ソードアート・オンライン《かさなる手、つながる想い》   作:ほしな まつり

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高校生のキリト達が遊園地を訪れるお話です。


おばけの屋敷

「随分……ガラガラね……」

 

ぽそり、と呟いたリズの声をしっかりと耳に入れたクラインはジトッ、と粘着質な視線を投げつつ「無料(タダ)で来てんだ、そういう感想は思っても口にするなよなぁ」と若干惨めったらしい訴えを心の中であげていた。

そもそもクラインはこんな事態になるなど夢にも思っていなかったのだから……。

 

 

 

 

 

『いや、俺はいいって。このチケットは四枚ともやるから、お前らで行ってこいよ』

 

それはいつものように、と言うほど頻繁ではないにしろ、月に一、二回は御徒町の「ダイシーカフェ」で顔を合わせている現役高校生達に放った言葉だった。店のマスターを含め、その場にいる人間達とは《仮想世界》で過ごしている時間の方がはるかに長い。それでもこうやって時折、リアルでも会いたいと思ってしまうのは「風林火山」のギルメンでなくとも確かな繋がりを感じているからだろう。

そして会社の同僚から貰ったレジャー施設の招待券をヒラヒラと高校生達の目の前でたなびかせたクラインは十数日後、なぜかキリト、アスナ、リズベットの三人と一緒に自分の地元で愛され続けて半世紀近くは経っているこぢんまりとした遊園地にやって来ていた。

もともと《仮想世界》で付き合いのある年下連中に渡すつもりで手に入れたチケットだ、キリトに預ければ当然アスナを誘うだろうし、あとは都合の付くメンツで行くだろう、と予想した通り、丁度その場にいたリズベットとシリカが名乗りを上げ、スムーズにチケット枚数分の人数が決まったと安心していたのに、直前になってシリカに急用が入ったのだとリズが連絡をよこしたのが事の始まりである。

「なら三人で行きゃあいいじゃねーか」と言ってはみたが携帯端末の向こうにいるリズは頑として譲らなかった。

 

『どうせその日は仕事も休みでダラダラしてるんでしょ、元々はアンタが持って来たチケットなんだし出てきなさいよっ』

 

俺はいざって時の補充要員かっ、と出かかった言葉は一段低くなったリズの声に押し戻される。

 

『いかにも、なデートスポットで、私ひとり、あの二人の後ろを付いてけってゆーの……』

 

あー……なるほど、よく考えたらシリカが抜けた三人だと……まぁ、キリトやアスナに限ってリズを蔑ろにするとは思わないが、多少居心地が悪くはなるかもなぁ、と納得し、更にここで固辞し続けたら確実に《向こうの世界》で武器メンテに支障が出ると気付いたクラインは「わかった、何時にドコ集合だ?」と休日返上を決意した。

その返事を聞いて途端に機嫌が良くなり『助かったわ、シノンもリーファも予定入っちゃってたし。他に暇そうな人いなくてっ』と随分失礼な発言をかましたリズだったが、その彼女が園内に足を踏み入れた第一声が……

 

「随分……ガラガラね……」

 

だったのである。

入場ゲートをくぐれば真っ直ぐメインストリートが伸びているのだが、その視界を遮るはずの来場者がまばらなせいで園内の半分は見渡せてしまう敷地面積が恨めしい。リズの歯に衣着せぬ物言いにクラインも改めて園内を見回し、うっ、と言葉を詰まらせた。

小学生の遠足で来た時はもう少し広かった気もするが、その分、自分がでっかくなったんだよなぁ、と妙な感慨に耽けてリズの感想を頭から追い出す。

けれどしらけた顔つきのリズとは反対にアスナは目を細めて嘘偽りのない笑みを浮かべていた。

 

「私はみんなと来られただけで嬉しいよ。それに空いてるなら待たずに色々乗れるでしょ?」

 

ほんっと、いい娘(こ)だよなぁ、キリの字にはもったいないぜ、と思っていたのがバレたのか、にやけていたクラインの顔へと針を刺す……いや、釘を打ちつける力強さで隣にいたキリトがギッ、と睨んでくる。

遊園地の入り口で多種多様な表情を浮かばせていた四人だったが、まずは、と各自分担で持ち寄った昼食をロッカーに預けてからクラインは三人に向かって「さっ、お前らまずは何に乗りたいんだ?」と兄貴風を吹かせた。

 

 

 

 

 

豪華な手作り弁当を堪能する時間を挟んだ午前と午後で園内を楽しんだ四人は、唯一足を踏み入れていないラスボスの部屋とも言いたげなおどろおどろしい趣の館の扉を前にこれを制覇すれば全アトラクションをコンプリートという状況で興奮を隠せずにいた。

付け加えて言うならば看板でだけでなく建物自体もかなりの年季を思わせる老朽感が満載だが、これについては経年劣化の恩恵なのか、はたまたダメージ加工の妙技なのか定かではない。

そして、約一名、興奮……と言うよりは緊張と言った方が正確な者もいたのだが、とにかくクライン的には昼食時にアスナが持参した弁当の蓋を開けた瞬間と同じくらいワクワクしている。

しかし昼食の場での燃え上がった歓喜は横にいたリズの一言でバケツの水をぶっかけられたように鎮火した。

 

『キリトは学校で週に三日はそんな感じのお弁当を食べてるのよ』

 

おいおい、マジかよ…………半年ほど前に結婚した職場の先輩だって未だ新婚オーラを撒き散らしてっけど、ここまで手の込んだ愛妻弁当は持ってきてねーぞ……とクラインは毎日昼休みに嬉しそうに弁当箱を取り出している先輩の顔を思い出し、それに比べてアスナから取り皿と割り箸を受け取っているキリトはいかにも当然と言った面持ちに理不尽さを覚えて今度は朝のお返しに自分から睨み付けてみるが、キリトの方は全く気付いていなかった。

いや、気付きながらも無視した可能性の方が高そうだ。

だいたいこんな昼飯、高校生が作るレベルじゃねーし、高校生が食っていいレベルでもねぇだろ……こいつら《現実世界》でもハイレベルだなぁ、と感心を通り越して半ば呆れたクラインだったが、自分の口に入るならこれ程有り難い事はないわけで、普段の独身一人暮らしの食生活から次元を越えた料理の数々に大いに舌鼓を打ったわけだ。

ちなみに当初はアスナがおかず担当で、リズは主食のおにぎり、キリトが飲み物でシリカが菓子やデザートの類いだったらしいが、代役のクラインが甘味を用意するのはハードルが高いという事でキリトへ交代申請をしたのだ。飲み物だったら現地の自販機で買えばいいのだし、逆にキリトがやけにすんなりとデザート担当を交代してくれたなぁ、と不思議に思っていると、なぜかデザートのカットフルーツやバナナマドレーヌまでアスナの弁当の包みから出てきた。

コイツ……急遽デザートを用意する役になったのを口実にアスナに相談しやがったな、と朝から睨み付けるのは二度目になるが、今度は無視もされず肩をすくめて飄々とした顔を返される。

 

『ちゃんとオレもバナナ潰したり、粉をふるったりしたさ』

 

それってマドレーヌをアスナと一緒に作ったって話だよなぁ……どうりで二つ返事、とまではいかないにしても割とすんなり了承したと思ったら……あの渋々、と言った表情は演技だったわけだ、と事の真相に辿り着き、苛立ち紛れにマドレーヌ一個を掴んで口に放り込んだのだが、悲しいかな何の罪もないバナナマドレーヌは超が付くほど美味かった。

そうやって腹も満たされた所で午後もレベリング……ではなく、未踏破のアトラクションを端から制覇していって最後に到達したのが「お化け屋敷」だったのである。

最近はホラーイベントだの恐怖体験だのといった、ひたすらに参加者を戦慄させる事に重きを置く仕様もあるようだが、ここは昔からの風情残るファミリー層も安心して楽しめるのが持ち味の遊園地だ、なぜそこまでカチコチに表情と身体を強張らせているのかが理解出来ないクラインは、怪訝な顔でアスナを見たが、当のアスナのはしばみ色の瞳はおどろおどろしい看板画に釘付けになっている。

ここはひとつ年長者の役目として、と思い、「どうかしたのか?」と気遣いを見せようとした寸前、彼女の隣にいたキリトが「アスナ」と呼びかけた。何かの判断を促すように「ん?」と顔を近づけると、すぐさま看板から視線を移動させたアスナが真剣な目でキリトを見つめ返し、意を決した表情で重く、深く、頷く。

しかしそれを受けたキリトは、ふっ、と軽く笑うと「じゃ、入るか」と言って入り口へと歩き出した。

 

 

 

 

午前中から制覇してきた乗り物系では四人乗り、というのが回転型アトラクションのコーヒーカップしかなく、その他は自然と二人ずつに別れて、アスナとリズ、キリトとクラインのペアで楽しんできたのだが、最後のお化け屋敷に足を踏み入れる段階になってクラインは首を捻った。

自分の前にはお化け達の挑戦を真っ向から受けて立つ気満々のリズベットが元気良く「どっからでもかかってきなさいっ」と実に物騒な台詞を吐いている。

クラインもほんの少し前までは同様のテンションだったのだが、今は後ろの二人が気になって仕方がない。

一番手でリズが「入口」を通り、一気に周囲が暗闇となった空間を意気揚々と歩いて行く後ろ姿を見送ってから、クラインはその手前でちらり、と背後を振り返った。

さっきのキリトの「じゃ、入るか」の合図で全員が足を動かしたはずなのに、前にいたはずのキリトとアスナが自分の後ろでもぞもぞしているからだ。まるでボス部屋へ侵入するかのように慎重に歩を進めているアスナは全身に力が入りすぎているのが傍目にも分かって、それを間近で感じ取っているだろうキリトもまた急かすわけでもなく、茶化すわけでもなくアスナの速度に付き合っているから、ついクラインが二人を追い越してしまったのだが、「お前ら、早く来いよ」と口を開きかけた途端、まるで野良猫でも追い払うようにキリトが無言で、先に行けと片手を動かす。

最後のアトラクションなんだから四人で一緒に行ったっていいじゃねぇか、だいたいなんでアスナもリズじゃなくてキリの字にひっついてんだ?、と思案に暮れながら「入口」をくぐったクラインは、いきなり「どわぅっ」という低い呻き声が前方から飛んで来てそちらに意識が引っ張られる。

「入口」から漏れている光を頼りに目を凝らせば、先に入ったリズがこの僅かな時間でどうやって手に入れたのか、程よい長さの棒きれを握ってボロ着を纏ったお化けの鳩尾にその先端をお見舞いしていた。

 

「おいッ、リズっ、ノックダウンゲームじゃねーってのにっ」

 

慌てて凶器の回収に走ったクラインの後ろでは慎重な足取りでようやくゲートを通過したアスナが警戒の色で周囲を索敵している。

 

「キ……キリトくん」

「なんだ?」

「なにか……見える?」

「なにか、って言われてもなぁ。そりゃあお化け屋敷なんだからソレっぽいモノは色々ぼんやり見えるけど……」

「そういうんじゃなくてっ……見えそうで見えなさそうな感じのものとか……」

「……この暗さだとほぼ全部そんなだぞ、アスナ」

 

ここが《仮想世界》ならば暗闇での視界補正も可能だろうが、《現実世界》では陽光降り注ぐ野外からいきなり薄暗い屋内に放り込まれた目は慣れるまでに時間がかかる。

視界の悪さも手伝ってまるで断崖絶壁を歩いているように、そろりそろり、と足を少しずつ前へ押し出していたアスナの横から突然、シューッ、と白い煙が噴き出してきた。驚いたアスナが「にえっ!」と叫ぶとすかさずキリトが「懐かしいなぁ」と気の抜けた声を発する。

煙をスクリーンにして幽霊の画像が朧気に投影されると「ひぅっ」と息を飲み込んだアスナががっちりとキリトの腕をホールドして肩口に額を押し付けた。

 

「やだやだやだやだっ」

「……だから外で待っててもよかったのに」

「それもイヤなんだもんっ」

 

今日は四人でずっと一緒にアトラクションを楽しんできたのだ、最後の最後になって自分だけ不参加とは言いたくなかったアスナだったが、実態の薄い存在を苦手としているのは克服できていないので及び腰になるのも無理はない。だからその苦手意識を知っているキリトと一緒にいたのだが、既に入って数メートルの地点で頼りにしているその腕にしがみついて一歩も動けない状況に陥っている。

一方、キリトは顔も上げられず小刻みに震えているアスナの姿を見て、予想通りと薄闇の中で一人口角をあげた。

一応、確認はしたのだ、表の看板を見上げている顔ですら既に緊迫感が漂っていたから、どうする?、と目で問いかけた。それに対してこれも予想通りと言うか、気丈にも攻略の意を示したのはアスナなわけで、ならば恋人として恐怖に怯える彼女をリードするのは自分しかいない。そう、この役目は彼女にとっての親友であるリズでもなければ、間違ってもクラインではないのだ。

 

「ほら、アスナ。オレの腕、掴んでていいから進むぞ」

「……うん」

 

ちょっとだけ顔を上げたところを見ると、煙が噴出していた場所は見ないように横目で進行方向を確認したのだろう、けれど更に奥へと進むのには多少の勇気が必要なのか、抱え込まれている腕への圧がきゅっ、と高まる。当然キリトにとっては痛みや不快を生むものではないし、むしろ押し付けられている弾力のある膨らみに心地よさすら感じ取っていた。

前方では先行しているクラインが立ち止まって不可解そうに振り返り、こちらに合流しようと引き返す素振りを見せたので慌ててジェスチャーで押しとどめる。いくらクラインとは言えこんな状態のアスナを自分以外の男の目に晒す気はない。

そっちはそっちでしっかりリズを見張っててくれないと……と思っている間にもクラインの更に先にいるのだろう、周囲が暗いのと距離があるせいで姿の見えないリズの「とりゃーっ」という雄叫びだけがキリトとアスナの元まで響いてくる。

過敏になっているアスナはそれが親友の声とは気付かず、折角踏み出した足を凍らせて「ぴゃぁっ」と再び勢いよくキリトに顔を密着させた。

その華奢な全身を「おっと」と受け止めたキリトはこちらを心配していたクラインがすぐに頭を掻きながら前方へかけ出していく姿を確認してから、空いている方の手で何度触れても飽きない栗色の髪を撫でる。アスナは声さえも震わせてキリトの胸元に混乱を吐露した。

 

「な、なに?……いまの……声?……」

「うーん、そりゃあここはお化け屋敷デスから……」

 

その後に続くはずの言葉、「お化けに挑もうってヤツの気合いの声だって聞こえてくるよなぁ」はあえて省略する。

 

「とにかくアスナ、ゆっくりでいいから進もう。後ろがつかえると困るだろ」

 

そう告げられれば生真面目なアスナのことだ、他人に迷惑をかけまいとするのがわかっていて口にしたキリトだったが、言った本人はそれほど後ろからの新たな入場者を気にしてはいない。今日一日この遊園地で過ごしてみて最初に放ったリズの言葉通り、良くも悪くも入園者はまばらだったから、そうそうすぐに後続者から追い立てられる事はないだろう。けれどこうでも言わないと立ち止まったままの自分達をまたクラインが探しに来ないとも限らないし、入場者が少ないだけにお化け達が挑戦的なリズを避けて驚かし甲斐のあるアスナをターゲットとしてロックオンしても面白くない。

まばらな入園者数に比例するようにこの遊園地の従業員も必要最低限の人数雇用に留めているようで、お化け屋敷の内部はホンモノの人間のお化けとコンピュータ制御の映像を駆使したニセモノの怪奇現象が融合した形で成り立っていた。

アスナの負担にならない速度で足を動かし一緒に前進を始めたキリトは既に暗闇の視界にも慣れた様子でイベント発生のキーアイテムを見つけるかのごとくお化け屋敷の仕掛けが発動するポイントをチェックしていく。

生身のお化け達からの攻撃は自らが対処し3D、4Dが入り交じるARワールドじみた精巧且つ絶妙なタイミングで現れる幽霊世界にはしっかりとアスナの五感で受け取ってもらい、その度にあがる悲鳴と彼女の感触を味わっていた。

そして、その悲鳴は少し先でリズの行動を監視しながらお化け達に「すまねぇな」と詫びを入れているクラインの耳にも届いていた。クラインとて相手がNPCならばここまで恐縮した気持ちにはならなかっただろう。けれど目の前のリズは「入口」から今まで、意気揚々と歩を進め、唸り声を上げて襲いかかってくるお化け達に怯えるどころか、どこぞの黒の剣士のように、ニヤリ、と不敵に微笑んで撃退を試みるのである。

当然、向こうは驚かす事が役目であるスタッフだから対抗してくる客に応戦する事はできない、いわば無抵抗状態だ。

クラインが止めなければお化け達がやられる、確実に。

なんで俺がこんな役回りに……、いい加減トホホ気分に項垂れそうになったクラインの背後から「ふゃぁーっ」といかにも庇護欲を刺激される悲鳴が飛んでくる。

そうそう、俺が聞きたいのはそういう悲鳴なんだよなぁ、と振り返れば数メートルほど離れた後方に二人分の影が見えた。

暗がりで鮮明には見えないが、どうやらキリトの腕に、ひしっ、とアスナがしがみついているらしく、それでも二人揃ってゆるゆるとこちらに向かって歩いている。

少しずつ近づいてくる二人の様子をジッと観察していると、飛び出してくる実態アリのお化けにはキリトがアスナを庇うようにして立ち回り、ホログラムなどが映し出されるとそれが見えるようさりげなくアスナに顔を向けさせ、怯えと狼狽の声に加え自分への接触に誘導しているようだ。

キリトのやつ……あれ、完全にわざとじゃねーか……と思ってはみたものの、アスナがあそこまで気を許せるのもキリトしかいないわけで、ある意味、正しい恋人同士のお化け屋敷の歩き方とも言えるか……と今見た二人の姿は忘れる事にして自分はリズのお守りをする為に果敢にも飛び出そうとしているお化けに向け「ちょっと待ったー」と声を張り上げた。

そんなクラインの姿を視界の端で捉えていたキリトは、こちらの願いが通じたかのように立ち止まったままこちらを見ていたいた体勢が、くるり、と方向を変えてくれて、ホッ、と息を吐く。そろそろ出口が近そうだな、と思ってはいるが既に足に力が入らなくなっているアスナはキリトに支えられてどうにか歩いている状態で、こんなフラフラな姿と、すっかり気弱になって涙ぐんでいる顔のまま外に出すわけにもいかないだろう、と思案に沈んだ。

このお化け屋敷は園内でも一番退場ゲートに近い位置にあるから最悪アスナだけをタクシーに押し込めて家に帰すという手もある。荷物はリズにでも預ければいいだろう。そんな事を考えていたキリトの胸元で「きゃんっ」と仔犬のようなアスナの悲鳴が小さくあがった。

特にここにはなんの仕掛けもないはずだけど……と周囲を確認する間もなく、アスナが怯えとは違う表情で「キリトくんっ」とこちらを睨んでいる。

 

「なんだ?」

「なんだ、じゃなくてっ。こんな所で妙なイタズラは禁止っ」

「イタズラ?」

「耳を触ったでしょっ」

「触ってないって」

「うそっ、私が、耳、弱いの、知ってるの……キリトくんだけ……だし……」

 

言いながら徐々に頬が紅潮していく様はお化け屋敷の暗がりの通路でもはっきりとわかって、既に潤みきっているはしばみ色が上目遣いでこちらをジッと見つめてくるのは何の忍耐試験なんだ?、とキリトは唾をゴクリ、と飲み込んでから無実を証明する為に「ほら」と手にしている二人分のお札をヒラリと見せた。

このお化け屋敷は神社を模した場所の裏手にある祠まで行って、そこにあるお札を持ち帰るというクエスト付きなのだ。キリトはアスナの分と合わせて二枚のお札を持っている為、手が塞がっているのだから、という意を示したところで、アスナが「そっちじゃなくてっ」と眉間の皺を深くする。

 

「私の耳に触れたのは反対側の……」

「……って、そっちの手はずっとアスナさんに拘束されてますけど?」

 

「入口」からずっと掴んでいたせいで感覚が麻痺していたのだろうか、お札を持っている方の手よりももっと自らの意思では動かせないキリトの手の存在をアスナも認知して、サーッ、と血の気が引く。

一気に全ての動きを止め、表情をなくしたアスナが一瞬の後「いやああーっ」と絶叫した。

今まで両腕で抱えていたキリトの腕を離し、今度はその身体にむぎゅーっ、としがみつく。

突然、抱きつかれたキリトはその勢いに「うわっ」と思わずお札を手放し、半歩下がってアスナを受け止めた後、空いた両手でしっかりと彼女の背中と頭を支え、包み込んだ。

 

「ふぅぅぇぇっっ」

 

涙腺は決壊し半泣き状態でパニックを起こしているらしい。

キリトは改めて周囲を警戒し生身のお化けがいないことを確認してから、むむっ、と口をへの字に曲げる。アスナの耳に触れるほど一般のお化けの接近を許した覚えはないし、生体反応を感知して起動する気体、液体、固体の類いだとしても密着していた自分の腕に違和感がないのはおかしい。だいたいアスナの耳というピンポイントに接触する高性能な仕掛けはこのお化け屋敷、いやこの遊園地のまったりとした雰囲気からして余りにも不自然だ。

そう、小規模ながら数十年間も同じ土地で長く親しまれている遊園地、そしてこの「お化け屋敷」が遊園地創設当初から続いていることもパンフレットに記載されていた。それだけの長い年月を経ている「お化け屋敷」ならば…………結局のところこの不可解な出来事を解明しようとすれば合理性を導き出す為に極めて不合理な答えに辿り着くのだが……。

 

「へぇ、じゃ、どこの誰ともわからない『おばけ』がアスナの耳に触れたって事だよな……」

 

低く、小さく呟いたキリトの不機嫌な声は精神的に目も耳も塞いでしまっているアスナに届くことはなく、ただキリトの腕の中でぷるぷると震え続けるだけだ。もうこれ以上一歩だって歩ける気がしないアスナはキリトの胸元に顔をこすりつけ、しゃくり上げながら弱々しい声を零した。

 

「ひぅっ……もぅっ……無理ぃ……ぅっく……」

「そうだな、オレも限界かも……」

 

同じくキリトが弱音とも取れる言葉を細く吐いたかと思えば身体を屈め、かぷり、とアスナが触られたと言った耳にかぶりつく。

 

「ひゃっ」

 

目と耳からの刺激は受け付けなくとも直接的な接触は……しかもそれが「弱い」と自覚のある部分になら届いたようで、アスナの両肩がピクリと跳ねた。

 

「アスナの弱い所に触れていいのはオレだけだろ……」

 

そう言ってアスナを腕の中に閉じ込めたまま『おばけ』に勝手に触れられた耳がその感触を忘れるまで攻め立てた後、半ば抱き上げるようにして出口まで脇目も振らず通り抜けたキリトはそのまま遊園地のゲートを出たのだった。

そうとは知らないクラインとリズはお化け屋敷の出口からさほど遠くない場所にある自販機の前で喉を潤していた。キリトとアスナがお化け屋敷から出てきた時、周囲を見回せば容易に気付く位置だったから特に出口は気にしておらず、リズに至っては「いい運動になったわぁ」と爽やかに汗まで拭っている始末だ。

 

「俺は恥ずかしさと申し訳なさで妙な汗が全身から噴き出しっぱなしだったぜ、だいたいなぁ……」

 

とリズに説教を始めようとすれば、ジーパンのバックポケット内にある携帯端末からメールの着信音が聞こえて、言葉を途切らせたクラインは画面を見つめてから「んだとぉー!?」と最大音量で叫び声を上げる。端末画面に映し出されているのはキリトからの簡素な文章だった。

 

『悪い、アスナと先に出る』




お読みいただき、有り難うございました。
「お化け屋敷」のスタッフの皆さん、色々と辛い思いをされた
ことと思います(苦笑)
身体的に痛いのと、精神的に吐きそうなのと……、仲間(お化け)達の苦痛の
呻き声と同時に彼氏にしがみつく美少女の悲鳴が混じり合う「お化け屋敷」内。
その合間に飛ぶクラインの必死な謝罪と牽制の声……。
まさにカオス(笑)

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