ソードアート・オンライン《かさなる手、つながる想い》   作:ほしな まつり

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前回の「絆・前編」より、視点の人物を変えてお届けします。


絆・後編

今日の午後、お昼休み明け最後の授業前半で生徒達の端末に送信された小テストは『古今東西、歴史上の有名人・100人だ〜れだっ』と随分ふざけたタイトルが付いていたけれど、中身は日本に留まらず世界各国の人物を対象としており、加えてその範囲が政治的な重要人物に加え音楽史や美術史などの芸術関連から建築史や宗教史、科学史と多岐にわたっていて、まず全問に目を通した私の感想は『バランスの良い問題だな』だった。

とりあえずストレスのない得意分野から始め、あとの時間をいくつか残った空白の解答欄を埋めるために使う。

全問を答え終え、二回見直しをし、テスト終了時間前でも提出していい、と言われていたので教室の前に座っている歴史の担当教諭の持つ端末へ解答を送信した。

余った時間、ちらり、と何気なく窓の外に視線を移すと校舎に隠れていてほとんど見えないが、体育着姿の男子生徒達が数グループに分かれて陸上競技を行っている。

……そう言えば、キリト君、次の最後の授業、体育だったよね、と思い出せば、すぐに頭の中は彼の事でいっぱいになってしまった。

自分のように早めに小テストを終わらせてしまった生徒が思い思いに時間を過ごしている中、私は明日のお昼のお弁当のおかずを考えると同時に食事の場所についても考えを巡らせる。

日差しがキツくなってきたから、そろそろカフェテリアに場所を移したほうがいいかな……でも、なぜかカフェテリアで食べるの、キリト君はあまり気が進まないみたいだし……今日みたいに晴れていても日差しが雲で遮られていれば外の方が気持ち良いんだけど……と、やっぱり屋外で食べる想定でメニューを考え始めた。

暑いだろうからスパイスの効いたカレーピラフを薄焼き卵で包むか、それとも少し濃いめに味付けしたお揚げに酢飯を詰めてお稲荷さんもいいかな……どちらにしてもしっかり火を通すか、酢を効かせて衛生管理をしっかりしなくちゃ、と心に留めておく。

思案しているうちに小テスト終了の時間となったが、締め切り時間前に提出した生徒は全員合格点だと告げられた。

その後、前回の続きから授業は始まったが、いつの間に生徒全員分の解答に目を通したのか、授業の最後に小テストの不合格者が発表される。該当する生徒はこのまま放課後に追試を受けなければならず……そして、残念なことに居残り追試の対象者の中に一緒に帰るはずの親友の名前が入っていた。

 

 

 

 

 

「ごめんっ、アスナっ。追試は一回でクリアするから、帰るの少しだけ待っててっ」

「いいよ、リズ。今日は授業数も少ない日だし、適当に時間潰してるから……それより追試、頑張ってね」

 

両手の平をぴっちりと合わせて目線の高さまで持ち上げ、目をギュッと瞑って謝ってくれるリズに「気にしなくていいから」と何度も言ってから笑って応援の言葉を送る。

リズに手を振りながら追試者だけが残っている教室を出て、さて、どこに行こう?、と考えた。

ライブラリーの視聴スペースで気になっていた公開講座の映像を観るのもいいかもしれない……でもリズが宣言通り一回で追試をパスしたらそれ程時間はかからないはずだし……ちょうど鞄に入っている文庫本をカフェテリアで読むのは……うううん、あそこで一人になると声を掛けられる事が多いから読書には向かないかなぁ……そこで、よくキリト君が利用している屋上の存在を思い出す。

『ひとりで作業に没頭したい時とか、結構穴場なんだ』……そう言って少し照れたように笑う彼の顔は暗にソロプレーヤーの性とでも言いたいのか、別にそんな風に感じてないけど……と、思わず唇を尖らせると、私の言いたい事を察した彼が顔を寄せて困ったようにちいさく『わかってるよ』と言ってきた。

キリト君は自分で思っている程、他人と関わるのが下手じゃないと思うのに、当人は苦手意識があるせいかやたらと自己を卑下する傾向にあって、その度に私が訂正するものだから最近は私の口を封じるように耳元で囁かれる……なら、そんな顔をしなければいいのに……。

とにかく私は鞄を持って屋上へと続く階段を上り、重いドアを押し開けた。

予想通り、そこには人影ひとつなく、広い屋上を独占っ、と思うとちょっと気分が高揚する。

雲で日光が遮られているお陰で眩しくないし、明るさは十分、風もそよいでいて周囲の雑多な音も逆に気分が落ち着くから冷房でキンキンに冷えている屋内より快適に過ごせそう、と屋上の縁に腰掛て大きく伸びをしてから早速文庫本を取り出した。

読み始めると集中してしまい、すっかり時間を忘れていると、突然耳に飛び込んで来た携帯端末へのメール着信音に驚いて顔を上げる。急いで画面を見れば送り主はリズで、短い文章と絵文字が追試二戦目の突入を告げていた。

多分、次のテスト開始まで時間もあまりないだろうから、送ってくれたメッセに対して一目でわかるよう「大丈夫だよ」の旨を返してから時刻を確認すると、もう次の授業もそろそろ終わろうかというくらい時が過ぎている。

そこで、ふと、この時間、こっそりキリト君の体育でも見に行けばよかった、と思ったが、週に何回かの昼食の光景を思い出し……彼は中庭の端から私を眺めるくせに、逆に私が彼を覗こうとするとすぐに気づかれてしまうのが常で……きっと体育の授業も見に言った途端バレちゃうんだろうなぁ、とちょっと悔しい気分になるけど、見つかった時の彼の表情を想像をすれば楽しさがこみ上げてしまう。

きっと一瞬ギョッ、とした驚きの表情が飛び出して、でもすぐに、一見不機嫌そうでも照れた目元に変わって、口元は困ったようなへの字になるかな…………とキリト君の顔を想像していると、突然、重いはずの出入り口のドアが勢いよく開いて、寸前まで脳裏に描いていた表情とは真逆の本人の顔が視界に映る。

掴んだままのドアの取っ手に少し体重を預けて、ここまで走って来たらしい身体を休ませているみたいだけどその顔は荒い息づかいや流れる汗を無視してしまえるほど苦痛に歪んでいた。

いつもの様に誰もいないと思っていたのか、人の気配を察した途端、上下している両肩とそれに合わせた激しい呼吸以外の動きが一瞬で止まったけど、視線の先にいるのが私だと気づくと驚くより安心したように緊張が解けて……私もいきなりのキリト君の登場にびっくりしたけど、彼の変化と会えるはずがないと思っていた偶然に嬉しさが広がる。

でも、何かを思い出したように彼の顔が僅かに強張り、瞳の色に影が落ちて、キリト君の方は単純に「嬉しい」とは思ってくれていないのがわかってしまった。

もしかして顔を合わせたくなかった?、って思うくらい視線を合わせず気まずそうにし、それでもそのまま私の存在を無視して引き返す事は出来ないのか、やってきた勢いを完全に殺してゆっくりと屋上に足を踏み入れてくる。

俯き加減で慎重にまっすぐ私の元へと歩いてくる彼は荷物も何も持っておらず、服装は制服……まだ授業中のはずなんだけど、体育の授業はちゃんと受けたのかな?、と考えながら私も本を脇に置いて立ち上がった。

 

「こんにちは、キリト君」

 

声をかけるとようやく彼が顔をあげる。

 

「あ……ああ……どうしたんだ? アスナ、こんな場所で……」

 

それはこっちの台詞だよっ、て言いたかったけど、ちらり、としか私を見ようとしない彼には何を聞いても答えてくれそうになかったから、ここはこの場を譲った方がいいわね、と判断して場所を移動しようと荷物をまとめながら簡潔に答えた。

 

「リズの用事が終わったら一緒に帰ることになってるの。もうそろそろだと思うから、私、行くね……」

 

そう言って彼の横を通り過ぎた時だ、緩く腕を掴まれて……まさか引き留められるとは思っていなかったから咄嗟にその手に視線を向けてしまう。焦りから急いで伸ばされた手でもなく、決して離すまいという力が籠もっている手でもない……ただ、離れていく私に追いすがるように自然と触れてきた意志を持たない手が、逆にキリト君さえ気づいていない本心を告げているようで…………ここに一人で置いていくなんて出来ないなぁ、と軽く苦笑いで彼を見つめた。

視線の先のキリト君は自分の無意識の行動に驚いてるようで、私の腕を掴んでいる自らの手に目を見開いている。

 

「あっ、ゴメン、アスナ。引き留めるつもりは……」

「うん」

 

そう言いながらもキリト君の手は私の腕を掴んだ状態で固まっていて「あれ?、変だな」と呟いているうちに小刻みに震え始めた。まるでキリト君の今の心そのものが震えているようで、せつなくて、愛おしくて、包むように上から自分の手を被せる。

太陽が陰っているとは言え、風がなければ少し蒸し暑いくらいの今日、ここまで息を切らしてやってきたはずのキリト君の手は意外にも冷たくて、何があったのかを気にするより先に小さな迷い子のように心細さを感じさせる手を安心させるように、そっと重ねたままさすってみれば益々キリト君が困り顔になった。

しばらくそのまま言葉も交わさずにいたけど、完全に震えが止まったのを見届けてから私はキリト君へと顔をあげ、殊更明るい笑顔を見せる。

 

「もしかして、ここにお昼寝に来たの? 今日は気持ちの良いお天気だものね」

「えっ!?」

 

思ってもみなかった事を言われて戸惑っているキリト君に向かい、私は言葉を続けた。

 

「私ももう少し、ここにいようかな……用事が済めばリズからは連絡が入ることになってるし」

 

そう言って、さすっていたキリト君の手をギュッと握って私の腕から離し、繋いだままグイッと自分が元いた場所まで引っ張っていく。さっきまでと同じにストンと腰を落として座り、鞄を脇に置いて、握っているキリト君の手を力いっぱい引き、戸惑い一色に染まったままの顔の彼を私の隣に座らせた。小さく「おわっ」とよろけてきたタイミングを逃さず、自分の両手を自由にしてキリト君の頭を抱え込むように捕獲し、自分の膝の上に押し当てる。

 

「っ痛…………アスナ……」

 

きりなりの行動と無理矢理の膝枕にどこかを痛くしたのか、キリト君の眉間に皺が寄り、咎めるような視線と不機嫌な声が下から突き上げてくるけど、それには構わず満面の笑みを落とした。

 

「寝てていいよ。私はもう少し本を読みたいし」

 

さっきまではまともに視線すら合わせてくれなかったのだ、それを思えばちょっと荒療治だったけど、いっぱいいっぱいだった雰囲気が少し和らいだし、自分が屋上に来た理由を私が聞かないことにも安堵した様子で…………きっと一人にはなりたくないけど、聞かれたくない何かがあったのね、と推測して、ただ傍にいるだけに徹する。

この状況が少々不本意なのか、不満げに送られてくる視線を鞄から取り出した本で遮って、読書に集中し始めると、ほどなくして、スー、スーと聞き慣れた寝息が耳に届き始めた。

そっ、と本をずらして盗み見れば、起きている時より僅かにあどけない寝顔が私の膝の上にあって、安心しきった表情に呆れるやら、嬉しくなるやら……しばらく静かに見つめていると、バタンッ、と前方で大きな音がして、見知った男子生徒が一人、肩で息をしながら腰をまげて屋上扉の入り口にヨレヨレで立っていた。

 

 

 

 

 

ちょっとコワイ顔つきと突進してきそうな勢いで私達のすぐ前までやってきた佐々井くんは私に視線を合わせるなり、ころりと表情を変えて「何で残ってんの?」と汗だくだけど朗らかな笑顔で話しかけてくれる。やっぱり私の時間割はすっかり覚えているみたいで、それに関してはもう慣れっこになってしまったからそこには触れず、リズが追試になったことを明かした。

佐々井くんが屋上に登場した途端、目が覚めたらしいキリト君はすぐに寝返りを打つように身体の向きを変え、顔を私の身体に押し付けて彼からの視線を避けている。その態度に笑顔のままピクピクとこめかみを痙攣させた佐々井くんは開き直ったようにキリト君の存在を無視して私との会話を続行させた。事情がわからない私は佐々井くんに問われるままに会話を進めて…………それよりも、額から滝のように汗を流し、息も上がって痛々しいほど辛そうな様子なのに腰を降ろそうとはしない佐々井くんの髪型がもの凄く気になるっ。

いつもとは随分イメージの違う髪型になってるけど……イメチェン?、佐々井くんは気に入ってるのかな?、でも、どうやったらそんな髪型に出来るんだろう??

会話を続けながらも、どうしても目は彼の頭部にいってしまって……あまり見たら失礼よね……でも……髪型の事、言った方がいいの?……と頭の片隅で悩んでいると、リズの追試に感謝の意を口にした佐々井くんがキリト君の精神状態を「ぐらぐら」と表現した。

 

…………やっぱり…………

 

心の内で呟いたつもりの言葉が知らずに口から零れていて、私も佐々井くんも話が本題へと移ったことを意識する。

キリト君もほんのちょっと身体を強張らせたから、それをほぐしてあげたくて彼の髪の毛に触れながら佐々井くんの話を聞くことに。

「《あの世界》の関係なんて、所詮、仮初め」……それはキリトくんが私に問うた「俺達の関係ってこの世界だけのことなのかな?」と同義の言葉。

どうしてあんな事を言い出したのか、あの時はよくわからずに怒ったけど、今なら少しわかる気がした……きっとキリトくんにその言葉を投げつけた編入生の彼女も《仮想世界》と《現実世界》との違いで親しい人との間に何かあったのだろう。

あの時は「私の気持ち、信用されてない?」って、ちょっと悔しかったり、悲しかったりしたんだよね……と当時を思い出して、ついキリトくんの頭をつんつんしてしまう。

それから、ふと、その彼女には何があったんだろう?、と心に引っかかっている疑問を佐々井くんに尋ねると、彼はあっさりと聞き出した行為を認めてきて……過酷な言葉を言われたのは佐々井くんじゃなくてキリト君なのに、当然のように「黙ってられない」って言ってくれたのが嬉しくて、けどクラスメートの女子から事情を聞き出すって今度は佐々井くんとの関係が悪くなったりしないかと心配にもなるけど、それを含めてキリト君の為に動いてくれただろう事に思わず腰をかがめてキリト君に顔を寄せ「佐々井くん、優しいね」と告げてしまう。

それでも出来れば悪感情を持たれるような事はして欲しくなくて確認すると、佐々井くんは明らかに言葉に詰まっていた。

一体、どんなやりとりをしたんだろう……佐々井くん、本領発揮の交渉術は見せてくれないのよね。

前に「無関係のギャラリーいたら効力が弱まっちゃうしさ、手の内を大勢に明かさないのは基本だよ、姫」って言われたけど。

思うに今回はお互いちょっとキツい会話になったんじゃないかと推察できる言い方だったから……全然安心できない。

その後、佐々井くんが編入生さんの事情を話してくれだけど、はい、俺は聞いてきただけ、みたいに言い終わった彼にちょっと苛立って「嘘」の一言を真っ直ぐに投げる。

多分、無反応でもこの会話を聞いているはずのキリト君を気遣ってそう言ってくれたんだろうけど、キリト君はその編入生さんを怒ってるわけじゃないのに……だから彼女の気持ちがほんの少しでも救われるような言葉を佐々井くんがかけてもキリト君は安堵こそすれ腹立たしく思うことはないんだから。

相手の表情から心情を推し量る事も、その人の為になるような言葉を選ぶ事も佐々井くんならちゃんと出来るって知ってるよ、と信頼を笑顔で表すと佐々井くんが呆れたように無言になって、代わりにキリト君が私を呼ぶように髪を引っ張ってくる。

内緒話をするように彼の口元に耳を寄せれば……

 

「佐々を買いかぶりすぎ」

 

忠告と言うよりは拗ねているような口調で囁く言葉。自分だって安心したような声になってるの、気づいてないのかな?

 

「大丈夫、私、人を見る目は小さい頃から養ってるから」

 

それに佐々井くんへの信頼は私よりキリト君の方が大きいと思うのに、たまに私が他の男性にみせる関心を困り笑い程度で済ませてくれるキリト君が今日はちょっと……いつもと違う。

精神状態が「ぐらぐら」のせい?……なら、言葉だけじゃなくても伝わるように……私が一番信じてるのはキリト君だよって想いを込めて、彼の細くてさらり、とした髪を大事に梳く。

すると、安心したようにほんの微か、細い息を吐く彼。

私とキリト君との間に互いしか見えない濃い空気が覆い始めた時、少し焦ったような佐々井くんが話題の中心人物だった編入生さんは夏休み前までしかこの学校に在籍しない事を教えてくれた。

それからキリト君の荷物を私の隣に置き、空いた手がそのまま私の膝の上の彼の頭へと伸びていく。あっ、と思ったけど、佐々井くんの視線に制されてそのまま見守ると、その手がキリト君の頭を小突く事で今までの色んな思いが伝わったらしくキリト君もまた大人しく頭を手でさすっているだけ……こうゆうの、男の子同士の友情って感じなのよね。

きっと二人に告げても「そーゆーのじゃないからっ」って目一杯否定されそうだから言わないけど。

ちょっと羨ましいなぁ、と二人を交互に見ていると、キリト君に手で追い払われた佐々井くんは元居た場所に戻って私を「姫っ」と呼びかけてから、キリト君のお掃除当番の代行を久里くんがしていると教えてくれる。

えっ?……それってなんだかとっても久里くんに申し訳ない……知らなかったとは言え私とキリト君が屋上で過ごしている間、久里くんがお当番を代わってくれてただなんて……これはちゃんとキリト君に言わないとっ、と決意を固めた私のすぐ傍でキリト君の肩が不自然に揺れ、それを見た佐々井くんがなぜかとっても満足そうに頷いて屋上を出て行ったのが何だかとっても不思議だった。

 

「それで、キリトく君、起きてるよね?」

「…………はい」

 

よかった、佐々井くんが居なくなってから全然動かないし、話もしてくれないから、本当に寝ちゃったのかと思ったよ。

私の問いかけに渋々応えてくれた声のキリト君が仕方なさそうに目を開き、むくり、と起き上がる。ほんの少しだけ私との距離をおいて隣に座ったキリト君はやっぱり私の方を見ようとはせず、気まずそうに俯いていた。

私は軽く覗き込むようにして唇を尖らせる。

 

「お掃除当番っ」

 

焦り顔でキリト君がこっちを見てくれた。

 

「ごめんっ、それに関してはホントに忘れてたんだ」

「謝る相手は私じゃないよ……久里くんに御礼言って、今度ちゃんと代わってあげてね」

「ああ、もちろん」

 

そう言ってすぐにまた下を向いてしまう。それ以上何も言おうとしないキリト君に小さく溜め息をついてから、私はもう一度話しかけた。

 

「もうキリト君はわかってるでしょ? 《仮想世界》の気持ちが『仮り』ばかりじゃないって……私もね、アミュスフィアでゲーム世界を楽しむようになってあの時のキリト君の気持ちの理由がちょっとわかった気がするの」

 

私の言葉が随分と意外だったのか、キリト君が驚いたように顔をゆっくりと上げてくる。

 

「空を飛んだり魔法が使えたり、《現実》では不可能な事が出来るっていう点では《現実世界》とは違う自分なんだろうけど、《現実世界》だと大人しい人が《仮想世界》では行動的だったり、そういう意味でも違う自分を楽しむ人もいるんだなぁ、て。そうやって区別してたら、気持ちも区別するプレイヤーが当たり前にいるんだね」

「……アスナは、初めて会った時からアスナだったよな」

 

それって褒めてる?、と首を傾げると懐かしそうにキリト君が笑うから、多分キリトくんにとっては《仮想世界》でも《現実世界》でも変わらない私が嬉しいのだとわかって、つられて頬が緩んだ。けれど、キリト君からすぐに笑顔が消える。

 

「オレはあのゲームをクリアして『英雄』なんて呼ばれてるけど、《こっち》ではなんの力もないただの高校生ゲーマーだって思い知ったからな。そんな《こっち》のオレをアスナが受け入れてくれてるのが不思議って言うか……正直言って、不安も少しあるよ」

「《現実世界》に生還して一ヶ月ちょっとで私の病室まで訪ねてきてくれたキリト君が?…………お父さんがね、言ってたの」

「省三氏が?」

「うん。《S.A.O》の維持管理をレクトが引き継いでいたから、その関係で第一次生還者の様子も経過観察していたらしいんだけど、リハビリが進んでいた人でも松葉杖を使っている段階なのにキリト君は初めて会った時、普通に歩いて私の病室にやって来たって」

「あの時は『普通に』とはほど遠いレベルだったぞ」

 

そうだったの?、ってちょっと笑って話を続けた。

 

「でもお父さん、そんなキリト君の姿を見て、さすがはゲームクリアをした英雄だな、とても強い少年だっ、て感じたんだって。だから私の病室の面会パスも渡してくれたんだよ」

 

多分、初めて聞いた話だったみたいでほんのりと彼の耳が赤くなっている。けれどすぐに落ち着いた声で「でもさ」と彼が真剣な面持ちで私を正面から見つめてきた。

 

「アスナの入院している病院が分かったのは、あのメガネの役人に聞いたからだし、そもそもアスナがあの時本名を教えてくれてなかったらたどり着けてたかどうか……結局なんだかチート行為みたいだよな……」

「もうっ、そんなことないのに……菊岡さんはキリト君の《あの世界》での情報と交換したんでしょ。ならそれはキリト君が価値のあるプレイヤーであり続けた努力の結果だし、私の名前は先にキリト君の本名を聞いたからで……」

 

それから私はほんの僅かな距離さえなくすように両手を伸ばしてキリト君の頬を包み込む。

 

「…………あの時、最後の瞬間は《仮想世界》とか《現実世界》とか関係なく君の事をたくさん知って、私の中を君で一杯にして消えたかったの」

 

綺麗な夕陽も崩れ落ちていくアインクラッドも見えなくなって、目の前のキリト君だけを見つめて、キリト君の事だけを考えて、そうすれば二人はひとつになれるのだとあの時は本当に信じていた。

こんな気持ちになるのは彼しかいない……それは《現実世界》に生還した後でも変わることはなかった。

 

「だから……やっぱりキリト君は《あの世界》でも《この世界》でも、私にとって一番大事な人だよ」

「ああ、そうだな……オレも。《あの世界》で頑張れたのはアスナを《現実世界》に戻したかったからだ。ゲームクリアが出来たのは、それをキミが望んでいると思ったから。アスナが眠っている病院を訪れたのは《この世界》でもとにかく傍にいたい、とオレが望んだから……勇者と呼ばれる行為はみんなアスナが原動力なんだ」

 

やっとキリト君の深く黒い瞳が優しい色になって私を映す。でもその色が艶を纏った途端、彼の口の端がニヤリ、と上がった。

 

「《仮想世界》でも《現実世界》でも変わらない、このどうしようもない気持ちは絶対に仮なんかじゃない。アスナが傍にいるとこんな風に触れてもっとアスナを知りたくなる」

 

少し早口で言い切ると彼の手が動いて頬に触れている私の手の片方を捕獲し、素早く手の平へ唇を押し当ててくる。何度も啄むように唇で触れられて、たまにちろり、と舌先が掠めると、それだけの刺激で全身が震えた。

 

「ひぁっ……くっ……くすぐった……」

 

むずむずとした感覚は笑いへとはつながらず、徐々に内を疼かせて……その熱を抑えようと肩をすくめて目を瞑る。息さえ止めて堪えていると、ようやく唇を離してくれたキリト君が呼吸を整えている私を見て苦しげに微笑んだ。

 

「なのにアスナがいてくれないとちょっとした他人の言葉で自分やアスナの気持ちを疑ってしまうんだ」

「なら…………ずっとキミの傍にいるよ」

 

傍にいて、ほんの少し臆病で綺麗で柔らかい心を持つ強いキリト君を守るから、キリトくんは私を守ってね……上がった息のまま、熱を宿した顔で微笑めばますますキリト君の眉尻が下がる。

 

「だから…………あんな状態の時にはアスナに会いたくなかったし、誰よりもアスナに会いたかった」

 

それはこの屋上にキリト君が飛び込んできた時のことなのだとわかった瞬間には強く手を引かれて彼の胸の中へ身を委ねていた。うなじから髪をすくい上げるようにキリト君の手が差し入れられて、身を屈めた彼の顔が頭頂部に当たり包み込まれるように密着する。

 

「《こっちの世界》に戻ってきてから知ったアスナの事、たくさんあるよ……」

 

私の耳元でそう囁いたキリト君の言葉の意味を問い返すより早く、耳たぶから縁をなぞるように舌で舐め上げられて、私はこれ以上はないというくらい身を竦ませた。

 

「ふっ……んんぅっ……」

 

しっかりと抱き込まれていて身動きがとれないせいでキリト君の匂いを一層深く吸い込んでしまい、外から与えられる熱と内からの火照りとが混ざって軽い酩酊状態のように強張っていた身体から徐々に力が抜けていく。支えきれなくなって首を僅かにかしげると、露わになった首筋にキリト君のキスが降ってきた。

 

「こんなふうに耳が感じやすかったり、首元が敏感だなんてあの頃は知らなかったし……」

 

そんなのっ、私だって知らなかったよ…………って言いいたいのに、口からは堪えきれずに漏れ出てしまう恥ずかしい声だけで、言葉を紡ぐ余裕なんてまるで無くて……《あの世界》でのアバターの身体は痛みを感じないし、例のコード解除設定をオンにしていたからちょっとの触れ合いで強い快感を得てしまっていたけど、《この世界》に戻ってきてからはキリト君によって自分でさえ知らなかった反応をたくさん引き出されて彼に翻弄されるばかりだ。

私の頭を支えていた彼の左手の力が緩むと自然と二人の間に空間が生まれるけど、それを計算していたようにもう片方の右手が私の胸元のリボンをしゅるり、とほどく。ゆるんだリボンの奥にあるワイシャツのボタンを第一、第二と手早く外して鎖骨のくぼみに鼻を埋めたキリト君が私の肌に強く吸い付いた。

 

「あっ……ダメ……」

 

痛くはなかったけど……絶対、痕がついてる……制止の言葉なんて耳に入ってなかったみたいに、ちょっと満足げな顔のキリト君は私に対して悪戯が成功した時と同じような楽しげな視線を送ってきた。

 

「アスナ、いつも第一ボタンまできっちり閉めてるから問題ないだろ」

 

『あの世界』だとどうやっても痕を残す事が出来ないせいか、時々、キリト君は私の肌にマークを付けたがる。それでも私が出した、絶対お洋服で隠れる場所、という条件は守ってくれていたから今までは大丈夫だったんだけど……。

 

「この前、肩につけたやつ、体育の着替えの時リズに見つかって大変だったんだから」

「今の時期なら、虫に刺されたとか言えば……」

「言ったよっ……そうしたら『どうせ全身黒ずくめの虫でしょ』って…………」

 

その時の恥ずかしさといったら言葉で言い表せるものじゃなかった。さっきまでの熱と思い出の羞恥が相まって顔全体が熱くなる。その熱を原因のキリト君に移したくて彼のワイシャツの胸元におでこを押し付け、ぐりぐりと擦っていると頭部に触れていた手に加え、背中にまで腕が回ってぽんっ、ぽんっ、とあやされた。

 

「笑った顔はもちろん、蕩けた顔も、怒った顔も、困った顔も、恥ずかしがってる顔だって、どれも《あの世界》から……だなんて……こんなの…………」

 

私の頭の上でボソボソとなんだか困ったように呟いてるけど、よく聞き取れなくて顔を上げようとしたら更に上から顎を押して付けられ、全然身動きが取れない。なんとか「キリト君?」とこもった声を出してみると「はぁーっ」と大きく吐き出した息の存在を頭上で感じた。

 

「なんであんな言葉で不安になったんだろうな」

「もう……大丈夫?」

「ああ、こうしてアスナと一緒にいられれば……」

「よかった」

 

今度は私が安堵の息を落とすと傍に置いてあった鞄の中からメールの着信音が聞こえてくる。その音を合図のように腕の力を緩めてくれたキリト君に「ごめんね」と断ってから携帯端末を取り出した。

 

「あ、やっぱりリズから……追試終わったのかな………………」

 

メッセージを読み終わったまま口を噤んで固まっている私にキリト君が首を傾げる。

 

「リズとどこで落ち合うんだ?、昇降口か?、それとも教室?」

「リズ…………まだ……追試だって……」

「え!?」

「もう覚えているはずの人名まで出てこなくなっちゃったって……」

「そりゃぁ…………ハマったな……」

「私に、先に帰ってて欲しいって……どうしよう……」

「多分、アスナが『待ってる』って言ったら余計プレッシャーになるだろうから、言う通り帰ろう。オレもこのまま帰るしさ」

 

立ち上がったキリト君に佐々井くんが持って来てくれた荷物を渡してから手早く制服のボタンとリボンを直す。自分では見えない位置だから家に帰ったらすぐに確認をしないと、私服ならデザインによっては着られない可能性だってある。ちょっと恨めしげにキリト君を見上げれば、見つめる私の視線を遮るように口元を手で隠して眉根を寄せている。

そんな不機嫌そうな顔をされる理由がわからなくて頬を膨らませると、口元を覆っていた手が真っ直ぐ私に伸びてきて……つんっ、とおでこを弾かれた。

 

「そんな顔すると、ここで襲うぞ」

 

どうしてそんな発言になるのか、ビックリして目を丸くするとキリト君はすぐに困ったように笑って「冗談だよ」と言ってから手を差し出してくれる。少し不可解な気持ちのままその手に自分の手を重ねて立ち上がり、私達は屋上の出口へと向かった。けれど途中で私達より少し前にその出口から姿を消した男子生徒の後ろ姿を思い出して、隣のキリト君に尋ねてみる。

 

「ねぇキリト君、佐々井くんの髪型なんだけど……」

「あー……あれはさ……気づかなかったって事で忘れてやって。明日には元に戻ってるから」

「そうなの?」

「ああ、佐々だしさ」

「……そうだね、佐々井くんだもんね」

 

佐々井くんだから……それが一番しっくりくる答えだった。




お読みいただき、有り難うございました。
要するに、こっちをメインで書きたかったんですけど、事の発端である
編入生とキリトのやりとりを佐々井くんに長々と説明させるのが面倒だった
ので「前編」という形で下準備をさせていただきました。
次回は二人の結婚後をお届けする予定です。

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