはキリトだろ……。

それにしても随分アスナに対して過保護になったもんだな」

 

その言葉を聞いてアスナが軽く笑う。

 

「やっぱりそう思います?……私がこんなだから……」

 

膝の上に乗せている筋張った両手の甲に、情けない視線を落としているアスナの様子を

エギルは痛々しく見つめた。浮遊城で細剣を振るい、舞うようにフロアボスを攻撃していた

姿が思い出される。しかしそれとは逆に先ほどまで目の前で世話を焼いていたキリトの姿は

数週間ほど前とは比べものにならない事を彼女に告げた。

 

「でも初めてオレを訪ねてきた時よりはマシだ。あの頃はアスナが目を覚まさないって

表情すらほとんどなかった……今は思いっきり頼ってやれよ」

 

ウインクをしてアスナを元気づけるように笑った。

 

「エギルさんにも心配をかけて……ごめんなさい」

「そう思うなら、早く病院なんか退院してオレの店にキリトと遊びに来てくれ」

「キリトくんと二人でエギルさんのお店に……なんか懐かしい」

「ああ、やっぱりこの《現実世界》でも二人が並んでいる姿を見て、オレもやっとあの

デスゲームから解放されたんだと実感できるよ」

 

泣き出しそうな笑顔のアスナにエギルも笑顔を向ける。

「それに、こっちでもアスナがアルバイトで店を手伝ってくれたら、客足が伸びそうだな」と、

冗談とも本気ともつかない提案を口にしながら。

 

 

 

 

 

「アスナに一体、何があったのっ」

 

エレベーターホールのすぐ前にある休憩スペースに自販機は設置されていた。

休憩スペースと言っても、やはり高価そうなイスとテーブルが配置されており、

廊下からは視線が届かないようパーティションとして観葉植物が並んでいる。

運良くスペースには他に誰も居なかったので、リズは早速飲み物を買おうとしている

キリトに声を荒げた。

ゴトンッと出てきた缶コーヒーを取り出すと、キリトはイスに腰を下ろしタブを開け、

外気温を無視したように選んだアイスコーヒーをゴクゴクと喉に流し込む。

 

「リズ、《現実世界》に戻ってきてから、こうやって普通に液体を飲み込む事が出来るまで

どの位かかった?」

 

コーヒーの缶を見つめながら、リズの質問が聞こえなかったようにキリトが問いを

投げかけてきた。

勢いをそぐような態度が癇にさわり、更に声を荒げようとしたが、キリトの表情を見て

思い直す。

 

「……そうね、最初に水で二日だったかな。二年ぶりで水の味さえ舌が

受け付けなくて……すっかりアインクラッドの味に慣れちゃってたから」

「それでも味が受け入れられれば、その後、飲み込む事に苦労はしなかっただろ」

「そりゃぁ、飲み込む自体は《あの世界》でも疑似体験してたし」

「そうなんだよな。《あの世界》の食事は生命維持という点では無意味だと思ってたけど、

こうやって《現実世界》に戻ってきてみると、あれはあれで意味はあったんだ」

「……どういうこと?」

「《あの世界》でやっていた事は《現実世界》でも順応しやすいってことさ。逆に服を着替える

なんて慣れるまで結構面倒だったし」

「確かにそうね。それまではタッチひとつで着脱できたんだから」

 

リズにも思い当たるふしがあるようで、少し表情が緩む。

 

「それと今のアスナとどう関係があるのよ」

「……《ALO》でアスナは……まともに食事をしていないんだ」

 

リズの時間が止まった。

続いてじわじわと驚きと疑問、哀れみ、怒り、悲しみ……様々な感情が混じり合い、何を

優先していいのか自分でもわからなくなる。

しかしこの自分の感情に思い当たる記憶があった。

先刻、アスナの病室へと向かう途中、キリトが見せた表情だ。

 

「……それで……さっき、食事がとれないって……」

「ああ」

 

キリトはうつむいているが、両手で握っているコーヒーの缶が微かに震えていた。

まだ半分ほど中身は残っているのだろうが、感情のままに力を入れているのだろう。

すでに缶が軽く変形している。

 

「……だって、エギルのスープを飲んでたじゃない」

「ここ数日で、やっと液体なら飲み込めるようになったんだ。それでも、いつもってわけじゃ

ない。最初は口に物を入れることも出来ないで……口にした途端、吐き出したり……エギルは

本当に薄味にしてくれたから。水以外の物をあんなに素直に飲んだのは初めてだよ。エギルが

作ったっていう安心感も手伝ったんだろうな」

「どうしてそんな事に……私、キリトから聞いて自分でも『ALO事件』を調べたけど、事件の

被害者はそれほど深刻な状態ではなかったって……」

「だからアスナだけは違うんだっ……」

 

今度はキリトが声を荒げたが、すぐに押し殺すように「アイツが……」と呟く。

缶が音を立ててひしゃげた。

 

「……食事が出来ない状態だったってこと?」

「いや、多分、アスナの意志で食べ物を摂取しなかったんだと思う。オレにも詳しくは

言いたがらないんだ。でも、そう考えれば……今でも食べ物を口にすることに、どこかで

ブレーキがかかるんだろう」

「なら流動食どころか……」

「今も栄養のほとんどは点滴からだよ」

「……そんな……だから……だからあんなに細くて、弱々しくて……」

 

ギルド《血盟騎士団》の副団長としての凜々しい姿も、自分の店を訪れてくれた時の元気

いっぱいの姿も、二人で街を歩いた時の楽しそうな姿も、今でもハッキリと思い出せる。

彼女の仕草、表情、ブーツのかかとを鳴らすクセ。

それは仮想世界ではあってもアスナの本当の姿だと思っていた。

今の姿は本当に自分の知っているアスナなのか……現実が本当なら《あの世界》でのアスナが

偽物だったのか、そう感じてしまうほどかけ離れてしまった二つの世界での親友の姿。

 

「そんな状態でリハビリを始めたのっ?」

 

なぜ誰も止めなかったのか、怒りにも近い感情がわき上がっていた。

 

「アスナが強く望んだんだ……それに身体を動かせば食欲が戻るきっかけに

なるかもしれない、と希望的な憶測もあった……そうはならなかったけどな」

 

微々たる栄養接種状態でリハビリをしたのでは、体力は奪われるばかりだろう。

 

「……それでも……アスナはちゃんと自分で戻ってくるよ」

 

未だ缶を握りしめたまま、キリトは前を向いた。

 

「アスナは強いから……」

 

信じる気持ちに揺るぎはないのだが、その為に自分は何が出来るのか。

《現実世界》に生還した時より、みるみる細くなっていくアスナをキリトは見守る事しか

できずにいた頃、ふとした会話の中でリズベットの話が出たのだと言う。

アスナが願う事を叶えたい一心で、自ら連絡をくれたキリトもまたアスナと同様の強さを

持っているのだろう。

リズは一瞬でもアスナを疑ってしまった自分を恥じた。

同時にキリトが傍にいてくれればアスナはきっと自分の知っているアスナに戻ってくれるに

違いないと確信する。

 

しばらくこの二人を見守ろう

 

リズはそう心に決めて、笑顔でキリトの背中を叩いた。

 

「そうね。私の親友はアインクラッドで最強ギルドのサブリーダーを勤めてたんだから。

簡単に自分を諦めたりしないわ。私もアスナを信じる。ほらっ、エギルの分のコーヒー買って

病室に戻ろ」

「ああ」

 

残りのコーヒーを一気に飲み干したキリトが立ち上がる。

リズはその間にブラックコーヒーを買い、それをキリトに渡した。

 

「私、洗面所に寄って顔洗ってから行くから、先に戻ってて」

 

アスナの話を聞いて、涙がこぼれそうになったのが理由と言うよりは、自分の気持ちを

仕切り直す為だろう。素直にコーヒーを受け取ると、一足先にキリトは病室に向かった。

 

 

 

 

 

病室に戻り仕切りのカーテンを開けると、キリトの目にアスナがひとりで車イスから

立ち上がろうとしている光景が飛び込んできた。

フットプレートから両足を下ろしているが、腕にも足にも力が入り切らないので、

アームレストを持つ手が震え、肘が伸びきらない。

 

「危なっ!」

 

キリトは持っていた缶コーヒーをサイドテープルに投げるように置くと、素早くアスナに

駆け寄った。と同時にアスナは車イスから中腰で上体を前に傾けた途端、自身を支えきれずに

バランスを崩し前のめりに倒れ込む。病室の床に身体を打ちつける寸前でキリトの両腕が

後ろから彼女を抱き止めた。

そのままゆっくりと自らも膝をついてアスナを床に座らせる。

あのまま床に倒れていたらガラス細工のように粉々に砕けていたのではないかと、ありえない

妄想が湧き上がるほど腕の中の彼女の身体は細かった。

座り込んだままのアスナを改めてしっかり包み込む。

 

「……はぁっ、間に合った」

 

アスナはすっかりキリトに身体をゆだねる状態で、浅い息を何度も繰り返していた。

 

「あ……ありがとう」

「何がしたかったんだ、アスナ」

「そろそろ、点滴の時間なの……車イスのままだと……後でベッドに……移動するのが、

大変だから……今のうちに、と思って」

「ベッドに移動すればいいんだな」

 

途切れ途切れに答えるアスナを支えたまま正面に回り込んだ。脇の下から腕を差し入れ、

しっかりと身体を密着させると、背筋を伸ばして彼女を抱きかかえながら立ち上がる。

 

「……うん、ベッドまで……連れて行ってもらえる?」

 

力は入らないまでも、なんとか自分の両手をキリトの肩に置き、未だ浅い息づかいをしながら

上目遣いで見つめてくる……その表情と言葉に、不意を突かれてキリトの頬に朱が走った。

 

「随分……素直だな」

 

今までなら「自分でできる」とか「一人で大丈夫」と拒まれるが常なのだ。それでも

結局最後にはキリトが手を貸しているのだが、最初からこんなアスナは珍しい。

 

「あ……エギルさんがね、今はちゃんと……キリトくんを、頼れって……」

 

そう言われて最初から何でもかんでも甘えてくる性格ではないと知っている故のエギルの

アドバイスだろう。すぐに人に頼ることをあまり良しとしないせいか、アスナも珍しく

ほんのり頬を染めて、呼吸を整えている。

 

「……アスナ、唇から血がでてる」

「え?、別に痛くないけど……乾燥してるから、ちょっと切れたのかも……んっ」

 

アスナの身体を支えたまま、その唇をキリトが舐めた。

 

「んふっ……」

 

血の滲んでいる部分を軽く舐めた後、今度はしっかりと重ねて舌を使いアスナの唇を潤す。

 

「あっ……ん……」

 

未だ口呼吸をしている隙をついてそのまま舌を入れ込み、絡ませてディープキスにまで及んで

しまうキリトに対し、もともと抗う体力もない状態のアスナは、なんとか身体を反らそうと

もがいてみるがほとんど意味はない。

 

「っもうっ……リズやエギルさんがいるんだよっ」

 

やっとのことで逃れた、と言うよりキリトが解放したアスナは恥ずかしそうに上気したまま、

瞳を潤ませ頬を膨らませている。

 

「今はいないだろ……うん、随分血色が良くなったよ」

「こんな方法はダメだからっ」

 

そうは言っても、ずっとキリトに体重を預けたままでいるので、今彼が手を離したら

すぐさま床に崩れ落ちてしまうに違いない。キリトの手をふりほどけない自分の体力のなさと、

意思の弱さより、彼を愛しく思う気持ちが膨れあがり、両手で触れている肩にそっと顔を

うずめてしまう。

キリトは衝動的にアスナを思いっきり抱きしめたくなるが、僅かに震えている華奢な身体を

気遣い、背中に回した腕に少しだけ力を入れ、耳元でささやいた。

 

「もっと頼れよ、アスナ…………ベッドまで、足動くか?」

「うん」

 

数歩の距離をゆっくりと移動させ、静かにベッドに座らせる。

そのまま頭と肩を支えながら、アスナが横になるのを手伝い、胸元まで毛布をかけた。

 

「そう言えばエギルはどこ行ったんだ?」

 

リクライニングの上部を電動で起こしながらアスナに問いかける。

 

「ちょっと連絡を入れてくるって、思い出したように出ていったけど、休憩スペースで

会わなかった?」

「ああ、なら非常口の方に行ったのかもな」

「キリトくんこそ、リズは?」

「洗面所に寄ってから戻るって」

 

そんな会話を交わしている間に病室のドアの開閉音がする。

タタタッと足音がしたかと思うと、リズが顔をだした。

 

「アスナ、点滴だって。ナースさん来たよ」

 

続いてトレイを手にしたナースとエギルが入ってきた。

ナースは点滴の準備をしながらニコニコとアスナに声をかける。

 

「ちょうど病室の前でお二人と会ったのよ。スープが飲めたんですって?

よかった……なんだか顔色もいいし」

 

顔色がいい理由を思い出して、アスナは気恥ずかしそうに俯いたまま小さな声で「お願い

します」とだけ言うと、既に点滴用の針だけが常時刺さったままの左腕を出した。

ナースは針にチューブを手早く繋げると時間を確認して「また様子を見に来るわね」と

言い残して病室を出て行く。

ナースが退出すると、三人はアスナのベッドを囲むようにイスをセットし、腰を下ろした。

それから、リズは下を向いたままのアスナの顔をのぞき込むように話しかける。

 

「アスナ、お願いがあるの」

「……なに?、リズ」

 

顔を上げ、ちょっと不思議そうな表情のアスナにリズは言葉を続けた。

 

「私達がこの世界に戻ってくるまでの間、こっちでも色んな事が起こってたでしょ」

「……うん」

「新しいお店も知らないうちにたくさん出来てるし……」

「……うん?」

「ドーナッツとか、クロワッサンとか、パンケーキとか、ポップコーンとか……」

 

んんんっ?!

黙って聞いていたキリトとエギルが高速で瞬きをする。

 

「全くクリアーしてないスイーツがたくさんあるの、これって十代の女子として

あるまじきことよっ」

 

スイーツ制覇が何かのクエストのようにリズは語り続けた。

 

「だからアスナ、退院したら、私、アスナと一緒に行きたいの」

 

内容はさておき、リズは真剣にアスナの顔を見つめている。

その表情を見て、アスナもふわりとした笑顔で答えた。

 

「うん、行こう」

 

二人のやりとりを聞いていたキリトが、思い出したように少々うんざりした顔で声を漏らす。

 

「そういえば、この前『宇治金時ラズベリークリームパフェ』をオゴらされたよ」

 

その表情は名前のせいなのか、実物のビジュアルのせいなのか、はたまたオゴった値段の

せいなのか。ゴージャスなネーミングにリズが食いつく。

 

「それ、どこで食べれるの?」

「まあ、うちの近所のファミレスだけど」

「一体誰にオゴったのよ、そんな乙女系のスイーツ」

 

じと目で探るような視線を送ってくる。

 

「妹だよ」

「へぇっ、キリトに妹ねぇ……」

「ホントだってば。さっきアスナとも話してただろ」

「アスナ、知って……」

 

言いかけてアスナに振り向いたリズが声を止めた。

いつの間にかベッドに身体を預けたアスナが静かに寝息を立てている。

リズが顔の正面に人差し指をまっすぐ立てて、頷いた。

それからボリュームを絞ってベッドの向こう側にいるキリトに告げる。

 

「そろそろ私達帰るわね。キリトはどうする?」

「オレは……」

「まだ、握ってろ」

 

エギルが小さくウインクした。

見ると、アスナの左手とキリトの右手がしっかりと繋がれている。

 

「すまない」

 

空いている左手を挙げて謝辞を表した。

 

「今日は本当に有り難う。お陰でアスナも肩の力が少し抜けたみたいだ……」

 

荷物を持って、足音を偲ばせながら病室を出ていこうとする二人に改めて礼を言う。

 

「なに、気にするな。さっきオレのスープを病院側に預けてきたから、少しはアスナも

食べれるようになるかもしれん……また何か作ったら連絡するから、キリト、店まで取りに

来いよ」

「ああ」

 

リズは声をださず、大きく口で「ま・た・ね」と伝えると素早く手を振り、最後にアスナの

寝顔を見てエギルと一緒に病室を出ていった。

 

 

 

 

 

アスナの瞼が何回かゆっくりとまばたき、うっすらと瞳を開く。

 

「アスナ」

 

かの世界で何回聞いたかわからない自分の名を呼ぶ声……何回聞いても耳に届く度に胸が

温かくなる声が近くに聞こえた。

 

「……キリトくん?」

 

意識を覚醒させ、かの人を視線で探す。

アスナが横になっているベッドのリクライニングの上部は少し角度をつけたままで、

すぐ左側に声の主がわずかだが陰りのある瞳をたたえ、彼女の顔を見つめていた。

視線が交差するのとほぼ同時に、自分の左手に優しいぬくもりを感じる。

今出来る精一杯の想いを左手に込めてそっと握り返した後、ふと感じた疑問を呟きながら

ベッドの左右を見回した。

 

「あれ?、私……寝ちゃって……リズとエギルさんは?」

「アスナが眠ったから帰ったよ。十五分くらい前かな」

「はぁっ……折角来てくれたのに、私ったら」

 

自分の所行が情けないのか、ため息と共に目を閉じて眉を寄せている。

素早く動かせるのなら、人差し指を眉間にグリグリさせたい勢いの落胆ぶりだ。

 

「仕方ないさ、リハビリの後は疲れてるだろ。リズもまた来るって言ってたし」

 

アスナを元気づけたい為の笑顔である事はお見通しなのだろう、それよりも気がかりなのは

目が覚めた時に見たキリトの表情だった。

 

「……どうしたの?」

「えっ?」

 

彼女の言葉が何を意図しているのか瞬時わからない様子だったが、すぐに納得したように

苦笑いを浮かべる。

 

「ああ、こうやって点滴の針が刺さったアスナの左手を握っているとさ、どうしても

思い出しちゃうんだ……アスナが眠り続けていた頃のことを」

 

今はアスナの頭を拘束している物は何もないのだが、体力が落ちているせいで微動だにせず

睡眠を取っている姿が、あの頃の昏睡状態とオーバーラップしてしまうのだろう。

 

「また……アスナが目を覚まさないんじゃないかって……怖くなる」

 

あの日、キリトはこの病室で《ALO》から目覚めたアスナと再会を果たした。

互いの姿を瞳に映し、声を聴き、ぬくもりを感じたはずなのに、それが全て夢だったと

突きつけられる、その瞬間がやってくるのではないかと、そんな妄想に捕らわれる。

 

「……それは私も同じだよ。……夜、眠る時、次に起きた時、自分の居る場所があの鳥かごの

中だったらどうしようって……またキリトくんのいない世界にたった一人になっちゃう……

ホントはね、いつも、ずっと、こうやって手をつないでいたい」

 

その言葉を聞いて、今度はキリトが握る手に力を込めた。

 

「でも、それってキリトくんも、自分さえも信じてないことになるでしょ」

 

アスナの言葉を聞いたキリトは、彼女の左手に更に自分の左手も重ねた。

自分の手が彼に包み込まれる……そのたまらない幸福感に僅かに微笑む。

 

「私はいつでもキリトくんを信じてるし、キリトくんはちゃんと私を助けに来てくれた。

これを現実じゃないかもって疑うのは失礼だよ……」

 

彼女はそこで言葉を句切ると、何かを思い出すように遠い目をした。

 

「今日ね、リズやエギルさんと会って……エギルさんに今度、キリトくんと一緒に

お店においでって誘われて、リズからは一緒に出かけようって約束ができて……

どんどんこれから現実世界でやりたい事が増えていくの。もしかしてこれは夢なのかも、

なんて考えるヒマ、なくなると思う」

 

アスナがキリトに向けて、笑顔を向ける。

少し首を傾けて笑うのは、あの世界で何回も見た彼女の癖だ。

 

「私ね、現実のこの世界でもキリトくんと一緒にお茶したり、お散歩したり、

お買い物したり、向こうの世界でしてた事……うううん、向こうで出来なかった事でも

やってみたいって思ってる事、たくさんあるんだよ」

「そうだな…………ああ……っと……」

 

アスナの話を聞いて、不安が少しずつ小さくなっていったのか、キリトの表情にも笑顔が

混じり始めた時、何かを思い出したように小さく声をあげた。目線を下げ、しばらく

考え込んだ後、再び顔を上げてアスナを正面から見つめ、改まった口調になる。

 

「なら、アスナ…………結城、明日奈……さん」

「……はい?」

 

突然のフルネーム、しかも「さん」付けで呼ばれたアスナは、キリトの様子を見て

何を言われるのかと小首をかしげる。

返事をしたものの、顔はこちらを向いているのになかなかキリトの言葉が続かず、

もう一度声をかけようとした時。

 

「……こういうの、初めてなんだけど……」

「……うん」

 

意を決したようにアスナを見つめていたキリトの視線がまたもや下に落ちる。

耐えきれず、小さな声で恐る恐る促した。

 

「なぁに?」

「オレと……」

 

言葉を発した途端、顔を上げたが、最後まで言い切らずに目をつぶって深呼吸を一回はさむ。

再び、アスナをしっかりと瞳に映し、最後に再び深く息を吸い込んだ。

 

「付き合って……く……ださい」

 

つっかえながらも全てを吐ききるように交際の申込みを告げる。

キリトは既に下を向く余裕もなくなったのか、顔を赤くしながらほとんどフリーズ状態だ。

アスナもまさかこのような言葉をもらえると思ってもみなかったので、自分の顔が

徐々に火照っていくのを自覚する。両手で顔を覆いたかったが、左手はキリトと繋がって

いるため、右手だけを頬にあてた。

 

「あ、まさか、コレってさっきみたいに血色を良くするとかいうのじゃ……」

「ちっ、違うって」

 

急いで首を振るところを見ると、本当に交際を申し込んでいるようだ。

 

「……どうして?」

「どうしてって……」

 

交際を申し込んだ相手から「どうして」という返事もなかなかレアで、予想外の返答に

キリトも言葉を詰まらせる。

しばらく逡巡した後、顔を赤くしたまま、キリトは真剣に説明を始めた。

 

「この世界でアスナがしたい事って何かな、って考えた時……アインクラッドの血盟騎士団

本部で言ってただろ。現実世界で……その、オレと……ちゃんと付き合いたいって……。

だから、まず……こう言えば……いいかと……」

 

最後まで言い切らないまま、結局下を向いてしまう。

これがつい三十分ほど前にアスナを抱きしめ、少々強引なキスをした相手だろうか。

そもそも《SAO》では夫婦として生活をしていた人から、改めて交際を申し込まれるとは……

 

言った……確かに言った……「現実世界でちゃんとお付き合いをして」と……それを

 

「覚えていて……くれたんだ……」

「……うーん、覚えてたって言うよりは、思い出した、だな」

 

相変わらずわざわざ言わなくてもいい事を正直に言うヒトね、と微笑みながらも眉がさがる。

 

「それで、返事は?」

 

下を向いていたキリトが、少し上目遣いで心配そうに聞いてきた。

 

「……今すぐ、お返事した方が、いいですか?」

 

一転、アスナが茶目っ気のある表情に変わっているのに気づき、キリトも、悪戯っ子のような

笑顔を浮かべる。

 

「ぜひ」

「なら…………お友達から」

「へっ?」

「ゴメン、冗談……一度言ってみたかったんだもん」

 

軽く首をすくめながら微笑む姿を見て、違う意味でも安心をする。

アインクラッドでアスナはキリト以外からも求婚をされているはずだ。

多分現実世界でも交際を申し込まれた経験は何回かあるだろう。

今の言葉を聞く限り、そういった申し込みに「お友達から」という返事すら

使った事がないということに、それだけでもアスナの中の自分の存在を実感する。

 

「焦った……笑えない冗談だぞ」

 

ふうっ、と息を吐きながら左手だけをアスナから離し、自分の顔を覆うようにして下を向く。

肩を落とした姿を見て、アスナはクスクスと笑いながら小さく声をかけた。

 

「右手、かして」

「ん?」

 

言葉と同時に繋がれていたキリトの右手をアスナの手が導く。

手がどんどんとアスナに引き寄せられるのに合わせ、キリトはイスから腰を浮かし

身体ごと彼女に近づいていった。

アスナはキリトの右手を自分の頬にあてると、宝物を抱くように両手で大事に包み込み

目を閉じてそっと頬ずりをした後、まっすぐにキリトを見つめ笑顔で告げた。

 

「はい……お願いします……桐ヶ谷、和人くん…………これで、いい?」

 

本名をキャラネームにしていたアスナと違い、キリトは《現実世界》での本当の名前を

アスナの口から聞くことに慣れていないせいで、一瞬にして全身が固まる。

アスナはそんなキリトの姿をただ、ただ少し照れつつも微笑みながら見つめるだけだった。

そうして視線を交わしているうちに、自分に向けられた明日奈の照れ笑いで胸が満たされた

キリトは次第に頬の照りが冷めて、逆に瞳の奥に熱を孕み始める。

ベッドの端に斜めに座り、アスナの頬に触れている右手と同様に、反対側の頬にも

左手を添え、彼女の顔を挟むような体制になると、そのまま自分の顔を近づけた。

 

「このベッドで眠り続けるアスナにずっと話しかけていたよ。目を覚まして欲しい、

声が聴きたい……君に会いたいって……今、アスナの口から現実のオレの名前を聞いて

実感した、本当に《現実世界》で再び君に会えたんだって」

 

キリトの言葉を聞いているうちにアスナの顔からも笑顔が消え、双眸から一筋の涙がこぼれ

落ちた。それが両頬に触れているキリトの手に伝わる。

キリトは更に顔を近づけ軽くアスナの唇に触れると、泣き出しそうな表情で彼女に懇請した。

 

「……オレを呼んで……この唇から……『キリト』って、聴かせて……」

「…………キリトくん」

 

声を聴いて、キリトはそっとアスナの右頬にキスをする。

唇の感触が離れると再びアスナはその名を口にした。

 

「キリトくん」

 

続いてキリトが左の頬に口づける。

 

「キリトくん」

「……もっと……」

 

こんな風に甘えてくるキリトは珍しい。

アスナの口から自分の名が呼ばれる事をどれほど焦がれていたのか、それを想いアスナも

胸が苦しくなった。それでも彼の名を呼び続ける。

 

「キリトくん」

 

華奢なおとがいに、おでこに、こめかみにとキスの雨を降らしていく。

キスをする度に自分を呼ぶ彼女の声が耳に届く、その回数を重ねる毎に少しずつ心が軽く

なっていくのわかった。

 

「キリトくん……キリトくん」

 

段々と急くように自分の名を呼ぶ彼女の声。

今はなきあの浮遊城で、あふれる想いを伝えたい時の懐かしい口調だ。

閉じた瞳にキスをした後、震えながらアスナの瞼が開き、キリトをじっと見つめた。

今度は僅かに眉を寄せ、訴えるような表情になっている。

何が言いたいのか、だいたい想像はつくのだが、わざと首をかしげ微笑みながら

問いかけた。

 

「なに?、アスナ」

「……キリトくんも……呼んで」

 

《現実世界》に生還した後、何度もうなされた彼女のいない悪夢の中で、又は眠り続ける彼女の

傍らで手を握りながら念じ続けた事もあった。《ALO》で世界樹のガーディアンに囲まれた時も

何度も呼んだ彼女の名前……いつも返事はなかった……けれど今は……

 

「……アスナ」

「……はい」

「アスナ」

「はい」

 

アスナにとっては、あの崩れゆく世界で最後まで呼んでもらった名前、次に囚われの身と

なっていた時、唯一彼だけが呼んでくれた名前、《現実世界》で目覚めて初めて呼ばれた名前

……全てキリトが呼んだ《仮想世界》と《現実世界》での自分の名前。

 

「……アスナ」

「やんっ」

 

アスナの名前を呼びながら、啄むようにキスをしていたキリトが最後に彼女の耳元に囁くように

その名を口にした後、耳垂を甘噛みし、耳孔全体に舌を這わせる。

 

「んーっ、いじわる……」

「彼女にいじわるなんてしないさ」

「だって……んんっ」

 

最後のお楽しみにとっておいたと言わんばかりに、アスナの薄い唇にキリトのそれが重なる。

何度も音を立てて吸い付き、小一時間ほど前の比ではない位、舌を使い彼女を味わうと、

アスナだけに見せるやわらかい笑顔でもう一度、その名を呼んだ。

 

「アスナ……」

「……キリトくん」

 

惚けた瞳で見返すアスナの顔はすっかり色づいている。自分ばかり余裕がない気がして、

アスナはその色を見られまいとキリトの頬に顔を寄せた。

 

「私ね、あの城にいた時、キリトくんに言ったことがあったでしょ。《現実世界》に帰りたい

理由……やり残したことがあるって」

「ああ、そう言えば、言ってたな。セレムブルグのアスナの部屋で」

「うん……でもね、私が帰れたら一番したかった事って、《現実世界》でやり残した事でも、

《現実世界》に居る人に会いたいって事でもなかったんだよ」

「じゃあ……」

 

問いかけるようなキリトの言葉を耳にしながら、アスナはゆっくりと顔を起こした。

輝く笑顔をキリトに向け、その答えを告げる。

 

「君にもう一度出会うこと……私の一番の願いを叶えてくれて、有り難うキリトくん」

 

そして二人はゆっくりと抱きしめ合った。




お読みいただき、有り難うございました。
アスナが《現実世界》に復帰した後、アスナの心身の状態が原因でしばらくはキリトも精神的に
不安定ではないだろうか?、という思いで書いてみました。
基本、この『かさなる手、つながる想い』はキリトに続きアスナが《現実世界》に
復帰した後を舞台としたエピソードを考えていますので、本作が時間軸では一番古いものに
なると思います。
しかし、実を言いますとこれも私的にはかなり初期の作品でして、年末年始は恥ずかしさに
もだえながら加筆・修正作業を行いました。
『再会』はいろいろと意味を含ませていますが、書いた当時、珍しくシンプルに即決できた
タイトルです。
そして多分、ご本家(原作)様ではアスナがエギルと《現実世界》で会うのはダイシーカフェだと
示唆されていると思うのですが、《ALO編》でキリトにきっかけをくれたエギルなら、
お見舞いに行くのもありでしょう、と勝手をさせていただきました。
では、引き続き「お年玉」的に短編も投稿しますので、よろしければお付き合いください。

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