ソードアート・オンライン《かさなる手、つながる想い》   作:ほしな まつり

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和人と明日奈が夫婦となって、息子の和真が高校生の
とある週末の日のお話です。


芳甘清香(ほうかんせいか)

リビングでタブレットを眺めていた和真の耳にカチャリ、と玄関のドアを解錠する音が届き、すぐさまパタタッ……パタパタパタと廊下を小走りに移動する気配が近づいてくる。

その軽快な音に合わせて顔を上げれば、ちょうど良いタイミングで扉が開き、軽く息を切らせた母である明日奈が飛び込んできた。

 

「ただいまっ、遅くなってごめんね和真くん。お留守番有り難う」

 

基本、週末は仕事を入れない明日奈だったが、今朝は業務用の携帯端末が鳴り響き、通話相手から突発的な緊急事態を告げられると、途端に顔つきをお仕事モードにシフトチェンジして三十分後にはリビングで拗ねに拗ねている和人の唇に触れるだけのキスを捧げ、ちょっと後ろ髪を引かれる思いで家を後にしたのだ。常日頃から余裕を持って先の先を読み、考えつく限りの対応策を立てている彼女だったが、今日ばかりは先方が今すぐ、どうしても、と譲らなかったようで、明日奈自身もその緊急性を納得したから不機嫌丸出しの夫を息子に任せて休日出勤と相成ったわけだ。

突然の呼び出しにあまり支度時間を取れなかったせいでリビングの扉を開けたその姿は薄化粧に後頭部でゆるくひとつにまとめた髪、淡い色のブラウスにAラインスカートという、平日の通勤着よりは幾分ラフだが、かえって休日の人混みでもさほど違和感のない装いとなっている。加えて帰りに買い物をしてきたらしく手には仕事用のシンプルなデザインの鞄の隣でエコバッグがぱんぱんに膨れて存在を主張していた。

 

「おかえり母さん、お疲れさま。昼間、特に来客も電話もなかったよ」

「そう?、よかった。ずっとリビングにいたの?、部屋の方がはかどらない?」

 

リビングからキッチンに移動しながら投げかけられた母親の疑問に和真は手元のタブレットを持ち上げる。

 

「あー、まあ、一応テスト勉強はコレさえあればどこでも出来るし……午前中は部屋にいたんだけどさ、なんか向かいの父さんの書斎から悶々としたプレッシャー感じちゃって……」

 

二階への階段を上がってすぐにある左右の部屋が和人の書斎であり、和真の私室である。和真の隣が妹の芽衣の部屋で、廊下の突き当たり、一番奥の広めの部屋が和人と明日奈、夫婦の寝室だ。

隣り合わせの部屋ならいざ知らず、廊下を挟んで向かいの部屋から漂ってくるプレッシャーを感じるという息子の高性能センサーと、その根源である夫の状態に明日奈は曖昧な笑顔を見せる。こと和人に関しては呆れる程の言動も愛しさ故に苦笑いひとつで許してしまう自分の態度は、昔から親友にも「甘いんだからっ」と散々言われ続けているのだがこればかりはどうしようもない。それでも週明け、定期考査を迎える息子が自室で居心地の悪さを感じてしまう責任の一端を思って、明日奈は「ごめんね」と今度は違う意味で先刻と同じ言葉を向けた。

しかし和真にしてみれば折角の休日に大急ぎで家に残る家族の昼食まで用意して仕事に出た母に対しては不満などあるはずもなく、むしろ労いの気持ちしかない。冷静に見れば謝罪の言葉を口にするのは母が急遽不在となった事で子供のように拗ねた父の方だろう、とは思うのだが、なにぶん週末が休日になる事の方が珍しい職種に就いている父が、大好きな母と共に休日を過ごす事を心待ちにしていたのも知っていたから、ここは誰が悪いって問題じゃないよね、と、眉尻を下げている母に「慣れてるから平気だよ」と返す。

そう、普段の和人は比較的穏やかで優しい性格の父親なのだ、ただ、こと明日奈の事となると平常心を欠くというか、独占欲が膨らむというか、少々過剰な反応を示すのである。そんな父の姿をそれこそ物心ついた頃から見てきた和真にとって今回の和人の行為は経験値に基づく想定内なのだがいくら慣れているからと言って、向かいの私室で泰然自若とテスト対策をしていられるほど肝が据わっているわけでもなかった。

今日に限って緩衝材になりえたかもしない芽衣が剣道教室の合宿で家に不在だった為、午前中、たった一人で悶々とした不穏なオーラを浴び続けていた和真は正午近く、階下に降りてきた時に必要以上にすり減ったHPを母が準備しておいてくれた昼食で回復させた後、どうしても自室に戻る階段を上がる気力が湧いてこなかったのである。それでも母に頼まれていた父の昼食だけは書斎に届けたのだが……。

 

「母さん……父さん、昼食に手をつけずにずっと仕事してるんだよ」

 

リビングからキッチンに移動していた明日奈はエコバックから購入してきた品々を取り出す手を一旦止めて、それから「あー……」と呆れと嘆きが混ざったような、それでも全く予想していなかったわけではなかったのだろう、すぐに「もうっ」と眉間に皺を寄せつつ買ってきた物を手早く仕分けし始める。

 

「和人くんの好物の照り焼きチキンサンドにしたのに」

 

ぽつぽつと言葉を漏らす母に和真は心の内で「母さんのチキンサンドは俺も芽衣も好物なんだけどなぁ」とせつない気持ちを訴えてみるが、そもそもは父親である和人の好物でなかったら子供である自分達の口に入ることはなかったのかもしれないと思い直し、明日奈には自分の善戦ぶりを語り始めた。

 

「ちゃんとお昼に持って行ったんだけどさ、父さん、机で業務用のARゴーグルかけて仕事してたから視界はダイブしちゃってるし、マイクとヘッドホンでユイ姉とコミュしながら音声コマンドでモニターのスイッチングして、手元のキーボード操作と音声入力で同時に打ち込みしてるせいで俺の声も届かなくて…………」

 

最悪、口に照り焼きサンドを突っ込んでみようかとも考えたけどマイクアームが邪魔だったし、その後の報復が怖かったから実行には移せなかったよ、とまで告げる必要はないだろう、とそこは端折って久々に見た父の仕事への集中力を思い出す。今は一般家庭に広く普及しているARゴーグルだが和人が使用している業務用は精度が普通のと格段に違って設定が実にタイトだ。僅かな瞳孔の動きにも反応してしまうせいでストレスなく操作できるようになるには単純に努力だけではたどり着けない部分がある。その点、和人は天性のセンスを有していたらしく、使いこなすのにそれ程時間は必要なかったと事も無げに言っていたから和真も最初はそれ程操作が難しい代物とは認識していなかったのだが「試してみるか?」と和人がその場所を譲ってくれた時、好奇心にかられるままゴーグルを装着した五分後にはひどい船酔いのような状態になっていた。

書斎の真ん中にある明日奈がこだわりぬいて選んだ重厚な天然木高級書斎机の天板に片頬を密着させてぐったりしている息子を腕を組んで眺めていた和人は、くくっ、と喉を鳴らしてから「まあ、初めてにしちゃ上出来だな」と高評価をくれたのだが……だいたい初心者は一、二分で目を回し、ひどいと椅子にすら座っていられず転倒する場合もあるそうだ。それを今日の和人は朝から装着しつづけ、複数のモニターを同時展開させており、しかもメイン画面の選択を手動ではなく音声で行っているのでユイとの会話の合間にキーワードを混ぜ込みつつ連動している実際のキーボード上では十本の指が高速で舞い続けているのだ。

その光景を照り焼きチキンサンドとコーヒーがのっているトレイを持ったまま眺めていた和真はわざと足音を消さずに近づいてみる。試しにチキンサンドを皿ごと父親の鼻先に近づけてみるがARゴーグルのせいで和人の視界に好物が映り込む事はなかった。ここまで存在を無視されると、むしろ人外に対するような畏怖の念さえ湧いてくる。

明日奈と共にゆっくり週末を楽しむ心づもりが砕かれた腹いせで自棄を起こし、無意識に怨念じみたオーラを撒き散らしながら没我の境に入っているのだから、和真からすればその仕事ぶりは凡人に遠く及ばず間違いなく自分の父がある種の鬼才であると確信した後に、その発端が愛しすぎる妻を想う所以の結果なのだと思い出せば、途端に父を見る目は胡乱げとなり、これもまた間違いなく息子としては甚だ残念な父親だと認識せざるを得ない。

一方、明日奈の方は好物のチキンサンドの匂いすら和人の鼻が反応しなかったという事実を聞いて、これは重症かも、と唇を、むむっ、とすぼめた。

 

「じゃあ、朝から何も食べずにお仕事してるの?」

「多分ね」

「……そーゆーとこ、変わんないなぁ……」

「きっとユイ姉も困ってると思うよ」

 

明日奈は常日頃から和人の体調管理に気を配っているので、和人の不摂生が続くとユイも明日奈の真似をして「パパ、もっとお野菜を摂らないとダメです」やら「少し運動しましょう」と声かけをするのだが、今日のあの様子ではユイ自身もそんな言葉を挟む余地がないほど和人のサポートに負われているはずだ。父である和人の身体を案じているだろうユイの心境を表した和真だったが、明日奈は更にユイの身も心配になる。

 

「そうよね、ユイちゃんだってちゃんと休ませてあげないと……」

 

そう言って夫と娘が詰めている二階の書斎方向を上目遣いで見つめた明日奈は「私、ちょっと様子見てくるね」と言いキッチンから出てきた。ちょうど入れ替わるように和真がやってきて仕分け終わった食材やその他を目にする。

 

「父さんが手を付けてないチキンサンド、冷蔵庫に入れといたんだけどさ。食べちゃっていい?、ちょっと小腹空いちゃって……」

「うん、いいよ」

 

育ち盛り、食べ盛りの和真なら、夕食前に少々胃を膨らませたところで消化量に響くことはない。チキンサンドを取り出すついでに冷蔵庫へ収納すべき食材をしまってくれているので、明日奈は小さく「有り難う、和真くん」と声を掛けてからリビングのドアへと身体を向けた。その瞬間、ふらり、と揺れた身体を咄嗟にダイニングテーブルにある椅子の背を掴む事で支えてから、そっ、と和真に視線を向けるが、丁度冷蔵庫の扉を開けて頭を突っ込んでいたところでこちらに気づいた様子はない。

明日奈はこめかみのあたりをぐりぐり、と拳で刺激してから改めて背筋をピンッと伸ばし、気合いを入れなおすように深呼吸をしてからいつもの迷いのない真っ直ぐな歩みを心がけ、リビングを出た。

 

 

 

 

 

儀礼的に書斎の扉をノックするが返事を期待せず、すぐににカチャリ、とノブを回す。

と、そこには和真に聞いた通りの状態が時を感じさせず明日奈の目に飛び込んで来た。止まる事を忘れたように踊り続ける和人の両手とさえずり続ける和人の唇……それを見て知らずに明日奈の口元から深い溜め息が落ち、意気込んでいた両肩がさがる。

室内に絶妙な空間バランスで配置されているキャビネットや書架は書斎机と一緒に明日奈が和人と共に選んだ天然木の一点物だ。機能性も重視しつつアンティーク家具のような暖かみを感じるデザインになっている。更に和人が腰掛けている椅子は今も《二十二層》のログハウスに設置してあるロッキングチェア……とまではいかないものの、一人用としてはかなりゆとりのあるサイズでリクライニングの角度も自由に調節がきき、座面、背面にある特殊素材の極厚クッションのお陰で長時間無理なく歪みのない姿勢がキープできる。加えて各所のフレーム部分に木材を使用しているので部屋の調和を乱す事はない。

けれどこの部屋の主はこんな落ち着いた空間にそぐわない怨念じみた熱意を放ちながら八つ当たりのような執念で仕事を続けている。

確かに向かい部屋の息子が落ち着かないと零すのも同意できるほど単純に仕事への真剣な気配だけではないものを感じてしまえば明日奈もひくり、と片頬がひくつくのを抑え込むことは出来ない。これではまるで禁断の呪術を操っているまじない師のようだ。

そう思ってしまえば和人が口にしている言葉もそのほとんどがアドホック・プログラミング言語で成り立っていて、さすがの明日奈もそこまでの専門用語の知識は持ち合わせていない為、だんだんと呪文にも聞こえてくる。知らずにそろり、そろりと気配を消し、足音を消してゆっくりと和人に近づく明日奈の心境はクエスト中に敵NPCの背後へと不意打ちを狙う作戦遂行中のそれに近かった。

どうせ視覚も聴覚も外界から遮断されている状況なのだからここまで緊張しなくてもいいのはわかっているのだが、相手は全てを牛耳る黒幕級の《黒の剣士》だ、用心にこしたことはない、と既に手の届く距離まで近づいた時点で明日奈は呼吸すら止めてその横顔を覗き込む。ARゴーグルのせいで表情は読めないが、呪文が途切れることなく呟かれているのでやはり妻の侵入には気づいていないのだろう。

大声を出してみようか、それともそっと身体に触れてみようか、と次の手段を明日奈が考えあぐんでいた時だ、いきなりキーボードから両手を離した和人が椅子をくるり、と九十度回転させて明日奈の両腕ごとその細い身を抱きしめ自らの腿の上へと横向きに引きずり込む。

ふわり、とスカートがひるがえった。

 

「きゃぅっ」

 

何の予備動作もなく、突然捕獲され尻餅をつくような勢いで膝にのせられた状態の明日奈はふたたび襲われた目眩に耐えきれず視界の揺れが収まるまで、と一瞬強張った身体を落ち着かせ溜め息のような深い息を吐きながら、逆に抗議の言葉を飲み込んで目を瞑り、仕方なしに和人の胸元に寄りかかった。

和人の方はすぐさま何事もなかったかのように明日奈を腕の中に囲ったまま椅子の向きを戻し、キーボード上で指を踊らせている。ちなみに明日奈に手を伸ばした時から今も呪文は途切れてはいない。

明日奈は片方の目だけ薄く開けて、回ってはいないがぼんやりとした景色を確認してから、そうっ、と顔を上げた。出会った時と変わらず細いラインの顎が唇と連動して動いている。きっとこの距離で声をかければ耳に届くとは思ったが、なぜか言葉を発する事は出来なかった。

それどころかこの体勢で自分が動けば和人のタイピングが乱れて迷惑がかかってしまう、と思い至れば口どころか指の一本すら動かせなくなってしまう。なにより今日は予定外の出勤となったから朝から気を抜く暇もなかったので身体も心も自覚している以上にクタクタで、こうやって安心して身体を預けてしまえば当然のように明日奈の瞼ははしばみ色に蓋をし始めた。徐々に閉じていく瞼と意識に抗えず、それでもどうして彼は自分の存在に気づいたんだろう?、と明日奈はまどろみの中で考える。

大好物の照り焼きチキンサンドの存在すら感知しなかったのに……けれどこればかりはいくら考えてみたところで正確な答えに辿り着く事は出来ない気がした。和人の……キリトの思考や発想は昔から悪戯じみていて、そのきっかけは彼にしか見つけられないような反則級の場所に転がっているのを知っていたから。

頭の上から湧き出るように流れ落ちてくる抑揚のない和人の低い声、その声で紡がれている呪文が子守歌のように次第に明日奈の思考力を奪っていく。

ここで眠っちゃダメ、とわかっているのに縫い付けられたように上下の瞼が合わさってしまって動かせない。

和人くんにちゃんと食事と休憩を取ることの大切さを説いて、ユイちゃんの長時間労働を労い、すぐに晩ご飯の準備に取りかからなければいけないのに…………ああ、でも和真くんはチキンサンドを食べているはずだから、ほんのちょっとだけ晩ご飯が遅くなっても大丈夫かな?、とうつらうつら考える。

だけど、この状況はちょっとひどい…………明日奈とて好きで出勤したわけではないのに、ゴーグルのせいで目すら合わせる事なく、言葉も交さず、出し抜けに妻を荷物のごとく自分を膝の上に乗せたまま仕事を続行している夫だって十分仕事人間ではないか、と顔を少し上向きにしたまま拗ねたように小さく小さく鼻をすんっ、と鳴らしてみる。

すると、すぐに呪文のとぎれた一瞬を隙を突いて額に湿った感触がちょんっ、と跳ねるように降ってきた。

まるで降り始めの雨粒のごとき不規則さで、けれど止むことなく音声入力が滞らないよう、わずかな合間を縫って和人の唇が明日奈の額に降り注ぐ。

これは仕事で和人の帰りが深夜になってしまった時、先に眠っている明日奈の寝顔を安らかにするいつもの方法だ。

夫の帰りを待ちわびながら寝てしまった不安げな寝顔の明日奈に、帰宅して寝支度を整え終わった和人が顔中に触れるだけのキスをすれば段々とその表情から力が抜けていく。

その変容を眺めている間に和人もようやく仕事の緊張から解放され、仕上げに明日奈を抱きしめれば穏やかな夢の世界へと誘われるのである。

今回も同様に唇で明日奈に触れれば触れるほど、和人の不穏なオーラは四散されてゆき、いつものようにすー、すー、と可愛らしい寝息が腕の中で生み出される頃には丁度和人の呪文も終わりを迎えた。

 

「有り難う、ユイ。今日はここまでにしよう」

「はい、パパ。お疲れさまでした」

 

天板に埋め込み型になっているキーボードをスライド式の蓋で仕舞って机上をフラットにする。

寝入っている明日奈の姿勢を動かさないよう注意しながらゴーグルをはずした和人は、その寝顔を見て複雑な表情を浮かべた。今週は仕事が立て込んでいるとかで十分な睡眠を取れていないのはここ数日ベッドの中で触れているだけの手足の体温が低くなっている事でわかっていた。

やっとの週末、今日は自分と一緒にのんびり過ごして欲しかったのに朝から明日奈は電話一本で迷うことなく家を出て行ってしまうのだから、心配のあまり和人の機嫌が急降下するのも致し方ないだろう。

今日あたり目眩などの自覚症状が出てくるかも、と和人が予想した通り、部屋に入ってきた明日奈の細腰に両腕を回して引き寄せればいともたやすくバランスを崩し自分の腕の中に崩れ落ちてくる。そのまま大人しく休むかと思えば、寂しそうに鼻を鳴らすものだから仕事が終わってもいないのにキスが止まらなくなってしまった。

明日奈の気配、明日奈の声にならない音……そんなもの、目や耳が使えなくてもすぐに伝わってくる。

和人はそのまま椅子のリクライニングを倒して確りと明日奈を抱き直し再びマイク越しに「ユイ」と愛娘の名を口にした。

 

「明日奈が今してる仕事って先月食事に行ったホテルだよな?」

「そうです、パパ」

「ったく、そんな大規模なイベントのコンサルティングを個人契約で受けるか、普通……」

「一応ママはアシスタント的なセカンドコーディネーターとして、ですが」

「だったら週末にまで呼び出さなくてもいいだろ」

「仕方ないです。今回の依頼はその前に受けたツアー会社の社長さんからのご紹介で……」

「ちっ、余計な事を……」

「それに、偶然なんですけど、今回のホテルのオーナーさん。実は『血盟騎士団』の幹部のお一人だったんです」

 

明日奈の全身を自分に寄りかからせて自分はぼんやりと視線を漂わせていた和人の両肩がピクリ、と跳ね、思わず「えっ?」と予想外に大きな声が出てしまう。その動きと声に反応した明日奈が、もぞり、と身をよじった。

起きてしまいそうになる妻の背をトントンと優しく叩きながら「なるほど、それでか……」と先月抱いた不可解さの原因に納得した和人はそのオーナーと対面したホテルのレストラン前での光景を思い出す。

今度仕事をするホテルでディナーの招待券をいただいたから、と言う明日奈と一緒に和人は息子の和真、娘の芽衣と家族四人で食事に赴いたのだ。ホテルのロビーの端に姿勢良く立っていた年配の男性に気づいた明日奈が近づいて頭を下げ、招待券の礼を告げた後、その男性が少し驚いたような顔で「アスナ君、そちらの方は……」と言った時が違和感の最初だった。不躾な眼差しに少し居心地の悪さを感じると同時にその理由がわからず、加えて「アスナ君」という呼び方にも小さくない苛立ちを感じたのだったが、元『血盟騎士団』団員であったなら当時の呼び方が抜けていなかったのだろう。そしてアスナの隣に存在する和人の容貌に「キリト」であった当時のアバターの面影を見たのだ。そうでなければ明日奈が「主人の桐ヶ谷和人です」と紹介してくれた時、口の中で咀嚼するように「きりがや、かずと……キリがや、かずト」と小声で和人の本名を数回繰り返した後、何かに納得したように微笑んで「なるほど」と呟くはずがない。

更に思い返してみれば和人が「初めまして」と挨拶した時も、妙な間を開けて「初め……まして、桐ヶ谷くん」と笑いを堪えるように口元を隠していた。

明日奈も教えてくれればいいものを、と思った和人だったが、同じギルドメンバーだったからという理由で仕事を受けたわけでもなく、そもそも所属していたのは二十年以上も前の話であるし、結末として自分達の団長がSAO事件の犯人であったという驚愕の事実は互いに良い思い出にもなってはいまい。ならばわざわざ和人に告げる必要もないと思ったのか、仕事が終わってから何かのきっかけで話すつもりだったのか…………とにかく自分にとっても全く面識のない相手ではないとわかった所で和人は、はぁっ、と大きく息を吐いた。

すると胸元から細く弱々しげな声が上がってくる。

 

「……和人くん、怒ってる?」

「明日奈……起きちゃったのか?」

 

寝不足のはずなのに、やっぱりちゃんとベッドに横になっていないせいで眠りが浅かったのだろうか?、と胸元に顔を向けた和人の視線の先には、とろーん、とも、ぽやぽやぁ、ともとれる夢現のはしばみ色がこちらを見上げていた。瞳が潤んでいるのは眠気のせいか、はたまた仕事の依頼人の正体を告げなかった事で和人が気分を害していると思って気落ちしているせいなのか…………いや、今のユイとの会話は和人の声しか漏れていないので、折角和人が家にいる週末なのに急遽明日奈が仕事に出てしまったせいで機嫌を損ねたと思っているのか、とにかく、へにょり、と力無く垂れている眉毛と相まってその顔立ちはあるはずのない罪悪感を生み出させ和人の心中をチクチクと刺激してくる。

身体は強く休眠を欲しているはずなのに、それでも夫の様子を気に掛けずにはいられない妻の問いかけに和人はわざと素っ気なく答えた。

 

「怒ってるって言うより……疲れが溜まってるくせに休日でも呼び出されれば応じる明日奈に呆れてるんだ」

 

少しは反省してくれるだろうか?、とその顔色を覗っていると明日奈は益々眉尻を落とし、ついでになぜか楽しげに目尻まで下げて「ふふっ」と笑い声を漏らす。

 

「今日ね、おんなじ事、言われちゃった。『相変わらず、アスナ君は少し頑張りすぎだな』って……」

 

誰に言われたのかは聞かずとも知れた。覚束ない口調はまだ続く。

 

「『これでは彼も未だに心配が尽きないだろう』って、だから……今度は二人でゆっくり過ごせるように……バーラウンジのワンドリンク付きペアしゅきゅ、はく……ちけっと、こっそりくださっ……て……」

 

言葉の語尾が徐々にあやしくなってきたが、とにかく、要は今回の埋め合わせに二人だけの時間を作れるよう手配してくれたということだろう、と和人の両の口角も嬉しそうに持ち上がった。

『血盟騎士団』の元幹部ならキリトとアスナが二人揃ってデスゲーム攻略の最前線から離脱していた理由も、その一時脱退中に七十五層のボスモンスター戦の為に呼び戻された事も知っているはずで、ならばキリトが攻略戦復帰の条件としてパーティー全体よりアスナの安全を最優先にすると言った宣言もあの場で聞いていたはずだ。

今回の明日奈の休日返上はホテルのイベントスタッフからの要請であってオーナーがいちいち口を挟むレベルではないものの、キリトとして、和人として、ずっと明日奈を大事にしてきたのがわかってのオーナー特権のチケット配慮だろう。久々に夫婦水入らずの時間が過ごせそうだと、すっかり機嫌を良くした和人は半分ほど閉じかけている明日奈の瞼を完全に下ろそうと唇を押し当てる。

 

「んっ……ダメ……だよ。ごはんの……したく…………」

「こんな状態で無理しなくていいよ。大丈夫、夕方届くようにデリバリー頼んでおいたから」

「ホント、に?」

「明日奈、『皇嘉楼』の薬膳スープ、好きだろ?」

「うん」

「あと『アワビと胡桃の胡麻だれ和え』と『海鮮春巻き』『小籠包』に『豚肉とザーサイの炒め物』『葱つゆそば』」

「……あそこのおそば、和真くんの……好物……」

「だよな。あとはオレの好きな『激辛麻婆豆腐』と『牛肉の炒飯』」

「そんなに……食べられる?……」

「ああ、だから夕飯の心配はしなくていい。明日奈は早く体調を回復させてくれ」

 

それから睦言を囁くように少し身を屈めて明日奈の耳元へ和人の唇が近づいた。

 

「オレは早く明日奈が食べたい」

 

吐息のように甘い言葉がするり、と耳から侵入して疲れている明日奈の心を優しく包む。

朦朧とした意識の中でも和人の言葉の意味は明日奈に伝わったらしく、ぽぽっ、と頬が薄紅色に染まり、それを隠す為に一層和人の胸に顔を押し付けてきた明日奈の小さな頭を抱え込んだ和人はその反応に満足して自分も瞼を閉じた。

ユイが気を利かせて部屋の調光を操作して室内を薄暗くし、空調設定を最適化した頃には明日奈は既に寝入ってしまっている。

和人は目を伏せたまま「ユイ、オレと明日奈は少し仮眠をとるから夕食が届いたら起こしてくれ」と頼むと、腕の中のぬくもりを確かめるように一度だけ、ぎゅっ、と力をいれて抱きしめた後、和人は薄闇の中でも感じ取れる彼女の香りを胸一杯に吸い込んでから眠りについた。

 

 

 

 

 

     ◇◇◇◇◇ おまけ ◇◇◇◇◇

 

和人が手を付けなかった……と言うより存在すら気づかなかった照り焼きチキンサンドを食し終えた和真が後片付けを終わらせてリビングに戻って来た時だ、ホログラム映像のユイがしゃらり、と現れた…………と、すぐに、へなへなとフローリングの床に座り込む。

 

 

「あ、ユイ姉、今日は一日父さんのサポートお疲れさま」

「ホントですっ。冷却機能が追いつかないかとヒヤヒヤしました。和真くんが昼食の時、PCにアイスシートを被せてくれなかったら、今頃は熱中症でダウンしてまたよ」

「あー、そうだね。今日の父さん、全然周りに目がいってなかったから……」

 

普段の和人ならばこれ程長時間、ユイを稼働させ続けるような真似はしない。

 

「演算処理に必死でパパに食事や休憩を促す言葉も挟めなくて」

「でも、今、ここにいるってことは…………母さんが?」

「はい」

「よく声かけられたなぁ」

 

怨霊……いや悪霊化したと言っても過言ではない状態の父を思い出した和真はぷるり、と身体を震わせて取り憑かれた気のする呪いの破片をふるい落とした。

 

「声はかけていません」

「え?、じゃあ身体、揺すったとか?」

 

随分思い切りの良い行動に出たものだ、と感心してうんうん、と頷く。けれどその推測にもユイは首を横に振って否定した。

 

「いいえ、ママはパパのどこにも触れていません」

「ええっ!?、じゃあどうやって父さんは母さんを認識したの?」

「何もしなくてもパパはママが近くにいればわかるんですよ、和真くん」

「……」

 

なんだろう、この敗北感……まるで自分事のように自慢げに語る姉に和真は半眼となる。好物のチキンサンドと自分の息子がワンセットになっても気づかないくせに、自分の妻への感知能力の高さときたら、まさに人ならざる者……野生動物?……まあ、ある意味、母に対する父は獣じみた一面がある事は否めないけど……と父親の習性を再確認したところで野暮かもしれないと予感しつつ問いかける。

 

「で、母さんは?」

「ママはパパに抱きしめられて寝ちゃってます」

「……父さんは?」

「パパはママを抱きしめて寝ちゃってます」

 

結局二人揃って夢の世界に入ってしまった両親に対し和真はうぐぐっ、と唇を震わせた。文句が言いたいわけではないのだ。ましてや一緒に寝たいわけでもない。けれどさらり、と「あ、そうなんだ」と流せるほどに達観もしていない高校生男子の自分の感情は決して間違っていないだろう、と自分で自分の心を肯定し慰める。

 

「でも和真くんっ、大丈夫ですっ」

 

和真の反応をどうとらえたのか、なぜかユイが勇気づけるような勢いで両手をグーにしつつ一回だけ深く頷いた。

 

「晩ご飯はパパがデリバリーを頼んでくれましたからっ」

「え、ホント?」

 

どうやら母が眠ってしまったと聞いた食べ盛りの男子高校生の弟は晩ご飯が心配になってしまったのだろう、とユイは考えたらしい。

 

「はい、晩ご飯は『皇嘉楼』さんから和真くんが好きな『葱つゆそば』が届きますよ」

 

自分のお気に入りメニューを聞いて「やったー」と男子高校生の感情は簡単に浮上した。しかし一拍遅れて父親の思惑にも気づいてしまう。

 

「あー……『皇嘉楼』のチョイスってさ、母さんに薬膳スープを飲ませたいからだよね?」

「和真くんも気づいてましたか」

「うん、オレは母さんがさっき帰って来た時だけどさ……」

 

廊下に響く足音が一瞬不規則だったのだ。よろけたのかな?、とは思ったがリビングに入って来た時の母は顔色も悪くなかったし声の調子もいつも通りだったので、気のせいで済ませてしまったのだが、父は既に見抜いていたらしい。でなければ作るのに時間のかかる薬膳スープはすぐにオーダー出来ない。

 

「お料理が届いたらパパとママを起こすことになってます」

 

そう言いながらユイも大きな欠伸をしている。

 

「なら、料理が届くまでユイ姉も休みなよ」

 

そう言って和真はユイが消えるのを見届けてから、両親がくっついて寝ている書斎の向かい部屋にはこれまた居づらいなぁ、と苦笑いをしながらリビングのソファに腰を降ろしてテスト勉強を続行すべくタブレット上に指を滑らせ始めた。




お読みいただき、有り難うございました。
タイトルの「芳甘清香(ほうかんせいか)」は造語です。
明日奈を表す雰囲気(匂い)を表現できれば、と。
そして、それに敏感に反応する和人と(苦笑)
次回は高校時代のお話をお届けする予定です。
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