ソードアート・オンライン《かさなる手、つながる想い》 作:ほしな まつり
なる意識で書きました。
『第三回BoB』の直後という時間設定です。
キリアス至上主義としては「アスナを置いて、シノンに粉、かけすぎ!」の思い半分、
この後、突入する『アリシゼーション』へのエール半分でしょうか。
ともあれ、結局キリアスなんですけどね。
二〇二五年十二月……一部の関係者の間では後に『死銃事件』と称される事となる……
あたかも仮想世界のアバターにより現実世界のプレイヤーが殺害されたかのような巧妙に
仕組まれた殺人事件。
その事件解決に、まさに仮想と現実の両世界で奔走した桐ヶ谷和人が最後の事件現場となった
文京区のアパートから病院に運ばれ、検査を受けたあと、病室で警察官に事件の経緯を証言し、
やっとのことで解放された後に、迎えに来た母親と共に帰宅して自宅の部屋のベッドに身体を
投げ出した時はとうに日付が変わっていた。
警察官との事情聴取で、今回の総務省のお役人からのバイトを告げる事は回避した方が
懸命と判断し、単にネットゲーム内で知り合ったシノンこと「朝田詩乃」のアパートに遊びに
行った際、事件に遭遇した、という態を貫いたが……無理くりな部分はそれこそ総務省が
上からか、横からか、何とかしてくれるだろう……それぐらいは可能なはず、と全面的に
信用はしていないメガネの役人を思い浮かべ、確信する。
そのメガネに渡さなければいけない報告書の作成もあるが……今は無理だ
今夜シノンは病院に一泊するので、改めて明日会いにいったほうがいいだろうか、と思い、
次に自分が帰宅した時の直葉の泣き顔を思い出す。
和人の顔を見るなり、力が抜けたように玄関でペタンと座り込んで泣きだした妹に、
和人は玄関の上がり口に座り、彼女が泣き止むまで頭をなで続けた。
少なくとも、もう一人、泣かせたな……
第三回BoBの優勝が決まると同時に《GGO》からログアウトした和人は、覚醒した途端、
口に突っ込まれたスポーツドリンクを一本飲みきる間に【Sterben】の正しい読み方と
意味を聞き、ベットボトルを空にするのと同時に服をつかみ、病室を飛び出していた。
結局、会話らしい会話もせずに置いてきてしまった……
あの死闘の最中、現実世界でずっと和人の手を握り続けてくれた最愛の人を。
現実世界に意識が戻り、アミュスフィァを外した瞬間、そこにいるはずのない彼女が
自分の顔をのぞき込んでいたのだ。
その時の彼女の顔を思い浮かべる。
少なくとも、瞳に涙はなかったが……。
早々に再コンバートして彼女にメッセージを送らなければ……だけど今は無理だ
身体もクタクタだったし、神経もすり減っていた。
何より、考えが全くまとまらない。
次から次へと今日の出来事が頭の中を浮かんでは沈んでいく。
そのどれかを選んで、つかみ取り、吟味しようとする気勢も湧いてこないのを
いいことに、記憶は和人の意志を無視して無作為にシーンを再現する。
ベッドに横たわった途端、眠りに落ちると思っていたが、目は瞑ってみるものの
一向に夢の世界へは誘われない。
「はぁーっ」
大きなため息をひとつついて、おもむろに瞳を開き、天井を見つめた。
いまだ神経が高ぶっているのだろうか?
しかし頭が冴えているわけでもない。
何かを強く思って頭から離れない、という感覚でもない。
どちらかと言えば、全身には鉛のような疲労感が満ちていたし、頭はモヤがかかって
いるようにぼんやりとしている。
強いて言えば「落ち着かない」が当てはまる心理状態だった。
原因について考える気力も枯渇したまま、ただ、ただ、落ち着かない状態でベッドに
しばらく横になっていたが、一向に変わらぬ現状にしびれを切らして、数時間前まで
病室で装着していた物と同型の、だが自分のアミュスフィアに手を伸ばした。
「リンク・スタート」
自室のベッドが落ち着かないなら、それと同じか、それ以上に落ち着くであろう場所……
と考えて思い浮かんだ場所はひとつだけだった。
再コンバートを果たし《ALO》の《イグドラシル・シティ》に共同で借りている最上階の
プレイヤーホームにたどり着く。
現実世界よりはるかに身軽なはずの妖精アバターとなっても、足取りは重いまま、
家主しか入室できないリビングの奥の続き部屋へと足を運んだ。
結局、こっちに来ても、この気持ちに変わりはないな
再コンバートした途端に心が軽くなり気分が晴れる、と期待していたわけでもなかったが、
少なくとも《GGO》のアバターよりはこの胸の揺動が落ち着くと思っていたのだ。
俯いたままゆっくりと引きずるような足運びで目的の部屋へと近づく。
長めの黒髪が視界に入ってこない違和感に気づき、軽く苦笑をしたが、それもすぐに疲労感に
追いやられ顔から消えた。とにかく今は何も考えられなかった。
シャッ、と静かにドアがスライドした途端、微かだが鼻腔に届いた香りに存在するはずの
ない心臓が大きくひとつ鼓動を打つ、と同時に下を向いていた顔が素早く跳ね上がった。
「あっ」
どちらが発した声かもわからないくらい小さく、それでいて全くの同時。
ドアの向こう、寝室の中にはキリトより先客がいつもより軽装のシンプルな
アイボリーのチェニック姿でベッドの片隅に腰を掛けていた。
ドアのスライド音に反応して振り返ったのだろう、アトランティコブルーの
ロングヘアがサラサラと音を立てるように肩から背中へと流れていく。
一瞬驚いた表情を見せたが、すぐさま右手はその瞳からこぼれる涙を散らすように顔を
こすり、同時に左手は人差し指と中指を揃え、上から下へ、スッと空を切った。
「待っ!」
考えるより先に体が反応していた。
この寝室に入れる、もう一人の家主……水妖精アバターのアスナがウインドウを操作して、
今まさにログアウトしようとしていると直感し、キリトはそれまでの緩慢な動きからは
想像できないくらい俊敏に彼女の手の動きを阻もうと腕を伸ばした。
ほんの少しその細い手首に指が触れた瞬間、アスナの薄い唇から鋭い言葉が吐き出される。
「イヤッ」
同時にキリトの手をアスナの左手が払った。
あっ!
えっ?
またもや同時に同じ表情の二人。
振り払った左手に右手を添えてそのまま口を覆うアスナの瞳にも、振り払われた瞬間を
切り取ったように固まってしまったキリトの瞳にも驚愕の色が浮かんでいた。
アスナ自身さえ予期しなかった咄嗟の行動だったのだろう。
だが、その思慮の介入しない瞬時の動きが、逆に今のアスナの気持ちを正直に表していると
いえる。その事実に本人も気づいたのか、目を瞠っていた。
すぐさま表情は罪悪感と謝意に満ちたものへと変化したが、実際に言葉を口にすることはなく、
口元を抑えたまま、双瞳から再びポロポロと涙が湧きこぼれてくる。
一方、伸ばした手を拒絶されたキリトに至っては、動作はもちろん、思考も感情も完全に
機能を停止していた。
記憶している限り、《SAO》で知り合って以来、アスナに差しだした手を
振り払われた事など一度もないのだ。
それでも、目の前の彼女のはしばみ色の瞳からとめどなく溢れ落ちる涙を自分の視界に
捉えているうちに、抑えきれない感情が本能的に膨らみ始める。
抱きしめたい……
目の前で最愛の人が涙を流しているというのに、触れることさえ許されない。
しかし、再び手を伸ばすには先のアスナの反応に打ちのめされた心のままでは、勇気が
足りなかった。
それでも彼女から目をそらすことが出来ない。
アスナもまた止まることない涙をそのままに、キリトから視線をはずせずにいた。
「……アスナ」
ようやく名を口にする。
彼女の肩がピクッと震えた。
「……頼むから……もう少し、少しでいいから……ここにいてくれ……」
返答はなかったが、言葉を続ける。
「……オレも……座って、いいか?」
またもアスナからのリアクションはない……が、拒絶もされないので、ゆっくりと
刺激しないよう近づき、少し距離をあけてベッドに腰を下ろした。
お互い見つめ合いながらも、気まずい空気が流れる。
このままではアスナを引き留めておける時間が切れてしまうのではないかと焦り、
キリトはおずおずと口を開いた。
「……ゴメン」
先ほどまでのぼんやりとした感覚はなくなっていたが、さりとて頭がフル回転を
してくれるわけでもなく、今思うままの言葉をひとつだけアスナに向ける。
キリトの言葉を耳にしたアスナは両手を膝の上に下ろし、チェニックのスカートを
ギュッと握り締め、顔を背けるように俯いて抑揚の無い声を絞り出した。
「……ゴメンって……なに?」
サラリと髪が両脇に垂れアスナの表情を隠す。
改めて問われると、何に対しての「ゴメン」なのか、今回は思い当たる事が多すぎて、
やはり考えはまとまらない。
待っても問いに対する返答を得られないと判断したのか、アスナが独り言のように
繰り出した。
「……私、言ったのに……私だけ安全な場所で待ってて、もし、それでキリトくんが
帰ってこなかったら自殺するよ、って……そんなの守ってくれてるって……言わない……」
「……うん」
「今回のこと、キミが全部を話してくれてないってわかってた。でも……それでも
信じて待つって……決めて……」
「うん」
「……なのに……なのに、あんな戦い方して……私、《現実》でベッドに横たわって、
苦しそうにしているキリトくんの手を握ることしか出来なくて……」
「……でも……そのお陰で、オレは強くいれた」
「……それに……毒液注射まで……」
「アスナ……なんで、その事……」
今まで静かにアスナの言葉を受けていたキリトが目をしばたたかせた。
シノンのアパートであわや毒の薬液注射を打たれかかった事は、警察官には供述したが、
実際の被害にはあっていないし、家族に心配をかけたくないという理由で口外はしないで
もらえるよう念を押してきたはずなのだ。
アスナは自分で口にした事実を想像したのだろうか、今まで以上に肩をふるわせて
いる。
ああ……やっぱり……泣かせた
不本意にも当たってしまった予想に、先の驚きにやるせない気持ちが混じった。
「……キリトくん、病院を飛び出したきりだったから……菊岡さんに連絡して……」
ヤツか……そこまでは気が回らなかったな
己の詰めの甘さを痛感しつつ、頭のどこかで「アスナが一緒だったら、そんな不手際も
なかったろうに」と矛盾した考えが浮かび、自嘲気味の笑みを浮かべる。
「……ゴメン」
やはり他の言葉は見つからなかった。
今度はアスナも追求する気はないのだろう。
いや、キリトの言葉すら届いていなかったのかもしれない。
震える肩が時折、痙攣をするようにビクつき、声にも嗚咽が混じり始める。
「……キリトくんが……も、戻って……こなかったら……どっ、どうしようって……」
スカートを握り締めていた両手に更に力が籠もり、爪が肌に食い込みそうだった。
たとえ食い込んだとしてもアバターの体は傷も痕もつかないのだが、その姿を目の前にして
キリトはいてもたってもいられなくなり、不自然に空けた距離を一気に詰めた。
そこまでは動けたが……
いまだ顔を隠しているアスナがどういう表情をしているのか、反応がわからないせいで
それ以上は踏み出せない。
しかし微かに震えながらも強く握られたアスナの拳から視線を離すことはできなかった。
その手に引きつけられるように片手を伸ばし恐る恐る自分の手をかぶせる。
最初はそっと包み込むように
段々とその手の丸みをしぼませていく
そしてすっかりアスナの手に隙間なく自分のそれを密着させると
それからゆっくりとさすり始めた。
少しずつアスナに触れる段階で、自分自身に「大丈夫だ」と言い聞かせながら。
一方、アスナはキリトに片手をさすられ、未だ嗚咽は止まらないものの、その両の手は次第に
力が抜け始め、白い指が緩やかな放射線状に解放されていく。
その動きに合わせるように、広げられたキリトの手を見つめていると、重なっている
片方にだけ、自分の涙が彼の手の甲にこぼれ落ち、光となって消散していく様が
潤んだ視界に映った。
キリトは重ねた指を少しずらして、アスナのそれぞれの指間に自分の指を半ば強引に入れ込み、
指を曲げて、手の甲を包み込んでくる。
再び力を込めてその進入を阻止しようとする間もなく、アスナの手は上からキリトの手に
絡め取られてしまった。これではもう振り払うことは出来ないだろう。
愛娘のユイと共に想いを伝えようと握っていたその手に、今度は彼の手から想いが伝わって
くるようだった。
「……ホントは……もう二度と、あんな事……して欲しくないの」
俯いたまま、アスナが再び気持ちを告げる。
「でも……きっと……また同じような状況になったら、キリトくんは同じように飛び込んで
いく……私には『大丈夫だから、すぐ戻ってくるよ』って言って」
「……アスナ」
確かに彼女の言う通りなのかもしれない。
今回の件にしても、アスナがいたら……、と想像する事はあっても、彼女も一緒だったら……、
そもそもこの依頼を引き受けなければ……、といった後悔はなかったのだ。
やはり自分のわがままとわかっていても、少しでも命の危険がある場所に彼女を伴うことは
どうしても出来ない。
「そして、キミが、私の為に……全てを明かさずに行ってしまう後ろ姿を、私も見送るしか
ないんだよ……」
アスナがゆっくりと顔をあげ、はらはらと流れる涙をぬぐおうともせず、キリトに悲しげな
微笑みを向けた。
「お互いの事がわかりすぎてツライなんて、あるんだね」
思わず自分の手中にあるアスナのか細い手をギュッと握ったが、彼女が握り返してくることは
なかった。
「そんなことない」と言ってしまいたかったが、それが薄っぺらいその場限りの感傷からでた
言葉であることを、聡い彼女はすぐ見抜いてしまうだろう。
なら、これからは全てを彼女に打ち明けた上で、それでも黙って自分を待っていてくれ、
とでも言うのか?
あまりにも身勝手で自己中心的な発想に自分で嫌気がさし、彼女の顔を直視出来なくなった
キリトが、視線をそらしたのと同時に、アスナは左手の二本の指を揃え、再び宙にあげた。
「……変な事言ってごめんなさい……もう遅いから、私……」
最後まで言い終わらないうちに、キリトがハッと視線を戻す。
いくら強く握っていても、彼女がログアウトしてしまえば、この手からぬくもりは
消えてしまう。
握っていた片方の手を追いすがるように両手で包み、己の胸へと引き寄せ、全身を使って
包み込んだ。そして祈るような体勢のまま彼女の名前を口にする。
「アスナ……」
片手を引き寄せられた反動で、ウインドウは表示されなかったようだが、アスナはキリトを
見ようとはしなかった。
「ゴメン、多分……アスナの言う通りだ」
「……謝らないで……そういうキリトくんだから、みんな惹かれるんだよ……でも今は」
「それでもっ」
アスナが言葉を続ける前に、キリトの声が貫く。
「……それでも……それでも、オレは自分からこの手を放すことは出来ない……
まして……この手を誰かに譲るなんて……他のヤツがこの手を握っていたら、そうしたら、
きっと、もう、オレは壊れて、オレじゃなくなる……」
いつの間にか、キリトの瞳からも一筋の涙がこぼれ落ちていた。
大事な、大事な、手の中のぬくもりを確かめるように、そっと指に口づけをする。
「あっ……」
今までせつなげに歪んでいたアスナの面差しに、ほんのわずかな紅が差した。
「……ずるいよ……」
「……ゴメン」
何度目の「ゴメン」だろうか。
それでもキリトは顔を上げ、アスナを正面から見つめる。
「でも、この手だけは誰にも渡せないし、諦める気もない……」
黒曜石のような瞳に強い光が宿っていた。
「ちゃんと帰ってくるから……アスナの傍に帰ってくる」
そう言って握っている手の指先の一本ずつにキスをし、軽く舌でなでる。
「んんっ」
「帰ってきて……それから、アスナに言うよ『ゴメン』って」
「……ずるい」
「何回でも、許してもらえるまで謝る」
「それでも……許してあげなかったら?」
「許してくれるまで、こうやって、一晩中でも、手を握って……」
キリトの片方の手がスッと伸び、アスナの頬に添えられた。
「頬をさすって……」
キリトが顔を近づけ、頬に添えた手をひきよせ、アスナの桜色の唇に自分のそれを重ねる。
「キスをして……ゴメンって」
いつの間にか止まっていた涙が再びアスナの瞳に溢れてくる。
「またアスナを泣かせるかもしれないけど……ちゃんと抱きしめて、その涙が
止まるまで傍で謝るから……だから…………離れていかないでくれ」
ふわり、とアスナの体をキリトが包んだ。
緩く、優しく、両腕を回し、泣きじゃくるアスナの背中を何度も何度も撫でてくる。
「……そっ、そんなの、ずるい……」
「うん……ゴメン」
「キリトくんは……私を置いて……行っちゃうくせに……私には……離れるなって……」
「ゴメン……でも、オレだって離れてても、アスナを感じてるよ……実際、今回だって
《現実世界》からアスナはバックアップしてくれた」
背中に沿わせたのと反対の手で前髪を撫で上げて、おでこにキスをする。
次に瞼にも唇を落とすと、まつ毛の下に溜まっている大粒の涙を舐めとった。
それでも嗚咽混じりの言葉は止まらない。
「……菊岡さんから……注射の事……身体に別状はなかったって……聞いて……」
「ああ、大丈夫だよ」
「……それでも……それって……たまたまだったんでしょう?」
「うっ……」
確かに、その認識は間違いではないだろう。
取り忘れた心電モニターの装置の電極と、運良くそこに注射針が当たったお陰で、
今、こうしていられるのだから。
「部屋に……一人でいると……無事だったんだって……わかって……いるのに……
涙が……止まらなくて……」
キリトはたまらずにアスナの後頭部に手を添え、自分の肩にそっと押し当て、
そのまま細い純絹のような髪の毛をゆっくりと梳いた。
「……ゴメン…………それで《こっち》にダイブしたのか?」
肩口に顔を埋めていたアスナが頷く。
「……全然……眠れないの……」
くぐもった声が聞こえる。
キリトは小さく微笑むと、肩に乗っているアスナの頭に頬をすり寄せた。
「……オレもなんだ。ひどく疲れているはずなのに……全然落ち着かなくて……
でも、今、こうしてると、すごく安心する……」
瞳を閉じて、勿忘草色の髪に顔をうずめて香りを嗅ぐと、部屋で感じていた
ザワザワとした胸の揺動が跡形もなく消え去っていく。
腕の中のアスナがモゾモゾと動いたかと思うと、先ほど振り払ってしまった負い目を
感じているのか、遠慮がちに両手をキリトの背中へと回してきた。
程よく密着し、触れ合う感覚に、アスナが「はふぅっ」と感嘆の声を漏らす。
「……私も……安心する……」
「涙……止まった?」
再び無言で俯く彼女。
「……もっと、抱きしめていい?」
「……うん」
返事が耳に届くのとほぼ同時にキリトは彼女を包む全身に力を込めた。
「ん……ふっ」
微かな吐息が耳をかすめる。
記憶に染み込んでいるアスナの香りを久々に吸い込み、頭がぼうっ、とした。
五感の全てで彼女を堪能したくてたまらなくなる。
いつぶりだろうか、こんなに安らぎを感じたのは。
まどろみに似た気分を味わっていると、腕の中のアスナが何かを思い出したように
「あっ」と呟き、顔をあげた。
「ん?」
問うように彼女の顔をのぞき込むと、アスナは至近距離でキリトを見る瞳に再び
うっすらと涙を溜め、眉尻を下げている。
「なっ、何?!、どうしたんだよ、アスナ」
今までの話以外で泣かせるようなことをしただろうか、と慌てて再び記憶の高速リバースを
始めるが該当事項が見当たらない間に、アスナの口からためらいがちに声が漏れる。
「……BoBの最中も……こんな風に……洞窟で……その……」
BoBの最中に?
洞窟で?
…………あーっ!!…………やっぱりバッチリ中継されてたか……
「ちっ、違うよ、アレはそういうんじゃなくて、誤解だって……本当に誤解で……」
何をどこから、どう説明したらいいのか、完全にパニックに陥り、とにかく「違うんだ」
「誤解だ」をほぼ交互に口にしていた。
その様子に、涙をたたえながらもアスナが「クスリ」と微笑む。
「ア……アスナ?」
「リズがね……後でキッチリ説明してもらわなくっちゃ、って」
「う゛っ」
リズのことだ、誤解でも何でもとにかく理由をつけて何かをおごらせる気なのだろう。
おごりで誤魔化していると思われないよう、真実をきっちり説明できるようにして
おかなければならない。
報告書の作成以外にも、色々と事後処理が多くなりそうだと感じたキリトは、宙を見つめ
小さくため息をついた。
シノンのこともあるしな……
「キリトくん?」
「ああ、ゴメン」
「……事情があるんだって思ってるけど……やっぱり……あの……」
「そうだよな……ちゃんと理由がわかってても、もしアスナが他のヤツと……なんて、
オレだって、考えただけでも…………」
一瞬、キリトの表情が嫉妬と憤怒、悲哀を帯びたが、すぐに首をブンブンと勢いよく振って
それを吹き飛ばした。
「絶対無理…………だから、ホント、ゴメン」
「うん……」
ぽふんっ、とキリトの頭がアスナの肩に落ちた。
想像だけで、かなりのショックを受けたのだろう。
しばらく二人とも寄り添い会い、時間の流れるままに互いの温もりを感じていたが、
おもむろにキリトの背中に回っていたアスナの片手がゆっくりと滑るように動き、
自分の肩にある髪の毛に触れた。
現実の和人より幾分短いが、その色はあの城に捕らわれていた時から、いつも心のどこかで
追っていた懐かしい漆黒と変わらない。
「今回の戦いで……あの討伐のこと……思い出しちゃった?」
キリトに反応はなかったが、アスナの肩には何かが伝わったのだろう。
アスナはもう片方の手もキリトの髪にあて、優しく、優しく撫でていく。
「クラインさんがね、《こっち》で中継を観てる時、気づいたの」
何度も何度も髪を梳くアスナの細い指の感触が、キリトがあの戦いを思い出す度に
感じる胸の痛みを麻痺させていくようだった。
「……辛かったね」
それはあの時の戦いを言っているのか、はたまた今回のことを言っているのか。
アスナの肩に頭を預けたまま、キリトから小さく掠れた声が吐き出された。
「アスナにも……クラインにも、思い出させた……ゴメン」
かの討伐では『血盟騎士団』からも犠牲者がでたはずだった。
責任感の強いアスナのことだ、今も抱えているものがあるだろう。
忘れてはいけない記憶だが、不用意に思い出せさてよい記憶でもなかった。
「キリトくんのせいじゃないよ」
アスナは変わらずキリトの髪に指を滑らせる。
「頑張ったね……」
アスナの言葉がキリトを包み込んでいく。
頑張れたのは《仮想世界》と《現実世界》の両方からバックアップがあったお陰と
思っているが、今はその言葉に甘えたかった。
「頑張ってくれた……討伐の時も……ありがとう」
あの頃は素直に礼など言える自分ではなかったし、なにより討伐直後はそれどころでは
なかった。時間が経てば経つほどアノ討伐の事は口にしない暗黙のルールみたいなものが
出来上がり、アスナ自身も記憶の底に沈めてしまっていたのだ。
「言いたかったの、お礼……遅くなってゴメンね」
ゆっくりとキリトの頭が持ち上がり、アスナを見つめる瞳は動揺と驚きの色に満ちている。
あの戦いは誰にとっても後味の悪さしか残らなかったからだ。
そんな視線を受け止めながらも、アスナは微笑み続けた。
「今なら言えるよ……キリトくん、ありがとう」
共に戦ったアスナだからこそ口にすることを許される言葉だった。
「アスナ……」
キリトの指が迷うことなく伸びてアスナの桜色の唇をなぞる。
しっとりと潤いを蓄え、心地よい弾力が指先を伝わって脳までも刺激した。
浮遊城アインクラッドのアスナの部屋でその素肌に触れた時から、彼女のアバター生成だけは
通常よりメモリーが増設されているのでは、と疑いたくなるほどのなめらかさだ。
それでも現実の彼女の肌触には及ばないと知っているのはキリトだけなのだが……。
アスナはされるがままに、少し頬を紅潮させながらキリトの言葉を待った。
「この唇から紡がれる言葉は、オレにとって癒やしの魔法みたいだ」
唇の感触を味わった指がそのままおとがいをとらえ、クッと固定し、続いて己の唇でも
その弾力を貪る。
唇が離れると、アスナは恥じらいを混ぜて、小首をかしげ微笑んだ。
「だって、治療士(ヒーラー)だもの」
少し茶目っ気のある表情に胸の奥が温かくなるのを感じながら、キリトは再びアスナを
ギュッと抱きしめた。
「オレがあの城でも、他の世界でも『強い』と評されるなら、それは全てアスナ、キミが
いてくれるからだ」
「……私はキミを守れてる?」
「ああ、いつでも」
「繋がってるんだね……そうだ、ちょっと待って」
そう言うとアスナはキリトの抱擁を離れ、きちんとベッドに座り直し、左手の指二本を立て、
まるで音楽を奏で始めるように流れる所作でウインドウを出現させた。
その目の前の光景に三度キリトが取り乱す。
「っ!……アスナ?」
アスナは右手を口に当て「フフッ」と笑いながらも、ウインドウから目を離さず、操作する手も
止めなかった。
「大丈夫だよ」
最後にボタンをタッチすると、オブジェクト化された小さな物体がアスナの手の平に乗っている。
「コンバートする前、預かってたでしょ」
それはアスナの左手の薬指に輝いているのと同じデザインのリングだった。
キリトは《GGO》へコンバートするにあたり、手持ちのアイテムはエギルの店の
ストレージに預けていたのだが、このリングだけはどうしても他の物と一緒にすることが出来ず、
アスナに託していたのである。
《GGO》にコンバート中、何度、左手の薬指の付け根に触れたことだろう。
無意識にアスナとの繋がりを求めていたのかもしれない。
アスナがそっとキリトの左手をとった。
「この指輪がなくても、キリトくんとは繋がってるって信じてるけど……やっぱり同じ世界に
いる時は……」
気持ちはあの城で夫婦として過ごした時と何ら変わらない自信はあるが、それでもシルシが
欲しかった。
アスナはキリトの左手の薬指に指輪を装着させた後、先ほどのお返し、とばかりに指輪へ唇を
触れさせ、次にその指先に唇を押しつけると指だからわかる位の僅かな接触を舌先で試みる。
伝わるかどうかの感触だが、キリトが「つっ」と声にならない声をあげた。
アスナからの刺激が終わるやいなや、キリトは彼女の両肩に手を置いて困り顔をする。
「アスナ……」
アスナ自身も感情に流された行為だったのか、早くも自戒の念のこもった羞恥色を顔全体に
広げ、視線を落としていた。
「オレ……さっきも言ったけど、リアルの疲労感とこうしてアスナといられる安心感で、今、
結構、頭ボ〜としてて……その……」
キリトのゆるやかに困惑した表情の中に、ひとつだけ……瞳の色だけが深みを増してアスナを
捕らえている。
「抑えが……きかないんだけど……」
「えっ?」
アスナが顔を上げた瞬間に両肩を引き寄せられ、先ほどの自分の接触など比べものにならない
感触が口内にもたらされる。
そのままリミッターがはずれたように注ぎ込まれる激しい要求にどうすることも出来ず、
ギュッと強く瞳を閉じていると、キリトと繋がっている部分の感覚だけが研ぎ澄まされ、
自らも徐々に熱を帯びてくるのがわかった。
キリトは自分の求めにアスナが少しずつではあるが応じてくれるようになったのを感じると
一旦、唇を離し、問いかける。
「オレも、アスナにシルシ付けていい?」
「シルシって……んっ」
再びキリトの唇がアスナの問いかけを封じた。互いの吐息が何度も混じり合う。
そのまま乱れた湿音が首筋を下がっていくのを耳で感じながら、アスナは上がる息を
整えようとしつつ再び問いかけた。
「はぁっ……は……んんっ、キリトく……ん、シルシって……」
アスナが着ているチェニックは襟元が大きくあいて、ふちにはビーズがあしらわれていた。
そのビーズを手でもて遊びながら答えるキリトの息もまた上がっている。
「アスナには……オレがいるって……シルシ」
そう言ってアスナの鎖骨より少し上にひときわ強く、それこそシルシがつきそうなくらい唇を
押し当てた。
「あんっ」
「リアルだと、服に隠れるとこにしか付けられない……だろ」
「んくっ……だって……アバターには、そんなの……」
「付けても他の誰にも見えないんだから……いいよな、どこに付けても」
顔を上げたキリトがニヤリと笑った。
お読みいただき、有り難うござ産ました。
予告では「仮想空間で長めのシリアスです」と書きましたが、実はコレではなく、
かなり初期に書いた物を加筆・修正して投稿する予定でした。
ところが、いざ読み返してみると、なぜ初期にこんな大風呂敷を広げたのだろう?、と
唸るしかない状態で……悩んだあげく、すっぱり投稿を諦め、すっきりした次第です。
完全に内情ですが、「長め」とお伝えした事に、少々、良心の呵責があるので、続けて
番外編もお読み頂けたら、と思います。