ソードアート・オンライン《かさなる手、つながる想い》   作:ほしな まつり

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予定外で投稿した前作も《仮想世界》が舞台ですが、こっちが本来
「久しぶりの全編《仮想世界》です」と前書きするはずだったお話です(苦笑)



her true character

「場所を変えましょう」……そう言われてキリトがやって来たのは《現実世界》だったらそう簡単に辿り着く事は叶わない巨岩に周囲をぐるっと塞がれた平地だった。三百六十度、大小さまざまな形を成した岩が余所者の興味からこの場所を守るように配置されている。大小と言っても「大」に比べれば「小」と言うだけで、一番小さな岩でも高さはゆうに五メートルは越えおり、それらの岩達が複雑に重なり合う事で分厚い壁となってこの平地を観客のいない闘技場にしていた。

その平地のほぼ中心部に立ったキリトは自分から数メートル離れた場所に相対している少女をジッと見つめる。

同様に向かいの少女もキリトに挑むような視線を返していた。

人が通れる程の隙間はなくとも風はすり抜けられるのだろう、岩の間から、ヒィーッという叫鳴のような高音と共に強い風がキリトの纏っている黒いコートの裾をはためかせ、続いてその先にいる少女の長い栗色の髪をかき上げる。

《現実世界》ならば風と一緒に細砂や小さなゴミが運ばれてきそうで思わず目を瞑るか顔を背けるだろうが、幸いにもここは《仮想世界》だ。異物の混じっていない純粋な空気の強流なので、例え口を開けっ放しにしていたとしても「ぺっ、ぺっ、うぇっ」となる事はないし、手で顔を防護する必要もない。

それでも少女は一旦舞った髪を落ち着かせる為、後頭部を手の平で撫でつけ、顔にかかった髪は斜め上に顔を傾け同時に手の甲で勢いよく後ろにはらった。

 

「じゃあ、始めましょうか?」

「……本当に……やるのか?」

「ここまで来て何を言ってるの?」

 

少女の細い眉が歪み不機嫌を表す。はしばみ色の瞳は敵意に近い挑戦的な輝きを放っていた。彼女の右手が既に細剣を握っているのを見て、諦めたように深く息を吐き出したキリトは自分の背にある愛剣の柄に手をのばす。

その動きで渋々でも自分と剣を交える気になったのだと判断した少女は何の前触れもなくキリトめがけ、草が一本も生えていない土塊ででこぼこの地面をブーツのつま先で蹴った。

細い剣が自分に向かって真っ直ぐに伸びてくる軌道を目で捕らえながらも未だにやる気のないのんびりとした瞳で薄青い片手剣を引き抜く流れのまま、その剣先をいともたやすく跳ね返す。けれどその程度の動きは予測済みだったのだろう、少女は唇をギュッ、引き締めただけですぐさま体勢を立て直し、今度は下からすくい上げるようにキリトの顔を目指してくる。しかし、それも僅か顎を反らせるだけで回避され、細剣は空しくも空を切った。

とんっ、とんっ、と後退して少しばかりの距離をとった少女が細い身体を跳ねかせるリズムを崩すことなく、今度はそのまま前へと跳ねる。剣と共に腕を伸ばし、キリトが避けても避けても次々と素早い動きで突きを繰り返した。しかしキリトの表情は相変わらず冷静なままで何度かその攻撃をかわした後、スッと腰を落として長剣を水平にはらう。

突然繰り出された攻撃に一瞬、目を見開いた少女だったが咄嗟に上体を倒し片手を地に着けて身体を支え、そのままバク転を何度か繰り返して岩壁の近くまで移動し、キリトから離れる。ちなみにこの戦いが始まってからキリトはその場から一歩も動いてはいなかった。片や少女の方はこの数分で何度もキリトに接近し剣を繰り出しているが、その刃は目的とする対象物に触れる事はないし、唯一の接触は自分の攻撃をはじき返される時の剣刃同士だけだ。

今だって、キリトは平然と少女に背を向けたまま剣を構えることなく、ただ、そこに立っている。

その後ろ姿を見て悔しそうに顔を歪めた少女は栗色の髪を揺らして頭をふるり、と振ると、一転、目を細めて少し威圧的な声をあげた。

 

「そこまでの実力があるのに、なぜトーナメント戦に出ないの?」

 

その問いかけに答えることすら面倒くさいと言いたげな緩慢な動きでキリトが振り返る。

けれどその唇は一向に開く気配すらなく、それどころか漆黒の瞳は「まだ続けるのか?」と逆に少女に問いかけていた。

 

「答える気はない、ってことね…………まぁ、いいわ。ここで勝負をつければいいんだから」

 

ふぅっ、と細く息を吐き出し気持ちを整えた少女は改めて柄を握り直し、半身を引いて細剣を垂直に備える。細剣使いならではの突進技を仕掛けてくるつもりなのは誰が見ても明白だが、それでもキリトは剣先をだらり、と地面に落としたままだった。

構わずに少女が地を蹴り「はっ」という気合いの声が聞こえたと思った瞬間には既に細い刃の先端がキリトの身体を突き刺すか、という距離にまで迫っている。振り返る勢いを利用して長剣を斜めに上に引き上げ、その剣を弾いたキリトはぽそり、と「速さ(スピード)は悪くない」と呟いた。その言葉に侮辱を感じた少女は頬を怒りに染め、続けて二撃目を繰り出す。

けれど相変わらず飄々とした動きでそれをかわすキリトは先程と同じように、何の感情も宿らない声で「正確さ(アキュラシー)は合格点だな」と落とした。益々頭に血がのぼった少女は剣技とは言いがたい荒々しさで剣の刃先をキリトの顔に向け突き出した。

今度はキリトも半身を捻り、目の前へと急速に迫ってくる剣先を避けると同時に空の手を少女へ向かって伸ばし、肩をぽんっ、と弾く。それほど力は籠もっていなかったものの、相手の予想外の動きに中途半端な反応になった事と小突かれた影響で思わず片足がよろめいた。すぐにもう片方でふんばり醜態をさらさずに済んだが、それを冷ややかな目で見ていたキリトは既に勝負はついたとでも言いたげに肩の力を抜く。

 

「身体全体のバランスが悪い。腕だけで強引に剣を操ろうとするから別の所に負荷がかかるんだ。今みたいに外部からのベクトルが加わると簡単に崩れるだろ。例えば……」

 

今まで移動する事のなかったキリトの片足が大きく一歩を踏み出した…………かに見えた動きは一歩どころではなく、あっと言う間に相手との間合いを詰め、構える暇さえ与えられず多方面からの強い衝撃を数回受けたのだと理解した時には少女は既に地面に座り込んでいた。

 

「……え?」

 

HPカーソルは一気にイエローゾーンの半分以上まで削られている。

 

「嘘……これが…………」

 

軽くいなされた後とは言え常に相手から視線を外さず気を張っていたのに、動きさえ追えず攻撃された箇所は今になって気づく肌をチリチリと焼く感覚でようやく認識できた。信じられない物を見る目でキリトを見上げる少女からは怒りも焦りも消え去っていて、さっきまでの勢いは明らかに格の違う相手によって無残に切り刻まれ、そこにはもう悔しさからこみ上げてくる涙を懸命に堪える弱者になり果てている。

今なら素直に答えてくれるだろうか?、とキリトが口を開きかけたその時だった、足元からミシミシと細かな振動を感じて視線を下に向ければ、いつの間にか地面に細かな亀裂が生じている。

すぐにその場を離れる決断を下したキリトだったが、未だキリトからの攻撃のショックと突然の揺れに対処しきれず唖然としたまま座り込んでいる少女を視界に納めれば、考えるよりも先に身体は前へ飛び出した。

けれどキリトが飛び出した先を通せんぼするかのように、一気に土塊が膨れあがり破裂する。

その風圧と共に押し寄せてくる土煙、小さな砂も紛れて飛んできたのだろう、粉塵のベールで朧気な輪郭しか確認出来ないが、少女の「きゃぁっ」という悲鳴のすぐ後に「やだっ、髪の毛グチャグチャ……」と不満気な声が聞こえてきた。どうやら硬直状態からは抜け出したようだが、声の位置から察するに未だ座り込んだままでいるらしい。ひとまず無事なようだ、と安心したキリトは改めて地面から現れた黒い影に意識を集中させた。

そして土埃が収まってみれば地面を割り出てきた正体は真っ黒な巨大蜘蛛モンスターだった。

四対の長い歩脚とは別に捕食器官である大きな触肢は攻撃に特化した鎌状となっている。けれど、それ以上に不気味なのは《現実世界》に生息している蜘蛛ならありえない数の眼が黒褐色の胸頭部を斑点模様のように覆い尽くしていることだった。

 

「雰囲気からしてモンスタークラスは中の上ってとこか……」

 

どこを見ているのかわからない……いや、無数の眼を保有している巨大蜘蛛に死角はないようだ。それこそ地中にでも潜らない限り地面を底辺として半球状に網羅されている視界から逃れることは不可能だと悟ったキリトはさっきまでとは一転、漆黒の瞳に戦意の火を灯す。

ゆるく持っていただけの剣の柄をぎゅっ、ぎゅっ、と繰り返し力を込めて握り芯を捉える。片足でトントンと地を踏み、初速で一気に加速をかける足場を確保した。

 

「あんま時間ないしな」

 

余分な力を吐く息に混ぜ、最後に独り言を混ぜて全てを空にしてから新しい空気を軽くスッ、と取り込み、目標物を改めて視認。巨大蜘蛛めがけ突進した。

初めから蜘蛛との距離はさほどない。走り出す一歩目に全力を掛け可能な限りの瞬発力を引き出し、敵が反応するより先に接近戦に持ち込みたかったのだが、キリトが蜘蛛の胸頭部と腹部の境目を狙って突き出した剣先はその隙間を突く前に鎌状の触肢によって弾かれる。何度攻撃してみても触肢の間合いに入った途端、剣を受け止められ圧倒的な力で振り払われる、の繰り返しだった。

そのうち、防戦一方だった大蜘蛛が今までにない動作を始める。

しきりと鎌で威嚇をしながら腹部をピクピクと揺らし始めたのを見て、何かの予備動作だと気づいたキリトが一旦後退をしようと身体を傾けた時だ、腹部の後端にある突起から真っ白な細糸が束になって飛び出してきた。糸はキリトの全身を包むように等間隔に大きく広がりながら伸びてくる。

すんでのところで糸を避け後方に飛び退いたキリトは、自分が今までいた場所に獲物を捕らえ損ねた無数の糸が勢いを失って地面を覆い尽くすほどに重なり合い、光の粒子となって消えゆく様を眺めた。あと一歩遅ければあの数多の糸に絡め取られ、蚕の繭のようになっていたに違いない。けれどあまり広範囲に糸は届かないらしく、距離を取ったキリトに向け、再び糸が吐き出される事はなかった。

束の間の小康状態に、一時、緊張を緩め、息を吐く。

と、背後から呪いの言葉でも紡ぐようなおどろおどろしい声が忍び寄ってきた。

 

「……やっぱり……アナタ……」

 

蜘蛛モンスターとの攻防ですっかりキリトに存在を忘れられていた少女が、結局動けなくなってしまった場所から一ミリも移動することなく未だにペタリ、と座り込んだまま上目遣いにキリトを睨み付けている。

蜘蛛が出現した時、キリトがその場からの離脱を選ばなかったのはひとえに腰が抜けたように動けなくなっている少女を見捨てておけなかったからなのだが、本人はそんな理由になど全く気づいてもいないのだろう、先刻から繰り広げられているモンスターとキリトとの戦いを見て自分の考えが正しかったのだと自信を得た彼女は益々キリトへの視線を鋭くさせた。

 

「あのデスゲームで攻略組にいた黒の剣士でしょっ」

 

まるで推理ドラマのラストで独擅場を演じる探偵か刑事の如く、誰も予想していなかった真犯人を名指しした勢いで二つ名を言われたキリトは、思わず振り返って「うえっ?!」と声を裏返した。

まさかそれを確かめる為に剣の手合わせを申し込まれたのだろうか?、と今日、初めて会った風妖精族の少女の唐突で半ばケンカ腰の要請の真意を考える。ただ、初対面ではあったが、この少女の噂は少し前から耳に入っていたから、キリトの方も問いただしたい事があって、その要請を受けたわけだが……この状況下であの鋼鉄の城での身バレについて素直に認めるべきか、はぐらかすべきか、と逡巡していると追い打ちを掛ける少女の言葉が飛び込んできた。

 

「知ってるんだからっ。アナタ、攻略会議でいっつもアスナさんに楯突いてたそうねっ」

「はがっ??!!」

 

どうやら、目の前の栗色の長い髪にはしばみ色の瞳を持つ風妖精族の少女は自分と同じく二年間を《あの世界》で生き抜いた生還者(サバイバー)なのだろう、と認め、キリトは思わず開いてしまった口をそのままにして真っ直ぐ少女を見下ろした。確かに攻略会議においてはアスナの立案に何度か意見した事はあったが、それが「いつも楯突く」という表現になるのだろうか?、と思考していると、その態度が益々火に油だったらしく、更に少女の声が爆発する。

 

「しらばっくれようとしても無駄よっ。あのアスナさんに逆らうなんて。女性の彼女が最強ギルドの副団長をしていたのがそんなに気にくわなかったのっ?、いくら剣士としてのレベルが高くても、そんな嫉妬、男として最低だわっ」

「うえぇっっ???!!!」

 

初めて声を掛けられた時からやけに敵意を感じさせる物言いだと思っていたキリトはここに来て、ようやくその原因に当たりをつけた。アスナを彷彿させる髪と瞳、それに《かの世界》での戦闘時において、筋力値に物を言わせて空間を翔るが如きアスナの姿を再現するのなら飛行速度に長けているシルフの種族選択も頷ける。彼女のアバターの意味をなんとなく理解した所でキリトはずっと聞きたかった疑問を口にした。

 

「それで、なんでアスナのふりをしてオレに近づいたんだ?」

 

SAOというデスゲームの世界から抜け出す為、常に最前線で戦い続けてきた「攻略の鬼」、血盟騎士団のアスナが今度はALOに現れたらしい、という噂を耳にしたのは桜の開花宣言が日本列島の半分を通過した頃だった。もし、その話を聞いたのがそれより二ヶ月程前だったら、キリトはそれこそ血眼になってその姿を探し求めただろう。しかし、《現実世界》の明日奈の病室の窓から見える景色にも段々と春の気配が感じられるようになり、天気の良い昼間なら上着を羽織って自分の押す車イスに乗り、病院の中庭を散歩できるまでに回復した明日奈の笑顔を知っているキリトにとっては、ALOの人物がアスナ本人でない事はわかりきっていた。けれどいくら経ってもその噂は消えることなく、それどころか偽アスナはトーナメント戦に出場して、かなりの上位まで勝ち進んだというのだ。

一体、何が目的なのか…………気にはなっていたが、彼女自身が自分は元血盟騎士団のアスナだと公言する事もなかったようなので、わざわざ会いに行く必要もないか、とそのままにしておいたのだが…………偶然にも今日、あろう事か当の本人から声を掛けられ剣の相手をしている最中、モンスターに襲われ、彼女からは心当たりのない非難の言葉を浴びせられ……「男として最低」にはかなり抉られている。

けれどシルフの少女は不本意とばかりに、目を怒らせて、ガッ、と立ち上がった。

 

「近づいた、とか言わないでくれるっ。私はアスナさんの代わりに黒の剣士、アナタに剣で勝って、ひとこと言ってやりたかっただけよっ」

 

えー……、剣で勝ってないくせにしっかり文句は言ったじゃないか……という表情で見返すが、そんなキリトの冷めた視線など物ともせずに少女は喋り続けた。

 

「私はただアスナさんに憧れているだけなのっ。本人だと偽る気もないわ。あの鋼鉄の城から解放されて《現実世界》に戻って来た後、このALOでキリトと名乗る黒づくめのスプリガンがいるって聞いて、それが《あの世界》のキリトと同一人物かどうか確かめにログインしたのよ。で、その時忘れていた事に気づいたの。SAOだとアバターは《現実世界》の自分とそっくりだったけど、本来、ゲームの《仮想世界》なら好きな姿に設定できるんだって」

「だから……その姿にしたのか……」

「そう。けどいくらアバターをいじっても《あの世界》のアスナさんの方が綺麗なのよね。一体《現実世界》じゃどんな美少女なのっ、て話よ」

「うん、それに関しては大いに賛同する」

「やっぱりアナタ……最低ね」

「へ?……あっ、違うよっ。君よりアスナの方が、って意味じゃなくて。《現実世界》での明日奈が、って話で……」

「ま、いいわ。とにかく、アナタがあのキリトだったら、トーナメント戦で叩きのめしてやろうと腕を磨いてたんだけど、いつまで待ってもエントリーしてこないし」

「だから声を掛けてきたのか」

「そうよ。叶うなら『ホンモノ』のアスナさんがALOにログインしてくれると嬉しかったんだけど、今のところそれらしい人はいないみたいだし、だったらアスナさんの代わりに自分が、って思ったの」

「そうだな、もう少し慣れたら一緒にトーナメント戦に出たいって言ってたけど……」

「何の話?……まあ結局、私の剣じゃアナタの足下にも及ばなかったわけだけど、言いたい事は言えたから気は晴れたわ」

「勝手だなぁ……」

 

気は晴れた、と言い切るだけあって、すっきりとした顔つきになった少女とは反対にキリトの方は理不尽さを隠しきれない。それでも彼女は相変わらずお構いなしに自身の剣を鞘に収めると両手をキリトの両肩に乗せた。

 

「自業自得よ。アナタがアスナさんを妬んで突っかかったのがいけないんでしょ」

「だから、それって……」

「はいっ、今の相手は私じゃなくて、こっちっ」

 

キリトの肩を掴んだまま片手を引き、もう一方の片手を押し出す。まさにクルリ、と回転させられたキリトの目前には巨大蜘蛛が音も立てずに迫りつつあった。

 

「うげっ」

 

糸を吐き切ると一定時間活動を休止するのか、先程の攻撃を躱してから追撃がなかった事に今更気づいたキリトは、なんだか充電マックスといった巨大蜘蛛のヤル気さえ窺わせる軽やかな足運びを見て片頬を引きつらせる。完全に獲物をロックオンした無数の眼全てがキリトを捉えていた。何の対策も浮かばないままドンドンと距離が近くなる蜘蛛に向け先に打って出るべきか、背後の少女と共に回避行動へ移るべきかを天秤に掛ける。しかしその天秤が傾く前に、ん?、とキリトが視線を泳がせた。同時に後ろからぽんっ、と軽く背中を叩かれる。

 

「私の動き、スピードは悪くないんでしょ?、だったら……」

「えっ?!」

 

突然、シルフの少女がキリトの影から飛び出し猛ダッシュをかけた。

 

「囮になるわ」

「バカっ、無茶だっ」

 

標的が二つに分かれようともそれを捕捉する眼はいくらでもある。キリトのその思考を肯定するように蜘蛛は足を止め、その眼の半数ほどが少女を追跡し始めていた。更に動く物を優先的に狙う習性でも備わっているのか、先刻と同様に再び腹部を揺らし始めているのに気づいたキリトは、させまい、と自らは正面から蜘蛛に突進する。

大きく跳躍して上から頭部を狙うように剣を振り下ろせば当然の如く蜘蛛の鎌が旋回してくるが、それを身体を捻って足場にし、鎌を蹴って更に飛んだ。狙いは糸が噴出される出糸突起だ。

しかしキリトの意図を察知した蜘蛛が素早い足の動きで身体の向きを変えてくる。少女に向いていた糸の放出は一旦阻止する事が出来たようだが、瞬時に突起への攻撃から胸頭部と腹部の切断へと狙いを切り替えたキリトの剣は蜘蛛が体勢を変えた事で鎌の間合いに入ってしまい、あえなく防御された。

キリトが攻撃を仕掛けたのを見て、走るのを止めた少女のすぐ前に着地したキリトだったが、打つ手なし、と言いたげに肩を落とし大きく息を吐く。

そんなスプリガンの後ろ姿を見た少女のはしばみ色の瞳もまた囮の効果がなかった事で諦めの色に覆われようとした時だ、この状況に不似合いなほど軽い口調でキリトがポソリ、と呟いた。

 

「あー、オレも正確さ(アキュラシー)はまだまだだな……って事で……」

 

ふっ、と顔を上げ、周りを囲んでいる岩場の一点へと視線を固定する。

 

「そろそろ手伝って欲しいんだけど……アスナ」

 

キリトにつられて声が飛んで行った方向に目を向けた少女の耳へ、岩影から流れ出る細い吐息だけが辛うじて届いた。

巨岩郡の間に隠れていたらしいアトランティコブルーの髪の毛先が風に揺れてさらりと顔を出す。続けて響くブーツの音。コツ、コツ、と少しずつ音が大きくなれば、そこにはまさにホンモノの妖精かと錯覚する程の清楚さを滲ませたウンディーネが現れた。

 

「もうっ、相変わらず信じられない索敵スキルだね、キリトくん」

 

かくれんぼで鬼に見つかった子供のように小さな桜唇を尖らせ、柳眉をうねらせて、澄んだ湖を思わせる彩碧水の瞳で不満そうに見つめられたキリトは苦笑をひとつ落とすと「悪い」と素直に反省の言葉を述べる。

 

「すぐ戻るつもりだったんだけど……待ち合わせの時間、過ぎちゃったか?」

 

それを聞いて、ふるり、と顔を横に揺らしたアスナは、とんっ、と岩肌を蹴り、同時に翅を出して綺麗な放物線を描きながらキリトの元へと舞い降りた。

 

「大丈夫。ちょうど今頃かな」

「?……だったらなんで?」

 

待ち合わせ時間をすっぽかしたからわざわざやって来たのだろう、と思っていたキリトが怪訝な顔をすれば、今度はアスナの表情が一転して微笑みに変わる。

 

「なんとなく?……探しに行った方がいい気がして、ユイちゃんにお願いしてキリトくんのプレイヤーIDの場所を教えてもらったの」

 

さすがに何の手がかりもなくALO内でたった一人を短時間に見つけ出すのはキリトの索敵スキルでも無理だろう。「ちょっとズルしちゃった」と笑うアスナだったが、キリトにしてみれば自分の索敵スキルなどよりアスナの勘の方が遙かにとんでもない代物だ。

 

「っと、今はあまりお喋りしてる暇はないのよね。あの蜘蛛モンスター、キリトくんは鎌をお願い。私は眼をやるから」

 

即座に作戦を立て、それを口にすれば、キリトが短く「ああ」と従ってアスナと並び立ち「行くぞっ」と声を掛け走り出す。

先にキリトが仕掛け、二、三度打ち込み、最後に思い切り振り下ろされた重い長剣を軋みながらも受け払った蜘蛛の鎌がそのままの勢いで大きく上へと浮き上がればすぐさまキリトの「スイッチ!」という声に応じてそこに出来た無防備な空間にアスナが飛び込み、無数の眼に高速の打突を浴びせた。

キリトの呼びかけに応じて姿を現した水妖精族を見た時から、唖然として口を開けたまま、目も見開いたまま、の少女がただひたすら二人の戦いを眺めている。再び自分が囮に、などという考えは浮かびもしなかった。なぜなら眺めているしかないからだ。

正確には眺めていても目は全てを捉え切れていない。まるでエフェクトの音と光を楽しんでいる観客のような気分だった。

自分はあの二人と同じ舞台(ステージ)に立つレベルではないのだと理解して、同時にあのウンディーネが『ホンモノ』だと確信する。

巨大蜘蛛は糸を吐き出すいとまさえ与えられず光の粒となって消滅した。

カチャリ、と剣を鞘に収める二つの音を合図に恍惚の表情で戦いに魅入っていた少女は我に返って思わずアスナの元へと駆け寄る。

 

「あのっ、アスナさん……ですよね?」

 

ALOにログインするようになってからまだそれほど経っていないのに、どこかで会ったかな?、とアスナが小首をかしげると、少女はその他のプレイヤーがいないはずのこの場所で声を潜めた。

 

「……副団長だった……」

 

ここではない《仮想世界》で、それもデスゲームと称される忌まわしい世界での肩書きを口にするのは躊躇いがあったのだろう、けれどアスナは気にする様子も見せず、合点がいったように小さく笑って「アナタも?」とだけで彼女の問いに正直に答えた。

 

「はいっ、ずっとアスナさんと一緒に戦いたいと思ってレベル上げをしてたんですけど……」

 

少し悔しそうな笑顔の彼女が攻略組に入る程のレベルに達する前に《あの世界》がゲームクリアとなったのだろう、「でも友達が所属していたギルドが攻略組だったので、話はたくさん聞いてました」と語る彼女を見て、キリトが「それでか……」と独りごちる。

 

「今日は《あの世界》で黒の剣士だったこの人に、アスナさんに対する卑劣な態度について文句を言ってやったんですっ」

 

得意気に語る彼女とは対照的にアスナは不思議そうな顔をして、隣にいるキリトに「卑劣な態度?」と説明を求めた。その問いかけに肩をすくめたキリトは諦めたように溜め息をつく。

 

「SAOでのオレへの評価は驚くほど悪意が混ざるからなぁ」

「そうなるように振る舞ったのはキリトくんでしょう?」

「確かにそうだけど、特に絶大な人気を誇る『副団長サマ』が絡むと混ざるどころかコーティングされるっぽいんだ」

「どういう意味?」

「だから、オレとアスナが結婚したって話は意外と広まってなかったって事だよ」

「ふぅん、そうなんだ。あの時の釣り大会でてっきり皆にバレちゃったと思ってたのに」

「多分、あの場にいたアスナのファン連中の『信じたくないっ』て深層心理が働いたんだろうなぁ……」

「なによ、それ」

「だから、オレ達ってもの凄く仲が悪いって思われたままみたいだぜ。さっきもこのシルフさんにえらい剣幕で怒られた」

「その理由がキリトくんから私への卑劣な態度、なの?」

「ソウラシイデス」

 

困り顔のキリトを見てアスナが、ぷっ、と吹き出す。

信じられないほどの親密な二人のやり取りに口を挟めずにいたシルフの少女だったが、「結婚」というキーワードを聞いて更に驚きで何も言えなくなる。友人からの情報では黒の剣士と『血盟騎士団』の副団長アスナは犬猿の仲のはずで、それもどうやら女性ながら最強ギルドのナンバーツーの座に就いているアスナへの僻みから、キリトが高圧的な態度で戦略会議の度にアスナへケンカを売っているという話だったが、目の前の二人は見つめ合い、笑顔を交わしながら互いに気を許し、信頼しあっている関係性を窺わせている。

抑も、反発し合っているのが本当ならさっきの二人の息の合った戦いはありえないだろうし、けれど友人が自分に嘘を言う理由も思いつかず混乱していると、ふと、二人の左手の薬指に装着されているお揃いのリングの存在に気づく。

どうやらあの「結婚」発言は聞き間違いではなかったのね、それならなぜ?、と友の言葉があまりにも事実と違うその意味を考えている少女の耳にいつの間に変化したのか、キリトとアスナの少々険悪な雰囲気が入り込んできた。

 

「でも攻略会議でキリトくんとぶつかってたのは本当よね」

「それは……サブリーダーの頃だって主街区でオレとお茶する時は店のNPCに必ず『有り難う』って言うくせに、そのNPCを囮に使うなんて言い出したからだろ。あんな作戦、成功したってアスナは後悔して傷つくってわかってるのに」

「あの時だけじゃないでしょ?」

「ああ、アスナがボス戦を仕切ると自分にかかるリスクを他のメンバーの分まで余計に被ろうとしてたからな」

「指揮を執る人間が安全な場所に引っ込んでいるわけにはいかないもの」

「適材適所ってわかってマス?」

「ならレベルから言っても私がリスクの高い役割を担当するのは当然じゃないっ」

「へぇっ、でもアスナの立案だとオレはいつも単体で動きやすいポジショニングだったけど?」

「そ、それは、キリトくんはソロだったからギルメンとの連携は大変かと思って……」

 

やっぱり会えばケンカをする仲だったの?、と二人の関係を再び認識し直そうとした直後、キリトの声が砂糖を含ませたように甘くなった。

 

「そうだな、連携ならアスナとが一番いい」

「……でしょ?」

 

言われたアスナはそれまでの興奮からか、一番と言われた恥じらいからか、頬を薄紅色に染めながら少し前の刺々しさなど全て抜け落ち、ふにゃり、と頬を緩ませていて、そこに相変わらずピーッ、という高音と共に岩間を通り抜け出てくる細長い風がウンディーネの髪とシルフの髪を乱していく。

せっかく憧れてカスタマイズした長い髪なのに、と少女が「やっ、またっ、もうっ」と広がってしまった髪を両手で撫でつけている目の前で、何が違うのだろう?、と心底不思議に思わずにはいられないアトランティコブルーの髪は一瞬ふわり、と持ち上がったが絡まる事なく艶やかな輝きを放ちながらシャラシャラと元の落ち着きを取り戻していくのだ。それなのにキリトの手はゆっくりとアスナの髪に触れ、必要のない手櫛で何度も彼女の髪を梳いて、アスナも喉を鳴らしそうな笑顔を捧げている。

 

「じゃ、少し遅くなったけど買い物に行くか」

「そうだね」

 

どうやら二人が待ち合わせていた目的は買い物だったようだ。

 

「アスナ、感覚に違和感とかないか?、ここまで飛んできたんだろ?、そのあと軽く動いたし……」

「キリトくん、心配しすぎ。この位の距離なら全力飛行で往復しても平気だよ」

「でも、まだ長時間のダイブや連続運動は気をつけた方がいい。ナーヴギアとはまた違うし、それに……」

 

自分が側にいてやれなかった間、脳に関する人体実験を嬉々として行っていたヤツが彼女を管理していたのだ、《仮想世界》へのダイブでアスナにだけ負荷がかかる可能性もまだ残っている、と続けたかったキリトは、その心配と同じくらい鳥籠の記憶を呼び起こさせたくなくて口を噤む。けれど勘の良いアスナはキリトが飲み込んだ言葉を正確に受け止めたようだ。「だから、大丈夫」と安心させるように微笑んで絹糸のような髪の間から水面を思わせる薄くてしなやかな翅を出す。

 

「今度のお部屋はどんな感じにしようかな?、森の家にはニシダさんしかお招き出来なかったけど、今度はリズやクラインさん達も来てくれると思うし……」

「え、アイツら呼ぶの?」

「当然でしょ。やっぱりテーブルは大きいのがいいわよね」

「アスナさん……あの時と違って、オレ、今、すっからかんだから天然の一枚板とか無理デスけど……」

「わかってるわよ。とにかくお店、見て回ろ?」

「そうだな」

 

続けてキリトの背中からも薄墨色の翅が出現した。

最後にシルフの少女にアスナが軽く会釈を送るとキリトは彼女に向け少し悪戯っぽい笑顔になる。

 

「じゃあオレ達は戻るよ。アスナがちゃんと本気を出せるくらい《この世界》に慣れたら、オレも一緒にトーナメント戦へ出るつもりだから、その時に対戦するかもな」

 

返す言葉が見つからない少女を置きざりにしてスプリガンとウンディーネの二人はふわり、と空中に舞い上がった。二人揃ってシルフの少女に手を振ったかと思うとあっと言う間にその姿は小さくなっていく。どこまでも並んで飛んでいく二種族の妖精達を呆気にとられた顔で見つめていた少女は別れ際に言われた言葉を反芻していた。

ちょっと待って、さっきの蜘蛛モンスターと戦っていたアスナさんって本気じゃなかったってこと?、あの容姿はSAOのキャラクターデータを引き継いでいるはずだからステータスも同様のはずで、更にあの黒の剣士まで出場するトーナメント戦なんて…………あの二人がエントリーするトーナメント戦などこれまでと桁違いの戦いになるのは容易に想像できて、折角今のアバターで上位入賞まで果たしたというのに、これはうかうかしていられない、と少女はあの鋼鉄の城で日夜レベル上げに明け暮れた日々をほんの少し懐かしく思い出し自分に気合いを入れなおしたのだった。

 

 




お読みいただき、有り難うございました。
ALO内なので翅を出して、飛行を混ぜての戦闘……になるべきなのですが
スミマセン、そこまでの展開は私的に色々と無理だったので、移動手段に
限定させていただきました。
シルフの少女……単にアスナの真似っこしたがりさんだったので
《現実世界》では「少女」でもないのかも……(笑)

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