ソードアート・オンライン《かさなる手、つながる想い》   作:ほしな まつり

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『ALO事件』も解決して、和人の待つ《現実世界》へと生還を
果たした明日奈の病室でのお話です。


罪の共有

一週間ほど前までは病室の前に来る度に祈るような気持ちでスリットにパスを差し込んでいた手順も、今は急いている心を反映してもどかしい作業の一環でしかない。和人は手慣れた段取りを早々に終わらせると、シュッとドアがスライドし終わる前に室内へと足を踏み入れた。その瞬間、鼻腔に届くのはいつもの様に香しい花の存在と、それ以上に甘く郁々たる明日奈の匂い。と同時に明日奈の父、彰三氏や男性医師が発する大人の男の匂いが混在していて和人は無意識に眉根を寄せた。

その匂いの持ち主が彰三氏や医師でないことは百も承知だからだ。

それを証明するかのように、聞き覚えのない成人男性の声がここからは見えない部屋の奥、明日奈がいるはずの医療用ベッドの近くから漏れ聞こえてくる。

 

「本当に覚えてないのかなぁ?」

 

相手を気遣いつつ問いかけられた言葉、と言うよりは明らかに不信感を込めた疑いを持つ嫌な感じの喋り方だった。

 

「もっとよく思い出してよ」

「少しでも何か覚えてないの?」

 

矢継ぎ早に質問を浴びせられ、明日奈の気配がギュッ、と固くなった事を敏感に感じ取った和人はすぐさま歩みを早め、カーテンの向こうにいる人間達全員の意識がこちらに向くよう引き裂くような勢いでパーティションの生地に手をかける。

案の定、彼の思惑通り、シャァッとカーテンが横に流れるのと同時に「失礼します」と怒気を含ませた和人の声にベッドの上で身を起こしていた明日奈はもちろん、ベッドサイドに立っていた二人の男達も、少し離れた場所にいた若い看護師の女性も一斉に新たな登場人物へと視線を集中させた。

 

「キ……リトくん」

 

結局《現実世界》に戻った今でも和人をキャラネームで呼んでいる明日奈があからさまに安心した様子できつく両手で握りしめていた掛け布の端から力を抜く。怯えたヘイゼルの瞳と縋るような小さな声に和人は男達を無視してすぐさま彼女の傍らに歩み寄り、その細い肩を支えた。

一方、男達は突然現れた未成年とおぼしき青年に対し疑問の上に不愉快さを加えて誰何の声を上げる。

 

「君、誰なの?、勝手に入って来られたら困るんだけど」

「そうそう。今は結城さんと大事な話をしている最中なんだから。部外者は入室禁止だよ」

 

彼らの言葉に和人の立場を思いやった明日奈が「あ……」と戸惑いの表情を見せた。確かに《あの世界》では夫婦という関係であった自分達だが《現実世界》ではただの未成年の恋人同士という間柄でしかない。

目の前の二人の男性が主張するように、この場に同席してもらう権利は和人にはないのだ。

しかし和人の方は自分に向けられた男達からの幾分威圧的な視線や声をかわすどころか完全に無視をして部屋の隅に立っていた看護師へと柔らかい声をかけた。

 

「オレが付いてますからナースステーションに戻って下さい、ここは大丈夫です」

 

その言葉に明日奈の担当看護師は、ホッと息を吐き固まっていた表情を緩めて「なら、お願いね」と寄り添う二人に笑顔を向けた後、表情を一転させて、キッと男達を睨み付ける。

 

「何か勘違いをされているようなので申し上げますけど、ここは特別病室です。私達のような医療従事者か受付で入室パスの貸与を許可されている人、或いはそれらの人間の同行者しか入れない、そういった病室なんですよ。私が付き添っているからあなたた達は結城さんと面会が出来ているんです。あの事件の担当刑事さんだからって何でも許されるわけじゃないんですらねっ。それに突然押しかけてきて再度、事件の事情聴取を行うなんて随分と横暴じゃないですか。ここにいる桐ヶ谷君は結城さんが覚醒する前からずっと彼女の側にいて、当然、入室パスの使用許可がおりている人です。私から言わせれば、覚醒してまだ間もなくて、まだまだ体調だって体力だって戻っていない結城さんにとってはあなた達の方がよっぽど邪魔で迷惑な部外者ですっ」

 

さっきまで男二人に問い詰められるように言葉を浴びせられているばかりの担当患者である明日奈を、助けたくても助けられず、ただハラハラと心配げに見ている事しか出来なかった看護師はここぞとばかりに胸の内をまくしたてた。

普段はさすが特別病室の担当となるだけあってか、年齢の割に冷静でいつも穏やかな笑みを浮かべながら明日奈の看護をしてくれている彼女がここまで感情をむきだしにする姿など想像もしておらず、明日奈と和人は揃って目をパチクリとさせ、対して刑事である男二人はその剣幕にわずかにたじろぐ。

それでも若い刑事達は少し面白くなさそうに、ふんっ、と鼻を鳴らした後「お忙しい看護師さんにお時間を取らせて申し訳ありませんでした」とわざとらしく看護師に軽く頭を下げた。

 

「でも、この……桐ヶ谷君、でしたっけ?、パスを持ってる彼が同席してくれるなら、僕達はこのまま結城さんに話を伺ってもいいんですよね?」

 

その言葉に明日奈の表情が強張った事に気づいた和人は触れている肩にそっと力を込める。

そもそも和人は見舞いの為に病院の最上階まで上がってきた後、ナースステーションで呼び止められ、事情を説明された上で病室で付き添っている担当看護師と交代してもらえないか、と言われてここにいるのだ。どうやら病院にやって来た時の刑事達の態度もあまり好意的に受け止められるような物ではなかったらしく、和人に状況を伝えてくれた看護師達はみな一様に怒りや困惑の色をのせていた。けれど病院側としては警察の公務だと言われれば従わざるを得ない。強硬な手段や態度には出ず、ただ話を聞くだけなら今の明日奈でも何の問題もないからだ。

けれど男達二人の様子から考えて、平穏な雰囲気で明日奈を気遣いながら聴取を進めるとは思えず、心配していた所にタイミング良く和人がやって来たというわけで、ナースステーションの看護師達は自分達よりも一般人である和人が側に居た方が抑止力になると判断したのだった。

言うだけ言って、少しスッキリとした顔になった看護師は明日奈に向かい落ち着いた声で一言、一言を区切って注意事項のように言い聞かせる。

 

「いい?、結城さん。何かあったら、すぐに、ナースコールするのよ」

 

それから小さく「みんなでかけつけるからね」と言うと共に頼もしい笑みを送り、刑事達の横を通り過ぎる際はもう一度、釘を刺すような視線を飛ばしてから病室を出て行った。

やれやれ、と言った風に肩を上下させ、病室のドアの開閉音を聞き終えてから刑事達は互いに顔を見合わせると不本意さを隠しもせず片方の男が和人に向かい口を開く。

 

「僕達は例の《ALO事件》の担当者でね……」

 

その自己紹介に僅か、和人の瞳が警戒の色を濃くした。

基本、和人も明日奈も「SAOサバイバー」と呼ばれる《SAO事件》の被害者であり生還者とされるが、細かい分類で言えばALOに意識を拉致監禁された三百人は《ALO事件》の被害者でもある。和人などはこちらの事件解決でも一番の功労者と言える立場だったが、詳しい説明を求められても困るので一般には全くの無関係を装っていた。

多少なりとも関わっているはず、と勘づいているのは総務省の眼鏡をかけた役人くらいだろうが、そこから末端の担当刑事にまで情報が漏れるとは考えにくく、この二人の聴取目的が明日奈のみに関する事項なのだと結論づける。

それならば、なぜ今になって彼女の所に刑事がやってくるのか?……、と和人は男達二人から視線を外さず思考を進めた。

ALOから三百人が解放された後、当然の如く被害者全員の元には警察が訪れていて拉致監禁されている間の記憶の有無を確認しているはずだ。明日奈においては事情が特殊だった為《ALO事件》の担当者ではなく、《ALO事件》を含めた形で統括本部である「SAO事件対策チーム」から菊岡がやって来て、和人が立ち会いの下、既に事情聴取は済んでいる。

もともと《ALO事件》はその首謀者が明るみに出るまで《SAO事件》の延長として茅場の陰謀だとされる意見が大半を占めていた為、半独立的な位置づけで《ALO事件》を担当とするチームが起ち上げられたのは事件が解決した後だと聞いてた。要は担当と言っても、被害者は無事《現実世界》に生還し、犯人達も拘束し終えてから結成された、いわば仕事の大半が事後処理的な内容を任された人達ということになる。既に事件の全貌はほぼ解明され、今は首謀者の男とそれに協力した部下達が留置所に身柄を勾留されている段階だった。

 

「犯人達の自供は取れたんですよね?」

 

主犯の男の名前を明日奈に聞かせたくなくて敢えて出さず、暗に今更なにを聞きに来たのか?、と語気を強めて和人が言葉を突きつけると刑事達二人はもう一度互いにアイコンタクトをしてから、コホン、と咳払いをして場を仕切り直し、探るような視線を明日奈に向ける。

 

「まあ、大筋は解明できているんだけど……あの非人道的な実験チームを運営していた奴らの一人から妙な証言が飛び出してねぇ」

 

明日奈が自分達より年若い未成年だからか、はたまたベッドで上体だけを起こしているその儚げながらも整った容貌に俗な感情を抱いているのか、病室の入り口で耳にした時から気になっていたやけに馴れ馴れしくもぞんざいな口調に和人の声が苛立ちを露わにする。

 

「妙、と言うのは?」

 

すると刑事達は薄く優越感を滲ませた笑みを和人に向け「これは僕達が取り調べで得た情報だから、口外は無用で」と前置きをしてから再び明日奈に視線を戻した。

 

「あのサーバに囚われていた三百人は全員が無自覚のまま洗脳実験を施されていたと公表されているけどね、どうも一人だけ、違う扱いを受けていた人物がいたらしんだよ」

「そうそう、なんでもALOの中心に設定してある世界樹とかいうでっかい樹木の上にね、女の子がいたっていう証言が出たのさ」

 

支えていた華奢な明日奈の両肩がビクリと跳ねたのを気づかれないよう、すぐに和人は彼女の肩を抱き寄せて腕をさすりながら「寒くないか?、明日奈」と気遣う素振りで誤魔化す。すぐそばにあったクリーム色のカーデガンを取って彼女の正面まで身を乗り出し、ふわり、と広げて後ろから両肩に羽織らせた後、そのまま軽く抱き寄せて刑事達の視線を遮断すると、落ち着かせるようにゆっくりと背中を撫でた。

その意味をくみ取った明日奈からの「有り難う」と言う細い声を聞き、はしばみ色の瞳が凪いでいるのを確認してから身体を離す。

自分達の一連のやりとりを憮然とした面持ちで見ていた刑事達に「話の途中にすみませんでした」と謝罪した後、和人がベッドサイドの簡易椅子を引き寄せ、腰を降ろしてから片手を伸ばせば、当たり前のようにそこに明日奈の白い手が乗せられた。バフ頂戴、と言われた時のように、いや、あの時以上にしっかりと細い指を包み込む。

話の続きを促すように「女の子、ですか?」と和人が素知らぬ風で尋ねれば、対する二人は和人の存在など見えていない態度で、再び探るように明日奈の表情を観察し始めた。

 

「これが十代半ばから後半くらいの若い子らしくてね、髪の長い綺麗な顔立ちで今回の事件の首謀者である須郷が毎日会いに行っていたそうなんだ」

 

須郷の名前が出るとほぼ同時に明日奈の手を握る和人が力を込める。何も反応できずにいる明日奈の代わりに和人が口を開いた。

 

「それで、その女の子がいたっていう証拠は?」

「いや、残念ながら実際に彼女を見た事があるって言う証言も、僕達が取り調べをした一人だけなんでね。信憑性には欠けるけど、もしそれが本当だったら極めて重要な関係者だろう?」

「たった一人の証言を真に受けるんですか?」

「全ての証言の裏をとるのが僕達の仕事なんだよ。そこで被害者の中から十代の女の子、ということで結城さんに話を聞きに来たのさ」

「彼女以外にも該当者はいると思いますが……」

「まあ、そうだけど。長い髪の綺麗な女の子っていう条件が……」

「アバターの容姿にリアルの姿は関係ないはずです」

「でも、結城さんは須郷と随分前から交流があったはずだよね?」

「明日奈が『ALO事件』に巻き込まれたのは他の被害者の方達と同様に《現実世界》へ生還する途中で偶然あの世界に取り込まれたからですよ」

 

これ以上、和人と問答をしても埒が明かないと会話を切り上げた刑事は、ズイッ、と明日奈の元へ一歩を踏み出す。

 

「だから、ねぇ結城さん。もう一度よーく思い出して欲しいんだけど、本当に……」

「待って下さいっ。『ALO事件』の被害者に実験中の記憶はないはずです。明日奈だって何も覚えていません」

「いい加減にしてくれないか、僕達は結城さんに聞いてるんだから」

 

和人も刑事達二人も既に苛立ちを隠すことなくにらみ合っていた。自分の為に盾となり刑事達に意見してくれている姿に居たたまれなくなったのか明日奈がか細い声で和人を呼ぶ。

 

「……キリトくん……」

 

それで少し冷静さを取り戻した和人はひとつ溜め息をついてから改めて二人の男達に静かに断言した。

 

「明日奈は本当に何も覚えていません。今回の事件、被害者側が誰一人として記憶がない為に加害者達の言葉の真偽を確かめる事が困難なのはわかりますが以前の事情聴取で話せる事は全てお伝えしてあります」

 

自分の手の中で小刻みに震えている明日奈の手を強く握りしめ、揺るがない意志の強さを示す瞳で見返すと刑事の一人が目を眇める。

 

「被害者、ねぇ……」

 

その思わせぶりな口調にひっかかりを感じた和人は更に焦燥感を募らせるが、逆に刑事達はいよいよ侮蔑に近い態度で嘲笑を浮かべ代わる代わる畳みかけるように言葉を重ねていく。

 

「その樹の上にいたっていう女の子が被害者、とは限らないんだよねぇ」

「そう、被害者の共通点は実験中の意識がない事、だからさ」

「けど、その女の子はアバターの身体を持ち、動いて、喋ってたらしいんだ」

「そうなると、彼女はどちらかと言うと……」

 

二人の視線がジリジリと明日奈を追い詰めていく。けれど彼女のすぐ隣から地を這うような低い声が吐き出された。

 

「……どういう……意味ですか……」

 

言葉を紡ぐことさえ限界だと言いたげに歯を食いしばった和人の瞳は怒りさえも通り越した凶暴な感情を懸命に抑え込んでいる。けれど相手も警察官だ、その刃物のような怒気に気圧されることなく、いや、逆に哀れみさえも含ませた声で和人に相対した。

 

「だからね、ずっと結城さんが目覚めるのをこっちの世界で待っていた君は想像したくもないだろうけど、その女の子が加害者側って可能性もあるんだよ。あっちの世界で須郷と一緒に仲良く実験を眺めていたかもしれないだろ?」

「馬鹿なっ」

「綺麗なアバターの身体でALOにいて、首謀者の須郷が毎日会いに行くんだ。もしかしたら計画の一端さえ加担していたかもしれない」

「時に結城さん、君は須郷とも昔から面識はあるし、SAOに囚われる前は学校の成績も随分と良かったそうだね。さすがに主犯格となるほどの知識があったとは思えないが僕達がそう推論づけるのも無理はないと思うだろ?」

 

再び視線を明日奈に戻した刑事達は自分達の調査で辿り着いた仮説が今まで暴かれていなかった「ALO事件」の新たな一面だとでも言いたいのか、執拗な目つきで彼女の口から真実が語られるのを待っている。その視線の圧に耐えきれなくなったのか、明日奈が小さく弱々しい声を絞り出した。

 

「……私は……何も……」

 

ようやく開いた口から否定の言葉が出かかるのを更なる刑事達の言葉がのし掛かるようにして押しつぶす。

 

「もう一回、ゆっくりでいいから思い出して」

「何か覚えてる事があるんじゃないのかなぁ」

「本当はあそこで自分が何をしていたか、覚えてるんじゃないの?」

「それを僕達に教えてくれれば、大丈夫、君はまだ未成年なんだから、ちゃんと守ってあげるよ」

 

再三、記憶の再生を迫られていた明日奈の息づかいが段々と短くなっていき、苦痛を訴えるように表情を歪ませた時、刑事の口から飛び出したひとつの単語でスッ、と憑き物が落ちたように濁りの消えたしばみ色が瞳に宿り、俯いていた顔がゆっくりと動き出す。それを観念と受け取ったのか、ますます饒舌に男達二人は明日奈からの告白を強請った。

 

「ようやくその気になってくれたかな?」

「さあ、何があったのか、話してくれるよね」

「心配はいらないよ、全てを僕達に打ち明けてくれれば悪いようにはしないから」

「僕達を信じて、ね」

 

そこに細く小さくとも固く真っ直ぐな芯の通った声が響く。

 

「……貴方たちを信じる?……何を根拠に信じろと言うんですか?」

 

明日奈の唇が動くのを期待に満ちた目で見つめていた彼らはそこから予想外にしっかりとた声が静かに自分達へと向けられた事に戸惑い、言葉を失った。

 

「警察官だから?、公権力を施行できる機関に属しているからですか?」

 

なんの迷いもない澄んだ瞳が鋭い刃先のように彼らを射貫く。

 

「でも私が二年以上も囚われていた世界で、私を助けてくれたのは《現実世界》の法律でも、ましてや刑事さん達でもありません。《あの世界》は現実のどんな力も届かない場所でした。あそこで私を支え、守ってくれたのは……」

 

そして明日奈は今の今まで和人に重ねていただけの手を力を込めてしっかりと握り返した。その声を聞き表情を見た和人が、ふっ、と息を吐き出して僅かに目を細め、彼女の手を更に握り込むとそれに勇気づけられたように明日奈は言葉を続ける。

 

「私に……ALOに囚われていた時の記憶はありません。確かに、す……須郷とは小さい頃から何回が会った事がありますが、それだけの間柄です。もっと言えば私はあの人に対してこれっぽっちの好感も抱いていませんから」

「えっ?」

「ちょっ……」

 

強く言い切る明日奈に男達は慌て顔で再度、説得を試みようと二人同時に声を発する……と、うち一人の背広の内ポケットから低い振動音が流れ出した。少し忌々しそうに眉をひそめ携帯端末を取り出すが、発信元の表示を見て「失礼」と断りの一言と共にすぐさま明日奈に背を向けてパーティションの裏側へと姿を消す。

けれど「そんなっ、僕達は今…………でもっ………………わかり……ました。すぐに戻ります」と、どうやら最初は通話相手からの用件に納得出来なかったのか、こちら側まで届くほど大きくて感情的な声を発していたが、それも段々と勢いが小さくなっていった。

端末を仕舞いながら戻ってきた相棒に怪訝な顔を向けていたもう一人の刑事も通話相手との会話があまり喜ばしい内容ではないと察し、声のトーンを一段下げて「どうした?」と尋ねる。

 

「ああ、とにかく一旦戻ってこいってさ」

「なんでだよ。こっちはちゃんと捜査内容だって申請してあるのに」

「さあな、詳しい話は戻ってかららしい。今すぐ戻れ、の一点張りだ」

 

顔を見合わせて不可解な表情を浮かべていた二人が仕方なさそうに肩を落とし、ちらり、と明日奈を振り返る。

 

「今日のところはこれで失礼しますよ」

「お邪魔しました」

 

明日奈への非礼も詫びず、全く心のこもっていない挨拶に和人が眉を曇らせるが、明日奈は二人からの尋問に解放される事の方が大きいのか、ふぅっ、と肩の力を抜いて軽く頭を下げるだけだった。

苛立ちを表すようにドカドカと乱暴な足音を立てて刑事達が病室からいなくなれば、ふらり、と上体を揺らした明日奈を咄嗟に和人が抱き留める。

 

「大丈夫だ、明日奈」

 

気遣う和人へ、その腕の中で、こくん、と弱々しく頭を上下させてから明日奈はそのまま身体をすり寄せた。もう刑事達はいないから、と安心させるようにまだまだ細すぎる彼女の身体を内に閉じ込め、それでも足りなくて栗色の髪に頬を摺り合わせる。耳からではなく、直接伝えるために顔を接触させたまま「もう、あの男達は来ないよ」と言い切れば、その意味を問うように明日奈がもぞり、と顔を上げてきたのでさっきまでの強張りがようやく溶けたはしばみ色を見つめ返した。

 

「ナースステーションで刑事二人が来てるって聞いて、総務省へ確認を取ったんだ」

「それって……あの、菊岡さん?」

「そ」

「だからあの刑事さん達、帰ってくれたの?」

「だろうな。明日奈の事は他の『ALO事件』の被害者達と同じように扱うって約束したんだから、末端の担当刑事達が来てるって知ってすぐに動いてくれたんだろ」

「今度、御礼言わなきゃ、だね」

「必要ないよ。本当の事情はあの時ちゃんと話したんだし、その情報は明日奈に迷惑がかからないように対処するって言ったんだから、あんな手柄欲しさに邪推ばかりする刑事達の動きを把握しきれてなかったのはの向こうの落ち度だ」

 

つまりは事の次第を和人から寝耳に水の状態で聞いた菊岡が早急にあれこれと手を回してあの刑事達の上司に引き上げ命令を出すよう指示したのだろう。これで明日奈への接触は二度とないはずだ、と和人はようやく自分の緊張を解くように安堵の息を吐く。何度も「思い出せ」と繰り返し聞かされた言葉の重さは明日奈ほどではないにしても、和人の記憶も無理矢理に呼び起こされた上に、あろうことか明日奈が犯人側の一人ではないかという疑いの態度と言葉には怒りで全身の血液が沸騰する思いだったのだ。

 

「よりによって明日奈を疑うなんて……」

 

あの鳥籠に閉じ込められていた間、彼女がたった一人であの男に立ち向かっていた勇気も、計略を暴こうと奮闘した聡明さも知らないくせに、と今更にあの二人への苛立ちが膨れようとすると、明日奈が気弱に視線を落とす。

 

「でも……一回だけあそこを抜け出した時、ラボでナメクジアバターの二人と接触してるから、その事を口にされたら、それが誰なのか当然調査はするでしょう?」

「その話も含めて明日奈の存在に関しては機密事項で扱う事になってる。別に明日奈自身が実験に関与していたわけじゃないんだし、あの首謀者の男以外の犯人達とは何の関わりもなかったんだから。もう一人のナメクジから同じ自供が出てきたとしても、今度は上手くやってくれるよ」

「そう……だと……いいんだけど……」

 

未だ気分の晴れない様子の明日奈は和人の腕の中で身体を預けたままあの鳥籠の中で一人だけの時を過ごした時のような不安で、ふるり、と肩を振るわせた。あそこでどんな風に過ごしていたか、あの男にどんな扱いを受けたのか、あの狭い籠の中でいくら自分自身を励ましても次の瞬間には絶望に飲み込まれそうになる、そんなゆらゆらと不安定に揺れ続ける心の弱さにも情けない思いを抱き、それを強引に払いのけ、それでも完全には拭えずに弱気な考えがすぐに芽を出す……時間の感覚も曖昧な世界でキリトの生死もわからないまま心を保ち続ける事がどれほど辛かったか、ついさっき刑事達に「記憶はありません」と言ったくせに、ちょっと振り返ればあの時の記憶は怖いくらい鮮明に明日奈の周りを埋め尽くした。

そんな胸の内を見通しているのか和人は明日奈にしか聞こえない程の小声で「明日奈」と優しく名を呼び、彼女の意識を引き上げる。

顔を向けてきた彼女に対し、まだ角度が足りない、と背中に回していた手の片方を、そっ、と華奢なおとがいにあて更に上向きにして、さっきまで刑事達から浴びせられていた侮慢な言葉の数々に堪えていた唇へ労るように自分のそれを重ね合わせた。

啄むようなキスを繰り返し、明日奈の張り詰めていた雰囲気が少し緩んだのを見計らって今度は角度を変えてその名の通り口づけをする。身体の方はまだまだ頼りなげな状態だし頬や手の甲も《あちらの世界》で触れた時の記憶の方がふっくらとしていたように思うが、唇の感触だけは寸分違わず、いや、もしかしたら《現実世界》での方がより明日奈を感じる事が出来る気がしている。

《現実世界》で初めて交わした口づけもこの病室のベッドの上だった……目覚めたばかりの明日奈の唇は今よりも血色が悪くて、力も入りきっておらず僅かに震えていたけれどそれでも意識を取り戻した彼女と少しでも多く触れ合いたくて、指を絡めるだけでは我慢できず唇を重ねてその細い身体を抱きしめた。

あの日から数日が経過し、その間は手を握るか軽く肩を抱き寄せるくらいしかしていなかったが、今、あの時の鳥籠での記憶を思い出す事も、その記憶を正直に話さなくてはいけないとわかっていながら口にしたくない感情の存在に苦しんでいる事も、そしてその原因を作った男の事が明日奈の頭から消えない事にも明確には名前の付けられない苛立ちが抑えきれず、和人はもう一度愛しい名前を掠れた声で呼ぶ。

 

「あ……すな……思い出さなくていいんだ、あの時の事はもう二度と喋る必要はないんだから」

 

そう告げてみたところで彼女の瞳は和人の言葉を受け入れるには戸惑いと少しの抵抗を見せていて、それが自らを苦しめる彼女の強さと正しさなのだと理解している和人はその痛みを少しでも軽くしてやりたい、と以前、菊岡に告げた願いを再び口にした。

 

「これはオレが勝手に頼んだ事だ。明日奈をただの『ALO事件』の被害者として扱って欲しい、って。だから明日奈はオレのせいであの時の事を話せない……そう思ってくれていいから」

「……キリトくん……そんなの、ダメだよ」

「なら…………これはオレ達二人で決めた事にしよう。明日奈一人が責任を感じる必要はないよ。実際、オレだって無関係を装ってるんだし、この件については今後、オレと明日奈以外には話さないって事で、それならいいだろ?」

 

問いかけるように首を傾げれば、明日奈は泣きそうな顔で僅かに微笑み、声にならない声で「キリトくん」と和人の名を呼ぶ。それを了承と受け取った和人は出来ることならあの記憶が二度と呼び起こされる事がないよう彼女の頭の中の引き出しに厳重な鍵をかけたいくらいだが、まずは今、それらの意識をどこか遠くへ追いやりその頭の中も心の中も自分だけでいっぱいにしたい、と、自分の意志を押し通すべく、薄く開いたままの彼女の唇ごと吸い付くような勢いで自らの唇を強く押し付けた。




お読みいただき、有り難うございました。
特殊な形で関わっているキリトとアスナの存在を知らなければ、当然
真実を追究する若い刑事さん達は突進してくるでしょう。
そんなにイヤな人達ではないのかも。
(口調はいかがなものか、と思いますが、そこは若さゆえ、って事で)
この後上司に理不尽に怒られ、二人だけで「くっそー、絶対、手柄立ててやるー」
「犯人捕まえて、偉くなるぞー」って酔っ払うかもしれません(苦笑)
次回は今回の「罪の共有」の続編っぽいモノをお届けする予定です。

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