ソードアート・オンライン《かさなる手、つながる想い》   作:ほしな まつり

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高校生の和人と明日奈が週末にデートをする(はずだった?)お話です。


視線

土曜日の御徒町……駅の周辺には取り立てる程の観光名所がないとは言え、平日に比べれば

行き交う人達の歩調は緩やかで、中にはキョロキョロと物珍しそうな視線も彷徨っている。

歩く人々の流れは街に平日とは異なる雰囲気を醸し出し、それは大通りに面していない裏通り

でも同様で、休息場所を探し求めて偶然にも辿り着いた喫茶店へと足を踏み入れる人達は、

やはりいつもの常連客とは違う空気を纏っていた。

そんな迷い子のような客を受け入れるべく『ダイシーカフェ』は土曜・休日に限り昼間の営業

時間から区切ることなく店を開けている。

 

「アスナ、一番奥のテープルにアイスコーヒー持っていってくれ」

「はい、エギルさん」

 

バリトンボイスがカウンターの中から響くと同時にアイスコーヒーのグラスが二つトンッと差し

出された。カウンターの手前ではトレイを手にした明日奈がそのグラスを受け取り、素早く

シロップとコーヒークリーム、ストローとコースターをその隣にのせ注文主のテーブルへと運んで

いく。

その息の合った様子を憮然とした表情で眺めているのはカウンターの一席を占領してタブレット

端末を意味もなく指先でトントンと叩いている和人だ。更にその隣に陣取っているクラインが

アイスコーヒーを運んでいる明日奈の後ろ姿を眺めながら呟いた。

 

「アスナさんのエプロン姿、いいよなぁ」

 

その呟きが後頭部に突き刺さったのか、すぐさま和人は振り返ってクラインを睨み付ける。

 

「あんま、見るなよ」

「なーに言ってやがる。カフェのウエイトレスさんは見られるのも仕事のうちだろ」

 

とは言え、今の明日奈のエプロンと言えば、普段は女性従業員がいない『ダイシーカフェ』故に

特に見られる事を意識したデザインなどでは決してない。もっと言えばエギルの付けている

ソムリエエプロンと同じ無地の黒で、丈が短いだけのごくシンプルなカフェエプロンだ。時々

エギルのサポートに入るという奥さんが使っているものを一時的に借用しているだけなのだから

客受けの要素は皆無だった。

しかも私服にエプロンという姿は和人とて目にするのが珍しいわけでもない。今までに何度も

明日奈を自宅に招き、その料理の腕を振るってもらっている。

だが……だから、こそ、なのである。

自分の「彼女」のエプロン姿を衆人環視に晒す事に苛立ちを感じずにはいられないのだ。

今まではその姿を眺める権利を独占していたのだから。

しかし、その原因が自分となれば、その事を口にするわけにもいかず、更に自分以外の男との

連携を目の前で見せつけられると原因終結の手も止まり、彼女が店の手伝いをする時間も

ズルズルと延びてしまうという悪循環に陥っている。

土曜日の二時すぎということもあり、店内は満席とまではいかずともそこそこの席が埋まって

いた。女性グループやカップルの客はお喋りに夢中のようだが、男性のみの客達はあきらかに

視線が明日奈を追っている。そして視線を外さないままコソコソと小声でやりとりをしてる様を

目にしてしまえば自然に「チッ」と舌打ちもでるというものだ。

その音を聞きつけたクラインが鼻から息をだして言う。

 

「ふーむ、キリトよう、こんな視線は学校で慣れっこなんじゃねえのか?」

 

その問いかけに無理矢理明日奈から視線を外した和人が答えた。

 

「校内じゃ、こんなあからさまな視線はもうないさ……入学当初はこんな感じだったけど、その

頃はアスナが歩行すら危なっかしい状態だったから、こっちも気にする余裕がなかったし」

「なるほど」

 

クラインは顎に手をあてて、大仰に頷いた。

 

「なら校外はどうなんだよ。登下校とか……街中でデートだってしてんだろ?」

「周囲からアスナへの視線に気づく時は常にオレが隣にいるだろ」

 

言外に見知らぬ男共からの無遠慮な視線に対しては隣にいる自分が存在を誇示しているのだと

言ってのけた和人にクラインは呆れた表情で「アア、ナルホドナネ」とカタコトで納得を示す。

それにしても、と隣の年若い友人を見てクラインは思った。あの城で初めて自分にレクチャーを

してくれた時とは別人のようだ、と。「はじまりの街」で別れてから何があったのかは知ら

ないが、再び最前線で攻略組の中にキリトの姿を見つけた時は嬉しさや安堵より驚きの方が

強かった。それまではちょっと人付き合いの苦手なゲームオタクといった印象だったが、

その時の様子はまるで他人を寄せ付けない刃物のようなオーラを全身に纏っていたからだ。

それでもビーターなどと忌み嫌われつつもゲームクリアに懸ける姿勢は誠実で、そこは変わって

いないのだと安心したものだ。そしてそんなピリピリとしたアイツに物怖じもせず突っかかって

いく最強ギルド『血盟騎士団』の副団長殿も当初はかなり尖った印象があった。

攻略会議の時は笑みひとつ浮かべず淡々と作戦の説明をする彼女はアインクラッドのアイドル

なんて可愛い存在には思えなかったものだ。

その二人に偶然にも迷宮区の安地で遭遇した時の衝撃は今でも忘れる事が出来ない。

お互いを涙が出そうなくらい優しい空気が包み込んでいた。「攻略の鬼」の異名を持つあの

少女が年相応に可愛らしく微笑んでいるのを目にした時は思わずリアルの情報を交えて自己

紹介をしてしまったほどに。

だが、その自己紹介も最後までは言わせてもらえず、今現在、隣で店内の男性客の様子を注意

深く監視しているこの男から横っ腹に強烈な一発をお見舞いされたことを思い出し、クラインは

何度か小さく頷いた。

あの時からコイツは既に無意識下で彼女に執着していたのだろう、と。

しかし、その対象となっている彼女もそれを喜んで受け入れているのだから問題はない。それ

こそあの時も「アイツを、頼みます」と言った自分の言葉に少しの躊躇も見せず「任され

ました」と笑顔で断言してくれたのだ。

あの時から互いは互いのものとして存在しているくせに、彼女がコイツ以外を瞳に映すはずが

ない事などわかりきっているのに、《現実世界》に生還してからのコイツは呆れるほどの

執着心を恥ずかしいくらい堂々と見せつけているらしい、という情報源は事ある毎に送られて

くるリズベットからの報告書とも言うべき長文メールだ。

別にクラインは普段の二人の様子を知らせてくれとリズベットに頼んだ覚えは一切ない。

それなのに、なぜか時折送信されてくるメールには二人の目に余る所業がつらつらと書き綴られて

いる。そしてお決まりの締め文句は「どうにかして欲しいもんだわ」だ。

そしてクラインも読む度に「俺にどうこうできるわけねぇだろ」の決まり文句をこれまた律儀に

口にしている。

そして目の前の和人の様子を見てクラインは確信した、これは本当に俺にどうにかできる

レベルじゃねぇな、と。それならば、自分に出来ることはこの状態を出来るだけ早く終わらせる

ことだ。

 

「ほら、キリト、早いとこ片付けろよ。これじゃあ折角の休みなのにアスナさんがバイトで

終わっちまうぞ」

 

その言葉を受け入れたのか、和人がしぶしぶタブレット画面に視線を戻した時だ、新たな来客を

告げるドアベルの音がかららん、と店内に響いた。その音に反応して明日奈が「いらっしゃい

ませ」の涼やかな声と笑顔で客を迎える。入店してきたのは制服姿の男子高校生四人組だった。

明日奈の声につられるように顔をあげた和人はカウンター横のテーブル席に案内されている

四人の高校生を見て眉をひそめた。どの顔も明日奈を見た途端、口元がだらしなく緩んでいる。

そしてクラインもまた四人の高校生の表情を見、それから彼らを睨み付けている隣の友に視線を

移し、嘆息してからその頭を小突いた。

 

「いい加減にしろよ、キリの字……」

「あれ?……桐ヶ谷か?」

 

四人のうち一番後ろにいた男子高校生が和人を見て足を止める。残りの三人は立ち止まった

一人に気づかないまま明日奈に誘われるようにテーブル席へと足を進めていた。

方や和人は小突かれたクラインの指を払うでもなく、自分の名字を口にした高校生を見つめて

いる。声をかけた高校生は和人が自分の存在を認識してくれないことに苦笑いを浮かべて

困ったように頭を掻いた。

 

「中一の時の校外学習で同じグループだったんだけどな。まあ、あれからお前、大変だった

みたいだから仕方ないか」

 

中学の同級という事は和人が在学中に《あの城》の虜囚となったことは承知しているのだ

ろう。それまで黙って相手を凝視していた和人がやっと記憶をたぐり寄せたのか「ああ」と

納得した声をだして「久しぶり」と幾分か表情を和らげた。

和人からの認知で安心したのか、男子生徒はタネ明かしをするように自らの名前を口にして

近況を語った。

 

「俺、東京の高校に通ってるんだ。スポーツ特待の枠でさ。で、今日は他校との交流試合で

御徒町まで来たんだけど、どうにも小腹が空いたんで帰りにアイツらと何か食べていこうって

ことになって……」

 

そう言いながら先に席に落ち着いた三人を指で示すので、自然と視線を動かせば三人は興奮

気味に我先にと明日奈に向かってメニューの相談を口にしている。

内一人がなかなかやってこない友人に対して注文をどうするのか、のジェスチャーなのだろう、

メニューをこちらに向けてトントンと指で叩けば、その意味を察した明日奈が大丈夫だと示す

ように和人達に手で合図を送ってきた。

和人が片手を挙げて詫びるように合図を返すと同様に、和人の元クラスメイトもペコリと頭を

下げ、そのまま言葉を続ける。

 

「駅前のファストフード店はこの時間でも全然席が空いてなくて。で、この店を見つけたん

だけど、桐ヶ谷はなんでここに?」

「あー、まあ、オレも今は東京の高校に通ってるんだけどさ。今日は……」

 

そこで言いよどんだ和人を見て首をかしげた彼は、それから明らかに知り合いと思われる隣の

社会人男性の存在からある推論に辿り着く。

 

「あ、もしかしてオフ会か?、相変わらずネットで色々やってるんだな」

 

その言葉にクラインがブッと吹き出した。

クラインの反応に自分の仮説が見当違いだったのかと思い、慌てて謝罪の言葉を口にする。

 

「違いました?、スミマセン。俺、勝手な事言っちゃって……」

「いやいや、いいってことよ。それにオフ会ってのもあながち間違いでもねぇしな」

 

恐縮のあまり肩を縮こませている高校生にヒラヒラと手を振って肯定とも否定ともとれない返事を

したクラインは「それよりよ」と逆に身を乗り出した。

 

「中学ん時のキリト……いや和人と同じクラスだったんだろ。コイツ、どんな感じだったんだ?」

「どう、って……そうですね」

 

親しげに話しかけられたことで肩の力が抜けたようだが年上相手なので言葉を丁寧に発した彼は、

一瞬宙を見つめて当時を思い出してから再び二人に視線を戻した。

 

「まあ、口べたで無愛想で他人に関心のないゲームオタクって感じでしょうか」

 

その評価にあんぐりと口をあけたままの和人とは逆に隣のクラインが再びブッと肩を跳ねかせ

れば、ほぼ同時に反対側からもクスッと可愛らしい声が響いた。

和人の元クラスメイトが驚いたように振り返ると、ほんの少し前まで友人達の注文を取って

いたウエイトレスが、手の甲で口を隠しながら可笑しそうに目を細めて立っている。

 

「ごめんなさい、盗み聞きみたいになっちゃって」

 

栗色のロングヘアを片方に寄せて左肩の位置で結び、綺麗な姿勢で立つ彼女の白い肌を黒い

エプロンが更に引き立たせていた。すぐ近くで見ても驚くほど整った顔立ちをしている。

一瞬、我を忘れて見とれてしまったのを誤魔化すように、和人の元クラスメイトは慌てて少し

上ずった声を発した。

 

「あ、スミマセン。注文ですよね」

「ええ、三時までランチメニューが大丈夫なので、お連れの方は皆さんパスタセットをご注文

いただきましたけど……」

「なら、俺もそれで」

「パスタをお選びいただけますか?、本日はペスカトーレとポモドーロです」

「ポモ?」

 

聞き慣れないパスタメニューに首を傾げた彼の反応に明日奈はにこりと笑ってから説明を

始めた。

 

「ポモドーロはトマトソースのパスタです。普通はホールトマトで作りますがうちはフレッシュ

トマトも使っているので、トマトがお好きでしたら酸味もしっかりと効いていて美味しいですよ。

逆にペスカトーレはトマトソースというイメージが強いですけど、魚介を使っていればペスカ

トーレなのでうちはトマトではなくブイヤベースのスープを使ってますから魚介の旨味がお楽しみ

いただけると思います」

 

よどみない説明に聞き惚れていた彼は明日奈の言葉が途切れた事を残念に思いながらもメニューを

思案した。

 

「うーん、どっちも捨てがたいな……ならポモ、ドーロ、でしたっけ?、そっちで」

「はい、有り難うございます。セットなのでパンとサラダにコーヒーが付きますけど、コーヒーは

アイスにしますか?」

 

店内は快適な温度に設定されているせいで長く居ると外気温の意識が薄くなりがちだが、入店した

ばかりの彼らの額やワイシャツの襟元から見える肌が一様にうっすらと汗ばんでいるのに気づき、

加えて一般的に男性は女性より暑がりだという認識で明日奈は「アイスコーヒー」を口にした。

その提示に彼が笑顔で頷いたことで、彼女も安心したように微笑んで「少々お待ち下さい」と頭を

下げてから足早にエギルの元へと戻り、オーダーを伝える。

「はいよ」と頼もしい返事に続いて「これ、向こうのテーブルだ」とケーキセットの乗った

トレイを渡しながら目線で場所を示せば、明日奈も「はい」と受け取りつつテーブルを確認した。

その無駄のないやりとりを目で追っていた和人の元クラスメイトが無意識に「ふーん」と

漏らしたのに気づいて和人がその顔を覗き見れば、今まで何度目にしたかわからないくらい

見慣れてしまった俗に言う「宝物を発見したような浮かれた顔」がそこにある。「ああ、コイツも

か」と思って牽制の言葉をかけようとすれば、先制攻撃のように素早く彼が和人に向き直り

「なあ、桐ヶ谷」と話しかけてきた。

 

「ウエイトレスのあの娘(こ)、名前とか知ってる?」

「へっ?」

「お前ってこの店よく来んの?……あ、ひょっとしてお前も彼女狙い?」

 

どうやら目標を決めたら即行動が彼の持ち味のようだ。さすがスポーツ枠の特待生だけのことは

ある。《現実世界》では和人が足下にも及ばない初速度の速さだった。

「お前も」の「も」ってなんだよっ、と言いたいのをギュッと拳を握りしめてやりすごそうと

したのがクラインには丸わかりだったようで、目線を和人の手に固定したまま「ぷぷっ」と

笑い出したい衝動を堪えている。

和人がジロリと睨めば、芝居がかったように肩をすくめながら両手を広げたクラインがニヤニヤ

顔で寄ってきた。

 

「だからよう、店内の客にガン飛ばしてねえでサッサと宿題を終わらせりゃーよかったんだ。

これじゃあ獲物を見つけたオオカミが増える一方じゃねえか」

 

その言葉を耳にした元クラスメイトが驚いたように「げっ」と一声発する。

 

「なにっ、桐ヶ谷、いつもここで宿題やってんの?」

「んなわけないだろ。たまたまここで休憩してたら同じクラスのヤツから連絡入って、それで

レポートの提出日が今日に変更になってたのを思い出したんだよ」

「で、ここで仕上げてんのか?」

「ああ……と言ってもほとんど出来てたから……」

「さっさと終わらせてデートに行けばいいのによう」

「デート!?」

 

クラインからの横槍が予想外の単語を含んでいたせいで、元クラスメイトが素っ頓狂な声を

上げたその時だった。ケーキセットをセッティングしていたテーブルでカチャンッ!、と

耳障りな音があがる。

すぐさま、そのテーブルに座っていた二十代前半の女性が恐縮したように「ごめんなさいっ」と

明日奈に謝る声が和人達の元にまで届いた。見ればテーブルの上にはケーキの隣に置かれた

ティーカップが倒れ、中身の紅茶がソーサーからも溢れて床にまでしたたっている。

明日奈は冷静に「大丈夫ですよ。それより火傷はしていませんか?」と女性客を気遣っていた。

落ち着いた対応に客も幾分気持ちを静めて「ええ」と頷く。

向かいの席に座っていた彼氏とおぼしき男性も腰を浮かせて明日奈に「すみません」と謝り

ながら女性に「大丈夫か?」と声をかけていた。

その間にも明日奈はテーブルに常備してある紙ナプキンでこぼれた紅茶を吸わせつつ

「すみませんがこちらの席に移動をお願いできますでしょうか?」と男性の隣の席を示した。

もともと四人掛けの席に向かい合って座っていた二人だったので、異を唱えることなくすぐに

女性客が立ち上がる。そのタイミングを逃さず、明日奈は「お洋服にかかっていませんか?」と

女性客の全身をチェックしながら自分は床にこぼれた紅茶を始末すべくしゃがみ込んだ。

その瞬間、しゃがみ込むと同時に腰を浮かせていた男性客と立ち上がっていた女性客、それに

離れた位置で一部始終を見ていた和人が、ハッと息を飲む。

その気配を敏感に察知して明日奈が不思議そうに顔を上げた。

見上げれば二人の客が顔を真っ赤にしている。

 

「あの……」

 

「どうかなさいましたか?」と続けようとした言葉は素早く駆け寄ってきた和人によって

遮られた。しゃがみ込んでいる明日奈の腰に背中から手を回し入れて抱え込み、立ち上がらせると

「ごめん、アスナ、ちょっと、こっち来て」と早口に告げ、半ば引きずるようにエギルのいる

カウンター横から奥の部屋へと連れ込む。

 

「えっ?、なに?、なになになに?」

 

目を白黒させながら強引に和人に連行される明日奈をエギルやクラインはもちろん、店内の客

全員が凝視していた。バタン、と奥へと続く扉が閉まると「はーっ」と頭痛に苦しむような

顔で溜め息をもらしたエギルはコーヒー一杯ですでに数時間居座っているクラインに向けて雑巾を

投げる。

 

「ほらよっ」

「なんだよっ、これ!」

「あそこの床、拭いてきてくれ」

「はーっ?、なんでオレがっ!」

「有能な臨時バイトの女の子がたった今、休憩に入ったからだ」

「えーっ、そりゃねえよう」

「なら、もっと注文しろ」

 

その言葉に反論できず、渋々とクラインが立ち上がる。

呆気にとれらた表情で立ち尽くしていた元クラスメイトの男子がクラインを引き留めた。

 

「あの……もしかして桐ヶ谷のデートの相手って……」

「あ?、ああ、そうだよ。あいつのレポートが出来上がるのを待つ間だけって事で店を

手伝ってた、あのウエイトレスさんさ」

「ウソ……でしょ……」

「まあ、色んな意味でそう言いたくなるのも、ちーっとはわかる気がするけどな。あいつら互いに

ぞっこんで執着しまくりのバカップルだからよ、他の人間にはどうこうできねーと思うぜ」

「執着しまくり?……桐ヶ谷が……?」

 

信じられない目でもう一度彼らが消えたドアを見つめている和人の元クラスメイトを置いて

クラインは渡された雑巾をクルクルと振り回しながら床を掃除すべくその場を離れた。

 

 

 

 

 

一方、奥の部屋へと連れ込まれた明日奈は状況が理解できないまま後ろから和人に腰をホールド

された体勢で固まっていた。

和人は、と言えば髪を垂らしていない方の右肩に顎をのせ、鼻の頭を首筋にこすりつけている。

なんの説明もする気がないらしい事を悟って、明日奈は可能な限り首をひねり後ろの和人に

向かって不満の声を上げた。

 

「もうっ、どうしちゃったの?、私、早くホールに戻らないと。床だって汚れたままなんだよ」

 

答えなければますます彼女の機嫌を損ねることは容易に予測できて、これから打ち明ける内容を

思ってこれ以上興奮させるのは得策ではないと判断し、彼女に密着したまま素直な気持ちを口に

する。

 

「……いや、もう、ちょっと、オレの方も限界だから……」

「また意味の分からないこと言って誤魔化そうとしてるっ」

 

素直すぎる言葉は目の前の彼女には届かず、結果、伝わらなかった事実に加えて懸命に振り

返ろうとしている彼女の口から漏れ聞こえた「また」という単語が心をえぐる。

 

……「また」ってなんだ?、オレ、そんなに意味のわかんないこと口走ってるか?

 

未だ抱く思いに言葉が追いつかない自覚はあるものの最愛の人から突きつけられると、それは

それでまたひと味違うらしい。何とか言葉を尽くさねばならないことを頭では理解しているの

だが、思った以上に「また」が内に残ってしまい自然と口から出る言葉は彼女からの問いの返答

ではなく、己の頭を占めている疑問となってしまう。

 

「アスナ……オレ、今までも意味のわかんないこと言ってる?」

「えっ?」

 

そこを聞き返されると思っていなかった明日奈が和人の腕の中で動揺を表して身を固くした。

答えを強請るように和人の鼻先でゆっくりと首筋を上下に撫でられると、その行為からもたら

される刺激に「ふぅ……っん」と思わず鼻から息が抜ける。

 

「アスナ」

 

唇までも首に触れそうな距離で名を呼ばれ、思考を手放してしまいそうになるのを懸命に堪えて

唇を震わせた。

 

「……昨日、だって……」

「昨日?」

 

一旦、和人の顔が離れるが腰に回された腕はそのままだ。それでも先刻よりは自由が効いて形勢

逆転を図るべく肩越しに少々唇を尖らせ、上目遣いに睨み付ける。

「昨日」と言われた和人は頬を淡く染め、困っているのか怒っているのか判断に迷う瞳と、突き

出された桜色の唇といった煽情的な恋人の表情をなるべく視界に映さないよう斜め上を向いて

記憶をさらった。

「昨日」と言えば和人も明日奈も学校で同じゴゴイチの選択科目が急遽休講となり午前の授業が

終了した時点でフリーとなった為、中庭で食べるはずだった明日奈お手製の弁当を桐ヶ谷家まで

持ってきて二人で食べたのだが……仕事に出ている母の翠は来週まで深夜帰宅の早朝出社が続くと

聞いていたし、妹の直葉は平日は部活があるので夜になるまで戻ることはなく……平日の午後の

丸々半日を二人きりで過ごすという予期せぬ事態に、最初は和人の部屋で、翌日のデートで

観たい映画の話などで盛り上がっていたのだが、そのうちに肌が触れ合う熱を抑えきれなくなり

自然と互いを求め合って……とそこまでを思い出しても和人には明日奈の口から出た「昨日」に

該当する自分の発言が全く思い当たらず、顔をしかめて頭を傾けた。

 

「何か言ったか?」

 

降参、と言った面様で視線を下げれば、変わらず見上げてくる恋人の眼差しは自分の感情を煽って

いるとしか受け取れず、色々な意味で溜め息が漏れる。

 

「昨日だけじゃないけど……時々キリトくん、私に言うじゃない……『そんな顔、他の男の前で

するなよ』って。そんな顔ってどんな顔なのか、自分じゃわかんないし、そう言った後って……

その……全然私の言う事聞いてくれないで……色々……するでしょ……それに、今さっきだって

『限界だから』って……どういう意味なのか……」

「ああー……」

 

脱力したように和人の顔が再び明日奈の首筋に密着した。

 

「うん、アスナが無自覚なのは十分わかってる」

「ひゃんっ、そこでモゴモゴ喋らないでっ」

 

堪らずに肩をすくめた明日奈の非難めいた声などお構いなしに和人は話し続ける。

 

「あれが練り上げられた戦略だって言うなら、《あの城》でオレはアスナに攻略された最初の男に

なるからな」

「攻略って何の話っ……また意味わかんない」

「わからなくていいよ。わからないのは承知の上で言ってるんだ。言わずにはいられないような

顔をするアスナのせいだから」

 

そう告げられた途端、ヒヤリと湿った感触が首筋を下から上へと這う。

 

「んんーっ!」

「自分の彼女が男達のにやけた視線を浴びまくってるのを目にしながらレポートを仕上げろとか、

どんな拷問だよ」

 

続いて和人の唇が明日奈の真っ白い首筋にきつく吸い付いた。

 

「っん……あつっ……」

「しかも、いきなりでエギルとの息の合ったコンビプレー見せつけられて……」

 

自分の腰にある和人の腕にすがりつきながら懸命に振り返った明日奈の目元はすっかり朱に

彩られ、はしばみ色は涙の膜に覆われてキラキラと真目映い光を放っている。頬は一層羞恥に

染まり口元の僅かな隙間から聞こえる短い呼吸音と同期して胸元が小刻みに揺れていた。

首筋に続いて剥き出しになっている耳の後ろへと和人の唇が移動する。

 

「ふぅっ、んーっ、そこ……ダメ……」

「知ってる……今の顔だって絶対他の男には見せられないぞ。昨日だって、オレの部屋で無防備に

あんな顔するから……」

「あっ、やだやだ、噛まないでっ」

「痕に残るほど強くしない」

「……絶対?」

「ああ」

 

その言葉を証明するように耳朶へ甘噛みをすると幾分肩の力を抜いた明日奈が思い出したように

言葉を詰まらせた。

 

「あ……でも……」

「ん゛?」

 

明日奈の耳たぶを咥えたまま怪訝な音を発すれば、耳への刺激に耐えるように肩を震わせている

彼女が少々息を荒くしたまま言葉を紡ぐ。

 

「首の後ろ……傷があるでしょ?」

「……え゛っ……」

 

その指摘にキリトの心臓が跳ねた。

 

「ちょうど真ん中あたり」

「あ……うん」

「ペンダントの金具で引っかいたのかなぁ」

「あー……、そうだナ。そんな感じだナ」

「……キリトくん?」

 

感情の機微に聡い明日奈が和人のまるでとってつけたかの口ぶりに疑問を抱くのはしごく当然の

結果だった。

 

「……まさか……」

 

和人からの刺激が止まったことで理性を取り戻した明日奈が、限りなく確信に近い疑惑を込めて

レイピアを操るが如く、鋭い視線で正確に和人の心を貫く。そのまま半眼で睨み続ければ、

ただでさえ言葉を駆使する事に苦手意識を持っている身としては偽りを口にするなどという高等

技術を披露出来るはずもなく、明日奈を拘束していた腕の片方を解いてお決まりのように指先で

頬をポリポリと掻くことで自らの心の内を表した。

 

「ひどいっ、痕はつけないでって言ってるのに。眠っている時につけたんでしょっ」

 

いくら乱れていたとは言え意識のある時には身に覚えのない場所なのか、自分が眠ってしまった

後に付けたのだろうと見当を付けて明日奈は和人の腕を振りほどき、くるりと向き直って正面

から憤慨の声をあげた。その言葉に慌てて和人が首を横に振る。

 

「違うって、眠ってる時じゃないよ」

「なら、一体いつの間に……」

「えー……っと、ですね……アスナさんがうつ伏せでオレの枕を抱きしめている時に……」

「えっ?」

 

そこまでの説明で昨日の和人とのベッドの中での具体的な行為を思い出したのか、みるみる

うちに明日奈の顔全体は火が吹き出そうなほど真っ赤に色づいた。

両頬を手で包むようにしてオロオロと視線を泳がせているその仕草さえ愛おしくて、今度は

自分の胸にその細い身体を強く引き寄せる。

 

「昨日もそんな風に顔を赤くして目をギュッと閉じたまま声を押し殺すようにオレの枕に必死に

しがみついてただろ。そんな姿を上から見ていたらさ……その……我慢できなくなって……思わず

後ろから……ごめん、囓った」

「か……囓った!?」

「うん、だから、ごめんって」

「えっ、私、鏡で見ようと思ったんだけど、なかなか上手くいかなくて……手で触った感じから

金具で引っかいたと思ってたんだけど……」

「……やっぱり気づいてなかったんだな。一応、声はかけた……けど」

「ううっ……あの時……そんな余裕なかったもん……」

「だよな……いや、オレも拒否られても止められなかったと思うし……」

「えーっ、もしかして歯形とかついてるの?」

「いや、そんなにガッツリ囓ったわけじゃないよ……でも」

「でも?」

「……経験者だと……多分、原因がわかる、と思う……だから、あの二人はああいう反応をしたん

だろ」

「あの二人って……」

 

ふと明日奈の脳裏に先程までいたホールでティーカップを倒してしまった女性客とその同伴者で

ある男性客の反応が蘇ってきた。

 

「ええーっ!」

「まあ、あの二人にも身に覚えのある痕なんだろうな……」

「もうっ、なんでこんな場所に……服で隠せるトコって約束っ」

「悪い……でも髪の毛縛るなんて思わなかったしさ……それにいつも隠れてる真っ白い首筋が

ほんのりピンク色に染まってて……つい」

 

その時の色を思い出したのか、明日奈の腰に回した和人の片腕に力が籠もると同時に自分の頬を

栗色の髪にすり寄せる。もう片方の手でそっと首筋を撫でながら耳元に寄せた口から「痛い

か?」と気遣う言葉が囁かれた。

和人の言う通り、普段は長い髪で隠れている背中側の首筋は雪のように白くて、それだけに

赤みをおびている傷跡は艶めかしい程に和人の執着心を表している。

和人の首元に未だ熱の冷め切らない顔を埋めている明日奈は小さく「もう痛くないよ」と

返すと身をよじった。

 

 

「ちょっと放して……見えないように髪を緩く後ろで三つ編みに結い直すから」

 

そう告げれば離れてくれると思った和人の腕が自分の腰から一向に緩まないのを不思議に思った

明日奈は怪訝な顔で見上げる。

 

「……飲食物を扱うから髪はまとめなくちゃダメでしょ。それに早く戻らないと。お店の

お手伝い、放り出してきちゃったし」

「……そうしたら、また客の男共はアスナと喋りたくて追加オーダーしたり、コーヒーのお代わり

頼んだりするんだよな」

「べっ、別に私と喋りたいからってわけじゃないと思うけど」

 

はぁっ、といささかわざとらしく息を吐き出した和人は目の前の額にコツンと自分のそれを

上から軽くぶつけた。

 

「ほんと、アスナってそういうところ鈍感だよな」

「キリトくんが気にしすぎなんだと思うよ」

「違うって……あんな欲を帯びた視線の中、よく笑顔でいられると半ば感心するよ……ああ、

アスナにしてみればそれがずっと当たり前だからか」

 

再び軽く嘆息する和人を見てこれ以上異論を唱えても無駄と諦めたのか、明日奈は困った

ように眉を歪ませて額をくっつけたままポソリと「キリトくんだけだもの」と小さく呟いた。

そのまま目を閉じて言葉を続ける。

 

「中庭でお弁当を食べる時、私のこと、こっそり覗いてるでしょ。でも、いつもキリトくんの

視線だけはわかるの」

 

それを聞いて和人は目を瞠った。確かに学校の中庭で明日奈と待ち合わせをしている時、彼女が

先に到着していれば、自分を待ちわびる恋人の愛らしい姿を物陰からこっそりと盗み見てしまう

のは抗えない本能のようなもので、毎度彼女からお小言を頂戴する度に謝りはするが直す気も

ないのが正直なところだ。しかし、思い返してみれば和人が覗き始めると、いつも程なくして

明日奈がその視線を感知するという事実にたどり着く。

 

「あ……オレの視線って店のやつら以上に欲を孕んでいるから、とか?」

 

返された推測に明日奈はくっついていた顔を逸らして思わず、プッと吹き出した。

 

「それは、どうかわからないけど……私の大好きな真っ黒い瞳に見守られている時の暖かい

気持ちになるから、自然とわかるんだと思う」

「そりゃあ視線だけで明日奈を守れるなら、いくらだって見つめるけどさ」

 

言いながら逸らされた視線を取り戻すように明日奈の頬を両手で積み込んで、そのはしばみ色を

覗き込む。

 

「オレの視線なんか太刀打ちできないくらいの数が周りからアスナに飛んでくるだろ。その

視線のひとつひとつがこの瞳を見たり、唇を見たり、身体のあちこちを見てるかと思うと……

切り落としてやりたくなる……全部、オレのなのに」

 

明日奈の唇に触れるだけのキスを落とすと、当たり前のように彼女の両腕が和人の背中に

回った。

 

「キリトくんは……普段、見えない所だって……」

 

その後の言葉は明日奈が顔を和人の首元に押し付けてきたのでごにょごにょと不明瞭になって

しまったが、言われた当人には届いたらしく、意味を理解した途端ニヤリとご機嫌な笑みを

浮かべる。

 

「そうだな、見ただけじゃわからないアスナの色も、形も、味も、匂いも、声も、それに手触り

だってオレは知ってるし」

「……また、そういう……言い方……」

「どこもかしこも柔らかくて……」

「ふうっ……っん」

「中はあったかくて、すごく気持ち……い……いでででででっ……」

 

額に、頬に、鼻の頭にと明日奈の顔中にキスの雨を降らせていた唇が徐々に首筋まで下りた

ところで、和人の頬が思い切りつねあげられた。

 

「アスナさん……まじで痛いデス」

「うん、本気でつねらないと、キリトくんやめてくれないでしょう?」

 

悪びれもせずニッコリと微笑むその姿は和人以外の人間ならすぐさま蕩けてしまうのだろうが、

当の和人は不満顔も露わに明日奈をにらみ返す。そんな圧のこもった視線などものともせずに

明日奈の表情はますます笑顔の度合いを増した。

 

「だいたいキリトくんはレポート、終わったのかしら?」

「あ゛……」

「私がエギルさんのお手伝いを始めた原因、覚えてる?」

「……ハイ」

「本来なら今頃は二人で映画を観てる時間よね?」

「……ソウデシタ」

 

気まずそうに顔を背けようとすれば素早く明日奈の両手が和人の両頬を包み込んだ。

《あの城》の森の家で暮らしていた時も明日奈に頬をギュッと挟まれた記憶が鮮明に蘇り、

思わず頬が染まる。そんな色づいた頬にむぎゅっ、と手のひらを押し付けながら明日奈は漆黒の

瞳を強く見つめた。

 

「ならレポートに集中して」

 

視線の強さはそのままに、フッと表情が和らぐ。

 

「終わったら映画、行こ。私、キリトくんと映画観るの、楽しみにしてるんだから」

 

少し恥ずかしそうに笑う明日奈からの視線を一身に浴びて「りょーかい」と返せば今度こそ

心からの笑みを向けられ和人も思わず口元を緩ませた。覗き込むように注がれる彼女からの

視線を真っ直ぐに受ければ自分への想いを痛いほどに感じる。周囲からの視線を遮ることは

出来ないが、彼女からの視線を独り占めにする為に和人は優しく明日奈の瞳を見つめ返した。




お読みいただき、有り難うございました。
以前投稿した『再会』でエギルが「《現実世界》でもアスナが店を手伝って
くれたら……」な台詞があったので、機会があれば実現させたいな、と思っていました。
まあ、臨時の超短期なバイトでしたが……今後は和人が「させない」でしょうから
男性客の常連が増えることはないでしょう。
パスタの「ポモドーロ」……馴染みがないと思っていましたがスーパーのパスタソース
売り場でちゃっかり(?)ありました。
あれ?、メジャーでした??
では、次はご本家さま新刊発売記念でお会いしたいと思います。

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