ソードアート・オンライン《かさなる手、つながる想い》 作:ほしな まつり
職場から帰路につこうとしていた明日奈が後輩の莉々花と同僚の水嶋と共に
次世代型VRマシン発表会見の録画映像を見た後、突然背後から抱きすくめられて……。
自分を包み込む背後からのぬくもりに、知らずにふぅっ、と気が緩んだ明日奈はわずかに頭をめぐらせて自らその存在にすり寄った。
「どうしたの?」と小さく問うと相手は未だ自分の髪に顔を埋めたまま唇を動かす。
「充電しに来た……」
その言い回しに微笑みながらも困惑してちょっと明日奈の眉尻が下がった時だ、続いて聞き慣れた少し悪戯っ子のような物言いが耳をくすぐる。
「足りなくなってるだろ……オレが」
「えっ?!」
問い返す間さえ与えてもらえず髪に触れていた顔がもぞり、と動き、すぐさま角度を変えて耳朶に触れてくる唇は吐息と共に意外な言葉を吹きかけてきた。
「ユイ経由で和真から連絡が来たんだ。お母さんの笑顔がちっちゃくなってきちゃったから何とかしてって」
息子の表現に思わず言葉を失った明日奈だったが、その気持ちが嬉しいのと、息子の前ではいつも通りにしていたはずなのに、の恥ずかしさからジワジワと頬が色づいていく。
「か、和真くんたら……あっ、じゃあもしかして今夜の外食って……」
「ああ、もちろん京子さんとうちの母さんの予定が合わなきゃ、別の手段を考えてたみたいだけどな」
ここ二日ほど、夜になるとベッドの中で「ユイ姉とお話する」と言って自分を子供部屋から追いだしていた息子の行動理由がわかって明日奈は泣きそうな笑顔で「そうだったのね」と呟いた。
気づかぬうちに自分は随分と息子に心配を掛けていたようだ。
昼間のモニターごしの和真の笑顔は作戦がうまくいった事への満足感と明日奈への気遣いだったのだろうか。しかし嬉しさはすぐにおさまって、明日奈は脳裏に浮かんだ疑問を口にした。
「でも、今日はこれから会見記念のパーティーでしょう?」
その言葉を聞いた途端、短い溜め息が耳元で落とされる。
「発表会見には出たんだ、もうオレがいなくてもいいだろ」
「そういうわけには……」
そこまで言って明日奈はようやく目の前のふわふわの髪の毛がぱたぱたともの凄い勢いで揺れ動いているのに気がついた。
追って聴覚が耳元の声以外を拾い始める。
「明日奈先輩がーっ、明日奈先輩っ、大丈夫デスかっ、はっ、離してください水嶋さんっ、明日奈先輩が襲われてますっ、明日奈先輩っ、今助けますからっ」
「落ち着け、莉々、こら、暴れなさんなってっ」
「そうだっ、けっ、警察、水嶋さん、警察呼んでくださいっ、不審者デスっ、不審者が思いっきり明日奈先輩に抱きついてますっ」
明日奈に向かって必死に両手を伸ばしながらジタバタと暴れている莉々花を、足下に鞄を置いた水嶋が両手を使って羽交い締めで抑え込んでいた。最終兵器を発動させる決意の唇が少し意地悪気に歪み、メガネの奥の瞳が細められるとスゥッ、と深く息を吸い込んだ水嶋が莉々花の耳のすぐ近くまで顔を寄せて低く静かに「莉々」とだけ口にする。途端に莉々花は口をつぐみ顔を真っ赤にして腰が抜けたのかヘニャヘニャと水嶋に支えられ大人しくなった。
「そ、それっ、反則ですっ、水嶋さん」
「こうでもしないと静かになんないでしょ、お前」
莉々花の反応に驚いて目を見開いていた明日奈だったが自分の後ろの人物を彼女に説明しなければ、と思い至り「莉々花ちゃん」と優しく呼びかけた。
その声に反応してガバッと顔を上げた莉々花が「まだくっついてるー」と噛みつきそうな表情を明日奈の後ろの人物に飛ばすと再び水嶋が焦ったようにその声を遮る。
「いいんだよ、アノ人は。それに結城を見てわかんないの?、あんなに安心しきった顔、仕事場じゃ見せないだろ」
「え?……」
明日奈の後方の人物ばかりに気を取られていた莉々花は水嶋に言われて、そっ、と視線を大好きな先輩へと移した。
自分がサポートを担当している職場の先輩と言う意味でも常に明日奈の表情や仕草には注視している莉々花でさえ驚きを隠せないほど今の明日奈は穏やかで優しい笑みを浮かべている。
同性の莉々花が憧れとは違う感情で思わず赤面してしまうくらい魅力に溢れた笑顔だった。
水嶋に羽交い締めにされたまま、ぽぅっ、と見とれている莉々花に向け、明日奈に密着していた人物がゆっくりと顔を持ち上げる。
「誰?」
ようやく二人の存在に気づいたような声で短く問うと、すぐさま明日奈が拘束から逃れて二人に向き直り、片手を莉々花の近くに添えた。
「私のサポートをしてくれてる莉々花・リンドグレーンさん」
「ああ、同じ職場の子?」
明日奈との距離を再び縮めてその人物が寄り添うように立つと、明日奈も見上げてその言葉を肯定するように微笑みかける。
その後、ゆっくりと視線を莉々花に向けてきた人物を見て「うひゃーっ」と飛び出した叫び声は、それを予期していた水嶋の手によってすぐさま塞がれた。
「みゅぃ、みゅじゅしましゃんっ、きっ、きっ、きりぎゃぁかずゅとデス!」
「はいはい、莉々、人様を指でさしたらいけなの、知ってる?、ついでに言うとご本人前にして呼び捨てもNGだよ……っと、すみません桐ヶ谷さん、お騒がせして」
「あ?、ああ……水嶋さん」
「はい、和真くんが産まれた時にお会いして以来だから随分とお久しぶりです。ちょっとだけ見ましたよ、録画でしたけど会見映像」
一瞬、うんざりと眉を寄せた和人だったが、会見には触れず「明日奈がお世話になってます」とだけ言い、当たり前のように妻の腰に片手を添えれば、それを気にする風でもない明日奈を見て逆に水嶋は楽しそうな口ぶりで二人を眺めた。
「相変わらずの執着っぷりですね」
その感想に自覚があるのか不敵な笑みを浮かべて和人も言い返す。
「オレ達はこれが普通なんで。水嶋さんこそ」
目線で水嶋と捕獲されている莉々花を交互に示すと、水嶋は「いやいや、俺はまだまだ」と器用にも莉々花を閉じ込めたまま肩をすくませた。
「でも、まっ、ぐずる子をあやすのはアノ手が一番でしょう?」
「ああー、そうですね。オレもたまに使うかな」
男同士の見えない会話に明日奈が眉間に皺を寄せ始めた時だ、和人のリストバンドが携帯端末の通話着信をバイブで知らせる。
バンドに浮き上がった通話相手の表示を一目見るなり和人が手首を口元に運び「コネクト・カット」と小さく呟くとバイブが止まり、五秒後に今度は明日奈の鞄の中から携帯端末の着信音が鳴り響いた。
急いで取り出し、「はい」と応答するやいなや騒がしい声が飛び出してくる。
『姫っ、そこにカズいるよねっ、いや、絶対いるっ、アイツ、今、俺からのコール、瞬殺したしっ』
「あ……っと、佐々井くん……」
明日奈が苦笑いで和人の元クラスメイトの名を呟くとすぐさま和人が妻の端末を横から取り上げた。
「佐々、なんでお前、明日奈のアクセスナンバー知ってるんだ」
『へへーんだっ、こーゆー時の為に決まってんだろー。それよりカズ、もうパーティーまであんま時間ないぞ』
「オレはこのまま明日奈と家に帰る」
『バカ言うな。何の為に今回の会見をバーチャルじゃなくてリアルにしたと思ってんだよ』
「オレに関係ないだろ」
『全部お前を引っ張り出すためだろーがっ。あーっ、だから広報の助っ人なんてイヤだったんだ。だいたいうちの会社がカズんトコと提携とか、なんの悪夢だよ』
心底、後悔と落胆に満ちた声を聴いて明日奈が慰めるように横から割り込む。
「佐々井くん、会見見たよ。凄いね、全世界に映ってたし…………えっと、肘が……」
『ああぁ……アリガト、姫……うん……あの後、営業部長と広報部長に両サイド挟まれて、しこたま怒られた……』
今回の一大プロジェクトに対し所属の部署から派遣を要請され、今回のプロジェクトリーダーと高校で懇意にしていたという理由で『付き人』という表現が不本意ながらもピッタリな役割を当てられた佐々井は端末の向こうからでも漏れてきそうな程の深い溜め息を吐き出した。しかしそんな報告にも情けは無用と明日奈との会話を和人の声が遮る。
「とにかくオレは出ないからな」
『そんな我が儘が通用するかっ、だいたい今までだってお前は我が儘すぎだろ。一日一食は姫の手料理が食べたいとか言いやがって。お陰で毎朝社員がお前の自宅まで姫が作った弁当を取りに行ったんだぞ……俺が行きたかったのに』
「オレが会えないのに、お前を明日奈と会わせるわけないだろ」
『そのせいで広報部内じゃ、姫と朝の挨拶をする権利が毎日争奪戦だったわっ。今日だって会見前に用意したホテルのルームサービスは口に合わないとかほざくし。何年、愛妻手料理食ってるんだって話だよっ』
「《あの世界》でも食ってたからな、それを入れると……」
『真面目に数えるなっ』
血管が切れる勢いで叫び続けている佐々井の声は近くにいた莉々花と水嶋の耳にまで届いたようで、莉々花は口と目を丸くしたまま会話を聞いていたが、ゆっくりと後ろの水嶋を振り返った。
「水嶋さん……明日奈先輩の旦那さんって……」
「うん、よかったね莉々。知りたかった結城の旦那さんと都市伝説級の人物、同時に会えて」
「うえええぇぇぇっっっ」
再び崩れ落ちそうになる莉々花を支えた水嶋が「こらこら」と言いながら羽交い締めにしていた両手の位置を自分の傍から逃がさんとばかりに彼女の腰に回す。
「ったく、危なっかしいな莉々は」
「だって、水嶋さんっ、明日奈先輩の旦那さんが……あの桐ヶ谷和人?」
「『さん』ね」
「そんなのっ、そんなの……乙女ワールド大爆発じゃないデスかー!」
「お……乙女?……なに?」
「だからっ、明日奈先輩みたいにありとあらゆる面で完璧な女性なんて既に別世界の存在に近いのに『そんな先輩でも旦那さんは以外と普通の人なんデスねぇ』ってゆうオチが独身乙女の理想なんデスっ。なのにあれじゃあご夫婦揃って異次元転移?、異世界転送?、この世に存在してはいけないカップルになってマス」
「……莉々、SFだかファンタジーだかわかんなくなってるって。でも、ま……その感想はわからなくはないけど…………でもね」
どうやら桐ヶ谷夫妻共通の知人であるらしい通話越しの人物に向かって駄々をこね続けている桐ヶ谷和人とそれを懸命に宥めている同僚の明日奈を眺めながら水嶋はぽふん、と莉々花のフワフワの髪の毛に顎をのせた。
「……あそこまで互いを想い合ってると逆にあの二人でないと不自然というか、二人でピタリとピースが合致するっていうか……」
同じく大好きな先輩とそのパートナーを凝視している莉々花は二人を見れば見るほど反論の言葉が見つからず、それでも認めたくないのか「う゛う゛〜」と唸る。
「私の明日奈先輩がぁ……」
「諦めてお前は俺のモノになっちゃえば?」
「それだけは絶対に嫌デスっ」
「莉々も頑張るなぁ」
わざと本気とも冗談ともとれる軽めの誘い文句にしているのに、莉々花から拒否られるのはこれで何回目だろうか、と水嶋が思わず口から深く重く息を吐いていると、未だ決着のつかない不毛なやりとりが耳に入ってきた。
『だからっ、普段表に出てこないカズが画面に映れば宣伝効果バツグンって事でリアル会見にしたのっ。部屋だっていいとこ取ったし、ルームサービスだって経費で落ちるっ。会見記念パーティーまでホテルに引き留めておけなかった事がバレたらオレの首が飛ぶんだよっ』
「そんなのはそっちの勝手だろ。オレには高級ホテルの一室より居心地の良い場所がちゃんとあるし、ルームサービスより美味いと思う食事があるのは佐々ならわかってるよな」
『んなこたー百も承知の上だよっ。それでも上司から言われたらやんなきゃいけないのっ。オレ、普通のサラリーマンだからっ』
微妙に涙声になってきた通話口の声に多少同情めいた気持ちが芽生えた水嶋がふと思いついた案を口にする。
「だったら、そのパーティー、結城も同伴で出ればいいんじゃないの?」
ぽそり、と呟いた程度のつもりだったが、一拍おいて嬉々とした声のみが耳を痛める勢いで飛んできた。
『その案、もらったーっ』
同時にギョッとした表情に転じた明日奈は「ええっ」と驚声をあげたがすぐに隣の声がかぶさってくる。
「ああ、なるほど、それなら出てもいいな」
「ちょっ、ちょっと和人くん、何言い出すのっ。私、全然関係ないし」
『大丈夫だって、姫。全世界に配信されたカズの「大事な人」発言の当事者だから、もいっっきり関係者になってる。それにどうせパーティーでその話題を振られるに決まってるからさ、オレやカズがどうこう説明するより、本人が隣に居てくれた方が一発で納得させられてこっちも助かるしっ」
「佐々井くんまで……だいたい服装はどうするの?、今から取りに帰ってたら間に合わないでしょ?」
明日奈の言葉に途端、佐々井の勢いがしぼんだ。
『あ、そっかぁ……』
しかしすかさず和人がにやり、と片頬をあげる。
「そこはオレに考えがある……佐々、ホテルのブライダル部門に連絡して。六年ほど前だから、まだ明日奈のデータは残ってるだろ。ウェディングドレスは持ち込んだけど、その他のドレスは何点かレンタルしたからな。あの時とサイズが変わってないのはオレが保証するし、靴とアクセサリーも合わせた物を二、三着用意しておいてもらってくれ」
その提案に再び焦り声をあげたのは佐々井だ。
『いっ、今からかっ!?』
不可能だと言いたげな口調を遮るように和人が更に携帯端末に口を近づけ周囲に聞こえないよう言葉を吐く。
「出来るだろ……『交渉屋』なら」
しばらくの無言の後、小さく愉しそうな笑い声が送られてきた。
『…………ははっ、久々に聞いたわ。でもそれを言われたら、やんないわけ、いかないよな……それでお前がパーティーに出てくれて、更に着飾った姫が見られるなら…………言う事聞いてやるよっ』
「服はオレのとあわせてパーティー開始の十五分前に持って来てくれればいい。それまでは明日奈と過ごすから部屋には誰も入れるなよ」
最後の要望には素直な返答をせず、幾分拗ねた声で『誰が入るかっ』と捨て台詞のような言葉を言い放ち通話は切れた。
手にしていた携帯端末を持ち主に返そうとすると、少々乱暴に和人からそれを受け取った明日奈は自分の存在を無視して話がまとまってしまった事に不満一杯の声をぶつけてくる。
「ひどいっ、私、行くなんて一言も言ってないのにっ、いきなりパーティーだなんて……」
「パーティーならオレより明日奈の方がずっと場数を踏んでるだろ」
「そういう事じゃなくてっ、それにドレスのサイズだって……」
「明日奈のラインはすっかり記憶してるから、間違いないはずだけど」
「そっ、そっ、そっ、そーゆー事、言っちゃダメなのっ」
恥ずかしさに頬を染めて、それでも眉を跳ね上げて怒っている明日奈を和人はひたすら愛おしい者に対する瞳で見つめ続けている。今度こそ正面からその細い腰に両手を回し、未だ文句を言い続けている明日奈をそっと抱き寄せると落ち着かせるために背中を軽く撫でた。
「だって、まだ充電、足りてないし……」
「私ならもう大丈夫よっ」
「なら、次はオレの番」
「うぅっ……でも、和真くんがお家に帰って来た時、誰もいなかったら……」
「それなら今夜は川越の家か明日奈の実家に泊めてもらえるよう頼んである。明日は保育園もないし、明日奈も休みだろ?、オレもやっと一息つけるからパーティーが終わったらそのまま翌朝までホテルでゆっくりしよう」
自分達の存在など完全に忘れてしまったように目の前で繰り広げられている会話の中、和人が小声で通話口の相手に告げた言葉は聞き取れなかったが、それでもあの高級ホテルと明日奈の繋がりを感じ取った莉々花は事情を知っているだろう背後の人物の名を呼ぶ。
「水嶋さん……明日奈先輩とあのホテルって……」
「んー……、六年ほど前にさ、あそこのホテルの会員専用サイトが話題になったの、覚えてるか?」
「……ああっ、あのウェディングプランの。はいはい、私も友達の伯父さんが会員だったんで、頼み込んでアクセスして見ましたけど、すっごく素敵なウェディングドレスで。更にそれを着こなしてる花嫁さんが顔出しNGだったんで余計注目されましたよね」
「そう、それ」
「実際にあのホテルで挙式したカップルってなってましたけど、花嫁さんのスタイルも良かったし、遠目からの画像でも美人さんぽくて、色白の肌に髪の色が茶系だったから日本人じゃなくて外国人モデルだってゆーのがもっぱらの……ああ、でもモデルにしてはそこまで身長は高くなさそうだったなー」
莉々花が語る人物像を黙って聞いていた水嶋は大げさに溜め息をついた。
「そこまで覚えててわからないって……莉々は本当におばかさんだな」
「あーっ、研修中もそうやっておばか、おばかってっ」
「だってそうでしょ」
水嶋は後ろから両手で莉々花の頬を挟むと、くいっ、と向きを明日奈の顔へと軌道修正して答えを導くために問いかける。
「莉々の大好きな先輩の肌は?」
「そりゃあもちろんきめ細やかで雪のような白い肌デス」
「髪の色は?」
「ちょっと日本人離れした栗色デスね、でも染めてるわけじゃないんデスって」
「最後に全身を見て言うことは?」
「一児の母とは思えないプロポーションデス。出ているとこは出てて、細いとこはとことん細くて、それでいて全体に柔らかいフォルムだから思わず、ギュッ、てしたくなりますっ……って……あれ?……あれれ?……ええーっ!」
「ああ、もうっ、おばかな子ほど可愛いって、ホントなのがよくわかる」
背後からむぎゅぅぅっ、と水嶋に抱きしめられているというのに、それすら意識できず莉々花は放心状態で目の前の夫婦を見つめ続けた。水嶋の問いから辿り着いた答えは、憧れの先輩が数年前、世間を大いに賑わせたあのウェディングモデルその人だという事だ。
そう言えばワンショットだけ、口元まで映っている画像があった事を思いだし莉々花は目をこらす。
画面越しに見た華奢なおとがいに艶桜色の唇は本当に幸せな笑顔を想像させる形を作っていて、自分もこんな表情で式を挙げる花嫁さんになりたいと思ったのだ。
あの笑顔の持ち主は本当に目の前の女性?……なら、その笑顔を向けられていた相手が堂々と先輩を腕の中に包み込んでいる桐ヶ谷和人?……頭の中で考えを整理しようとすると、莉々花の耳が躊躇いがちの明日奈の声を拾う。
「それにホテル側にも迷惑かけて……」
ことさら周囲には気配りを怠らない明日奈だ、いきなり複数のパーティー用ドレス一式を用意してもらう事に抵抗があるのは莉々花も十分理解できたが、それにしては随分と歯切れの悪い口ぶりと戸惑いの表情が不可解で思わず首を傾げた。すると莉々花の疑問を読み取ったように水嶋が小さく漏らす。
「結城も素直に一緒に行きたいって言えばいいのに」
そういう事なんデスね、と納得していると和人の声が僅かに尖った。
「それぐらい気にすることない。あの時、ちゃんと明日奈は断ったのに半ばゴリ押しの形で画像を使ったのはあっちだ」
「でも、ちゃんと顔はわからないよう気を遣ってくれたし……」
「当然だろ……おまけに後ろ姿とはいえオレが一緒のも使ったしな」
「それは……仕方ないよ……隣にいて欲しいのは和人くんだけだから」
淡く頬を染めてふわり、と笑う明日奈の唇が莉々花の記憶を刺激する。間違いなくかのモデルが目の前の先輩と確信した時、すぐさま明日奈の眉がへにょり、と歪んだ。
「だからって迷惑をかけていい理由にはならないでしょう?」
そう言われてしまうと納得させるのは無理と切り替えて、和人は明日奈の耳元に口を寄せ、妻の職場の人間達には聞こえない位の囁き声で願いを口にする。
「でも……オレは一緒にいたい……それにもう佐々は動いてる、あいつなら何とかするぞ」
「う゛う゛〜……そうやって外堀から埋めるのズルイよ」
ここで自分が行かないと言い張れば、今度は今頃奔走しているであろう佐々井の努力が無駄になる事もわかっているし、本音を言えば明日奈だって久々に和人をすぐ傍で感じたいのだ。それでも最後に残ったほんの小さな気持ちの欠片がついていけず素直に首を縦に振れない自分に困惑と戸惑いを混ぜて顔を上げると、和人がフッと笑って耳朶を舐めるように唇を押し付けてきた。
「明日奈」
深い声がやっくり、ゆっくりと忍び込んでくる。数日ぶりに呼ばれると耳から直接心に届く自分の名が何かの呪文のように身体の力を奪い、へたり込みそうになって足下がふらつくとそれを予想していたように和人が強く支えた。
「そ、それ、ダメって言ってるのにっ」
心臓がバクバクとうるさくて冷静な判断が出来なくなった明日奈は両腕で和人にしがみつくと、赤みを差した頬を晒しながらも上目遣いで睨み付ける。しかしそんな言葉や視線を気にも止めず和人が目を細めた。
「明日奈の悪いクセだぞ、頭で考えすぎ……ホラ、行こう、オレに無理矢理連れて来られたって事にしていいから」
顔を上げた和人が水嶋の方に向き直り「じゃあ、オレ達はここで失礼します」とさらりと言う。「えっ、ちょっと……」と焦る明日奈の手を引きながら「タクシー待たせてあるんだ」と振り返りもせずに告げ、その場を離れようとした時だ、莉々花の縋るような声が明日奈を引き留める。
「あのぅ、明日奈先輩、ご飯は……」
「あっ」
そう言われて明日奈は莉々花に食事に誘われていた事を思い出し足が止まった。向かい側の大型モニターに意識を奪われる寸前、自分は承諾の返事をするつもりだったのだ。
しかし明日奈の一瞬の躊躇いを読み取った水嶋が事も無げに笑顔を向けてくる。
「ああ、大丈夫、今夜はオレが莉々と一緒に食事に行くし」
「えーっ」
寝耳に水の発言に莉々花が驚きの声をあげると、すかさず水嶋は莉々花の隣に立ってその肩を抱き寄せ、もう片方の手をヒラヒラと振って桐ヶ谷夫妻に別れを示した。当然それに異を唱えたのは莉々花だ。
「なんで私が水嶋さんとご飯に行かなきゃならないんデスかっ」
「まあまあ、スモーガスボードの専門店に連れてってあげるから」
「スモーガスボード!」
「こっちじゃ珍しいだろ。食べたいんじゃないの?」
もうひとつの母国であるスウェーデンの伝統料理名を言われ莉々花の心がぐらり、と傾く。
「た……食べたい……デス」
「なら決まりだね……そういうわけだから気にせず行ってきなよ、結城」
「あ、有り難う、水嶋くん」
和人と手を繋いだまま立ち止まっていた明日奈が複雑な表情で水嶋に感謝を口にした。今回に関しては自分のフォローを請け負ってくれたというだけではなく、彼個人の感情がかなり含まれているはずだ。あまりイジメないようにね、と目で訴えて、チラリ、と視線をその隣に移せば、既に瑠璃色の瞳を興奮させている莉々花は純粋に郷土料理を楽しみにしている様子で、なんと声をかけたものかと考える。
「莉々花ちゃん、ごめんね。ご飯は今度必ず一緒に行くから」
「はーいっ、明日奈先輩、約束デスよー」
明日奈との食事の確約も取れ、すっかりご機嫌顔の莉々花は隣の水嶋のメガネの奥が怪しく光っていることに気づきもしない。僅かな不安を感じた明日奈だったが、その逡巡も和人から握っている自分の手にギュッと力を込められ、「明日奈」と呼ばれれば足は自然と動いてしまい、最後に笑顔で見送ってくれる後輩と同僚に手を振ってその場を離れた。
連れ去られるように和人に手を引かれていた明日奈だったが、少し行くと自らその隣に並び、とびきりの笑顔を向けている姿を見て莉々花が羨ましそうに溜め息をつく。そんな莉々花の頭をクシャリ、とひとなでした水嶋は鞄を持ち直して「ほら、オレ達も行こう」と促したが、莉々花はそのフワフワの髪の毛を揺らして水嶋のメガネの奥を覗き込んだ。
「そう言えば水嶋さんが言っていた先輩の旦那さんが『三物』持ってるって話デスけど……」
「ああ、それね。これは結城にも言えることだけどさ、容姿と才能……でもきっとあの二人にとっては互いの存在こそが天に与えられたかけがえのない物だろ?」
水嶋の言葉に莉々花は深く頷いたのだった。
お読みいただき、有り難うございました。
なにげに以前投稿しました「たどり着いた約束(みらい)」の後日談的内容も
軽くひっかけてみましたが……要は耳元で好きな人に名前呼ばれると明日奈も莉々花も
弱いよね、ってお話です。
きっと遠くない未来、水嶋くんは明日奈に「莉々がどうしても式はあのホテルで
やりたいって言うんだけど、結城の名前でどーにかなんない?」みたいな相談を
持ちかけるのでしょう。
大丈夫、水嶋くん、きっとどうにかなるよ(笑)
では次回は珍しく季節ネタでお届けしたいと思います。