ソードアート・オンライン《かさなる手、つながる想い》   作:ほしな まつり

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《かさなる手、つながる想い》の「お気に入り」カウントが
「500」を越えて下さっちゃって、本当にっ、本当にっ
有り難うございます!!!!!
ポチッとして下さった皆様にひたすらで膨大な感謝の気持ちを表すべく
いつものキリ番感謝投稿より、ぶっ飛んだ(?)内容と量をお届けしたいと思います。
めいっぱいの嬉しさを込めまして……。



  【「お気に入り」500件突破記念大大大大大感謝編】もしも……

百年余りの歴史を持つこの私立学校は都内の一等地に有りながら広い校地を維持し続け、ゆとりある校舎配置でその周囲には多くの緑が茂っている。外周の幹線道路から中を覗こうとすれば、そこには背の高い木々の群れが海外の国立公園の如く乱立しており、その視線を拒んでいて遠くに学校のシンボルである記念講堂の尖塔が望めるくらいだ。

この自然豊かな環境だけで入学を希望する者も多いと聞くが、実際にこの学校の生徒となれるのは高額な学費を支払える財力のある家の子女である。少し意外なのは親の戸籍、職種に関しては一切条件がないことで、所謂、先祖代々由緒ある家柄だの、元華族だのといった肩書きは通用しない。極端な話、宝くじが当たった、でも、石油や鉱脈を掘り当てた、でも何でもいいのだ……若き理事長に言わせれば「運も実力のうちですから」という事らしい。

そして、そこまでは保護者の力、そして最後は受験する本人の実力、という訳でこの学校に合格する生徒達は資産家の息子、娘だから、と言った偏見で見る者が無知を意味するほどに高い智賢力の持ち主ばかりだった。

 

 

 

 

 

そして季節は校舎の周囲をとりまく木々や草花が秋の色を纏う頃、高等学部三年生の教室では担任教諭が自らの腹部を片手で押さえつつ、一人の大学生を隣に立たせていた。

 

「はい、注目ー……ってか既に注目しっぱだな。担任の俺のこと、誰も見てないし……おーい、誰か、俺も見て。そんで『今日の佐々井先生、なんだか元気ないけど、大丈夫?』とか心配して」

 

懇願された生徒達の一人が目を細くして「佐々っち、それってどうせ賞味期限切れのコンビニ弁当食べて腹痛とか、二日酔いの吐き気とかでしょ」と冷淡に言い放つ。教室全体の空気からして担任佐々井の現状は珍しいものではないようだ。過去に何度か起こした事例を挙げられた佐々井は、ぐっ、と言葉に詰まり無言で腹を撫でた。

 

「ま、いーや。俺も急いでるし。で、君らがずっと気にしてるこの若者が今日から二週間、うちのクラスで教育実習する『桐ヶ谷和人』……先生?、あれ?、まだ教員免許ないけど敬称って先生でいいのか?……俺も実習生持つの初めてだからなぁ」

 

相変わらず手の位置はそのままに佐々井は数年前、自分が実習を行った時の体験を思い起こす。

 

「俺ん時は……あー『佐々っち』だったか……実習生の時から俺ってば親しみやすさ満点だったから」

 

生徒から舐められてたから、の間違いだろう、と教室内にいる全員が思ったがここで口を挟んだら話が進まない事も生徒達はわかっていたので、生ぬるい視線を捧げるだけにした。その代わり佐々井の隣にいたピシッとアイロンのかかっているワイシャツとスラックス姿の桐ヶ谷和人が口を開く。

 

「あ、他の実習生は『先生』って呼ばれるとテンション上がるって言ってたけど、オレは逆に緊張しちゃうから『さん』付けでお願いします。大学三年なんでこの教室にいる皆とは三つか四つしか違わないし」

「『桐ヶ谷くん』でも違和感ないよねー」

 

女子からの茶々に教室全体が湧いた。しかしすぐに佐々井がそれを制する。

 

「はい、そこ、調子のらない。『くん』呼びは俺だけね。君らは『桐ヶ谷さん』ってことで。こいつ、ここのOBじゃないから校内とかチンプンカンプンなんだよ。なんでクラス委員の二人はフォローよろしく」

 

視線で起立を促すと部屋のほぼ中央にいたにこやかな笑顔の男子生徒と後方の窓際にいた静かな佇まいの女生徒が立ち上がった。

 

「クラス委員の茅野君と姫。桐ヶ谷くんは今日一日、基本こいつらにくっついて行動して……」

「先生」

 

すらり、とした見事なプロポーションで立っている窓際の少女が佐々井の言葉を遮り、澄んではいるが氷のように固く冷たい声を発する。

 

「私を『姫』と紹介するのはやめて下さい」

「んー、だってうちの生徒、中等部を含めてほぼ全員君のこと『姫』って呼んでるでしょ?」

「実習生の方は生徒ではありません」

「俺も呼んでるけど?」

「直して下さい、と何度お願いしても先生が聞き入れて下さらないだけです」

「理事長と同じ名前を気軽に呼べないよぅ」

「佐々井先生は理事長の事を『結城さん』とお呼びになるんですか?」

「えっ?、まさかー。ちゃんと『理事長』って呼んでマス」

「でしたら私の事を名字で呼んで何の不都合もないと思いますが」

「……うっ……相変わらず真面目だなぁ」

 

方や至極真面目に、方やはぐらかすようにポンポンと会話を続けている二人を眺めていた和人が思わず「ぷっ」と吹き出した。それを見た佐々井が不思議そうな目を向ければ「すみません」と謝ってから優しげな瞳で女生徒を見つめる。

 

「随分と楽しそうに会話をしていたので」

 

その発言に女生徒は不機嫌を通り越して睨み付ける勢いで渋面を作った。それを気にする風でもなく和人は「なら、ボクは彼女の事は『結城さん』で」と言ってからにこり、と笑い教室全体を見回す。

 

「改めまして『桐ヶ谷和人』です。これから二週間という短い期間ですが、宜しくお願いします」

 

と告げて頭を下げたのである。

 

 

 

 

 

「んーじゃあ一時限目の久里センセーの授業は自習だから。君らはしっかり勉学に励めよ。それと、あんま桐ヶ谷くんを質問攻めにしないことっ。そのへんのガード、茅野君よろしくね」

 

自習と告げたくせに実習生を困らせる事態になるだろうと予想している口ぶりでクラス委員の一人に念押しをする佐々井はしっかりと教師の顔をしていた。しかし和人を残しいそいそと教室を出ようとした時、「ぐうぅっ」と空腹を訴える音がその腹部から鳴り響く。

 

「……佐々っち、もしかして腹へってんの?」

「それで元気ないとか、小学生か」

 

教室の廊下側の席の男子生徒達から揶揄の声が次々にあがると佐々井は「うるへー」と顔をクシャクシャにして言い返した。

 

「二十代後半の独身男の人生はこれからなんだよ。遠くない未来、朝、優しく起こしてくれて、美味しい朝飯作ってくれる奥さんとのツーショット画像を君らの端末に一斉送信してやるからなっ」

「……要は寝坊したのか……」

「で、朝飯を食い損ねた、と……」

「佐々っち、食べる物あんの?」

 

段々と生徒達の目が憐れみを帯びてくる。

 

「おうっ、俺、一限目授業ないから、カフェテリアで食ってくる」

「え……この時間、自販機しか使えないっしょ」

「へへん、君らの担任を甘くみるなよ。俺の専門は『イン・コミ(インターネット・コミュニケーション)』だけど、もともと実際の対人交渉が得意分野なのさ。仕込み中のおばちゃん達に声かければ一人分の料理くらいいくらでも手に入るっつーの」

 

不敵に笑い、似合わないウインクを生徒達に送って佐々井は小走りに教室から出て行った。残された生徒は担任が消えた出入り口を凝視したまま一様に深い溜め息をついている。

 

「なに、あのドヤ笑み」

「しかもウィンク……さぶきもっ」

「あれって初犯じゃないよね」

「既に数回の前科有りとみた」

「はーっ、『交渉学』じゃ若手のホープのくせに」

「警視庁からだって声かかってたんでしょ?」

「なのに、なぜ彼女の一人も作れないっ、うちの担任っ」

「ま、いいんじゃない?、本人、満足そうにへらへらっと学校教諭やってるし……」

「そうだね、一応、担任してるクラスの生徒達からは好かれてるもんな」

「いつか、そのうち、きっと佐々っちの告白という交渉で頷く女も出てくんだろ」

「あははっ、楽しみだねー……そだっ、桐ヶ谷さんは?、彼女さんいるの?」

 

教壇に残されたまま突っ立っていた和人が突然話題対象としてロックオンされた。

 

「うえっ!?、か、彼女?……あー、まぁ……彼女は…………どう、かな」

「なに、その返事」

「いる、って言わないって事は……両思いじゃないとか?」

「まさかアプローチ中に実習期間突入?」

「ち、違う、違う」

「でも片思いなんでしょ?」

「そーゆーんでもないデス」

「あーもー、ハッキリしないなぁ」

「いや、その……」

「はい、はい、そこまで。佐々っちにも言われたでしょ。質問責めはNGだって」

 

生徒達から次々投げかけられる矢のような問いから守るように茅野が和人の前に立つ。するとピタリ、と質疑の波が収まった。和人はその頼もしい背に小さく『有り難う、助かった』と感謝を述べてから教壇を降りる。

 

「オレは少し茅野君から学校の事を聞くから、みんなは自習を進めてくれ」

 

そう言われてしまっては興味は尽きないものの和人の言葉を無視する生徒もおらず個々に思い思いの行動を取り始める。こういう切り替えの早さはさすがだよな、とその様子に少し感心しながら和人は茅野に連れられるようにして廊下側の最後尾席に腰を降ろした。

 

「ほんと、助かった。さすがクラス委員だな」

「んー、まあクラス委員って事もあるんですけどね、僕、高校二年の後に海外留学で一年休学してたのでクラスの連中より年上なんです。だからまあ一緒にノリよくふざけるよりどっちかって言うとストッパー役になる事が多くて」

「なるほど……」

「あ、でも、クラスに馴染めてないってわけじゃないですからご心配なく」

「あ、うん……じゃあ茅野君、まずはクラスの子達から教えて欲しいんだけど……」

 

和人は教室内を見回す。数人のグループで集まって談笑しているケースがほとんどだが、中には一人熱心に携帯端末の画面に見入っている者もいれば、その画面を連打している者もいた。必死の形相でタブレット上にペンを走らせているのは遅れている課題を仕上げているのか、上着を頭から被って居眠りを決め込んでいる者もいるし……その中でスッと背筋を伸ばした綺麗な姿勢で一人読書をしている少女がいる。

 

「もう一人のクラス委員の結城さん、彼女は……」

 

ただ本を読んでいるだけなのに、なぜか視線が外せなかった。魅入られたような和人の瞳を見て茅野がくすり、と笑う。

 

「彼女、目を引くでしょう?」

 

無言で和人が頷くと茅野も結城明日奈を見ながら言葉を続けた。

 

「うちの学校は品行方正をあまり重視してませんから教室の雰囲気も砕けてますけどね、蓋を開けてみれば血筋家柄抜群の生徒なんてごろごろいるんですよ。彼女もそのひとり。ここのOBでなくても明治から続く結城財閥はご存じでしょう?……未だ政界、経済界への影響力は強いですし何よりこの学校の理事長は彼女の実兄です。うちの生徒は偏った分野に突出した学力を持つ人間も多いんですが彼女の場合はオールラウンダーですし、しかもハイレベルの。加えてあの容姿。立ち居振る舞いも見事だし、『姫』の呼び名は皆が憧れや尊敬を持って使ってるんです…………まぁ、でも、今はちょっとご機嫌斜めかな?」

 

からかうような茅野の笑顔に和人はその裏を探る意図で「男子達は憧れや尊敬だけ、じゃないだろう?」と問いかければ、含みに気づいた茅野は軽く肩をすくめていつの間にか自分に向けられている深黒の瞳に「そうですねぇ」とあくまで軽い口調で肯定する。

 

「人間的にとても魅力的な人ですけど、男は馬鹿ですからね。佐々っちを笑ってばかりもいられない」

 

馬鹿と評された男に自分も入るのだと気づいた和人が声を出さずに自嘲気味の笑みを零した。

 

「だよな。特に十代後半の男なんて本能が服着てるようなもんだし」

「桐ヶ谷さんもそうでした?」

「ああ、けど後悔は全くしてないよ」

「それは羨ましい。同じような感じで彼女に告白する男は後を絶たないんですけど、今のところ全員見事に玉砕してます」

「……へぇ…………君も?」

 

つい口を突いて出てきてしまったあまりにもプライベートな質問にすぐさま「ごめんっ」と和人が謝罪すると、茅野は特に気にした様子もなく「いいえ」と首を軽く横に振った。

 

「僕は結城さんに出会う前から彼女いるんで」

 

先程からどこか余裕のある態度はそのせいなのか、と妙に納得していると茅野は珍しくも困ったように眉を寄せて歳相応の少し情けない笑顔を晒す。

 

「じゃなきゃ一緒にクラス委員なんて他の男子から呪い殺されますよ」

「随分と過激だな……」

「大げさな事ではないと桐ヶ谷さんも納得してるんじゃないですか?。既に随分と結城さんの事を気にしてるようですし……」

「オレは……彼女もクラス委員だから、今後、世話になると思ったからで……なのに、いつもあんな感じで一人なのか?」

「ああ、そんな事はないです。先週から一番仲の良い篠崎さんが海外に行ってしまってるんで、たまたまですよ。『篠崎物流』の社長令嬢なんですけど貿易会社なので父親が仕事で海外に行く時は必ず同行するんです。桐ヶ谷さんの実習期間中に帰国すると思いますけど社長令嬢って言うよりは商人(あきんど)の娘さん、と言った感じで、明るく気さくな性格で家業の商売が大好きな人です。けど…………ああ、ほら、結城さんだって他の女子が声を掛ければ普通に笑顔で対応しているでしょう?」

 

ちゃんと自習をしていたグループもあったようで数人の女子が結城明日奈を取り囲み、困り顔でタブレットの一点を指で差している。多分、全員で頭をひねっても理解出来ない箇所があったのだろう、それに対し彼女は笑顔で解説をしていた。

 

「本当だ……」

 

安心したような穏やかな微笑みに逆に茅野が目を瞠る。けれどその笑顔を見ていたのは茅野だけではなかった。お喋りを楽しみつつ、ちらちらと視線を送っていた女生徒達が「ひゃっ」だの「きゃぁ」だの俗に言う黄色い声を小さくあげている。茅野は不用意にクラスメイトである女生徒達の心を誘惑する笑顔を隠すべく「桐ヶ谷さん」と彼の意識を呼び戻した。

 

「それにしてもOBでもないのに、よくうちの学校で教育実習の許可がおりましたね」

「オレの母校は統廃合でなくなっちゃっててさ。この学校に知り合いがいたから融通してもらったんだ」

「へぇ……校舎内の案内は、とりあえず特別教室はその都度で。体育館や講堂の場所はわかってますか?」

「んー、その辺は大丈夫かな」

「あとは……図書室とか保健室、購買部かな…………桐ヶ谷さん、今日のお昼は?、僕、カフェテリアで食べますけど、一緒します?」

「あー、昼は弁当持って来てるから職員室で食べるよ」

「そうですか……あ、弁当と言えば結城さんのお弁当は一見の価値ありですよ」

「そう……なのか?」

「はい、実は彼女実家から出てマンション暮らししてるとかで、いつもお昼は自分の手作り弁当なんです。前から料理好きだって言ってましたけど、毎日の弁当の中身がそれは見事で……ちゃんと自炊してるんですね。そういう所、素直に偉いなって思います」

「うん……オレもそう思うよ」

 

和人がゆっくり頷くと茅野は思い出したように「あ、午後の授業ですけど……」と人差し指一本を天井に向ける。

 

「環境観察をするので屋上に集合です。昼休みが終わる頃、職員室に迎えに行きますから」

「悪いな」

「いえ、高等部の校舎は屋上へ通じる階段が少しわかりにくい場所なんで初めての人はまず迷うんです。じゃあ次はここのカリキュラムの説明をしましょうか……」

 

そう言って茅野は自習になった一限目を和人の為に費やしたのだった。

 

 

 

 

 

職員室の扉の前に立ち、その取っ手に手をかける前に素早く左右を見回して他の生徒の影がないことを確認すると明日奈は目を閉じ、「ふぅっ」と大きく息を吐き出して心の平静を自分の中で再確認する。三年間通っている校舎に加えクラス委員という役目を担っている為、職員室を訪れる事自体に緊張はない。だから大丈夫、いつも通り、普通にやればいいのだと自分に言い聞かせて明日奈は職員室の扉をノックした。

 

「失礼します。三年の結城です」

 

扉を開け、名を名乗りながらお辞儀をして足を踏み入れる。

運が良いのか悪いのか、ちょうど目の前を担任の佐々井が横切るところだった。

 

「もっ、姫、どした?」

 

佐々井は片手に自分専用のマグカップを持ち、片手に細いスティック型のスナック菓子がデザインされている赤いパッケージの紙箱を持っていて、口にはそのスナック菓子が一本突っ込まれている。ちなみにそのスティック菓子は三分の二ほどがチョコレートでコーティングされている商品なのだが、佐々井の口から出ているそれは既にチョコ部分ではなく、まるで竹串をまっすぐ口に入れているような具合になっていた。

自分が無意味に気を張っているのはわかっているのだが、それにしても間近に登場した自分の担任の余りの緊張感のなさに明日奈は理不尽な苛立ちを感じる。無意識のうちに中央に寄った柳眉を見て未だ口をもぐもぐ動かしていた佐々井は焦った口調で「もももっ」と意味不明な平仮名を連発した。その不思議間投詞に一気に脱力した明日奈に更に追い打ちを掛けるがごとく佐々井が咀嚼し終わった菓子をごくんっ、と飲み込み勝手に話を進め始める。

 

「そうそうっ、環科(環境科学)のセンセーから午後の授業で使う観察キットを屋上に運んどいて、って預かってたんだった」

「佐々井先生、それ、朝のHRですべき日直への伝達事項ですよね」

「だったけど、すっかり忘れてた。だって、ほら、今朝は俺、元気なかったし」

「…………いいです。私が持って行きます」

「助かるっ、姫。ちっちゃい段ボール箱ひとつだし。軽いから」

 

そう言って佐々井が「ちょっと待っててね」と明日奈の前からいなくなると、遮蔽物がなくなって自然と視線が職員室の奥まで届く。

明日奈の片方の眉がピクリと跳ねた。

職員室の壁際に設置してある三人掛けのソファには真ん中に和人を置いてその周りを同じ実習生らしい若い女性達とやはり二十代の高等部の女性教諭が固めている。職員の入れ替わりがほとんどない私立では教え子でもない見ず知らずの教育実習生が珍しいのだろう、会話は聞こえないが女性陣は皆一様に楽しげな表情で、うち一人は和人に煎餅や饅頭が入っている菓子箱をお茶請けに勧めていた。

再び理不尽を自覚している胸のもやもやが膨れあがりそうになった時、佐々井が戻って来てその光景を遮断する。さすがにマグカップはどこかに置いてきたようだが、当人が言った通り中身は随分と軽いようで、両手で抱えてはいるものの片方の手は一緒に赤い菓子箱を掴んだままだ。

 

「ほいっ」

「あ、はい」

 

自ら引き受けた用件を思い出し、明日奈は半ば押し付けられるような形で小さな段ボール箱を両腕の中に収めた。それでも先刻目にしてしまった光景に気持ちが引きずられ仏頂面を晒していると、佐々井が「あれ?」と小首を傾げる。

 

「まだふくれっ面してんの?」

「ふっ!?、別に膨れてなんかいませんっ」

「しょーがないなぁ。一本だけだぞ。教材運んでくれる御礼なっ」

 

佐々井は手にしていた菓子箱からスティック菓子を一本取り出すとそれを明日奈の口元に向けた。

 

「ほいっ」

「えっ?、い、いりませんってば」

「ほらほら」

 

スティックの先端はどんどん明日奈の唇へと近づいてくる。

 

「別にお菓子が欲しかったわけじゃっ」

「はい、あーん」

 

両手が塞がっている明日奈は懸命に首を横に振りながら可能な限り上体を仰け反らせた。それでもチョコレートでコーティングされている菓子の端っこが真っ直ぐ桜色の唇めがけて迫ってくる。最後には唇を固く閉ざして「んーっ」と拒否の音声を響かせるが佐々井は呑気に「遠慮しなくていいってば」と明日奈の口に挿入する気満々だ。

彼女の唇のあわいとチョコにおおわれた丸みを帯びた菓子との距離があと数センチという所まで縮まった時、突然、ぐいっ、と明日奈の両腕が斜め後方に引かれる。当然よろける様にバランスを崩すが左右の二の腕をしっかりとホールドされている為、醜態をさらすことはなかった。

少し痛いくらいに腕を掴まれている明日奈の頭の上から冗談を言うみたいな軽さで低い声が降ってくる。

 

「佐々井先生、そういうお菓子のあげ方、女生徒にはダメですよ。結城さんも、なに餌付けされそうになってるの」

 

けれど明日奈が驚いて見上げた先にある和人の顔は目だけが笑っていなかった。そんなちぐはぐな様子に気づいてないのか、佐々井は持っていた菓子をひっこめて「えっ、そうなの?、だって姫の両手、塞がってたしさぁ」と他意のなさをしきりと呟いていてから「ごめん、姫」と素直に謝罪を述べて、手にしていたスティック菓子を自分の口に押し込み一気にポリポリポリッとその存在を消す。

明日奈はすぐに自力で姿勢を整えると振り向いた状態で和人に「有り難うございました」と軽く頭を下げてから上目遣いで視線を鋭くした。

 

「けど、餌付けされているわけではありませんから。私より桐ヶ谷さんの方がよっぽど……」

「は?」

 

明日奈の脳裏にさっきまで同世代や年上の女性達に囲まれていた和人の姿が蘇っている。その中心にいた和人は少し困り顔にはなっていたが、遠目にも嫌がってはいなかったし差し出されたお茶請けをどことなく嬉しそうに受け取っていたのだ。今朝、教室に登壇した時も思ったが、この実習生は自分の見た目の影響力の自覚が足りないのではないだろうか?、と明日奈はその真っ黒い瞳を見つめて思う。

細身の体型ではあるが、脆弱さや頼りなさを感じるような身体の線ではないし、優しげな顔立ちでも心の強さを感じさせる瞳の力強さは一瞬で周囲を魅了する。加えて誠実でありながら親しみやすい言葉遣いで気さくな笑顔を振りまけば自ずと結果は見えるのに、と今朝からどこか浮き足だっているクラスの女子達の様子を思い出して明日奈は溜め息をついた。気持ちの高揚まではクラス委員が口を出すべき領域ではないとわかっているが、実習期間が終わるまで毎日あんなふわふわとした雰囲気の中で授業を受けなければならないのかと考えると頭痛がしてくる。

 

「ちょっと、結城さん。なんで溜め息?!」

 

ぎょっ、と驚いた顔で聞かれて明日奈はその質問に対しても漏れてしまいそうになった呆れの息を寸前で飲み込んだ。

どこまでこの人は鈍いのかしら……いっそ憐れみさえ芽生えそうになるが今の状況を顧みれば少しの違和感も生じる。ついさっきまで職員室の奥で女性陣に囲まれていたはずの和人が明日奈の窮地に気づき、素早くここまでやって来てくれたのだから……思わず自分まで心が浮き上がってしまいそうになるのを「こほんっ」と少々わざとらしい咳で諫めて、未だ自分の腕に和人の手がある事に気づき身体をひねった。

和人と相対する位置に立ち、溜め息の理由は黙秘で押し通して「桐ヶ谷さん」と落ち着いた声を出す。

 

「そろそろ午後の授業が始まります。屋上まで案内しますから付いて来て下さい」

「それって茅野君と約束したんだけど?」

「彼は生徒会役員に捕まってしまったので私が代役を頼まれました」

「茅野君って生徒会のひとなのか」

「前生徒会長です。代替わりしたばかりなので、まだ時々呼ばれるんです」

「そっか……それで結城さんが迎えに来てくれたんだ」

「はい、私もクラス委員ですから桐ヶ谷さんのフォローは当然です」

「ふーん。じゃ実習期間中はずっと仲良くしてもらえるのかな?」

「……クラス委員として、ですけど……」

 

両手で持っている段ボール箱を挟むように和人が明日奈との距離を詰めてきて、悪戯を仕掛けてくるような笑みで覗き込まれれば、居心地の悪さを感じた明日奈は頬の赤みを見せまいと顎を引いた。背後にいる佐々井は気づいていないだろうが、既に和人の手は段ボールの下に回り込んでいて、箱を持つ明日奈の柔らかな手を包み込んでいる。

一方、二人のやり取りを静観していた佐々井がその会話と職員室の壁に掛かっている時計で時間に気づき、ペペッと菓子をつまんでいた指を舐めた。

 

「やばっ、俺も午後イチの授業の準備しないと。じゃ、姫、桐ヶ谷君の事は宜しくね」

「あ、はい。わかりました」

 

佐々井の言葉に応じるタイミングで振り返って和人の手から脱出した明日奈は「段ボールは私が持ちますから、とにかく付いて来て下さい」と言って和人の横を通り抜け職員室を出る。その凛とした後ろ姿を肩をすくめて眺めていた和人は「りょーかい」と巫山戯た返事をして「ファイル取ってくるからそこで待っててくれ」と彼女に言葉を投げかけた。

 

 

 

 

 

和人を従える形で廊下を歩く明日奈は、キョロキョロと楽しそうに視線を飛ばしている背後の教育実習生の姿を盗み見ながら「はぁっ」とこっそり心労の息を吐き、眉尻を落とした。自分が校内を移動する時に浴びる様々な視線にはいい加減慣れているが、今はそれ以上に好奇の目に晒されている。かと言って並んで歩けば、それはそれで自分の方も色々ともちそうにない。

そんなこちら側の悩みなど爪の先ほどもわかっていない和人の様子に段々と腹も立ってきて、明日奈は無言のままひたすら屋上へと続く階段まで足を運び続けた。

 

「突き当たりの角を曲がるとご覧の通り、下に行く階段があるんですけど、その脇を通り抜けて進めば……この壁の向こう側に……ここです」

「なるほど、まるで隠し階段だな」

 

壁の終わりまで来ると、その影に隠れるように屋上へと続く階段が現れる。

 

「ここまで構造が入り組んでいるのはこの校舎の建物年代が古いせいで増改築を繰り返したからだそうです」

「ふーん、なんだかダンジョンの入り口みたいでワクワクするけど」

 

子供のように濡れ羽色の瞳を輝かせている和人が「ここに来るまでにも、一見、何の部屋かわからない扉もあったし」と言うのを聞いて明日奈は瞬時に自分の失態を察した。

 

「ごっ、ごめんなさいっ」

「へ?、なにが?」

「ここに来るまでに特別教室の前をいくつも通ったのに、私ったら全然説明しなくて……」

「あ……ああ、まぁ、いいよ。今度ゆっくり案内してもらうし。それより時間ないだろ。その観察キット、早く持っていかないと」

「あっ、そうだ」

 

明日奈は少しの気まずさを残しながらも改めて自分の手にある段ボールを持ち直し屋上へと続く階段を上り始める。後から上り始めた和人は一段飛ばしですぐに明日奈を追い越すと、一足先に屋上へと続く扉の前に立ちその取っ手に手をかけた。

ギギッと重い扉を動かして明日奈の歩みが止まらぬよう道筋を作ってくる。その気遣いを今度は素直に受け取って扉を押さえていてくれる和人の前を通り過ぎる時、ちらり、と視線を上げると表情の選択に困りながらも「有り難う」と伝えれば、優しい眼差しが返ってきた。

その微笑みから逃れる為、慌てて顔を反らし屋上へ降り立って周囲を眺めれば、既にクラスメイト達はほぼ集まっている状態だ。予鈴はまだ鳴っていないし担当教諭も到着していないが、それでも明日奈の性格上、授業の教材を持っている自身の責任を感じて急ぎ足になるが、ちょうど屋上ならではの突風が彼女の髪をぶわり、と巻き上げる。

踏み出した足を咄嗟に止めて「きゃっ」と小さな声をあげると、すぐ後ろから「待って」と身長差をなくす為に屈んでいるらしい和人の声が耳裏で聞こえた。あまりの至近距離に思わず固まっていると更に耳たぶに唇が触れているのではないかと錯覚する程の位置から秘め事を囁くような甘い声が明日奈だけに注がれる。

 

「髪ゴム、ポケットだろ?」

 

問うまでもない確信めいた言い方で、暗にポケットを探るからと承諾を得る為だけの言葉に何の否定も拒否反応も示す間なく、明日奈の制服のブレザーポケットに和人の手が滑り込んだ。既に右か左かなどという些末事は口にする程の事もないらしい。そこにあるのが当然とばかりに迷うことなく目当ての物を手に入れた和人は、屋上で思い思いに過ごしている他の生徒達が気づかぬうちに慣れた手さばきで明日奈の髪に触れた。片手は下からすくい上げるように手の平で髪全体を収め、もう片方は手櫛としてサラサラの指通りを楽しむように何度も梳く。艶やかな栗色の髪と白くて細い首、短い後れ毛に綺麗なうなじと盆の窪はなまめかしささえ感じられて、和人は知らずに唾を飲み込んだ。

 

「ん?……これでよし」

「……ありがとう」

「こんな入り口でなーにイチャついてるんです?」

 

振り返る事も出来ないまま、なんとか御礼だけを口にした明日奈は更に背後からの乱入者に声すら上げられず両肩を大きく跳ねかせる。

 

「ああ、茅野君。生徒会はもういいのか?」

「はい、授業に遅れるからと言って逃げてきました。一回捕まると余計な事まで手伝わされるんですよ。それより随分結城さんと仲良くなったんですね、桐ヶ谷さん」

「んー、オレは仲良くしてもらいたいんだけどさ、彼女、なかなか鉄壁で。ここ、風が強いだろ。髪が乱れてたからゴムで結わいてあげてたんだよ。オレ、妹いるから慣れてるし」

「なるほど。でも、結城さんの髪に触ったなんて男子生徒にバレたら本当に呪い殺されますよ」

「呪いって……わかった、気をつけるよ」

 

渋々明日奈から離れ、両手をハンズアップした和人は背筋も伸ばして降参をアピールした。距離を取ってもらえたことで緊張し続けていた肩の力を抜き、ゆっくりと振り向いた明日奈を見た茅野はその両手が塞がっていた事に改めて気づき、頷くもそのまま小首を傾げる。

 

「手が使えなかったんだ。それにしても珍しいな、いつもの結城さんならあそこまでの接近は許さないのに……」

 

茅野が漏らした小さな疑問の声は屋上の風に吹き飛ばされた。

 

 

 

 

 

夜…………マンションのリビングにあるテーブルでラップトップPCを開き学校の課題を進めていた明日奈は背後から近づいてくる足音に気づいて顔を上げた。と同時に自分と同じボディソープの香りを漂わせた存在が背中から力強く自分を抱きしめてくる。

一瞬詰まった呼吸と緩く編んだ髪をサイドに流しているせいで露わになっているうなじへの、チュッ、という刺激に「んっ」と鼻にかかった声が漏れた。キーボードを叩かなければならない指が止まない首筋への刺激と連動してピクッ、ピクッと震えるたびに明日奈の肌が段々と朱を深くしていく。何度柔らかな唇に触れられただろうか、火照った肌は首筋の体温も上げていて今は繰り返し降り注がれる湿った接触がひんやりと心地よく感じるほどだ。ぞくり、と腰から背筋をまっすぐに這い上がってくる感覚を追い払おうと、明日奈は震える声で愛しい人の名を呼んだ。

 

「キ……リト、くん……」

「なに?、アスナ」

「ひゃぅっ」

 

逆効果だった。うなじに吸い付かれている状態で自分の名を口にされた事で、普段陽に晒さない敏感な肌の上を彼の唇が悪戯に動き回り、結果、全身を疼かせる刺激に堪らず悲鳴のような声が飛び出す。その声がツボったのか「くくっ」と楽しそうに喉を鳴らして明日奈の肩に顎を乗せた和人はまるで猫のように頬を彼女の首筋にこすりつけた。

 

「学校の屋上ではヤバかったな。実習初日からこれじゃ、あと二週間、我慢できそうにない」

「はっぁ…………もうっ、うちでお料理してる時に髪をまとめてくれるのは助かるけど、学校でやるなんて思わなかったよ」

「だって全然アスナに触れられないし。それにさ、学校だとオレへの態度、違うだろ」

「あっ、当たり前でしょっ。学校では生徒と教育実習生なんだからっ」

「昼休みには担任に餌付けされそうになってるし」

「だから、あれは、ちがぁ……ぁんっ」

 

首元にすり寄せていた頬がいつの間にか舌に代わり、耳の下から鎖骨の辺りまで首筋をつーっ、と舐め降りてくる。

 

「それに男どもは『姫』『姫』って……」

 

『姫』の呼称は男子生徒や男性教諭からに限っているわけではないのだが、それを言うと更に機嫌を損ねそうだと、明日奈は訂正を諦めた。和人が身を乗り出して胸元が緩い明日奈のパジャマに顔を突っ込み鎖骨の下の柔肌にきつく吸い付いてくる。鈍い痛みを感じた事で赤い所有印の存在を確信したが、位置的には制服のブラウスでも体操服でも隠れるし、昼間、職員室で女性陣に囲まれていた和人を思い起こせば、彼からの余裕のないマーキングは明日奈に嬉しい安堵と少しの優越感をもたらした。

 

「『ヒメ』じゃなくて、オレの『ヨメ』だけど、って何度も言いそうになった……」

「……ひぁっ……そ……それ、ダ……メ……」

「『ダメ』って?、アスナがオレの奥さんだってバラすこと?、それともこっち?……」

「ふぁっ……あッ……んンッ……」

 

所有印の上を和人の舌がちろちろと傷口を癒やすように舐めてくる。痛みと呼べる程の痛みでもない、和人に印された痕の上を更に和人によって刺激されると、薄い皮膚の内側と外側の両方から攻めてくる違和感が徐々に甘い感覚へ変換されて次第に息が上がっていく。加えて明日奈のウエストで交差していた夫の両手はもぞもぞと不埒な動きを見せ始めていた。

このまま流されるわけにはいかない、と明日奈はキーボード上にあった自分の手でパジャマの下に入り込もうとしている和人の手を捕獲する。

 

「っン……はぁっ、はぁっ……だから……ダメッ。この課題、やっちゃわないと」

「んー、ホント、クラス委員の結城さんは真面目だなぁ。今日はずっとアスナのクラスにいられたけど、さずかに明日からは担当教科の先生と行動する事が多いから、学校ではあんま話せないぞ」

 

要は近くにいるのに接触できない分、今、存分に触れ合いたいのだと強請る漆黒の瞳を間近に見て、明日奈は宥めるように風呂上がりで僅かに湿っている和人の髪を頬で撫でた。

 

 

「その方が私としては落ち着くんだけど。だいたい何でうちのクラスに配置されたの?、普通は担当教科の先生のクラスでしょう?」

「佐々井先生の『イン・コミ』も全くの畑違いってわけじゃないし、そもそもオレの担当教科の先生は今期、クラス担任をしてないらしい」

「だからって…………」

 

しっかりと和人の手を押さえ込んだ形で会話を続けていた明日奈はひとつの推論に行き着き、眉間に皺を寄せた。

 

「あー……きっと、それも兄さんの仕業ね」

 

昨晩、夫である和人から、明日から二週間は教育機関のとある施設に研修に行く、とだけ告げられた明日奈はあまり深く考えずに、大学生でもそういう事があるのね、程度に受け止め、今朝はいつものようにお弁当を渡して「行ってらっしゃい」と見送った…………まさか二時間も経たないうちに同じ教室で顔を合わせるとは思ってもみずに。

なんとか平静を装ってその日の学校生活を終えてマンションに戻り、教育実習生の歓迎会を適当に抜けて帰って来た、という和人を「おかえりなさい」と出迎えた後、当然すぐに問い詰めたのだ。

 

『どうしてキリトくんが教育実習をするの?、大学を卒業したら今のアルバイト先の研究所への正式採用が決まってるでしょう?』

『浩一郎さんとの約束だったんだ。アスナと結婚するのに色々と協力してもらう為のね』

『だったら私にも教えてくれたって』

『うーん、それもさ、約束のひとつで。アスナには内緒にして驚かせようって』

 

和人と結婚するとき、自分の兄が反対するどころか両親や親族への説得まで味方になってくれた事に単純に喜んでいた明日奈は自分の浅慮さに落ち込んだ。あの若さで理事長をしている兄が何の見返りもなく妹の幸せを後押ししてくれるはずがなかったのだ。

きっと教育実習にやって来た自分の夫を教室で見て心臓が止まりそうなくらい驚き、それを必死に隠そうとする妹の姿を想像して楽しんだことだろう。その為に理事長特権で実習の話を内密に進め、配置も明日奈のクラスにしたに違いない。

そして実妹だからこそわかってしまう、それだけではない兄の思惑が……やり手の兄は既に国家機密さえ扱う国内トップクラスの研究所に採用内定がでている程の頭脳を持った妹の伴侶を、あわよくば、将来、学校教諭として自分の元に迎えたいのだ。その為に結婚への協力条件として「教員免許の取得」を掲げ、実習校の便宜も図ったのだと明日奈は確信していた。

我が兄ながら本当に頭の切れる人物だが、きっと妹の幸せを願って協力してくれたのも間違いなくて、明日奈は「ふぅっ」と息を吐き出してから、月に一度、理事長室に差し入れするお弁当の中身を来月は兄の苦手なピーマンづくしにしようと決意する。

 

「ホントに兄さんったら勝手なんだから」

「それでも、まだ学生であるオレのアスナを娶りたいっていう我が儘を叶えるためにあっちこっち手を尽くしてくれたのは事実だよ」

 

和人は数年越しの想いを実らせてやっと手に入れた、《現実世界》で法的にも伴侶となった明日奈をギュッと抱きしめた。

和人が明日奈と出会ったのは約四年前、《仮想世界》のキリトとして偶々MMORPG初心者だったアスナにゲーム世界での楽しみ方をレクチャーしたのがきっかけだった。それまでどんなに親しくなった女性プレイヤーであっても「結婚しよっか?」と誘われた途端、困り顔の中に曖昧な笑みを浮かべ「ごめん」と断ってからそれまでの関係性を続けられなくなり疎遠になるのがパターンだったキリトが、なぜかアスナには特別な感情を抱いたのである。自ら「結婚しよう」と告げた相手は彼女が初めてだったし、その言葉は《現実世界》でも同じ女性にしか口にするつもりはなかった。

共に二年間という時間の半分以上を《仮想世界》では夫婦という間柄で過ごした後、アスナが《現実世界》で高等部へ進学するのを機に自立の為に家を出て一人暮らしをするつもりだと知った時、既に大学生であり自らの才気と努力で特殊な研究所でのバイトも始めていた和人は結婚を前提に同棲生活を申し入れたのだ。

ただ、その為には彼女の両親から承諾を得ねばならず、それが生半可な気持ちでは通じないことも覚悟していたが、そこに思いもよらない協力者が名乗りを上げてくれたのである。それが彼女の兄だった。力強い味方のお陰もあって双方の両親から許しをもらい二人での生活をスタートさせ、《現実世界》でも二年が経った時、和人は明日奈が十八歳の誕生日を迎えるのを待って今度は正式に結婚を申し込んだのである。

当然、周囲からは難色の色が示された。あの時、心から喜びを表してくれたのは明日奈だけだったと言ってもいいだろう。

既に進学先の大学も合格が決まっていた明日奈には「大学を卒業してからだって」や「せめて二十歳すぎてから」「高校卒業まであと半年もないのに」といった言葉の数々が和人の想像以上に浴びせられたに違いない。

そのひとつひとつに対し「妹は笑顔で『半年後でも二年後でも四年後でも、私が和人くんのお嫁さんになりたいって気持ちは変わらないの。だったら今でもいいでしょう?』と嬉しそうに答えているんだよ」と、兄の浩一郎から聞いた和人はそのまま将来の義兄を置き去りにして明日奈の待つマンションへ走って帰ったのだ。

そして明日奈の両親も娘からの根気強い説得と、和人の丁寧かつ誠実に婚姻を熱望する姿勢に加え、息子からのとりなしもあって、ついに二人の仲を認めたのである。

しかしながら当然、不要な混乱を避ける為、和人と明日奈が結婚した事はそれぞれの大学や高校には伏せられていた。だから明日奈も今朝、教室で和人を紹介された時、驚きは一瞬ですぐに困惑と憤りが膨らんだし、和人とは初対面を装ったというのに当の本人はニコニコと他の女生徒を始め女性教諭らと談笑しつつも気まぐれに自分に触れてくるものだから今日一日は振り回されっぱなしだったのだ。

改めて思い返すと少し前に入ったお風呂で流したはずの疲れがぶり返してくる。

 

「どうせどこかのタイミングで挙式をするんだから、いずれバレるだろ?」

 

彼の言うタイミングとは和人か明日奈が大学を卒業した時か、はたまた今はちゃんと対策をとっているが新しい家族を望んだ時か、とにかく今でないことは確かだと、明日奈は心を強く持った。教育実習生と配置先のクラスの女子生徒が実は夫婦でした、などと知られてはこれからの二週間、平穏な学校生活を送るのはまず不可能だ。いや、和人は二週間しか学校にいないが、明日奈はこの先、卒業するまで在籍するのであって、今回の事で和人を知る生徒や教師が急増してしまったのに、今後一人でその好奇心のただ中に居続ける度胸は自分にはない。

数年後に二人が晴れて夫婦であると公表した暁には高校の友人達から質問攻めにあう気がするが、それはその時考えよう、と明日奈は腹をくくった。

 

「とにかく実習期間中、学校ではクラス委員として、教育実習生の『桐ヶ谷さん』に接しますからっ」

 

妙に丁寧な言葉遣いが気に障ったらしく、和人が不満げに唇を突き出して反撃を試みる。

 

「ふーん、もっと言うならアスナは『姫』でも『結城さん』でもなく、もう『桐ヶ谷明日奈』なのになぁ……」

「学校では『結城明日奈』で登録したままだものっ」

「……まっ、仕方ないか。アスナもオレのこと『キリトくん』って呼ばないように注意しろよ」

 

出会いが《仮想世界》だった為、互いの呼称はキャラネームのまま実生活を送っている二人だったが、実はうっかり呼びそうになってしまった日中の場面を思い出して明日奈が頬を染めれば、すぐに心中を察した和人が揶揄いの言葉を続けた。

 

「明日は一緒にお昼を食べて欲しいってクラス委員さんに頼んでみるか……そうだ、中庭に丁度良いベンチがあったっけ。どう?、結城さん?」

「そ、そんなのダメに決まってるでしょっ」

「なんで?」

「あそこの中庭、カフェテリアから丸見えだし。それにお弁当の中身が一緒じゃないのっ」

「うん、アスナが作ってくれた弁当、今日の職員室でも皆驚いてたよ」

 

誰が作ったんですかっ?、ってしつこく聞かれて参った…………と聞いて、明日奈の眉がへにょり、と垂れ下がる。

 

「お弁当、実習期間中は持って行くのやめておく?」

「どうして?」

「だって……色々聞かれたら、困るでしょう?。キリトくん、そういう事で嘘つくの嫌いだし……」

「別に、嘘なんかつかなくても適当に誤魔化せるさ。それよりアスナの弁当がなくなる方がよっぽど困る」

 

それからマンションには二人しか居ないというのに、和人は内緒話をするように明日奈の耳たぶに唇を近づけた。

 

「オレの一番のエネルギー源だし。まあ、実習期間中、時々一緒にカフェテリアで食べるのもいいな…………それなら、いいだろ?、クラス委員さん?」

「んぅっ……クラス委員の茅野くんも……一緒なら……大丈夫、かな」

「……はぁっ、その実直さもアスナらしいんだけどさ」

 

感心しているのか、呆れているのか、再び明日奈のうなじへと鼻先を密着させた和人は上気した肌からあがる甘い香りを胸一杯に吸い込む。それから、ふと今日の午後、学校の屋上で同じように妻の首筋を見て抱いた疑問を思い出した。

 

「あれ?、でも、アスナ。昼間、首にチェーン付けてなかったか?」

「ぴゃぁっ」

 

今更チェーンの痕跡など残っているはずもないのに、確かに見たのだと証明するように和人の唇がうなじの下をぐるり、と啄む。刺激の再開に反応した声なのか、それとも聞かれるとは思っていなかった質問だったのか、少々素っ頓狂な声を発した明日奈は珍しく「あ……んっ……えと……」となかなか言葉にならない。

それでも更に迫るような口調で「あのチェーン、なに?、立派な校則違反だよな?」と誤魔化しが効かない事を痛感する言い方で問われれば、明日奈は観念したように「……あれは……ね」と言いながら後ろにいる和人へと振り返った。顔のすぐ横に左手を挙げて見せる。

何を意味しているのかがわからず、和人が怪訝な顔をすると明日奈はその薬指にはめているマリッジリングを見て小さな声で「これ」と恥ずかしそうに呟いた。

 

「えっ?」

「だから……制服の時はチェーンに通して首にかけてるの……結婚指輪」

「アスナ……」

 

アクセサリーの類いが校則違反だということはクラス委員でもある明日奈が知らないはずがない。けれどイヤリングや指輪のように目に付くような装身具でなければ、たとえ校内で付けていたとしても黙認してくれるのが実情だった。しかし真面目な明日奈なら咎められなくても違反と定められている事をするはずがないのもわかりきっていて、それでも結婚指輪だけは肌身離さず持ってくれているのだと知った和人は堪らずに振り向いたままの妻の唇を塞ぐ。

 

「んっ……ふぁ……あッ……ン」

 

指輪を見せるためにあげていた左手は、快楽に捕らわれまいと助けを請うように和人の寝衣の胸元をくしゃりと掴んだ。より強く、より深くと求めるように横向きのままの明日奈の頬を抱き込むようにして手の平を這わせ、もう片方で細い肩を抱き寄せる。肌を舐めた時や上気した匂いを嗅いだ時よりも直接彼女の内を味わう方が数倍も甘く感じるのはなぜだろう、と思う理性も、時折あがる明日奈の鼻にかかった嬌声で耳を刺激され、羞恥とその奥に見える淫らな欲望が溶け込んだ美しいはしばみ色を目にしてしまえば、すぐに焼き切れた。

これじゃあ十代後半の本能が服を着ている男子生徒達と変わんないか…………と頭の片隅で思うものの、まさに自分もその歳の頃に《仮想世界》で、とは言え、当時中学生だったアスナに結婚を申し込んだのだから、男の本能って怖いもんだな、と茅野から言われた「呪い殺されます」発言に今更ながら納得する。

確かに、今の関係にまで発展していなければ、学校で明日奈の本意ではなくても男子生徒に言い寄られていると知ったら自分もその相手を呪うくらいするかもしれない、と彼女の咥内で舌を遊ばせながら和人は考える。同時に明日奈が婚姻可能年齢に達してすぐ結婚を申し込んだのは正解だったと、和人は自分の判断を心から賞賛した。

自分の腕の中で蕩けている妻は桁違いの器量よしで時にそこらの軟弱な男より男前な部分もあり、かと思えば料理上手の家庭的な一面を併せ持つという多才で魅力あふれる存在だ。加えて結城財閥の一人娘でもあり有名私立校の理事長を兄に持つ文句の付けようがないお嬢様なのである。彼女を狙うオオカミどもは同世代の男子生徒だけに留まらず、同じ高校の若い教師や財界の子息達もその群れに名を連ねるだろう。

そんな彼女がこうやって自分にだけはどこまでも触れる事を許し、あまつさえ強請るような言葉と仕草まで向けてくるのだから、男として夫として、歓喜に震えるしかない。

絡めた舌を解き、わざとピチャピチャと音が立つように彼女の舌をくすぐってやれば、音と刺激に反応して両肩をふるり、と揺らし、堪えきれない快感が涙と共に零れ落ちる。それを拭うことも出来ず、和人の唇や舌で与えられ続けている愛撫に明日奈はどんどんと追い込まれている自分を感じていた。

こんな風に和人によって乱されるのはとても困惑するのに、それを嫌だと思う感情がこれっぽっちもみつからない。

普段の自分からは想像も出来ないような甘ったるい声は恥ずかしくて、けれど抑える術もなく、そんな声が素直に出てしまうと和人の瞳が嬉しそうに細くなり、自分の内の彼の舌がもっと深い部分をこすってきて、それを気持ち良いと感じてしまう自分にまた困惑するのだ。

さっきまで自分の舌を弄んでいた和人が今度は誘うように角度を変えて触れてくれば一人では出せない音が咥内で生まれて、隙間なく唇を塞がれているせいでそれが直接脳に響いてくる。こうなってくると徐々に明日奈の感覚はひとつに絞られ、ただ和人の熱しか感じられなくなり、その熱をもっと、と望んでしまうのだ。

和人の胸元を掴んでいたはずの手もすっかり力が抜けて、いつの間にか、ただそこに触れているだけになっている。

口づけを解いたらすぐにバランスを失って倒れ込んでくるだろうと予想し、和人は次の段階に進むべく最後に彼女の唇を舐めると素早く明日奈の隣に回り込んで、その小さな頭を受け止めた。抱き上げて寝室へ運ぼうとすれば、ぼんやりとした視線だけがゆらり、とテーブルに置きっ放しのPCへ落とされて、それが何を意味する気がかりなのかを悟った和人は軽く苦笑いをしてから明日奈の額に唇を落とし、囁く。

 

「課題の締め切りにはまだ日にちがあるんだから、今夜はこのまま……いいだろ?」




お読みいただき、有り難うございました。
JKと教師(今回は教育実習生ですが)モノ、王道です(笑)
とは言え、すでに入籍済みですが……。
(今度、婚姻可能年齢が女性も18になるので使わせていただきました)
本当にタイトル通り「もしも……」のif設定でございます。
ここまでくると《かさ、つな》のパラレルですね(苦笑)
あまりにもパロすぎて受け入れられない、という方が多くないといいのですが……。
(それだと感謝投稿にならない)
この設定は今回限りですのでご安心を。

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