ソードアート・オンライン《かさなる手、つながる想い》   作:ほしな まつり

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既に和人と明日奈が夫婦となり、息子の和真(かずま)も四歳になっています。
微妙に『みっつめの天頂物』とリンクしておりますが、時間軸的にはこちらの方が
先だと思います。
もちろん未読でも問題ありません。


来訪者

基本、昼休憩の時間設定は個々の自由だが、この研究所で働くほとんどのスタッフが多少の時差はあるものの昼の十二時近くになると各の研究室や実験室からこのスタッフルームに戻って来る。

それぞれ抱えているプロジェクトは違っていても、スタッフルームで会えば互いに情報を交換したり別の角度からのアドバイスを貰ったりとハイレベルな刺激を受けられる為、一癖も二癖もあるメンバーばかりが集まっていると言われているこの研究所でも自然と交流が深まっているようだ。

そんなスタッフルームに着用している白衣とは正反対の漆黒の前髪を掻き上げながら入室してきた和人はすぐに自分のデスクのイスへドサリ、と少々乱暴に腰を降ろした。

午前中に今、手がけている開発で納得のいく成果が出なかったのか、疲れたように長く息を吐き出してからスタッフルームに戻ると必ずチェックする携帯端末へ手を伸ばす。仕事中は余計な機器類を持ち込めない為、ここで働く研究スタッフの全員が私物のPCや携帯端末はこの部屋の自分のデスクに置きっ放しだ。

しかし今日はその画面を視認するより先に「桐ヶ谷君」という先輩女性スタッフの落ち着いた声で意識が逸らされた。

面倒くさそうに首を巡らせ声の元へ振り返れば自分より五つ程年上(推定)でここの女性スタッフの姉御とも言うべき存在の「松浦女史」が何やら楽しそうに目を細めている。女史の右後ろにはやはり先輩の女性スタッフが一人、左後ろには和人と同僚の女性スタッフ、その三人に隠れるように最後方には後輩の女性スタッフが興味津々といった瞳を輝かせフォワードの松浦に全てを委ねるように全幅の信頼を寄せて彼女の動向を見守っていた。

どの面々も仕事をする上では信頼と尊敬に値する人物達だが、こと休憩時間での接触となると女性特有の好奇心を満たす会話がほとんどだと学習している和人は自然と眉間に皺を寄せる。

 

「何ですか?」

 

そうは言っても相手は職場の先輩なので、最低限の礼儀はわきまえて言葉を返した。

会話に応じる気があるとわかると、松浦女史はそこで第一関門クリアを示すように今度は片方の口の端を上げてから「ふふんっ」と上位の立場を示す笑みを浮かべる。

 

「今日はどうしたのかな?」

「何がです?」

 

こちらの出方を覗っているのか、どうとでも取れる問いかけに和人もまた質問形式で答えた。

 

「おやおや、わかってるくせに。いつも君が大事に抱えてる宝箱が今日は見当たらないよね」

「宝箱?」

「そう。ここのスタッフの間ではそう呼ばれてるの知らないのかい?」

 

そこで和人は「はあ」と気のない返事を溜め息と共に吐き出すが、これは知らなかった事の肯定というよりは随分と大げさなネーミングへの呆れを表しているようだ。

 

「君の突拍子もない着眼点や常識破りの発想力はあの宝箱のお陰に違いないって半ば本気で信じてるスタッフも結構いるんだよ」

 

松浦女史はそう告げてから再び可笑しそうに「ふっ」と笑った。

この研究所の女性メンバーは誰もが世間一般では「才媛」と呼ばれる部類の人間なのだろうが、和人にとっては最も近しい間柄で十代半ばから自分の傍らに居続けてくれている一人の女性のお陰で「才媛」という存在にはかなりの免疫が付いてしまっている。普通の男性スタッフならば複数の女性スタッフを引き連れた松浦女史を目の前にして平然とぐだぐだな受け答えをする度胸など持ち合わせていないのが大多数だが、今回ばかりはスタッフルーム内の男性達は女史に対する和人の態度に驚嘆するよりも話の内容に耳をそばだてていた。

一方、和人は女史が問うてきた……と言うよりはこの場のほぼ全員が気に掛けている内容を理解して更に眉間の皺を深めて己に向けて嘆息する。

宝箱にそんな効力があるとしたら十年近くその恩恵にあずかっている自分の今の状況はかなり不甲斐ないと言いたいのか、唇が自嘲気味に歪んだ。

 

「弁当箱の事なら、今日はたまたま持って来なかっただけです」

「たまたまぁ!?……うっそだー。だって、桐ヶ谷くんはこの研究所で働くようになって私と同じ六年目、その間お弁当持ってこなかった日ないよねっ」

 

どうにも我慢が出来なかったのか、松浦女史の左後ろの和人の同僚が素っ頓狂な声を上げた。

 

「ない……って大げさだな」

「ないよ、絶対だよ。お弁当箱じゃなくても、ちゃんと途中で買ってきてたりしてたもん。私が出張中や有休の時もチェックは他の人に頼んでたから統計に間違いはないよっ」

「お前は……一体何の為にそんなデータを取ってるんだ」

「ちなみに手作り弁当の時とそうでない時の割合も出してるからっ。奥さんが妊娠出産関連で入院してた時を除けばお弁当の確率は九割を超えてるんだよっ。桐ヶ谷くんトコ共働きだからあのスゴイお弁当を、奥さんはほぼ毎日二人分作ってるんだよねっ?」

 

既に何らかのスイッチが入ってしまった同僚は途切れることなく「尊敬するよ、出来れば私の分も作ってくれないかなーっ、て思っちゃってるよ」と喋り続けている。そんな彼女の声を遮って松浦女史が「とにかくね」と仕切り直した。

 

「いつもこのスタッフルームの男性陣のみならず女性陣からも注目の的となっているお弁当を桐ヶ谷君が持参していない。しかも途中で調達する余裕もないという事態に私達は非情に興味があってね」

 

まるで起こるはずのない現象を目の当たりにしたような研究者の探究心溢れる輝きを纏った松浦女史の瞳がまっすぐに和人を捉えている。疑問を抱くとその根源が気になってしまうのは和人にも理解できる感覚だが、その対象物とされるとは、と予想もしていなかった事態にいんかせん申し訳ない気持ちが生まれた。

 

「そんな大層な理由や原因を期待されても困るんですけど。単に妻に作る余裕が無かっただけで、加えてオレも少々寝過ごしたので買う時間がなかっただけです。今朝は全体ミーティングがあったので遅れるわけにもいかず……たまには研究所のラウンジで食べるのもいいかな、と」

 

薄く笑う和人に松浦女史が一歩を踏み出してくる。

 

「まあ、そう言われてしまうと我々はそれが真実かどうかを確かめる術はないな」

「本当ですよ……」

「嘘とは言っていないさ」

 

そこで再び同僚の女性スタッフが訳知り顔で頷きながらも人差し指だけを天井に向けた。

 

「桐ヶ谷くん、この際ハッキリ言っちゃおうよ」

「いやいや、ハッキリも何もこれ以上何を言えって言うんだ……」

「だ、か、ら、さ……ついに、やっちゃったんでしょ?」

「ついに?」

「私から言うのはちょっとなぁ……」

「いいから言ってくれ。頼むから」

 

段々と会話の内容が見えなくなってきた和人が痺れを切らすように同僚を睨み付ける。しかしキツイ視線を向けられたにもかかわらず、彼女はにまにまと笑いながら立てていた人差し指をくるんっ、と回した。

 

「桐ヶ谷くんてさ、この研究所で働き始めたのとほぼ同時に結婚したよね」

 

いきなり数年前の事実を告げられ、その意図はわからないがとりあえず和人は素直に首を縦に動かす。

 

「披露宴は上の人しか参列してないし、職場の皆でお祝いの場を設けようって提案してたのに日程や場所決めで手間取ってたら奥さん妊娠しちゃって、結局ここにいる全員、奥さんにもお子さんにも会ったことないんだよね」

「まあ……そう、かもな」

 

多少正確性には欠けるが、ほぼその通りなのであえて否定はせず、話の続きを促した。

 

「でさ、普通新婚だと奥さんの画像とか、家族が増えれば産まれたお子さんの画像とか、家族みんなの画像なんかをデスクに飾ったり、携帯端末の待ち受けに設定したりするのに、桐ヶ谷くん、それもしてないでしょ」

 

同僚の少々自分基準な発言に対して、さすがにそれが「普通」だとは思えないが、言葉通り妻や今年五歳になる息子の画像を他人の目に触れるような行為はしていないのも事実、と頷き返す。

 

「そこで私はあるひとつの仮説を立てたんだよ」

「……と言うと?」

「桐ヶ谷くんの結婚理由は、料理はもちろん日常の生活面での不自由さを無くすのが要因であって、料理以外は特に取り柄も無い奥さんから少々強引に押し切られた妥協の結果なんだろうな、って」

「はぁっ?」

「だからね、桐ヶ谷くん、研究に打ち込める環境が欲しいのはわかるけど、愛の薄い結婚は色々問題が出てくるもんなんだよっ…………という事で……ズバリ、ついに、奥さんと大喧嘩したんでしょっ」

 

いまだ独身のお前が結婚云々を語るなっ、という周囲からの視線は完全に無視して仮説を立証したかのようにやりきった感いっぱいの満足げな彼女は最後の仕上げとでも言うのか、それまで天井に向けていた人差し指をピシッと和人に突き出した。

しかし結果的には松浦女史の真横ににゅっ、と伸びたそれはやんわりと女史の手で下に降ろされる。

色々と指摘したい部分があり過ぎて頭を抱えたい気分の和人に松浦女史も苦笑いの表情だ。

 

「とまあ、さすがにそれは極論すぎると私も言ったんだけどな。新婚当初から奥さんの存在を誇示するのがあの豪華すぎる弁当だけっていうのがどうも不自然すぎて、我々も仕事の息抜きを兼ねて色々と推論を出し合うのが楽しくてさ」

 

才媛達が疲弊した脳のリフレッシュに他人の夫婦関係をネタにしていたとは露ほども知らなかった和人の頬がひくり、と震える。

 

「オレ達夫婦ばかりが標的に?」

「まさか、ちゃんとうちの弟の女癖の悪さの根拠なども仮説の議題項目には上げているさ。しかしあいつの場合、ただの事実だから推論の余地があまりなくてね。脳の活性化に貢献できる素材としては不向きだな。そこへいくと桐ヶ谷夫妻はミステリアスな匂いがするし、突っ込んで言えば敢えて奥さんの存在を隠そうとさえしているように思えるから思考の余地はより深く、広く、私の前頭連合野にとても良い刺激を与えてくれる」

 

自分の思考やひらめきの為には弟の女性交友や後輩の夫婦関係すら利用するのか、と和人が脱力して両肩を下げ、自分の同僚である松浦女史の弟が使っている隣のデスクに視線を送っていると松浦女史は続けて「他にも色々と推論があるんだが、聞きたいかい?」と小声で聞いてきた。それを全力で拒むと「だったら……」と再び不敵な笑みを浮かべて更にもう一歩、距離を詰めてくる。

 

「せめて画像とか、ああ、馴れ初めでもいいか。桐ヶ谷くんほどの人間をその若さで結婚まで決意させ、尚且つ、日々、あの手の込んだ料理を生み出す女性に私はとても興味があるんだ」

 

すると今度は和人が一旦目を閉じて余裕の笑みを浮かべる。再び開かれた漆黒の瞳は女史の放ったひとつの単語に反応して何かを懐かしむように穏やかだった。

 

「決意なんて、そんなのとうの昔に済ませてます。結婚できる環境が整ったからやっと実行に移しただけで……」

 

そう言いながら手にしていた携帯端末を自分の元へと引き寄せ、触れると同時に起動したトップ画面に目を走らせた瞬間、周囲の視線も先輩女史の存在も忘れて勢いよく立ち上がる。すぐ近くの男性スタッフに「受付からオレにコールが入ったら既に向かったと言ってくれ」と頼むやいなや携帯だけをつかんでスタッフルームを全速力で飛び出すと、ちょうどすれ違いざまに入ってきた女性スタッフの肩にぶつかった。

「すまないっ」と声を飛ばし、片手で謝罪の意を示しながも足を止めず、駆けていく和人を驚きの表情で見送った女性スタッフは「いつも温和な桐ヶ谷さんが珍しいですねぇ」と言いながら入ってくる。そして部屋にいた全員が自分を見ている異様さに臆すことなく目当ての女性を見つけると声を上げた。

 

「松浦さーん、弟くんの彼女さん、ついに職場まで乗り込んできてちょうど戻って来た松浦弟と話し込んでるって目撃情報入りましたー」

 

その朗報に身内にあるまじき野次馬さで瞳を輝かせた女史は大層興味を引かれたらしく「ほうっ」と口角を吊り上げる。

 

「しかも、もの凄い美人さんらしいです」

 

追加情報を告げた時、かぶるように和人のデスク近くの内線が鳴った。和人に頼まれていたスタッフが応対すると、どうやら予告通り受付から和人を呼び出す内容だったようで、既に向かった旨を告げて「ちなみに誰が面会に来てるんだ?」の問いを口にした男性スタッフがその答えを聞いてフリーズする。数秒後、とっくに受付との会話を終えている彼がようやく震えながらも口を動かした。

 

「今……受付に桐ヶ谷の奥さん、来てるって……」

 

途端にガタガタッとスタッフ全員が立ち上がる。たった今、スタッフルームに入ってきた彼女は「松浦弟の彼女と桐ヶ谷くんの奥さんのマッチングなんて見応えありますねー」と軽やかにきびすを返した。

 

 

 

 

 

初めて和人の職場である研究所を訪れた明日奈が若干緊張気味の歩みで受け付けに向かって足を進めていると、すぐ後ろから「明日奈さん」と聞き覚えのある声をかけられる。

すぐに立ち止まり振り返ってみれば、そこにはスーツ姿の和人の同僚が数年前と変わらぬ柔和な笑みを浮かべていた。

 

「松浦さん?」

「あれ?、僕の事、忘れちゃいましたか?。僕は後ろ姿でも数年ぶりの明日奈さんがわかったのに」

「ごめんなさい、そういうわけではないんですけど。あの頃はスーツ姿を拝見した事がなかったので、ちょっと自信がなかったと言うか……」

「それでも、この研究所で貴女を『明日奈さん』と呼ぶ人間なんて僕くらいだと思いますけどね」

「……そうですよね」

 

数年ぶりに顔を合わせた和人の同僚は相変わらず丁寧な物言いだが、どこか親しみを込もった口調で明日奈を「明日奈さん」と呼び、彼女が和人の妻だと知っている数少ない人物だ。同じ研究所に勤める松浦女史の弟と言うことで姉と区別する為に所内では「松浦弟」と呼ばれているが、明日奈と知り合ったのはこの職場で働く前の研修期間中、研修者用マンションに暮らしていた頃だったから明日奈は普通に彼を「松浦さん」と呼んでいた。

久々の再会で当時を思い出したのか松浦の目がより優しげに明日奈を見つめる。

 

「まあ、あの頃はスーツなんて着る必要もありませんでしたから。今日は午前中、第一分室に行っていて、こっちは午後からなんです。途中、どこかで昼食を、と思ったんですけど、どこも混んでいたので結局ここのラウンジで済ませようと。でも、そのお陰で明日奈さんに会えたわけですから今日はついてるかもしれません。それで今日はどうしたんですか?」

「あの和人く……いえ、主人に届け物を……でも研究所にお邪魔するのは初めてなのでちょっと心細かったんです。松浦さんに会えてよかった。実は松浦さんにも持って来た物があるんですが……ご本人に直接会えるなんて私もついてます」

 

そう言って大きめのトートバッグの中からお弁当箱サイズの容器が入っているらしい紙袋を取り出した。心当たりのない松浦は小首を傾げる。

 

「僕にですか?」

「はい、毎年夏に作る度に思い出していたんですが、主人に渡してくれるよう頼むのも悪いかな、って思って」

 

言いながら袋の中身を取り出すと、そこには透明なプラスチック容器に色とりどりの野菜が詰まっていた。

 

「お好きでしたよね、夏野菜のマリネ」

「……覚えていて……」

「そりゃあ、あの頃、色々と差し入れしましたけど『美味しかったです』って言って下さったのコレだけだったから」

 

明日奈からの少々恨みがましい目つきに松浦は慌てて言葉を紡ぐ。

 

「すみません、全て美味しかったんですけど、僕、基本的に女性からしてもらった行為への賛辞は送らない主義なので。それに毎回『美味しかった』って言うと桐ヶ谷が不機嫌になるでしょう?」

 

言われた言葉全般が同意しがたい内容だったのか無言のまま明日奈の眉根が僅かに寄った。それに気づいて松浦が堪えきれずにクスッと笑う。

 

「明日奈さんに関する事だと桐ヶ谷は過剰反応しますからね。とにかく桐ヶ谷を呼び出さないと。いつまでもここで僕と喋っていると……ほら、あの時なんかすごかったじゃないですか」

 

そう言って「ちょっと待ていて下さい。受付を通した方が確実なので」と言い残して明日奈に背を向け足早にインフォメーションデスクに駆け寄り手早く代行を務めてくれる松浦の後ろ姿を見ながら、彼から言われた「あの時」とは何の事かとほんの数刻考え込んだ明日奈はある出来事を思い出して、戻って来た松浦に笑顔を向けた。

 

「思い出しました。私が毎週末に研修者用マンションを訪れていた時の事ですよね、一度だけ和人くんが帰宅していない日があって」

「ええ、そこで隣部屋だった僕が桐ヶ谷の部屋の前でぽつん、と立っていた明日奈さんに声をかけたんです。『やましさゼロパーなんで、僕の部屋で待ちますか?』って……本当にいつも差し入れをしてもらってる御礼のつもりだったんですよ。そうしたら明日奈さんは桐ヶ谷が今、全力で走ってこっちに向かってくれてるみたいだから、って……」

「そうそう」

「だから『桐ヶ谷と連絡が取れたんですか?』って聞くと、首を横に振って……でも、それからとても嬉しそうな笑顔で携帯端末を見つめて言いましたよね」

 

そこで明日奈は当時を再現するようにバッグから携帯端末を取り出して画面をチェックする……一瞬瞠目してからあの時の同じように「ふふっ」と幸せいっぱいに頬を染めた。

 

「……すっごい心拍数になってる」

 

その表情を見て全てを悟った松浦もまた苦笑しながら「受付で呼び出す必要なかったですかね」と呟く。しかしそれを聞きとがめた明日奈は「そんな事ありません」と言って頭を下げた。

 

「お気遣い有り難うございました。和人くんがラボにいる時は電波が遮断されてしまうからデータ受信は出来ないんです。同様に彼も端末を持っていないので私の居場所は確認出来ないし……」

 

要は和人の手元に携帯端末がなければ受付に頼むしかなかったのだと言いたかった明日奈だが、松浦はいつもの和人の行動パターンを思い出して可笑しさに口元を緩める。

 

「それででしょうね。桐ヶ谷のヤツ、スタッフルームに戻ってくるとまず一番に端末チェックしてますから。奥さんの居場所がマップ表示される起動画面なんて、下手な待ち受けの画像よりよっぽどだと思いますよ」

「私はとっくに慣れてますから……それに私も時間が空くと、つい彼の心拍数を眺めちゃうの、癖になってるんで……」

 

少し恥ずかしそうに頬を染める明日奈を見て松浦は今度は穏やかに微笑んだ。

二人を知らない者が聞いたら思わず耳を疑う夫婦間の携帯事情だが、それを告げる明日奈の笑顔を目の前にしてしまうと、女性に対して今ひとつ本気の恋愛感情が抱けない松浦でさえほんの少しの羨ましさが湧いてくる。

そんな研修期間中も隣同士の部屋で、今現在、スタッフルームでもデスクが隣り合っている同僚の最愛と言って過言ではない女性を見つめつつ、渡された紙袋を両手で受け取った松浦は他意のない笑みを返した。

 

「ともあれマリネを有り難うございます。早速ランチメニューと一緒にラウンジでいただきます……と言いたいところなんですが、研究所内で蓋を開けると強奪される危険性があるので、今夜、自宅でゆっくり味わいます」

「……強奪、ですか?」

「ええ、文字通り、奪われるんですよ。桐ヶ谷は慣れてるんでしょうね、毎回鉄壁のガードで完食してますが。折角の好物です、奪われるのはしゃくですから……ああ、でも立場が逆なら僕も奪いに行くかもしれませんね……」

「っ、はあっ、はっ……誰が……誰を奪うって?」

 

突然、明日奈の目の前が真っ白な布でいっぱいになる。

少し目線を上げれば見慣れた細身の肩が大きく上下に揺れていた。

一方、いきなり自分の前に割り込んで完全に妻の姿をその身で隠した同僚の焦りっぷりと威嚇の視線にあの時の記憶が完全に重なった松浦は呆れ半分、可笑しさ半分で眉尻を下げる。

 

「桐ヶ谷…………君は、所内をエレベーターも使わずに走ってきたんですか?」

「タイミングが悪くて……待ってられなかったんだよ……それより奪うって……」

「明日奈さんが作ってきてくれた料理ですよ。君のように死守しつつ食べるなんて芸当、僕には出来ませんから奪われないよう家に持って帰って食べます、と言っていただけです」

 

そう言って軽く紙袋を持ち上げると和人の肩越しに明日奈も口を添えた。

 

「研修時代にお分けした時、『美味しかった』って言ってもらえた野菜のマリネ。和人くんも昨夜食べたでしょ」

 

すると和人はクルリと身体ごと振り返り松浦に向けた鋭さとは全く別物の眼差しを妻に落とす。

 

「ああ、オレだってあのマリネ、美味いって言ったけど」

「うん、有り難う。まだお家にあるから今日のお夕食にも食べる?、あ、でも、あれは和真くんも好物だから結構食べるのよね。ちゃんと和人くんの分、取り分けておかないと……」

「出来るだけ早く帰るよ」

「無理はしないでね、それから……」

 

再びトートバッグの中に手を入れて今度は和人も見慣れている包みを取り出した。

 

「今朝は寝過ごしちゃってゴメンなさい。起こしてくれればよかったのに」

「いや、オレも結構ヤバイ時間に飛び起きたから……」

「でも、わざわざユイちゃんに私を起こさなくていいって言ってから家を出たでしょ」

 

そこで和人は明日奈の耳元に顔を寄せる。ついでに両手で細腰を引き寄せてから少々楽しげに自分の妻へ睦言のような小声を吹き込んだ。

 

「だって今日は仕事、休みなんだろ。和真も昨日からオレの実家に行ってるし……昨夜は久々に無理させたからさ……」

 

昨晩の長い房事を思い出したのか、明日奈の顔全体がみるみるうちに朱一色に染まる。「もうっ」と眉を吊り上げるが、荷物を抱えている両腕ごとホールドされているので、羞恥でじわり、と滲んだ涙ごしに夫を睨むしか出来ない。弱々しく睨まれた和人は小さく脇息してから再び顔を妻に近づけた。

 

「そういう顔、外ではするなって言ってるのに……」

 

言い終わるやいなや明日奈の瞳に溜まった涙を慣れた仕草で吸い上げる。驚きで「ふひゃっ」と言葉にならない声を上げた後、明日奈はどうにか震える声を吐き出した。

 

「か、かっ、和人くんだって、そういう事っ……」

「今朝、家を出る時、キス出来なかったからその分だよ。それともここで堂々といつもみたいなキスをしていいのか?」

 

和人が悪戯をしかける時に見せる特有の笑顔を間近で見て、明日奈がぷるぷると首を何度も横に振っていると、くっくっ、と楽しげに笑う声が少し先から耳に届く。

 

「本当に君は明日奈さんの事となると相変わらずですね。そろそろ周りを見て下さい、桐ヶ谷の豹変ぶりにみんな驚いてますよ」

 

ハッと我に返った明日奈が和人の腕の中で首を巡らせると、受付前にはずらり、と白衣のスタッフが二重三重の人垣を作って自分達に注目していた。

 

「ひゃぁっ……かっ、和人くん、離してっっ。皆さんに見られてるからっ」

「そんなの、明日奈がこの研究所に来た時点でこうなる事はわかってたし。だからオレのだって認識させようとしてるんだけど」

「それはもう十分に伝わったと思います」

 

松浦のいつもの笑みに少しだけ困惑が混じっている。しかし未だ明日奈を抱いたままの和人は振り向いて同僚の言葉に否を唱えた。

 

「だいたい女性に関しては来る者は拒まず、去る者は追わず、のお前でさえ明日奈に対しては随分と態度が違うよな」

「ああ、それで警戒されてたんですか。でもそれは桐ヶ谷が懸念しているような感情ではありませんよ。だって明日奈さんは僕の一番になりたいと思う事は絶対にないでしょう?」

 

言われて明日奈は自身に問いかける……自分にとっての一番は……迷うことなくたった今、自分を包んでくれているこの人だ……と答えが出れば無意識にその胸へと頬がすり寄っていき……するとすぐに明日奈を抱く和人の腕に力が籠もる。二人の疎通を言葉で確認できなくとも松浦には雰囲気で伝わったのか当然のようにひとつ頷いてから自らの内を語った。

 

「だから明日奈さんは安心できるんですよ。女性というのは好意を寄せている男性にとって自分の立場を一番にして欲しいと願う人が多いですが、残念ながら今のところ僕の一番は仕事なんです。だから僕も相手の一番を要求したりはしません。どうもそれを理解してくれる女性が現れず……」

「だからとっかえひっかえなのか……」

「人聞きが悪いですね、桐ヶ谷。単に一番には考えられない、と告げると離れていく女性ばかりだというだけの事です」

「賛同は出来ないが、お前の女癖の悪さの原因はわかったよ。とりあえず折角明日奈が持って来たんだ、マリネは家でゆっくり食べてくれ」

「和人くんたらっ、そんな言い方して。松浦さんには研修時代からずっとお世話になってるでしょ」

 

自分の腕の中で未だ赤みの引かない頬を憤怒のせいにしてしまいたいのか、ぷくり、と膨らませ眉根を寄せている妻の顔に視線を戻した和人はお小言を頂戴しているにもかかわらず、ほとんど無意識にふっくらと色づいている頬を唇で食む。

 

「和人くんっ」

 

当然、怒声を上げる明日奈だったが、それを気にする素振りもなく「ああ、悪い」と思ってもいないだろう口ぶりで謝罪の言葉を落とし、「だって美味しそうだったからさ、つい……」などと続けている和人を見かねて松浦が歩み寄って来た。

 

「いい加減にしないと、本気で明日奈さんに叱られますよ。ここのスタッフは海外経験も豊富な者が多いので、ある程度のスキンシップは見慣れていますが、桐ヶ谷がそういう事をする人間だとは思っていなかったでしょうから数日は話題の中心になりますし」

「ふぇぇっっ」

「君はともかく、明日奈さんを無責任なネタにされるのは面白くないでしょう?」

「まぁ、確かに……」

 

渋々といった表情で明日奈を自分の腕から解放した和人は今更にぐるり、と周囲に視線を巡らせてから言い放つ。

 

「この場にいる全員の顔は覚えた。妙な話や画像が出回ったら発信源は突き止めるからな」

 

その言葉全てが嘘やはったりでない事はこの研究所での和人の働きを知っている者なら誰もが疑うことなく納得する。一瞬にして緊張感のある静寂がフロアに満ちた時、それを破ったのは凛とした、それでいて慈愛に満ちた声だった。

 

「一緒にお仕事している皆さんなんだから、失礼な事言ったらダメだよ」

 

そう和人に告げてから、軽く着衣を整え直した明日奈は改めて夫の隣に立ちふわり、と極上の笑みを振りまいた。

 

「ご挨拶が遅れ申し訳ありません。初めまして、桐ヶ谷和人の妻です。主人がいつもお世話になっております」

 

丁寧なお辞儀と共に長い栗色の髪が肩からサラサラと滑り落ちる。洗練された仕草とシンプルながら上品なサマーワンピースからうかがえる抜群のスタイルの良さに男性陣のみならず女性陣までもがうっとりと見とれていると、その視線を弾くように和人が明日奈の斜め一歩前に身体をずらした。

そんな同僚の行動パターンにはすっかり慣れっこの松浦が同じように周囲を見渡しながら意味深げな笑顔を一人一人に送る。

 

「こちらの桐ヶ谷の奥様は僕も大変お世話になっている方なので、今後、皆さんが浅慮な行動を起こした場合、コイツが動く時は僕も全面バックアップに回りますから」

 

最後に浮かべた人畜無害と言いたげな甘い微笑みを見たその場のスタッフは一様に背筋が凍る思いを味わった。和人とはまた別の意味で松浦弟も人外レベルの逸才だからだ。

松浦の宣告をそれほど深い意味で受け止めていなかったのは明日奈くらいだろう、ちょっと申し訳なさそうに眉尻を下げて「松浦さん、いつも有り難うございます」と彼に向けて感謝を伝えると、和人が拗ねたように唇を尖らせる。

夫のそんな表情につい口元を緩ませた明日奈はそっと肩を並べて周りからは見えないようにその手を繋いだ。

 

「だって和人くんの苦手なマスコミ対応も助けてもらってるんでしょう?」

 

明日奈の口にした「いつも」のバックアップ内容に納得した松浦はわざと楽しそうな口ぶりを醸し出す。

 

「そうですね、今時、顔出しNG、インタビューNG、プロフ非公開の研究者なんてまずいませんから。本人と直接コンタクトが取れないからと、遠回しに僕へ接触してくる連中をあしらうのも結構疲れます」

「あしらうついでに相手から色々と情報を引き出してるだろ、お前は」

 

痛いところを突かれた和人が尖らせた唇を今度は反対に強めに噛みしめ半眼で睨み付けてから暗に借りを作っているばかりではないと訴えたが、明日奈は益々恐縮したように頭を下げた。

 

「本当にお世話になりっぱなしで……」

「いいですよ、そのお陰で明日奈さんからお裾分けをいただけるんですから」

 

見せつけるように紙袋を持ち上げた松浦に対して、和人は早口でまくし立てる。

 

「言っておくけど、それはおまけだからなっ」

 

言い切ってから自分の妻へ向き直り、繋いだままの手を持ち上げてその甲を親指で撫でた。

 

「弁当、わざわざ作って持って来てくれたんだろ」

「うん……迷惑じゃなかった?」

「まさか。午前中、調子が出なかったから助かった」

 

そう言って妻からいつもの包みを受け取った和人は心底嬉しそうな笑顔を明日奈に向け「ありがとう」と告げる。その言葉を受けてふわり、と微笑んだ彼女に、続けて「明日奈、自分の昼食は?」と尋ねた。

 

「私は寝坊したから遅めの朝ご飯だったし、それにこれから約束があるの」

「休みの日にわざわざ会うのか?、リズ?」

 

そこで首を横に振る妻を見て、優しさに溢れていた和人の瞳が僅かに硬くなる。微妙な変化も見逃さない明日奈は和人を安心させるように片方の手を伸ばし、全速力で入ってきた為に四方へ飛び跳ねている夫の髪の毛先を手櫛で整えて最後の仕上げにちょんっ、と細い人差し指の腹で物言いたげな夫の唇をつついた。

 

「お会いするのはお仕事の関係で知り合ったご婦人です」

 

生真面目な口調でそう明かしてから表情を崩す。

 

「この前話したでしょ、慈善事業の件でご依頼くださった頭取の奥様。当初の見込みより良い方向に話がまとまったみたいで、とても喜んでもらえたの。報酬は既にいただいてお仕事自体は完了してるんだけど、今後もお付き合いを続けさせて欲しいっておっしゃっていただいてね……私が料理好きな事を知ってヨーロッパから珍しいお野菜を取り寄せたから色々と分けて下さるって」

「おお、S級食材」

「ふふ、そうかもね。だからこれからご自宅にお邪魔するの」

「相変わらず明日奈さんの交際関係は底が見えませんね」

 

会話を聞いていた松浦が感心したように呟くが、同様に明日奈の話を聞き取っていた周囲のスタッフの顔は硬直しているか痙攣しているかのどちらかだった。特に和人の妻の人物像を色々と想像していた同じスタッフルームの面々は先刻の『料理以外は特に取り柄もない』論と桐ヶ谷夫婦の『奥さんから強引に押し切られた愛の薄い結婚』論に「どこがだよっ」と心の中でツッコミを入れている。そして当初は松浦弟の彼女と和人の妻の二人がやって来たと思っていたスタッフ達が松浦弟と親密に話をしている女性こそが和人の妻だとわかった時点でただ者ではないと感づいたのは、恋愛がらみでもなく、かと言って仕事がらみでもない女性をあの松浦弟が認めているという事実が十分驚嘆に値するからだ。

そんな周囲のビビリ具合もよそに明日奈は恐縮した笑みを返した。

 

「古い友人達が色々と個性豊かな面々なので、そのツテで繋がりが広がるだけで私の力ではないんですよ」

「いくらご友人を介しているとしても、仕事の面で成果を出していなければその後の関係は続かないでしょう?」

「それはそうかもしれませんが……」

「明日奈さんは仕事の能力と、仕事相手とのコミュニケーション能力の双方が高くてバランスがいいので人との繋がりが広がっていくんでしょうね。桐ヶ谷に見習って欲しいものです、こいつはバランスが悪いので」

「松浦も意外とバカなんだな。オレのバランスが悪いから明日奈が必要なんだろ」

「そうきますか」

 

気を許している者同士の軽口の応酬をニコニコと楽しげに聞いていた明日奈が思わず口を挟む。

 

「私にとっても和人くんは必要な人なので……」

「……はいはい、確かに僕がバカでした。本当にバカな事を言ったと、今、心の底から後悔してますよ」

 

少し気恥ずかしそうに告げてくる同僚の妻のあまりにも可愛らしい表情に自然と目を細めるとすかさずその夫が、見るなと言わんばかりに身体をずらしてきた。その威嚇行動にさすがの松浦も「いい加減にして下さい、桐ヶ谷……」と言いかけた時だ、自分の背後から地底より湧き上がってくるような不気味な声が「ふふふふふっ」と近づいてくるのに気づく。

聞き覚えのある声にすぐさま振り返れば、キラキラを通り越してギラギラと形容するのが最もふさわしい程に目を輝かせている自分の姉が珍しくお供の女性スタッフを引き連れずに単身で自分達のすぐ傍までやって来ていた。多分、松浦姉の取り巻き達はこれまでの松浦弟と和人、そして明日奈のやり取りを聞いて気後れしてしまったのだろうが、別に普段から松浦姉が自ら望んで彼女達を集めているわけではなく、その姉御肌的な気質と彼女の才能に魅了された女性スタッフ達が自発的に寄ってきているだけなのだから松浦姉としては何の躊躇いも感じていない。

一方、弟の方は先程の和人の行動が自分から妻を隠す為ではなく、自分の姉から守る為だと瞬時に理解し「面倒な人に目を付けられましたね」と表情を曇らせた。

明らかに招かれざる客だと言わんばかりのオーラを放っている弟と後輩の後ろに秘された明日奈に向け、松浦姉は好奇心いっぱいながら確実に獲物を捕獲をすべく狙いを定めた獰猛な獣の視線を送り、牙が現れそうな口元をゆっくりと開く。

 

「本当にバカな弟が迷惑をかけてすまないね。世話になっている弟の姉として桐ヶ谷夫人に挨拶をしたいのだが?」

 

女史の目論見通り、姉という単語に明日奈が反応を見せる。小動物ならばピコピコと耳を動かしただろう驚きと疑問と高揚感に満ちたはしばみ色の瞳で和人の背から斜めに顔を覗かせた明日奈が「お姉さん?」の問いを薄い花唇から零した。

 

「顔を出すなっ、明日奈」

「ダメですっ、明日奈さん」

 

同時に上がった男二人の焦り声が耳に届くよりも早くターゲットをロックオンした猛獣が片方の手を伸ばす。

 

「初めまして、桐ヶ谷夫人。私は松浦の姉なんだ」

 

社交性の高い明日奈が自分の目の前に出された手を、しかも和人の同僚であり自身も知人である男性の姉と名乗る人の手を無視するわけもなく、ほぼ条件反射的に己の手を差し出した。握手を交わす……と思われた松浦女史の手は明日奈の手の甲を通り過ぎ、ガシッとその細い手首を掴む。

 

「ええっ?」

 

驚きで咄嗟の判断が追いつかない。女史は巣穴から小動物を引っ張り出すように素早く和人の後ろから明日奈をグイッと連れ出すとその全身を一瞬で眺めてから、自分の懐まで引き寄せて強引に抱きしめた。

呆気にとられていた和人と松浦弟が未だ呆然としている明日奈の代わりに揃って「あ゛あ゛ぁっ」と驚きとも怒りともつかない声を吐き出す。

 

「はっ、離せっ、今すぐ明日奈から離れろっ」

 

既に同じ職場の先輩に対する敬語も抜け落ちた和人が明日奈の後ろから必死の形相で女史に訴えかければ、反対に女史の後ろにいる松浦弟も「ダメですっ、姉さん。明日奈さんはノーマルな一般人なんですよっ」と姉を叱咤した。

そんな前後からの雑音など右から左に聞き流した女史は恍惚とした表情でしっかりと明日奈を堪能し続ける。

 

「ああ、華奢なのに骨張っておらず、ほど良い弾力性としっとりとした肌触り。胸部と臀部のフォルムと重量感もとても良い。細く艶やかな髪に神の御業のごとき完璧な顔面における個々のパーツの美しさと配置の見事な比率。これがノーマルだって?。バカも休み休み言え、我が弟よ。このきめ細やかな細胞が内にまで広がっているかと想像するだけで身震いが止まらないよ。私は桐ヶ谷夫人の全身をくまなく隅々まで赤裸々に暴きたい」

 

賛辞だとは思うのに、ひゅうっ、と乾いた空気だけが明日奈の喉を通り過ぎ、言葉を紡ぐ余裕のない妻の後ろから噛みつきそうな形相で和人が声を荒げた。

 

「それをしていいのはオレだけだっ」

 

途端に松浦弟が痛む頭に片手を当てる。

 

「桐ヶ谷も、そこを言い返さないで下さい。姉さん、念のために言っておきますが明日奈さんは研究素材ではありません」

「……ダメ、なのか?」

「ダメに決まってるだろっ」

 

和人が明日奈を取り返そうとその細い腰を抱え込んだ。

 

「どうしても?」

「どうしても、です」

 

松浦弟が諦めを促すように姉の肩に手を乗せる。

欲しいオモチャを買ってもらえない幼児のように眉根を寄せて不機嫌な口元となった松浦女史は最後のあがきとばかりに尖らせた唇を明日奈の耳元に寄せた。

 

「ならば、せめて互いの連絡先を交換しよう」

 

ささやくほどの音量だったが、しっかりと明日奈に身を寄せていた和人にも聞かれてしまい、明日奈の肩を挟む形で互いににらみ合う。

 

「却下だっ。金輪際、明日奈をその目に映す事も、声を聴く事も、肌に触れる事も絶っ対にさせないっ」

 

和人の叫びが研究所一階、受付前フロアーに木霊した。

 

 

 

 

 

     ◇◇◇◇◇ お ま け ◇◇◇◇◇

 

 

自分が桐ヶ谷の祖父母宅に一泊している間、母が父の勤務先を訪ねた事を知った和真は目をまん丸くして驚きの声をあげた。

 

「えーっ、お母さん、お父さんのケンキュージョに行ったの?、ずるいっ、僕、前から行きたいって言ってたのにっ」

「えっと……ごめんね、和真くん。でもお父さんにお弁当を渡すだけだったから入り口までしか行ってないよ」

「今度行く時は僕も行きたいっ」

 

期待を込めて強請ってくる息子の目の前に和人は真面目な顔で近づいた。

 

「和真、お母さんはもう二度と研究所には来ないから」

「どうして?」

「どうしてもだ」

「うん、そうだよ和真くん。お母さん、これからはちゃんとお弁当作るし」

 

そこで少し俯いて何かを考えた和真は純真な瞳を母に向け、素直な疑問を口にした。

 

「お母さん、どうしていつもみたいに、朝、お弁当をお父さんに渡さなかったの?」

「えっ?、あ……あのね、ちょっとお寝坊さんして作るの間に合わなかったの」

「どうしてお寝坊さんしたの?」

「ふぇっっ?……うーっんと、えーっと……」

「お腹痛かった?……お母さん、病気?」

「ちっ、違うよ、元気だから大丈夫…………そうだね、病気じゃなくて、ちょっと疲れちゃってたのかな?」

「どうして疲れちゃったの?」

「ええーっ!」

「ねぇ、どうして?」

 

何を言ってもその先を聞きたがるのはこの年頃特有のものなのだろうが、深く原因を追及してくる好奇心に明日奈は困り切って眉尻を落とす。すると母親にそんな表情をさせてしまった事に何かを感じたのか和真はいきなり矛先を父親へと変えてきた。

 

「ねえ、お父さん、お母さんが疲れちゃったのはどうして?」

「…………」

「お父さん、お母さんの事なのに、知らないの?」

 

自分の父は母の全てを把握しているのだと信じきっていた瞳がわずかに陰る。少しの疑いさえ屈辱と感じた和人が少々ムキになって「知ってる」とボソリ落とせば、途端に和真のどうして攻撃が再開された。いい加減耐えきれなくなった和人がうんざりした顔で内緒話をするように和真と鼻が触れそうな位置まで近づく。

 

「知ってるけどお前には教えない」

「えー……」

 

母の事で父が知っていて自分が知らないのは我慢ができないのか、普段は聞き分けの良い和真が思いっきり不機嫌になる。しかし一拍おいてから眉を跳ね上げて今度は訝しげな半眼で父を睨み付けた。

 

「もしかして、お父さんが原因?」

「う゛っ……」

 

いきなりの核心を突いた問いに和人は上半身を引いて言葉を詰まらせた。その反応に手応えを感じたらしい和真はずずいっ、と逆に自分から父へと詰め寄る。

 

「お母さんに何したの」

「……」

「何したのっ、お父さんっ」

「……」

「お母さんにひどい事したんだっ」

「……」

「お祖父ちゃん達やお祖母ちゃん達や直葉ちゃんに言いつけてやるっ。お父さんがお母さんにお寝坊しちゃうほどひどい事したって」

「ちょっと待て和真。その言い方は色々とマズイ……」

「だったら僕も今度連れてってね、ケンキュージョ」

 

途端にご機嫌になった和真は振り返って明日奈に抱きついた。

 

「お母さんっ、お父さんが僕もケンキュージョに連れて行ってくれるって」

「うん……よ、よかったね、和真くん……」

 

自分と同じ位母の事が大好きな父がひどい事をするなど端から思ってもいなかった和真は研究所行きの約束を取り付けて満足そうに明日奈の腕の中で微笑んだのだった。




お読みいただき、有り難うございました。
蛇足ですが、松浦女史は性的にアブノーマルな人なのではなく、人間的に
アブノーマルな人です(苦笑)
いえ、大なり小なりここの研究スタッフは全員アブノーな気がしますね。
個人的にはアブノーなキャラは魅力的で大好きです(笑)
〈おまけ〉では、これまでの作品の中で一番幼少期の和真くん。
中高生の時は「父さん・母さん」呼びですが、この頃は「お父さん・お母さん」です。
そして二人の遺伝子継いでますからね、当然、頭は回るでしょう(笑)
次回は帰還者学校の頃のお話となります。

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