ソードアート・オンライン《かさなる手、つながる想い》   作:ほしな まつり

70 / 150
和人と明日奈が《現実世界》で夫婦となって暮らしているお話しです。
一人息子の和真は保育園に通っていますので、話の位置的には
「みっつめの天賜物」より後になります。この時に登場させた(オリキャラの)
明日奈の同僚男性・水嶋とハーフの後輩女性・莉々花が出ますが
詳しくは「みっつめ……」を参照して下さい(苦笑)


愛らしきさま

家に帰って来た時からどうも変なんだよなぁ……、と和人は息子、和真と湯船で向かい合って暖かいお湯に身を……いや、鼻の頭までを浸しながら、うーん、と眉間に皺を寄せていた。目の前の和真は限界が近いらしく、和人と同じ真っ黒な目を今はギュッ、とつむって、和人とはまた違う意味で眉間にこれでもか、と力を入れている。

明日奈似の色白の肌がすっかり血色の良い色に変わっていて、これ以上赤くなったらヤバイな、と判断した和人は、そっと手を伸ばして和真の脇腹をちょんっ、と弾いた。

途端に「ぷはぁっ」と勢いよく水面から口をだした和真は目も口も大きく開いたまま、すーっ、はーっ、すーっ、はーっ、と懸命に堪えていた呼吸を大きく再開させ、それが落ち着くとふっくらとした頬を更に膨らませる。

 

「お父さん、ずるしたっ。僕、もっと我慢できたのにっ」

 

息止め競争で負けた事に納得できない和真は父親からの脇腹への悪戯に猛抗議を続けていたが、そんな息子の剣幕にも動じずに未だ浴槽の中に顔の半分を沈めて息を止めていた和人は「ぼぅおぼぅるる、ばぁうぅぶわっぱ」とお湯の中で息を吐いた。

 

「なんて言ってるのか、全然わかんない」

 

ふて腐れた顔でそう言われて水面までしっかりと顔を出し、「今日もオレの勝ちだな」と、にやり、と笑ってから「和真、今日は何して遊んだんだ?」と赤みの引いていない息子の頬をつんつんするとその小さな顔は見る見るうちにぱぁっ、と輝いた。

和人が勤め先の研究所から早めに帰宅できた時は和真と一緒にお風呂に入って湯船に浸かりながらその日の出来事を聞くのがいつものパターンだ。聞かれた和真は喜び勇んで少し舌っ足らずな口調ながらも日中、保育園での生活を語り始める前に……

 

「あのねっ、今日のお母さんの爪、とっても綺麗な桜色だった」

「……それはオレも知ってる」

「だから、保育園に行く途中で『綺麗だね』って言ったら、お母さん、にっこりしたよっ」

「……」

 

なんで保育園に向かう時の明日奈と手を繋いでいる所から始まるんだよ、と今度は和人が憮然とした表情で息子を睨む。けれどそんな父親の視線など物ともせずに興奮気味の和真は「それからねっ」と母である明日奈の様子を語り続けた。

結局和真が話した内容の半分は母親に関することなのもいつものパターンで……一日のほとんどを保育園で過ごしているはずなのに、よくもまあそれだけ明日奈の話題があるもんだな、と半ば感心気味に和真の話を聞き終わった和人は息子の観察眼に期待して問いかける。

 

「今日、いつもと違う感じがした事はなかったか?」

「あったっ」

 

即答か……、と頼もしさの前に、お前はどれだけ自分の母親の事が好きなんだっ、と僅かなライバル意識が芽を出す。

けれど和真は父親の感情を更に増長させようというのか、少し得意気に目を細めて何を思い出しているのか、ふふっ、と嬉しそうに笑った。

 

「今日のぎゅぅっ、は長かった!」

 

明日奈が朝、息子を保育園に預けていく時と、夕方、迎えに行った時の二回抱きしめているのは和人も知っているので、簡潔に「どっちだ?」と聞くと、和真もすぐに「お迎えに来てくれた時っ」と声を張り上げる。多分、長かった、と言ってもいつもに比べればのレベルなのだろうが、そんな事すら敏感に感じ取って覚えている和真に少々呆れながらも、今回ばかりはヒントとなったのだから、とこれまた明日奈似の髪色の頭を「よかったな」と言って撫でた和人はもう一度、ふむ、と眉間に皺を作った。

和真は単純に嬉しい出来事として喜んでいるが、自分が帰宅した時の妻の様子を考えれば残念ながらその時の彼女はいつもの笑みではなかっただろう。何せキッチンにいた明日奈は和人が背後に立つまで、その存在に気づかなかったのだから……。

 

 

 

 

一心不乱に……と言うよりは心ここにあらずといった表情で機械的に手を動かしている明日奈の背後から、和人は静かにその細い腰に両腕を回した。同時に「ただいま」と耳朶を食むように告げると、大げさなくらい両肩が跳ね上がる。

 

「ひゃぁっ…………あ……お帰りなさい」

 

夫が近くにやって来た気配どころか帰宅したことすら気づかなかった明日菜は感情を取り戻し、バツが悪そうな顔で振り返ろうとしたが腰を拘束されているせいで身動きが取れない。それどころか肩に和人の顎が乗っかってきて、まな板の上を覗き込んだ後、微妙な声で「晩飯のメニュー、なに?」と聞いてきた。その質問に明日奈もまた、はた、と自分の手元に視線を落とす。

 

「わわっ…………一袋、剥いちゃった……」

 

そこにはピーラーで皮を剥かれたツルツルのジャガイモがいくつも転がっていた。

 

「珍しいな、考え事してたのか?」

「……う……ん、まぁ……それより、このジャガイモ、何に使おう。サラダは二個あれば十分だし。蒸かしてジャガイモのポタージュかポテトグラタンか……」

「お母さんっ、僕、フライドポテトが食べたいっ。それとね、明日の朝はポテトパンケーキがいいなぁ」

 

リビングの床に座りこんでブロック遊びをしていた和真が立ち上がってリクエストを叫んでくる。その要望に「はーい」と明るく返事をした明日奈は「それじゃあ、和人くん」と首を傾げ、自分の肩にある癖のない深黒の髪に、びとっ、と頬を当てた。

 

「晩ご飯が出来上がるまでもう少しかかるから、その間に和真くんとお風呂、入っちゃってくれる?」

 

無理矢理作った笑顔でも明日奈のそれは見事な出来映えで、少しの悔しさを覚えた和人だったが、この場で追求しても無駄らしいと判断して「わかった」と溜め息混じりに頷き、妻から身を離して、くるり、と振り向くと両手でブロックを握っている息子に片付けを促したのだった。

 

 

 

 

 

風呂から上がった後もジャガイモづくしの夕食を味わった後も明日奈は平静を装っていたから、和人はチラチラと妻の様子をうかがい見ながらタイミングを計っていたがどうにも切り出せず、結局そのまま寝室のベッドの布団に手をかける時間まで不可解さはもつれ込んだ。

ちなみに明日奈はこれまたいつも通り、子供部屋で和真の瞼が落ちるまで側についている。

結局十代の頃と変わらず、向こうからやって来る相談事には親身に耳を傾けるが、やって来ない物を自分からたぐり寄せるのは不得手なんだよなぁ、と和人が己の成長のなさに落胆していると、ようやく母親としての役目を終えた明日奈がゆっくりとドアノブを回して入って来た。

 

「あれ、まだ寝てなかったの?」

 

和人が先に就寝していた場合を考えて音を控えていたらしい明日奈は眠っていないどころか横にさえなっていない自分の夫の姿に驚いたようで目を見開いている。夕食を家族揃って食べられた日の夜でも、そのまま深夜まで書斎に籠もる事が多い和人だったから早々に寝室へ引き上げた理由はよほど眠たいからなのだと思っていたらしい。

少し考え込むようにして和人を観察していた明日奈だったが、手持ち無沙汰の様子でベッドに腰掛けている夫は睡魔と戦っているわけでも、考え事に集中しているわけでもないらしい、と見定め、僅かな戸惑いを浮かべた瞳で静かに近づいて来る。

シーツの上に座っていた和人の元まで辿り着き、自分も同じように隣へ、ちょんっ、と腰を下ろすと、ちらり、と再度夫の表情を確認してから自分の横にある和人の腕を両手で抱きかかえ、その肩口におでこをくっつけた。

突然の懐きっぷりに動揺を隠しきれなかった和人の声が上ずる。

 

「あっ、明日奈……さん?」

「んー」

 

返事なのか鳴き声なのかよくわからない、それでもいつもより弱々しい声なのは確かで、明日奈の顔が見えない和人は一拍跳ねた心臓を落ち着かせて可能性を探った。

 

「えーっと……どっか具合が悪い……とか?」

「んー」

 

くぐもった声と一緒に肩に押し付けられている栗色の髪が一回だけ横に振られる。とりあえず体調不良ではないのだと安心して空いている手を伸ばし、ゆっくりと栗色の小さな頭を撫でると、それが気持ちよかったのだろうか今度はすり寄るように顔を動かしてきた。

 

「なんだ、随分と甘えたさんだな」

 

二人きりの時以外では決してみせないであろうそんな仕草が可愛くて愛おしくて自然と口元が緩む。パートナーである自分に対してでさえ滅多に弱音を吐くことの出来ない性分なのは《あの世界》にいた頃からで、だからこそ何の脈絡もなく気分でこういう行為を仕掛けてくるはずがないのもわかりっていたから心の内を引き出す術を持たない和人は代わりにひたすら優しく手を動かした。

セルムブルグで初めて一緒に夜を過ごした日、アスナがキリトに向かって告げた「少し、疲れちゃった」という言葉の内側にはどれほどの思いが含まれていたのだろう、と考えれば、多分、今の明日奈に必要なのも休息なのだろうとうかがい知れる。だからわざと軽い口調で単純に日々の疲労が溜まった身体を気遣う言葉を選んだ。

 

「……少し、疲れたんだろ」

 

言い切ってやれば今までで一番小さな「んー」が細く漏れてきて、まるで泣き声のようなそれが明日奈の弱った心を表しているようで、和人は目を閉じて妻の頭に自分の頬を乗せる。力が籠もっているわけではないが、明日奈の両手が絡みついている腕もまた必死さが伺えて、彼女が内に持つ不安を少しでも軽くできないものか、と和人は肩を抱き寄せ、その背中に手を当てたまま指先で、とん、とん、と宥めるように叩き続けた。

そう言えばかなり昔の記憶になるが二十二層の森の家にプレイヤーメイドのロックチェアを置いた時、やはり明日奈はこうやって「んー」だけで和人に意志表示をしたのだが、その時はあれやこれやと指示があった事を思い出し、それと今回を照らし合わせてみれば、きっとこうやってただ受け入れてやる事が正解なのだろうと推測して余計な詮索をせず、赤ん坊を寝かしつけるように心臓の鼓動に合わせ指を動かす。自分一人では解決できない問題でもそこで立ち止まってしまうような彼女ではない、ならばどうにも消化しきれない感情の揺れあって、それが息子を抱きしめる時間やジャガイモの皮を剥きまくる原因になったのだろう、という考えに至り、自分よりよほど口達者なくせにこういう時、愚痴の一つも言えない妻に「あんまり頑張りすぎるなよ」と栗色の髪にキスをひとつ落とした。

こくん、と頭が動いて今までで最短の「ん」と言う声が了解を示す。

どうやら今夜はもう「ん」以外の言葉を発する気はないらしい。

それはそれで可愛いなぁ、と単純に思ってしまうのは惚れた弱みというやつなのだろうか、いやいや、ぱっと見の第一印象では「キレイなオネーサン」の明日奈だが、付き合いを深めていけばちょっとした表情や仕草はキレイを当たり前にしてカワイイに到達するのは彼女の周囲にいる人間全員が首を縦に振る真実だろう。時に無自覚にその可愛らしさを振りまいているのはどうかと思うが、こうやって心を寄せてくる相手は自分しかいないのだから、と、もう少し明日奈の「ん」を引き出すべく和人は妻の名を口にした。

 

「明日奈」

「んー」

「和真に爪の色、褒められたんだって?」

「ん」

「その色、前にオレが、いいなって言ったやつだよな」

「んっ」

 

まぁ、正確にははにかんで頬を染めた明日奈から「どうかな?、この色」と問われた時、目の前にかざされた白くて細い指とその先端にある薄紅色の小さな爪がまるで明日奈そのもののようで、思わず目を細めて「いいな」と言ったわけだが、その爪色が似合っているのも事実だから嘘じゃないよな、ともうひとつキスを落とす。

他愛のない会話を繰り返し、ようやく腕の中から聞こえていた声が寝息となった頃、和人は妻を起こさぬようにと慎重に抱き枕になっていた自分の腕を引き抜いた。さっきまでとは違う、更に幼さを滲ませた「んぅっ」という吐息のような悲しげな声が奪われた温もりを探しているようで、慌ててその髪を撫で、耳元に唇を寄せて「ちょっと待っててくれ」と猶予を請うと、それで安心したのか寝顔が安らかになる。

ホッ、としたのは和人も同じで、それでも手早く寝支度を整えようと、するりベッドを抜け出すとセキュリティを確認してから寝室の照明を落とそうと手を伸ばした時、近くにあった携帯端末がゆるやかな音楽を奏で始めた。

職場からでもなく、実家の人間や結城の人達からでもない。ましてやクラインやエギル、それにリズを含め学生時代の友人達からでもないこの着信音は滅多に聞かないメロディーで、設定していた事さえ忘れていた音色と共に表示された文字がこれまたアドレス交換の事実さえ忘れかけていた人物の名で一瞬、かけ間違いを疑った。

けれど自分が知る範囲でこの人物がそんなミスを犯すとも思えず、こんな時間にかけてきた意味を考えてすぐに通話の為に携帯端末を手に取ると、「まだ?」と問いたげなちょっとご機嫌が斜めった「ふぅっん」という拗ね声がベッドから聞こえて、和人は場所を移す事を諦め、やれやれとベッドに腰を降ろした。

可能な限り声を落として通話相手の呼び出しに幾分怪訝な応答をする。

 

「……水、嶋さん?」

『夜分に申し訳ありません、桐ヶ谷さん』

 

かなり恐縮した声の主は明日奈の職場の同僚、水嶋だった。背後でゆったりと流れている旋律はピアノの生演奏だろうか?……声や音の反響具合からしてどこかの落ち着いたバーか高級酒場あたりと思われるが、それを推察する思考はいきなり割り込んできた『きーっ』という高い声で阻害された。

 

『でっ、でんわーっ、誰にかけてんデスかぁーっ』

『うわっ、莉々、騒ぐなっ』

 

どうやら水嶋の隣にはこれまた明日奈と職場が同じ、莉々花・リンドグレーンがいるらしい。

以前、和人が明日奈の職場の近くで会った時に紹介された彼女は明日奈の後輩であり仕事上でも補佐役を務めているとかで、随分と明日奈に心酔していたように記憶しているが、逆になんとか莉々花を手なずけようとしていた水嶋に対してはあからさまに反発の意思が見えていた。

とは言えどう見ても水嶋の方が一枚も二枚も上手なのは初対面の和人の目にも明らかで、あれから一緒に食事をする程度には距離を縮められたらしい、と水嶋が莉々花を見る目の奥に自分が明日奈に抱く想いと同種の色を思い出して和人は軽く口元を緩める。

それにしても狙っている女性との時間を割いてまでわざわざオレに連絡をしてくるなんて……と用件を問おうとすれば、端末の向こうからは『お前はフルーツでも食べてろ、ほら、口開けて』と、命令口調ながらも甘さを含んだ水嶋の声が少し遠くに聞こえてきて、どうやら莉々に口を閉じさせた事に成功したのがわかった。

すぐに『すみません、お待たせしました』と丁寧な声に戻った水嶋は更に声を潜め『余計な事かもしれませんが……』と前置きをした後、躊躇いの間が空く。

 

『……結城、大丈夫ですか?』

 

大丈夫かと問われればいつも通りの明日奈ではなかったのだが、こうやって自分が側にいるのだから大丈夫だと言いたい気持ちもあるし、それ以上に妻の職場の同僚の男が気遣いをみせて来るのが多少面白くないと思ってしまう方が大きい。何よりさっきまでの明日奈が「ん」しか発せず自分にすり寄ってきた事など絶対に教えなくなくて、確かに結婚する時と明日奈が妊娠・出産で休職していた時はかなり世話になった相手なのだが和人は素っ気なく質問に質問で返す。

 

「と言うと?」

『いや、俺もさっき莉々から聞いたんですけど……』

 

そう言って水嶋は今日の昼間、莉々花のサポート役という形で明日奈も同行した契約会社との打ち合せの話を打ち明け始めた。

それは都心にほど近い場所にあって、かなり年数が経ち住居者もまばらな公営団地を新たに公営住宅地として整備し直す計画の一端を担っている会社との仕事だった。住宅街の一部として計画されている緑地デザインを請け負った会社から単発でコンサルティングを依頼され莉々花が担当になったわけだが、向こうの担当者の態度が最初から刺々しかったらしい。

打ち合せ相手の若い男性社員は初めて担当を任された仕事という事で随分肩に力が入っており、そもそも自分はコンサルタントの必要性を感じてはいない旨を言葉の端々で匂わせていたようだ。とは言えこの会社との仕事は以前から継続的に行っており、それなりに成果も出している為、上からの指示でやむなく受け入れているのだろう、常時固い表情の担当社員とは反対に、後ろに座っていた指導役という立場の彼の上司はニコニコと穏やかな笑みで莉々花と明日奈に対し「今回も宜しくお願いします」と握手を求めてきたという。

 

『本来ならその程度の規模の単発業務なら莉々ひとりで十分なんですけどね』

 

なぜか自分事のように水嶋の声に張りが上乗せされたせいで隣にいるらしい莉々花が反応する。

 

『私がなんデスかーっ、あーっ、私の悪口言ってるんデスねーっ、水嶋さんもあのナスと一緒なー』

『「なー」って何だよ、それに悪口も言ってねーって。むしろ褒めてる』

『ウソなーっ、水嶋さんが私を褒めるはずないデスーっ』

 

莉々花・リンドグレーンはどうやらかなり酔っ払っているらしい、と和人は思い、それにしてもナスって、あの野菜の?、と疑問を浮かべ、最後にかなり前の話になるが、明日奈が和人に「水嶋君はもうちょっと素直に莉々花ちゃんに接するべきだと思うの」とこぼしていた事を思い出す。

しかし程なくして水嶋は『何度もすみません』と詫びを口にしながらこちらとの会話に戻って来た。

今度はどんな方法を使って意中の女性の口を塞いだのか、興味がないわけではなかったが、今は明日奈が気落ちしていた理由を知るのが最優先と「それで?」と話の先を促す。

水嶋がコホン、と咳払い一つで気持ちを切り替えて語った続きは明日奈が莉々花に同行した理由で、それは偶然にも明日奈が今手がけている仕事が公営住宅地化全体を仕切っているメインプロジェクトだったからだと説明した。

 

『さすがに結城の方はプロジェクト起ち上げ初期から指名を受けてメンバーに名を連ねてます。単発とは違って継続的に関わりますから責任も重大ですがハッキリ言って俺や結城クラスの長期契約は結構高くつくんですよ』

 

それは和人も薄々気づいていた事だった。これでも和人とて国内最高峰と言っていい研究所の一員としてプロジェクトリーダーを務める働きをみせているのだ、薄給ではないと思っているが、懐かしくもストレージ共通化よろしく支払いカードを明日奈と共通化していて生活費に貧窮した事は当然ないし、それどころか個人的に必要性を直感して購入してしまうPC関連機器の引き落としに際しても一括でエラーが出た事はない。

一体、オレ達の預金高っていくらあるんだろー?、と今更ながらに疑問に思わないでもないが、そのあたりの管理は全て妻任せなので「精密機器」のシールが貼ってある段ボールが届く度に「またなの?」と明日奈から睨まれるだけで済んでいるのだから余計な詮索はしない方がいいのではないかと思っている。

和人は慎重に振動を与えぬようベッドに腰掛け、シーツの上に広がっている栗色の髪をさらり、と指で梳きつつ「もしかして、オレより稼いでます?」と絶対に聞けない問いを内に浮かべた。けれど出会った頃から変わらない艶髪の手触りに集中しかけていた意識は端末からの声で遮られる。

 

『とは言っても今回のような単発仕事だって相応の報酬は要求しますが……多分向こうの若手担当者の心情としては散々予算削減を強いられたのにコンサルタントは付けろと強要させられたのが面白くなかったんでしょうね。加えてやってきたのが自分と同年代の女性でしかも見た目で仕事してるみたいな容姿が二人もですから…………まぁ、随分と穿った見方をしてくれたもんです』

 

最後の水嶋とどす黒い声と同様に和人の瞳もスッ、と氷結した。

自分のパートナーの容姿に対する高評価は当然と思うが、それのみで人格を判断されるのは不愉快でしかないのはどちらも同じらしい。水嶋は付け加えるように『今回の結城の同行はあくまで結城の好意によるものだからギャラは発生してないってのに……』と独白した後、トーンを戻して『けれどその程度で怯むような二人ではありませんので、とりあえずその場は新人担当と莉々を中心に打ち合せを進め、一旦休憩になった時でした』と話の核心部分に近づいていった。

 

『指導役の上司がその場を離れたタイミングで結城が提示されていた書類の不備を指摘したんです。結城としては上司の前で言うのをはばかったんでしょうが、上司は上司で結城がそのプロジェクト本体のスタッフだと担当者に伝えていなかったらしく……多分、メインスタッフが同席する打ち合せだと知ったら新人が緊張すると考えたようで、結城もあえて肩書きを莉々と同じ事務所のコンサルタントとしか名乗らなかったせいもあり、案の定、担当男性は結城の指摘を受け入れず……』

『そうなんデスっ、あの担当っ、折角結城先輩が優しく教えてあげたってのに、自分の仕事は完璧だーとか言ってデスねーっ』

『うげっ、莉々、お前寝てたんじゃ……うわっ、オレの端末っ、返せってっ』

 

ガガッ、ガタッ、と手荒に扱われているらしいどこかに擦れているような耳障りな音が通話口から響いてきて、思わず和人は耳から端末を遠ざける。弄っていた栗色の毛先を指に絡ませて遊んでいるとようやく決着がついたのか水嶋が少し荒めの息混じりの声で『桐ヶ谷さん?』と名を呼んできて会話が繋がった。

 

『で、結局、書類の不備については担当である莉々の方から上司が戻って来た時に確認を求めたそうですが、案の定、申請漏れがあり……』

『あの申請、通るまで時間かかるんデスよっ、あん時、明日奈先輩が気づいてなかったらぁー』

『お前はナッツ食ってろっ』

『ふぁごっぅ』

 

和人がリクエストしたわけでもないのに端末の向こうで繰り広げられている絶妙な間合いのコントのような二人の会話に些かげんなりしてきた頃、どこか慎重さを滲ませた水嶋の声が何度目かの謝罪の後に『それで打合せ終了後の帰り際に……』と続けると、突然、莉々花の震えた声が飛び込んで来た。

 

『「結城さんはご結婚をしていらっしゃるみたいですが、そんなに気が強くて可愛げがないと旦那さんも大変ですね」って言いやがったんですよっ、あのナスっ、マジもんのナスデスっ』

 

和人の息が止まる……と同時に体内の血液が一瞬で沸騰したように身体が熱を持った。

端末からは水嶋が焦ったように『莉々っ、お前いつの間にオレのブラントン飲んだっ!?』と自身がオーダーしたのであろうバーボンの銘柄を叫んでいる。かなり度数の高い酒を口にした莉々花は段々と呂律のまわらない口調で、それでも管を巻き続けた。

 

『うーっ、明日奈しぇんぱいの可愛さがわかんないんなんて、ほんっと、分からず屋のナスなー。あんなナスは挽肉と一緒に炒めちゃえばいいんれすぅ』

『こら、莉々。契約相手を炒めるのはナシだからな。やるんなら契約満了してからだ』

「水嶋さん……」

『あ、すみません。本音ですけど炒めるのは我慢しますよ。莉々は結城が言われた言葉にいたく憤慨してますが、同様の事を莉々も言われたらしくて、それで今後の事を考えて結城が所長に軽く報告してくれたようです……コイツはまだあと何回かその担当者と仕事で会いますからね』

「明日奈は?」

『結城はもう会う事はないでしょう。本家のプロジェクト会議の場まで下請け担当者が出てくる事もないでしょうし』

「そう……ですか」

 

固まっていた肩の力が抜ける。

 

『まぁ、この程度の事はトラブルと言うレベルでもないんですが、莉々が騒ぐのはともかく退社時の結城の様子までいつもと少し違って見えたので……』

 

少し照れたような声で『どうも気になって桐ヶ谷さんの端末にかけてしまいました』と告げられ、存外、この男は惚れている女以外には素直な言動をするんだな、と、つれらるように和人の表情も笑みに変わった。

多分、自分の事を何と言われようが仕事上だけの付き合いである相手になら明日奈は完璧に感情をコントロールする。幼い頃から社長令嬢というフィルター越しに視線を送られ、有名私立校に通って腹の探り合いや社交辞令の中に潜む本音を聞き分けながら生活してきたのだから自身の不当な評価や言いがかりには冷静に対処できるはずだ。

しかし、左手の薬指にある指輪の存在から既婚者であると知られたのが原因で自分の夫の気持ちまで勝手な憶測で告げられた時、僅かでも心が揺らいでしまったのだろうと想像して和人は呆れに近い溜め息を吐いた。

多少なりとも明日奈に自覚があるせいなのはわかるが……

 

「そんな事、オレが思うわけ、ないだろ……」

 

指に絡めていた髪を手放し、頬にかかっていた髪を耳裏に流してやると、くすぐったそうに柔らかな「んぅ」という声が緩んだ口元から転がり出てくる。

全く妻の後輩の言う通りだと和人はそのままベッドに乗り上げ、そっ、と労るように頭を撫でた。寝姿だけでも自然と手を伸ばしてしまう程に可愛いのに、「ん」しか発しなくても愛しくて堪らないのに、「大変」と言うなら《あの世界》で明日奈が自分の半身の証である指輪を装着してくれてからもう随分になるのに、いつまで経ってもこんな感情に振り回される大変さの方で、一体明日奈のどこを見て可愛げがないなんて判断を下すのか理解できない……と蕩けそうな瞳で妻の寝顔を見つめていた和人はひとつの考えに至って、ふむふむ、と頷いた。

別に万人に理解されなくていいではないか、と。むしろその方が自分もやきもきしなくて済むし、と。

明日奈の可愛げがわからないヤツに、わざわざ反論して教えてやる必要などないのだ、むしろその可愛げは自分だけに見せてくれれば十分なのだから。

手にしている端末からは未だに小さく『あのナスぅー』と意味不明な莉々花の呪詛のごとき呟きが漏れ聞こえていて、彼女を介抱しているらしい水嶋の『ほら、水飲めって』と言う困った声がなぜか少し嬉しそうに聞こえてくるが、和人は構わず「水嶋さん」と彼を呼び戻した。

 

「わざわざ有り難うございました……けど、明日奈の事は大丈夫です。オレがいますから」

 

自信を覗かせる言い様に水嶋が少しの間を開けて『そうですね』と納得の同意を示す。とは言え水嶋のお陰で理由がわかったのだから、と和人は改めて礼を述べてからずっと気になっていた単語の意味を尋ねた。

 

「それにしてもさっきから水嶋さんの彼女が口にしている『ナス』って……」

『ああ、それですか』

 

自分の彼女という部分にはあえて否定を入れず、水嶋はこちら側にもわかるくらい楽しそうに解説を始める。

 

『あれで莉々は最大級に人を罵倒してるつもりなんです。帰国子女あるあるなんですかね、どうやら「おたんこなす」という言葉の「おたんこ」をどこかに置き忘れてきたらしくて……』

 

『可愛いでしょう?』という声が聞こえたような気がした。

和人にとっては疑問が解消されればそれ以上の興味はないが、和人にとっての明日奈がそうであるように、水嶋にとっては莉々花のそんな姿さえ甘く香しく映っているに違いない。

これ以上は互いに会話を続ける必要性もないし、何よりそれぞれ隣にいる相手を構いたくて通話はその後すぐに終了した。

水嶋からの着信が届く寸前に落とそうとしていた照明へ身体をひねり、先にその手前へ定位置となっている端末を置くと微かに響いた、コト、という音に明日奈の瞼が反応する。

 

「キ……リトくん?」

 

キリト呼びは意識が曖昧な証拠だ。げんにはしばみ色はボンヤリとふやけたように夢と現実を彷徨っている。

和人は室内の照明をいつもの暗さまで落とすと、これまたいつものように妻の隣に身体を滑り込ませ華奢な肢体を抱き寄せた。普段ならそれだけで明日奈の身体はリラックス状態になり、すぐにでも夢の世界へと誘われるのだが今日に限っては自ら顔を和人の首元に埋め一層身体を密着させてくる。

 

「明日奈?」

 

ハッキリ目が覚めていたようには見えなかったけど……と不思議に思って返事を待ってみるが和人の耳に入って来るのは、スー、スー、と、それすらも聞いているだけで口元が緩んでしまう明日奈の寝息だけで、なんだ、やっぱり寝ぼけてたのか、と結論づけようとした時、胸元から「……電話、……だれ?」と吐息のような声がぽわり、と浮かぶ。

 

「ん?、……明日奈んとこの水嶋さんだよ。随分前に連絡先の交換してたんだ。一緒に明日奈の後輩の子もいたらしいけど」

「……莉々花、ちゃん?」

「ああ」

 

朧気に通話をしている事は認識していたようだが、内容までは耳に入っていなかったのだろう、和人の通話相手を知って幾分、声色が芯を持ち始めた。

 

「昼間ね、一緒に行った打ち合せ先で莉々花ちゃん、ちょっと嫌な事、言われちゃったの……」

 

それは明日奈も同じだろ、と言いかけた口を閉じ、その代わりに就寝前の時と同じように静かに妻の背中をさすってやる。

 

「でも、水嶋君と一緒なら大丈夫かな。素直に話せてると思うし…………そういう所が、可愛いんだよね」

 

どこか羨ましげな明日奈の声に和人は背中で動かしていた手を止め、身体を丸めて明日奈を抱き込み、その耳元に唇を近づけた。

 

「そういう所って……オレから言わせれば明日奈だってよっぽどわかりやすいけど?」

 

じわじわと赤くなっていく耳たぶを見て満足げに微笑んだ和人は、普段ならここまで身体を拘束すると抵抗を見せる妻が今夜は随分と大人しく腕の中に収まってくれる事に笑みを深くして、更に強くきつく閉じ込めて隙間をなくす。

息苦しさから漏れた息は鼻にかかっていて妙に艶めかしい。それでももがこうとしないのは明日奈も全身で和人を感じていたいのか……抱きしめられている事も手伝って既に耳だけでなく肌は色づき芳香を放っている。

もっと直接、深く感じたくて、感じて欲しくて、本能のままに「明日奈」と呼べば、それだけで理解した明日奈が和人の中で埋もれたまま小さく、こくり、と頷いた。




お読みいただき、有り難うございました。
アスナさんが「んー」で話すのは原作者サマのうっすーい本からの
引用です(が、ちゃんと読み返さなかったので間違いがあるかも……)
新人担当者くん、社会的に抹殺されなくてヨカッタ。
そして炒め物にもならずにヨカッタ。

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。