ソードアート・オンライン《かさなる手、つながる想い》   作:ほしな まつり

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キリトとアスナが通う高校でのお話です。
高校生ともなれば、明日奈に惹かれるのは周りの生徒ばかりではないようで……。

珍しく二人以外は全員オリキャラとなってしまいました。
内、一人は何回か登場してくれている「茅野聡」くんです。
彼の詳細は一話『きみの笑顔が……』をご参考ください。


秘め事

カフェテリアの大きな窓から見えるその空一面を覆うのは、久しぶりに本格的な雨粒を

降らせているどんよりとした灰色の分厚い雨雲だ。お陰で昼休みに突入したばかりにも

かかわらず、晴天時とは比べものにならない数の生徒達が続々と集まり始めている。

ランチメニューのチケットを買い求める者、既に目当ての料理をトレイにのせている者、

とりあえず席を確保する者、既に持参した昼食をテーブルの上に広げている者と様々だ。

その中でひとり、テーブルに突っ伏している男子生徒がいた。

両腕で輪を作りそこに頭を沈ませている。

食事を摂る気がないのならこんな喧噪の中、わざわざ昼食時の貴重なカフェテリアの一席を

占めることはしないだろう……と言うことは人待ちなのか。

そんな男子生徒に誰も気を止めることなく、次々と席が埋まっていく。

唯一、彼の隣の席だけは誰にも譲る気はないのだ、と主張するように彼の物と思われる制服の

ブレザーが置かれていた。

 

「ほっちゃん、まだ諦めてないんだな」

「そーそー、もしや以外と押しの強い肉食系?」

「見た目は思いっきり草食系……いや、実はインスタント系なのになぁ」

「うんうん、実験室のビーカーでラーメンばっか作ってるよね」

 

テーブルの上に頭を預けたままピクリとも動かない男子生徒のすぐ後ろの席で、数人の男子

生徒集団が当校の科学教師を話題にあげていた。

 

「あれで本人は周囲にバレてないと思ってるのがイタイよな」

「なに?、ラーメンの話?」

「違うって……あれ、おまえ知らねーの?」

「だから何の話だよ」

「わが校で唯一、二十代のイケメン教師、女生徒の間では『穂坂会』なんてファンクラブまで

あるほどの人気教師がさ……」

「うんうん」

「女生徒を口説いてんだよ」

「はぁー!?」

「って、声でけぇよ、お前……しかも口から何か俺の方に飛んできたぞ」

 

さすが育ち盛りの色ボケざかり、食事の手は一切止まらず、それでいて会話が途切れることも

ない。ひとりだけ、話題の内容を初めて知ったと思われる生徒の口から驚嘆の声と共に

吐き出された何かを受け止めた生徒は心底嫌そうな顔でテーブルに備え付けの紙ナプキンを手に

取った。

 

「悪い、悪い……でもマジか。あのさわやかほっちゃんが……」

「しかも相手は彼氏持ちだもんなー。チャレンジャーだよなぁ」

「……ってことは……『別れて、僕と付き合って欲しい』って迫ってんの?」

「いやいや、噂によると『ふたまた』で構わないって」

「ひええっ!?」

「な、意外だろ?」

「意外っつーか『ふたまた』でいいって口説く心理が俺には理解できない」

「しかも、ついさっき屋上出入り口のエントランスに二人で上がっていくのを見たから、

今現在も絶賛口説き中だぜ」

「この天気じゃ屋上に行くヤツもいないだろうから、がっつり攻めてんだろーな」

「……それってマズイんじゃないのか?、学校側にバレたら」

「バレるっても今んとこ俺達のクラスの連中しか知らないだろうから、まだ大丈夫だろ」

「なんで?」

「口説かれてるのがウチのクラスの女子だから」

「……あーっ!!」

「だから叫ぶなっ、飛ばすなっ」

「……さわやか熱血で男子生徒からの兄貴的存在ゆえ人望も厚く、面倒見がよくて誰にでも

向ける笑顔に女生徒の心も鷲づかみの『ほっちゃん』こと穂坂センセが口説かずにはいられない

お前んトコの女子って……まさか」

「さすが現国の成績だけは常にトップクラスなだけあるなぁ、よくもまあそうペラペラと言葉が

出てくるもんだ……そうだよ、前回のテストで唯一お前が負けた相手」

「……結城明日奈さん……か」

 

校内一の有名人と言っても過言ではない女生徒の名前が出た途端、テーブルにつっぷしていた

男子生徒がガタンッと派手な音を立てて立ち上がり、その勢いでポケットから落ちた携帯端末も

そのままにカフェテリアから飛び出して行ったことを後方の男子生徒達が気づくことはなかった。

 

 

 

 

 

「穂坂先生、何度も申し上げますが、私の気持ちは変わりません」

 

目の前の彼女は何度目かの僕の呼び出しに律儀に応えながらも、苛立ちを隠しきれない口調で

これまた何回聞いたかわからない返答を冷固な感情を込めて告げてくる。

 

「まあ、そう言わないで。何もすぐに返事が欲しいわけではないから」

 

彼女からの答えを暫定的なものにしたくてなんとか保留の形で受け取ろうとすると、今日

ばかりはそれすら認めない覚悟なのか、困ったように眉根を寄せた。

 

「そうはいきません……先生だって……困るでしょう」

 

困らせているのは僕の方なのにそんな表情を無防備に晒されると、わずかに残っていた罪悪感に

チクリと胸を刺さされる。

 

「うーん……とりあえず結城さんが心を決めてくれるだけで僕は満足だよ。別に急ぐ必要はない」

「でも……私……今でも余裕なんて全然ないんです……」

「そうだろうね。あれだけの成績を常に維持しているんだし、人間関係の付き合いも色々ある

みたいだし」

 

僕のその言葉に何を連想したのか、わかりすぎるほどあからさまに頬を染める。その変化だけで

彼との交際が順調なことを読み取ってしまい無意識に自分の片頬が歪んだ。

 

「何回も言っているけど、無理をさせる気はないよ。今の生活のまま結城さんの時間のある時

だけでいいんだ。月に一回か二回でいい。もちろん彼との事を優先させてくれて構わない」

 

我ながら心にもないことをよくもまあ止めどなく口をついて出てくるものだ。

自分の知らなかった一面に頭の片隅で驚きながら、同時に狡猾な考えが湧きだしている。彼女が

首を縦に振ってくれれば多少なりとも彼と過ごす時間を削ってもらわねばならないのはわかり

きっていた。

とにかく今は彼女から不承不承でも肯定の言質を取り付けたいの一心だ。

僕の口から「彼」という単語が出たことで彼女の瞳が僅かに揺らいだ。

 

「あの……この事、キ……桐ヶ谷くんには……」

「もちろん言ってないよ」

 

とは言え、いくらクラスが違っていても彼の耳に入るのは時間の問題だろう。普段の飄々と

授業を受ける姿からは想像できないが、有事の際の行動力はそこらの高校生の比でないことは

十分承知している。まして校内でも知らぬ者はいないと断言できるほどのおしどりカップルだ、

僕の行動を知った途端、相手が教師だとてためらいなど皆無で動くに決まっている。この押し

問答もそろそろ決着をつけないといけないな、と覚悟を決めた時だった。階下から一人、足音を

忍ばせて上がってくる人影に気づき、その主を想像する。

ああ、そろそろタイムオーバーか……。

 

「僕を助けると思って、ね、結城さん」

 

彼女にその足音を気づかせまいと、一歩前に踏み出して両手でその細い左手を握った。

いきなりの行動に驚いたのだろう、彼女は「ふえっ!」と小さな動揺の声を上げて困った

ように僕を見つめてくる。

ああ、それでいい。頭の中は僕のことでいっぱいになっているはずだ。

残念ながら中身はどうやってこの話を断ろうかと懸命に考えているに違いないが……。

 

「お誘いは光栄なんですけど、やっぱり私には無理です」

「僕には君しか考えられないんだけどな」

 

足音がすぐ近くで止まった。きっと真剣に聞き耳を立てていることだろう、と頭の中のどこか

切り離された部分が冷静に判断する。

 

「何度も言っているとおり、気楽にこっちは二番手とでも考えてくれればいいよ」

「……このお話を、お受けしたなら、そんな一番とか二番なんて、できません」

「結城さんは真面目だなぁ。まあ、そんな君だからお願いしてるんだけどね」

「先生、もうしかして、私を困らせて楽しんでます?」

「まさか、心外だな。真面目に言ってるのに……僕のお願いは聞いてもらえない?」

 

すぐ近くから発せられるイライラとした気配に背中が焼かれそうだった。

これで最後だ。

 

「結城さん……僕は本気だよ」

 

今までは逃げられないよう常に彼女の前では無害の笑みを絶やさずにいたが、最後だと思えば

自然と視線は真剣みを帯びた。真っ直ぐに僕に相対してくれている彼女の瞳に今までにない化学

変化を見た気がする。見つめ返す僕の瞳の意味に彼女は気づいているだろうか?

 

「ごめんなさい、穂坂先生。とても有り難いお申し出なんですけど、やっぱり私には……考え

られません」

 

言外に、もうこれ以上は何も受け付けないと、自分の答えが翻ることはないと突きつけられる

ような固い笑顔だった。その表情を見て僕の焦りが諦めに変わる。ひとつ息を吐き出してから、

僕は握っていた手を離していつもの笑顔を浮かべた。

 

「そっか……わかった。ごめんね、何回も」

 

力なく謝ると彼女は少し俯いて僕の顔を見ることなく、ふるふると頭を振った。

 

「まぁねー、茅野君が『結城さんがサブをやってくれるなら』なんて言うもんだから、つい

僕も熱が入っちゃって、ホント、ごめん」

 

おどけた様に軽く言うと、顔を上げて合わせるように彼女もわざとらしく眉をひそめた。

そこにさっきまでの瞳の色は霧散していて、いつもの柔らかい色に戻っている。

 

「そうですよっ、茅野君の我が儘に付き合ってたら身が持ちませんよ、先生」

「だな。サブは改めて茅野君と相談するか。悪かったねお昼に時間とらせちゃって。待ちきれ

ない彼氏が迎えに来てるよ」

 

階下に続く階段に目線で教えてあげると、彼女が「えっ?!」と発するのと同時にバツの

悪そうな表情で桐ヶ谷君が顔をだした。

 

「待たせたね、桐ヶ谷君。今度、生徒会の前段階として準備委員会的なものを発足することに

なってさ。で、会長を茅野君にお願いしようとしたら『結城さんが副会長を引き受けてくれる

ならやってもいいですよ』なんて言うもんだから、再三口説いてたんだ」

 

申し訳なさ気に笑いながら桐ヶ谷君に説明すると、彼の想像とは違う内容だったようで意表を

突かれた顔を見せたがすぐに安堵へと変化した。教師の目から見た生徒としては感情を激しく

表に出すタイプではないと思っていたが、こと彼女の事となると違うらしい。

その懸命さに思わず親近感を覚えるが、すぐさま彼と自分の決定的な違いを見せつけられ、

身体が固まった。

桐ヶ谷君が聞こえるかどうかの声で「アスナ」と唇を動かし手を差し伸べたのだ。

今までに見たことのないような桐ヶ谷君の柔らかな表情に驚いていると、結城さんは彼の

行動を予期していたかのように、待ちきれないと言った笑顔で瞬く間に僕の横をすり抜け、

ハッと我に返った時には既に彼の手に自分の指を絡ませている。

いくら僕が請い求めても差し出される事のなかった白い手を、いともたやすく手に入れる

彼を見て「特別」を誇示された気がした。そして彼女も迷いの一欠片さえ見せずに、

むしろ望んでその手の中に収まっている。

微動だに出来ない僕の異変など気づきもせず、結城さんは彼に寄り添い「待たせてゴメンね」と

謝っていた。それに対し軽く笑いながら首を横に振るだけで応える姿に、彼女もまた安心した

ように微笑んでから僕に振り返り「それでは、失礼します」と頭を下げる。

僕は思わず顔を背け、手をあげて応じるだけで精一杯だった。

遠くなる二組の足音と共に二人の会話が途切れ途切れに届く。

 

「アスナなら……集団を……で能力が生かせると……」

「また……デジャブったよ……から……なかったのに」

「……のか?」

「いい……!」

 

 

 

 

 

職員室の席より自分の居場所感が強い科学準備室でイスに腰掛け天井を見上げていると、すぐ

近くで「穂坂先生っ」と強く呼ばれた。

 

「えっ!?……ああ、なに?、茅野くん」

「なに?、じゃありませんよ。とっくにお湯、湧いてます」

「おっ、ゴメン、ゴメン」

 

目の前の生徒の様子からして、どうやら何度も呼ばれていたらしい。すでにゴポゴポと勢いよく

音を立てている耐熱容器のガラスポットの取っ手を白衣の裾で包んで持ち上げる。

インスタントコーヒーの粒が入っているカップにお湯を注ごうとして、ふと手を止めた。

 

「あ、茅野くん、コーヒーよりラーメンの方が良かった?」

 

放課の鐘はもう随分と前に鳴り終わっており校内に残っている生徒は自主的に部活に準ずる

活動をしている者がほとんどだ。この時間、育ち盛りの男子生徒ならコーヒーよりラーメンの

方が、と気を利かせたつもりだったが僕の言葉を聞いて目の前の彼は教師に向けるとは思え

ない余裕の笑みを浮かべて言い放った。

 

「今、ラーメン食べたら帰宅してから妻の手料理が入らなくなるので、コーヒーで結構

ですよ」

「……ああー、言うんじゃなかった。聞くんじゃなかった。教師の自分より高収入で奥さんが

いて娘さんまでいる現役の教え子ってどうなんだろうね」

「すみせん、って言った方がいいですか?」

 

ふてくされた表情で彼の目の前にコーヒーを置いてあげれば、楽しそうに目を細めた

茅野くんが「ごちそうになります」と礼儀正しく頭をさげた。

 

「別に謝って欲しいわけじゃないよ。教師と生徒って関係を抜きにすればこんなゴチャゴチャ

した準備室でインスタントのコーヒーを社長さんに出す僕の方がどうなの、って感じだろう?」

「それこそ、それは校内で関係ナシですよ。僕的にはもう一年歳を取っていれば先生の失恋に

ヤケ酒も付き合えるのにコーヒーになってしまって申し訳ないなぁって思ってるくらいですから」

「失恋のヤケ酒を生徒に付き合ってもらうってのも、どうなのかなぁ?」

「いいんじゃないですか?、散々、内でこじらせていたのを見かねて口説くきっかけを

作ったのは僕なんですから」

「……うん、まあ、その点に関しては、感謝してるよ、ホント」

「その笑顔、結城さんでなければ効果はかなり高いと思うんですけどね」

 

『校内の女生徒の目をハートマークに変えるほどの甘い笑み』と生徒達の交流サイトで

評されているのを知った時には絶句したが、ハートマークに変えたい相手に通用しないのでは

何の意味もない。

自分の中で膨れてしまった想いの処理に悩んでいた時、声をかけてきた茅野くんには本当に

驚かされた。もともと周りの感情の機微には敏感な生徒だとは感じていたが、まさか自分自身で

さえ肯定を渋っていた気持ちが見抜かれていたとは。

そんな僕に対して彼は軽く笑いながら提案してきたのだ、とにかく彼女と二人きりで話す

きっかけを作りましょう、と。

そしてそれに僕は乗った。

生徒会を発足させる為の準備委員会の設立話は本当だったし、そのトップに推される名前が

茅野くんしか挙がっていなかったのも事実だ。だから茅野くんがその役職を引き受けてくれれば、

構成メンバーは彼の希望が優先されるのは当然の事だった。何より既に小規模ながらひとつの

会社という集団をまとめ上げている彼ならば、人選に対するセンスも問題はないだろうと

教師達は安心していたから。

そこで彼はサブに結城明日奈さんの名前をあげてきた。

もちろんそれに異を唱える教師はおらず、準備委員会設立の担当をしていた僕は正々堂々

結城さんと二人きりで話をするチャンスを得たというわけだ。

 

「始めから、当たって砕けると思っていたからね……と言うか茅野くんが背中を押して

くれなかったら当たる勇気もなかったし」

「その辺は、立場上、仕方ないと思いますよ」

 

こくり、とコーヒーを一口啜ってから向けてくる笑顔はとても僕より四つも年下の十代の

青年とは思えなかった。

ああ、でも社会にでれば四つなんてたいした差ではないし、彼は既に人の上に立つ人間であり、

来年は成人だしな、とぼんやり笑顔をみつめながらそんなことが頭に浮かぶ。

 

「今は当たってよかったと思ってる。サブの誘いを隠れ蓑に言いたかったこと、散々言ったしね。

結城さんはずっと勧誘だと思ってただろうけど……でも最後に桐ヶ谷くんにかっ攫われた時は

やっぱり痛かったなぁ」

 

無理に笑ってみせれば、珍しく茅野くんが何とも言えず、出来の悪い生徒を見る教師みたいな顔に

なっていた。

手元を見ると自分の分のコーヒーが空になっていたので、再びお湯を沸かそうとガラスポットを

持って立ち上がった時、背後から茅野くんが小さく何かを呟いた気がして振り返る。

 

「結城さんも、わかっていたと思いますよ」

「えっ?、何か言った?、茅野くん」

「ええ、ならサブは誰がいいかなぁ、と言ったんです。ここまできたら結城さんが受けてくれ

ないから、やっぱりやりません、は通用しないでしょう?……やるからには出来るだけ楽がしたい

ですからね。弁の立つヤツがいいな……ああ、隣のクラスに僕より現国の得意なヤツ、いました

よね。結城さんの成績には及ばずとも、普段から理屈だか屁理屈だかわからない言葉が止めどなく

スラスラと出てくる口達者で、切り返しの早い……」

「ああ、彼ね」

 

二人で共通の生徒を頭に思い浮かべ、次なる候補者として勧誘すべく話を進める前に僕は

ポットを持って水道へと向かった。

 

 

 

 

 

そしてここにもコーヒーを啜る一組のカップルがいる。

 

「キリトくん……課題、終わったの?」

「……いや」

「私……コーヒー飲みたいんだけどな」

「……うん」

「うん、じゃなくてっ、もうっ」

「え?」

 

突然、声のトーンが切り替わった隣の恋人に向けて、驚いた表情でキリトはシパシパと瞼を

動かした。

場所は御徒町にある『ダイシーカフェ』のテーブル席。

昼の営業時間はとうにすぎた夕刻に「準備中」の表示があっても入り口がロックされていなければ

入店可能と認識しているキリトは何の躊躇いもなく差してきた傘を畳んで明日奈と共に扉を

くぐった。

カウンターにいた店主が驚いたのも一瞬で、すぐさま大きな溜め息を吐き出すと「コーヒーしか

出せないぞ」と告げられる。

「それで十分」と応えるキリトに対し、明日奈は申し訳なさそうな笑顔で「スミマセン」と頭を

下げるが、店長であるエギルにとっては毎度の事だ。

二人で並んでテーブル席に腰を掛け、カバンからタブレットや携帯端末を取り出す頃にはエギルが

香ばしい匂いを漂わせるコーヒーを邪魔にならない場所に置いてくれた。

「有り難うございます」と言う明日奈にはいつもの笑顔で応じ、続いてキリトに目をやれば

微妙な違和感を感じる。

「ああ、これは何かあったな」と年長者の勘が告げた。

キリト本人に自覚はないようだが、こと明日奈の事に関するとおもしろいように表情に

表れるのだ。

 

「俺はこれから厨房(なか)で仕込みをするからな。しばらくこっちにはこないから、何か

あったら声をかけてくれ」

 

多少くどいほど自分はこの場から消える旨をキリトに言い聞かせて、店主はカウンター奥の

厨房へと引っ込んだ。

禿頭のエプロン姿が扉の向こうへと消えた後、本来の目的であった課題にとりかかってしばらく

経った頃だ、ずっと無言で各の作業に没頭していると思っていた明日奈がタブレット画面の文字に

集中していると、テーブルにのせてある自分の左手がほんわりと暖かいのに気づく。

「ん?」と思い、視線をずらせばいつの間にかキリトの右手が覆い被さっていた。

いつものようにギュッと握るわけでもなく、指を絡ませてくるわけでもない。外界から遮断する

ようにふわりと明日奈の左手を自分の中に閉じ込めている。

自分の手を包み込むほどのキリトの手の大きさに《かの城》に囚われていた頃より一層の

頼もしさを感じて自然と頬が緩むが、そっと視線をその手の持ち主に移してみれば、その瞳は

予想外にもボンヤリとその手を見ているような見ていないような……。

不思議に思った明日奈はしばらくそのままキリトの様子をこっそり見守っていたのだが、当の

キリトは相変わらず自分の右手で明日奈の左手を包んだまま虚ろな視線を送っている。

こうなってくると課題どころではなくなってしまい、痺れを切らして声をかけてみれば、やはり

その返事は上の空だった。

「コーヒーが飲みたい」と……暗にキリトの手がその妨げになっている、と……そう明日奈の

言葉の意味を解釈して急いで手を引っ込めたキリトは、未だボンヤリが残った口調で詫びてきた。

 

「ああ、ゴメン、ゴメン……これじゃ、コーヒー飲めないよな」

 

しかし明日奈とて本気でコーヒーが飲めないと言ったわけではない。それなのに耳に入って来た

言葉だけに反応したような返答を聞かされて益々混乱が深まる。

それでもコーヒーが飲みたい、と言った手前もあるので自分を落ち着かせる意味も込めて

少しぬるくなってしまったコーヒーカップを両手で包んで啜った。

 

「どうしたの?、キリトくん」

 

カップを置いてから覗き込むように首を傾げる。

 

「あ……うん、アスナの手が目に入ったらさ、昼休みに穂坂先生が握ってたのを思い出して……」

「うん」

 

そこまで言うと、その先の行動は無意識だったのか、説明に困ったように言葉を詰まらせた

キリトに、それでも理由を聞きたくて明日奈は続きを強請るように見つめた。

 

「ぼんやりそんな事を考えてたら……いつのまにか手がのびてたみたいだ」

 

もう一度「ゴメン」と言いながら苦笑いをするキリトを見て、明日奈はほんの少しだけ身体の

向きをずらして情けない笑みを浮かべている恋人と向き合った。キリトは自嘲気味のまま膝の

上に行儀良く並んでいる明日奈の片手に再び手を伸ばす。

 

「相手は教師なのに……」

 

今度はしっかりと意志を持って、その白くて細い手を閉じ込めるように強く握りしめた。

 

「そうだね……でも、そんなの……関係ない……よ」

「うん……アスナに惹かれる気持ちに年齢とか立場は関係ないよな。でも、誰だろうと

オレ以外のヤツがこの手に触れるのは許せそうにない」

「そうじゃなくて……」

 

今度は明日奈が苦笑いをする番だった。

 

「私に対して誰がどんな感情を抱くのか、そんなの私にはあまり重要じゃないって事。

私が欲しい感情はキリトくんしか持っていないし、私は……キリトくんにしか触れて

ほしくないもの」

 

その言葉を聞いてスイッチが入ったようにキリトの瞳が色づく。

 

「なら、遠慮なく」

 

言うやいなや握っていた明日奈の手を更に己へと引き寄せた。

 

「ひゃっ、ダッ……ダメだったら……舐めないでっ」

「触れて、いいんだろ?」

「そういう風にじゃ、なくて……」

「なら……こう、とか?」

「よけいダメッ」

「……なんで?」

「き、汚いし……」

「……だから、アスナに汚いとこなんてないって……」

「んんーっ……」

「あのな……泣くほど、声、我慢するなよ……」

「だっ……て、奥に……エギルさん……いる……」

「エギルがいるから、ってのはオレ達の場合、理由になんない気がするけどな……むしろ

エギルの店以外じゃこんな事、出来ないし……」

 

キリトの言う意味が《現実世界》の店の事だけではないと思い至り、あの《アルケード》の

二階で居候をしていた時の記憶が耳までも赤く染めた。

あの店ではアスナの異変を案じて二階に上がってきたエギルがキリトに蹴り落とされて以来、

二人でいる時は決して階段を上って来ようとはしなかったが、今はドア一枚を挟んだ場所に

いるのだ。《あの世界》と違ってその防音性はアテにならない。

明日奈は左手の自由を奪い返そうとしていた気力もすっかり使い果たして、今は漏れる声を必死に

抑えようと俯いたまま右手の甲を唇に強く押し当てていた。

ヘイゼルをぎゅううっと瞼のウラに隠し、はらはらと涙を零しながら時折耐えきれないと

言うように首を左右に振る仕草を見て、キリトは一旦口を離し「ホント、敏感だな」と漏らす。

それから軽く笑って今日の昼休みの時のように小さく「アスナ」と呼びかければ、ゆっくりと

瞼が開き潤んだ瞳が顔を出すのと同時に視線がキリトへと上がった。逆に唇に密着していた

右手が重力のままに下がる。

その途端、明日奈の手を握っているのとは反対のキリトの手が素早く彼女の後頭部にまで伸び、

声を上げる間さえなくグイッと抱き寄せられ、上気した顔はキリトの胸部のワイシャツに

押し付けられた。

 

「この方が、声、聞かれずにすむだろ」

 

胸元で僅かに頷く仕草を続行開始の合図と認め、キリトは自分以外の男が触れた恋人の手に

再び口を寄せた。




お読みいただき、有り難うございました。
モブ(?)の男子生徒集団を除き、わかっていないのはキリトだけです(笑)
そして全てがわかっているのは茅野と明日奈でしょう。
その為、後日、多分茅野は教室で明日奈に思いっきり足を踏まれるくらいの
意地悪はされると思います。
明日奈はニッコリ笑って「あ、茅野君、ごめんね」と謝るでしょうが、その笑顔の
意味も理解している茅野は多少引きつった笑顔で「大丈夫だよ」とでも返すので
しょう。
それでチャラにしてあげて下さい。
穂坂先生が基本とってもいい先生なのはわかっている二人なので。
次回は珍しく《仮想世界》でのお話にな…………ると思います(苦笑)

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