ソードアート・オンライン《かさなる手、つながる想い》 作:ほしな まつり
今回はアスナがSAO事件の時《現実世界》で入院していた
総合病院でのお話です。
埼玉、所沢にあるホテルばりの外観で地元でも有名な総合病院は中に足を踏み入れてもそのイメージを裏切らない。
足音を吸収する柔らかな絨毯の上を真っ直ぐに歩けば正面に見えるのは無機質とはほど遠い重厚感のある分厚い天然無垢の一枚板を天板に使ったホテルフロントと呼びたくなるような受付だ。
受付スタッフの制服もまた「着てみたい」と憧れを抱かせるデザインで、着用者もどこか誇らしげな面持ちで働いている。
周囲の壁にはいくつかの本物の名画がかかっており、天上は高く煌びやかなシャンデリア、とまではいかないが全体の豪華さを印象づけるのにふさわしい装飾の照明器具が取り付けられていた。
今は午前の一般診療時間であるがこの病院は全科が紹介制であり予約制である。
加えて一回の受診で診察料その他諸経費を含めこの病院の風格に見合った金額が請求される為、一階の外来受付や待ち合いスペースも人がごった返す事はなく医療機関特有の消毒と滅菌の匂いが混じった静寂さが漂っている……と、そこに慣れた足取りで一人の少年がやって来た。
病院を訪れるには些か配慮が欠けているような色味の服で周りに関心を持つことなく受付へ向かう。
『今日も黒いなぁ』
外来患者用のフリースペースに設置するにはちょっと高級な座り心地のよい椅子に腰掛けて雑誌を眺めていた少女は最近、観察対象に定めている少年、桐ヶ谷和人へ視線を送った。
ブラックジーンズにファーのついた暖かそうな黒いダウンジャケット、その中に着ているのはブルーグレーのシャツだ。
それは今日に限ったことではなく、いつも黒っぽい感じのカラーコーデで三日に一度はこの病院を訪れているから嫌でも目に入る。
ただ興味を引かれたのはその来院頻度と服装も然る事ながら常に思い詰めた表情をしていたからだ。
病人、ケガ人の見舞いが大半だから笑顔の人は少ないけれど、それでも和人の雰囲気から一種の危うさを感じて少女は一瞬たりとも目を離さずにその姿を目で追った。
カウンターにたどり着くと受付スタッフも慣れた様子で通行パスを用意する。それを無言で受け取りそのまま入院棟の高層階専用エレベーターへ向かう背中に無駄な動きは一切無く、まるでオートメーション化された機械のようだ。
角を曲がり視界から消えて、ふぅっ、と一息ついていると、別方向から歩いてくる看護師の葉瑠が少女を認めてギョッと目を丸くしたかと思えば、すぐに何か言いたげに睨んでくる。
『あ、見つかっちゃった』
確かにここは外来患者や面会希望者が利用する場所で少女がいていい場所ではない。
けれど暇なのだ、ここにあるモニターは大きくて見やすいし置いてある雑誌で最近の情報だって仕入れたい。別に混雑しているわけではないのだからちょっとくらいいいではないか、と思いながら少女はぺろっと舌をだした。
それからも少女は和人が病院に来る度、一階の受付フロアで観察をする。
諦めとも違う、かと言って期待でもない、緊張、焦り、苛立ち……それは見舞っている相手にではなく自分自身に向けられているようで、それでも和人が病院を訪れる日々は続いた。
『ああいう雰囲気の人って段々足が遠のいてお見舞いに来なくなると思ってたけど……』
三日に一度だったのが五日に一度、一週間に一度……になることはなく、それでも硬い表情は変わらずで和人は病院にやって来る。
そしてその姿が一転したのは二月の初め、夜中に雪がちらついた寒い日の翌日からだった。
正面出入口の自動ドアが開ききるのももどかしげに足を踏み入れ真っ直ぐ受付に向かう姿はわかり易く浮かれていて、パスを受け取る際も小さく「どうも」と言葉に軽く会釈まで添える変わりように、最初は『えっ?!』と開いた口を閉じるのをしばらく忘れたほどだ。
『これは……見舞っていた相手が快方に向かってるのかな?』
となれば次に気になるのは黒い少年が足繁く通っている対象者だが、さすがに後をつけていくのはダメだろう事くらいはわかる。万が一葉瑠にでも見つかったら大目玉を食らうのは間違いない。
『でも、でも、でもぉっ』
好奇心で手足をジタバタさせてみるが当然彼女の望みに手を貸してくれる人は現れず、結局今まで通り和人の来訪を見守るしか出来ない日が何日か続いたある日、チャンスは唐突に訪れた。
それは二月にしては珍しく太陽の光が惜しみなく地上に降り注ぎ風は穏やかでポカポカと気持ちの良い天候だった。
うっかり間違えて春がやって来たのかと思うくらいの散歩日和で、当然病院の中庭には入院患者が病室からもぞもぞと抜け出してくる。だから少女もなんとなく普段は行かないその中庭へと目的もないままやって来ていた。
残念ながら春花の蕾が膨らむまではいかなかったが少々殺風景なままの庭をゆっくりと散策する人達の表情は皆一様に穏やかで……そしてその中に見つけたのである、これでもかと慎重に車椅子を押す和人の姿を……
『えっ!、もしかしてあの子が?』
低木しか植えられていない為できるだけ姿勢を低くして梢の隙間から車椅子に座っている高校生くらいの女の子と、後ろからその車椅子をゆっくりと動かしている和人を覗き見る。
彼女は儚げな笑みで外の様子を嬉しそうに眺めているが、顔色は悪くないものの入院生活の長さを伺える生気の足りない動きだ。
毛布にすっぽりと包まれているので蓑虫みたいに顔しか出ていないのだが外気温や自然風といった少しの刺激で簡単に体調を崩しそうに見える。それでも僅かに覗く首筋やマスクの下の顎の白くほっそりとしたライン、印象的な瞳の色だけでも美少女なのは間違いない。
『それにしても少年、慎重すぎじゃない?』
車椅子のハンドグリップを握る手や腕、肩にも必要以上の力が入って微かな振動すらさせまいとする覚悟が全身から滲み出ている。そんなに踏ん張らなくてもこの病院の車椅子は座面、背面のクッションや前後輪のサスも上質だから座り心地は抜群のはず、そこまで気を遣う必要はないんだけどな……と少女と同じ事を思ったのか車椅子に座っている明日奈が物言いたげにわずか首を巡らせた。
「ん?、どうした?、アスナ」
すぐさま止まって顔を寄せてくる和人の顔をしばし見ていたが、その表情があまりにも真剣だったせいか結局何も告げることなく、ゆるく顔を左右に振って再び中庭の景色に目を戻す。
和人の方は「やっぱり抱き上げてきた方がよかったか?」などと思案顔だが明日奈には届いてないらしく、久しぶりに浴びる太陽の光を眩しそうに、そして嬉しそうに地面から空まで全方位にのんびりと視線を巡らせていた。
そうしてゆっくり、ゆっくりと移動して小さな花壇の脇に車椅子を止めると和人はすぐ横のベンチに腰を降ろし、隣にいる彼女の存在を実感するように安堵の息を吐く。
明日奈が小首をかしげると慌てて、けれど笑顔で理由を話し始めた。
「こっちでは、今日まで、アスナを、ずっと病室で、見ていたから……あの部屋でしか、会えない、NPCみたいな、感覚があったのかも、しれない。こうやって、陽の光の元で見る、アスナの瞳の色とか、髪の色が、オレの知ってるアスナだって、今改めて思い出したんだ」
噛みしめるように少しずつ紡いだ言葉は正確に彼女に伝わったのだろう、まさに花が綻ぶような笑顔で応えると毛布の端からたどたどしく小さな細い手が伸びてくる。
「っ!!、ダメだって。ほら、ちゃんと、暖かくして」
出てきた手はすぐさま和人に両手で捕らえられ再び毛布の中へと押し込まれた。それが不満なのか細い眉の根が寄っているが和人は困ったような笑みで諭すように言い聞かせる。
「本当なら、外に出るのは、まだ早いんだ。今日は、春みたいな陽気だけど、それでも、身体は冷やさないように、しないと」
渋々といった様子で明日奈が頷くのを見て真面目ぶった顔の和人も表情を緩めた。
「出歩けるように、なったら、一緒に、色んなところに、行こう」
今度はすぐに「うんっ」と小鼓ような声が跳ね返ってくる。
「外出許可がおりたら、まずは、この辺りを、案内するよ」
とは言えオレも病院の往復だけだからそんなに詳しいわけじゃないんだよな……と続く和人の顔を明日奈は優しい笑顔で見つめていて、それからしばらくは二人だけの空気がその場に流れていた。
ピピピッ、ピピピッ
和人との会話が途切れ、そのまま二人並んで瞼を閉じ暖かな陽射しを静かにのんびりと浴びれば、まるで浮遊城アインクラッド二十二層のログハウスのウッドデッキで一つの揺り椅子に寄り添っていた頃のようで、ついウトウトとしかけた時、突然毛布の中から聞こえてきたくぐもった電子音が和人の意識を呼び戻す。
パッと目覚めて明日奈に顔を向ければ……
「アスナ?……寝てる、のか?」
軽く首をかしげた体勢で長い睫毛は自然光によって頬に綺麗な影を落としている。
電子音はそろそろ検温だったり回診だったりの予定時刻を知らせるアラームだ。だから病室にいない場合は戻らなくてはならないのだが……音は鳴り続けているのに明日奈は珍しく目覚める気配もない。
彼女を起こそうと伸ばしかけた腕を止めた和人は少しだけ逡巡すると揺り起こす為ではなくアラームを止めるために毛布の中にそおっ、と手を忍ばせ音源である彼女の手首にある入院患者用リストバンドを探った。
無事に音を黙らせた後、和人が吐いた小さな息は明日奈を起こさずに済んだ安堵よりも手首を刺激する震動もそうだが自分の手が潜り込んでも気付かない彼女の睡眠の深さの理由のせいだ。
先日、彼女の病室を訪れる前に「結城さん、夜中うまく眠れていないみたいで」と看護師から聞いた話が頭をよぎり、ならせめて今はゆっくりして欲しくて和人は静かに立ち上がった。もう少しの間だけ彼女の安息を守るべく建物へ向かう為踏み出すが、その足を一旦止めて自分が着ていたダウンジャケットを脱ぎ、大きく広げて彼女の前身を覆う。
これでよし、と言わんばかりに頷くと和人は今度こそ院内へと駆け出していったのだった。
しかし和人が傍を離れて少しすると穏やかだった明日奈の寝顔が段々と険しいものへ変化し始める。
眉間には皺が寄りマスク越しでもわかるほど呼吸も荒くなってきた。
どうやらあまり良くない夢をみているようだ。
全身を硬く小さくして何かに耐え忍ぶように今度は息を止めてやり過ごそうとしてる。
苦しそうな、辛そうな、泣き出しそうな顔に枝葉の陰から覗いていた少女が我慢出来ずに車椅子の前へと飛び出した。
『起きてっ』
叫びに驚いたようにビクッと肩を振るわせて息を止めた明日奈の細い睫毛が震え、ゆっくりと瞼が持ち上がった。夢から覚めた事を自覚したのだろう、一回大きく息を吸い込んで細く細く吐き出す。しかし自分がなぜ外にいるのか記憶が繋がっていないらしく戸惑いと警戒が表情を固くする。
『大丈夫だよっ、アナタと一緒にいた男の子ならすぐに戻って来るから』
少女は懸命に明日奈を落ち着かせようと試みるが、彼女は身体も顔も強張らせたまま気配を消すように身じろぎもせず視線だけを動かして周囲の状況を探っていた。明日奈にとっては初めての場所で、見覚えのある景色ではないがちらほらと入院患者らしき人達が見えたお陰かようやく瞳から警戒の色が薄まる。
そしてようやく気付いて「あっ」と目を見開いた。
自分の前身頃を包むようにかけてある和人の上着……もぞもぞと両肩を動かし口を覆っているマスクの位置まで埋もれ嬉しそうに目を細める。
『そうっ、その上着の男の子。アナタの事とっても大事にしてるね』
今度こそ少女の言葉が届いた気がするが、少し困ったように細い眉尻がさがるだけだ。
『やっぱり……聞こえてないかぁ』
残念そうに呟くと少し遠くから明日奈が目覚めているのに気付いたらしい和人の焦った足音が急接近してきたので少女は静かにその場を去ったのだった。
それからも少女は変わらず病院の受付前のスペースで勝手気ままに過ごす日々を続けている。
今日はどんな人が来るかな、と雑誌も見つつ辺りに気を配っていると別病棟の方から一人の少年がタタタッとやって来た。
「お父さんっ」
会計カウンターの前にいた若い男性がその声に反応する。
「和真、ここは病院だから走ったり大きな声はダメだって言ったろ」
「そうだった。ごめんなさい……あのねっ、お母さん、もうすぐ来るよ」
父親に注意され、ちょっと反省顔になった少年だったが我慢しきれなかったようですぐさまウキウキとした声を、だが今度は内緒話をするみたいに潜めて報告した。
「わかった。教えてくれてありがとう。支払いは済ませたからアスナが来たらすぐに帰れるぞ」
父親の口から出た名前に少女の目がくわっ、と大きくなる。
『えっ!、その名前って……そう言えばあの顔…………』
すっかり大人の男性になっているが彼は以前この病院に黒っぽい格好ばかりでお見舞いに通っていたあの少年では?、と確かめたくて思わず近くまで、そそそっ、と移動しかけた時、更に別病棟から人影が近づいて来た。
「和人くん、お待たせ」
『あっ、中庭で会った子だ』
こちらも儚げな美少女から健康的なスレンダー美人に成長を遂げているが、間違いない、車椅子に乗っていた女の子である。結局リハビリ途中で退院してしまったせいで少女は車椅子に乗っている明日奈しか見たことがないが間違いない。
「お母さんっ、ボクが赤ちゃん抱っこするっ」
和人と明日奈の声が「えっ」と重なる。
改めてしっかり観察すれば明日奈は両腕で大切そうにタオル地の小さな包みを抱えていて、その大きさから中身が容易に推測できた。
『そうか、ここの病院、産婦人科は出入り口が別にあるんだよね。妊婦さんの体調管理の為と外来やお見舞いの人が気兼ねなく訪ねられるように』
多分和人はあの時のように足繁く通っていたのだろうが正面玄関から出入りをしなかった為、少女も気付かなかったようだ。
『と言う事は赤ちゃんに向かって両腕を広げてるのも二人の子供かぁ』
小学校に上がったばかりの息子に期待と自信に溢れた目で見上げられて明日奈はいつものように、ほわん、と微笑んだ。
「ありがとう、和真くん。でもねお外だと転んだりぶつかったりすると危ないからお家に帰ってからお願いしようかな」
「それなら……それなら……お母さん抱っこするっ!」
途端に和人の口からもの凄い低音で「は?」と威嚇じみた声が吐き出される。
「だってユイ姉言ってたよ。お母さんは病院から帰って来てもまだまだお休みが必要なんだって。歩くの大変だったらボクが抱っこしてあげるよ」
その年齢で母親を労る気持ちを真っ直ぐに告げる優しい男児に育っているようだが、如何せん色々と無理があった。
一番の問題は少年の父親が自分の息子さえ威嚇する愛妻家である点だろう。
和人は視線を水平に合わせるためスッとしゃがんで息子の真正面に顔を持って来る。
どう見ても小学校低学年の子供に向ける表情ではないがそのへんは和真も慣れたもので「なあに?、お父さん」と気負いのない声で問いかけた。
「いいか和真、よく聞け。アスナを抱っこしていいのはオレだけだ」
「ちょっ、和人くんっ、なんて事言うの!」
「確かにユイの言う通りアスナには休息が必要だ。だから一刻も早く家に帰ってオレがアスナを抱っこして労り、お前は妹を抱っこして面倒を見てやれ」
「お母さんを抱っこして板割るの?」
「違う。アスナにお疲れさま、って気持ちで接することだ」
「せっする?」
「うーん、だから、アレだ、ほら…えーっと…………アスナさん」
救いを求める真っ黒な瞳が聖母のような笑みで静かに見守っていた妻を見上げると、その口元は更にニッコリとした形に角度を深めた。
「今の場合はね、これから皆で帰ったら和人くんは私がゆっくりのんびり出来るようにお家の事をたくさんしてくれるって意味だよ」
「うえっ!?」
「そうよね?、和人くん」
「……はい、そうデス」
しばらく我慢していた妻の独り占めが帰宅後すぐには叶わないと知った和人がカクンッ、と項垂れると元より母を休ませるつもりだった息子の方は仲間を得たとばかりに目の前の父親に無邪気な笑顔を見せる。
「一緒にがんばろーね、お父さんっ」
「…ぉぅ、そう、だな」
力なく同意しながら立ち上がった和人だが、未だ割り切れないのか身長はとうに明日奈を追い越しているのにねだるような角度で愛しい妻に向かい「でもさ」と口を開いた。
「昨日、うちの母さんに言われてベビーベッドと明日奈の布団は干したし、タオルなんかもちゃんとしたし、今朝は家を出る前に京子さんが来て料理の詰まった容器をたくさん手渡されたから冷蔵庫もいっぱいになってるぞ」
「えっ、うちの母が料理を?!」
「いや、中身は佐田さんが作ったって言ってた」
それでも献立を考えたのは京子だろうと両家の母達の気遣いに目元を潤ましていると和人がバイブに気付いて携帯端末を取り出す。
「タクシー着いたみたいだな。アスナ、代わるよ」
「うん、お願い。今はお腹いっぱいで寝てるから」
しっかりと抱っこしていた小さな命を、そーっと和人の腕の中へ移動させれば、ちらりと寝顔が見えて漆黒の瞳が優しげに細まった。それを見ていた和真が何かをグッ、と堪えたのに気付いた明日奈は今まで赤ん坊に独占されていた手を伸ばし「和真くん」と兄になった息子に微笑む。
「和真くんは私と手をつないで帰ろっか」
けれど和真とその誘いを父親譲りの真っ黒な目でしっかりと見つめ返した。
「いいよ。ボクはお母さんの荷物持って行くっ」
和人が足元に置いていた小さめの……それでも和真にとってはランドセルと同じ位大きなナイロンバッグを両手でうんしょ、と持ち上げると一人先に病院の出口へと向かう後ろ姿に明日奈は驚きで目を丸くしている。隣にいる和人も一瞬「おっ!?」と思ったものの今は片方の口の端をあげ「兄貴になったんだもんな」と小さくも頼もしい背中を見守っていた。
「そうだけど、ちゃんと和真くんも甘えさせてあげないと。私の入院中、色々我慢させちゃったでしょ?」
「オレも結構色々ずっと我慢してましたけど」
「かっ、和人くんは…」
そこまで言って不自然に言葉を途切れさせた明日奈はさっきとは比べ物にならない程目を大きく見開いた後、ほんの少しだけ逡巡してからちょっとぎこちなく口元に笑みを浮かべ小さく手を振って「あ・り・が・と・う」と唇を動かした。
「アスナ?……知り合い?」
彼女の向いている方向には待ち合いスペースを利用している人が何人かいたが、不思議な事に誰もこちらに手を振り返している様子がない。それでも彼女は出会いを締めくくるように軽く頷くと強張りが取れた笑顔で和人に「うん」と肯定を口にした。
「前にね、ここの病院の中庭で会ったの」
「中庭?……ああ、そういえばあったな。アスナが《現実世界》に帰還した時、行ったっけ」
「そうそう、あの時は和人くんがもの凄く慎重に車椅子を押してくれたよね」
「そりゃそうだろ。アスナ、まだ聴力だって完全に回復してなかったし。どこもかしこも細くて軽くて毛布でぐるぐる巻きにしておかないと飛んでいきそうだったし」
あの毛布は寒さ対策だけではなかったらしい。
「私って…ほら、なんかちゃんと実体がないって言うか、ぼんやり透けてる感じの…えっと……オバケさん、がちょっと苦手でしょ?」
突然のオバケの話題に巨大なハテナマークを頭上に浮かべたまま、それでも和人は「そうだな」と軽く頷いた。ただしその不納得感は明日奈が言うところの「ちょっと」にもかかっているのだが、ひとまずアストラル系を不得意としているのは事実なので話の続きを待つ。
「でもね、あの時声だけはハッキリ聞こえたの。私に『大丈夫だよ』って一生懸命かけてくれた声。けど、私、びっくりしちゃってちゃんとお礼もできなかったから……今日ここで伝えられてよかった」
「は?、それってどういう……」
「お母さんっ、お父さんっ、タクシーさん待ってるっ」
問いかけは最後まで言葉にできず、明日奈もまたそれ以上は微笑むのみで話す気は無いのだろう、「行こっ」と和人を促しながら自分達を待つ息子の元へと急いだのだった。
その様子をそっと見送りながら嬉しさでニマニマと頬を緩ませているいる少女の背後に看護師の葉瑠がわざとらしい咳払いと共に現れる。
『おおっ、葉瑠ちゃんっ』
外来の受付けがちょうど終わった時間なので待ち合いスペースにいる人はまばらになっていた。母娘とみられるよく似た面立ちの女性二人はお喋りに夢中だし、隅にすわっている成人男性はイヤホンをつけたまま携帯端末の画面しか見ていない。前の方に座っているお爺ちゃんなんて舟をこぎ始めているので聞かれる心配はないだろうが、それでも葉瑠は小さな独り言のように声を零す。
「まったく、いつまでここにいるんですか?」
『えー、昼間はやっぱりここが一番面白いよ。外から来る人見るの楽しいし雑誌の表紙だけでも色々わかるしさ』
「そういう意味じゃないです」
『そうだよねぇ。私も結構居座ってる自覚はあるよ。新人さんだった葉瑠ちゃんが今や立派なベテラン看護師さんだもん。もうさ、私、葉瑠ちゃんの守護霊ってことでいいんじゃないかな?』
「絶対イヤです」
この病院に勤め始めた頃からなぜか自分にだけ見えてしまう聞こえてしまう少女霊の脳天気な発言に頭痛のする思いの葉瑠だった。
お読みいただき有り難うございました。
ちょっと微糖な仕上がりになってしまいました。
次回はもう少し加糖したいと思いますっ