ソードアート・オンライン《かさなる手、つながる想い》   作:ほしな まつり

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オリキャラとして和人と明日奈の高校生の息子、和真と私立の小学校に通う娘の芽衣を
まじえ、桐ヶ谷一家のホワイトデーにまつわるお話です。


ホワイトデー

三月十三日

 

未だ春と呼べるほどの穏やかな日差しではなく、かと言って冬の痛いくらいの風も吹いていない日曜の午後、すぐ隣の校庭からボールを追いかけつつ響いてくる小学生達のかけ声を背中で受けながら、自分がこの小学校に通っていた当初はもっと重たいと感じていた体育館の扉をゴゴゴッ、と動かすと、背後の声をはるかに上回る多重音量が正面から体当たりしてくる。

 

「有り難うございましたっ」

 

既に全ての防具を外した状態で背筋を真っ直ぐに伸ばし、綺麗に整列している稽古着姿の生徒達の顔ぶれは色々で、かなりの年配男性もいれば社会人と思われる女性、下は小学生前の子供もいて列はきちんと直線で揃っているのに頭の位置がでこぼこしている為、和真が自分の妹を探すためにヒョコヒョコと身体を動かしていると明るくもハッキリとした声が体育館内に響いた。

 

「はい、有り難うございました。お当番さんは雑巾の片付けをお願いします。では、また来週」

 

列の前方中央に一人、生徒達とは向かい合わせの位置で肩のあたりに切りそろえた真っ黒な艶髪をさらり、と揺らし、この剣道教室の師範を務めている直葉が真っ直ぐに生徒達の顔を見回してから頭を下げる。あらかじめ決められているのだろう、当番とおぼしき数名の生徒が素早く体育館の端に用意されていたバケツを取りにいくと、戻ってくるのを待たずに他の生徒達が歩み寄り、次々と手に持っていた雑巾をそのバケツに入れていく。ちゃんと「お願いします」と感謝の言葉を全員が口にしているところも礼節を重んじる直葉の剣道教室らしさを表していた。その中から聞き覚えのある声をみつけて和真が声をかける。

 

「芽衣っ」

「あ、おにーちゃんっ」

 

途端に幼児から熟年者まで、この体育館内に存在する全ての人間の視線が集中するのを感じた和真だが、その程度の視線は自分が母親と一緒に歩いている時の比ではないと、臆することなく稽古の終わった妹に歩み寄った。

 

「お疲れ……って、なんでお前、あご、擦りむいてるんだ?」

 

剣道ならば面という防具があるはずなのに?、と妹の顎を凝視していた和真の後ろから「和真がお迎えなんて珍しいね」と先程、体育館内に響いた声よりも親しみの籠もった口調が耳に飛び込んでくる。振り返るとやはり未だ稽古着姿の直葉が首にかけたタオルで軽く髪を拭きながら立っていた。

 

「あ、直葉ちゃんもお疲れ様。いつも芽衣が有り難う」

「うわっ、台詞も言い回しも明日奈さんそっくり」

 

身内に向ける砕けた声色と少し呆れたような笑顔で返されて返答に迷った和真は「それと……」と話題を変え、妹の迎えとは別のもう一つの目的を果たすべく、手にしていた紙袋を差し出す。

 

「これ、一日早いけどお返し」

 

目の前に差し出されたシンプルなデザインの紙袋を見て、直葉の瞳がキラキラと輝きだした。

 

「やったっ……もちろん、明日奈さんの手作り……だよね?」

「直葉ちゃん……もしかしてお返し目当てで俺にバレンタインのチョコくれてたりしてる?」

 

甥っ子から疑いの混じった鋭い指摘に直葉はひくり、と頬を引きつらせる。

 

「えっ?、そんなことないよ。大好きな甥っ子の和真へ親愛の証なんだからっ…………で、今年はなに?」

 

結局中身が気になって我慢出来ずに問うと、同じように頬をぴくり、と動かした和真がぽそり、と答えを口にした。

 

「スフレチーズケーキ」

「おおっ」

「チーズケーキぃっ」

 

直葉の歓声と同時に和真のすぐ隣下からも喜色に満ちた声があがる。

 

「お兄ちゃんっ、お家に芽衣の分もあるよねっ」

 

赤くなっている顎のまま自分達の叔母と同じ位瞳を輝かせた妹を苦笑いで見下ろした和真は「ちゃんと母さんが用意してくれてるよ」と答えてから「それより芽衣、着替え。それとこれが剣道教室でもらった人達へのお返しだから」と別の紙袋を見せれば「渡してくるっ」と言って兄から袋を受け取った芽衣が更衣室の教室仲間達の元へ駆けだしていく。

 

「あらら、明日奈さん、一体何個チーズケーキ用意したの?」

「……さすがにあの数は無理だよ。あっちはボックスクッキーの詰め合わせ。それに、オレだってそのチーズケーキ作る時、ちゃんと母さんを手伝ってるんだからね」

「あははっ、アリガト、和真」

「うん……あっ……俺もメールでしか言ってなかったよね、先月はチョコ、有り難う」

「なんのっ、我が家もバレンタインには明日奈さんからガナッシュチョコレートケーキ貰ってるからね、ちゃんとお返し渡さなくちゃ、と思ってるんだけど……きっと明日のホワイトデーに向けて、和真ん家は今、お菓子屋さん状態でしょ?」

 

先程の会話でも証明されたように、明日奈がお返し分だけでなく、家族で食べる分も怠りなく用意しているだろう事を見越して直葉はいつも時期をずらして御礼を用意していた。

 

「ご名答、家中に甘い匂いが充満してるのに、更にもっと甘ったるい雰囲気になっちゃってる二人がいるから芽衣の迎えを引き受けて、家から逃げて来た」

「あー、日曜日だもんね、お兄ちゃん、ちゃんと休みなんだ」

「そう、いつもバレンタインのお返しは俺と母さんで用意してるんだけど、今日は父さんも家に居たから、なんか俺が母さんとずっと二人でキッチンにいるのが気に入らなかったみたいで、ウロウロ、チョロチョロと……」

「……相変わらずだね。どうせお兄ちゃんが貰ってきたお返し分も作ってるんでしょ?、手伝わせればいいのに」

 

叔母の推測に和真が軽く首を横にふる。

 

「それがさ、その辺は父さん徹底してて……職場からは絶対受け取って来ないんだよね。まあ圧倒的に女性スタッフが少ないってのもあるだろうけど、母さんに聞いてみたら今の研究所に勤め始めた時は既に結婚してたんで、それから今まで一度も貰ってこない……らしい、と言うか、ような?」

 

和真の言い回しに理解不能の直葉が首を傾げて「ような?」と聞き返した。

 

「うん、俺はうっすらとしか覚えてないんだけど、随分小さい頃に一度父さんの研究所に連れて行ってもらったことがあって……父さん曰く、同じ職場の研究者はもちろん他の部署の人や掃除のおばさん達までその日いた女性スタッフ全員と言っていい人数に俺が取り囲まれて大人気だったって……」

「ああ、そりゃそうなるよね。ちっちゃい頃の和真、外国人とのハーフみたいに綺麗ですっごく可愛かったもん」

「……そうだった?……まあ、その時の事を思い出す度に父さんが『連れて行くんじゃなかった』ってブツブツ言うくらいだから、今でも覚えていてくれてる人が結構いるみたいで……その……俺宛にくれるんだよね」

「は?」

「だから、父さん宛てじゃなくて『息子さんに』って、バレンタインのチョコをさ……」

 

再び直葉の首が傾く。

 

「それってさ……ホントに和真宛なの?」

「まさか。ほとんどが俺にかこつけて父さんに渡したいチョコなんだろうけど、さすがにそう言われると、いくら父さんでも受け取り拒否は出来ないらしくて、バレンタインの夜は家に帰ってくるなりすっごい不機嫌な顔で紙袋いっぱいのチョコを俺に押し付けて『やっぱり連れて行くんじゃなかった』って睨まれるのが毎年なんだ」

 

困ったように笑う甥っ子に同情の眼差しを送って「だから貰ってこない、ような?、なのかぁ。和真も苦労するね」と告げた直葉はそれでもすぐに目を細めた。

 

「だってちゃんと和真宛てのも学校で貰ってくるんでしょ?……今年はいくつもらった?」

 

にやにやと楽しそうに聞いてくる叔母の笑顔に母の親友からも同じ質問を受けたんだけど、と思いつつ軽く手をふって答える。

 

「そんなに貰ってないって」

「ほんとぉぅ?」

「ホントに……数で言ったら、うちで一番貰ってくるのは芽衣だから」

「えっ?」

「だから、芽衣なんだよ」

 

聞き間違いを確認するように「芽衣?」と聞かれて和真はこくん、と首肯した。

 

「芽衣が言うには上級生の女子生徒から貰うのが『お姉さんチョコ』、幼等部の子からが『妹ちゃんチョコ』、もちろん同級生から『お友達チョコ』貰って、この剣道教室でも貰ってきたし、近所のおばさん達からも直接家に届くんだ」

「なんなの、それは……」

「それはこっちが聞きたいよ。有り余る正義感でご近所ではちっちゃいヒーロー扱いだしさ、上級生や下級生の女子がわざわざ学年の違う女子にって俺がこの小学校に通っていた頃はなかった気がするけど、私立特有のなんかなのかなぁ……」

 

甥っ子の疑問に直葉も同じくうーむ、と口をすぼめて前に突き出す。

 

「別に女子校ってわけでもないのにね。私も幼等部からつながってる私立の学校事情なんて詳しくないから……ああ、それこそ明日奈さんに聞いてみたら?、中学までエスカレーター式の有名私立校だったでしょ?」

「とっくに聞いたよ」

「そしたらなんて?」

「笑って誤魔化された」

「ええっ?」

「だから、含みのある笑顔で返されただけ……それ以上は聞けないでしょ?」

「なるほど……うん、そうだね……そういう時の明日奈さんの笑顔って、ある意味最強だもんね」

 

叔母が神妙な顔で頷くのを見て和真もうんうん、と頭を動かした。この質問をした時、自分の妻と息子のやりとりを見ていた和人がぽそり、と「鬼の副団長サマだからな」と口を滑らせれば、すぐさま笑顔をキープしたまま「和人くん」と明日奈が笑顔の矛先を変え、途端、和人の肩がぶるり、と震えたことを目撃した事は和真の胸の内に留める。

そんな立ち話をしていると和真の元へ着替えを済ませた芽衣が駆け寄ってきた。

 

「お兄ちゃん、お待たせー」

「っと、芽衣、忘れ物ない?、お返しはちゃんと渡せた?」

「うんっ、みんな喜んでたよっ」

「帰ったら用意してくれた母さんにちゃんと『有り難う』しなくちゃな……って、もう帰って大丈夫かな」

 

ちらり、と体育館内の時計で時刻を確認した和真が考え込む。

和真の困惑を見ていた直葉が苦笑いで「私が電話しようか?」と申し出てくれた。

 

「チーズケーキの御礼を伝えれば、明日奈さんだって二人がそろそろ家に帰ってくるってわかるでしょ」

「気を遣わせてごめんね、直葉ちゃん」

「そうだっ、お兄ちゃん、おうちでチーズケーキが芽衣を待ってるっ」

 

直葉が口にした単語で家にあるというチーズケーキの存在を思い出した芽衣がそわそわと身体を動かし始めた。家までの道のりをダッシュで制覇する勢いの妹の手をしっかりと掴み、和真は「じゃあ、電話、お願いしていい?」と申し訳なさそうに微笑む。

 

「少し待っててね、着替えてから電話してくる」

 

そう言って直葉は剣道教室の生徒達が更衣室として使っている部屋とは別の部屋へと足早に姿を消した。その後ろ姿を見送ってから、手元で暴れている妹を宥めるため和真がしゃがみ込む。

 

「芽衣、髪の毛ボサボサだぞ。ブラシとか持って来てないのか?」

「持ってるよ」

 

シャキーンッと音がする素早さで鞄からブラシを取り出す様子を呆れ顔で見ていた和真は「だったらなんでその頭?」と疑問を口にしながら「ほら、後ろ向いて」と言って妹の細い髪の毛を背後から丁寧に梳かし始めた。

 

「お前の髪の毛、細いなぁ」

「いつもお稽古終わった後はお母さんがしてくれるのっ」

 

それを聞いて妙に和真が納得の目をする。一事が万事おおざっぱな芽衣の髪がこれほど艶やかな原因はやはり母のケアのたまものだったのかと思うと同時に、髪の色は自分の方が母から受け継いでいるが、髪質は芽衣の方が近い事を知ってブラッシングを終えた髪をさらり、と撫でた。母ほどの長さはないが、それでも指の隙間を通り抜ける絹糸のような感触は息を飲むほどに心地よく、事ある毎に父が母の髪に触れたがるのもわからなくはないな、と疑似体験をしていると、いきなり芽衣が振り返り正面から和真と顔を合わせる。

 

「終わった?お兄ちゃん」

「わわっ」

「ありがとっ、だったら芽衣、早く帰ってケーキ食べたい。ここから思いっきり頑張れば十分かからないよっ」

「……お前、剣道の稽古終わったばっかでよくそんな体力残ってるな。そんな元気なら荷物は全部お前が持つんだぞ」

「うんっ、ししょーに自分の剣道の荷物は自分で持ちなさいって言われてるから、いつも持ってるもん」

 

当たり前だよっ、といいだけに胸を張る妹を見て和真の父親譲りの真っ黒な瞳が大きく見開かれたのも一瞬で、すぐさま眉間に深いシワが出来上がった。

 

「……なるほど、そんなだから毎回毎回、ウチがここの学区内だっていうのに母さんが送迎をしてるのか……」

 

日曜の午後に地元の小学校の体育館で開かれている剣道教室は冬でも陽が落ちる前に終わるので、小学生以上の生徒は保護者を伴わずに通っているケースがほとんどだ。いくら自分の通っている学校でないとはいえ家から徒歩圏内の場所まで母が毎週送り迎えをしているのはなぜだろう?、と不思議に思っていた和真の疑問がようやく解決する。

要はちゃっちゃなヒーローの暴走抑止の為なのだ。

稽古前の体力がみなぎっている状態の時は当たり前で、稽古後でさえ防具や竹刀といった結構な重量の負荷を与えても家まで走って帰れると豪語するような芽衣はちょっとした悪事も見過ごさないし、困っている人も見逃さない。

人助けなら大いに推奨すべきなのだが、芽衣の場合はバスに乗るお年寄りに手を貸したままそのバスで見知らぬ土地まで連れて行かれてしまったという前科があるので明日奈としては常に目を離すわけにはいかないのだろう。

まあそんな手のかかる娘の世話を母は楽しそうにしているので、ここへの送迎も特に負担には感じていないんだろうな、と和真は先程の剣道教室の生徒達の反応を振り返って苦笑を浮かべた。

芽衣が兄を認めた途端、男性生徒があきらかに意気消沈したのだ。

多分、毎週この教室にやって来る度に振りまいている母の笑顔を楽しみにしている方々なのだろう、と推測した和真は自分の高校でも授業参観の日に異様なそわそわ感をこれでもか、と充満させている教室内を思い起こす。なぜ自分の保護者が既に到着している者まで、未だ教室の戸口を気にするのだろう?、とそれこそ小学生の頃からの疑問が解決したのはいつだっただろうか……ここなら直葉ちゃんもいるし、一応芽衣もいるから妙な事をする男もいないと思うけど……と和真はそれとなく残っている男性達を見回した。

万が一にでも母になにかあれば間違いなく父が暴走する。

それは芽衣の暴走など比較にならないほどのキレっぷりなのは容易に想像できて、おまけにそんな時に限ってキャパを全解放で協力するユイ姉もいるものだから手に負えない。

そんな考え事をしながら視線を合わせたままの芽衣の手を握り直葉を待っていると、兄妹の横を帰り支度の終わった生徒達が声をかけて通り過ぎていく。

 

「またね、芽衣ちゃん」

「ばいばーい」

「今日はお兄ちゃんと一緒でいいね」

 

女性陣は芽衣に挨拶の言葉を贈ってから少し頬を染めて和真に会釈をし、出口に向かうのだが、男性陣の中には芽衣だけでなく和真に声をかけていく者もいた。

 

「じゃあ、芽衣ちゃんまた来週……あの、お、お母様にもよろしくお伝え下さい」

「はい、有り難うございます」

 

ご挨拶やお礼はきちんと、の母の教えを守って笑顔で対応する和真だが内心ではその後、「すみません、伝えませんけどね」ときちんと謝辞を浮かべる。そんな言葉をいちいち伝えていたら自分が父から睨み殺されるからだ。

そんな風に大方の生徒達を見送った後、ようやく着替えを済ませた直葉が和真達の元へとやってきた。

 

「ごめん、ごめん和真。明日奈さん、なかなか携帯に出てくれなくてさ」

 

叔母の言葉に、やっぱりまだ少し早かったかな?、と苦笑いをしてから和真は「ありがとう」と礼を述べる。

 

「芽衣と一緒にのんびり帰るよ」

「あー、それとも芽衣のその傷、ここで手当していく?」

 

直葉が人差し指で芽衣の顎を指しながら「確か救急箱があったと思うから」と言うが、既に傷の事よりチーズケーキて頭がいっぱいの芽衣は顔をぷるんぷるんっ、と勢いよく振った。

 

「お家でお母さんに飛ばしてもらうから大丈夫っ」

「えっ?、飛ばす?、なになに、明日奈さん、ついに《現実世界》で回復魔法使えるようになったとか?」

 

あながち冗談ともとれない真剣な面持ちで詰め寄ってきた直葉に対して芽衣がちょっと得意気に目を細め、傷のある顎を反らす。

 

「知らないの?、ししょー。『痛いの飛んでけ』ってお母さんが言うと、飛んでっちゃうんだよ」

 

剣道教室の生徒でもある自分の可愛い姪っ子の言葉に直葉が破顔した。

 

「なるほど。さすがは超一流のヒーラー師、明日奈さんだね」

「で、そもそもその傷はどうやって作ったのさ?」

 

直葉のすぐ隣に顔を寄せて傷を観察している和真が問いかけると、直葉の笑顔が困り笑いに転じる。

 

「これねー、稽古の最後に全員で床掃除の雑巾掛けをするんだけど、勢い余った芽衣が見事、顎から突っ込んだんだよねー」

「……お前は……」

 

想像した痛ましさに和真の両方の口の端がうねった。どうりで剣道の練習中ではないのだから防具が守ってくれないはずだ、と和真が納得して「今日は怪我人続出だな」と零す。

すぐ横から発せられた甥っ子の呟きを耳にした直葉が表情を一転させて「他にも誰か怪我したの?」と心配そうに聞いてきた。

 

「ああ、大した怪我じゃないんだけどね。俺が母さんとバレンタインのお返しをキッチンで作ってた時にさ……」

 

和真は軽く笑ってから自分が妹を迎えに来ることになった経緯を話し始めた。

 

 

 

 

 

「和真くん、そろそろメレンゲOKだけど、そっちはどう?」

 

ちらちらとキッチンの時計を気にしながら少し前まで手にしていた電動ミキサーをいつの間にかホイッパーに持ち替え、卵白の泡立てを手動で仕上げていた明日奈が隣でクリームチーズと卵黄をすり混ぜていた息子の和真に声をかける。

 

「こっちも出来たよ」

「うん、タイミングばっちりだね。なら……」

 

和真は持っていたボールを母に渡しつつ、明日奈がオーブンレンジに視線を移したのを見逃さずに続くはずの言葉を遮る。

 

「今、入ってるやつ、そろそろ出来上がる頃だね。はい、次の型ここに置いておくから母さんは生地を入れちゃって。こっちは俺が見るよ」

「ありがとう、そっちはお願い」

 

きめ細かいメレンゲの泡を潰さぬよう和真から受け取ったボールの中身とを手早く合わせた明日奈は今現在蒸し焼きにしているチーズケーキを息子に任せて、用意してもらった次の型へ生地を流し込む作業に集中する。明日奈が生地の表面をならしていると、オーブンレンジから取り出したケーキの熱の入り具合をチェックしていた和真が「焼き色もいい感じだね」と言いながら母の目の前に出来たてを持って来た。立ち上る甘い香りと共にケーキの色や形の状態を見て明日奈もにこり、と笑顔になる。

 

「これは明日持っていく分だからこのまま冷まして、これがラスト、我が家の分ね。庫内が随分温まってるから加熱時間を調節しないと……」

「とりあえず五分ほど短くしてみようか?」

「そうだね……あと直葉ちゃんに渡すのは大丈夫?」

「箱には入れたけど、フタを閉めずに冷ましておいたからもう紙袋に詰めても平気だと思うよ」

「じゃあ、後は……」

「ほんと、いいコンビネーションだな……」

 

それまで黙ってキッチンとリビングの境にあるカウンターへ寄りかかりながら妻と息子の息の合ったやり取りを面白くなさそうに眺めていた和人が独り言のように言葉をかけてきた。

ラストワンとなったスフレチーズケーキの生地を無事型に流し入れて終わりが見えてきたせいか、安堵感と少しの疲労感を織り交ぜて明日奈が微笑む。

 

「そりゃあね、和真くんはちっちゃい頃からキッチンで私のお手伝いをしてくれてるもの」

「そうだったな。あの頃はチビだったくせに、いつの間にかデカくなって……」

 

徐にキッチンへ足を踏み入れてきた和人は和真の隣に立って自分といくらも変わらない背丈にまで伸びた息子をしげしげと眺めた。どう好意的に見ても我が子の成長ぶりを喜んでいる父というよりは限られた空間のキッチンで自分の彼女に勝手に近寄っている邪魔な男を見る目つきにしか見えないのはなぜだう?、と和真が苦笑いをしていると、いつまでも息子を眺めているのに飽きたのか、和人が明日奈に向き直る。

 

「片付けくらい手伝おうか?」

 

そう言ってシンクに置きっ放しになっている計量カップやスパチュラを手に取ろうとすると、慌てた様子で明日奈が口を開いた。

 

「あっ、そのボウルの下にナイフが置いてあるのっ」

 

チーズケーキの前に作っていたボックスクッキーで、バターを刻んだ時に使ったナイフがボウルの下に隠れているのを思い出した明日奈が言葉と同時に手を伸ばしてくる。包丁ほど鋭い刃ではないが、それでも刃物は刃物だ、知らずに触れれば皮膚を傷つける可能性は十分にあった。妻の言葉に一瞬、驚いて手を止めた和人の目の前で珍しく焦り顔の明日奈が「きゃぁっ」という悲鳴と共につるりっ、と足を滑らせる。

 

「うわっ、明日奈!?」

 

バランスを崩した明日奈を支えようと咄嗟に和人が両手を伸ばすが、仰け反った妻の手は夫の手を掴む前に調理台に置いてあったオーブンレンジの天板の上へと着地しかかる。それを背後から見ていた和真が怒鳴るように声を荒らげた。

 

「天板っ、まだ熱いから!」

 

見た目にはわからないがつい先程まで百八十度に設定された庫内にあった天板がそうそうすぐに冷めるはずもなく、ハッと顔色を変えた明日奈が手をひっこめ、体制を立て直すことなくそのまま床に尻餅をつく。身を縮めた拍子に調理台の上のボウルやホイッパーを道連れにしてしまい、床に落ちた調理器具が派手な高音を幾重にも響かせた。

 

「大丈夫かっ、明日奈!?」

「大丈夫っ、母さん!?」

 

すぐにしゃがみ込んで自分の無事を確かめようとしてくれる夫と息子に前後を挟まれ、明日奈は未だ驚きではしばみ色の瞳を見開いたままぎこちなく無事を告げる。

 

「う……ん、びっくりしたけど……大……丈夫」

 

ふうっ、と肩の力を抜いた和真が「ごめん、オレが混ぜたクリームが床に飛んでたかも」と母が足を滑らせた原因を推測すると、すぐさま振り返った明日奈が「和真くんのせいじゃないよ。私がクッキーを作る時にバターを落とした可能性もあるしっ」と力説して息子の意見を覆した。ほぼ一日かけてお菓子を作っていればこうなる事は当たり前なのだから、要は慌てた自分がいけなかったのだと言おうとした時だ、後ろの息子ばかりを気にしていたせいで、前にいる夫の動向を見ていなかった明日奈の手がふっ、と持ち上がる。

 

「赤くなってる。天板にかすっただろ」

「ひゃっ!?」

 

急いで正面に向き直れば、掴まれた手の小指の付け根に和人が唇を押し当ててぺろり、と舌を這わせていた。驚きと恥ずかしさのあまり何も言えずに固まっている母の後ろで和真もまた、呆然と見つめてしまった父の手元から無理矢理視線を外し、もっともな意見を口にしてみる。

 

「火傷なら、水をあてて冷やした方がいいよ」

「熱は持ってないから火傷にまではいってない」

 

そう答えると再び手を舐めてくる和人に明日奈の顔の方が熱を持ち始める。後ろにいる和真にその顔を見られずに済むのは幸いだが、いつまでもこうしてはいられないと恥ずかしさを堪え「和人くん……」と呼びかけた。か細く紡ぎ出された自分の名に目線を上げると小指の付け根の赤さなど比べるまでもないほどに茹で上がっている明日奈の顔が飛び込んできて……ふっ、と笑った和人が掴んでいた彼女の手を引き寄せた。ペタンと座り込んでいた明日奈の上体が和人に向かって傾ぐ。

いきなり手を引っ張られ、状況が把握できずに赤面のまま驚きで目を丸くした明日奈の頬を和人の唇が受け止めた。

 

「ここ、クリームついてるぞ」

 

頬を食むように唇を動かして言うとすぐさま舌で舐めとる。その刺激に思わず明日奈が「んっ」と息を漏らした。息子の存在を意識してか声を出すまいとする必死さがよけいにそそられる吐息となってしまうことに気づかない明日奈がふるふると身を震わせる。今にも泣き出しそうなのを堪えるように固く瞑られた瞳、声を漏らさない為にきつく閉じられた唇、誘うように色づいた顔全体の朱を見て和人の目が満足げに笑った。

 

「こっちにもついてる」

 

さっきとは別の場所に舌で触れれば震えていた明日奈の肩がぴくんっ、と跳ねる。次々に母の顔へ唇を落としている父を横目で見ながら、こうなると本当にクリームが付いているのかどうかは怪しくなってきたが、和真はあえて触れずに母の背後でボウルとホイッパーを拾い上げた。

 

「ボウルに残ってたメレンゲが飛び散ったんだね」

 

すると明日奈の顔から離れた和人が彼女越しに声をかける。

 

「ここの片付けはやっておくから、和真、お前は芽衣を迎えに行ってこい」

「……わかった。芽衣のお返し分のクッキーと直葉ちゃんへ渡すケーキ、持ってくね」

 

顔のあちこちを和人の舌で刺激された明日奈は既に母親の顔ではなくなっているのだろう、振り返る事も出来ず、いつの間にか和人に肩を抱き寄せられていて、そのままの体制で小さく「お願いね、和真くん」とやっとの声を紡いでいた。

 

「母さんは何も気にしなくて大丈夫だよ」

 

父の腕の中に収まっている母にだけ声をかけ、せっかくの休日にずっと妻が息子と一緒にいたのがそこまで面白くなかったのか、と和真はあきれ顔で大きな溜め息をこれ見よがしに落としてから菓子の入った紙袋を手に取り、キッチンを出たのだった。

 

 

 

 

 

和真が閉めたドアの音を聴き終わってから明日奈はゆっくりと顔をあげた。溜め込んでいた息を小さく開いた口から、ほっ、と短く吐き出し、咎めるように揺らめかせながら蕩けそうな色を混在させた瞳で和人を見つめる。向けられた視線を受け止めて和人が嬉しそうに目を細めた。

 

「ああ、それ。その表情(かお)が見たかったんだ……オレだけに見せる明日奈の表情(かお)」

 

既にどこに触れられたのか覚えきれないほど和人の唇に翻弄された明日奈の顔へ再び唇を寄せると、僅かに開いたままの唇をさらり、と舐める。

 

「んあっ」

「……うん、甘い」

「……お砂糖入ってないメレンゲだから……甘いはずないよ」

 

精一杯、余裕のない表情のまま言い返してくる明日奈の言葉に、たじろぐどころか余裕の笑みさえ浮かべて和人は自分の両手を妻の腰に回した。

 

「だったら、これは明日奈が甘いんだな」

「だ、だめ……ここのお掃除もしなきゃだし、芽衣ちゃんも帰ってくるから……」

「和真が付いてるんだ。いきなり帰ってくるようなことはしないだろ」

「え?」

「アイツだってあんなデカくなるまで、ずっとオレ達を見てきてるんだし……」

「そ、それって……」

「これでも調理が終わるまで待った……今日はずっと和真にとられてたんだ、そろそろオレのとこに戻って……」

「ンッ……」

 

既にほとんど力の入らない腕での抵抗も簡単に閉じ込めて、二人きりになった和人は今度こそしっかりと唇を合わせ、自分の妻を深く味わったのだった。

 

 

 

 

 

芽衣の「ただいまー」の声が玄関に飛び込んだかと思えば、後ろに付いていた和真が玄関戸を閉める頃には防具や竹刀を担いだ妹の姿はリビングへと消えていた。続いて和真もリビングに向かうと廊下にまで響く声で「お母さんっ、チーズケーキっ」と芽衣が強請っている。数秒遅れで「だだいま」と声をかけながらリビングに足を踏み入れた和真はそこでソファにゆったりと腰掛けてコーヒーをすすっている父と、すぐそばで床に両膝をつけ娘と目線を合わせている母を見て僅かに息を抜いた。

すっかり通常に戻っている我が家の空気に安心して気を緩ませるとコーヒーカップを手にしたままの父がこちらに顔を向けて微笑む。

 

「おかえり、和真」

 

その表情を見てすぐさま和真の口が軽くへの字に曲がる。

自分が芽衣を迎えに行く前までとは別人のように余裕のある態度と満足げな笑みだ。和人の声を聞き、明日奈も顔を上げた。

 

「お帰りなさい、和真くん。あと、有り難う……あの……色々と……ごめんね」

 

顔を上げて自分を真っ直ぐに見つめつつも申し訳なさそうに言葉を選ぶ母へ、和真はとぼけた調子で軽く笑う。

 

「何のこと?……教室のみんなへのお返しはちゃんと芽衣が自分で渡したし、直葉ちゃんには……連絡、あったでしょ?」

「うん、ちょうどキッチンのお掃除してたから着信に気がつかなくって……慌てて出たら、なぜか『おっ、お取り込み中、ご、ご、ごめんなさいっ、明日奈さんっ』て謝られちゃったんだけど……」

 

こちらは本当に意味が分からないらしく、不思議そうに首を傾げている母を見て和真の頬がひくついた。母の意外な部分での鈍感さにも驚くが、己の刀さばき同様に真正面から切り込むがごとく叔母の物言いにも言葉を失う。

そんな会話を交わしていると芽衣が「お母さん」と明日奈を注意を引き付け、再び「芽衣、ケーキが食べたいっ」と願いを口にした。しかし明日奈は人差し指を立てると芽衣の目の前に持って来て「晩ご飯が先ね」と諭してから、その指で芽衣の顎を指した。

 

「でも、晩ご飯より先に……芽衣ちゃん、この傷、どうしたの?」

「お稽古終わってお掃除する時、床にビッターンッ、てぶつけたの。その時ね、すっごく熱くてびっくりしたっ」

 

芽衣の説明に明日奈の笑顔が苦笑に変わり、再び想像力を刺激された和真は思わず自分の顎を手でさする。ソファの向こうからは「応用力学の摩擦熱を体感した記念日だな」という声がボソリ、と届いた。和人の感想は無視して明日奈はよくよく傷を覗き込む。

 

「少し擦りむいてるだけみたいだけど……痛い?、芽衣ちゃん」

「んー……、ちょっとだけ。お母さんに『飛んでけ』してもらったら治るから大丈夫っ。お母さん、やってっ。そしたら芽衣もお母さんにやってあげるっ」

 

わくわくと母からの回復呪文を待つ芽衣の言葉に再び明日奈が首を傾げた。

 

「芽衣ちゃんが……私に?」

「そうだよ、お母さんも赤くなってるもん」

「え?」

 

傾げたままの明日奈の首筋に今度は芽衣が人差し指を突きつける。

 

「ここっ、首のとこ、赤くなってるよ、お母さん」

 

電話口の直葉の言葉とは違い、すぐさまその意味と原因を正確に理解した明日奈は一瞬表情を氷らせた後、首筋の痕と同じ位顔全体を赤くしたがその眉間には深いシワが出来、口元は怒りに震えていた。

時を同じくしてソファのあたりから「ぶぉほっ」とコーヒーを吹き出す破音に続けて「げほっ、げほっ」と気管に液体を詰まらせたと思われる聞き苦しい咳き込みが繰り返される。

両親である二人の様子を眺められる位置に立っていた和真が今度こそ呆れた溜め息を大仰に落とした。多分、和真になら見つかっても口にはしないだろうと和人は高をくくっていたのだ……明日奈に気づかれぬよう残した愛情の痕が、まさか大ざっぱな芽衣に見とがめられ、指摘されるとは計算外だったようだ。

娘が指さした箇所を片手で押さえた明日奈はどこか意味深な笑顔でもう片方の手の人差し指をくるり、と回し「痛いの、痛いのぉ……」と呪文を唱える。それが終わると痛みが遠のいた芽衣も母を真似て人差し指をクルクルと回した。

正直に言えば特に痛みもなかったから気づかなかったのだが、娘の好意を嬉しく受け取った明日奈は母娘共々呪文をかけおわってから、芽衣に御礼を言った後、チラリ、とソファに視線を走らせて悪戯っ子のように笑う。

 

「芽衣ちゃん、今夜は久しぶりに芽衣ちゃんのお布団で一緒に寝ようか?」

「ほんとーっ」

「ええっ」

 

嬉しげな歓声を上げた芽衣と和人が驚声を発したのはほぼ同時だった。

急いでソファの背もたれから顔を出し、自分が耳にした言動の真偽を確かめるように妻を見つめるが、当の明日奈はどこ吹く風で和人の視線を無視して久しぶりに娘と二人で過ごす夜を楽しみにしている様子だ。同様に笑顔を全開にしている芽衣を気遣いつつも和人は堪らずに妻の名を呼ぶ。

 

「あ……の、ええと……明日奈さん?」

 

縋るような目と及び腰の口調が和人の心境を物語っていた。しかし明日奈は和人に振り返ると躊躇なく最強の笑みをニコリ、と贈る。

 

「そういうわけだから、今夜は一人で寝てね」

 

最後通牒を突きつけられた気分でがっくり、と肩を落とした和人は数秒間、打ちひしがれた様子で微動だにしなかったが、やがてゆっくりと顔を上げ、和真を見つめた。まさか母の代わりに自分と一緒に寝ようなどと言い出してくるのか?、と和真が身構えた時だ「和真」と父の低い声が地を這うように耳に届く。

 

「全部、お前のせいだからなっ」

 

そう言い放った途端、素早くリビングを出て二階の書斎に上がってしまった和人を呆然と見送った和真のすぐそばでは「まったく、もうっ」と零す明日奈とわけがわからず不思議そうに父が出て行った扉を見つめている芽衣の姿があった。




お読みいただき、有り難うございました。
「ホワイトデー」と題しましたが……ホワイトデー話かな?、と
自分でも疑問符が浮かんでおります。
ですが、ホワイトデーきっかけで浮かんだ話なので、良しとしよう、と
押し切らせていただきました。
ここで申し上げておきたいのですが、この作品は「エスカレーター式の
私立の学校」に対して、特定のイメージを植え付けるものではありませんのでっ。
ひとえに芽衣が男前(ヒーロー)すぎるせいです。
誤解とか、偏見とか、勘違いとか、しないで下さいね。
次回は久々に帰還者学校に通っていた頃に戻ります。

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