ソードアート・オンライン《かさなる手、つながる想い》   作:ほしな まつり

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帰還者学校での休み時間のお話です。



優しさと甘さ

帰還者学校が一般的な高等学校と異なる部分はいくつかあるが、学年を問わずに選択できる授業が多いこともその一つだ。

結果、ホームとなるクラスや教室はあるものの殆どの生徒がひとつの授業を受け終わると今いた教室からまた別の教室へと移動する場合が多く、必然的に休み時間も少々長く設定されている。

よって毎回授業が終わる度に教室内や廊下では慌ただしい足音や賑やかな声が溢れるのだ……。

 

「里香ぁ、ちょっと引っこ抜いてほしい子がいるんだけどーっ」

 

教室内にいる篠原里香に廊下から声を掛けてきたのは通学で同じ路線を使っている同級生の女生徒、真琴(まこと)だった。

クラスは違うが比率的にも少数派の女子同士、同い年でしかも登下校に利用する電車が一緒となれば《あの世界》でよほどの因縁でもない限り犬猿の仲にはならない。

教室の入り口から顔を覗かせ、声を張り上げている友人を見て里香は驚きもせず「またかぁ」と曖昧な笑顔で立ち上がった。今受けた授業と次の授業は珍しく同じ教室に割り振られていたから移動する手間がないのでのんびりと休憩時間を過ごすつもりでいたのだが、この友人はそれさえもしっかり把握した上で訪ねてきたのだろう。

どことなく姉御肌な部分は自分と共通するものがあって、だからこそ面倒見がいいと言うか、世話焼きさんな彼女がこうやって自分に依頼してくるのは初めてではない。それを断れない自分も自分なのかも……と思いながら、それでも頼られる事がイヤってわけじゃないのよね、と自身にも苦笑いをこぼして里香は戸口まで足を運んだ。

 

「またなの?」

 

相手の具体的な用件も聞かずに言葉を返せば、それを受けた真琴も困ったように大きな溜め息をつく。

 

「そ、桐ヶ谷君にも困ったもんよね。何とかならないのかしら」

 

やっぱりアイツの話なのね……と里香も呆れ交じりの息を吐き出した。「引っこ抜いてほしい」と言われた時から薄々予感はしていたが、この学校に通うようになってからこれで何回目?、と記憶を掘り返そうとして、それは無駄な時間だと気持ちを前向きに切り替える。

 

「あれね……無自覚だから……で、どこ?」

 

友人が連れて来ているはずの対象者を目で探すと、数メートル離れた廊下の角からひょっこり、と顔半分を覗かせている少女がいた。

あの娘(こ)かな?、と確認するよりも早く真琴が「おいで〜」と手招きををする。呼ばれた少女は警戒心の強い小動物のようにキョロキョロと辺りを見回してから、タタタッ、と足早に里香達の前までやって来て、ギュッと真琴の腕に両手でしがみついた。顔を振る度、小走りに細い足を動かす度に髪に付いているピンク色の細いリボンが揺れている。

 

「真琴さん……心臓がばくばくしてます……」

 

困り眉で里香の友人の腕をつかんだ少女は再び周囲に視線を巡らせ、まるでうっかり迷宮区に足を踏み入れてしまったビギナープレイヤーのように突然何かが飛び出して来るのではないか?、とビクビクしながら緊張で泣きそうな細い声をしていた。

自分の腕を抱え込んでいる少女の頭を真琴はよしよし、と撫でてからそのスキンシップを気にすることなく里香に向け「この子よ」と、何とも簡単な紹介を口にする。

「この子」と言われた少女はシリカこと綾野珪子と同い年くらいかしら?、だったら妹のような扱いも納得がいくけど……と、いくつかの疑問を目で訴えると、それを見た真琴が声を潜めた。

 

「《あっちの世界》で同じ宿屋を借りてた子なの。こっちに戻って来てこの学校で再会してから色々相談に乗ったりしてて……」

 

それで今回の相談事の解決の為に私に引き合わせたってわけね、と里香はふむふむ頷いてから話の続きを待った。

 

「気が弱いくせに少し思い込みが激しいっていうか……悪い子じゃないんだけどね。《あっち》でも時々こうやって泣きついてきてたから……」

 

ちなみに今は高等部の教室が並ぶ階に自分がいるという状況に緊張度がマックスなのよ、と聞いて、なるほど、すっかり姉妹属性が確立されるってわけかぁ、と真琴とその彼女にひっついている少女の二人を見て里香は珪子と自分の関係性を比較した。自分が姉御肌な自覚はあるが珪子がこんな風に、なよっ、と頼ってくる姿は想像できない。可愛くて健気で明るい珪子は庇護欲をかき立てられる容姿をしているが、その実、《仮想世界》ではリズよりも戦闘力は上だしビーストテイマーとしても超一流のプレイヤーだ。

私の周りにはいないタイプの子かも、と思いつつ里香はその少女と視線を合わせる為、少し屈んでニコリ、と笑った。

 

「私は篠原里香。よろしくね。早速だけど話を聞かせてくれる?」

 

出来ればこの休み時間内に引っこ抜いてしまいたい、と里香が少し急かすと少女は困惑気味の顔で真琴を見上げる。

 

「あー、引っ込み思案で人見知りなのよね。だから私が説明するわ」

 

そう言って真琴は少女から聞いたらしい話を語り始めた。

 

「昨日の休み時間、この子、廊下でコケたみたいなの。そしたらね、側を通りかかった桐ヶ谷君がわざわざ近くまで来て座り込んでいるこの子の前にしゃがんで声をかけてくれたんだって」

「優しい声で『大丈夫か?』って聞いてくれました」

 

真琴の説明に少女が小さく捕捉をするが、正直、里香にとっては何と言われたのかなんてあまり重要ではない。けれどあまりつれない態度は失礼かも、と「そっか、そっか」と頭を振る。それから真琴は記憶しているはずの話を引っ張り出すように自分のこめかみを拘束されていない方の手の指先でトントンと二回叩いた。

 

「それでね、えっと……なんだっけ?……ああ、そうそう、手を貸してくれたんだっけ?」

 

ちらりと真琴が少女に視線を落とせば、それを受け止めた少女はその時の場面を思い出したのか頬をほんのりと染めてコクン、と頷き「私の手を取って立たせてくれました」とうっとりとした声を漏らす。その姿を見て里香も、私だって白龍の洞窟でアイツと手を繋いだけどなぁ、と僅かな対抗意識を抱きつつ、それでも表面上は「そっか、そっか」と頭を動かした。

 

「そこからがさすが桐ヶ谷君って感じなんだけどね、彼女が膝を擦りむいてるのに気づいて一緒に保健室まで付き添ってくれたそうよ」

「私、大丈夫ですっ、て言ったんですけど……」

 

まるで「このまま君を放ってはおけない」とでも言われたように少女の目が蕩けている。

少女の表情が夢見心地に変化していくのに正比例して里香の目はどんよりと濁みが増していった。確かに、ほぼ初対面の人間にそこまでされれば嬉しいのはわかる。しかも相手が異性の上級生で加えて見た目もそこそこの容姿なら、女子としてはときめく場合もあるだろう。けれど普段から和人の素行を知り尽くしている里香からすればはっきり言って「その程度で……」だ。

そこで、さっきの真琴の言葉を思い出す……だから「少し思い込みが激しい」って事なのね、と納得してから少女の意識を現実に戻すべく里香は顔を突き出した。

 

「一応確認させてもらうけど……アイツにれっきとした彼女がいるのは知ってるの?」

 

まるで真琴の腕を離したら途端に溺れてしまうのだと言うように、ぎゅぅっ、としがみついている少女が素直に頷く。

 

「その彼女がこの学校で何て呼ばれてるのかも?」

 

里香の質問に少女は蚊の鳴くような声で答えた。

 

「『姫』先輩……ですよね?」

 

里香は、はい、大正解、と言うように今度は偉そうに両手を脇に当て大きくのけぞって胸を張り、ゆっくりと頭を上下に振る。

こういう時、私の親友の絶大なる魅力はとっても便利よね、と里香は内心、ふふんっ、と自分事のように口角を上げた。

だってアイツの彼女はあのアスナなのよ、綺麗で可愛くて頑張り屋さんで、頭も良いし運動神経も抜群、責任感が強くて友達思いだし、おまけにお金持ちのお嬢様ときてる、もう完璧…………と脳内で親友の長所を並べまくっていた里香はそこで、あれ?、と首を傾げる。

アスナの存在を知っていてもなお……って事は……と今度は逆に自分を含め身近にいる女友達が抱いている共通の思いを目の前の少女の表情から探し始めた。

別にあの二人が別れたらいいなんて微塵も思っていないし、アイツがアスナを見る時みたいな目で自分を見るなんて想像もしていないけど、それでもなかった事にはできない気持ちを奥底にしまったまま距離を置くことも出来ない中途半端な思いをこの子も?……と胸の苦しさに眉が反応しそうになった時、少女はやっぱりおずおずと唇を動かした。

 

「でも……桐ヶ谷先輩は、優しいから……」

「から?」

 

続く話の行き先が全く見えなくて、違う意味で里香の眉に、むむっ?、と力が籠もる。けれど少なくとも里香よりは少女との付き合いの長い真琴は嫌な予感がして口の端を震わせた。

少女が意を決したように顔を上げ、里香と目を合わせる。

 

「姫先輩みたいな素敵な人に付き合って欲しいって言われたら、断れないと思うんです」

 

人間って心底驚くと呼吸すら止まるのね、と里香は言葉も発せず一心に少女を見つめた。

イマ、コノコ、ナンテイッタノ?……と思考が完全にカタカナ化して、自分すらも意味がくみ取れない状態の里香は少女が口にした言葉が、聞いた事もない国の言葉だったのかしら?、と唯一納得出来る答えに辿り着く。

しかしすぐ側の真琴は「あーあ……」と、脱力感いっぱいの声で今度は額に手の平をあて、やらかしてくれた少女に対してかける言葉が見つからないのか、すがるような瞳で里香を頼っていた。

な、なるほど、アスナの存在に怯むどころか、彼女を自分と同じ位置づけにするとは……キリトがアスナの彼氏なのはアイツの優しさだと思い込んでいるわけか……あの二人が互いを想い合う気持ちの強さがわかってないなんて、やっぱりこの子は私達とは違うわね、と結論づけた里香は一旦肩の力を抜いて「そっか、そっか」と気合いを入れなおす。

 

「んーじゃ、引っこ抜きにかかるとしますか」

 

まるで畑の大根でも抜くかのように肩をさすって肘を回し準備運動をする里香に、真琴から「よろしくっ」と短いエールが飛んでくる。

 

「ちょうど次は二人共同じ授業のはずだから、いつものように迎えに……あ、噂をすれば、来た、来た」

 

里香が顔を向けた先の廊下に和人の姿が現れた。それを真琴の影に隠れるようにしながら見た少女の口から「きゃっ」と驚きと嬉しさを兼ねた声が飛び出す。けれど里香はその声を無視して今度は自分が背を向けている教室内を振り返った。

 

「で、こっちも…………さすが、タイミングばっちりね」

 

本人のあずかり知らない所で話題の中心になっている明日奈が次の授業を受ける為、和人と合流して教室を移動すべく荷物を持ってやって来る。里香を始めとする三人の女生徒の視線が自分に釘付けになっている事に、僅かに首を傾げつつ曖昧な微苦笑で里香のすぐ脇を通り過ぎようとした時だ、明日奈が里香に向かって言葉を発しようとする寸前に里香が「アスナっ、ちょっとゴメンねっ」と早口で謝りながら、トンッ、と肩を軽く突いた。予想外の行動を受け明日奈の顔が一瞬にして焦り顔に転じる。

 

「わわっ、えっ!、なに!?」

 

加害者であるはずの里香さえも「えっ!?」と驚くほど、明日奈は大きくバランスを崩し、とっ、とっ、と片足のケンケンで何とか転倒を免れようと必死になっているが全体重を支えている片足首が耐えきれなかったのか、荷物を抱きかかえたままの身体が前に傾いだ。慌てた里香が「うそぉーっ」と叫びながら倒れていく親友の身体を引っ張り戻そうと両手を伸ばす。

けれど里香の手は明日奈の身体に触れる前にその傾斜が止まった事に気づき、続いて、ぼそり、と自分に向けられた不機嫌声の「リズ……」という和人の声に宙ぶらりんのまま行き場をなくした。ぱっ、と直立不動に姿勢を立て直し、目の前で荷物ごと明日奈を前から抱きしめるようにして支えている和人の顔が栗色の小さな頭の向こうから自分を睨んでいる。

 

「ナ……ナイスキャッチ!」

 

意識的に明るく和人のファインプレーを褒めてみたが里香に対する射貫きそうな視線は緩むことはなかった。その硬い瞳が見えていないはずの明日奈から安堵の吐息が細く漏れ、この場の緊迫感を和らげるように細い肩の力が抜ける。しかし明日奈の体勢が安定したにもかかわらず和人はその腕から彼女を解放せず、いつもより気が回っていないのだろう、もう一度「リズ」と普段なら帰還者学校内では呼ばないキャラネームを口にした。

一方の里香も想定していたより大事になった事態に驚きを隠せずにいる。

明日奈の肩を押した力はほんの少しで、里香の予想では軽くよろける程度で済むはずだったのだ。そして、そこにやって来た和人が明日奈を大切に接する姿を見せれば真琴が連れて来た少女の誤解に近い思い込みも解け、目も覚めるだろうと画策したわけだが……どうしてあの程度の突きで運動神経の良い親友があそこまで平衡感覚を失うのか理解出来ない。けれど自分が押した為に明日奈が床に転びそうになったのは事実だし、しっかりとその現場を見た和人が自分に怒りを覚えるのも当然なんだから何はともあれ謝らないと……、と里香が決意した時だ、和人の腕の中の栗色の髪がさらり、と流れた。

 

「キ……和人くん、ありがと。もう大丈夫」

 

少し顔を上向きにして和人に話しかけた明日奈の声だったが、それには答えず和人は相変わらず視線を里香に固定している。

 

「どういうつもりだ」

 

間違っても和人は怒りっぽい性格ではない、どちらかと言えば温和で人当たりも柔らかい人間だ。気を許した相手には時折しょーもない茶目っ気を発揮するが、それに対して本気で怒ったり不快に思ったりする事はないし、むしろそれだけ親しい間柄なのだと感じられて嬉しい位なのだが……そんな和人が見知らぬ相手でも臆せずに怒りを露わにするのは明日奈が絡んだ時で……いや、正確に云うなら「仲間」と認めている人間が同様の目に遭っても腹を立ててくれるのだが、それが明日奈だと殊更に過剰反応をするのである。

里香は内心「ひぃっ」と悲鳴を上げたい気分で、それでも情けない笑顔を強張らせたまま和人の怒りを受け止めた。

私だってこんな事になるとは思わなかったわよっ、と声を大にして言いたいが、多分……絶対、和人は聞く耳を持たないだろう。

理由や経緯を説明したいが、まずは明日奈に「ごめんね」と声を掛けようとすると、またもや和人の声がそれを阻む。

 

「アスナが足首を痛めてるって、知らなかったのか」

「えっ!?、それ、ホント?」

「大げさだよ。最初から痛みもほとんどなかったんだし……」

 

和人に抱きしめられた状態のまま明日奈が言葉を被せてくるが、知らなかった事とはいえ里香の罪悪感は膨れる一方だ。泣き出しそうな顔で「アスナ、ほんっと、ごめんっ」と両手の平を祈るようにピタリ、と合わせ、そこにおでこをくっつけて謝罪の言葉を口にすれば、その反応を見て和人もようやく張り詰めていた息を吐き出す。

 

「昨日の朝、アスナが乗っていた電車に強風で飛ばされた看板か何かが飛んできて急停車したんだ。その時、隣にいた年配の女性が転んだのをアスナが支えて、その時に変な方向に足首を捻ったらしい」

「そうなのっ?、アスナっ」

 

と、里香が問いかけをしてみたものの、未だがっちりと和人にホールドされている明日奈は振り返る事すら出来ない。

 

「アスナが登校してくるの、珍しくギリギリだっただろ。その急停車でダイヤが乱れたから」

 

けれどそこまで事情を聞いた里香の頭のてっぺんから、ポンッ、とクエスチョンマークが飛び出した。

 

「ちょっと待って……アンタ、どうしてアスナの登校時間、知ってるのよ」

 

確かに昨日の明日奈はHRが始まる寸前に教室にやって来て、里香も「珍しいわね」と目で合図を送ったのを覚えている。それには曖昧な笑みで答えていた彼女だったが、特に変わった様子もなかったので、そのまま深くは追求せずに過ごしてしまったのだ。その日にあった出来事として明日奈が和人に語ったのなら和人が知っていてもおかしくないのだが、さっきの口調がまるで見ていたかのような言い方だった事に里香の表情は一瞬にして疑いの色を滲ませた。

里香からの問いの答えを探して和人の目が泳いだ途端、今度は里香の声が一段と低くなる。

 

「もしかして……また屋上から見てたの……?」

 

ジト、っと里香の眉が横一直線に走り、それに平行して半眼となると和人はいかにも不本意だと言いたげに唇を尖らせて「また、ってなんだよ」と勢いのない声で反論してきた。

 

「たまたまだって。あそこ、朝は人がいなくて集中できるんだ」

「人目がないのをいいことに、アスナの登校姿を見るのに集中してるってこと!?」

「どうしてそうなるんだっ、オレはただ屋上でユイとメカトロニクスコースでやってる課題について色々と……」

「とにかくっ、アンタは昨日の朝、屋上からアスナが登校してくるのを見たわけね」

 

シンプルな質問に渋々和人が「ああ」と顔を上下させる……と言うか上下させているかに見せて、すりりっ、と明日奈の頭に頬をすり寄せている。

 

「だから、次の休み時間に保健室へ湿布をもらいに行ったんだ」

「どういう意味?」

「あんな時間に登校してきたら、アスナは保健室に寄らないだろうし」

 

生真面目な彼女の性格を知り尽くしている和人の発言に一旦納得しかけた里香だったが、ぷるぷる、と頭を振って話を戻した。

 

「そうじゃなくて、どうして湿布が必要だってわかるのよっ」

「そんなの……見ればわかるだろ」

 

逆に問われる意味がわからない、と言いたげな表情の和人の答えに嬉しさからなのか、明日奈の耳が赤く染まっているのが見える。

要するに、和人は地上にいる明日奈の姿を屋上から見て、その歩行に違和感を感じたというわけだ。

 

「アスナの歩き方ってブレがないから、少しでも歪みが出てるとすぐわかるんだよ」

 

確かに親友の歩き方は綺麗だが「そんな僅かな違いに遠距離から気づくのはアンタくらいよっ」と言い投げてしまいたい衝動を必死に堪えている里香の隣で、同じようにうんざり顔の真琴が「桐ヶ谷君こそブレないよねー」と言いつつ「あ、それで保健室かぁ」と、一人、納得したように頭を揺すっている。

 

「桐ヶ谷君、その保健室に行く前に遭遇したでしょ……この子、覚えてる?」

 

ぐいっ、と力業で和人の方に向けさせられた少女の顔は期待と羞恥で赤らんでいたが、それを見た和人の方は素直に頭を横に傾げた……と言うか傾げた拍子に、ぽふんっ、と明日奈の頭に頬を乗せている。全く記憶に残っていないらしい反応を予期していた真琴だったがそれでも決定打を得る為に苦笑交じりで少女の頭を撫でながら言った。

 

「保健室に行く前に、廊下でコケてた下級生に手を貸してくれたと思うんだけど」

「あー……あった……かな。うーん、悪い、よく覚えてない……」

 

手を貸した相手を覚えていないどころか、そのエピソード丸々忘れてるのっ!?、と、和人の記憶力の使い方にかなりの偏りを認めた里香が呆れて口を開きっぱなしにしている横で真琴は慰めるように少女の頭をぽんっ、ぽんっ、と軽く叩く。

 

「その下級生って私の知り合いでね、この子なの」

 

改めて真琴が知り合いの少女を紹介しようとした時、それまで我慢していたのか和人の胸元から明日奈が堪りかねたように身体を捩った。

 

「もうっ、学校の廊下でいつまでこうしてるつもり?」

「えっと……その、つい……もう癖になってるって言うか……」

 

癖になってる……一体、今まで何回そういう体勢になってるわけ?、と聞きたいような聞きたくないような疑問は誰も口にしない。

少し残念そうな顔の和人の腕の中からようやく抜け出した明日奈は向き直って里香に「大丈夫だから、気にしないで」と優しげに微笑んだ。

 

「そもそも和人くんが心配しすぎなの。足首だって腫れてたわけじゃなかったのに……」

「そーゆーの、後から腫れる事もあるんだぞ」

 

隣からのちょっとふて腐れたような声の忠告には聞こえないふりで明日奈は下級生の少女を見る。

 

「さっき転びかけたのはね……はい、これ。あなたのでしょう?」

 

荷物を抱いたまま、ストン、としゃがんだ明日奈は足元の床から細長い物体を拾い上げた。

 

「あ、それ……私の、リボン……有り難うございますっ」

 

明日奈の白い手の平には、少女が髪に着けていたピンクのリボンがのっている。

確かに転倒しそうになったきっかけは肩を押されたからだが、そのまま姿勢を崩したのは落ちていたリボンを踏むまいと彼女が無理に身体の方向を変えようとしたからだったのだと理解して、里香は全ての原因が自分の予想外に発揮された腕力でなかった事に胸を撫で下ろした。

と同時に隣の真琴は少女の頭からリボンが解けたのは自分が無意識に何度も彼女の頭に触れていたせいだと思い当たり、明日奈に「ごめん」と心から詫びるが、その意図がわからない明日奈は、ふわり、と笑って静かに首を横に振る。

 

「よくわからないけど、リズが私を押した時、ちゃんと『ゴメンねっ』って言ってくれたから、突然でビックリしちゃったけどね……嫌がらせや悪ふざけじゃないのは分かってるよ。後でちゃんと理由を聞かせてね。それに、そのリボン、とっても綺麗な色だったから踏まずに済んでよかった」

「アスナ……そろそろ移動しないと、時間、やばい」

「えっ、ほんとだっ。じゃ、私達、行くね」

 

和人に促され、急いで里香、真琴、それに下級生の少女に軽く手を振りながら歩き出した明日奈の横に、スッと手が伸びてきた。

 

「荷物、持つよ」

「大丈夫なのに」

「少し早歩きにしないと、だろ。だから……」

 

少しでも足にかかる負荷を軽くするべきだと引っ込める気のない手に渋々荷物の半分を渡した明日奈が「行こ」と和人を誘えば、今度は歩きながら顔を寄せてくる。

 

「足、湿布してるか?」

「はいはい、昨夜も散々言われたから、ちゃんと湿布して寝たし、今朝も新しいのに取り替えてきましたっ」

 

明日奈の丁寧な口ぶりが逆に不自然すぎて、里香は二人の後ろ姿を見ながら「湿布の件、どれだけしつこく言ったのよ」と笑顔が引きつるが、ふと、真琴の隣を見れば結果的には、スポンッ、と勢いよく見事に引っこ抜けたらしく蕩けた瞳は存在しなかった。さすがにあそこまで見せつけられ、加えて保健室への同行がついでだったのだとわかれば理解しただろう、今は二人を見送る視線が妙に生温かい。

 

「昼休みにちゃんと足首見せてくれ。あと、今日の帰りはバイクで送ってくから」

「今日はネト研の日でしょう?」

「休む」

「……」

 

遠ざかっていく会話はどこまでも甘くて、思わず真琴の溜め息が漏れる。

 

「なに、あれ。桐ヶ谷君ってあそこまでの人だった?」

「まぁ、アスナに対してのみ、ね」

 

和人の優しさは沢山の人間に向けられるが、和人が甘え、甘やかす存在はたった一人しかいないのだ。




お読みいただき、有り難うございました。
オリキャラ、二人共名無しだと不便なので「真琴」だけ命名しましたけど、
多分、この先の出番はないと思います(苦笑)

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