ソードアート・オンライン《かさなる手、つながる想い》   作:ほしな まつり

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キリトとアスナが帰還者学校に通うようになって
夏が過ぎ、秋が終わりを迎え、初冬の候のお話しです。
なので、まだアスナは京子さんと和解していません。


うるおい

けほっ、けほっ、と軽い咳を片方の手の平で抑えつつノックをしてから保健室のドアを開けると、小春日和に公園でひなたぼっこをしているような優しくほんわかとした暖気に迎えられ明日奈の眠気は一層膨らむ。

なんとか「失礼します」と声を出すと、後ろから自分の荷物を持って付いて来てくれた里香が「うわっ、石油ストーブっ」と驚きの声を上げた。

既に放課後の時間帯ではあるが窓際の机で仕事をしていた年配の女性養護教諭が顔を上げて少し得意気に唇と目で弧を描き「いいでしょー」と明日奈と里香に振り返る。しかし明日奈が再び「けほっ」と咳を落とすと表情を一転させて「あらあら、結城さん、大丈夫?」と歩み寄って来て「ちょっと失礼」と言いながらその額に手を当てた。

 

「うーん、熱はないかな」

 

その診断に小さく頷いてから明日奈は「少し咳が出る程度なんですけど、とにかく眠くて……」と保健室を訪れた理由を述べる。

 

「ここ数日でぐっ、と気温が下がったものね。風邪の引き始めってとこかしら?……少し寝ていっていいわよ」

 

三台ほど並んでいるベッドを個々に覆い隠しているカーテンの一つをあけながら「昼間もね」と保健医は話を続けた。

 

「結構体調を崩す生徒が来て…………ああ、シーツやカバー類はその都度交換しているから大丈夫。それに今は誰もいないから」

 

その気遣いに頭を下げた明日奈がそのままふらふらと倒れ込むようにベッドに腰を掛ける。それでもどうにかブレザーを脱ぎ、きちんと上履きを揃えている間、里香は物珍しそうに石油ストーブを眺めていた。

 

「先生、これ、どーしたの?」

 

その問いかけに明日奈を気遣いながらも視線のみを里香に移した保険医はこの学校の物置に眠っていたのを発見したのだと説明した。ストーブの天板に置かれているヤカンからはしゅーっ、と白い湯気が真っ直ぐに伸びている。

 

「エアコンだと乾燥するでしょう?、それにこっちの方が何だか暖かさも柔らかい気がするし……ちゃんと整備と点検はしてもらったから安全よ」

「今度、これで焼き芋作ってよー」

「はぁっ、今日だけで何人もの生徒からその台詞を聞かされたわ」

「だったら、これからもっと寒くなるでしょ。ヤカンじゃなくて鍋のせて甘酒とか作れば売れそう」

「売るんだ…………篠崎さん、商魂たくましいわねー」

 

くすくすと笑いながら明日奈がベッドに横になるのを待って静かに肩まで上掛けをかけてくれた保健医と入れ替わるようにここまで付き添ってきた里香がストーブから離れて用意されていた椅子に明日奈の荷物を置き、表情を一転させて申し訳なさ気に顔を近づけてきた。

 

「ごめんね、アスナ。週末、親戚が遊びに来るから」

「……うん」

「いとこの姉妹達だけ小学校が終わり次第、先にうちに来て今日から泊まっていくの……」

 

既に明日奈も知っている事情を律儀に繰り返す里香へ精一杯の微笑みを向ける。

 

「私なら大丈夫。少し休めばちゃんと一人で帰れるし。リズのお家、誰も居ないんでしょう?、いとこさん達が到着する前に帰らないと……けほっ」

「ほっんと、ごめんっ、アスナ」

 

ここまで一緒に来てもらっただけで十分だと優しい笑みを浮かべて「また来週ね」と伝えると、里香は晴れない表情のまま気まずそうに「うん」と返せば状況を察した保健医が明るく「ほらほら」と口を挟んできた。

 

「結城さんを休ませてあげましょ。後は私がいるから」

 

そう言って里香の背中を押しベッドから遠ざける。その二人の後ろ姿をぼんやりとした視界で見送りながら、明日奈はふぅっ、と息を吐いた。

兄は出張中だし、今夜も両親の帰宅は遅いはずだから家政婦の佐田の前でだけ普通にしていれば体調不良を気づかれる事はないだろう。

和人はネットワーク研究会の活動日なので元々一緒に帰る約束はしていない。今夜の《A.L.O》へのログインは無理そうだが、とにかく一晩で体調を持ち直さなければ明日の朝に顔を合わせるだろう母から何と言われるか、と明日奈は先の予想に気分を落ち込ませた。

体調管理には殊更気をつけていたつもりなのだが、そんな心がけなど意に介することない母は正面から鋭い言葉を投げてくるに違いない。きっと夜遅くまでVRで遊んでいるせいだと決めつけてくるのは容易に想像が出来た。

そう言えば今朝はなぜかいつもより肌もかさついて、唇も乾いていたような気がする。

それも体調を崩す前兆だったのかと思い至り、明日奈はそっ、と片手を動かして上掛けから出し、中指の腹で自分の唇を撫でた。

 

キリトくん、気づいてくれなかったなぁ……

 

今日は先日、里香と一緒に買い物に行った時に購入した新しい色つきリップを試してみたのだ。色つきと言ってもほんのり色がのる程度だから気づかなくても不思議はないのだが、和人の友人の佐々井は登校した昇降口で靴を履き替えた明日奈に廊下の向こうから自分の唇をちょんちょん、と突いて親指を立てウインクを送ってくれた。

あそこまでの目聡さは求めていないけれど、ちょっとでも違和感と言うか、何かいつもと違う部分がある事に気づいてくれるだけで嬉しいのに、と明日奈は目を閉じたままつらつらと考えながら、それでもそういう所が和人なのだと自分の中で納得させて再び、けふっ、けふっ、と小さく咳き込む。

意識を完全に手放してはいないものの、とりとめのない考えが頭の中で浮かんでは消え、浮かんでは消え、いつもなら気にもしない事がいくつも同時に浮遊している夢現の状態の明日奈は保健室を出て行く直前に里香が保健医にかけた言葉を聞き取ることはなかった。

 

「じゃあ先生、アスナの事、くれぐれもよろしくお願いしますっ」

「はい、はい、お任せください」

「あっ、それとアイツにはもう知らせてあるから」

「ああ、結城さんがちょっとでもケガをしたり体調崩すとすっ飛んでくる彼ね」

「そーそー、これで帰りは安心して任せられるってもんでしょ」

「篠崎さんも気をつけて帰るのよ」

「はーい」

 

 

 

 

 

パチパチと薪の爆ぜる音がリビングから聞こえてきて、そこに微かにキィッと揺り椅子の傾ぐ音が混じれば、それは明日奈にとって一番心が安らぐ我が家の音だ。料理の手を止めてキッチンからそっ、と顔を覗かせると赤々と燃える暖炉の炎は優しく部屋を暖め、その前で揺り椅子に身を沈めている少年は椅子の動きと同期して黒髪の頭をこっくり、こっくり、と揺らしつつも、自分の膝の上に身体を丸めているピクシー姿の愛娘を両手でしっかりと包んでいる。

そんな光景に思わず目を細め、溢れそうなくらい幸せな心持ちで胸の内を温めていると綻んだ口元にもほんわりと温かく湿ったぬくもりが覆いかぶさってきて、明日奈は一層満ち足りた気分で、んっ、と吐息を漏らした。

それに呼応するように、ちゅっ、とリップ音が聞こえた気がして、ゆるゆると意識を覚醒させると目の前にぼんやりと人の顔らしき輪郭を認識する。それが誰なのかを疑問に思う前に熱く低い声が明日奈の耳へじわり、と侵入してきた。

 

「アスナ……苦しいのか?」

「キ……リト……くん?」

 

揺り椅子でうたた寝をしていたはずじゃ……?、とほんの少し前まで自分が見ていた状況を振り返り、回らない頭で、ああ、あれは夢だったのね、とどうにか意識の一部を現実に引き戻した明日奈は少し息が上がったままの恋人の顔をふわふわと見上げた。

未だに頭も視界もぼんやりとしたままで、どうしてここに和人がいるのか、と一番先に浮かんだ素朴な疑問すら再び夢の中へ誘おうとする眠気に邪魔をされ、眉根を寄せて唇で小さく空気を食むのがやっとだ。

その仕草の意味をどう捉えたのか、和人は僅かに明日奈から視線を外し「えーっと……」と言いよどんだ後、決まりが悪そうな表情でぽそり、と言葉を落とす。

 

「しんどそうだったから……オレに移せば少しは楽になるかな、って……」

 

普段の明日奈だったなら和人が自分の表情を誤解しているのだと、すぐに気づいて修正の言葉を口にするのだろうが、いかんせん今の状態では彼が何を言っているのかさえ理解が追いつかず、当然疑問を投げかける気力などどこからも湧いてこない。とにかくすぐ傍に和人がいてくれる、それだけで夢の続きのような安心感に包まれ、加えて保健室全体を暖めているストーブの熱がどこかあの森の家の暖炉の暖かさにも似ていて、明日奈は長い睫毛をゆっくりと閉じた。

再び寝入ってしまった明日奈を見て、和人は困惑気味に「アスナ?」と口にしてみるが、今の彼女はその声に瞼さえ動かそうとしない。けれど自分が里香から連絡を受けて保健室に急行し、ベッドに駆け寄った時よりも幾らか和らいだ表情の彼女に安堵して呼吸を整える仕上げのように、ふぅっ、と大きく息を吐き出すと、すぐ背後でひょこり、と保健医がカーテンの端から顔を覗かせてきた。

 

「あら、君の顔を見て安心したのか、息づかいも随分落ち着いてきたわね。一眠りしたら帰宅できるでしょう。週末に身体を休めれば、これ以上悪くならずに回復するんじゃないかしら?」

「すみません、オレ、自分の荷物を取ってくるんで、その間、アスナをお願いできますか?」

 

ネットワーク研究会の活動中に里香からメールを受信した和人はその内容を読むなり周りにいたメンバーには何も告げず教室を飛び出してきたのだ。もちろん自分の鞄やコートも置きっ放しである。

まるで明日奈の伴侶のごとき言い方に苦笑を滲ませた保健医だったが、それでもこの二人ならばなぜか自然な気がして「急がなくていいわよ」と言葉を添えた。

 

「三十分くらい寝た方がすっきりすだろうし。その頃迎えにいらっしゃい。結城さんは一人で帰れるって言ってたけど、駅まで一緒に行ってあげるんでしょう?、もし早めに目が覚めるようなら引き留めておくから」

 

しかしその申し出に首を横に振る事で意を示した和人は、一瞬、明日奈の寝顔を見つめてから保健医に向き直った。

 

「いえ、すぐに戻って来ます…………アスナの目が覚めるのを待つのは……慣れてますから。それに駅までじゃなくて、ちゃんと家まで送りますし」

 

静かな口調とその微笑に保健医は目の前の生徒が本当に高校生なのか、と疑問を抱く自分の感情に驚き、目を瞠る。この帰還者学校には時折、年齢にそぐわない言動や表情を見せる生徒が何人かいるが、この桐ヶ谷和人もそこのベッドで眠り姫のように横たわっている結城明日奈も間違いなくその中のひとりだ。

もう一度、明日奈が深く眠っているのを確認した和人が静かに、それでいて足早に保健室から出て行く後ろ姿を保健医はかける言葉もなく、ただ見つめるしかなかった。

 

 

 

 

 

ネットワーク研究会が活動拠点としているパソコンルームに戻った和人は足を踏み入れた途端、室内にいたメンバー全員から注目の的となったが、ただ一人、佐々井だけは一瞬にして顔色を変え、大慌てで和人の元へと突進する勢いでやって来るなり、ガッ、と腕を取り部屋の隅まで強制的に引っ張り込む。

 

「なんだよっ、佐々」

 

普段から突拍子もない言動や行動が持ち味の友人だが、今は出来る限り早く明日奈の元へと戻りたい和人は苛立ちを込めて佐々井の腕を振り払った。しかしそんな和人の憤懣の声さえも呆れ顔で受け止めた佐々井は諭すように自らの人差し指で天をかき混ぜる。

 

「なんだよ、じゃないってカズ。お前があそこまで切羽詰まった顔になるのは姫がらみだって事くらいは想像がつくけどな……」

 

どうやら突然パソコンルームから飛び出して行った和人に対し、残されたメンバー達にとっておおよそ推測される原因はひとつしかないらしい。荷物があるのだから一旦は戻って来るだろう、と呑気に活動を続けていた佐々井以外の面々は和人の説明を今か今かと興味津々顔で待ち構えていた。

 

「俺達に事情を説明する前に、だ……」

 

そこで佐々井はピシッと伸ばしていた人差し指を今度は教室の棚の上に置いてあったティッシュボックスに横移動させ、さっさっとティッシュを数枚引き抜き、有無を言わさず和人へ押し付ける。

 

「カズ……お前、唇つやつやだぞ」

「……は?」

「もっと言えば薄ピンク色が付いてる」

「?…………っ!!!!!」

 

何を言われているのか、原因が何なのかを理解した途端、頬を真っ赤にした和人が電光石火の速さで口元をティッシュでゴシゴシと擦った。その所作を他のメンバー達には見えないよう己の身体でカバーしつつ佐々井は両手を腰に当て、わざとらしく「ふぅっ」と嘆息する。

 

「今日の姫、珍しく色つきリップだったもんな」

「なんで知って……」

「んーなの遠目でも見りゃ気づくだろ」

「……」

「で、カズの口に色移りした事すら気づかない状態にあるわけだ」

「……少し体調を崩して、今は保健室で眠ってる」

「……カズ…………まさかとは思うけど、眠ってる姫に…………」

「…………」

 

無言の返答で事の次第を察してしまった佐々井はもう一度わざとらしく「はぁぁっ」と全身を脱力する大きさの溜め息を落とし、珍しくも義憤の声で「お前なぁ」と和人を睨み付けた。

 

「具合の悪い姫に理性飛ばしてどーすんだよっ」

「ち、違うって……具合が悪そうだったからこそ……その、オレに移せば良くなるかな、と……」

「ひゃくぱー、それだけを思ってないだろ」

「う……」

 

保健室ベッドの上で、けほっ、と小さく開いたままの唇から無意識にこぼれ落ちた咳は、それだけで痛々しくて、と同時にいつもよりも血色の悪い青白の肌に唯一薄桃色の彩りを乗せているふっくらとした唇から目が離せなかった。気づけば塞ぐように自分のそれと重ねていて、息苦しくさせただろうか?、と慌てて離れようとした寸前、いつも軽いキスを繰り返している合間に明日奈が気持ち良さそうに上げる吐息が耳元で聞こえて、つい音を立てるほど彼女の唇に吸い付いてしまったのだ。

その時の背徳的な感触を思い出したのか、一層赤みを増した和人の頬にやりきれない思いを抱いた佐々井は半眼となって「もう帰れ」と不機嫌この上ない声で友を突き放した。

 

「ちゃんとお前が家まで送って行くんだよな?」

 

決定事項の確認とも言いたげな脅迫めいた口ぶりに、こくこく、と頷くだけで肯定した和人は汚れたティッシュをポケットに突っ込んで「佐々……」と窺うような声を出す。いつもなら飄々とかわす友の弱気な態度が珍しいのか、佐々井は軽く苦笑いで表情を緩ませてから面倒くさそうに手をひらひらさせて和人を追い払った。

 

「こっちの説明は俺がしとくから、早く姫の傍に行ってやれって」

「……さんきゅ」

 

自信ありげなニヤリとした笑みではなく、信頼と感謝の気持ちを込めた言葉を佐々に送ると和人は自分の荷物をひったくるように抱え込み、背後で待機状態だったネト研メンバーにちらり、と振り返って「悪い、先に帰る」とだけ言い放ってパソコンルームを出たのである。

 

 

 

 

 

アラームに急かされるわけでもなく自然と意識を浮上させると、さっきまでは重くて仕方のなかった瞼がスムーズに動いて、すぐに意識も視界もクリアーに開けた。まず目に映ったのはベッドサイドに腰掛け、俯き加減で携帯端末を見つめている濃黒の瞳。

器用に片手だけで操作をこなしている姿は明日奈が長く閉じ込められていた《仮想世界》から戻ったばかりの頃、いつも病室のベッドから見上げていたのと同じ角度で、つい当時の記憶が蘇る。

思うように身体が動かせず、すぐに疲れて目を閉じてしまう彼女を和人はいつもこうやって静かに待ってくれていた。

何の画面を見ているのか、明日奈が目覚めた事すら気づかない程集中している様子に少し悪戯心が湧いてきて、端末に触れているのとは反対の、当然のように自分の手を包んでいる和人の手を内側からくすぐってみようかと動かした途端、罰でも当たったように「けほっ、けほっ」と咳き込んでしまう。

結果、明日奈の指先からもたらされた刺激ではなく、その咳音に弾かれたように顔を上げた和人が急いで腰を浮かし、端末を仕舞いながら彼女の元へと身を屈めてきた。

 

「起きたのか?」

「っこほ……うん」

 

すぐに咳は治まったが小さな悪巧みの失敗が恥ずかしいのと続けざまに跳ねた呼気のせいで僅かに目を潤ませ頬を淡く染めれば、和人が呆れたように溜め息をつく。

 

「やっぱりだったなぁ……」

「え?」

「今朝、なんだかおかしいな、って思ったんだ」

「……おかしい?」

「ああ、違和感って言うか、なんだかいつものアスナと違う気がして……そうしたら放課後になってリズから体調を崩したって連絡が入ったから……」

「……キリトくん……」

 

自分でさえ自覚のなかった不調に気づいてくれた、もうそれだけで明日奈の心の中はふわふわと嬉しさが膨らむが、抱きつきたくなる衝動はここが学校の保健室なのだと思い出して自らを律し、代わりに未だ和人の手の中にある自分の指を上掛けの中で絡ませた。いつものように軽く握り返してもらい、はた、と気づく。

 

「あっ、ネットワーク研究会は?」

「早退してきた」

「……ごめんね」

 

自分の為に動いてくれるとわかっていたから故意に知らせなかったのだが、そんな罪悪感さえお見通しと言わんばかりに和人が苦笑を漏らした。

 

「オレが嫌なんだよ。不調の予感はあったのにオレが知らない所でアスナが苦しい思いをするのが」

「……ありがとう、キリトくん……」

 

謝罪の言葉よりも相応しい言葉を口にするとカーテンの向こうから「結城さーん、入るわよ」と何やら気遣いをみせた保健医の声が響いてくる。その呼びかけに「はい」と答えながら身を起こそうとすれば繋いだままの和人の手が優しく明日奈を引き起こし、ちょうどその場面に遭遇してしまった保健医の顔は笑ってはいたものの僅かに強張り口の端がヒクついていた。

 

「うん、だいぶ顔色も良くなったわね」

「有り難うございました。ベッドをお借りしたお陰で眠気も取れましたし、これなら……」

「大丈夫です。オレも一緒ですから」

 

明日奈の返答を少々強引に遮り、和人が自分の意志を明示するがごとく言葉を割り込ませてくる。「えっ?!」と少し驚いた顔の明日奈をよそに保健医も既に承知済みの話なのでひとつ頷くだけで是認して、手にしていた物を彼女に差し出してきた。

 

「これ、良かったら使って。冷たい空気は吸い込まない方がいいし、電車の中での咳は気を遣うでしょうから」

 

手渡されたのは個別包装してある使い捨ての白いマスク。

明日奈がそれを謝辞と共に受け取っている間に椅子に置いてある彼女のブレザーを和人が手にする。どうやら明日奈の身支度の間も一緒にいるつもりなのだと気づいた保健医は今度こそ呆れ顔を前面に押し出して、お邪魔虫である自分の立ち位置に短く脇息した。

ここは保健室で私は保健医のはずなのに……などと大人げない感情は生徒に見せないよう、さっさとカーテンの外に出るべく背中を向けると後ろから「ほら、明日奈」「ん、ありがと」と日常会話の色を纏った声が耳に届く。

とても高校生同士のカップルとは思えない熟練した空気に恥ずかしいような羨ましいような複雑な感情が入り乱れて、そんな心を落ち着かせるべく自然と口から深い息を吐き出した。

それでも自分の頬の妙な火照りが取れない保健医は室温が高すぎるのかも、と火力調整の為にストーブに近づき「あらっ」と、ある表示に気づく。そこですぐに明日奈と和人のいるカーテンの向こうに少し声を張り上げた。

 

「結城さんっ、桐ヶ谷くんっ、私、ストーブの灯油を貰いに行ってくるから、支度が出来たらそのまま帰っていいわよ。保健室のドアだけちゃんと閉めてってね」

 

すぐに「はい、わかりました」と和人の声が聞こえたので「お大事に」と返してから、きっと結城さんの家に辿り着くまでずっと桐ヶ谷くんは手を繋いで彼女を支えるんでしょうねぇ、と思いつつ灯油タンクを持って保健室を後にしたのである。

 

 

 

 

 

身体を回してベッドの縁に腰掛ける体勢となった明日奈はブレザーのボタンをはめながら先程の和人の言葉の意味を確認する。

 

「一緒に、って最寄り駅までのことだよね?」

「まさか、ちゃんとアスナの家まで送ってくよ」

「え、いいよ。すごく遠回りになっちゃうから」

 

見上げる形で視線を合わせてくる明日奈を見て和人は無意識に今日、何回目かの皺を眉間に寄せた。眠気は取れた、と本人は言っていたが、それでも普段と比べれば、はしばみ色はまだまだトロン、と溶けていて全体に無防備感がダダ漏れている。

こんな状態で通勤通学者の多くが交通機関を利用する時間帯に一人で電車に乗せるなど、オオカミの群れの中にウサギを一匹放り込むようなものだ。

 

「電車の中で眠り込んだらマズイだろ。寝ているアスナをガードするのは《あの世界》に居た時からオレの役目だし」

 

さすがに《現実世界》では勝手に身体を移動させられる事はないだろうが、それ以前の問題として寝てしまった明日奈の寝顔を不特定多数の人間が見たり、あまつさえ偶然にもその身体に誰かが触れるかもしれないと考えただけで和人の手は知らずに握り拳を作る。そんな心配とは別に明日奈は明日奈で、今の体調でも暖かい車内で揺らされたら起きていられないかも、と想像し、乗り継ぎの駅で寝過ごす可能性に「んんー」と唸った。

 

「でも一緒にいたら、うつしちゃうかもしなれいし……」

「マスクがあれば大丈夫なんじゃないか?。それにうつるなら、もううつってるだろうから……」

「え?」

 

意味不明の返答に軽く小首を傾げれば、慌てた様子で和人が「とにかく帰ろう」と下校を促す。

 

「陽が落ちると更に寒くなるだろ」

 

そう言いながら椅子の背面にかけてあった明日奈のコートを取ろうとした時だ、彼女が「ちょっと待って」と自分の鞄を膝の上に置いてなにやらゴソゴソと中身を探っている。

 

「寝ている間に結構唇が乾いちゃって、マスクをする前に……」

 

目的の物がリップだと気づいた和人の瞳の奥に熱がこもり、リップを捜索中の明日奈が気づかぬうちに距離を詰める。頭の上から「なら、オレが……」と静かに和人の声が降ってきて、驚いた明日奈が顔を上げた。

 

「キリトくん、リップ持ってる……ふゃっ!」

 

意外にも和人がリップクリームを携帯しているのかと尋ねようとした明日奈の両頬がふわり、と和人の暖かな手に包まれ上向きに軽く固定されると、すぐに乾燥している上唇と下唇交互に水分が補給され潤う。まさかそんな事をされると思ってもみなかった明日奈はやはりいつもより反応が鈍くなっているのだろう、驚きのまま固まっていたせいで調子に乗った和人が僅かな隙間から舌を差し入れてきた。

上唇の内側も外側と同じように緩急をつけてしばらく舌先で撫でていると明日奈の瞳が徐々に恍惚と細まっていく。

いつもならば人気のない場所限定とは言え校内で唇を重ねると、ほどなくして頬を染めた彼女が終わりを懇願するように僅かな抵抗をみせ始めるのだが、今回に限っては和人からの刺激を嬉しそうに受け入れていて、逆に和人の方に戸惑いが生まれる。

ボーダーを見極めたい欲求に突き動かされ明日奈の舌を己のそれでつつけば、逃げもせず素直に従ってきて、おまけに尚も乞うように「ん〜……」と甘えた声をのせてきた。

一旦、口づけを解いた和人はそれでも明日奈の頬を離さず、はしばみ色を覗き込むようにして顔を近づける。

 

「……アスナ、気持ちいい?」

 

ベッドの上、という場所は同じであるものの、今とはかなり異なる状況下で聞いてみた事はあるが、いつもなら懸命に首を縦に振るだけで言葉を返す余裕のない明日奈なのに、今はとろけた瞳が一層ふにゃふにゃに緩んでいる。

 

「ん、気持ちい……」

 

どうやら顔を両手で包み込んだせいも手伝ってか生温かい湿り気で唇を塞ぎ、と同時に咥内を乱したせいで頭部全体が茹だって再び眠気を催した様子の彼女は寝ぼけたように素直に気持ちを口にした。想像するに大好きな風呂でうたた寝をしているような完全に力の抜けている状態なのだろう。

これはこれで閉じ込めたくなる程に可愛らしいのだが、このふわふわ状態をいつまでも堪能しているわけにはいかない、と和人は念入りに再度明日奈の唇のみを潤してから無理矢理に姿勢を起こしてペチペチと軽く彼女の両頬をはじいた。

 

「アスナ、もう帰るぞ」

「ううっ……んン……」

 

再び隠れてしまいそうなはしばみ色を引き戻す為、柔らかな頬を軽くつねり「ほら、立って」と脇の下を両手で支えて立ち上がらせる。膝の上の鞄の存在を忘れていたらしく、床に落ちたドサッ、という音で意識がいくらかハッキリしたようだ。少し散らばってしまった中身を「あわわっ」と言いながらしゃがみ込んで素早くかき集めている間に、和人は自分の帰り支度をする為、カーテンの外に出た。自分もコートを羽織りながら目の前のストーブを睨み付ける。確かに灯油の残量はほぼエンプティを示していた。

あのふわふわ状態の明日奈はこの暖かな保健室も原因じゃないのかなぁ?、と考えなから、自分でもここにいたら体調に関わらず眠気を催すだろうと確信していると、シュッとカーテンが開いて身支度を終えた明日奈が出てくる。

 

「お待ちど〜さま……」

 

口元はしっかりとマスクで覆われているが、カーテンを開ける寸前に欠伸でも出たのか、瞳は潤んでやはり無防備感は拭えていない。加えて未だ眠気と戦っているのだろう、ぼんやりとした口調がマスクの内にこもって足下も心なしかおぼつかなく見える。具合の悪さも気にはなるが、今はそれ以上の心配事で頭がいっぱいの和人はすぐに明日奈の片手を捕獲し、しっかりと握った。

 

「まっすぐ歩けるのか?」

「むぅ〜……」

 

失礼な物言いに不満を唱えた声かと思ったが、俯き加減の彼女のはしばみは全く不快な色を表しておらず、どうやら肯定の意だったのだと遅れて理解した和人は益々憂心が深くなる。

 

「知らない人について行くなよ」

「うぅ〜……」

 

これも別段、和人に言われた事について、どうしようかな?、と唸っているわけではない。

 

「それと、今夜は早く休むこと」

「……ふぅ〜……」

 

もはや吐息か溜め息と呼べるレベルのリアクションに和人も呆れを通り越して苦笑気味の顔で最後の念押しをした。

 

「とにかく、家に着くまで、ずっとオレの傍から離れるなよ」

 

多分、聴力も曖昧で後半部分の和人の声しか拾っていなかったのだろう、それでも明日奈は意志を持って眩しそうに和人の瞳を見つめると、マスク越しでもわかるほど満面の笑みを浮かべ、嬉しげに「うん」と頷く。それを見た和人も一瞬目を見開いたもののすぐに真っ黒な瞳を優しく細め、明日奈を見つめ返した。

彼女が自分の言葉を誤認しているのはすぐにわかったが明日奈の認識も間違ってはいないのでそのままにして「帰ろう、アスナ」と告げ、やさしく手を引いたのだった。




お読みいただき、有り難うございました。
アスナを見て気づく違和感は、キリトの場合、見た目の違いではなく
もっと本能的な言葉に出来ないレベルのものかと(笑)
補足しますと、まだ二十二層の森の家は再購入していない段階なので
アスナの夢は旧SAOの記憶と今のALOでの記憶がごちゃって
出てきています。
では、よろしければ続けて《OS》のSSをお楽しみ下さい。

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