ソードアート・オンライン《かさなる手、つながる想い》   作:ほしな まつり

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新生《アインクラッド》で既に二十二層のログハウスを購入済みの二人ですが、
今回はクエストに挑戦し終え、リズベットの店に集まったところから
話は始まります。


金色の羽根

イグドラシル・シティ大通りにある《リズベット武具店》の店奥でテーブルを囲む面々は一様に無言で難しい表情を浮かべていた。理由は単純明快、ついさっきまで挑戦していたクエストが失敗に終わったからだ。

しばらくしてその場の空気に耐えきれなくなったのか、メンバー内で自分の立ち位置を兄貴分と自認しているクラインがボスの特徴をぽそり、と呟く。

 

「動きがノロイ替わりに頑丈だったよなぁ」

 

全員が同様に抱いていた感想に改めて頷く気もおきないのか、その場にいるキリト、アスナ、リズベット、シリカ、エギルは微動だにせずその言葉を受け入れた。

奇しくも旧アインクラッドで知り合ったメンバーで構成された今回のパーティー、ようやく辿り着いたダンジョンの最奥で、どっしりと構えている巨大ウミガメと形容するのがピッタリのモンスターを倒すべく攻撃を続けたのだが、当のカメはとにかく攻撃力より防御力に特化しておりHPバーが残り一本となった時点で甲羅内に引きこもって防御一択形態となった。それでも散々その甲羅に刀を、ダガーを、メイスを振り下ろしたのだが……フォワードの単独攻撃で手応えを得られたのはキリトくらいで、結果、惜しくも時間切れとなり強制的にダンジョンから排除されたのだ。

固い甲羅めがけて懸命に斧を振り下ろしたエギルがその時の感触を思い出したのか痛むはずのない手首をさする。

 

「問題は超合金なみの甲羅の固さだろうな。俺やクラインじゃ僅かな傷をつけるのがやっとだ。制限時間がなけりゃコツコツ削る手もあるだろうが……」

「そうだよなぁ、それにダンジョン内が狭いせいで多人数で集中攻撃をしかけるのも無理ときてるしよう」

 

エギルの意見に同意したクラインは、その後唇を尖らせて「オレの愛刀が折れるかと思ったぜ」と、やはり甲皮の固さに辟易した様子で文句を零した。終盤、ほとんど役に立たなかったシリカは項垂れ、ポジティブ思考が持ち味のリズベットさえも申し訳なさげに視線を落としたまま小さく溜め息をつく。

そんなしんみりとした空気の中、一人だけ次回の挑戦に向けてハイスペックと賞賛されている頭脳をフル回転させていたウンディーネの少女がおもむろに唇を動かした。

 

「フォーメーションを組み直したらどうかな」

 

一斉に視線が集まる。

それに臆することなくアスナは自分のおとがいに手をあてたまま真剣な目つきで話し始めた。

「ヒールがもっと広範囲に届けばいいんだけど……」と前置きをすればすかさずリズベットが睨み付ける。

 

「アスナのせいじゃないわよ、複数の対象者への同時ヒールをさせない為のアノ構造なんだろうから」

 

親友からの気遣いを笑顔で受け取ってからアスナは目の前のメンバーの攻撃力で今現在考えつく作戦のうち、一番勝算の高い戦術を口にした。

「とにかくバーが最後の一本になってからの攻撃時間を出来るだけ長くしたいから……」と序盤からの動きの指示をそれぞれへと伝えていく。それに頷き返す仲間達を見ながら彼女は説明を続けた。

「最後の一本になった段階でキリトくんをヒールし終えたら私も前に出て…………最終的には私とキリトくんのどちらかがHPゼロになるかも、だけど、これで倒せると思うの。だからリズとシリカちゃんにはリメインライトの回収をお願いしたいん……」

 

ガタンッ

 

アスナに最後まで言わさず、それまで沈黙を守っていたキリトが耐えかねたように勢いよく立ち上がる。

突然の事に驚いて口を開いたまま固まってしまったアスナも他のメンバーと同様に黒のロングコートを羽織っている影妖精を見つめた。

キリトは何か思い詰めたような表情のまま「オレは……」と小さく吐くとアスナを真っ直ぐに見つめて「その作戦には同意できない」と言うなり、周囲からの言葉を拒絶するようにコートの裾を翻して足早に店から出て行ってしまう。

あっという間の出来事に唖然としたままのメンバーだったが店の扉がパタン、と閉じた音と同時に我に返り一様に理解が追いつかない頭を捻った。

思いっきり眉をひそめたリズがぱちぱちと目を瞬かせ、鳩が豆鉄砲を食ったような表情のシリカはおろおろと顔を左右に振って仲間達の反応を覗う。

 

「え?、ちょ、ちょっと……何?、キリトのやつ、どうしたっていうのよ」

「アスナさんの立てた作戦で何か問題でもあったんでしょうか?」

「それにしたってあの態度はないでしょうが、ねぇっ、エギル」

「あ……ああ、まるでアスナが副団長だった頃のボス攻略会議みたいだったな」

 

ほんの少し懐かしさを浮かべたエギルが苦笑いをしながらキリトが出て行った扉を見つめていると、それまで黙り込んでいたアスナがふらりと腰を上げた。その顔は苦しげに眉がうねり、瞳は心配の色に染まり、唇はきつく引き結ばれている。

視線をアスナへと移したエギルはその面差しがキリトの心の内を渦巻いている物にちゃんと気づいている事を見取って「行ってこい」と声をかけた。行動力に長けたアスナにしては珍しく一瞬の戸惑いを見せるが、すぐに頷くとしっかりとした足取りでついさっきキリトが出て行った扉の向こうに飛び出すように駆けていく。

立て続けにこの場から消えた二人と何かを勘づいている様子のエギル、完全に自分達は蚊帳の外なのだと疎外感を感じながらもただ事ではなかった様子のキリトを心配したリズが筋骨隆々とした禿頭の土妖精へと視線を投げた。問いただすような鋭い眼力にやれやれと肩の力を抜きながら一息吐いたエギルは「リズやシリカはあの場にいなかったからな……」と言って、思い出と呼ぶには悲惨すぎる記憶を静かに語り始めたのである。

 

 

 

 

 

リズの店を出たアスナはウインドウからキリトの居場所を確認することなく水妖精特有の透けるように薄い氷水色の羽根を広げ、彼が居ると確信する場所へ向け飛行移動に移った。先刻の様子からしてのんびりと空中散歩を楽しんではいないだろう事は容易に想像でき、一刻でも早くあの瞳に宿っていた不安を取り除こうと速度をギリギリまで上げる。

しばらくして見慣れた景色の中にひっそりと佇むログハウスを見た時、窓から漏れている灯りに自分の推測が間違っていなかったと安堵したアスナはすぐさま高度を下げて戸口の前に降り立った。

カチャリ、と音を立て、既に自宅と言っても差し支えない感覚となっているログハウスに足を踏み入れる。

果たして探し求めていた人物は、と室内を見回すまでもなくいつもの揺り椅子をわずかに揺らしながらキリトが目を瞑ったまま身を沈めていた。コト、コト、とブーツの音を抑える事なく彼に近づく。ログハウスの扉が開いた時点でアスナの存在に気づいているはずのキリトはそれでも無反応を貫いて全てを拒むように固く目を閉じたままだった。

 

「……キリトくん」

 

目の前までやってきて腰を屈めたアスナは覗き込むように顔を近づけて恋人の名を呼ぶ。自分を呼ぶアスナの声に応えない、という選択肢などキリトの中には存在しなかったが、声は出さず瞼をゆっくりと上げるだけに留める。その瞳にリズの店で見た感情が少しも薄らいでいないと認めたアスナはキリトが座っている座面の端に片膝をのせ身体を寄せると、そっと彼の頭を両手で抱えて自分の胸に押し当てた。それでもキリトは何も言わない。ただ椅子の揺れを止めてされるがままにアスナに包み込まれ、胸の内を占めているどうしようもない感情が外に漏れ出さないよう身を固くしている。

いつもならこんな風にアスナと密着して彼女の香りを存分に味わう距離に自分を置けば、どんな緊張も瞬く間に溶けてなくなるというのに、今回ばかりはこの緊張が緩むことはなかった。

 

「キリトくん、私は……ここにいるよ」

 

漠然としたアスナの言葉にキリトの肩がピクリ、と反応する。

 

「ちゃんとキリトくんの傍でどこまでも一緒にいるから」

「…………でも……オレは……」

 

続く言葉は出てこず、自分を守るようなアスナの優しさに甘え、キリトは縋るように自分の額を愛しい人の胸元に押し付けるだけだった。

 

 

 

 

 

「公には『黒の剣士』と呼ばれていたプレイヤーによってあのデスゲームがクリアされた、としか伝わってないからお前達が知らないのも無理はないがな……」

 

そう静かに告げたエギルは何事かをクラインと視線で相談し、小さく頷いてからリズベットとシリカが知らずにいた真実を口にした。

 

「キリトをゲームクリアに導いたのはアスナがキリトに託した意志と言っても過言じゃあない」

「……託した?」

 

すかさず疑問を口にするアスナの親友たるリズにエギルは視線を合わせる。

 

「ああ、そうだ。キリトがゲームをクリアする寸前、アスナはキリトをかばってその身に致命的な傷を負い、キリトの腕の中で光となって消滅したからだ」

 

リズとシリカの全身に衝撃が走った。

一瞬、大きく震えた身体が次の瞬間には硬直し、体内をエギルの言葉が駆け巡る。告げられた真実をどこで理解すればいいのかわからず、ただ闇雲に暴れまくる言葉を先に己のものとして溶け込ませたのはリズだった。

 

「ウソ……アスナが……」

 

目を大きく見開きエギルを見つめたままリズは理解しても納得できない気持ちを表す。そこへ寄り添うようにクラインが「まあ、そんな話、簡単には信じられねぇだろうけどな」とリズの反応を肯定した。

 

「ウソじゃねえんだ。それこそあの場にいたオレ達の方がどれほど嘘だと思いたかったか……キリトを助ける為に……そんな二人を見ているしか出来なかった自分はどんだけ情けねー男だと悔やんだか……」

 

絞り出すように低い声で言い放ったクラインの顔は珍しくも痛々しいほどに歪んでいた。隣に座っていたエギルは一旦リズから視線を外ずし、ポンッとクラインの肩を叩いて強張りを緩めてやると再びリズとシリカへ顔を戻す。

 

「ああ、だから俺も《現実世界》に生還した後、キリトと再会してアスナが病院のベッドで昏睡状態だと聞かされた時は自分の耳を疑った」

 

本来のタイトル名より『デス・ゲーム』という呼称の方が世間に浸透しているゲームソフト『ソードアート・オンライン』……正式サービス開始初日にその体内へプレイヤー約一万人を飲み込み、それからほぼ二年後に吐き出された『生還者』と呼ばれるプレイヤーの数は六一四七人。しかし内三百人は《現実世界》へ帰還することなく再び別のゲーム内へと意識を拘束された。

だが、リズもシリカもアスナだけが不運にも偶然その三百人の中に入ってしまっただけで《現実世界》への復帰に今の今まで何の疑問も抱いていなかったのだ。

 

「なら……エギルの話が本当なら、なんで、どうやってアスナはっ」

 

事態の不可解さにリズの中で恐怖に似た感情が押し寄せようとした時、目の前でつい先刻まで顔を歪めていた火妖精が軽く彼女の勢いを散らす。

 

「正直、俺は、んーなことぁどうだっていいんだ。からくりはわかんねーが、アスナさんはちゃんと生きていて、笑ったり怒ったり……それを隣でキリトのヤツが嬉しそうにしてやがる…………今はそれでいいじゃねえか」

「そうだな、アスナの生還に関してはキリトやアスナが自ら明かさない限り、俺としては詮索はしないつもりだ。今、気になってるのは、あの時、確かにアスナはキリトの腕の中で消滅したって事で……」

「あの場にいた全員が忘れられない光景だよな。アスナさんの全身が金色に光り輝いて……俺はあん時、何が起こったのかもわからなくなっちまって、馬鹿みたいにその神々しさに見とれて……なのに次の瞬間にはパァッ、て光の粒になっちまった…………それを……それをっ、キリトが両手で必死にかき集めようと……して……よぅ……」

 

声を詰まらせたクラインがスッと下を向く。両肩が静かに震えていた。

同様に表情を険しくしたままのエギルが続きを請け負う。

 

「とにかくだ、キリトがゲームクリアを果たした時、アイツが手にしていたのはランベントライトだったんだ」

 

己の会心の一振りと言える剣の名が出てリズが息を呑んだ。

 

「それって……」

「知ってるだろ、《あの世界》で結婚をした二人は全情報と全アイテムを共有する。アスナの愛剣は彼女が消えた後、もう一人の所有者であるキリトがその意志と共に受け継いだんだ」

 

最期の場面を思い出している様子のエギルが口を閉じると、それまで押し黙っていたシリカがいつの間に泣き出していたのか、小さく鼻を啜る音がリズの耳に届く。エギルとクラインから告げられたあまりにも衝撃的な内容に混乱した頭をリズがようやく落ち着かせた時、ふと話の原点に返って疑問符が浮かんだ。

 

「それが、さっきのキリトとどう関係があるわけ?」

 

その問いに僅か呆れを含ませて一息吐き出したエギルは「考えてもみろ」と再び諭すようにリズとシリカ、そして今度はクラインへと順に視線を巡らせる。

 

「あいつらは《あの世界》で夫婦だったんだから、あの時も互いのHPバーが表示されてたんだぞ……」

 

 

 

 

 

キリトの頭部を母親が赤子を抱くように両腕の中に収め、自分の鼓動を聞かせるように胸に押し当てたまま黒髪をゆっくりと梳く。何度も何度も手を往復させて固くなった心を解きほぐすように撫で続けているとキリトのくぐもった声だけが弱々しくアスナの耳に届いた。

 

「……ごめん、アスナ」

「なにが?……みんなと一緒のクエストで戦闘になると私がバックアップばかりなこと?……それとも、戦闘中だと終盤にしかキリトくんが私を前線に呼んでくれないこと?……それとも…………私のHPゲージが減ることに恐怖感が拭えないこと?」

 

何でもない事のようにさらり、と告げられた内容に絶句したキリトは恐る恐る顔を上げる。

 

「気づいて……たのか……」

「そりゃあね」

 

どこか寂しげに微笑んでからアスナは抱擁を解くと一旦椅子から降り、改めてちょこん、とキリトの膝の上に横向きに座り直した。アスナの行動を予期できなかった為に彼女が腰を降ろした反動で椅子が振り子のように揺れ、咄嗟にキリトがその細腰を支える。

いつもの、と言っていい体勢に落ち着いたアスナはキリトの肩先に自分の頬をあてて身体を預けた。

 

「初めて私が《A.L.O》でリメインライトになった時、リーファちゃんが蘇生してくれてる間、キリトくんったら残り火になった私をずっと両手で大事に包んでくれてたでしょ……あんな顔されたら、わかるよ」

「ごめん……頭ではわかってるんだ。これは本当にただのゲームでHPがゼロになっても《現実世界》には何の影響もないって。でも…………やっぱりアスナのHPが減っていくのを見ると、あの時を思い出して……」

 

 

 

 

 

「……普通のゲームとはわけが違う。あの『デス・ゲーム』の中で夫婦となるくらい深い絆で結ばれた相手のHPゲージが何の躊躇いもなく、砂が流れ落ちるように減っていくんだ。まるで命の量を示すように……それを否が応でも視界の端に表示されてみろ、それはもう拷問でしかないだろ」

 

エギルの言葉にその時のキリトを想像してか、クラインがぶるり、と震えて自分の両腕をさすった。それからおもむろに両方の手の平を広げてその上にある見えない何かを見つめる。

 

「しかもその相手が自分の腕ん中にいるなんて、考えただけでも気が狂うぜ。なのにアイツはその後アスナさんの剣を手にしてゲームをクリアしたんだから……ホント、すっげーよなぁ」

「ああ、だが……やっぱりトラウマは残ったようだな」

 

大きく頷くように禿頭を上下させたエギルは深く考え込むように目を瞑って太い腕を組む。それにリズが反応して首を傾げた。

 

「トラウマ?」

 

ゆっくりと瞼を上げたエギルはそれまで語っていた記憶に呼び起こされた感情の波を穏やかにしてから少し困ったような顔でリズの問いに答える。

 

「クエストやらで戦闘になるとアスナは後方支援の位置にいる事がほとんどだから気づかなくても当然だが…………たまにあるだろ、どうしてもっ、て時が……」

「それはアスナの手が細剣を握る時ってこと?」

「ああ、ほとんどの場合、戦いの終盤にキリトがタイミングを見計らって前線に呼ぶが、その場合でも最終的にアスナのHPゲージはレッドになってないはずだ」

「それって……」

「あいつがちゃんと計算してるのさ。ボスを倒すまでにアスナのHPが最悪でもどのくらい削られるのかを、そしてそれを実行する為の自分の役割も、だ……多分あいつはアスナのHPが極端に減る事がどうしようもなく怖いんだ」

 

そこでクラインが納得したようにウンウン、と頭を振る。

 

「それでか、アイツが呼ばねえのにアスナさんが前に飛び出してくるとキリの字が血相変えてフォローに入んのは」

「でも、まあ、アスナもわかってると思うがな。『たまにはフォワードやりたい』って愚痴ってるが、自己判断で前線に出てきた時はきっちりキリトの指示に従ってるし。HPがギリギリイエローの時は一旦引いて自己回復させてる」

 

エギルの説明から新たな疑問を感じたリズが困惑の声を上げた。

 

「だったらなんで今回に限ってはHPがゼロになるかもしれない作戦なんて立てたのよ……」

「それはまあアスナにも色々と思うところがあるんだろう。キリトのトラウマをわかった上での発言だったなら俺達が気を回してもどうにもならないさ。あとは二人で解決してもらうしかないな」

 

不安げな表情のリズとシリカに向けて笑ったエギルの瞳は既にいつもの大きな安心感を与える色に戻っていた。

 

 

 

 

 

あの時のように両手で細いアスナの身体を支えながらキリトは無意識にその手に力を込めて自分の中から消える事を許さないとばかりに彼女を強く囲い込む。さっきまではアスナがキリトを優しく包んでいたのに、逆に今は小さな男の子が自分の宝物をなくすまいと必死にしがみついているようだった。

キリトにされるがまま掻き抱かれていたアスナはふぅっ、と小さく息を吐くと視線を上げて自分の頭部に頬を押し付けている影妖精の真っ黒な髪を見つめる。

 

「原因は私だから……強くは言えないんだけど……ね……」

 

アスナの言葉を聞いてもキリトは両腕を緩めず唇だけを動かした。

 

「なら、さっきの作戦じゃなくて……」

「でも、あの方法以外に倒せる見込みはないでしょう?」

 

言葉を遮られるまでもなくキリトも十分わかっていた。再度あの巨大なウミガメもどきのモンスターに挑むのならアスナが治癒師としてではなく剣士として終盤の戦いに加わることが必須だという事は。それでも彼女のHPがレッドゾーンに突入し、あまつさえそのアバターが消滅する可能性を考えるとどうにも気持ちを切り替える事が出来ない。

 

「やっぱり……ダメだ……」

「……キリトくん……」

 

まるで答えの出ない堂々巡りだった。アスナとしてもこの短時間でキリトのトラウマがどうこうなるとは思っていない。ただ当人にその自覚があるのか、また、その根がどの程度、心にはびこっているのかを確かめたかっただけなのだが、実際問題あのクエストには彼女が剣を握って参戦しなければ攻略は到底無理だろう。

しかし、このままではキリトにとっても良くないと判断したアスナは怯えた彼の心を撫でるように、柔らかい声で包み込む。

 

「もう私はキリトくんを置いて消えたりしないし、傍を離れたりもしないから、大丈夫だよ」

「わかってる……って言うより、アスナがいてくれないとオレが無理だし」

「だから、ね?、リメインライトになってもすぐに蘇生してもらえばいいんだから」

 

そう言われてキリトは更に思い切りギュッとアスナを抱きしめて考え込んだ。《現実世界》ではひ弱な体型の自分だが、多分こんな風に目一杯力を込めればアスナは苦痛に顔をしかめるだろう。実際、ほんの数回だが理性のたががはずれ、《現実世界》において組み敷いた彼女の細い身体を無我夢中で抱いてしまった事がある。ようやく自身が落ち着いて、それまでとは違う意味の涙をじわり、と滲ませ、声を詰まらせていたアスナの表情に気づき、慌てて腕の力を緩めたのだが……もしHPゲージが表示されていたら間違いなくレッドゾーンまで削ってたな、と思い返したキリトは彼女からは見えない角度で自嘲気味に口の端を上げた。

だが、自分以外の他者から加えられた力によってアスナのHPが減るのを……ましてや彼女の身体が消える瞬間など冷静に受け止められるほど心の整理が簡単につくはずもなく……キリトは一旦アスナの頭部から離れて宙を見上げ、己の心に向き合う。

そんな葛藤を黙って見守ってくれている腕の中の水妖精に再び視線を落とすと、見上げるような角度で不安に揺れるアトランティコブルーの海へ飛び込むように顔を近づけた。

 

「ならさ……アスナのHPがレッドゾーンに食い込むのは我慢する。ただ、さっきの作戦だとリメインライトになる確率はどっちか、なんだろ?」

「うん……多分」

「まあ、オレの感触から言ってもそんな感じだろうけど……だったらそれはオレがなる…………残念だけど今回のLAはアスナに譲るよ」

 

最後ににやり、といつもと変わらないような笑みを浮かべると反論を口にする猶予を与えず、キリトはアスナの唇を自分のそれで封じた。啄むように何度も触れながらその合間に「カメを倒したらすぐに蘇生魔法かけてくれよ」と強請る。

アスナを安心させる為にわざと普段通りの軽い口調で話しているのは明白だった。

それでもさっきのリズの店での態度からすればキリトとしては随分譲歩をしてくれたのだと感じたアスナは彼の背に両手を回し、口づけを受け入れる。背中をさする慈愛の手に気づいたキリトが苦笑いを零して小さく呟いた。

 

「弱気になってるオレを甘やかすとつけあがるぞ」

 

その言葉に負けじとアスナも言い返す。

 

「いいよ……意地っ張りなキリトくんを甘やかしてあげたいから……」

「その言葉、後悔するなよ」

 

言うなり噛みつくようにアスナの唇を塞ぐと戸惑う舌を探りあて強引に絡め取った。こんな性急な口づけは《あの世界》で自分が彼に向け、「もう会わない」と言おうとした時と同じだと感じたアスナはキリトの不安と焦りを思いやり舌の愛撫に素直に応じる。しかし、優しく宥めるようなアスナの思いもキリトの抑えきれない感情はそれ以上なのか、一向に荒々しさが鎮まることがない。

 

「っ……アスナ、もっと」

 

乱れるはずのない呼吸が乱れ、痺れるはずのない舌が擦れ合う強さに痺れる。それでもキリトの求めが弱まることはなかった。

 

「もう二度とオレの目の前で消えさせたりしない」

 

誓いにも似た言葉に微かに頷くだけでその意を受け止めたアスナが覚悟を決めたようにその身を預ければ、キリトは内に閉じ込めるように強く、強く、その細い身体を掻き抱く。息が止まりそうな錯覚を起こすほど全身をキリトに包まれたアスナは蜜月と呼ぶにはあまりにも短かった《あの時》のように「……向こうの部屋に……」とだけ薄桃色に染まった頬と共に届ければ、フッと優しい笑みが降ってきた。

彼女の膝の裏へ手を差し入れ、抱きしめていた身体を横抱きにして立ち上がるとキリトは隣の寝室を目指して大股で移動する。一瞬大きく揺れた視界に驚いて咄嗟にしがみついてきたアスナのクリスタルブルーの髪に歩調を緩めてそっと唇を落としてから自分の不安を押し込める為に腕の中の存在を存分に味わうべく隣室への扉を開けた。




お読みいただき、有り難うございました。
久々に第一巻を読み返しました(笑)
アスナが散った後、キリトが様々な気持ちを経て最期に
「これでーーいいかい……?」と問うシーン
たまりませんね……。
次回は軽めでいきますっ(苦笑)

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