ソードアート・オンライン《かさなる手、つながる想い》   作:ほしな まつり

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祝・SAO21巻「ユナイタル・リングⅠ」発刊で短編をアップさせて
いただきます。
久々、《現実世界》で高校生のキリト視点です。


硝子越し

それはほんの一瞬の出来事だったんだ……

 

夕方と呼ぶにはまだ少し早い時間帯、もしも自分が小学生だったら背中に背負っている大きくて重いランドセルを放り出す為、自宅に向かって懸命に足を動かしていたかもしれない。或いは、中学生だったら無意味に感じる拘束時間を終え、放課後を共に過ごす同世代の表情の眩しさの横を通り過ぎながら一刻も早く《あの世界》に潜る事だけを考えていたかもしれない。

その日の気分であっと言う間に過ぎてしまったり、逆に、やけにのんびりと流れていくようにも感じるこの時間帯、今現在のオレはやっぱり学校から家に帰る為、いつも通学で使っている電車に揺られていた。

いつも、と少し違うのは、いつも利用するより早い時間帯なので車内がかなり空いている事と、オレのすぐ隣に可愛い恋人が座っているという事だろう。

一緒にこの沿線に乗るのは初めてではない。ただ、いつもの時間帯だったら仕事帰りの通勤者だったり、自分達と同じ様に学校帰りと思われる制服姿の若者だったり、肩書き不明の老若男女達だったりが入り交じって乗車しており、座席など空いている事がないのだ。まあ、オレの場合、それでも利用する公共機関はこの路線一本なので乗ってしまえば「降車駅に着くまでの我慢」で済むのだが、隣にいるアスナの場合はバスと二本の電車を乗り継いで通学しているのだから、その苦労は推して知るべしである。

と同時に彼氏として、オレ的にも色々と心配の種は尽きない。

 

「このくらい空いてればなぁ」

 

思わず考えていた事が口から漏れてしまい、ハッ、となったが、幸いな事に隣の彼女は一般的な感想としてとらえてくれたようだ。

 

「そうだね」

 

軽く苦笑しつつも同意を示してくれる。

あえて誤解を解かないままオレはアスナに気づかれないよう安堵の息を吐いた。こっちの《現実世界》でいわゆる、お付き合いをしている関係となった彼女サマ曰く、オレは少々「心配しすぎ」で「過保護」な彼氏となっているらしい。自覚はないが《この世界》で医療用ベッドに横たわったまま正に妖精のように儚げな姿を見続け、覚醒した彼女に一番最初に会い、それからのリハビリを見守ってきた身としてはその回復の度合いにまだまだ安心は出来ないし、なんと言ってもそのアイドル並みの容姿で毎日、公共機関を利用して通学しているのだ、目の保養だけで済ませるならまだいいが、同じ車内に乗り合わせた男の中にはよからぬ事を考える輩がいないとも限らない……いや、いる、絶対に。

アスナが利用する電車やバスの乗客率が今くらいならばそうそう強引な接触は出来ないだろうと思って、つい口から衝いて出たのがさっきの言葉だったわけだが、当の本人は背後の窓から差す陽の暖かさのせいか完全にまったり状態だ。

そんな無防備な表情を見て、オレは素早く車内を見渡す。

立っている乗客はいない。はす向かいに座っている中年男性は鞄を抱えたまま俯いて寝入っているし、それより少し遠くにいるサラリーマン風の男性は手元の携帯端末に夢中のようだ。オレ達と同じ座席サイドにいるのは他校の制服の女子三人だけだし…………この女子達はチラチラとアスナに視線を送っていたが、警戒する類いの物ではない。

残るは真正面に座っている学生と思しきカップルの二人。けどこちらは完全に二人の世界に入っているようで、静かな車内の空気を壊さないよう、わざわざ相手の耳元まで口を寄せる行為を交互に繰り返しながら楽しそうに秘密の会話を続けている。

そんな向かい側の二人の姿もいつものように一人で乗っている時なら気にも止めないのに、自分の隣にも向かいの男性と同じように恋人が座っていると思うだけで微笑ましく思ってしまうのだから不思議だ。オレはつい自分の膝の上で絡んでいるアスナの手をギュッと握った。

すると、すぐにはしばみ色の瞳が「どうしたの?」と隣の少し下方から覗き込んでくる。

特に意味があったわけじゃないし、今の気持ちを上手く言葉にする自信もないから「なんでもない」と曖昧に笑って軽く首を横に振ると、不思議そうな顔をしたアスナは、ぱち、ぱち、と瞬きをした後、ふわり、と笑ってくれた。なんだかそれだけで気持ちが伝わった気がして、つられるようにオレも笑い返す。

そうしている間に電車が減速して駅に着いた。

オレ達の降りる駅はあと少し先だったが、向かいのカップルの男性はここで降りるらしく、名残惜しそうな顔で手を振りながら女性一人を残して車内から出て行く。女性の方はそのまま身体を捻って後ろの窓に顔をくっつけるようにしながら男性の姿を追っていた。男性の方もホームに降り立ったものの、すぐにその場を去ることなく車外から彼女が座っている窓の位置までやって来る。

客が少ないせいで、人の動きがないまま開きっぱなしになっている車両の扉がなんだか空しい。

いつもホームと車内で乗降者が気忙しく入り交じる様は停車時間を随分と短く感じさせるが、今日に限っては時間の感覚さえ狂ってしまいそうなほど長く感じられる。

すると、車両の窓を挟んで互いの視線を絡ませていたカップルも同じ感覚だったのか、ホームにいた男性が誘うように人差し指でトン、トン、と窓を叩いた。振り返ったままの女性の表情は見えなかったが、男性が叩いた場所にゆっくりと顔を近づけていく。

そして、今度は彼女の後頭部に隠れるように男性の顔が重なって…………ほんの一瞬の出来事だったんだ。

その瞬間、今度はオレの手の中にあったアスナの手が、キュッ、と固くなった。

 

 

 

 

 

家族団らん……と言っていいのだろうか、珍しく夕食に間に合う時間に帰宅した母さんをはじめ、スグ、オレ、それにアスナの四人で桐ヶ谷家の食卓を囲み、主にオレの幼少時代の暴露話をアスナに聞かせるという、オレ的は消化に悪そうな話題で大いに盛り上がり、女性陣三人は満足げな顔で食事を終えてもなおソファに移動して黒歴史の話題を続けていたので、オレは巻き込まれない為にも食事の後片付けを買って出た。

ひとしきり喋って気が済んだのか、将又思い出せるネタが尽きたのか、ようやく暴露大会が終演すると、遠慮するアスナを客人なのだから、と半ば強引に我が家の一番風呂に案内した後、母さんは「仕事をするわ」と自室に引き上げ、スグは「ちょっと振ってくる」と言って道場に消えた。

多分、アスナの後にオレが風呂から上がった頃合いに戻って来て、自主練でかいた汗を流すつもりなんだろう。

オレは台所の片付けを終わらせ、次に今晩アスナが使う布団を準備する為に一階にある客間の電気を付けた。程なくして、ホカホカと言う表現がピッタリの彼女が「お先にいただきました」と言いながら寝間着姿でやって来る。

 

「あ、お布団。有り難う、キリトくん」

「おう」

「次、お風呂の順番、誰に声かけたらいい?、おば様?」

「いや、母さんは仕事始めたら一段落するまで部屋から出てこないから、オレが入るよ。スグも素振りしに道場行っちゃったんだ」

「そうなんだ。なら後は私、自分でやるから。キリトくん入って」

「んー、じゃシーツと枕カバーはそこにあるのを使ってくれ」

「うん、わかった。いつもゴメンね。用意してもらって」

「いいって。この客用布団、新品のまま誰も使ってなかったから、母さん、昨日、庭で干しながら『無駄にならなくて良かった』って喜んでたし。もうウチじゃ客用布団じゃなくて『アスナの布団』だよな。そうそう『今度、茶碗とお箸も買い揃えましょうか?』って言ってたぞ」

「えっ、それは……嬉しいけど……いいのかな……?」

 

ゆるい寝間着の間から風呂上がりで上気したアスナの匂いがオレの鼻まで届く。少し湿ったままの髪の幾筋かが細い首に沿って不自然な流れを形作っていて、それを理由に彼女の肌に伸びてしまいそうな手を懸命に堪えた。

他家である桐ヶ谷の家に自分専用の物がある、という話に戸惑いと遠慮を浮かべながらもその頬は綺麗に色づいており、その原因が湯上がりである事だけでないのは明白で、しっかりと夕飯を食べたはずなのに飢えた狼のようにゴクリ、と喉が鳴る。

ここは家で、すぐ近くの部屋では母親が仕事をしてて、きっとあと三十分もしないうちに妹も戻ってきて……そんな状況を自分に言い聞かせ、衝動を抑える声で「アスナが……嫌じゃなければ……」とだけ返せば彼女は慌ててフルフル、と首を振った。

 

「嫌だなんて、そんな……」

 

否定の動作で首筋にあった髪が離れる。手を伸ばす理由がなくなってホッ、としたような、残念なような……複雑な心境に翻弄されていると、今度はさっきまで漂っていた彼女の肌の香りに新たな匂いが加わった。思わず、すうっ、と深めに息を吸い込めば、うちの風呂で使っている嗅ぎ慣れたシャンプーの匂いとアスナの匂いが混じり合って肺を一杯に満たす。

自分の家にアスナの物が存在する事も、アスナの匂いの中に自分の家の日用品の匂いが混じる事も、ひどく新鮮で気持ちが高ぶった。

このままだと理由なんかなくても、つい触れてしまいそうになる。

さすがにそれはマズイと理性が警鐘を鳴らしているうちに客間から去るべくオレはアスナに背を向けた。

 

「オレも……風呂、入ってくるから」

「うん…………あれ?」

 

レアアイテムでも見つけたような声が最後に飛び込んできて、廊下まで出ていたオレは無意識に振り返る。するとアスナはオレのすぐ近くまでやってきて、すとん、と腰を降ろした。閉めようとしていた客間の障子の下段部分の格子を細い指でなぞると、きちんと障子の正面に座り直し、改めて両手で格子を掴んで可動する下段部分を静かに押し上げる。

ここ数年は動かした事などなかったのだろう、ガタ、ガタ、とつっかえながらなんとか上段の障子に重なるように持ち上げると、その下に硝子が姿を現した。

 

「ここ、雪見障子?」

「……オレは『上げ下げ障子』って覚えたけど……普段使ってないから忘れてたよ。廊下からは硝子面が見えてるのにな」

「障子を下げたままだと廊下側から見ても普通の障子みたいに見えるしね……あ、でも、お庭に面してないから厳密には雪見障子とは呼ばないのかも……」

 

廊下にいるオレからは硝子の向こうで正座をしたままこの障子の呼び名を考えているアスナの真剣な顔が見えていて、そんな姿さえ愛しく思ってしまう温かな感情と同時にこちらに振り向かせたいという子供じみた独占欲が共存してオレを動かす。

彼女に気づかれないまま廊下の床に片膝をついて手を伸ばし、未だ考え込んでいるアスナのすぐ目の前の硝子を、コツ、コツ、と指の関節で叩いた……そう、昼間、帰りの車内で目撃した、向かい側にいたカップルの男性のように……。

音に気づいたアスナが顔をあげる。

一瞬、きょとり、とはしばみ色の瞳を大きくさせたが、オレがもう一度、今度は指先で硝子の一点を、とんっ、と指定すると、すぐに記憶を呼び起こしたのだろう、困惑と羞恥で眉根を寄せたまま目の縁を赤くした。きっとアスナもさっきのオレと同じように、この現状から理性が警告を告げているはずだ。それでも否定の動作も言葉も出ないのなら、とオレは硝子越しに小さな誘い文句を口にしてみる。

 

「っと……その……やってみます?、オレ達も……」

 

相手は硝子の向こう側だ。同意を得られなければどうやっても実行できないあの行為。

治まっていたアスナの朱が目元からジワジワと広がっていく様に目が離せないでいると、少し表情を強ばらせた彼女の顔がゆっくり近づいてくる。いつもなら柔らかな頬や華奢なおとがいに手を添えてやるので、距離感も測れるし、何と言ってもこれまでの経験値から唇を重ね合わせるなど容易いのだが、アスナに一切触れることなくタイミングを合わせるというのは…………自分から誘ったくせに、迷って、悩んで、考えている間にどんどんと綺麗な顔はこちらに差し出されてくる。

膝頭の位置に両手をついて腕と背とをまっすぐに伸ばし、畳の上で裸足の指先を立て、その艶やかな花唇があと少しで硝子面に、という距離でアスナがゆっくりと瞼を下ろすのを見ていたオレは我慢出来ずに、勢いよくガタリッ、と音を立てた。

 

「ん゛っっ!!」

 

閉じかけた瞳は逆に目一杯見開かれて、硝子面に触れるはずだったふっくらとした唇の感触を堪能しつつ驚きと恥ずかしさだけの朱ではない、先に誘ったオレが土壇場で裏切り行為に出た事に少々お冠になっているらしい頬の赤みを鎮めるため、邪魔な障子を押しやった手で優しく包む。と同時にもう片方の手で彼女の腰を抱き寄せ完全に動きを封じた。

弾力があってしっとりした滑らかな頬は手の平に吸い付くようで、円を描くように撫でながら指先で耳たぶを弾くと「んっ」とさっきより幾分甘さのまじった声が漏れ出る。

触れられる距離にいるのに、なんで硝子ごときにその感触を味わう権利を奪われなくちゃならないんだよ、と、硝子越しという好奇心より簡単に欲望の方が上回ったオレは、ここで彼女から離れたら間違いなくお小言をいただく事態になると予想できて、それならば今少しその口を塞いでおこう、と、打算と劣情のままに密着の度合いを深くしたのだった。




お読みいただき、有り難うございました。
キリトとアスナの通学事情はSAOOS特典小説に基づいております。
で、結局しないんかーいっ、と(苦笑)
変だな……「する」はずだったのに……いくら私が頑張ってみても
障子、開けちゃうんですよ、キリト君……。

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