ソードアート・オンライン《かさなる手、つながる想い》   作:ほしな まつり

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帰還者学校に通っている時の明日奈と和人のお話です。


恋だったり、愛だったり

和人や明日奈が通う帰還者学校のカフェテリアは放課後であっても生徒達の姿が僅かに点在している。

昼食時の一種戦場のようなフロア全体を包む高揚した賑わいはないが、それでも多人数で囲んでいる幾つかのテーブルでは男女問わずに十代後半ならではのテンションで盛り上がっているようだ。

そんなグループから少し離れた場所で背筋をスッ、と伸ばしテーブルの上のタブレットに真剣な眼差しを注いでいる女生徒がひとりで座っている……いや、そんな近寄りがたいオーラを放っているからこそ、近くには誰もいないのだろう。さらり、と絹糸のごとく細くしなやかな栗色の長髪が白磁の頬にかかるのを無意識に耳へとかける仕草だけで、すこし離れた場所でチラチラと視線を送っている生徒達から溜め息がもれるほどの清楚さとその奥に漂う色香を匂わせて。

そんな不躾な視線に気づかないほど集中しているのか、はたまた既に慣れっこになっているのか、タブレット用のデジタルペンを持ったままの手で髪を弄った後、明日奈はふたたび目の前の画面上にそのペン先を踊らせた。

画面に映し出されている問題文を読み解いて空白欄を上から順に埋めていく。

すると画面はオートスクロール機能が働き、ストレスを感じない一定の速度を保ちながら次から次へと問題を流してくるのだ。

まるでリズムゲームのようにノーミスの速度で最後まで問題を解き終わった明日奈は一番最後にある「採点」ボタンをタッチした後、ペンを静かにテーブルの上におき、ふっ、と緊張を緩めた。

と、そこに絶妙のタイミングで後方から親友の声が飛んでくる。

 

「アースナっ」

 

画面から顔を上げて振り返ればリズベットこと篠崎里香がカフェテリアの入り口から軽く手を振りながら近づいて来るのが見えて、明日奈も笑って手を振り返した。

 

「アイツと一緒に帰ったんじゃなかったの?」

 

里香は明日奈が座るテープルまでやって来て首を傾げた。アイツとは桐ヶ谷和人のことだ。

 

「うん、ちょっと居残りになっちゃったんだって。そんなに時間はかからないって言うから待ってるんだけど」

「相変わらず仲良しさんだねぇ、結城ちゃん」

 

一緒にカフェテリアに入って来たのだろう、里香の後ろから、ぬっ、と顔を出したのは明日奈や里香と同じクラスの女子だった。

その組み合わせは特に珍しい物ではない。だいたいどのクラスでも圧倒的に女生徒の数が少ないのだから、どこかの黒の剣士のように望んでソロを貫かない限り同じクラスの女子はそこそこ仲良くなるものだ。

だから明日奈もクラスメイトの二人が共に居る事自体は何ら不思議に思わず、それよりも揃って飲み物のカップを持っているのを見て今度は明日奈の方から「よかったら一緒に座る?」と誘いをかけた。

そこで里香はちらり、と親友の手元に視線を落とす。

タブレット画面には派手なエフェクトが散っていて、中央には「正解率98%」の文字が大きく飛び出していた。

 

「何やってたの?、邪魔じゃない?」

「とりあえず全体の雰囲気は掴んだから大丈夫。間違えた問題だけ今のうちに復習したいんだけど……」

 

誘っておきながら……と、少し申し訳なさそうに見上げてくるはしばみ色に里香は首を横に振った。何の試験問題なのかはわからないが正解率が98%なら間違えたのは一問か二問だろうと予想して、明日奈ならばそれ程復習に時間はかからないはずと判断する。それよりも伺いを立てるなら一緒にいるクラスメイトの方だろう、と隣に視線を移せば彼女も全く気にしない様子で「私達の事は気にせず、どんどんやっちゃって」と随分と気前の良い台詞を言いながら「お邪魔するねー」と明日奈の向かい側に腰を降ろした。

その隣に座りながら里香が再びタブレットを覗き込む。

 

「何かのテスト対策?、検定試験とか資格試験?」

「う……ん、大学受験の公開模試を受ける事になっちゃって」

「は?、どういう事?」

「母からの抜き打ちテストみたいな感じかな。この学校に通う事あまり良く思ってないから。常に成績の上位キープと……それだけじゃダメで、学力検査として外部の模試も受ける約束なの」

「はーっ、アンタも大変ね。少しの待ち時間まで勉強してるくらいだから模試まであまり日にちないんでしょ?」

 

明日奈は困ったように笑ってから「今朝ね、朝食の席で、申し込んでおいたから明日行きなさい、って言われて」と打ち明ける。

 

「あっ、明日ぁ!?……しかも言われたのが今朝なの?」

 

素っ頓狂な声をあげた里香にとなりの女生徒がポンポンと落ち着かせるよう肩を叩いた。

 

「篠崎ちゃん、篠崎ちゃん、抜き打ちってそーゆーもんでしょ」

「あー、まー、そーだけどさぁ、それにしたって……週末なんだからアスナだって予定とか、あったんじゃないの?」

「んー、今回、それは大丈夫だったからよかったんだけどね」

 

抜き打ちが初めてではないらしい、と思わせる口ぶりに里香は、はぁーっ、と溜め息をつく。

 

「話には聞いてたけど、ホント、厳しいお母さんなのね。でもそれにきっちり応えてる娘のアンタもスゴイわよ」

 

今朝寝耳に水の模試の対策勉強でその日の夕方には正解率98%を叩き出すのだ、その母にしてこの娘あり、だろう。和人にしても明日奈と外出した帰りは何が何でも門限を破らせないよう家まで送っているそうだから、この二人は単純に一緒にいたい、という願いを叶えるだけでもなかなか大変なのよねぇ、と里香は持っていた耐熱カップに入っているアイスレモンティーを、ずずっ、と啜った。

苦笑いでおめでたいエフェクト画面を閉じた明日奈は次に復習画面への操作をしつつ「それで?」と向かいに座ったクラスメイトの顔を交互に見る。

 

「二人はどうしてここに?」

 

仕上げに軽く小首を傾げると、途端に里香の眉が、ぬぬっ、と波打つ。

怒っているのか、困っているのか、どっちにもとれる表情に明日奈だけでなく女生徒まで、えっ?、とその意味をはかりかね、焦り声をあげた。

 

「なになにっ、篠崎ちゃんっ、そんな重い話なのっ!?、さっきは『ちょっとお茶しながらお喋りしよー』って、かるーい感じで誘ってくれたのに?」

「私にとっては十分重いのよっ。だからここでアスナを見つけられて逆にラッキーって思ったくらいで……」

「え?、私!?」

 

突然、話に巻き込まれた明日奈は、ぱちぱち、とはしばみ色を見え隠れさせて目の前の親友をジッと見つめる。その視線に耐えられなくなった里香はさっきよりもごくごくっ、とレモンティーを勢いよく飲み込んでから、ふぅっ、と一息ついた。

 

「と、とりあえずアスナは勉強して。模試は明日なんだから」

「そんなの、リズの話が気になって解けないよう」

「ぬぬっ、ごめん……じゃ、こっちは先に事実確認しとくから、なんとなく聞いててもらえれば……」

 

渋々と言った様子でタッチペンを握り直した明日奈はそれでも画面に映し出された問題に意識を落とし、かつてよくリズベットの店で響かせていたブーツの音よろしく、トントン、とペン先を鳴らして復習を始める。その様子にひと安心した里香は改まって隣の友人に顔を向けた。

 

「あの……さ、実は、それとなく聞き出してくれ、って頼まれたんだけど、そういうの私、苦手なのよ。だから先に確かめたいんだけど……隣のクラスの男子と付き合ってるわよね?」

 

明日奈のペンが不自然に揺れる。けれど目は画面から離さず復習として画面に映し出された二問目の問題文を追っていた。

 

「あっ、その話かぁ……うん、付き合ってた、が正しいんだけど」

 

予想外にあっけらかんと告げられた言葉は里香が予想していたとおりのものだった。

 

「で……その……こっからが……えっと……何て聞いていいのか……」

「別れた理由?、そんなに篠崎ちゃんが深刻な顔するほどのモンじゃないんだけどなー」

 

里香が言葉を選びに選んで、選びきれずにいるうちに本人から言われてしまい、さすがに明日奈も顔を上げて女友人の表情を確認する。けれどそこには全く何の含みもなくて、普通に二人並んで道を歩いていたら左側を歩いていた彼氏と右側を歩いていた自分の道がいつの間にか真ん中から分かれて左右別々になっていたから、そのまま歩いているだけのような、自然な流れだから疑問も抵抗も生まれていない顔だ。

そこでますます里香の顔が険しくなる。

 

「もしかして……他に……」

「やだなー、浮気なんかしてないし、もちろん他に好きな人が出来たわけでもないって……アイツにもちゃんと言ったのに」

 

さすがに困惑したように口を尖らし「やっぱり信じてなかったんだね」と呟いている彼女は付き合っていた男子に既に未練はないようで、ひたすら「どうしたらいいかなぁ」と呟いているが表情は実にサッパリしていた。

女生徒は里香と同じように持っていたカップに口をつけ、ひとくち、中の液体を含むとしばらくおいてから、ゴクッと飲み込みこんで、そこでやっと明日奈の視線に気づく。

 

「あ、ごめーん、結城ちゃん、へんな話聞かせて」

「えっ、全然……って言うか私まで聞いちゃってよかったのかな?」

「私は別に構わないよ。だって、ほら、うちの学校って女子少ないから、誰と誰が付き合ってるとか別れたとか、すぐ広まるし」

「……そうなの?……知らなかった……」

「アンタはそういうの、あまり気にしないでしょ……って言うか自分の恋愛しか目がいってないってゆーか……」

「そんな事っ」

「はいはい、で、復習、終わったの?」

「うっ…………あと一問」

 

里香は無言で明日奈の手元にあるタブレットを指さした。隣にいるクラスメイトとの話も大事だが、里香にしてみれば明日の親友の模試だって重要案件だ。明日奈の母に納得してもらえる点数をとって、明日奈とはずっと一緒にこの学校に通いたい。

とにかくアンタはそっちを片付けなさい、と指先からタブレットに向けビームを発射しているように真っ直ぐ伸ばしている人差し指をクルクルと回して明日奈の意識を戻した里香は「でもね」と再び隣を見た。

 

「向こうはまだアンタのこと、好きなんだと思う。どうしても納得できないって」

「だから理由を聞き出して欲しいって頼まれたの?……もーっ、ホント、迷惑なヤツでごめん。そういうトコも理由の一つなのに」

「そういうトコ?」

「そう、アイツってなんか色んな事、遠回しに言ってくるの。《あっちの世界》にいた時は気づかなかったんだけどね」

「ちょっと待って」

「なに?」

「もしかして、あの城にいた頃から付き合ってたの?」

「ちゃんと付き合い始めたのはこの学校で再会してからだよ。向こうでは私のお店に来てくれるお客さんの一人だったから」

 

店主と客という関係性を聞いて里香の表情が曇るが、すぐに「なんの店?」と好奇心が覆い隠す。けれど明日奈が遮るように冷静な声で「リズ」と親友のキャラネームを呼んだ。

帰還者学校が開校してすぐの頃は《あの世界》での話題はタブーだったが、それも数ヶ月が過ぎた今、本人が拒まない限り呼び名においては暗黙の了解で、リアルネーム呼びでもキャラネーム呼びでも咎められることはなくなっている。

鋼鉄の城で武具店を営んでいた里香だから同じ店主と聞いて思わず問いかけてしまったが、さすがにそこまで立ち入った質問はマナー違反だったと明日奈の一声で我に返った。バツの悪そうな顔を見て女生徒は少し笑ったが、それから声を潜め片目を瞑って「パン屋さん、けっこう人気店だったんだよ」とこっそり教えてくれる。

 

「低層で食べたパンが衝撃的に不味くって。こんなの、形がパンってだけの別の何かだよーっ、って叫びたくなっちゃうようなヤツ。それでもう絶対美味しいパンを作ってみせるって決意したの」

 

その話を聞いて明日奈が思わず「あー」と、力の抜けた声を漏らす。女生徒の思い出のパンに自分も心当たりがあると言いいたいのか、それとも、同じように《あの世界》で口にした料理がきっかけで絶対自分がちゃんとした味を作り出してみせる、と決心した経験があるのか……実はその両方の場面でアスナの隣には同じ黒髪の少年が存在していたわけだが、そんな事を知る由もない二人は明日奈の発した声にただ首を傾げただけだった。

料理スキルをコンプリートするほどの明日奈だからパン職人をしていたというクラスメイトを見る目にもつい熱がこもる。

 

「美味しいパン屋さん……素敵。知ってたら絶対買いに行ってたのに……」

「閃光サマが常連になってくれてたら、もっと繁盛したかもね」

 

互いに秘密を共有するように顔を近づけて笑う二人に今度は里香が「ちょっと、明日奈」と友を窘めた。

 

「勉強は?」

「ん、あとちょっと」

 

悪戯が見つかった子供のような顔で姿勢を正した明日奈が再びスラスラとタブレットの画面上でペン先を踊らせる。その優雅さに見とれそうになった里香は強引に視線を外し、隣の友へ話の続きを促した。

 

「でも、この学校で再会してから付き合い始めたとしても、既に《あっちの世界》で仲が良かったからでしょ?」

 

ある程度好意を持って相手を知っていなければ、再会を喜んだとしても恋人として付き合うまでには時間が足りない気がする。

 

「そうだね、向こうはしょっちゅうパンを買いに来てくれてたし、私も会えれば嬉しかったし。お客さんがいない時は店の端っこでお喋りして、パンの材料を一緒に探しに行った事もあったっけ…………楽しかったよ」

 

その時を懐かしむ彼女の顔はとても優しい笑顔で、なら、どうして?、と疑問が表情に出ていたのか、里香を見て、くすっ、と笑った彼女は、それからちょっと泣きそうな顔になった。

 

「きっとね、《あの世界》にもうちょっとだけ閉じ込められてたら、やっぱり恋人同士になってたかな、って思う。でもお互いの気持ちを確かめる前に《現実世界》に戻ってきて、それでもまた会えて、喜んで、付き合うことになって……そうしたら今度はなんか違うな、って思っちゃったの」

「違うって?」

「うーん、何だろう……《仮想世界》と《現実世界》の違いなのか、それとも付き合うまで知らなかった部分が原因なのか、少しずつ違和感って言うか、あれ?、こんな人だったっけ?、って……」

「ああ、それがさっき言ってたやつ?」

「そう。《あっち》ではもっと単純に好きだった気がするんだけど、《こっち》で付き合うようになってからアイツと一緒にいると自分の気持ちがよく分からなくなっちゃったの。世界が変われば仕方ないのかもしれないし、相手を知れば知るほど意外な面が見えてきちゃうのも当たり前だってわかってるんだけど……」

 

「今まで隠されてた一面を知って、もっと好きには……ならなかったの?」と小さな声が割り込んでくる。

声の主へと二人が顔を向ければ、そこにはペンを置いて祈るように両手を組み合わせている明日奈が、静かにクラスメイトを見つめていた。

 

「そっかぁ……そうだね。もっと好きになれたら良かったんだね。けど私の『好き』はどんどん小さくなってアイツから離れていっちゃったみたい。だからアイツが納得するような原因とか理由がないのよ」

「だからクラスメイトの私んトコに来たってわけね」

「アイツめ、人の良い篠崎ちゃんを巻き込んでっ」

 

おどけた仕草で腕組みをして頬を膨らませると里香が軽く首を振る。

 

「それはいいのよ、ただ、そういうの頼まれても私には無理だって何度も言ったんだけど……」

「篠崎ちゃん、話しやすい雰囲気あるもん。さすがに結城ちゃんに頼み事は持っていけないだろうし」

 

クラスメイトの発言に明日奈の眉毛が気落ちしたように下がった。

 

「私って話しかけづらい……かな?」

 

《あっちの世界》で副団長を務めていた時は規律を重んじ、部下にもそれを求めていたから同じギルドでも男性メンバーから気さくに声を掛けられる存在ではなかったと思うが、《こっちの世界》でただの高校生となった今でも周囲から遠ざけられる雰囲気が出ていたのかと、自然に顔が俯く。肩を落としたまま固まってしまった明日奈にクラスメイトの女子は笑いを堪えて「違うよぅ」と言った。

 

「結城ちゃんは《あっちの世界》でも《こっちの世界》でも、とびきり格好良い美人さんだから、男としては、フラれた理由を元カノに聞いてきて欲しい、なんて情けなくて頼めないんだよ。それにさ、男の自分と二人で話してる場面を万が一にでも桐ヶ谷君に見つかると……ね」

「見つかると?、ダメなの?」

「そりゃ、ダメでしょ」

「どうして?」

 

同級生の相談にのれない理由のひとつが和人のせいだと理解できない明日奈は模試の対策問題を解くよりも深く考え込む。

 

「ウソでしょ、篠崎ちゃん……もう、どうしようもないくらい結城ちゃんがカワイイ」

「でしょ。この子ってキリトに関しての純粋度がヒャクをぶっちぎってるから」

「リズ、それどういう意味?」

「まあ、まあ、二人とも。とにかく、そんな感じなの……どう言ったらアイツに分かってもらえるかなぁ?。別に嫌いになったわけじゃないから変に傷つけるような言葉は選びたくないし……」

 

女生徒の投げかけに全員が口を閉ざした。

しばしの黙考後、明日奈がひね出すように桜色の唇を動かす。

 

「恋が、冷めました……とか?」

「恋……うーん、そうだね……恋かぁ……」

 

すんなりとは飲み込めない様子の女生徒に里香が言葉を重ねた。

 

「ほらっ、よく言うじゃない『百年の恋も一時に冷める』って。そういう具体的な出来事がなかったとしても、アイツとアンタとの間に気持ちの温度差があるっていうのは事実でしょ?」

「うん、そう言われるとしっくりくるような。確かに結城ちゃんと桐ヶ谷君はいつも熱々だよね」

「ふぇっ!……そっ、そっ、そんな事はっ」

「こらこら、今はアスナで遊んでる場合じゃないから」

「はーい…………でもさ、さっきの結城ちゃんの言葉で思ったんだけど、私、アイツの事ちゃんと好きだったんだよね。きっと恋をしてたんだと思う。あの店で、食べてくれる人が美味しいって言ってくれるといいな、って思いながらパンを作っている時、思い浮かべてたのはアイツの顔だったし、お客さんを待ってる時もやっぱりアイツの姿を探してたから」

 

クラスメイトの言葉を聞きながら明日奈も里香も、うんうん、と頷いた。自分達も《あの世界》で同じような感情を抱いたからだ。

 

「だから《こっち》で恋人同士になれた時は本当に嬉しかったんだけど……」

「けど?」

「恋人にはなれたけど、それ以上にはなれないってわかっちゃった」

「それ以上?」

「うん、さっき結城ちゃんが聞いてくれたでしょ?、今まで知らなかった面を知ってよけい好きにならなかったの?、って。もしかしたら、それが愛してるって事なのかなって。相手のどんな部分でも好きになっちゃうの、そう思えたら恋人以上になれたのかもって」

 

恋人以上と聞いて里香はあのデスゲームのシステムを思い起こした。《あの世界》では何人でも登録可能の「フレンド」という立ち位置より更に上位の肩書きが存在していたからだ。ひとりのプレイヤーの唯一となれる結婚システム…………互いのストレージ共有化によってある意味《現実世界》のそれより隠し事は不可能となる。自分をさらけ出しても不安などひとつもない存在で、同時に相手の全てを受け入れられると思える存在、互いを信じる純粋度は《あの世界》でも《この世界》でも変わる事のない二人が里香にはすぐ近くにいた。

 

「恋はさ、夢と一緒で叶ったり、叶わなかったりするって言うから自分の願望みたいなものなんだよ。だから私の恋は叶ったけど、愛にはならなかったってこと。大丈夫、篠崎ちゃんや結城ちゃんと話して自分の気持ちの整理がついたから、私が直接、アイツに言うよ」

「だい……じょうぶ?」

 

まるで失恋をしたみたに顔を歪めながら微笑んでいる彼女に明日奈が声を掛ける。

いや、彼女の言った事をふまえればこれはひとつの失恋なのだろう……好きだった心を、恋心を失ったのだから。

 

「別れ話を言い出したのは私の方なんだよ、結城ちゃん。心配するならアイツの方だって」

 

それからちょっと焦ったように「あ、でもでもっ」と続けた。

 

「実際、本当に心配はしないでね。そんなのが桐ヶ谷君にバレたら……」

「またダメなの?」

 

知っている同級生の二人が互いに失恋をしたというのに、それを心配するのもダメだと言われればその原因が自分の恋人であっても理由がわからない明日奈は戸惑いより理不尽さが膨れる。幼ささえ滲ませたむくれ顔に女生徒は「はぅっ」と珍妙な声をあげて自分の胸元をおさえた。

 

「もしかして、私、結城ちゃんに弄ばれてるっ!?」

 

その芝居がかった動作に里香が半眼の視線を送る。

 

「バカやってないのっ」

「ふぇーん、篠崎ちゃんが冷たい。でもそんな篠崎ちゃんの事も私は大好きっ」

「はいはい、ありがと」

「あ、信じてなーい。ひどーい」

 

打って変わって二人の巫山戯た明るいやりとりに明日奈は思わず、ふっ、と安堵のような息を吐いた。場の空気が浮上したところで女生徒は宣言するように拳を握り明日奈と里香を順に眺めてからニッコリ、と笑う。

 

「次に好きな人が出来たらね、『愛してますっ』って心から告げられるよう、頑張るよっ」

 

堂々とした決意表明に里香が益々呆れた目で溜め息にのせ疑問を返す。

 

「それ、頑張ることなの?」

「頑張らないより頑張る方がいいでしょ?、結城ちゃんは?、桐ヶ谷君に言ったことある?」

「えぇっ……」

「否定しないかぁ。そっかー、いいなぁ。でも負けてらんないっ、女の子はね、好きになった人の数だけ綺麗になるんだからっ」

 

えっへんっ、と無意味に胸を反り返らせ勝ち誇った笑顔で言い切った女生徒に対して、彼女の前に座っていた明日奈はクラスメイトの口から飛び出した未知の言葉に、今朝、母親から突然の模試日程を聞いた時などとは比べものにならない衝撃を受け、驚きで声を詰まらせた。

 

「っ?!…………それ……ほひゃっ」

 

仔猫が何かにけつまずいたような情けないながらも愛らしい鳴き声をあげた明日奈の背後にはいつの間にやって来たのか、ひとりの男子生徒が立っていて彼女の両耳を、ぴたり、と自分の両の手で塞いでいる。

 

「……アスナに変な迷信、吹き込むなよ」

「迷信って……アンタ、聞いてたの?」

「わっ、噂の桐ヶ谷君、登場っ」

 

一瞬、驚きと警戒で両肩が跳ね上がったものの、その存在感と手の温もりで背後の人物の正体に気づいた明日奈は既に落ち着きを取り戻して、聴力を幾分か遮られたままキョトン、と事の成り行きを見守っている。

和人は触り慣れている栗色の髪ごと明日奈の頭を左右から挟む形を保って目の前の女生徒二人に厳しい視線を浴びせた。

 

「ほらほらこんな顔、結城ちゃんは知らないんだろうなぁ」

 

全く以てこの男の独占欲や、自分の恋人が自分以外の男と関わると問答無用で吹き出す鬱陶しいオーラを結城ちゃんはわかっていないんだから、と女生徒が大げさに嘆くと和人はポソリ、と不機嫌な声で「知ってるよ」と呟く。

 

「え?」

「だから、アスナが知らないオレの事なんてひとつもないから……全部、アスナは知ってる」

 

どうやら不機嫌な、と思っていた声の半分は恥ずかしさが混ざっていたらしく、両手が使えないせいで和人の耳の赤を隠す手立てがない為、否が応でも二人の視界に入てきて、つられて女生徒達の頬もわずかに色を持った。

和人が発した「アスナは知ってる」の言葉に、はっ、と何かを思い出した女生徒は「こういう事なんだね」と納得したように、ひとつ頷くと「桐ヶ谷君はさ……」と和人に話しかける。

 

「結城ちゃんの事を知れば知るほど『好き』が大きくなっちゃうんでしょ」

 

ウソや誤魔化しの反論は認めない、と視線で釘を刺されて、和人は一旦開いた口をすぐに閉じ、気まずげに顔を逸らした。

 

「うんうん、こっちも否定しないかぁ。やっぱり羨ましい。私も早く次の恋を見つけたいよっ。好きになった人の数なら結城ちゃんに負けない気がするっ」

「はいはい、なんか見てるこっちが恥ずかしくなってきたわ。キリト、私達はこれ飲んだらもう帰るから」

「さっさと飲み終わってくれ」

 

明日奈に余計な言葉を聞かせたくないのか、早く二人きりになりたいのか……これ以上からかわれたくないのもあるらしい、視線を合わさぬままそれでも少しぶっきらぼうに「気をつけて帰れよ」と添えてくるのだから始末に悪いのよ、と里香は無理矢理カップの中身に意識を集中させた。

明日奈に触れながら寄越してくる和人の気遣いの言葉なんてろくでもない物に翻弄されないよう、苦い気持ちをアイスティーと一緒に飲み込んだ里香が隣の女生徒を見れば、同様にカップを空にした彼女が大きな溜め息をついている。

 

「すごいね、篠崎ちゃん。こんな桐ヶ谷君を知っても結城ちゃんて普通にほわん、ほわん、してる…………で、そんな結城ちゃんの全部が好きな桐ヶ谷君かぁ……」

 

和人が来てくれた事が嬉しいのか、相変わらず会話がよく聞き取れない状態でも穏やかに微笑んでいる明日奈を見てその包容力の高さに女生徒は、うんうん、と頷いていたが、和人のどんな感情や言動にも対応してしまう明日奈もすごいが、そのスゴイ明日奈を丸ごと受け入れている和人も大概なわけで、こうなってくるとどっちがどっちなのかわからなくなってくる。

 

「二人共すごくて、考え始めると出口がなくなっちゃう……」

 

どうやら迷路にはまってしまった様子のクラスメイトの腕を里香は立ち上がりながら半ば強引に引き上げた。

 

「ほら、帰るわよっ」

「うん、そうだね…………じゃ、また来週、結城ちゃん」

「アスナ、模試、頑張ってねっ」

 

里香と女生徒は交互に明日奈に声を掛けて手を振りカフェテリアを出て行く。その二人に笑顔で手を振り返している明日奈の後ろには憮然とした面持ちで未だ明日奈の両耳に手を当てている和人だ。

クラスメイトの女子二人を見送った後、明日奈はゆっくりと塞がれている両耳を軸にして顔を上へ向ける。

さらり、としなやかな髪が肩から背中に流れ落ちた。

そして視界には見慣れない角度からの逆さまな和人の顔……ちなみに耳にはまだほんのり赤が残っている。

 

「キリトくん」

 

ちいさく呼びかけると「ん?」と逆さまの顔が近づいてくる。

少し長めの前髪がすだれのように和人のおでこから離れて不安定に揺れた。

こうやって見上げると睫毛の長いことがよくわかる……男の子なのにな……本人は女顔を気にしているから言わないけれど、恋人という身内贔屓を差し引いて見ても「整った」と形容できる顔立ちだ。

 

「よく考えたらね、私、結構好きな人、いるかも」

「はぁっ!?」

 

寄せてきた顔の近くで仰天の声をあげられて、それにビックリした明日奈の目が大きくしばたいた。

その反応に慌てて和人が狼狽え、戸惑いを見せ始める。

 

「ごめんっ、アスナ。でも……え?、それって……いや……そりぁあ……まあ、アスナだって……子供の頃とか……」

 

どうやら明日奈の耳から手を離すという行為はすっかり頭から抜け落ちているらしい。

フロアボス攻略の時だってこれ程動揺する姿はなかなか目にしたことがない明日奈は上を向いたまま至極真面目な顔をキープしつつ更に追い打ちをかけた。

 

「この三年で……五人くらい、かな」

「…………」

 

もう和人の口からはなんの声も出てこなかった。

 

「五人、好きになった分、綺麗になれたと思う?、キリトくん」

 

ちょっとすまし顔で問いかけてみると、こつり、と和人の額が明日奈のそれにあたる。

 

「もう……十分すぎるほど……」

 

頭の後ろの方で聞こえた弱々しい声はそれでも額が密着しているから確実に明日奈に伝わって、それに和人の前髪が鼻先や頬をくすぐるので色々合わせて可笑しくなってしまった明日奈は和人から見えるはずのない唇の端を、にまり、と持ち上げた。

 

「一人目はね《仮想世界》で出会った男の子なの」

 

これ以上は聞きたくないんですけど……、と訴えるようにくっついている額がウリウリと横に振られるが明日奈は構わず話を続ける。

 

「すっごくゲームの事に詳しくて、何も知らなかった私に自分の知識や情報を惜しみなく与えてくれた優しい男の子」

 

和人のウリウリが止まった。

 

「次はね、そのゲームの世界で一番強い男の子。その子のお陰で閉じ込められていた人達は《現実世界》に戻ってこれたの」

 

和人が吐息のような声で「アスナ?」と口にしたように聞こえたが、やはり明日奈は構わず喋り続ける。

 

「でも、その時、私は《現実世界》に戻れなくてね、だから三人目はそんな私を迎えに来てくれた勇敢な男の子。四人目は《現実世界》に戻って来ない私をずっと待っていてくれたちょっと寂しがり屋の男の子で、私が目覚めた時、一番に会いに来てくれた人」

 

ゆっくりと和人の顔が持ち上がっていく。

 

「五人目は自分が関わった人の事となると痛みも我慢してどこにでも行っちゃう仕方のない人……意外と泣き虫さんなのに…………ほらね、三年間で五人も好きになっちゃうなんて、意外と私、惚れっぽいのかも…………自分でも知らなかったよ」

 

笑う明日奈に向け、和人が「アスナ、それって全員……」と探るような視線で問いかけようとすれば、最後まで言い終わらないうちに「言ったでしょ?」と遮られた。

 

「あのお家で、《現実世界》に戻っても私はまた好きになるよ、って。何度だって、どんな世界でだって、私はやっぱりキミの事をどんどん好きになっちゃうの」

 

それはかつて鋼鉄の城の中でキリトがアスナに告げた言葉と同じだったのだろう。

 

『それまで見えてた面はもう好きになってるわけだろ?、だから、そのあとに新しい面に気付いてそこも好きになれたら……』

 

和人がずっと触れていた明日奈の耳から腕ごとそのまま彼女の胸元に、すりっ、と落とし、同時に後ろから軽く体重をかけると、見上げていた明日奈の視線が前を向く。その小さな頭を自分の胸の内にしまい込んで食むように耳たぶへ唇を寄せ、一気に温度の上がった息が「アスナ」という囁き声と共に耳から中に注ぎ込まれた。

普段の、少なくとも日中の校内では聞くはずのない熱の籠もった声に明日奈の肌が粟立つが、それよりも気になる和人の表情は押し当てられた唇のせいで確かめられない。

多分、顔を見られたくないのだろう、と思い当たれば逆にどういう心情なのかは想像できて、明日奈は口元を緩めた。

和人にしてみれば予想外の不意打ちである。

それこそ日中の校内のカフェテリアでなんて事を告げてくるんだ、この恋人は……と耳だけで収まりきらない赤を持てあまし、その熱で溶けた声を今度は言葉にして彼女の耳へと忍び込ませる。

 

「初めて知った…………ラッキーだな、ってオレは思うよ」




お読みいただき、有り難うございました。
「恋」や「愛」についての定義は色々ありますので、今回の解釈はそのほんの
一例です……正しいかどうかも自信ないですし(苦笑)
ただし「人」という字が付くだけで「恋人」と「愛人」はかなり意味合いが
変わると思いますっ(日本語の不思議……)

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