ソードアート・オンライン《かさなる手、つながる想い》 作:ほしな まつり
かなり前の作品になりますが「たどり着いた約束(みらい)」と
「【番外編】ふたりの約束(みらい)」の半日〜一日後くらいのお話しです。
未読でも大丈夫です。
和人と明日奈が結婚式を終えた日の翌朝のお話です。
『あすな……
あすな……
なくなよ、あすな……こんどはちゃんと、おれがまもってやるから……な、あすな……』
「明日奈……明日奈……」
「う……んん……」
少し焦りを含んだ声に呼びかけられて徐々に意識が覚醒していく。
クイーンサイズのベッドの上で僅かに身じろぎながらゆっくりと長い睫毛を震わせると、ベッドサイドで腰に手を当て覗き込むように顔を近づけてくる和人の表情がはしばみ色にぼんやりと映った。
視界はあてにならなくとも、自分の名を呼ぶその声は間違えようもなく最愛の人のもので、けれどそこに含まれている僅かな不安を感じ取った明日奈はその理由がわからず、まだ完全には目覚めていない意識のもと、素直に眉根を寄せる。しかしその反応が更に困惑の量を増やしたのだろう、和人の声から甘さが完全に抜け落ちた。
「明日奈?」
気遣う声で再び名を呼ばれ、未だ、とろん、と溶けた瞳と意識のままで声の主の顔を見定めようすると、なぜか未だに視界がボヤけていて、あちこちに散らばる疑問に収拾がつかない。
「大丈夫か?、明日奈」
さっきから何度か名前を口にしているのに、一向にまともな返事をくれない最愛のパートナーは大きくて柔らかな枕に長い栗色の髪を散らばらせたまま柳眉を軽く歪めて少し難しい顔をしているが、自分の大好きなはしばみ色はぼんやりと綺麗なままこちらを見ているので、これは珍しくも寝ぼけているらしいと判断して、和人は彼女が横たわっているベッドの端に腰を下ろし、ゆっくりとその頭をなで始めた。
和人の手からもたらされる感触は既に馴染み深いと表現していいはずなのに、触れられる度にほんの少し跳ねる心臓と胸に広がる温かさは今も変わらず、その心地よさに思わず明日奈は再び瞼を閉じそうになる。気持ちは心配そうな様子の和人に何か声をかけなければ、と強く主張しているのだが、無情にも瞼はどんどんと重くなる一方だ。
そうして彼女の意志が敗北し、その視界が遮断されようとした瞬間……つつーっ、と頬を伝わる感触に自ら驚いて、同時に意識がまどろみをはじき飛ばし、はっと瞳を見開く。
えっ!?……涙?、と驚くと同時に流れ落ちた一滴はすぐさま明日奈の髪に触れていた和人の指がぬぐい上げた。
「……な……んで?」
自問のように口にした言葉を拾って和人が困ったように微笑む。
「いや、それはこっちのセリフ。シャワーを浴びて出てきたら明日奈の目に……だから心配になって起こしたんだけど」
見上げれば視界はようやく晴れて、視線の先の和人は濃紺のバスローブ姿で肩に白いタオルをかけていた。多分髪を拭いている途中で明日奈の涙に気づいたのだろう。かき上げられた真っ黒な前髪は水気を含んで後頭部へ撫でつけられているがベッドに横になっている明日奈を覗き込んだ拍子にパサリと数本が垂れ落ちている。
「か……和人くん、ここ……」
掠れて思うように声が出せない事に軽く戸惑いながらも頼りなげな眼差しを和人に向けた。
意識は完全に覚醒したが、記憶が繋がっていないせいで問うような視線で和人を見てから、おずおずと周囲を観察する。初めて見る壁の模様とそこに掛けられている絵画、記憶にないサイドテーブルとその先にある重厚感のあるカーテンももちろん覚えがない……やはり唯一安らげるのは和人の存在だけだ。
不安そうな瞳の意味を察して和人が口ごもった。
「あ……まあ、部屋に入って……その、すぐに……だったから、室内の様子は……覚えてないかもな……」
部屋に入って……すぐ?………………!!!!!…………その言葉がきっかけとなり記憶が一気に繋がった。
二人は自分達の披露宴の後、二次会、三次会と続き、最後まで残ってくれたリズ達と別れて予約してあった最上階のスイートルームの扉を開けた途端……明日奈は和人に抱き上げられて薄明かりのついていたリビングを通り抜け、薄暗い寝室へと一直線に運ばれたのだ。
確かに昼間、ホテルの中庭で彼からの接触を拒んだ時「続きは今夜」と言われたけど、あんな時間までみんなと騒いでいたし、朝だって早く起こされたって言ってたのに……と、自分の方は全く気持ちの準備が整っていなかった段階での和人からの有無を言わさぬ熱い求めに改めて驚きを感じていたが、そこにちゃんと喜びも存在して、ようやく緊張が解け口元が緩む。しかし続いてそれからの記憶が蘇り、声が枯れている原因を思い出した途端にぼわっと火がでそうな勢いで顔を朱に染めると身体に巻き付いていたシーツを口元まで引っ張り上げた。
その様子を照れた様子で頬をポリポリと掻きながら眺めていた和人だったが、おもむろにその指を明日奈の顔へと伸ばし、シーツの端に引っかけて、くいっと下げる。隠されていた彼女の桜色の唇が現れた途端、もう片方の手をベッドに着いて体重をかけぬ姿勢で彼女に覆い被さりながら自らの唇で軽く触れた後、上体を起こし柔らかな笑みを落とした。
「おはよう、明日奈」
「……おはよう、和人くん。今……何時?」
「まだ早いよ、七時前だ。でも……湯船、浸かりたいだろ。今、バスタブにお湯はってるから……」
「ありがと……」
「……で、なんでドンドン隠れていくんだよ」
和人と会話をしつつも、明日奈は再びシーツを引き上げ、既に目元近くまでを覆っている。
「だって……恥ずかしい……って言うか……」
「何が?」
確かに今の明日奈が身に纏っているのはシーツ一枚だけだが、そんなことは今までに何度も経験した状況だ。明日奈が口にした言葉の意味を理解できず和人が首を傾げれば、はしばみ色を縁取る朱がより一層鮮やかさを増す。
「《こっちの世界》で……和人くんの奥さんになって……初めてだったし」
改めて彼女から言われると、和人にとっても特別な夜だったし、今、特別な朝を迎えている自覚が芽生えてくる。
「そうだな……やっと、また夫婦になれた」
こくん、と頷くだけで肯定の意を表した明日奈だったが、その眼差しは喜びに満ちていた。
「ストレージは共通じゃないけど……今度は……名字が共通だね」
桐ヶ谷明日奈……これから一生名のる名だ。
明日奈の父、彰三氏に彼女を「ください」と言った意味の重さが込められている気がして和人の所有欲を刺激する。
「そうだな……もう一度オレと結婚してくれて有り難う、明日奈」
「それなら私も同じ」
自らシーツを引き下げると、真っ直ぐに和人を見つめつつも眩しい笑顔が露わになった。
「私をまた和人くんの奥さんにしてくれて、有り難う」
たまらずに和人は重力に従って自然と頭を下げ再び明日奈の額に、瞼にとキスを贈る。最後に未だ僅かに見えるこぼれ落ちた涙の痕へと舌を這わせると、くすぐったそうに彼女が身をよじった。
そんな仕草に、ふっと笑ってから今度は両手を明日奈の顔の左右について完全に閉じ込めてから笑顔のまま少し意地の悪い口調になる。
「何か飲むか?」
確かに色々な意味で身体は水分を欲していたが、その一番の原因である和人に全く反省の色が見えず、むしろ含み笑いでどこか楽しんでいる風の様子に明日奈は顔を赤らめたまま唇を尖らせて上目遣いで和人を見上げた。
「そ、それくらい、自分で……」
「無理だろ」
即座に短く否定され、一体何を根拠に?、と不可解な気持ちのまま腕を持ち上げようとした時だ、それまでは和人の両腕に挟まれているせいで思うように動かせないと思っていた身体全体に力が入らない。
「あ……れ?」
「ほら、な」
予想通りと言いたげな台詞に当の明日奈が困惑していると、小さく「取ってくる」と言い残して和人は身体を起こし、ベッドから離れていく。すぐに戻って来るとミネラルウォーターと日本茶のペットボトルを一緒に持つ片手をあげ「どっちにする?」と問いかけてきた。
先程よりは幾分声が出しやすくなったものの喉のかすれは取れておらず、明日奈は素直に「お水」と要望を告げる。すると、サイドテーブルにペットボトルを置いた和人がまるで《仮想世界》から解放され、リハビリを受けていた頃の明日奈に触れるようにそっと優しく上体を起こしてくれた。
「有り難う」
巻き付けたシーツがずり落ちないよう気をつけながら渡されたペットボトルを受け取ると、その震える手が危なっかしいと思ったのか、すかさず和人が手を添える。既に蓋を開けた状態で渡されたミネラルウォーターを一口、ゆっくりと喉に流し込んだ明日奈は、ふぅっ、と軽く息を吐き出した。
その様子を見つめていた和人が眉尻を下げて、何を思い返したのかクスッと笑みを漏らす。
「シーツを握ったり、枕を抱え込んだり、最後にはあれだけオレに抱きついてたら握力もなくなるよな」
握力どころか全身の力が入らない今の状態が明日奈だけの責任とでも言いたげな口ぶりに羞恥よりも驚きと軽い怒りが上回って、はしばみ色を鋭く注ぐと途端に和人が自らの失言を認め頬がひくついた。
「いや、その……明日奈がそうなったのは……まあ、七割くらいはオレのせい……か……」
「……残りの三割は?」
「んー……あんなに乱れた姿を晒したのが一割、あんなに色づいた泣き顔を見せたのが一割、最後の一割はあんなに可愛い声で啼いたせいじゃないか?」
「なに、それっ」
今度こそ全身を恥ずかしさで茹で上げて、違う意味でペットボトルを握る両手を震わせている明日奈をニヤリ、と笑いながら眺めていた和人はしれっと「もっと飲んだ方がいいぞ」と水分補給を勧めてくる。
ほぼ一晩中、明日奈を組み敷いていた和人はシャワー後というせいもあってか、随分とさっぱりした様子で身体のだるさを微塵も感じさせず上機嫌だ。片や、部屋の内装すら眼に止める間もないほど性急に求められた明日奈の方はいつも以上に高ぶっていた和人の熱に戸惑いはしたものの、和人への恐怖ではなく自身の感覚の高まりに怯え、大粒の涙を振りまいては何度も和人にしがみつく事で耐えきれない快感を受け止め続けたせいで声は枯れ身体はすっかり力を失っていた。
ようやくペットボトルの半量ほどを体内に取り入れて人心地ついた明日奈が腕を降ろすと、自分も飲みかけのお茶をサイドテーブルに置いた和人が探るように顔を近づけてくる。
「で……どうしてオレの……奥さんは、オレがシャワーに行っている間に泣いてたんだ?」
再び自分の泣き顔に話題が戻ってきた明日奈はその質問に目を見開いてふるふると首を横に振った。
だが、その仕草を言いたくない、と受け取った和人は少しだけ眉をひそめ、彼女が背中を預けている枕に腕をつき耳元へ触れそうな距離まで唇を寄せて熱を込めた声で名を呼ぶ。
「明日奈」
「んぅっ……違うの。あまりちゃんと覚えてなくて……」
「覚えてない?」
こくり、とひとつ頷けば、その仕草があまりにも素直な為、一旦、距離を置いて話を促すような視線を和人が注ぐと、それに安心したのか明日奈は持っていたペットボトルを見つめながらポツポツと語り始めた。
「夢を見たの。私は小さい子供の姿で、それで誰かにいじめられて家の近くの、ほら、あの公園で泣いていたら、目の前に男の子がやってきて……それから私の頭をやさしく撫でて……今度はおれがまもってあげるからって……」
それを聞いて益々和人の眉間のしわが深くなったが、必死に夢を思い出そうとしている明日奈は気づかない。それから夢の続きをたぐり寄せようとしている彼女に和人は探るような声を漏らした。
「それって……ホントに夢なのか?」
「う……ん……そう聞かれると、なんだか昔、そんな事もあったような……きゃっ」
益々意識を内に向けて考え込んでいた明日奈の身体を包んでいるシーツごと、がばっと和人が抱きしめた。驚きで手にしていたペットボトルも揺れるが中身が飛び出すことはなく、それに安堵していると頬をぴたりと密着させて少し拗ねた和人の声が耳から侵入してくる。
「新婚初夜に……オレ以外の男の夢を見て、泣いてたんだ」
そう尋ねられて明日奈は言葉に詰まった。問われて正直に答えた自分に比は無いと思うが、確かに和人は面白くないだろう。その証拠にかなり棘を含んだ言い方だ。
それに、まるで夢に出てきた男の子に泣かされたとような言い方だが、覚えている限りでは、泣かされたのを慰めてもらっていた気がするし、随分と自分は幼い感じだったから、泣くこと自体珍しくはない年齢なのだろうが……今の明日奈にそれを指摘する勇気はなかった。
顔を見ずとも明らかに不機嫌なのがわかって、明日奈は触れている頬を慎重にすり寄せる。
「……ごめんなさい」
反応がない。
仕方なくそのまま頬をすりすりしていると、ぱらりと崩れた生乾きの髪の感触を直に感じる。
どうにか首を横に回し、彼の頬をかすめるように唇を動かして「ごめんね」と呟くと、ようやく和人が小さく息を吐いた。
「どんな……やつだった?」
やっと返ってきた言葉にまたもや意表を突かれる。詮索は続くらしい。ここは慎重に言葉を選ばなくてはならない、と明日奈は表情を引き締めた。
「うーん、私は幼稚園くらいだと思うけど、それよりは年上だった気がする。ちゃんと名前を呼んでくれたから知ってる人なのかも。でも下を向いて泣いてたから声しか聞こえてなかったし……それくらいかな」
「声に聞き覚えは?」
「そこまでちゃんと覚えてないよ」
「……そっか……」
しばらくの間、和人からの声は途切れ、次に何を言われるのかと内心びくびくしながら待ち構えていた明日奈だったが、ようやく気が済んだのかゆっくりと抱擁を解いてはしばみ色に映るべきは自分だと言いたげに視線を合わせてくる。
「それにしても……あれだけグズってたのに、まだ流す涙の水分があったんだな」
妙に感心したように言い放った内容が昨晩の房事でくちゃくちゃに泣き乱れた自分の事を言われたのだと理解した途端、明日奈は深く眉根を寄せつつつも頬を染めて「ばかっ」と一言、可愛らしく言い返したのだった。
明日奈から短いお叱りの言葉を受けてすぐ、浴槽の準備が整った電子音を聞き取った和人は問いかけることもせずシーツに包んで明日奈を抱き上げ、そのまま浴室まで運び込んだ。
抵抗と言えば彼女の唇から飛んでくる弱々しい抗議の言葉だけで、手足をばたつかせる体力もないらしく、結果、ほぼ無抵抗に近い状態でそのままシーツをはぎ取られ、バスローブを脱いだ和人に抱かれた体勢で二人密着したまま湯船に浸かる。
心地よい僅かな浮遊感と温まる身体、その力の入らない身体を安心して預けられる和人の存在に思わず、ふぅっ、と息を吐き出せば、そんな緩みきった表情さえ愛しげに見つめてくる漆黒の瞳に気づき明日奈の体温は更に上昇した。
しかし、ここまできてしまったら今更じたばたと恥ずかしがっても仕方ない、と切り替えてそのまま寄りかかるように和人の胸元へ頬を寄せると自分を支えてくれる和人の腕の囲いが心なしか狭まってくる。どうしたのだろう?、と純粋に疑問の色で見上げると和人は目を瞑って栗色の髪に鼻をうずめていた。
「……やばいかも」
「え?、なにが?」
「なんか、どんどん明日奈の匂いが強くなって……」
「ひぁっ」
それ以上、言葉での説明を省いた和人は再び明日奈の肌の味を堪能しながら、脳裏ではかつてほんの二週間ほど、自分の妻と名乗ってくれていた時の彼女の言葉を思い出していた。
『……わたし、もう、キリトくんの奥さんだもんね』
『……したいことして、いいんだよ……今はもう、キリトくんだけの、わたしなんだから』
うん、かなり昔に取った言質だけど無期限有効ってことで……と都合の良い解釈のもと、体力の尽きていた明日奈を気遣い緩慢な動きで時間をかけ十分に溶かしてからゆっくりと内部の温かさを満喫する。指先さえ震えていた状態の明日奈はしがみつく力さえ残っておらず、全てを和人に委ねたまま、時折、声と身体を跳ねかせて、ただその欲望だけを受け入れた。
そうして朝、目が覚めた段階で既に思うように動けずにいた妻を再度貪ればこうなる事は当然だったろう自分の腕の中で意識を飛ばしてしまった明日奈を満足げに抱き留めたまま、和人は湯船の中でふと、披露宴後に交わした浩一郎との会話を思い出していた。
「お疲れさま、桐ヶ谷くん……っと、今日からは『和人くん』と呼ぶべきか」
「じゃあオレは『お義兄さん』……と?」
「あーそれは遠慮するよ。俺の事は今まで通り名前で呼んでくれ」
「わかりました、なら、浩一郎さん、今日は有り難うございました」
既にレンタル衣装から私服に着替え終えた和人は自分より時間のかかっている明日奈をホテルのロビーで待つ間、携帯端末で二次会の場所を確認していたのだが、そこに明日奈の兄である浩一郎がやって来たのだ。披露宴の途中で明日奈から聞いた話では新婦の父である彰三氏は朝からかなりナーバスな精神状態に陥っており、時折心を乱しては今回の結婚披露宴の進行を妨げていたが、その度に息子である浩一郎がなだめすかし、恫喝し、何とか丸め込んで新婦の父としての役割を全うさせたとかで、その整った顔に浮かぶ疲労困憊ぶりは本日の主役であるはずの和人より著しい。
そんな意味も含めて頭を下げた和人だったが、その言葉を軽く手を上げて受け取った浩一郎はそのまま手首の腕時計に目をやって時間を確認した。
「これから二次会なんだろ?、時間、大丈夫なのかい?……明日奈はまだなのか?」
ぐるりと周囲を見回してみても妹の影すら拾えない事を気にする浩一郎に対し、和人は時間を気にする様子もみせずに苦笑いをこぼす。
「まあ、二次会に集まる連中は《あっちの世界》で知り合った人間がほとんどなんでオレ達がいなくても勝手に盛り上がるでしょうから」
暗に主役の二人が到着せずとも初めての団体オフ会よろしく先に楽しくやっているだろう事は容易に想像がついて、和人もそれほど焦ってはいない。なんなら自分達が居なくても成り立つのではないか?、とまで思っているくらいだが、ここですっぽかすなどパートナーである明日奈が承知するはずもなく、加えて後日二次会幹事達から何を言われるか分かったものではないので、とりあえず顔は出さないとまずいよな、程度の心持ちで会場として貸し切った店の場所をチェックしていたのだ。
そんなのんびりとした感じで明日奈の到着を待っている和人を見て、浩一郎は「君も相変わらずだね」とこちらも苦笑に転ずる。
「こっちはこれから本家の人間の接待だよ」
確かに今回の桐ヶ谷家と結城家の婚姻は京都の結城本家からしたら分家の勝手な行動と思われたらしく、加えて明日奈が出来るだけ本家の人間は招待したくない意向を示した為、結城家の親戚として出席した人数は多いとは言えなかった。それでもわざわざ京都から出向いてきた親類縁者をそのままにしておくわけにはいかず、これから浩一郎は場所を移動して彼らの相手をしなければならないらしい。
「今日ばかりはうちの両親をこき使うわけにはいかないだろ?」
続けて「父は特にね、あれじゃ本家の人間の前でも今日の式を思い出して泣き出しそうだし」と、あながち大げさとも言い切れない可能性に今日から義理の兄弟となった二人は揃って緩い笑顔となる。それから浩一郎は一歩分和人との距離を詰めると申し訳なさそうに眉尻を下げ、声の音量も下げた。
「それと、今日はその親戚達が失礼な真似をしてすまなかった」
「え?」
「式の間は君の存在を全く無視していたくせに、披露宴で勤め先を知った途端、手の平を返したように近寄っていっただろ?」
「ああ……まぁ、別に気にしてませんから」
披露宴のスピーチで和人の職場の名前を知った結城家の親戚達は和人との繋がりが自分達の利になると判断したのだろう、お色直しで二人が中座したタイミングを見計らい、明日奈より先に着替え、披露宴会場の外で時間を潰していた和人を見つけて出して積極的に話しかけてきたのだ。
「比較的温厚な人間を招待したつもりだったんだけどね。たまたま会場から出てきたうちの母とお色直しを済ませた明日奈が彼らに囲まれている君を見た途端、同時にこめかみを痙攣させた時はどうなる事かと……」
「はぁ…………あの時は有り難うございました」
両手を強くグーにして半眼の刺すような視線を新婦と新婦の母という二つの方向から向けられていた和人は、いの一番に駆け寄ってきてくれた浩一郎が素早く親戚達を引きはがしてくれた場面を思い出して、もう一度頭を下げる。
「いや、そもそもの原因はこっちだし。もし今後、明日奈を飛ばして和人君に直接アポを取ってくるような事があったら遠慮なく俺に連絡してくれ。君や明日奈に迷惑がかからないようこちらで対処するから」
眉尻を下げ、申し訳なさそうに揺れる瞳は今まで気づかなかったが、意外にも明日奈と似ていて、そんな色で見つめられるのが一番困るのだと和人は小さく笑いながら「わかりました」と了承した。
多分、そんな事が起これば結城の姓を離れた明日奈や、もとより他人の自分があれこれと応じるより分家筋とは言え結城の名を継ぐ浩一郎に任せた方がややこしくならずに済みそうだと、和人としてはごくシンプルな考えで受け入れたつもりだったが、本家の考え方ややり方を知っている浩一郎はそれでも懸念が残るのか少し視線を落としてから「特に明日奈が……」と呟くように妹の名を口にする。
「あいつは和人君の事となるとすぐに感情を高ぶらせるだろう?……ましてや自分の親戚筋のせいで君が迷惑をしていると知ったら、それこそ自分で何とかしようと考えそうだし」
浩一郎の言葉に少しの違和感が生まれて和人が返事をし損ねていると、その心中を察したのか浩一郎は顔を上げて少しせつない笑顔を浮かべた。
「昔はね、もっと表情の硬い子だったんだ。今みたいに感情をストレートに表現するようになったのは和人君のお陰だろうね」
それは自分のちょっとした悪戯やうっかり口を滑らせた言葉で彼女のお怒りをちょこちょこと引き出している事を言われているのだろうか?、と和人が考え込んでいるとそれさえも察知したかのように浩一郎が「今はよく笑うようになったって言いたいのさ」と言葉を足す。それから遠い日を思い出して昔語りを始めた。
「俺が小さかった頃は両親と共に過ごす時間も十分にあったんだ。けど明日奈が物心ついて今の家に引っ越したあたりから父の会社が軌道に乗り始めてね、同時に母の仕事も忙しさを増してきて、俺も学校があったから時々しか明日奈の相手をしてやれなかった。それでも家族の中では俺だけが毎日ちゃんと家に帰っていたから、何か困った事があると俺の部屋にやって来ては相談事を口にしていたよ。けれど段々と我慢と努力が当たり前みたいな子になってしまって……だから俺が居なくても息抜きに俺の部屋に入っていい、とは言っておいたんだ。多分、あの日もきっと気晴らしに部屋にあったナーヴギアを手に取ったんだろう……」
いくら明日奈が兄のせいではない、と言い重ねても浩一郎が首を縦に振ることはない事を和人は知っていたし、明日奈も既にその件に関しては口にしないのが一番だという結論に至っている。それでも未だに浩一郎の傷は塞がっていないのか苦悶の表情を浮かべたは彼は「俺が守ってやるって言ったのにな」と自らを責めるような言葉を口にした後、少し悔しそうな笑顔で「明日奈を守る役目はとっくに君のものだったね」と和人に告げてから口元を緩めた。
「幼い頃はね、気弱と言うか、結構泣き虫で。何かあるとすぐに泣きついてきて……そうそう、引っ越してすぐの頃、近所の公園で知らない男の子に泣かされてた事もあったな。学校帰りに偶然通りかかって、びっくりしたっけ。身内の俺が言うのも何だけど、明日奈は泣き顔もなんだか可愛くてさ、俺もつい笑いながら慰めたよ……」
当時の光景を思い出しているのか、すっかり純粋な笑顔になった浩一郎を見ながら、和人もまた明日奈の泣き顔を思い浮かべ同意の言を述べそうになるが、自分が見る場合の泣き顔は兄に対するそれとは違うと思い直し、笑顔で頷くだけに留める。そんな風に男二人で時間を過ごしていると「待たせてごめんね」と涼やかな声がその空気に入り込んできて、同時に振り返った和人と浩一郎はまさに一瞬でその場を華やかに彩る容貌と幸せに満ちた笑顔の持ち主の登場に目を細め、自分達の間に迎え入れたのだった。
ああ、そうか……と和人は明日奈が話していた夢物語に合点して、その寝顔を見つめた。明日奈が夢に見たのは多分、浩一郎が話してくれた幼い日の出来事だったのだろう。
となると、彼女に守ってやるから、と告げたのは……既に明日奈が泣き顔さえも可愛いことを知っていた実の兄だったわけだが、そうと分かっても胸中に潜む僅かな抵抗は拭えない。それでもこれからは彼女の泣き顔を見るのは自分だけだと決意のような優越感を抱いてそっと淡い朱頬に残る涙の痕に唇で触れると、その刺激ではしばみ色がゆっくりと顔を出した。
今度はすぐに焦点を合わせ、怒っているような、困っているような、それでいて恥ずかしさと嬉しさを同居させた複雑な思いで見つめられて、和人は全てを受け取ってから笑顔を返す。
これまで他者の思惑に振り回されて望まぬ状況を強いられても懸命に抗い続けてきた彼女だったが、せめてこれからは自分の隣で安心して思いっきり笑ったり泣いたりして欲しいと、言葉にするより直接唇を彼女に重ね、思いを捧げた。
拒む力が残ってないのか、と危惧していた触れ合いは隙間から滑り込ませた舌を彼女が迎え入れ、すぐに優しく深まる。じゃれ合うように何度も絡めては解しを繰り返して初夜の余韻を楽しんだところで徐に唇を離した和人が真っ直ぐにその漆黒の瞳で明日奈を見つめた。
『これからはオレが守るよ』
きっと口にすれば凜々しい彼女のことだ「私も君を守るね」と言ってくれるに違いないから、引き継がれた分の存在をわざわざ言いたくなくて心の中で誓うと、何かを感じ取ってくれた彼女がふわり、と表情を緩める。
「ありがとう、キリトくん」
何に対しての言葉なのか、疑問の欠片すら存在しなかった。久々に呼ばれたキャラクターネームに和人のこれまでの記憶も一気に押し寄せてくる。そうして和人もまた様々な思いを込めてしっかりと妻を抱きしめたのだった。
「ありがとう、アスナ」
お読みいただき、有り難うございました。
本文中のかなり昔の言質は特典小説からの引用です。
ここまでを「ひとつ」の約束(みらい)として考えていたので、
かなり時間が経ってしまいましたが、お届けする事が出来、とても
嬉しく思っております。
まぁ……当分、ホテルから帰れそうにないですけどね、この二人……(苦笑)
次回の内容は未定ということで(すみません)。